永禄2年(1559)4月~8月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【30歳】
〔景虎、昨年に帰洛した足利義輝への祝儀および警護と称して上洛する〕
4月15日、上洛に同行した最側近の直江与右兵衛尉実綱が、将軍家奉公衆の大館上総介晴光の内衆である富森左京亮信盛へ宛てて書状(謹上書)を発し、弾正少弼(景虎)の参洛について、我等(直江実綱)のような陪臣までも尊書を拝閲したこと、こうした時宜を得たので、格別な御世話を、ひとえに御頼み入る以外にはないこと、何から何まで過分な配慮などに恐縮しているのは言うまでもないくだりを、御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』164号「謹上 富森殿」宛直江「右兵衛尉実綱」書状 封紙ウハ書「謹上 富森殿 直江 与右兵衛尉実綱」)。
21日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、(近江国滋賀郡)坂本に至って着津したそうであり、相当であること、早々に参洛するのが肝心であること、万が一(景虎の参洛に)あれこれ(異議を)言い立てる徒輩が現れたとしても、二度と異論を唱えさせないこと、堅く申し付けるにより、その旨を理解してほしいこと、なお、(詳細は使者の大館兵部少輔)藤安が申し届けものであること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』165号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。
景虎一行は、近江国坂本を宿営地とした。
大館藤安は、奉公衆の大館陸奥守晴光の弟と伝わる。
5月初頭、禁中の見物が許されたのち、庭上の御門(正親町天皇)から御盃を賜る。それから、御門から景虎へ叡慮(天皇即位式費用あるいは禁裏修理費用の献金)が下されたのに伴い、大納言広橋国光から祖印侍者へ書状が届けられ、この間は懇ろに拝顔を遂げ、恐れ多い思いであったこと、たびたび御意を得たこと、長尾景虎が幸いにも在京したので、禁中見物した様であると、仰せ聞かされたのは、相当であると思うこと、そのついでをもって、庭上において、 御盃を下されたこと、兼ねてまた、内々に叡慮として仰せ出された間の事柄を、(景虎が)かならず御奔走をなされるのならば、間違いなく、 (御門は)御感心するであろうこと、なお、(詳細は)速水右近大夫(有益)が申し入れるわけであり、言上させること、これらを畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』166号 祖印侍者宛広橋国光書状【礼紙ウハ書「祖印 侍者御中 (広橋国光花押)」
この書状は、広橋有益の申次である速水有益から景虎へ渡された。
〔景虎、近衛前嗣の知己を得る〕
15日、関白近衛前嗣は、坂本への使者を頼んだ知恩寺岌州(京都百万遍知恩寺の住持)へ書状を送り届け、先頃は長尾弾正少弼(景虎)が懇意を示してくれたのは、何より祝着の極みであること、ただ今、(知恩寺岌州の所へ)使者として時秀(西洞院左兵衛督時秀。近衛家の門流)を差し下したこと、条々を適当に御伝達を頼み入ること、それからまた、(景虎は)歌道に執心のようであり、ひときわ感心であると、太閤(近衛稙家。前嗣の父)が申しているとのこと、我等(近衛前嗣)にもしも用件があるならば、わずかな疎意もなく事に当たるつもりであること、何事によらず長尾弾正少弼には頼もしい志があると、しばしば聞き及んでいるにより、是非とも拙者(前嗣)と入魂の間柄となってもらえるるように、(景虎へ)取り成してもらえれば、本望であること、なお、(詳細は)時秀が申し述べること、これらを畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』176号 近衛前嗣書状 端見返しウハ書「知恩寺 (花押)」)。
同日、関白近衛前嗣は、知恩寺岌州に別紙をもって、先日は長尾弾正少弼(景虎)から隼一居を贈ってもらい、祝着の極みであること、こよなく愛玩するのみであること、(景虎からの)懇志には、ひたすら喜悦している趣を、(景虎へ)適当な御伝達を頼み入ること、それからまた、和歌懐紙に関しては、数日前に(西洞院)時秀をもって承ったこと、憚りながら悪筆を染めたこと、この次第を(景虎へ)伝えられてほしいこと、返す返すも、(景虎から)隼を贈ってもらい、祝着に思っているところを、(景虎へ)取り成しを頼みたいこと、数日前にも申し伝えた通り、弾正少弼(長尾景虎)の一段と頼もしい覚悟の次第を、しばしば聞き及んでいるので、是非とも語り合いたいこと、(景虎と)入魂の間柄となれるように、くれぐれも頼み入ること、なお、(詳細は知恩寺岌州と)面上をもって申し述べること、これらを畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』194号 近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「知恩寺 前」)。
