越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(長尾景虎)の略譜 【10】

2012-08-30 19:06:28 | 上杉輝虎(謙信)の略譜

永禄2年(1559)4月8月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【30歳】

将軍足利義輝の還京祝儀および警護と称して上洛する。


4月15日、年寄の直江与右兵衛尉実綱(大身の旗本衆)が、将軍家奉公衆・大館上総介晴光の内衆である富森左京亮信盛へ宛てて書状(謹上書)を発し、このたびの弾正少弼(景虎)の参洛について、我等(直江実綱)のような陪臣までも尊書を拝閲したこと、こうした時宜を迎えたからには、ひたすら格別な御尽力を御頼みするほかないこと、何から何まで過分な御配慮に恐悦している旨を御披露願いたいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』164号「謹上 富森殿
」宛直江「右兵衛尉実綱」書状 封紙ウハ書「謹上 富森殿 直江 与右兵衛尉実綱」)。


21日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、このたび近江国坂本(滋賀郡。景虎一行の宿営地)に着津したのは、尤もであること、この上は早々に参洛するべきこと、万が一あれこれ非難する徒輩が現れたとしても、それ以上は異議を差し挟ませないように、厳重に申し付けるので、安心して参洛するべきこと、なお、詳細は使者の藤安(奉公衆の大館兵部少輔藤安。大館晴光の弟と伝わる)が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』165号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。


5月初頭、禁中の見物が許されたのち、庭上の御門(正親町天皇)から御盃を賜る。その後、大納言広橋国光から申次の速水右近大夫有益を通じ、兼ねてよりの叡慮(天皇即位式費用あるいは禁裏修理費用の献金についてか)の実現に尽くされれば、さぞかし御門も御感悦されるであろうことを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』166号 広橋国光書状)。


その後、坂本へ戻ると、摂関家の近衛家と名家の広橋家に使者の荻原掃部助(旗本衆)を派遣し、関白近衛前嗣に隼を贈る一方、蒐集したい歌書について問い合わせる。


15日、関白近衛前嗣が、坂本への使者を頼んだ知恩寺岌州(京都百万遍知恩寺の住持)へ書状を送り届け、先だって長尾弾正少弼(景虎)から並々ならない懇意を示され、ひたすら喜ばしい限りであること、只今、貴僧の許へ使いとして時秀(西洞院左兵衛督時秀。近衛家の門流)を差し下すこと、条々をしかるべく御伝達願いたいこと、(景虎は)歌道に執心のようで、ひときわ感心であると、太閤(近衛稙家。前嗣の父)が申していること、我等(近衛前嗣)にも相応の用件があるならば、何事でも尽力するつもりであること、諸事において長尾弾正少弼の頼もしい心積もりを、しばしば耳にしているので、どうにか拙者(近衛前嗣)も厚誼を深められるように、(景虎へ)取り成してもらえれば、本望であること、なお、詳細は時秀が申し述べること、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』176号 近衛前嗣書状 端見返しウハ書「知恩寺 (花押)」)。

同日、関白近衛前嗣が、知恩寺岌州に別紙をもって、先日は長尾弾正少弼(景虎)から隼一居を贈ってもらい、喜ばしい限りで、こよなく愛玩すること、この厚意には、ひたすら歓喜している旨を、(景虎へ)しかるべく御伝達願いたいこと、また、和歌懐紙については、先だって時秀から承ったこと、憚りながら悪筆を染めたので、この旨を(景虎へ)御伝え願いたいこと、返す返すも、隼を贈ってもらい、ひたすら満足している旨を取り成してもらいたいこと、先日も申した通り、弾正少弼(長尾景虎)のひときわ頼もしい覚悟については、しばしば耳にしており、是非とも会談したいこと、(景虎と)厚誼を結べるように、くれぐれも頼み入ること、なお、詳細は(知恩寺岌州と)対面の折に申し述べること、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』194号 近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「知恩寺 前」)。

同日、西洞院時秀が、大納言広橋国光の許へ書状を送り届け、今朝方、そちらに赴かれた荻原(掃部助)からの芳札を拝読したこと、長尾殿から御尋ねの歌書である三智抄については、御方御所様(近衛前嗣)に申し入れるも、そのような歌書を御方御所様は御所持されていないとの仰せであり、他家が御所持しているかどうかも御存知ないこと、いずれの方に御尋ねするべきか、御思案されていること、本来であれば参上して、こうした事情を直に(景虎へ)申し伝えるべきであるが、そちらから荻原掃部助殿に御伝達されてほしいことの仰せであること、御方御所様から長老(知恩寺岌州)に御書をもって仰せられるのは、先だって(景虎から)御鷹を進上された御礼であること、それから、(西洞院時秀が)先だって坂本に遣わされた折、(景虎から)申し入れられた御懐紙については、御方御所が整えられるので、長尾殿が受け取りに来られるようにとの仰せであり、このところを御承知されて、そちらに立ち寄られる長老へ御言伝を願いたいこと、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、先刻は三智抄を御所持されていないとの仰せであるも、明日にはこちらから各所に申し入れるので、このところを御承知してもらい、(荻原)掃部助殿へ御伝達を御頼みすることと、(西洞院時秀が)各所へ赴いて申し入れることを伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』167号 西洞院「時秀」書状 礼紙ウハ書「亜槐 床下 西洞院 時秀
」)。

