越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【弘治3年正月~同年9月】

2012-08-23 17:16:08 | 上杉輝虎の年代記

弘治3年(1557)正月3月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【28歳】


〔景虎、甲州武田晴信の和約を破る動きに、信濃国への出馬を決意する〕

正月20日、信濃国更級八幡宮(更級郡)へ宛てた願文を書き記し、「隣州国主」として信州の安寧を取り戻すために甲州武田晴信を打倒する決意を表し、この立願が神助によって成就したあかつきには、信州のうちで一所を当宮に寄進することを誓った(『上越市史 上杉氏文書集一』140号「八幡宮 御宝前」宛「長尾弾正少弼 平景虎」願文写)。

2月16日、在地の色部弥三郎勝長(越後国瀬波(岩船)郡小泉庄の平林(加護山)城を本拠とする外様衆)へ宛てて書状を発し、信州の戦陣に関しては、一昨年に駿府(駿州今川義元)の御意をもって、無事が成立したこと、ところが、その以後はいつもやり口で晴信(甲州武田晴信)が策動し、納得できないのは何もかもであるとはいえ、神慮といい、駿府の御取り成しといい、此方(景虎)からは手出し致すべきではないにより、そこは堪忍に及んでいたところ、このたび(武田)晴信は出張し、(信州味方中の)落合方の家中を引き裂いたゆえ、(落合の拠る)葛山(水内郡)の地は落居し、これにより、(信州味方中の)嶋津方(左京亮忠直)も(本拠の長沼城(水内郡)を放棄して支城の)太蔵城(水内郡太田庄の大倉城)へ何はともあれ移られたこと、こうなったからには取るべき対応は明白であるので、爰元(越後国)の総員を彼の口へ加勢として向かわせ、景虎も中途に至って在陣中であること、雪中で御面倒ではあるとはいえ、昼夜兼行での御着陣を待ち入ること、信州味方中が滅亡してしまっては、当国の存亡も危ぶまれるにより、今般に至っては相当の御人数以下を準備して、ここぞとばかりに御精励するべきであること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』141号 「色部弥三郎殿 御宿所」宛「長尾弾正少弼 景虎」書状写)。

3月18日、色部弥三郎勝長へ宛てて返状を発し、信州口の情勢について、わざわざ御切紙を寄越してもらい、祝着千万であること、再三にわたって申し上げた通り、このたびの戦陣では(武田晴信と)決着をつける手立てに及ぶ覚悟であるので、ここが正念場であり、どうあろうとも早速の御出立を待ち侘びている思いであること、景虎自身もようやく出陣すること、(色部勝長の)御用意が整ったのは本望であること、それ以来は彼口(信濃国奥郡)に関しては異変はないこと、御安心してほしいこと、一切合切は面上をもって申し承ること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』142号「色部弥三郎殿 御返報」宛「長尾弾正少弼 景虎」書状【花押c】)。

3月23日、姉婿の上田長尾越前守政景(越後国魚沼郡上田庄の坂戸城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、信州陣については、何度も申し上げている通り、このたびに至ってはさらに抜き差しならない状況であるので、看過致してはならないこと、しかしながら、出陣の日取りに関しては、方々と衆議して決めるべきところ、景虎の出馬が遅滞しては、(信州味方中の)高刑(高梨刑部大輔政頼。甲州武田軍の攻勢を避けて配下の外様平衆の本拠である信濃国水内郡の飯山城に移った)が飯山の地を打ち明けなければならないと、しきりに申し越されていること、そのようになってしまっては、いよいよ信望を失ってしまうにより、明24日に(越府を)罷り立つこと、いつも申し述べている通り、御面倒ではあるとはいえ、早速の御着陣が肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、こちらの様子においては、藤七郎方(実名は景国と伝わる。長尾政景の実弟)から申し入れられること、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』143号「越前守殿」宛長尾「弾正少弼 景虎」書状【花押c】)。


上田長尾政景の弟である藤七郎は、天文18年春に景虎と政景が和睦した折、人質として越府へ出仕するはずであった人物であろう(『上越市史 上杉氏文書集一』17・51号 宇佐美定満書状写)。その後、永禄年間後期には大井田名字で見えるので(同前465号 上杉輝虎書状)、これ以前に魚沼郡妻有庄の領主である大井田氏を継いだのであろうが、弘治3年当時はまだ長尾名字であったと思われる。