同日、西洞院時秀が、大納言広橋国光の許へ書状を送り届け、今朝方に荻原(掃部助。景虎側近)の芳札を拝読したこと、とりもなおさず、(景虎が問い合わせをした歌書の)三智抄に関しては、(近衛前嗣)へ申し入れたところ、そのような歌書を御所持していないと、仰せられていること、もしかしたら、他家が御所持しているかどうかも、御存知ではないこと、いずれの方へ御尋ねするべきか、(考えていると)仰っていること、当然ながら(広橋国光の所へ)参上して、申し入れるべきではあるところ、これらの趣は、(西洞院時秀から)荻原掃部助殿へ御伝達してほしいこと、それからまた、御方御所様(前嗣)から長老(知恩寺岌州)へ御書をもって仰せられること、先頃の(景虎による)御鷹進上の御礼であられること、従って、(時秀が)先頃に坂本にて(景虎から)求められた御懐紙は、御方御所様へ申し入れて差し上げるので、長尾殿が(受け取りに)来られるべきとのこと、このところを御承知して、長老(岌州)へ御言伝してほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、先刻の三智抄は御所持していないと、(前嗣は)仰せられていること、それぞれへなおも、明日にこちらから申し入れるので、このところを御承知してもらって、(荻原)掃部助殿へ御伝達を頼み入ること、(時秀が)それぞれへ赴いて申し入れること、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』167号 西洞院「時秀」書状 礼紙ウハ書「亜槐 床下 西洞院 時秀」)。
〔景虎、西洞院時秀の許へ再び荻原掃部助を派遣する〕
17日、西洞院時秀から返状が発せられ、荻原掃部助を御使いとして差し越されたこと、とりもなおさず、承った様態などを(近衛前嗣へ)披露を致したこと、(前嗣が)御承知致されたところを、私(西洞院時秀)から申し届けるわけであること、それについて御談合する用件があるため、荻原掃部助には長逗留してもらうこと、委細は(近衛家の)御使いが申し述べられること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』168号「長尾弾正少弼殿」宛西洞院「時秀」書状 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 西洞院 時秀」)。
〔景虎、御相伴衆に列する〕
24日、千五百名ほどの人数で再び入洛して将軍足利義輝の許へ祗候すると、御相伴衆(大名格)に処遇された。
6月上旬から中旬にかけて、将軍足利義輝や太閤近衛稙家・関白近衛前嗣父子と酒宴を催すなか、近衛前嗣が、知恩寺岌州に書状を送り届け、先日の以後は、(機会がなかったので)御会いしたいこと、よって、(知恩寺と)内々に御物語りしたいこと、長尾(景虎)の存分の趣を、心静かにどれもこれも玩味できたならば、一段と御祝着の事柄であること、なおもって、対面して語らいたいこと、次ぎに(景虎へ)拙者(近衛前嗣)の覚悟のほどを申し届けてくだされたのであろうか、(景虎は)どうあっても頼もしき心底であるにより、ひとえに頼み入りたいこと、先日も話したように、(景虎と)直談をしたいこと、どのようにあるべきか、一日でもしっかりと坂本にて隠密をもって参会したいわけであると申し届けたこと、その程度であろうか、いつ頃に少弼(景虎)は坂本へ下向するのか、承りたいこと、近日中に少弼が坂本へ下向するのであれば、我等(前嗣)は明日辺りに(坂本へ)下向し、(景虎を)待つつもりであること、いかにも人目を忍んで、(従者を)ひとりふたり召し連れて下向するつもりであること、条々を申し述べたい考えであること、また、今日は少弼(景虎)が公方(足利義輝)の所へ祇候するそうで、太閤(近衛植家)にも我等にも参るようにと、公方から仰せられるも、我等(前嗣)は、昨晩にも(足利義輝が近衛邸に)御出ましになって、(一緒に)夜明けまで大酒してしまい、ひどい宿酔であるので、(参らなければならないと)思いながらも参加を見合わせること、太閤は参る考えであること、これまでの間も(義輝が近衛邸へ)たびたび御出ましになって、美しく細身の若衆を数多侍らし、大酒したものであって、たびたび夜を明かしたこと、少弼は若文字数寄であるらしいと聞き及んでいること、昨晩も申し出たものであったこと、何とかしてちょっとでも来臨するように、念願するものであるとのこと、なおなお、(知恩寺には)適当な取り成しを頼み入る以外にないこと、明日ぐらいには坂本へ参って、(景虎を)待つつもりであること、(景虎は)いつ頃に下向するのか、(景虎の下向の折には知恩寺は)かならずかならず同道してきてほしいこと、これらを畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』172号 近衛前嗣書状 端見返しウハ書「智恩寺 前」)。
