天文21年(1552)7月~12月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【23歳】
〔景虎、官途獲得の祝儀を受ける〕
先月末に官途を得た祝儀として越後衆から金品を献上されると、7月2日、越後国山東(西古志)郡寺泊地域の領主の一人である志駄千代松(同地域の夏戸城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、京都(近江在国の将軍足利義藤)から官途を賜り、(志駄千代松から)祝儀として、鳥目廿疋を給わったこと、珍重で祝着の極みであること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』86号「志駄千代松殿」宛長尾「景虎」書状【花押a1】【封紙ウハ書「志駄千代松殿 長尾 弾正少弼景虎」】)。
5日、越後国魚沼郡小千谷の領主である平子孫太郎(前上杉家の譜代家臣。同地の薭生城を本拠とする)へ宛てて返状(謹上書)を発し、京都から官途を賜り、(平子孫太郎から)御祝詞として、太刀一腰を送り給わったこと、めでたく祝着の極みであること、残りの諸事は来信を期すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』88号「謹上 平子孫大郎殿」宛長尾「弾正少弼景虎」書状【花押a1】【封紙ウハ書「謹上 平子孫大郎殿 長尾 弾正少弼景虎」】)。
8日、越後国刈羽郡鵜河庄安田の領主である毛利越中守景元(前上杉家の譜代家臣。同地の安田城を本拠とする)へ宛てて返状(謹上書)を発し、京都から官途を賜り、(安田景元から)御祝儀として、太刀一腰ならびに鳥目百疋を送り給わったこと、めでたく祝着の極みであること、よって、太刀一振を贈ること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』89号「謹上 毛利越中守殿」宛長尾「景虎」書状【花押a1】)。
12日、越後国山東(西古志)郡根小屋地域の領主の一人である力丸中務少輔(実名は慶忠と伝わる。同地域の狭霧城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、官途の祝詞として、(力丸中務少輔から)太刀一腰を給わったこと、めでたく祝着の極みであること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』90号「力丸中務少輔殿」宛長尾「景虎」書状写【花押a1影】)。
〔来越していた関東屋形上杉成悦の関東復帰の準備が進む〕
これより前(5月以前)、相州北条軍の攻勢に耐えきれなくなった関東屋形上杉成悦(五郎憲政。憲当)はついに越後国へ逃げ込んでおり、7月3日、その成悦が、小千谷の平子孫太郎へ宛てて返状を発し、思いも寄らない世上ゆえ、当国(越後国)へ打ち越したこと、そうしたところ、爰元(関東衆・越後合力衆)の戦備が整ったので、近日中に上州へ打ち入るつもりであること、(平子孫太郎も)長尾弾正少弼(景虎)と相談し合い、ひたすら奮闘されるべきこと、また、祝儀として、太刀一腰ならびに鳥目を書中の通りに給わったこと、怡悦であること、従って、太刀一振を贈ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』87号「平子孫太郎殿」宛上杉「成悦」書状写)。
16日、蒲原郡司の山吉恕称軒政応(丹波入道)が、菩提寺である本成寺(住持は十祖の日意)の近習中へ宛てて書状を発し、(天文の)再乱の折に、小森沢分ならびに東分を申し合わせるため、愚札を先年に道七(長尾為景)が当地へ下向した折に取り成し、進め置かれた判形を、僧正(日覚)に御披見するため、越中へ差し上せられ、そのまま(日覚は越中から)御下りはなく、気にしなくて良い状況であること、ついでをもって重ねて判形を調えるつもりであること、御知行においては、すべてを保障すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』92号「本成寺 参御坊中」宛山吉「恕称軒政応」書状)。
