越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【弘治2年6月~同年9月】

2012-08-20 21:51:50 | 上杉輝虎の年代記

弘治2年(1556)6月 越後国長尾宗心(弾正少弼入道)【27歳】


〔景虎、また隠遁する〕

6月28日、恩師である長慶寺の天室光育(越後国頸城郡佐味庄柿崎領内の楞厳寺の住持)の衣鉢侍者へ宛てて書状を発し、謹んで申し上げること、このたび宗心一身上の事情においては、両使をもって条々を申し述べるくだりを、かならず通読されてほしいこと、なおもって各々(越後衆)にも仰せ聞かせてもらうため、こうして一書を捧げること、一、当国の数年にわたる錯乱に関しては、(天室光育も)深いところまで御見聞してきた通りであること、わけても宗心の先祖以来、 屋形(越後国守護上杉家)に対しては、忠はあっても誤りがなかったところ、驚いたのは、この名字(守護代長尾家)を断絶させる仕打ちを受けたのは一代だけではないこと、そのうえ先年には、関東から可諄(関東屋形山内上杉顕定)が道七(長尾為景)を退治すると称し、この国に向かって御進発されたこと、これにより、(道七は)ひとまず越中国へ馬を入れられ、翌年には、佐州への渡海したのち、(越後国蒲原郡加地庄)蒲原着津し、(同山東郡)寺泊・(同刈羽郡柏崎)椎谷の一戦に大利を得られ、おまけに(同魚沼郡上田庄)長森原において可諄を御没命に至らせ、それ以外にも国中所々で挙げた軍功は枚挙に暇がなく、このように道七が戦術を励まれたにより、(越後国に)二度も元通りの和平を取りまとめられると、一家をはじめとして、外様・諸傍輩は残らず、道七の骨折りで忠賞を宛行われたこと、この厚恩を忘れてはならないところ、その芳恩から目を背け、国中の衆は一味同心し、(道七に)謀叛を企てたとはいえ、およそ、道七は軍配を振るい、二十ヶ年にわたって戦いに敗れはしなかったこと、しかしながら、その道七が死期を迎えた折には、(越府春日山城の)膝下まで凶徒が攻め寄せてくるといった状況に陥ったので、実に(宗心も)甲冑を着用して葬送に臨んだこと、それからは、兄である晴景を病者と侮ったゆえか、奥郡の者は上府を遂げず、長年の遺恨があると称し、勝手放題の振る舞いを果てしなく続けたこと、宗心は若輩ながらも、あるいは亡父、あるいは名字(長尾家)に汚点を残すゆえ、はからずも上府して春日山城に罷り移ると、意外にもあっさり国中が平穏無事に収まり、各々も近頃に至るまで、何はともあれ、(越後国のために)駆けずり回っている良い有様ではないかと思われること、一、信州に関しては、隣国であるのは勿論とはいえ、村上方(村上兵部少輔義清)をはじめとして、井上(左衛門大夫昌満か)・須田(相模守満国か)・嶋津(左京亮忠直。のち淡路守)・栗田(善光寺別当の里栗田氏から分かれた山栗田氏)、そのほかとは絶え間なく相談し合ってきたこと、殊に高梨(刑部大輔政頼)とは、とりわけ厚誼で結ばれているにより、いずれにしても、(信州味方中を)放っておけなかったこと、彼の国の過半を(甲州武田)晴信は手に入れられ、もはや国情が一変してしまったので、(宗心は)二度にわたって出陣し、昨年の戦陣は、旭の要害(甲州武田方の拠点である信濃国水内郡の旭山城)に向かって新地を取り立てると、敵城(旭山城)を封じ込めてから、(武田)晴信に対して興亡の一戦を遂げるほか、選択の余地はなかったところに、甲陣は勢いを失い、駿府(駿州今川義元)を頼み、無事の成立を様々に懇望し、誓詞ならびに条目以下を調えられたうえに、色々と(今川)義元から御意見があったので、すべての障害に折り合いをつけ、旭の地を残らず破却させ、和与の受諾をもって、馬を納めたこと、これにより、彼の国の味方中は今に至るまで安泰にされていること、自賛のようであるとはいえ、宗心の助成がなければ、各名字が絶えてしまうのは疑いなかったこと、一、この名字(長尾家)が関東から罷り移って以来、当国の行事を担ってきたが不安や異論などの訴えはあったこと、万が一にも当代(宗心)に至って(領国経営に)不足を生じさせるのは、堪え難いので、ますます当家の威勢を上げ、家中まで慣れ親しんでほしいと本心から思っていたところ、皆共の心構えはまちまちでまとまりに欠けるゆえか、あらゆるものから見放された状況であること、このような有様では、果たして(行事は)続け難いので、ついには進退を正す以外になかったこと、およそ、先祖の魯山(長尾高景)は、その頃は無双の勇将として、震旦(明)までも知れ渡り、絶海和尚(中津。