それから程なくして、関白近衛前嗣の要望により、坂本で二人だけの密談に及ぶ。
〔景虎、近衛前嗣と密事を企てる〕
6月11日、将軍足利義輝は、関白近衛前嗣の許へ起請文を送り届け、密々をもって(景虎へ)仰せ聞かされるべき条々は、一切他言しないこと、万が一偽るにおいては、 日本国中の大小神祇、わけても八幡大菩薩・住吉玉津嶋明神、殊には春日大明神の御罸を蒙るものであること、よって、起請文に記した通りであること、これらを誓約している(『上越市史 上杉氏文書集一』173号「関白殿」宛足利「義」輝起請文)。
12日、将軍足利義輝は、関白近衛前嗣の許へ御内書を送り届け、景虎の存分は、たとえ領国を失おうとも、是が非でも忠節を励むべきの旨を、大切とする覚悟を示していること、よって、彼の密事に関しては、(景虎の)下国の折に申し出だすこと、されば、爰元(京都)に異変はないにより、まずは(景虎を)帰国させるのが相当であること、内々に(前嗣から景虎へ)これらの趣を仰せ聞かせられるべきこと、これらを謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』174号 足利「義輝」御内書 礼紙ウハ書「関白殿 義輝」)。
将軍と景虎の結び付きを快く思わない勢力により、両者の間を妨げる風聞が流布すると、16日、将軍足利義輝は、大館上総介晴光に御内書を渡し、長尾弾正少弼(景虎)は下国するのが相当である旨を、(足利義輝に)申し出させようとする一派がいる有り様に、景虎は下国致したいとの覚悟であろうかと、話題に上っていること、すでに(景虎は)領国を捨てるのも厭わず、自ずから忠功をも尽くすとの心積もりにて上洛したので、(この事実に)感じ入っているところ、(景虎に)下国するようにと、強制するのは、一切あり得ない分別であること、こうした物の言い方の風聞は始末が悪いこと、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』175号 「大館上総介とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 礼紙ウハ書「大館上総介とのへ」)。
この書状は景虎へ渡された。
〔景虎、近衛前嗣と起請文を取り交わす〕
吉日(21日)、関白近衛前嗣と血書した起請文を取り交わし、起請文の事、一、右は、このたび長尾を一筋に頼み入り、遠国(関東)へ下向する盟約に、いささかも偽りはない事、一、少弼(景虎)と進退を共にし、心変わりはしない事、一、密事を他言しない事、一、いずれ在京中にも(景虎から)頼みごとが寄せられた折には、才覚の及ぶ限り、一筋に疎意なく、奔走するつもりである事、一、もしまたこれから先に風評などが立つ事態にでもなったならば、不善や不審な事柄は、其方(景虎)の耳に入れて確認を取る事、一、(景虎に対し)心中にさえ疎略なきにおいては、万が一無礼した場合でも、遺恨を残さないであろう事、一、一事たりとも、右の趣に虚言があるにおいては、諸神、殊には氏神の御罰を蒙るものであること、よって、起請文に記した通りであること、これらを誓約している(『上越市史 上杉氏文書集一』186号「長尾弾正少弼とのへ」宛近衛「前嗣」血書起請文)。
22日、関白近衛前嗣から書状が送り届けられ、このたび坂本に至って下向したところ、色々と給わった懇意の次第は、誠に紙面には書き尽くせないこと、昨日も直談し、このように申し合わせたからには、景虎と進退を共にするつもりなので、わけてもいよいよ入魂の間柄となれれば本望であること、なおなお、詳しくは知恩寺(岌州)の方から伝達があること、礼のために(西洞院)時秀をもって申し述べること、これら畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』189号 近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 前」)。
また別紙をもって、昨晩に見参し、一つひとつ給わった懇意の次第は、本望の極みで、満足そのものであること、わけても入魂の間柄となるのを頼み入るばかりであること、一筋に下向するからには、昨晩に申し述べた通り、(景虎の)与力同前となる覚悟であるので、諸事に気安く接してもらえれば、何よりもって喜悦であること、ひいては昨晩以後は愉快に酒が飲めるわけであり、ひたすら待ち遠しいこと、暇な時分にまた参会し、雑談致したいこと、委細は知恩寺まで余すところなく申し述べたにより、筆を擱くこと、これらを畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』187号 近衛前嗣書状 端見返しウハ書「長尾弾正少弼 とのへ 前」)。