一方この間、信府深志城(筑摩郡)に在陣中の甲州武田晴信(大膳大夫)は、2月15日、信濃国の在陣衆に命じ、敵方の信濃衆・落合次郎左衛門尉が拠る信濃国葛山城(水内郡)を攻め落としている。

25日、信州先方衆の木嶋出雲守・原(山田)左京亮(ともに高梨氏の旧臣。信濃国更級郡の山田城に拠るか)へ宛てて
書状を発し、飯富兵部少輔(御譜代家老衆。信濃国小県郡の塩田城の城代を任されている)の所への紙面に明示された通り、敵が中野(高井郡)へ移られたそうであり、幸いにも当府(深志城)に至って馬を立てているにより、(敵が)大軍であるについては、重ねて(その方面へ)動くつもりであること、それまでの間は城内を堅固にしておくのが専要であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』531号「木嶋出雲守殿 原左京亮殿」宛武田「晴信」書状写)。

3月10日、この2月15日に甲州武田家の信州在陣衆と共に、葛山城を攻めて戦功を挙げた諏方清三・千野靫負尉・内田監物をはじめとする信州先方衆やその被官たちのそれぞれへ宛てて感状を発し、去る2月15日に信州水内郡葛山の地において、敵首一つを討ち取るにより、戦功の極みであり、感じ入ったこと、今後ますます忠信を励むべきものであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編一』533・534号 武田晴信感状、535号 武田晴信感状写、536~538号 武田晴信感状、539号 武田晴信感状写、540号 武田晴信感状、541号 武田晴信感状写、542~545号 武田晴信感状、546号 武田晴信感状写、547・548号 武田晴信感状、549号 千野靫負尉勲功目安案)。

11日、葛山城域内の静松寺へ宛てて書状を発し、落合遠江守・同名三郎左衛門尉は、最前からの筋目を変えられることなく、忠信を励むつもりである旨を申されているとは、なおもって感じ入っている所存であること、たとえ(今も敵方の)惣領の(落合)ニ郎左衛門尉方が当手に属されたとしても、両所(遠江守・三郎左衛門尉)に対してはますます懇切に接するつもりであること、この趣を仰せ届けてもらいたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』495号「静松寺」宛武田「晴信」書状)。

14日、原左京亮・木嶋出雲守へ宛てて返状を発し、去る11日付の注進状が、今14日戌刻(午後8時前後)に着府し、披読した通りでは、越国衆が当国に出張してきたそうであるが、そうなるのは事前に承知していたにより、にわかに出馬したこと、委細は陣前において(原・木嶋と)直談を遂げ、趣を詳しく承ること、(詳細は)飯富兵部少輔の所から申し越すこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』550号「原左京亮殿 木嶋出雲守殿」宛武田「晴信」書状)。

20日、信州先方衆の室賀兵部大輔(実名は信俊か。信濃国小県郡小泉庄室賀郷の室賀城を本拠とする。越後国に亡命した村上義清の旧臣)へ宛てて感状を発し、去る15日の信州水内郡葛山の城において、其方の被官である山岸清兵衛尉が小田切駿河守を討ち取ったにより、戦功に感じ入ったこと、(山岸へ)今後ますます忠信を励むように申し含められるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』551号「室賀兵部太輔殿」宛武田「晴信」感状 封紙ウハ書「室賀兵部太輔殿 晴信」)。



〔能州畠山父子から再度の支援要請が寄せられる〕

これより前、能州畠山悳祐(左衛門佐入道。俗名は義統)・同義綱(次郎・修理大夫)父子から、内乱を収めるための支援要請を受けるも、信濃国奥郡への出馬を予定していることから、援軍の派遣を断り、糧米の援助は請け負うと、18日、畠山父子が返状を書き記し、重ねて飛脚を差し下すこと、このたびは返礼などの色々な入魂の趣には、感謝の言葉もないこと、誠に累代の交誼に変わりはなく、祝着の極みであること、当城(能登国七尾城)はますます堅固であるので、安心されてほしいこと、一部始終は何度も申し越しているにより、細々とは申し届けないこと、よって、糧米に関しては扶助してくれているそうであり、何はともあれ、士卒の覚悟が決まった旨はこの支援にあること、とにかくその国(越後国長尾家)に計策を託したいこと、この助成をもって本意を遂げる以外には、選択の余地はないのではないかと、(越後から能登への)渡海は少しでも波が穏やかに及んだならば、是非とも加勢の実行を頼み入ること、なおもって、別紙にて条々を申し越すこと、委細は(取次の)遊佐美作守(続光)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』156号「長尾弾正少弼殿」宛畠山「悳祐」・同「義綱」連署状【封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 悳祐 義綱」】)。