改めて近衛家に使者を派遣すると、17日、西洞院時秀から書状が発せられ、先だって荻原掃部助が御使者として差し越されたこと、すぐさま承った趣旨を(近衛前嗣へ)披露に及んだので、このところを御理解してもらいたく、私より申し伝えること、御談合する用件があり、荻原掃部助を長逗留させていたこと、委細は御使者(荻原掃部助)が申し述べられること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』168号「長尾弾正少弼殿」宛西洞院「時秀」書状 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 西洞院 時秀」)。


24日、千五百名ほどの人数で再び入洛して将軍の許へ祗候すると、相伴衆(大名格)に処遇される。


6月上旬から中旬にかけて、将軍足利義輝や太閤近衛稙家・関白近衛前嗣父子と酒宴を催すなか、近衛前嗣が、知恩寺岌州に書状を送り届け、先日以降は機会を得られず、はやく御会いしたいこと、(知恩寺と)内々に御談合したいこと、心静かに長尾(景虎)の存意をひとつひとつ玩味できれば、一段と御祝着であること、なおさらいっそうに対面して語らいたいこと、それから、(景虎へ)拙者(近衛前嗣)の覚悟のほどを申し届けてくれたのかどうか気になっていること、(景虎の)是が非でもの頼もしき真情により、ひたすら頼み入りたいこと、先日も話した通り、どうしても(景虎と)直談したく、実現できるかどうか気になっていること、どうにか一日でも坂本において隠密に参会できればと考えており、それで了承してもらえるのかどうか、いつ頃に少弼(景虎)が坂本へ下向するのか、承りたいこと、少弼が近日中に坂本へ下向するのであれば、我等(近衛前嗣)は明日辺りに坂本へ下向して(景虎を)待つつもりであること、いかにも人目を忍び、従者を二名ほど召し連れて下向するつもりであること、様々な思いを申し述べたいこと、本日は公方(足利義輝)から、少弼が祇候するので、太閤(近衛植家)と我等にも参るように仰せられたこと、我等は昨晩にも、当邸に御出ましになられた公方と朝方まで大酒し、はなはだしい宿酔に苛まれているため、不本意ながらも見合わせるが、太閤は参上するそうであること、これまでも公方が当邸に御出ましになられるたびに酒宴を張り、数多の華やかな若衆を侍らし、大酒しては度々夜を明かしたこと、少弼は若衆数寄と聞いていること、昨晩も希望を申し伝えたが、わずかな時間であっても、ひたすら来会を念願していること、どうしても、(知恩寺には)適宜の取り成しを頼み入るばかりであり、明日ぐらいには坂本へ参って(景虎を)待つつもりなので、(景虎の)下向が何時ごろになるのか知らせてほしいこと、その折には、必ず(知恩寺は景虎に)同道してきてほしいこと、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』172号 近衛前嗣書状 端見返しウハ書「智恩寺 前」)。


それから程なくして、関白近衛前嗣の要望により、坂本で二人だけの密談に及ぶ。


6月11日、将軍足利義輝が、関白殿(近衛前嗣)の許へ起請文を送り届け、内密に景虎へ仰せ聞かされた条々については、一切他言しないことを神名に誓っている(『上越市史 上杉氏文書集一』173号「関白殿」宛足利「義」輝起請文)。

12日、将軍足利義輝が、関白近衛前嗣の許へ御内書を送り届け、景虎の存分は、たとえ領国を失っても、是が非でも忠節を励む意思を示していること、その揺るぎない覚悟は奇特であること、彼の密事については、(景虎の)下国に際して申し伝えること、そういうわけで、爰元(京都)に異変はないため、先ずは(景虎を)帰国させるのが相当であること、内々に(景虎へ)以上の趣旨を仰せ聞かせてもらいたいこと、これらを謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』174号 足利「義輝」御内書 礼紙ウハ書「関白殿 義輝」)。

将軍と景虎の結び付きを快く思わない勢力により、両者の間を妨げる風聞が流布すると、16日、将軍足利義輝が、大館上総介晴光へ宛てて御内書を渡し、長尾弾正少弼(景虎)に下国したほうが良いとする旨を、(足利義輝へ)言上して出させようとする一派がいる状況に、景虎が下国する決意したとの風聞が耳に入ったこと、すでに領国を捨てるのも厭わず、自ずから忠功を尽くす覚悟で上洛した事実に感嘆しているにもかかわらず、(景虎に)帰国を強制するなどとは、一切あり得ない分別であり、こうした風聞は始末が悪く、取り合うべきでないことを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』175号 「大館上総介とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 礼紙ウハ書「大館上総介とのへ」)。

この書状は景虎へ渡された。


吉日(21日)、関白近衛前嗣と血書した起請文を取り交わし、一、このたび長尾を一筋に頼み入り、遠国(関東)へ下向する約束に、いささかも偽りはないこと、一、少弼(景虎)と進退を共にし、決して心変わりしないこと、一、密事を他言しないこと、一、在京中に何かの折にでも(景虎から)頼みごとが寄せられた際には、あれこれ算段を尽くし、いささかも抜かりなく、一筋に奔走すること、一、これからまた讒言などがあったとしても、疑心暗鬼が生じないように、其方(景虎)の耳に入れて確認を取ること、一、(景虎への)信用を保ち続け、たとえ行き違いがあっても、決して遺恨を残さないこと、一、ここに挙げた条々を一事として偽らないこと、これらを神名に誓われている(『上越市史 上杉氏文書集一』186号「長尾弾正少弼とのへ」宛近衛「前嗣」血書起請文)。