同日、関白近衛前嗣から返状が送り届けられ、(景虎からの)芳札は本望であること、誠にこのたびは直談に及び祝着であること、よって、(近衛前嗣の)下国の件を、一度でも申し合わせたからには、確かなものとする意思を示されたわけであり、その頼もしい心中は、言えたとしても紙面には書き尽くせない次第であること、唯一無二に頼み入り、すでに身血をもって書いた誓紙を申し交わしたので、どのような避け難い事態に見舞われようとも、誓詞の紙面に背いたりはしないこと、そうではあっても、最前から申し述べている通り、景虎のためには好ましくない事柄であるので、我等(近衛前嗣)の下国の挙行を、思い留まった方が良いと言うのであるについては、(諦めるほか)仕方がないこと、此方(近衛前嗣)からは、思案も尽きたこと、是非とも頼み入るまでであるにより、わけても入魂の間柄となるのが第一であること、返す返すも、(景虎の)懇切の心底は、ありがたき次第であること、これらを畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』188号 近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 前」)。
〔景虎、将軍から将軍家一族・三管領と国持大名に準じた栄典を賜る〕
将軍足利義輝に召し出されると、26日、御内書が下され、裏書(書札礼の一つ)の使用を免許するにより、道理を弁えて、その旨を心得るべきこと、なお、(詳細は大館)晴光が申し届けること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』177号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。
同日、大館晴光(上総介)から副状を渡され、裏書御免許の件について、 (足利義輝が)御内書を書き記されたこと、誠に御面目の極みであろうこと、されば、御分別を弁えられるべきであると、(御内書の)御文言は、三管領・御一族ばかりへ許された御書礼の名誉であること、そこを御心得になるのが肝心であること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』178号「長尾弾正少弼殿 床下」宛大館「晴光」書状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 床下 大館上総介 晴光」)。
同日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、塗輿(乗輿)を免許するにより、その旨を心得るべきこと、なお、(詳細は大館)晴光が申し届けること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』179号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。
〔景虎、将軍から関東・信州経略の大義名分を認められる〕
同日、別紙において、関東上杉五郎(憲政・憲当。号成悦)の処遇に関して、これからどのようにするかは景虎の分別をもって意見し、世話をするのが肝心であること、なお、(詳細は大館)晴光が申し届けること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』180号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。
同日、別紙において、甲・越一和に関しては、これまで何度も晴信(甲州武田信玄)に対して下知を加えたとはいえ、同意はなく、結局は分国境目に乱入したわけであり、どうしようもないこと、されば、信濃国諸侍に関しては、弓矢の真っ只中であるそうなので、始末をつけるために景虎が意見を加えるのが肝心であること、なお、(詳細は大館)晴光が申し届けること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』181号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。
同日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、このほど出羽国最上(最上郡)の山形孫三郎かた(最上義守)から、早道馬を献上するとの言上であるので、分国中を滞りなく通行できるように便宜を頼み入ること、なお、様態は、関白殿(近衛前嗣)から御演説があること、なお、(詳細は大館)晴光が申し届けること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』182号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。
〔景虎、腫物を患う〕