能登国の内乱は、畠山家年寄衆の神保宗左衛門尉総誠・温井兵庫助続宗・三宅筑前守総広たちが畠山一族の畠山四郎晴俊を擁立し、畠山父子に歯向かったものである。


同日、畠山父子が、取次の山田修理亮長秀(景虎旗本)へ宛てた返状を書き記し、取り急ぎ飛脚を差し下したこと、よって、当城の難儀に、入魂を寄せてもらったのは喜悦であること、(山田長秀から)景虎へ申し越されてほしいこと、糧米を扶助してくれるそうであり、何はともあれ、士卒の覚悟が決まり、祝着であること、とにかくその国に計策を託したいこと、この助成をもって本意を遂げる以外に、選択の余地はないのではないかと、渡海は少しでも波が穏やかに及んだならば、早速にも加勢を頼みたいとの旨を申し越したこと、(山田の)奔走が肝心であること、なお、詳細は遊佐美作守が申し届けること、これらを畏んで申し伝えている(『新修七尾市史 七尾城編』【文献史料編 第三章】123号「山田修理亮殿」宛畠山「悳祐」・同「義綱」連署状写)。


23日、能州畠山家年寄衆の筆頭である遊佐続光が副状を書き記し、去る頃の御返答は御入魂の至りで、感謝の言葉もないこと、当陣は今に至るも異変はないこと、よって、糧物の援助を請け負ってもらったのは、何はともあれ、喜悦の行いであること、従って、御加勢の一儀は、その国の信州へ御手立てについて、御同意がなかったのは、やむを得ない次第であること、そうではあっても、体裁ばかりをもって、その多寡を問わず一勢の加助を得たい旨を、(畠山父子が)直書ならびに条書をもって、重ねて申し入れられるにより、早速にも御同意を得るにおいては、誠に当家再興には最も重要であると、なお心得て申し届ける旨であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、金台寺に委細を申し越されてほしいこと、事前に相談し合い(金台寺の)帰国を待ち申し上げること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』157号「長尾弾正少弼殿 御宿所」宛遊佐「続光」書状)。


※ これらの畠山父子・主従の文書を、『上越市史 上杉氏文書集一』は弘治4年に仮定しているが、『新修七尾市史7 七尾城編』の【文献史料編 第三章 未曾有の内乱の中で】の概説と文書の年次比定に従って、当年の発給文書として引用した。



弘治3年(1557)4月7月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【28歳】


4月7日、越後国刈羽郡佐橋庄北条の領主である北条高広(丹後守)が、景虎の信濃国出馬に参陣したなかで、領内の専念寺に証状を与え、(北条と共に参陣した)合力の見返りとして、寺領の新役の免除ならびに寺家門前・山屋敷などを不入とするものであること、よって、(景虎の)意向を受けて前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』144号「専念寺」宛北条「高広」安堵状)。


〔景虎、信濃国へ出馬する〕

18日、これより前に信濃国へ先衆を出陣させたのに続き、自身も信州へ向けて出馬した(『戦国遺文 武田氏編一』550・558号の武田晴信書状によれば、越後衆の出張を受けて武田晴信父子は信州へ出馬してきたと述べているから、景虎は一部の越後衆を先に向かわせていたことになる)。


21日、信濃国善光寺(水内郡)に着陣すると、参陣途中の色部弥三郎勝長へ宛てて書状を発し、当地善光寺に至って着陣したこと、敵方は保持していた山田要害ならびに福島の地(ともに高井郡)を打ち明けたこと、退衆(在所を退去していた信州味方中)は残らず還住を遂げたこと、何はともあれ、御安心してほしいこと、(味方中の)方々から言って寄越した子細があられるにより、早速の御着陣を待ち入るばかりであること、何としても陣を進めてもらえれば、祝着であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』145号「色部弥三郎殿 御宿所」宛「長尾弾正少弼 景虎」書状【花押c】)。