本成寺九祖の日覚は、「長久山歴代譜」によると、天文9年に住持を退職し、越中国新川郡井田に隠居所を建てて移り、菩提心院を称したのち、同19年11月16日に遷化したという(『三条市史 資料編第二巻 古代中世編』)。
〔景虎、平子と松本が替地することで決着を図る〕
天文18年に小千谷の平子孫太郎(越後国魚沼郡小千谷の薭生城を本拠とする)に対して山東(西古志)郡山俣の地を再給与したが、現在の給人である旗本衆の松本河内守(越後国山東(西古志)郡出雲崎地域の小木(荻)城を本拠とする)が引き渡しを拒んでいる件について、8月7日、平子孫太郎へ宛てて書状を発し、去る年(18年)からの御詫言(嘆願)であること、西古志郡内山俣三十貫文分に関しては、松本(河内守)が様々に不服を申し立てていたとはいえ、何はともあれ堅く申し付け、(平子へ)彼の地を進め置くこと、この数年の間に景虎の骨折りをもって、(平子は)若干の御知行分を御手に入れられたこと、こうなったからには、(長尾)筑後守領分であった賀幾と接待屋(ともに古志郡支度野岐庄)の地を、(平子は)近年になって抱え置かれたわけであるから、速やかに彼方(松本河内守)へ(両地を)引き渡されるのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』94号「平子孫太郎殿」宛「長尾弾正少弼景虎」書状【花押a1】 封紙ウハ書「平子孫太郎殿 景虎」)。
10日、取次の吉江木工助茂高(旗本衆)が、平子孫太郎へ宛てて書状を発し、好便を得たので、切書をもって申し入れること、それ以後は久しく申し達せずにいたこと、よって、関東御出陣は御苦労で物入りであると察せられること、されば、山俣の地に関しては、(平子が)様々に仰せ立てられたので、(景虎が)松本に御意見して御返還される運びとなったこと、さぞかし御満足であろうこと、これにより、賀幾の地の大須賀分は(平子の)御抱えのうちでも、(長尾筑後守の)本領の地であるので、筑後殿へ引き渡されるべきこと、これについては、(景虎が)御状を下されたからには、御納得するのが肝心であること、色よい御返事を御申しになるのが何よりとの思いであること、今後どのような御用件でも仰せ付けられれば、力の及ぶ限り奔走するつもりであり、御意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、御出陣は御苦労と察していること、これを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』96号「平子殿 参御宿所」宛「吉江木工助 茂高」書状写)。
13日、故上杉入道玄清(兵庫頭定実)の側近であった吉江中務丞忠景(玄清の死去の前後、景虎の旗本衆に配属された)が、平子氏の年寄中へ宛てて返状を発し、御懇書を漏れなく披読したこと、されば、正印(山内上杉成悦)に御合力されるとのこと、かき(賀幾)の地を筑州(長尾筑後守)へ返還されるのかどうか、(長尾筑後守の)御本領の地であるので、選択の余地はないのではないかと思われること、されば、御家風中へ御はひたう(配当)したので、(それにかこつけて)御詫言(嘆願)するそうであり、これまた選択の余地はないであろうこと、これについて(吉江忠景から景虎へ)御意見をするべきであると(平子から)承ったこと、さらに吾等(吉江)には如何ともし難く、話し合いをつける立場にはないこと、ただし、御引き渡しはしないとはっきり断ったとして、始末の付け方としてはどうかと思うこと、つまりは御合力される時分に、約束を取り付ける旨があること、(忠景が)できる助力は御思案するほかにはないこと、委細は御使いが申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『新編 武州古文書 上』72号「平子殿 人々御中」宛「吉江中務丞忠智(景)」書状写)。
※ 当文書を、諸史料集は天文4年に置いているが、平子が長尾筑後守へ賀幾の地を引き渡さなけれならないことは(松本へ引き渡す賀幾の一部と接待屋とは別に)、94・96号と一致するものであるから、当年の発給文書として引用した。
〔上田長尾房長が死去する〕