その後、腫物を患ったので、29日、将軍足利義輝から御内書が下され、(景虎は)長々と坂本で滞在に及んでいること、その後は腫物の症状はどうであるのか、心配していること、そのために左衛門佐(大館輝氏)を遣わすこと、なお、委細は(大館)晴光が申し届けること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』183号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。
同日、大館晴光から副状が発せられ、御腫物の御見舞いについて、(坂本の景虎の許へ)左衛門佐(大館輝氏)を差し下されたこと、ついでに、このたび大友新太郎(豊州大友義鎮)の進上による鉄放玉薬の方(調合法の書付)一巻を御拝領であること、御面目が施されたであろうこと、 上意の趣は委細を(大館)輝氏が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』184号「長尾弾正少弼殿」宛大館「晴光」副状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 大館上総介 晴光」)。
こうして将軍足利義輝から「鉄放薬之方并調合次第」を賜ると、幕臣の籾井某から口伝されている(『上越市史 上杉氏文書集一』185号 鉄砲薬之方并調合次第)。
〔景虎、近衛植家から再会を望まれる〕
それから間もなくして、太閤近衛稙家は、知恩寺岌州の許へ書状を送り届け、先日以後は御疎遠であること、(先日に近衛植家が知恩寺岌州へ)語った思いなどを、弾正少弼(長尾景虎)にしっかりと申し伝えてもらえたであろうか、一日中内々に連絡を取り合って相談した旨によって、(景虎は)去る26日に武家(将軍邸)へ召し出され、種々の面目を施されたこと、(植家も)随分と舞台裏で駆け回ったこと、とにかくとにかく直接になおなお話したい用件などがありながらも、極暑の時分に御造作であろうと、どうしても声を掛けられなかったこと、よって、先日は注進で済ませたこと、以前の一巻(景虎から求められた歌書の写本)を、つい今しがた見直したところ、筆者の誤写があったこと、手直しをして進呈するつもりであること、(知恩寺に近衛邸に)ちょっとばかり立ち寄られてほしいこと、間もなく間もなく(写本を)手直しを終えて(景虎へ)進呈すること、(景虎に)なおも御用件があれば、承るつもりであること、いつ頃に(景虎は)下国するのかを承りたいこと、あれこれは面談を期すること、これらを畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』170号 近衛植家書状 端見返しウハ書「知恩寺乃下 (花押)」)。
同じ頃、太閤近衛稙家から書状が発せられ、先日は武家にて(足利義輝と景虎が)面談を遂げたこと、(近衛植家も)本望であること、(景虎が)一つひとつの栄典を得たのは御面目の極みであること、珍重であること、よって、内々に承りたい会席の様子に関しては、詳らかな直談を望んでいること、ただし、(景虎の)厚意次第であること、御逗留中の再会を待ち入るばかりであること、これらを畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』169号 近衛植家書状 端見返しウハ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」)。
同じく太閤近衛稙家から書状が発せられ、先日は書状をもって申し伝えたこと、(書状は)届いたであろうか、久しく面談を遂げていないこと、山ほど御尋ねしたい事柄があること、(景虎は)近日中に帰国するとのこと、(帰国は)必定であるとしたら、一段と名残惜しい思いであること、よって、約束した詠歌大概 一冊、 悪筆を染めて進呈すること、なおなお用件があるならば、抜かりなく取り計らうこと、それからまた、この五合五合(五合五乖、書譜のことか)を折り好く見つけたので進呈すること、これらを畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』171号 近衛植家書状 端見返しウハ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」)。
〔景虎、あらためて将軍に忠信を励む覚悟を示す〕