このあと色部勝長が参陣したのかは分からない。


25日、数ヶ所の敵陣や要害の根小屋を焼き払い、信濃国旭山城(水内郡)を再興して拠点と定め、甲州武田晴信を戦場に引き摺り出して決戦を挑むための駆け引きを始めると、武田側は和睦(将軍足利義輝から双方に停戦を下知している)を含めた様々な働き掛けをしてきたので(『戦国遺文武田氏編一』609号 武田晴信書状写)、今後の推移を見極めるため、いったん信濃国飯山城(水内郡)へと後退した。


吉日、上田長尾政景が、上田長尾家の菩提寺である龍言寺に証状を与え、安閑・長勝の両寺を、稜厳(龍言)の寺領に定め置くのは間違いないこと、ならびに諸役を免除するものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』146号「稜厳寺(ママ) 参」宛長尾「越前守政景」安堵状写)。


このあと長尾政景は出陣し、景虎と共に4月18日に越府から信濃国へ向かったか、同日以降に景虎を追いかけて直行したのであろう。


5月10日、飯山の小菅山元隆寺(高井郡)に願書を納め、甲州武田晴信が一戦を避けているので、しばらく飯山の地に滞陣していたが、明日に上郡へ進出することを表明し、神助をもって勝利を得られれば、河中島において一所を、末代まで寄進することを誓った(『上越市史 上杉氏文書集一』147号「平景虎」願文写)。


同日、出羽国の味方中である土佐林能登入道禅棟(杖林斎。出羽国大浦の大宝寺新九郎義増の重臣。出羽国田川郡の藤島城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、信州に向けた出馬について、(使者の)野島平次左衛門(景虎旗本)を(色部勝長に参陣を要請するため)瀬波(岩船)郡へ下向させた折に、(景虎が土佐林禅棟へ)一筆を申し上げたところ、御懇報に預かったこと、本懐を遂げて祝着であること、先月18日に(信州へ)越山すると、同25日には、敵陣を数ヶ所と根小屋以下を残らず放火し、同日中に旭山要害を再興して本陣を据えたこと、何があろうとも武略を廻らし、(武田)晴信を引き摺り出し、一戦を遂げる覚悟を決めたこと、そのうえ、敵地から種々の和解の旨をこと、これにより、近日はまずは(武略の)実行を延引したこと、(土佐林からの気遣いを)承った通り、爰元は堅陣を抜かりなく維持していること、御安心してほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』148号「土佐林能登入道殿」宛長尾「弾正少弼 景虎」書状【花押c】)。


12日、犀川を越えて香坂(埴科郡。海津のことらしい)の地を強襲して周辺を焼き払う。

13日、坂木・岩鼻(ともに埴科郡)の両地を蹂躙したところ、一・二千ほどの甲州武田軍前衛が姿を現したので、迎撃態勢に入ったが、相手が後退してしまい、捕捉するには至らなかった。


こうしたなか、飯山城の高梨刑部大輔政頼から陣中見舞いの飛脚が到来すると、15日、すぐさま高梨政頼へ宛てて返書を発し、当口の戦陣の件について、(高梨政頼からの)取り急ぎの御飛脚に満足致していること、去る12日に香坂へ手立てに及び、ついでに近辺を余す所なく放火したこと、翌13日には板木・岩鼻まで蹴散らしたこと、すると凶徒の一・ニ千ほどが進み出てくるも、(景虎が)立ち向かって行ったら、(甲州武田軍は)五里から三里先へ敗北してしまったので、打ち漏らしたのは、無念そのものであること、重ねて天気次第で(武田軍を)追い懸け、異変があれば申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、先刻にも申し入れたこと、御用件があるので、草出(草間出羽守。高梨氏の重臣)の御越しを待ち入ることと、御負担ではあっても、御力を発揮されるのは今この時であるので、これに尽きること、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』149号「高梨殿 御報」宛「長尾 景虎」書状【花押c】)。