禅僧。夢窓疎石国師の弟子)が入唐した折には、(天子から当朝における)その武功を問われ、魯山の形像を所望されたにより、和尚は帰朝のあと、ついに絵図を画師に描かせて、大唐に送り届けられたという話であり、そればかりか、野州結城(下総国結城氏朝)の御退治の折、因幡守(長尾実景。高景の孫)は赤漆の御輿を御免許を受け、京都(将軍足利義教)の御代官として発向し、彼の要害(結城城)は東国第一の名地であるとはいえ、これを攻め落とされ、ほかならぬ御感により、綸旨ならびに都鄙(京都・鎌倉公方)の代々における御内書も数通を頂戴し、今に至るまで(当家が)所持していること、通窓(長尾頼景。実景の従弟)ならびに実渓(長尾重景)父子は関東に在陣し、至る所において軍功を挙げたこと、祖父の正統(長尾能景)に関しても、当方(屋形上杉房定)の代官として、関左へ越山し、椚田城(武蔵国多西郡)・真(実)田城(相模国西郡)を落居させた時に、当手の者共が手を砕き、その武威は恐れながらも天下に誉れを振るわれたこと、亡父(長尾為景)は二八(十六歳)の頃、正統に従って関東へ出陣したのを皮切りに、信州・越中、当国においても戦功を挙げ、およそ漢の高祖(劉邦)は、その生涯で七十余戦したそうであるが、道七は在世中に百余戦もしていること、ひたすら冗長な話で、恐れ入りながらも、このついでに明言しておくだけであること、去りてまた、宗心に関しては、幼稚の時分に父を失い、ほどなくして古志郡に罷り下ったところ、若年と見下げて、近郡の者共が方々から栃尾に向かって地利を取り立て、時には不意打ちを致してきたので、その防戦に及んだこと、文武の形と言うに、太公(呂尚か)の兵法と越王の勾践が賢臣の范蠡の補佐によって会稽の恥を雪がれた故事であること、ここに宗心は、その当時は幼いために兵法の師を持たず、そうではあっても、熱心に弓矢の業を受けたということであり、代々伝わる軍刀をもって、諸口において大勝利を挙げ、討ち取った凶徒に関しては、その数は見当もつかないこと、果てはこの家(長尾家)の勢いをも少しばかり再興し、おまけに先年は物詣のために上洛した折、参内に及び、天盃御剣を頂戴したのは、父祖以来、はじめてあのような幸運に巡り合い、誠に名利過分の極みであること、そのほか御免許の栄典などは多いとはいえ、委細は承知されている通りであるから、(光育へ)申し達するには及ばないこと、されば、今は国中も豊饒であるところ、(宗心が)爰元に長居して、下知に背く者共が騒ぎでも起こしでもしたら、今までの功績も台無しになり、また、召し使う者共への体裁も悪く、ますます立場がないこと、古人曰く、功成り名を遂げて身退く、と聞き及んでいるので、拙者もこの語に倣い、遠国へ罷り越す決心を固めたこと、幸いにも家中譜代には優れた者が連なっているので、(家中譜代の者たちが)談合を遂げて相談するのが肝心であるというくだりを、(光育から)尊意を言い含められてほしいこと、宗心が相応に意見致した時分には、いずれも難除致されたので、とにかく遠境へ移り、この国の有様を人づてに承り及ぶつもりであること、各々が相談すれば、おそらくは日増しに(越後国は)安全になるのであろうやと、ただし、隣国のように見聞する時は、取り立てて支障はないのではないかと、確かにどういうわけともなくと言い、鳥の寿命のようであると、推察していること、返す返すも、今回の出奔に関しては、(宗心に)他意があるように、吹聴する輩もいるはずなので、愚意のあらましと尊意を申し上げるための条書をもって、にわかに書き記したので、草稿を練らず、筆に任せたこと、きっと文章が前後していたり、重字や落字なども目だって多く、他見の嘲笑は憚り入る思いであること、それを差しおいても、この筋目ばかりは御納得してもらうのを願い望むこと、この旨を(光育へ)披露に預かりたいこと、これらを恐れ敬って申し
伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』134号「長慶寺 衣鉢侍者禅師」宛「長尾弾正少弼入道(宗心を欠く)」書状写、258号 長尾景虎願文写)。