7月初頭、将軍足利義輝へ条書を呈し、条々、一、亡父信濃入道(長尾為景)以来、 (将軍家から)御褒めに預かるなどにより、 上意様(足利義輝)が江州朽木(近江国高島郡朽木荘)の地に至って御動座中、何としてでも御入洛の達成に奔走致す覚悟であったこと、信州張陣が打ち続き、ついに寸暇を得ず、何とかしたい一心でありながらも、罷り過ぎてしまい、戸惑い申し上げた事、一、御上洛の御祝儀として、参上申し上げたところ、種々の栄典を拝領し、面目の極みであり、誠にもって冥利過分であるので、いよいよ身命を惜しまず、何としても忠信に励み申し上げる心底である事、一、洛中がめでたく御静謐を取り戻されたからには、只今の時点でこうした事柄を申し述べるのは、まるきり虚偽であるかのような御評判が立つであろうこと、殊に(越後国は)遠境で隔たっているゆえに、率いてきた人数も少ない有様で、何よりも無暗に駆け回るなど致すべきではないとはいえ、一身を賭す心構えが絶え間ないという存念を、余さず上聞に達したく存じ申し上げる事、一、このたびの参洛については、(越後)本国自体がたとえどのような乱禍に見舞われたとしても、相応の御用などがあって召し留められるにおいては、(越後)国の一切を省みず、 上意様(足利義輝)の御前を一心不乱に守り申し上げると、思い詰めていること、そうしている間に、先月の中旬に甲州(武田信玄から、すでに越国中へ乱入があったとはいえ、御暇に及ばず、今に至っても在京申し上げている事、一、泉州表の争乱に関しては、(各陣営に)宿怨が渦巻いているのは勿論であること、御畿内の御時勢であるにより、恐れながら御心配存じ申し上げる事、以上、これらの条々を申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』190号 長尾景虎書状案)。
同じ頃、関白近衛前嗣は、知恩寺岌州の許へ書状を送り届け、(近衛前嗣の越後)下国の件について、景虎から一心不乱に御世話すると言ってきており、今に始まったわけではないとは言いながら、誠に頼もしい心意気であり、紙面に書き表せないほどの題目であること、それから、(景虎側近の)直江与兵衛尉(実綱)からの一札によれば、拙者下向の件(前嗣の越後下国)については、景虎が同心に及び、互いに誓紙をもって身血を申し合わせたところ、ほうぼうから(下国を)抑留する働き掛けがあるについて、拙者が再考する必要もあるのではないかと、近頃は困り果てていたこと、景虎が我等(前嗣)のために、ともすれば約束を反故にされる局面は、どうあっても分別が足りないわけであり、誠にまことにあってはならないあり触れた心中でいては、どうしようもないこと、もはや我等は京都の無念なる条々に、堪え忍んでいる事態は分別がないについて、(越後)下国の決行をしきりと思い立ったこと、たびたび申し述べたように、去る4月頃には内々に西国辺りへでも下向する覚悟でいたこと、そうしたところに、8月までは、両親のために京都を去り難く思い留まったので、一心不乱に思い立ったつもりでも、世間ではとかくの評判が立っているにより、親命には背き難く、これによって(下国の決行を)延期していたところに、長尾(景虎)が上洛したこと、(景虎から)連綿と頼もしい所存を承り及んだにより、(下国の件を)頼んでみたところ、同意してもらい、すでに(景虎と)身血を染めた誓紙を互いに取り交わして申し合わせたからには、何度も申し述べた通り、どれほど離京し難い事情があろうとも、誓紙の内容を此方(前嗣)からあれこれ違えるといった局面は、一切あり得ないこと、ことさら、我等(前嗣)が誓紙に、右の条数を示して頼み入り、長尾(景虎)との下国の約定は偽りではないとの覚悟まで申し述べたので、いささかも我等(前嗣)から神慮に背く局面は、微塵もあり得ないこと、勿論ながら少弼(景虎)の方も誓紙を取り交わしたからには、貴命(上意)であったとしても、(盟約を)破られるような局面はあり得ないとのこと、されば、先頃に申し合わせた筋目を、双方が違背しないのは確かであること、二心なく下国するまでにより、その筋目を(知恩寺から景虎へ)伝達してほしいこと、されば、(前嗣の下国が)長尾のためには良くない事態であって困り果てているにより、我等(前嗣)に下国の決行を、是が非でも延期するようにと、(それが)少弼の存分であるのならば、(下国を諦めるほか)仕方ないこと、そのようではあっても、京都にはあるべき姿にないのでは、堪忍できないにより、他国に下向しようとも、それは当然であるのは言うまでもないこと、そのうえ少弼(景虎)はまたとない頼もしい心中であるので、そのような局面になったとしても我等が危ぶむ状況にはないこと、(景虎へ)良きように伝達してほしいこと、返す返すも、このたびは(景虎から)一つひとつの懇意に預り、本望の極みであること、これらを畏んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』195号 知恩寺岌州宛近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「知恩寺 前」)。