15日、上田長尾政景の父である房長(新六。越前守。号月州)が死去した(『越後入広瀬村編年史 中世編』)。
〔関東屋形上杉成悦の関東復帰〕
10月22日、関東管領山内上杉成悦(五郎憲政・憲当)を関東に復帰させるため、合力として出陣させた旗本の庄田惣左衛門尉定賢へ宛てて書状を発し、このたび関東御合力の役目について、早速の出陣は、遠路による著しい陣労を案じていること、なお、委細は各所(三奉行)から申し届けること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』97号「庄田惣左衛門尉殿」宛長尾「景虎」書状写)。
同日、三奉行の庄(本庄)新左衛門尉実乃(景虎旗揚げ時からの重臣。越後国古志郡栃尾領の栃尾城を本拠とする)・大熊備前守朝秀(前上杉氏の譜代家臣。越後国頸城郡板倉地域の箕冠城を本拠とするか)・直江神五郎実綱(前上杉氏の譜代家臣。越後国山東(西古志)郡与板領の与板城を本拠とする)が、庄田惣左衛門尉定賢へ宛てて副状を発し、このたびの関東御出陣は、遠路による著しい御陣労であり、筆舌に尽くし難い様相であること、これにより、御直書をもって仰せ遣わされること、なおさらいっそう心得て申し入れるべきとのこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』98号「庄田惣左衛門尉殿 御宿所」宛「庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・直江神五郎実綱」連署状写)。
この関東屋形上杉成悦の関東復帰戦には、庄田のほか、96号文書からすれば、小千谷の平子孫太郎も合力として成悦に同行したことであろう。
〔収まらない揚北衆の中条・黒川の同族間相論〕
12月5日、揚北衆の色部弥三郎勝長(越後国瀬波(岩船)郡小泉庄の平林(加護山)城を本拠とする外様衆)へ宛てて書状を発し、中条方と黒河方の取合(抗争)に関しては、内々に昨年以来、方々へも子細を尋ねる心構えでいたとはいえ、その折に中弥(中条弥三郎。実名は房資であろう)から爰元(景虎)への音問が途絶されてしまったこと、そのうえ彼方(中条)が求められている事様が耳に入ったので、黒河方は(中条の)本心を計り兼ねているにより、今に至るまで経過したこと、そうではあっても、間の宿意があると号して、取合がとめどないにおいては、大途のためにも望ましくないこと、殊に不和の状況にほかならないにより、是非を投げ捨てられ、無事を遂げるのが何よりであると、双方へこのたびその届けに及ぶこと、景虎の扱い(仲裁)に任せられ、早速にも和談を遂げられるように、(色部勝長には)黒河方へ事細かに御意見するのが肝心であること、年内に余日がないといい、遠路といい、詳細は山吉孫四郎(実名は景久であろう。山吉丹波入道政応の世子)の所へ申し遣わしたこと、(山吉孫四郎は)若輩であるとはいえ、その口(奥郡)の所管に当たっている者であるので、(色部から山吉へ)御詞を加えられ、(無事が)しっかりと御調うのならば本望であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』99号「色部弥三郎殿 御宿所」宛「長尾弾正少弼 景虎」書状【花押a1】)。
蒲原郡司が山吉政応から世子の孫四郎に交代したのは、翌年の7月に政応が死去するので、和談を扱っている最中ではあったが、おそらくは病に罹って役目を果たせなくなってしまい、孫四郎に家督および役目を譲るしかなかったのであろう。
天文22年(1553)4月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【24歳】
12日、御門(後奈良天皇)の綸旨が発せられ、平 景虎、住国ならびに隣国に敵心を差し挟む輩を、治罰せられた所なり、威名を子孫に伝え、勇徳を万代に施し、いよいよ決勝を千里において、よろしく忠を尽くし、一朝においての由、景虎へ下知せしむべく給い、よって、 天気が言上した通りであること、権中納言が奉る、(『上越市史 上杉氏文書集一』102号「進上 広橋大納言(兼秀)殿」宛後奈良天皇綸旨写)。