22日、関白近衛前嗣から書状が送り届けられ、このたび坂本まで下向したところ、様々な懇意を示してもらい、その満足のほどは、紙面に書き表せないこと、昨日も直談した通り、こうして申し合わせたからには、景虎と進退を共にするつもりなので、今後ますます厚誼を深められれば本望であること、なおなお、詳細は知恩寺(岌州)の方から伝達すること、(西洞院)時秀をもって礼を申すこと、これら畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』189号 近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 前」)。

また別紙をもって、昨晩に見参したところ、様々な懇意を示してもらい、本望が達せられ、満足を得られたこと、格別な厚誼を頼み入るばかりであり、一筋に下向するからには、昨晩に申し述べた通り、(景虎の)与力同前に奔走する覚悟なので、諸事において気安く接してもらえれば、何にも増して喜ばしいこと、昨晩以後は愉快に酒が飲めるので、ひたすら好ましいこと、暇な時分にまた参会して雑談したいこと、委細は知恩寺へ悉く伝えて筆を置いたこと、これらを畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』187号 近衛前嗣書状 端見返しウハ書「長尾弾正少弼 とのへ 前」)。

同日、関白近衛前嗣から返書が送り届けられ、(景虎から)芳札が寄せられたので本望であること、このたびは直談を遂げられたので、実にめでたく喜ばしいこと、従って、(近衛前嗣の)下国の実現を一度でも申し合わせたからには、確かなものとする意思を(景虎から)示されたので、その頼もしい心中には、いくら考えても紙面には書き表せないこと、唯一無二に頼み入り、すでに血書した誓詞を固く取り交わしたからには、どのような避け難い事態に見舞われたとしても、誓詞紙面に違背したりはしないこと、しかしながら、最前から申している通り、我等(近衛前嗣)の下国が景虎の不利益になるとして、思い止まるように告げられるのであれば、諦めるほかないこと、此方(近衛前嗣)としては、もはや思案も尽きたので、是が非でも頼み入るのみであり、格別な厚誼を結びたい一心であること、返す返すも、心からの懇意に感謝するばかりであること、これらを畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』188号 近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 前」)。

将軍に召し出されると、26日、足利義輝から御内書が下され、裏書(書札礼)を免許するので、分別をつけて心得るべきこと、なお、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』177号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。

同日、大館晴光(上総介)から副状をもって、このたび裏書御免許の御内書が発せられたこと、さぞかし御面目が施されたであろうこと、よって、御分別をつけられるべきであり、その意味されるところは、三管領・御一族ばかりに御免許された御書礼であること、ここを十分に御心得られるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』178号「長尾弾正少弼殿 床下」宛大館「晴光」書状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 床下 大館上総介 晴光」)。

同日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、塗輿(乗輿)を免許するので、その旨を心得るべきこと、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』179号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。

同日、別紙において、今後の関東上杉五郎(憲政・憲当。号成悦)の処遇については、景虎の判断をもって取り計らうべきこと、なお、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』180号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。

同日、別紙において、甲・越一和については、これまで何度も晴信(甲州武田信玄)に下知を加えているにもかかわらず、一向に同心しないこと、その結果、分国境目に乱入を許すところとなり、はなはだ無念であること、甲軍と抗戦中の信濃国諸侍への援助については、景虎が差配するべきこと、なお、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』181号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。


このように裏書と塗輿を免許されて将軍家一族・三管領家と国持大名に準ずる特権及び、関東・信州平定の大義名分を与えられた。


同日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、このほど出羽国最上(最上郡)の山形孫三郎方(義守)より早道馬が献上されるので、分国中を滞りなく通行できるように便宜を頼み入ること、この事情については、関白殿(近衛前嗣)が御演説されること、なお、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』182号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。

その後、炎症を患い坂本で療養すると、29日、将軍足利義輝から御内書が下され、坂本滞在が長期に及んでおり、その後は腫物の症状が快復しているのかどうか、はなはだ心許ないので、そちらに左衛門佐(大館輝氏)を遣わすこと、なお、委細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』183号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。


同日、大館晴光から副状をもって、御患いの御見舞いとして、左衛門佐(大館輝氏)を遣わされたこと、ついでに、このたび大友新太郎(豊州大友義鎮)進上による鉄砲玉薬の調合法の書付一巻を御下賜されたので、さぞかし御面目が施されたであろうこと、 上意の趣旨を(大館)輝氏が詳述すること、委細は輝氏が申し述べること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』184号「長尾弾正少弼殿」宛大館「晴光」副状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 大館上総介 晴光」)。