その後、飯山以北で甲州武田家に属している信濃国衆の市川藤若(のちの新六郎・治部少輔信房)が拠る「野沢之湯」要害(高井郡)の攻略に向かい、高梨刑部大輔政頼を通じて帰属を勧告したところ(高梨政頼の使者として草間出羽守が野沢へ赴いたと思われる)、市川に拒否される。この藤若は、弘治2年7月に武田晴信から忠賞として安田遺跡を出し置かれた市川孫三郎(『戦国遺文 武田氏編一』503号 武田晴信判物)の近親者と思われ、これから間もなくして孫三郎は早逝したものか、この6月までに藤若が市川氏の当主となっている。


6月11日、飯山城にまた戻った。



一方、これらの情報に接した甲州武田晴信(大膳大夫)は、6月16日、市川藤若へ宛てて書状を発し、取り急ぎ客僧をもって申し述べること、およそ長尾景虎は、去る11日には飯山に向かって移陣したとのこと、風聞によれば、(長尾方の)高梨政頼がその地(野沢)の近辺に現れ、景虎へ其方(市川藤若)との和融を取り計らうと持ち掛けたそうであること、申すまでもないとはいえ、誓約の旨に任せ、(互いにとって疑念が生じるような風説を取り上げるのは憚れるところ)心底を残らず申し届けたこと、幸いにも当陣は堅固であり、来る18日に、上州衆が残らず加勢として当筋(信濃国深志城)へ出張し、上田筋(小県郡)へは(相州北条氏康からの加勢として)北条左衛門太夫(玉縄北条綱成。相模国東郡の玉縄領を管轄する一族衆)が着陣し、越国衆の威勢は、日増しに減退していくのは明らかであるので、この機会に晴信は(景虎を滅ぼしたいという)本意を達する趣を覚悟していること、早々に(協力するための)支度を頼み入るにより、(市川の晴信への)変わらぬ忠節を願うところであること、なお、日増しに使者をもって、一部始終に関して申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』561号「市川藤若殿」宛武田「晴信」書状写)。

23日、市河藤若へ宛てて返状を発し、(市河からの)注進状を披読、よって、(長尾)景虎が「野沢之湯」に向かって進陣し、その地へ攻め懸かる素振りを見せる一方、(市河藤若の)武略を入れてきたとはいえ、同意せず、おまけに(要害の)防備が堅固であったゆえ、長尾は何らの成果も得られずして、飯山へ引き退いたとは、誠に心地好いこと、いずれもこのたびの其方(市河)の振舞いは頼もしい限りであったこと、とりわけ、(長尾が)野沢に在陣していた折、中野筋(高井郡)への後詰めの要請を、飛脚に預かったこと、とりもなおさず、倉賀野(上野国衆の倉賀野衆の加勢を先導させるため)へ上原与三左衛門尉(甲州直参)を向かわせ、また、当手に関しても、塩田在城の足軽をはじめとして、原与左衛門尉(甲州直参)の五百人を、(加勢として中野に在陣する)真田(弾正忠幸綱。信濃国小県郡の真田城を本拠とする信州先方衆)の許へ差し遣わしたところ、すでに(越国衆は)退散していたから、どうしようもなかったこと、すべてが不首尾に終わったわけではないこと、今後は事前にその旨を察するように、塩田の在城衆に申し付けたので、湯本(野沢)から要請があり次第、当地(本陣)へ申し届けに及ばずとも、出陣するようにとの趣を、今日、(塩田城代の)飯富兵部少輔(甲州譜代の重臣)の所へ下知をしたにより、御安心してほしいこと、なお、(詳細は使者の)山本菅助(甲州直参)の口上のうちにあること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』562号「市河藤若殿」宛武田「晴信」書状)。



〔越後国西浜口の在陣衆が甲州武田軍の別働隊を撃退する


6月下旬、信濃国へ出馬するに当たり、越後国頸城郡の西浜口に配備した在陣衆が、当口へ進んできた甲州武田軍の別働隊を迎え撃って退けた(『戦国遺文 武田氏編一』549号 千野靫負尉勲功目安案)。



この際、甲州武田方の信州先方衆である千野靭負尉(甲州譜代の重臣である板垣左京亮信憲の同心)は、使者として西浜口の武田軍別働隊の陣所へ赴いたところ、越後衆の襲撃に遭って鉄砲傷を負っている(同前549号)。