※ 『新潟県史 通史編2 中世』などでは、後奈良天皇の綸旨が下された時期を、この冬に景虎が上洛した折としている。
〔景虎、信州味方中からの救援要請を受け、信濃国へ援軍を派遣する〕
これより前の4月9日に信州味方中の村上兵部少輔義清(信濃国埴科郡坂木の葛尾城を本拠とする)が甲州武田軍の攻勢に屈し(『山梨県史 資料編6 中世3上』甲陽日記)、景虎を頼ってきたので、縁戚関係にある高梨も含めた味方中を助けるため、信濃国へ加勢の越後衆を向かわせる(『上越市史 上杉氏文書集一』147号 長尾景虎願文写)。22日、越後・北信連合軍(五千人ほどという)は甲州武田軍前衛(八頭からなるという)と八幡の地で激突し、23日、武田晴信が葛尾城の「城主」を任せた甲州譜代の於曽源八郎を討ち取って奪還に成功した(『山梨県史 資料編6 中世3上』甲陽日記)。その後、早々に帰陣したらしい。
一方、葛尾城失陥の報に接した後方の甲州武田晴信は、4月24日、辰刻(午前8時前後)に刈谷原城(筑摩郡)まで後退している。これより前、武田晴信は3月23日に甲府を出馬し、同29日に刈谷原の地に着陣すると、同晦日に城の近辺を火を放ち、4月2日の午刻(正午前後)に刈谷原城を攻め落とし、城主の太田長門守を生捕り、その日の酉刻(午後6時前後)には塔原城(筑摩郡)が自落し、同3日には会田虚空蔵山城(同前)へ火を放ち、同6日に御先衆十二頭を北進させるなか、村上家中の屋代・塩崎が昨日に寝返ったとの注進が入り、8日に甲州譜代の今福石見守に刈谷原城の城主を仰せ付けていた(『山梨県史 資料編6 中世3上』甲陽日記)。
この間には、比叡山延暦寺が大講堂を起立するための寄付を求めるため、20日、天台座主堯尊法親王が直書を書き記し、山門(近江国滋賀郡と山城国愛宕郡に跨る比叡山延暦寺)の大講堂を起立するに伴い、分国において精魂を傾けられて造営に協力するにおいては、格別に懇切であること、よって、状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』103号「長尾弾正少弼とのへ」宛天台座主堯尊法親王書状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。
同日、山門三院(東塔・西塔・横川)の別当代・西執行代・執行代が連署状を書き記し、当山大講堂起立するに伴い、当時に関しては御沙汰を下されるのが困難であったにより、山上として調えるべき旨を、勅諚が下されたので、並ではない奔走が不可欠であること、彼の堂は類のない霊場であること、御精魂を傾けられて造営に御協力するにおいては、国郡豊安の基と言っても過言ではないこと、委細は花蔵院(円誉。越府五智国分寺の住持)が演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』103号「長尾弾正少弼殿」宛「別当代・西 執行代・執行代」連署状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 山門三院 執行代」)。
両書状を天文22年6月18日に花蔵院円誉が持ち帰った。景虎は綸旨を賜るために使節の花蔵院一行を上洛させたのだろうか。
天文22年(1553)7月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【24歳】
20日、越後国守護代長尾家以来の重臣であった山吉丹波入道政応(恕称軒。孫四郎・丹波守政久。蒲原郡司。越後国蒲原郡三条領の三条城を本拠とした)が死去する(『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院 「越後過去名簿」)。
天文22年(1553)8月~10月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【24歳】
〔景虎、信濃国布施の地で甲州武田軍と戦う〕