こうして「鉄放薬之方并調合次第」を賜ると、幕臣の籾井某から口伝されている(『上越市史 上杉氏文書集一』185号 鉄砲薬之方并調合次第)。


それから間もなくして、太閤近衛稙家が、知恩寺岌州の許へ書状を送り届け、先日以降は御疎遠であること、当方の存分を弾正少弼(長尾景虎)に申し伝えてもらえたのかどうか気になっていること、一日しっかりと内談する意図により、(景虎は)去る26日に武家(将軍邸)へ召し出されて、めでたくも様々な面目を施されたこと、(近衛植家も)大いに舞台裏で駆け回ったこと、とにもかくにも直談に及びたいところ、酷暑の時分のために呼び寄せるのも憚られたので、先日は注進で済ませたこと、以前に(景虎と)約束した歌書の写本については、只今、見直したところ、誤写があったこと、修正して進呈するつもりなので、(知恩寺に)ちょっとばかり立ち寄ってもらいたいこと、(景虎に)御用があれば、何事でも承るつもりであること、とにかく速やかに手直しすること、いつ頃に(景虎は)下国するのかを承りたいこと、あれこれについて面談を期すること、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』170号 近衛植家書状 端見返しウハ書「知恩寺乃下 (花押)」)。

同じ頃、太閤近衛稙家から書状が発せられ、先日の武家における面談の実現には、(近衛植家も)本望を達せられたこと、種々の特典を得て御面目を施されたのは、めでたく喜ばしいこと、その会席の様子を詳しく承りたいので、(景虎の)都合が付けば、内々に直談したいこと、ひたすら御逗留中の再会を待ち望んでいること、これらを畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』169号 近衛植家書状 端見返しウハ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」)。

同じく太閤近衛稙家から書状が発せられ、先頃に書状をもって申した趣旨が伝わっているのかどうか気になっていること、久しく面談していないので、聞きたい事実が山ほどあること、近いうちの帰国が決まったようなので、ひたすら名残惜しいこと、悪筆ながら詠歌大概一冊を書写し終えたので、約束通り進呈すること、要望があれば、抜かりなく取り計らうこと、折り良く見つけた五合五合(五合五乖、書譜のことか)も進呈すること、これらを畏んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』171号 近衛植家書状 端見返しウハ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」)。


7月初頭、将軍足利義輝の取次へ宛てて条書を呈し、一、 亡父信濃入道(長尾為景)以来、 (将軍家から)御感を賜っており、 (足利義輝が)江州朽木(近江国高島郡朽木荘)の地に御動座中、何としてでも御帰洛に成就に奔走する覚悟でいたところ、信州張陣が打ち続き、ついに寸暇を得ず、何とかしたい一心でありながらも、少しの寄与もできなかったので、思い悩んでいたこと、一、御上洛の御祝儀として参上したところ、様々な恩典を賜り、身に余るほどの面目が施されたので、いよいよ身命を惜しまず、ひたすら忠信に励む覚悟であること、一、めでたく洛中が御静謐を取り戻した上は、このように申し述べるのは、まるで虚偽のように取り沙汰されるかも知れないところ、取り分け遠境ゆえに率いる人数も少ないため、余計な奔走は避けるべきであろうとも、ひたむきに忠信を励む絶え間ない決意のほどを、漏れなく上聞に達したいこと、このたびの参洛については、たとえ本国がどのような乱禍に見舞われたとしても、相応の御用等があって召し留められるにおいては、本国の一切を省みず、ひたすら上意様の御前を御守りする覚悟で臨んでいること、それは、すでに先月中旬、甲州(武田軍)に越国中を侵攻されても、御暇せずに今なお在京を続けている事実により、御理解して頂けるはずであること、一、泉州表の争乱については、各陣営に宿怨が渦巻いているのは勿論ながら、御畿内における事態であり、恐れながら御心配申し上げていること、これらを書いて伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』190号 長尾景虎書状案)。


同じ頃、関白近衛前嗣が、知恩寺岌州の許へ書状を送り届け、(近衛前嗣の)越後下向について、景虎から格別に奔走する旨を約束されたのは、いつもながら実に頼もしい心意気であり、紙面に書き表せないほどの主旨であること、しかしながら、すでに拙者(近衛前嗣)の越後下向については、景虎の同意を得て、互いに血書した誓詞を取り交わしているにもかかわらず、直江与兵衛尉(実綱)からの一札によると、様々な方面から抑留の働き掛けがあるそうで、拙者も今一度、思量するべきかどうか、近頃は困り果てていたところ、我等(近衛前嗣)の気の迷いで景虎に誓約を違えさせるなどもってのほかであり、そのような事態を招かないように気を引き締めていること、これまで何度も話したように、もはや我等は京都の不本意な有様に我慢がならず、日増しに下国への思いが募り、去る4月頃には西国へ密かに下向するつもりでいたこと、しかるところが両親を思い遣ると、8月までは離京に踏み切れず、無二の覚悟を決めていたつもりでも、世評は芳しくないばかりか、親命を疎かにできないため、下国の決行を延期していたところに、折り良く長尾(景虎)が上洛したこと、(景虎から)連綿と頼もしい意趣を聞かされたので、下国の件を打診したところ、快く同意してくれたこと、すでに(景虎と)血書した誓詞を取り交わして合意に至ったからには、何度も申し伝えた通り、どれほど離京し難い事情があろうとも、我等(近衛前嗣)から誓詞の趣旨を違えるなどは、一切あり得ないこと、取り分け我等(近衛前嗣)が誓詞の条項を示して頼み込んだ下国の申し合わせにもかかわらず、違背しない旨を約束した神慮を反故にするなどは、これまた微塵もあり得ないこと、当然ながら少弼(景虎)の方でも、誓詞を取り交わしたからには、たとえ貴命(上意)に反しても盟約を違えない旨を表明していること、そうであれば、先だって申し合わせた筋目を双方が違背しないのは確かであり、何があろうとも下国を果たすつもりなので、こうした筋目における(近衛前嗣の)覚悟のほどを、(知恩寺から)少弼へ申し伝えてほしいこと、そういうわけなので、このたびの下国は長尾を煩わせて困惑させる事態を招くゆえ、是が非でも延期するようにと促されたところで、少弼の意向でもあるため、考えを改めるつもりはないこと、そうは言ったところで、あるべき姿でない京都の現状に我慢がならず、たとえ他国に下向しようとも、何とか元通りにしたいとの思いに変わりなく、加えて少弼から格別に頼もしい意趣を聞かされたこと、そうした不変の思いを我等は危ぶんでいないこと、(景虎へ)こうした思いをしかるべく申し伝えてほしいこと、返す返すも、このたびの(景虎との)面談において様々な厚情を受け、ひたすら本望満足であること、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』195号 知恩寺岌州宛近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「知恩寺 前」)。