〔信濃国小谷城が甲州武田軍の別働隊によって陥落する〕

そして、甲州武田晴信は信府深志城(筑摩郡)から信濃国川中嶋(更級郡)の地へ進み出ると、7月5日、越後国西浜口から後退した別働隊(板垣信憲を主将とする)をもって、信・越国境の信濃国小谷(平倉)城(安曇郡)を攻め落としている(『戦国遺文武田氏編一』549号 千野靫負尉勲功目安案、564~567号 武田晴信感状、568号 武田晴信感状写、569号 武田晴信感状、570号 武田晴信感状写、571号 武田晴信感状)。

ここでも千野靫負尉は、別働隊と共に越後国西浜口から後退して板垣信憲の許へ戻ったのち、小谷城攻めに参加すると、構際で弓を引いて奮戦し、その武功を板垣が武田晴信へ言上したので、駒井高白斎の取り次ぎにより、深志城の御対面所に召し出されて褒美を頂戴している(前掲549号)。


6日、前線の水内郡で活動する宿将の小山田備中守虎満(御譜代家老衆。信濃国佐久郡の内山城の城代を任されている)へ宛てて返状を発し、各々が精励されているゆえ、其元の陣容は万全であると、申し越されたこと、一段と祝着であること、当口に関しては、(長尾方の)春日(信濃国水内郡戸屋城を本拠とするか)と山栗田(善光寺別当・里栗田氏の庶族)が没落し、寺家(善光寺)・葛山衆に人質を差し出させ、嶋津(長尾方の長沼嶋津氏とは同根の赤沼嶋津氏)に関しては、今日、降参する趣を申し越されたこと、以前から同心の誼みを通じているにより、裏切ることはないかと、このうえはついに極まり、(信州先方衆の)東条(信濃国埴科郡の雨飾城の在城衆)と綿内(同じく井上氏の庶族。信濃国高井郡の綿内城を本拠とする)ならびに真田方衆と申し合わせ、武略(敵方の調略)が第一であること、ただ今、(信濃国奥郡を制する)時機到来の趣を見届けたので、いささかも油断してはならないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、内々に綱島(更級郡大塚。犀川河畔)の辺りに在陣するつもりであれども、万一にも越後衆が出張してきたならば、(綱島の地は)陣地として、どうなのかと各々(宿将たち)が意見をしたので、佐野山(同塩崎)に馬を立てたこと、この両日は人馬を休ませ、明日に軍勢を進めること、これらを申し添えている(『戦国遺文武田氏編一』563号「小山田備中守殿」宛武田「晴信」書状)。



弘治3年(1557)8月9月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【28歳】


〔景虎、甲州武田軍の別働隊の動きに反応して飯山城を離れる〕

先月の信濃国小谷城陥落により、越後国西浜口(頸城郡)がまた危うくなったので、上田長尾越前守政景(景虎の姉婿。越後国魚沼郡上田庄の坂戸城を本拠とする)らを信濃国飯山城に残留させて、信・越国境へ向かったところ、その長尾政景から、同じく飯山城に留めた揚北衆の安田治部少輔長秀(長尾政景とは姻戚関係にあると伝わる。越後国蒲原郡白川庄の安田城を本拠とする)を通じ、前線で孤立することへの不安を愁訴されたので、4日、長尾越前守政景へ宛てて書状を発し、このたび安田方をもって条々を仰せ越されたこと、御存分の通りを、漏れなく承ったわけであること、されば、(政景が)御出陣したうえは、御留守が長引くに至って、万が一の事態が起こった場合は、(政景の)御進退の保障を見除致さないでほしいということであり、くれぐれも承ったこと、これもまた、御懸念はその通りであること、すでに信州の面々衆といったん申し交わした因縁をもって、今日に至るまで助成の苦労を重ねたこと、まして(政景とは)一通りではない由縁などがあるので、どうして貴所(政景)の御事を見除致したりできるであろうか、その詳細は安治(安田治部少輔長秀)に申し分けたこと、ひとえに(政景の)御心腹においては頼もしく思っていること、このうえにおいても、万が一御疑心の事情でもあるのならば、(景虎は)誓詞をもって申し述べること、委細は彼方(安田長秀)が雑談すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』150号 長尾「越前守殿」宛長尾「弾正少弼 景虎」書状【花押a3ヵ】)。