8月下旬、これより前の4月に、信州味方中の村上兵部少輔義清が、甲州武田軍に敗れて本拠の信濃国葛尾城(埴科郡)から自落したところ、すぐさま越後・北信衆の協力によって葛尾城を取り返し、さらに前進して同塩田城(小県郡)に拠ったのも束の間、8月5日に武田軍(武田晴信は7月25日に甲府を出立している)に敗れて没落したので、信濃国は隣国であるといい、村上・井上・須田・嶋津・栗田ら、彼の国の味方中とは、色々と申し交わしてきた間柄であるといい、そのなかでも特に高梨刑部大輔政頼(信濃国高井郡の中野城を本拠とする)は、好誼(縁戚)結んでおり、皆々を放ってはおけないとして、自ら信濃国へ出馬すると、信濃国布施(更級郡)の地で武田軍の前衛と戦った(『上越市史 上杉氏文書集一』134号 長尾宗心書状写 ●『戦国遺文 武田氏編一』555号 武田晴信感状)。
一方、甲州武田晴信(大膳大夫)は、7日に、甲州譜代の飯富兵部少輔を塩田の「城主」を仰せ付けると、飯富は翌日に入城し、28日には、同じく長坂筑後守(虎房)・跡部伊賀守(号祖慶)・等々力河内守を信州先方衆の香坂筑前守が拠る信濃国牧野島城(水内郡)へ遣わし、晦日には、塩田城の飯富兵部少輔を室賀兵部大輔(実名は信俊か)が拠る室賀城(埴科郡)の本丸へ移している(以下、長尾・北信連合軍と武田晴信の動向は「甲陽日記」(『山梨県史 資料編6 中世3上』甲陽日記)による)。
9月朔日、長尾・北信連合軍は、信濃国八幡(更級郡)の地で甲州武田軍の前衛を撃破し、同所に近い上山田の荒砥城(同前)を自落させた。
3日、さらに南進して青柳(筑摩郡)の地を焼き払い、同所の麻績城(同前)を攻略した。
4日、信濃国塩田城に本営を置く武田晴信は、同刈谷原城(筑摩郡。今福石見守が城代を務める)に甲州譜代の山宮(親類衆)・飯富左京亮(譜代衆)らを増派する。
同日、長尾・北信連合軍は、刈谷原城に近い会田の虚空蔵山城(筑摩郡)を攻め落とた。
これを受けて武田晴信は、軍配者に吉凶を占わせ、自分は天祐運の大吉、景虎は無明運の大凶の卦が出たとして、将兵の士気を高めている。
さらに武田晴信は、5日、信府深志城(筑摩郡)に甲州譜代の大井・下曽根・下条・今福・両角・栗原(いずれも武田氏から分派した親類衆)らを後退させて防備を固める。
13日、甲州武田軍が火攻めの夜襲を仕掛け、麻績・荒砥両城の城兵(信濃衆か)を多数討ち取る。
この戦果に武田晴信(大膳大夫)は、14日、敵兵七名を討ち取った信州先方衆の室賀兵部大輔(実名は信俊か)をはじめとする戦功者に褒美を下すかたわら、軍配者に吉凶を占わせ、自分は天祐運の大吉、景虎は無明運の大凶の卦が出たとして、将兵の士気を高めている。
16日、長尾・北信連合軍は、夜陰に紛れて後退すると、その際に武田軍の追撃を受けて信濃衆の数名が討ち取られる。
同日、武田晴信は、信州先方衆の窪村源左衛門尉が敵方の仁科 某(通称は内匠助か)・禰津治部少輔・奥村大蔵少輔を討ち取り、それぞれが所持していた景虎の書状を持参したので、彼の者に褒美として百貫文分の知行地を宛行っている。
17日、長尾・北信連合軍は、千曲川を渡り、葛尾城近郊の南条(埴科郡)の地を焼き払った。
これを受けて武田晴信は、その日のうちに塩田城から出撃する。
20日、長尾・北信連合軍は、ついに武田軍の本隊と一戦に及ぶことなく、それぞれ帰途に就いた。
そして武田晴信は、戦後処理を続けたのち、10月7日、塩田城を出立すると、その日のうちに信府深志城へ帰陣している。
※ 以下、川中嶋の戦いについては、小林計一郎氏の著書である『川中島の戦 甲信越戦国史』(銀河書房)、一ノ瀬義法氏の著書である『ドキュメント歴史の森7 激戦川中島 武田信玄最大の戦闘』(教育書籍)、笹本正治氏の監修、長野県飯山市の編集による『川中島合戦再考』(新人物往来社)、平山優氏の著書である『戦史ドキュメント 川中島の戦い 上・下』(学習研究社)、三池純正氏の著書である『真説・川中島合戦 封印された戦国最大の白兵戦』(洋泉社)を参考にする。
天文22年(1553)11月~12月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【24歳】
〔景虎、上洛する〕
仏詣と称して上洛し(『上越市史 上杉氏文書集一』134号 長尾宗心書状写)、御所に参内して御剣と天盃を下賜されたので、朝廷にさらなる奉公を励む決意を表すると、御門から、神妙に思われるとともに、長々の在京を感心されている(『上越市史 上杉氏文書集一』111号「広橋中納言(国光)とのへ」宛後奈良天皇女房奉書)。