7月6日、関白近衛前嗣が、知恩寺岌州の許へ書状を送り届け、改めて一筆を認めたこと、南方(河内国)の情勢について変化があれば、少弼(長尾景虎)に知らせたく思い、事情通の会話を立ち聞きしたところ、得られた情報は不確実なものが多く、そうした情報までも軽々しく知らせては、却って(景虎の)迷惑になるため、確かな情報のみを知らせること、南方で対向する河州衆(河州畠山家中衆。昨年に当主の紀州畠山高政(尾張守。もとは紀伊国と河内国の守護を兼任した)は重臣の安見宗房と対立して紀伊国へ出奔した)と摂州衆(畠山高政を支援する三好長慶が率いる)は、昨5日に河州衆が先手を取って足軽を押し出すと、両軍は細道でせめぎあいとなり、混乱して後退しようとした摂州衆が手間取るところを河州衆が追撃したので、摂州衆に負傷者が続出したが、戦線を維持できないほどではないらしいこと、大和国については、もはや大半の国人が筑前守(三好長慶。当時は摂津国芥川城を本拠としていた)に味方してしまったのではないかと言われており、これも風聞とは異なる事実のようであること、和州衆は辰巳と超昇寺を中核とする軍勢のようだが、全くの無勢ゆえに脆弱であり、和州衆は筑前守(三好長慶)に味方したといっても、未だに人質を差し出していないため、この点が危ぶまれて将兵の動員が限られたそうであること、そればかりか、同じく河内の戦線に合力として派遣された布施や万歳などは、大和の情勢が不穏のため、急遽引き返したそうであること、しかし結局は何事もなかったようで、再び河州に発向したそうであること、以上の事実を耳にしたので、にわかに顚末を伝えたこと、しっかりと少弼へ知らせたいので、こうした要領を得ないままの情報を知らせても良いのかと思い悩んでおり、この旨をそなた(知恩寺)から(景虎へ)しかるべく説明してほしいこと、もしも異変があれば、申し伝えること、それから、畠山(高政)は思いのままに采配を振るえなかった不満により、すでに河州衆と秘密裡に和解したそうであること、くれぐれも異変があれば連絡するので、この書状を紛失しないでほしいこと、ここしばらく少弼へ無沙汰しており、細やかに音信を通じたいところ、却って煩雑になると思い、心ならずも時が過ぎてしまったので、この辺りの事情を十分に心得たうえで(景虎へ)申し伝えてほしいこと、詳細については(知恩寺と)対面した折に話すこと、せわしない有様ゆえ、どのような文面にしたら良いのか迷い、一方に偏った内容ばかりでは、あまりにも無分別なので、その点を御理解してほしいこと、この通り我等は今朝から用事で下京に居り、帰宅は夜更けになりそうなので、明日は上京に出掛けるゆえ、(知恩寺も)ちょっとこちらへ出向かれてもらいたいこと、あまりの慌しさに、この書状を立ったまま認める有様であったこと、(書状を)何れは火中に投じてほしいこと、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』196号 知恩寺岌州宛近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「知 床下 さ」)。

7日、関白近衛前嗣が、知恩寺岌州の許へ書状を送り届け、少弼(長尾景虎)からの芳札を披読したこと、何とか我等(近衛前嗣)が昨日送った書状の最後に、せわしない有様なので詳細を書き表せなかったと記した状況を案じ、わざわざ(景虎が)書状を寄越されたのは、実に頼もしい心根であり、容易く言葉にできないほどであること、下国については、ここまで気運が高まったからには、いささかも決意は揺るがないこと、昨日の件とも異なる事情ではないため、万一にも我等の身上などを気遣われる必要は全くないこと、ちょっとした田舎から禁裏に呈する事柄があり、それを談合するために下京まで出掛けたところ、連歌会が催されており、自分も座敷に呼ばれたこと、(景虎への)返事と其方(知恩寺)への書状を整えたものの、あれやこれや慌しく、そうした状況は書状の最後に記した通りであること、こちらの様子を知らせたいと思いながらも、このように慌しい状況ではままならず、書状の体裁をなしていないのは自覚していること、このほか別条はないが、却って少弼に気を遣わせてしまい、気が咎めて困惑しており、(近衛前嗣に)成り代わって謝意を然るべきように申し伝えてもらいたいこと、ひたすらに公方(足利義輝)とちょうど文を交わした時には、(景虎の)内に秘めた頼もしい心掛けについて、物語りされたこと、返す返すも(景虎に気を遣わせるなど)あってはならなかったこと、くれぐれも却って少弼に気を遣わせては、気が咎めてならないこと、出来るだけ早く支障がないように存意を少弼へ申し下されてたいこと、詳細については面述すること、ここしばらく無沙汰していた非礼を少弼へ十分に詫びておいてもらいたいこと、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』197号 知恩寺岌州宛近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「知恩寺 前」)。