※ 松澤芳宏氏の論考である「上野原の戦い、飯山市静間上野説を唱える訳 ー長野市岩野での天文22年説の検証ー」(雑誌『高井』第220号 高井地方史研究会 令和4年8月1日発行)の記述に従い、長尾政景の居所を飯山城とした。


これより前、西浜口の加勢として、数手の部将と軍監の小越・平林(景虎旗本)らを向かわせたところ、14日、西浜口に在陣させている庄田惣左衛門尉定賢へ宛てて返状を発し、はやばやと(西浜口に)着陣したそうであり、神妙であるのは紛れもないこと、西浜口へ各々を遣わしたので、どのようにしても相談し合い、(敵に)攻め懸かるのが肝心であること、(この正念場は)方々の精励に極まるものであること、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、各々へもこのくだりを聞かせるべきこと、小越と平林にも聞かせるべきこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』135号「庄田惣左衛門尉殿」宛長尾「景虎」書状写)。


※ 当文書を、諸史料集は弘治2年に置いているが、隠遁していた景虎が政景に対して国主復帰を誓った同年8月17日以前に、このような指示をしたとは考え難いうえ、敵である大熊朝秀はまだ越中在国しており、西浜の越後衆が大熊軍に攻撃を仕掛けられるような状況ではなかったであろうから、西浜口が続けざまの脅威にさらされていた当年の発給文書として引用した。それから、景虎が庄田に対し、各々と相談し合い、敵を攻撃するのが肝心である、というようなことを指示しているくだりが、『上越市史 上杉氏文書集一』では、「如何共有談合可相調義事」となっているが、『謙信公御書集』・『上杉家文書』・『歴代古案』はいずれも、「相」の字は入っていない。


庄田定賢は、ここでの加勢衆より前に西浜口へ派遣されたと考えられるが、飯山在陣時に景虎の許から向かった以外にも、留守衆の一員として置かれていた越府から向かったという可能性もあろう。


〔上田長尾政景が甲州武田軍の別働隊を上野原で撃退する〕

8月15日、上田長尾政景・揚北衆の安田長秀ら飯山在城衆が、飯山口に押し出してきた甲州武田軍の別働隊を信濃国上野原(水内郡静間郷上野)の地で撃退した。


29日、上田衆の南雲治部左衛門尉に感状を与え、このたび信州上野原の一戦において、見せた働きは類い稀な次第であったこと、今後ますます奮励するのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』152号「南雲治部左衛門(尉)とのへ」宛長尾「景虎」感状写)。


同日、上田長尾政景が、被官の大橋弥次郎に感状を与え、このたび信州上野原の一戦において、見せた働きは類い稀な次第であったこと、今後ますます奮励するのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』153号「大橋弥次郎殿」宛長尾「政景」感状写)。


この前後に越後国長尾軍は、飯山在城衆の長尾政景らを含めて帰陣したであろう。


※ 前掲の松澤芳宏氏の論考では、上野原の戦いが行われた場所を水内郡静間郷(静妻・志妻・志津間とも)の上野の地に比定されている。


9月20日、長尾政景が、被官の下平弥七郎に感状を与え、信州上野原において(武田)晴信に対して合戦を遂げ、勝利を得た際の神妙の働きは類い稀であったこと、今後ますます奮励するのが大事であること、これらを謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』154号「下平弥七郎殿」宛長尾「政景」感状写)。


当文書については、羽下徳彦氏が論考の「長尾政景の死と下平文書の行方 ー『歴代古案』校訂補正并解題補遺・その一 ー」(羽下徳彦編『中世の社会と史料』吉川弘文館)なかで、『歴代古案』は弘治二年戊午の付年号を記しているが、その干支は永禄元年であることと、『謙信公御書集』は弘治三年の付年号を記していることを示されている。



一方、甲州武田晴信(大膳大夫)は、別働隊が飯山口に進攻して敵勢と交戦したのを受けて、8月15日、東条(雨飾城)在陣衆へ
宛てて書状を発し、今日の各々の働きは心地好かったこと、今後は千曲川の浅深を見届けられ、瀬を越せば、今日の働きのような無思慮なものとはならないであろうこと、(各々が)相談し合い、手落ちのないような手立てが第一であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 574号 武田晴信書状写 )。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『新修七尾市史7 七尾城編』(七尾市)
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)

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