7月6日、関白近衛前嗣は、知恩寺岌州の許へ書状を送り届け、あらためて一筆を認めたこと、よって、南方(河内国)に関しては、珍しい話題でもあれば、少弼(長尾景虎)へ注進したくて、(事情通の会話を)立ち聞きしたところ、本当の話をしているようではなかったにより、万が一風説を知らせても、軽々しい行為であるので、そうはしなかったこと、昨5日に河州衆が足軽をけしかけ、道が細い所にて(河州衆と摂州衆は)互いに合戦し、混乱して後退しようとした摂州衆が手間取るところを河州衆が追撃したので、摂州衆に負傷者が続出したこと、戦線を維持できないほどではないらしいこと、大和国については、もはや大半の国人が筑前守(三好長慶。当時は摂津国芥川城を本拠としていた)に味方してしまったのではないかと言われており、これも風聞とは異なる事実のようであること、和州衆は辰巳と超昇寺を中核とする軍勢のようだが、全くの無勢ゆえに脆弱であり、和州衆は筑前守(三好長慶)に味方したといっても、未だに人質を差し出していないため、この点が危ぶまれて将兵の動員が限られたそうであること、そればかりか、同じく河内の戦線に合力として派遣された布施や万歳などは、大和の情勢が不穏のため、急遽引き返したそうであること、しかし結局は何事もなかったようで、再び河州に発向したそうであること、以上の事実を耳にしたので、にわかに顚末を伝えたこと、しっかりと少弼へ知らせたいので、こうした要領を得ないままの情報を知らせても良いのかと思い悩んでおり、この旨をそなた(知恩寺)から(景虎へ)しかるべく説明してほしいこと、もしも異変があれば、申し伝えること、それから、畠山(高政)は思いのままに采配を振るえなかった不満により、すでに河州衆と秘密裡に和解したそうであること、くれぐれも異変があれば連絡するので、この書状を紛失しないでほしいこと、ここしばらく少弼へ無沙汰しており、細やかに音信を通じたいところ、却って煩雑になると思い、心ならずも時が過ぎてしまったので、この辺りの事情を十分に心得たうえで(景虎へ)申し伝えてほしいこと、詳細については(知恩寺と)対面した折に話すこと、せわしない有様ゆえ、どのような文面にしたら良いのか迷い、一方に偏った内容ばかりでは、あまりにも無分別なので、その点を御理解してほしいこと、この通り我等は今朝から用事で下京に居り、帰宅は夜更けになりそうなので、明日は上京に出掛けるゆえ、(知恩寺も)ちょっとこちらへ出向かれてもらいたいこと、あまりの慌しさに、この書状を立ったまま認める有様であったこと、(書状を)何れは火中に投じてほしいこと、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』196号 知恩寺岌州宛近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「知 床下 さ」)。
7日、関白近衛前嗣は、知恩寺岌州の許へ書状を送り届け、少弼(長尾景虎)からの芳札を披読したこと、何とか我等(近衛前嗣)が昨日送った書状の最後に、せわしない有様なので詳細を書き表せなかったと記した状況を案じ、わざわざ(景虎が)書状を寄越されたのは、実に頼もしい心根であり、容易く言葉にできないほどであること、下国については、ここまで気運が高まったからには、いささかも決意は揺るがないこと、昨日の件とも異なる事情ではないため、万一にも我等の身上などを気遣われる必要は全くないこと、ちょっとした田舎から禁裏に呈する事柄があり、それを談合するために下京まで出掛けたところ、連歌会が催されており、自分も座敷に呼ばれたこと、(景虎への)返事と其方(知恩寺)への書状を整えたものの、あれやこれや慌しく、そうした状況は書状の最後に記した通りであること、こちらの様子を知らせたいと思いながらも、このように慌しい状況ではままならず、書状の体裁をなしていないのは自覚していること、このほか別条はないが、却って少弼に気を遣わせてしまい、気が咎めて困惑しており、(近衛前嗣に)成り代わって謝意を然るべきように申し伝えてもらいたいこと、ひたすらに公方(足利義輝)とちょうど文を交わした時には、(景虎の)内に秘めた頼もしい心掛けについて、物語りされたこと、返す返すも(景虎に気を遣わせるなど)あってはならなかったこと、くれぐれも却って少弼に気を遣わせては、気が咎めてならないこと、出来るだけ早く支障がないように存意を少弼へ申し下されてたいこと、詳細については面述すること、ここしばらく無沙汰していた非礼を少弼へ十分に詫びておいてもらいたいこと、これらを畏んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』197号 知恩寺岌州宛近衛前嗣書状 礼紙ウハ書「知恩寺 前」)。
14日、関白の越後下向の風聞に接した将軍足利義輝から御内書が発せられ、近衛殿が越後国まで御下向するつもりであるとの風聞を耳にしたこと、もしそれが事実ならば、御即位(永禄三年正月に挙行される御門の即位式)が予定されるため、(近衛前嗣は)当職(関白)であるのだから、その不在は適切ではないこと、御即位後に下国されるならば、やむを得ないこと、なお、詳細は(大館)晴光が書いて伝えること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』191号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】)。