14日、関白の越後下向の風聞に接した将軍足利義輝から御内書が発せられ、近衛殿が越後国まで御下向するつもりであるとの風聞を耳にしたこと、もしそれが事実ならば、御即位(永禄三年正月に挙行される御門の即位式)が予定されるため、(近衛前嗣は)当職(関白)であるのだから、その不在は適切ではないこと、御即位後に下国されるならば、やむを得ないこと、なお、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』191号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、大館晴光から副状が発せられ、近衛殿様が越後国まで御下向されるとの風聞が流れており、もしそれが事実であるならば、現状においては不適切との思召しであること、その子細は、御即位が予定されており、近衛殿様は御当職であられるので、取り敢えずは御延引してほしいとの仰せであること、その旨を御理解して、御下向を思い止まらせられるように、是非とも御分別してほしいとの仰せであり、こうして 御内書を認められたこと、貴所(景虎)が御下国されるのは、いつ頃であるのか、一昨日に申し伝えた通り、あらかじめ念入りに御暇を申し上げてもらいたいこと、よって、これらを使者の富森小四郎(大館氏の内衆。富森左京亮信盛の子か)が詳述することを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』192号「長尾弾正少弼殿」宛大館「晴光」副状 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 大館上総介 晴光」)。


これを受けて将軍へ請文を呈し、近衛殿様の越後国下向については、そのような事実を一切存じ上げないこと、しかしながら、(近衛前嗣から)強いて御頼みを 仰せになられた場合は、明確な拒否も御下向の御延期を勧めるのも、拙者(景虎)が(近衛前嗣へ)申し述べるのは難儀であること、たとえこれにより上意(足利義輝)の御勘気を蒙ったとしても、この節義を疎かにはできないこと、不相応にも上意御近辺の面々に御不義を働く方が大勢いるといった残念な現況においては、近衛殿様の御下向の御供をしたところで、拙夫(景虎)の過ちではないかとの考えから、近衛殿様御下向の事実を一切存じ上げないと申し上げたまでであること、このように申し開きをした(『上越市史 上杉氏文書集一』193号 長尾景虎請文案)。


当の関白近衛前嗣は、下国の意思は堅いものの、取り分け将軍足利義輝と自分の間で板挟みになっている景虎へ配慮し、御門即位式の大典を無事に終えるまでは、やむを得ず京都に留まることを決断している。


8月中には帰国の途に就いた。


この上洛中、甲州武田軍が越後国へ侵攻している。
 

※ 無日付の文書については、谷口研語氏の著書である『流浪の戦国貴族近衛前久 天下一統に翻弄された生涯』(中公新書)と池享、矢田俊文両氏の編著である『定本上杉謙信』(高志書院)から、小林健彦氏の論考である「謙信と朝廷・公家衆」を参考にして引用した。



永禄2年(1559)10月11月 長尾景虎(弾正少弼) 【30歳】

10月28日、国内の諸領主から祝儀(関東管領就任の将軍認可を得て京都から帰国した祝いとされるが、本当のところは分からない)の太刀を献上される(『上越市史 上杉氏文書集二』3542号)。

〔侍衆御太刀之次第〕

【直太刀之衆】
 
古志ノ十郎殿(上杉政虎期の永禄4年に見える古志長尾右京亮景信であろう。古志郡司長尾氏の系譜。越後国古志郡の栖吉城主) 
桃井殿(永禄3年に桃井右馬助義孝であろう。長尾景虎期の永禄4年には伊豆守を称しているから、上杉定実・長尾為景期の享禄4年に見える前上杉家の譜代衆・桃井伊豆守義孝の子であろう。足利氏支族桃井氏の系譜) 
山本寺殿(上杉政虎期の永禄4年から山本寺伊予守定長が見える。定長は、上杉定実・長尾為景期の天文初年に見える前上杉家の一家衆・山本寺陸奥守定種の子であろう。母は長尾為景の娘か。越後国頸城郡の不動山城主)


何らかの事情により、祝儀に参加しなかった、この頃の越後国長尾家の一家衆にあたる領主に、上条上杉氏(越後国刈羽郡の上条城主)、山浦上杉氏(同蒲原郡の篠岡城主)がいる。

【披露太刀之衆】
 
中条殿(外様衆・中条越前守。実名は房資、次いで景資を名乗ったらしい。越後国蒲原郡の鳥坂城主) 
本庄殿(同本庄弥次郎繁長。越後国瀬波(岩船)郡の村上城主)
 