弘治2年(1556)8月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【27歳】


〔景虎、また越後国主に復帰する〕

国主不在の混乱に乗じ、甲州武田晴信(大膳大夫)に内応して越中国へ出奔した大熊備前守朝秀(越後国頸城郡板倉地域の箕冠城を本拠とするか)が、国内外に味方を募って越後攻略を企てるなか、姉婿の上田長尾越前守政景(越後国魚沼郡上田庄の坂戸城を本拠とする)から説得を受けると、17日、長尾政景へ宛てて書状を発し、何度も繰り返して言い古した通り、越後でのあらゆる物事に嫌気が差すなどしたこと、(長尾政景も)御存知の通り、(景虎は)病者であるといい、健気に世話をしてくれる者を持たないので、越州を立ち去って以来、一切の交渉と望郷の念を絶ったこと、久しく他国に滞留しているとはいえ、それに嫌気が差して(越後へ)下国したいとも思っていなかったこと、(景虎が)隠退に及ぼうとも、いまさら国衆に御厄介もないのではないかと思われ、この胸中に偽りはないとはいっても、貴所(政景)をはじめ、国中の面々の心積もり(景虎の復帰を企図)を無言で済ませてはおけないといい、それからまた、弓矢から道から逃げ出したように、どうあっても非難されるので、どれもこれも耳を傾けず、貴所(政景)の御意見に任せること、ここで申し述べた事柄に少しも偽りはないこと、(偽りあれば)日本大小神祇、八幡大菩薩、天満天神、氏神春日大明神の御罰を蒙るべきこと、(政景に対し)少しも隔心はないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』136号 長尾「景虎」書状【花押a3】 礼紙ウハ書「越前守殿 景虎」)。


これにより、法号の宗心を廃して俗名の景虎に復した(花押もa型に戻した)。



この間、大熊備前守朝秀は旧知である奥州会津の蘆名家の外様衆である山内刑部大輔舜通(三郎。陸奥国横田城を本拠とする
)に音信を通じて協力を求めると、13日、その山内舜通が、大熊備前守朝秀へ宛てて返状を発し、来書の通り、久しく交信が途絶えていたところ、このたび簡中が届いたので、満足極まりないこと、さらには(武田)晴信からの御音書も添えられていたので、ひたすら恐縮しており、このところを彼方(武田晴信)にも御伝達願いたいこと、越州乱入については、小田切安芸守(蘆名家に外様衆として属する。会津領越後国蒲原郡小川庄の石間城を本拠とする)が奔走する手筈は整っているそうであり、当方もかならず黒河(揚北衆の黒川下野守あるいは奥州会津蘆名盛氏か)と相談し合い、努めて奔走するつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『新潟県史 資料編5』3755号「大熊備前守殿」宛山内「舜通」書状写、3756号 長尾為景書状写)。



〔景虎、大熊朝秀を退ける〕

23日、越中口から立ち向かってきた大熊備前守朝秀を越中・越後国境の越後国駒帰(頸城郡)の地で打ち破った。

25日、戦功を挙げた上野中務丞家成(越後国魚沼郡波多岐庄上野の節黒城を本拠とする)に感状を与え、去る23日に越中口から大熊備前守(朝秀)以下が(越後国へ)乱入し、駒帰の一戦に折において、とりもなおさず奮闘されたのは、並外れていること、今後ますます心掛けられて、忠節を励まれるのが第一であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』137号 「上野中務丞殿」宛長尾「景虎」書状写)。


この結果、越後国奥郡に対する会津衆の策動も失敗に終わり、反乱の首謀者である大熊備前守朝秀は甲州に落ち延びて甲州武田家に仕えた。


※ もし、山内刑部大輔舜通と談合した「黒河」が、揚北衆の黒川下野守であるならば、数年後に幼い竹福丸が当主として所見されるため(『上越市史 上杉氏文書集一』211号 長尾景虎掟書写)、当主の座から降ろされた可能性がある。



弘治2年(1556)9月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【27歳】


このたび公田段銭を徴収すると、朔日、大熊備前守朝秀の退転後、新たに構成された公銭衆の某貞盛・庄田定賢(惣左衛門尉)・某秀家(蔵田五郎左衛門尉か)が、越後上郡国衆の山田彦三郎へ宛てて請取状を発し、頸城郡夷守郷河井村・同阿弥陀瀬村における益田分の段銭について、確かに受領したことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』138号「貞盛・(庄田)定賢・(蔵田ヵ)秀家」連署段銭請取状写)。


◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『新潟県史 資料編5 中世三』(新潟県)
◆『越後入廣瀬村編年史 中世編』(入廣瀬村)

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