11月10日、これより前、本国の奉行衆に指示して京都に要脚を納めるための公田段銭を徴収すると、三奉行の本庄実乃(景虎旗揚げ時からの重臣)・大熊朝秀(前上杉家譜代の重臣)・直江実綱(景虎の上洛に供奉しており、花押は据えられていない)が、越後国頸城郡夷守地域の領主の一人である山田彦三郎へ宛てて請取状を発し、 京都へ納める御要脚の御公田段銭の事、 都合八段、 てえれば、右を、夷守郷河井村・阿弥陀瀬村益田分として、山田彦三郎が取り立てて納し、所納は前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』107号本庄「実乃」・大熊「朝秀」・直江「実綱」連署段銭請取状写)。
13日、京都から和泉国堺(大鳥郡)を訪れる途中、畿内を制する三好方の案内により、摂州大坂の本願寺(東生郡生玉荘小坂)へ使者を派遣して金品を贈った(『上越市史 資料編3』810号 証如上人日記)。
〔景虎、入道して宗心と号する〕
12月8日、京都大徳寺に参禅し、前住持徹岫宗九から衣鉢・法号宗心を与えられ、三帰五戒を受ける(『上越市史 上杉氏文書集一』108号「前大徳徹岫宗九」証状)。
※ これより花押をa型からb型に改める。
17日、三奉行の本庄実乃・大熊朝秀・直江実綱が、越後国魚沼郡妻有地域(波多岐庄)の領主の一人である上野源六家成(同地域の節黒城を本拠とする)へ宛てて請取状を発し、 京都へ納める御要脚の御公田段銭の事、 都合弐町、 てえれば、 このうち五段半は庶子の西分、吉田郷内にあり、(上野家成が一族の西 某と)相論の最中であるにより、五段半は差し引くこと、 右を、魚沼郡波多岐庄上野村分として、上野源六が取り立てて納付し、所納したのは前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』109号本庄「実乃」・大熊「朝秀」・直江「実綱」連署段銭請取状)。
18日、留守を預かる本庄新左衛門尉実乃が、在地の上野源六家成へ宛てて書状を発し、段銭の件について、御切紙を詳しく披読したこと、とりもなおさず、御公銭衆へ事情の説明に及び、(本庄実乃が預かった徴収分を)段銭所へ持たせたところ、西分の件については、備前守方(大熊朝秀。公銭衆の責任者)が有料を差し押さえられた理由を、色々とその説明に及び、(西分を除いた段銭の)納付を済ませて、請取状を発送したこと、よって、委託した栗毛馬を精一杯の努力をされて飼育し、四足を洗って関節を温め冷まされている様子を仰せ越されたこと、一切合切が祝着の極みであること、なおいっそう手厚く(四足の関節を)温め冷まされ、念入りな世話をされてほしいこと、ひとえに頼み入ること、されば、 殿様(景虎)は今月下旬頃に御下向されるとの知らせが来たこと、是非とも年内中に御下向されるのを念願するばかりであること、また、爰元(越府)と信州口に別条はないこと、御安心してほしいこと、其元(上野)に異変があれば、かならず知らせを仰せ越されてほしいこと、(景虎の)御留守中の時分であるので、爰元(越府)での評判を確かなものと致したいこと、何はともあれ、重ねて申し述べるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』110号「上野源六殿 御報 本新 実乃」書状)。
宗心は12月下旬には帰国したようである。
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『上越市史 資料編3 古代・中世』(上越市)
◆『新潟県史 通史編2 中世』(新潟県)
◆『三条市史 資料編第二巻 古代中世編』(三条市役所)
◆『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』(新潟県立歴史博物館研究)
◆『新編 武州古文書 上』(角川書店)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『山梨県史 資料編6 中世3上 県内記録』(山梨県)