石川殿(謙信期の元亀4年に石川中務少輔が見える。この中務少輔は、長尾為景が一族を入嗣させた可能性のある前上杉家の譜代衆・石川新九郎景重の子か) 
色部殿(外様衆・色部修理進勝長。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主) 
千坂殿(天文18年にみえる千坂対馬守か。この対馬守は、前上杉家の譜代衆・千坂藤右衛門尉景長の子あるいは同一人と思われる。越後国蒲原郡の鉢盛城主か)
長尾越前守殿(上田長尾政景。関東管領山内上杉氏の家領である越後国魚沼郡上田荘代官の系譜。景虎の姉婿。越後国魚沼郡の坂戸城主)
斎藤下野守殿(前上杉家の譜代衆・斎藤朝信。越後国刈羽郡の赤田城主)
 
毛利弥九郎殿(前上杉家の譜代衆・安田毛利越中守景元の子。実名は景広か。あるいは仮名の弥九郎は誤記か改竄で、景元の次男である安田惣八郎(のち顕元)に当たるか。越後国蒲原郡の安田城主) 
長尾遠江守殿(下田長尾藤景。関東管領山内上杉氏の家領である越後国蒲原郡下田郷代官の系譜。越後国蒲原郡の下田(高)城主) 
柿崎和泉守殿(前上杉家の譜代衆・柿崎景家。越後国頸城郡の柿崎城主) 
琵琶嶋殿(長尾為景に没落させられた上杉一族の琵琶嶋氏に代わって台頭した柏崎氏か。越後国刈羽郡の琵琶嶋城主) 
長尾源五郎殿(景虎の近親者か)
 
加地殿(上杉定実・長尾為景期の享禄4年に見える外様衆・加地安芸守春綱か。上杉輝虎期の永禄末年から加地彦次郎が見える。越後国蒲原郡の加地城主) 
竹俣殿(外様衆・竹俣三河守慶綱。越後国蒲原郡の竹俣城主) 
大川殿(外様衆・大川駿河守忠秀か。上杉輝虎期の永禄12年に大川三郎次郎長秀が見える。越後国瀬波(岩船)郡の藤懸(府屋)城主)
長尾右衛門尉殿(一右衛門尉か。下田長尾遠江守藤景の弟か) 
相川殿(外様衆・鮎川摂津守清長(岳椿斎元張)あるいは世子の鮎川孫次郎盛長か。そうであれば越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城主) 
仁科清蔵殿(江戸期の米沢藩主・上杉定勝の時代に見える人物なので竄入の可能性があろう。あるいは音が似る菅名源三か。菅名氏であれば、越後国蒲原郡の菅名城主) 
平賀殿(外様衆・平賀左京亮重資。越後国蒲原郡の護摩堂城主) 
安田新八郎殿(外様衆・安田治部少輔長秀あるいは世子の治部少輔か。謙信期の天正3年に見える外様衆の安田新太郎堅親は、大身の旗本衆・河田長親の弟。越後国蒲原郡の安田城主) 
竹俣平太郎殿(天文年間に一旦没落した筑後守系の外様衆・竹俣氏か。謙信期の天正3年の譜代衆に竹俣小太郎が見える) 
吉江殿(前上杉家の譜代衆・吉江中務丞忠景か。忠景は上杉政虎期の永禄4年には旗本衆として見える。越後国蒲原郡の吉江城主か) 
甘糟近江守殿(前上杉家の譜代衆・甘糟長重。越後国山東(西古志)郡の枡形城主あるいは同国蒲原郡の村松城将か) 
水原小太郎殿(上杉輝虎期の永禄末年に外様衆・水原蔵人丞が見える。越後国蒲原郡の水原城主) 
下条殿(外様衆・下条薩摩守実頼か。謙信期の天正3年に見える外様衆・下条采女正忠親は、大身の旗本衆・河田長親の弟。越後国蒲原郡の下条城主) 
大関殿(前上杉家の譜代衆・大関阿波守盛憲か。謙信期の天正2年に大関弥七郎親憲が見える) 
荒川殿(外様衆・荒川伊豆守長実か。謙信期の天正3年に荒川弥次郎が見える) 
唐崎殿(不詳) 
桐沢殿(上田長尾氏の被官・桐沢氏がいる。ここに陪臣が見えるのは不自然なので、誤記か改竄であろう) 
大崎殿(不詳) 
有留弥七郎殿(不詳) 
計見出雲守殿(前上杉家の譜代衆) 
野路弥左衛門尉殿(天正年間後期の赤田斎藤氏の家中に野呂氏が見える。こののち斎藤氏に吸収されたのか) 
計見与十郎殿(出雲守の世子か) 
毛利丹後守殿(前上杉家の譜代衆・北条高広。越後国刈羽郡の北条城主) 
長井丹波守殿(上杉景勝の時代に、甲斐国出身の長井丹波守昌秀が見えるので、誤記か改竄であろう) 
村山平次郎殿(永禄2年の景虎の上洛に譜代衆・村山善左衛門尉慶綱が従っている。この慶綱は、前上杉家の譜代衆・山岸隼人佑の次男。越後国頸城郡の徳合城主)
大崎九郎左衛門尉(謙信次代の上杉景勝の時代に見える人物なので、誤記か改竄の可能性がある)

何らかの事情により、祝儀に参加しなかった、この頃の越後国長尾家の外様衆・譜代衆にあたる領主に、黒川氏(外様衆・黒川竹福丸。上杉輝虎期の永禄10年には元服して四郎次郎平政と名乗る。越後国蒲原郡の黒川城主)・新発田氏(外様衆・新発田尾張守忠敦。越後国蒲原郡の新発田城主)・五十公野氏(上杉定実・長尾為景期の享禄4年に外様衆・五十公野弥三郎景家が見える。上杉輝虎期の永禄9年見える五十公野玄蕃允は景家の後身か次代であろう。越後国蒲原郡の五十公野城主)・菅名氏(謙信期の天正3年に外様衆・菅名源三が見える。越後国蒲原郡の菅名城主)・新津氏(謙信期の元亀4年から外様衆・新津大膳亮が見える。越後国蒲原郡の新津城主)・飯田氏(外様衆・飯田与七郎。のちに山吉氏の与力に配される)、御屋敷長尾氏(譜代衆・長尾小四郎景直。景虎の近親者)・平子氏(譜代衆・平子孫太郎。上杉輝虎期の永禄11年から若狭守として見える。越後国魚沼郡の薭生城主)・宇佐美氏(譜代衆・宇佐美駿河守定満。上杉輝虎期の永禄11年に平八郎が見える。越後国魚沼郡の真板平城主か)・上野氏(譜代衆・上野中務丞家成。越後国魚沼郡の節黒城主)・福王寺氏(譜代衆・福王寺兵部少輔。実名は重綱、孝重などと定まらない。越後国魚沼郡の下倉山城主)・善根氏(譜代衆・善根毛利氏。越後国刈羽郡の善根城主)・小国氏(上杉輝虎期の永禄11年に譜代衆・小国刑部少輔が見える。越後国蒲原郡の天神山城主)・山岸氏(上杉輝虎期の永禄8年に譜代衆・山岸隼人佑が見える。越後国蒲原郡の黒瀧城主)・志駄氏(上杉政虎期の永禄4年に譜代衆・志駄源四郎が戦死したのちは、直江氏に吸収される。越後国山東(西古志)郡の夏戸城主)・力丸氏(譜代衆・力丸中務少輔。のちに松本氏の与力に配される。越後国山東(西古志)郡の根小屋城主)などがいる。


11月朔日、旗本衆から祝儀の太刀を献上される。

【御馬廻年寄分之衆】
 
若林方(謙信期の天正2年に若林九郎左衛門尉家吉が見える) 
山村方(天文17年に見える山村右京亮か。越後国頸城郡の青木城主か) 
諏訪方(上杉輝虎期の永禄11年に諏方左近允が見える) 
山吉方(上杉輝虎期の永禄9年に山吉孫次郎豊守が見える。兄の山吉孫四郎(実名は景久であろう)は永禄元年に早世している。越後国蒲原郡の三条城主) 
相浦方(謙信(上杉輝虎)死去の直後に相浦主計助が見える) 
松本方(大学助か。上杉輝虎期の永禄9年に松本石見守景繁が見える。越後国山東(西古志)郡の小木(荻)城主) 
荻田方(与三右衛門尉か。天正5年に上杉謙信から長の一字を付与された荻田孫十郎長繁の父と兄がどちらも与三右衛門尉を称しており、どちらかに当たるであろう) 
庄田方(もとは古志長尾氏被官の庄田惣左衛門尉定賢)

何らかの事情により、祝儀に参加しなかった、この頃の景虎の旗本衆に、直江与右兵衛尉実綱(越後国山東(西古志)郡の与板城主)・吉江織部佑景資(古志長尾家被官吉江氏の系譜)・荻原掃部助・金津新右兵衛尉(景虎の乳母夫と伝わる)・本庄新左衛門尉(本庄実乃(号宗緩)の子。越後国古志郡の栃尾城主)・三潴出羽守長政(越後国蒲原郡の中目城主)・新保清左衛門尉秀種・本田右近允(実名は長定か)・野島平次左衛門尉・小越平左衛門尉(もと古志長尾氏被官。のちに景虎の寵臣である河田豊前守長親に附属される)・山田修理亮長秀(小越平左衛門尉と同じく河田長親に配される)・秋山氏・飯田氏・五十嵐氏・小野氏・河隅氏・小嶋氏・小林氏・高梨氏・塚本氏・林氏・平林氏・村田氏・吉田氏・吉益氏などがいる。


※ 金覆輪の太刀を献上した大身の侍衆は紫字で示した。それから、補筆と入道衆については、疑わしいので除外した。



永禄2年(1559)12月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【30歳】

先の上洛中に将軍足利義輝から相伴衆に処遇されたことなどにより、大名並みの家格を得たので、国内に於ける権威が上昇し、この頃より、有力領主(前上杉氏譜代衆)の長尾遠江守藤景・斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条丹後守高広を年寄衆として政務に参画させる(『上越市史 上杉氏文書集一』200号 長尾藤景等四名連署状写)。


※ この景虎の権威上昇 、有力国衆の政務参画については、片桐昭彦氏の論集である『戦国期発給文書の研究 ― 印判・感状・制札と権力 ―』(高志書院)の「長尾景虎(上杉輝虎)の権力確立と発給文書」に依拠した。



『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 越後国上杉輝虎(長尾景虎)... | トップ | 越後国上杉輝虎(長尾景虎)... »

コメントを投稿

上杉輝虎(謙信)の略譜」カテゴリの最新記事