同日、大館晴光から副状が発せられ、近衛殿様が越後国まで御下向されるとの風聞が流れており、もしそれが事実であるならば、現状においては不適切との思召しであること、その子細は、御即位が予定されており、近衛殿様は御当職であられるので、取り敢えずは御延引してほしいとの仰せであること、その旨を御理解して、御下向を思い止まらせられるように、是非とも御分別してほしいとの仰せであり、こうして 御内書を認められたこと、貴所(景虎)が御下国されるのは、いつ頃であるのか、一昨日に申し伝えた通り、あらかじめ念入りに御暇を申し上げてもらいたいこと、よって、これらを使者の富森小四郎(大館氏の内衆。富森左京亮信盛の子か)が詳述することを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』192号「長尾弾正少弼殿」宛大館「晴光」副状 礼紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 大館上総介 晴光」)。
これを受けて将軍へ請文を呈し、近衛殿様の越後国下向については、そのような事実を一切存じ上げないこと、しかしながら、(近衛前嗣から)強いて御頼みを 仰せになられた場合は、明確な拒否も御下向の御延期を勧めるのも、拙者(景虎)が(近衛前嗣へ)申し述べるのは難儀であること、たとえこれにより上意(足利義輝)の御勘気を蒙ったとしても、この節義を疎かにはできないこと、不相応にも上意御近辺の面々に御不義を働く方が大勢いるといった残念な現況においては、近衛殿様の御下向の御供をしたところで、拙夫(景虎)の過ちではないかとの考えから、近衛殿様御下向の事実を一切存じ上げないと申し上げたまでであること、このように申し開きをした(『上越市史 上杉氏文書集一』193号 長尾景虎請文案)。
当の関白近衛前嗣は、下国の意思は堅いものの、取り分け将軍足利義輝と自分の間で板挟みになっている景虎へ配慮し、御門即位式の大典を無事に終えるまでは、やむを得ず京都に留まることを決断している。
8月中には帰国の途に就いた。
この上洛中、甲州武田軍が越後国へ侵攻している。
※ 無日付の文書については、谷口研語氏の著書である『流浪の戦国貴族近衛前久 天下一統に翻弄された生涯』(中公新書)と池享、矢田俊文両氏の編著である『定本上杉謙信』(高志書院)から、小林健彦氏の論考である「謙信と朝廷・公家衆」を参考にして引用した。
永禄2年(1559)10月~11月 長尾景虎(弾正少弼)【30歳】
10月28日、国内の諸領主から祝儀(関東管領就任の将軍認可を得て京都から帰国した祝いとされるが、本当のところは分からない)の太刀を献上される(『上越市史 上杉氏文書集二』3542号)。
〔侍衆御太刀之次第〕
【直太刀之衆】
古志ノ十郎殿(上杉政虎期の永禄4年に見える古志長尾右京亮景信であろう。古志郡司長尾氏の系譜。越後国古志郡の栖吉城主)
桃井殿(永禄3年に桃井右馬助義孝であろう。長尾景虎期の永禄4年には伊豆守を称しているから、上杉定実・長尾為景期の享禄4年に見える前上杉家の譜代衆・桃井伊豆守義孝の子であろう。足利氏支族桃井氏の系譜)
山本寺殿(上杉政虎期の永禄4年から山本寺伊予守定長が見える。定長は、上杉定実・長尾為景期の天文初年に見える前上杉家の一家衆・山本寺陸奥守定種の子であろう。母は長尾為景の娘か。越後国頸城郡の不動山城主)
何らかの事情により、祝儀に参加しなかった、この頃の越後国長尾家の一家衆にあたる領主に、上条上杉氏(越後国刈羽郡の上条城主)、山浦上杉氏(同蒲原郡の篠岡城主)がいる。
【披露太刀之衆】
中条殿(外様衆・中条越前守。実名は房資、次いで景資を名乗ったらしい。越後国蒲原郡の鳥坂城主)
本庄殿(同本庄弥次郎繁長。越後国瀬波(岩船)郡の村上城主)
石川殿(謙信期の元亀4年に石川中務少輔が見える。この中務少輔は、長尾為景が一族を入嗣させた可能性のある前上杉家の譜代衆・石川新九郎景重の子か)
色部殿(外様衆・色部修理進勝長。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主)
千坂殿(天文18年にみえる千坂対馬守か。この対馬守は、前上杉家の譜代衆・千坂藤右衛門尉景長の子あるいは同一人と思われる。越後国蒲原郡の鉢盛城主か)
長尾越前守殿(上田長尾政景。関東管領山内上杉氏の家領である越後国魚沼郡上田荘代官の系譜。景虎の姉婿。越後国魚沼郡の坂戸城主)
斎藤下野守殿(前上杉家の譜代衆・斎藤朝信。越後国刈羽郡の赤田城主)
毛利弥九郎殿(前上杉家の譜代衆・安田毛利越中守景元の子。実名は景広か。あるいは仮名の弥九郎は誤記か改竄で、景元の次男である安田惣八郎(のち顕元)に当たるか。越後国蒲原郡の安田城主)
長尾遠江守殿(下田長尾藤景。関東管領山内上杉氏の家領である越後国蒲原郡下田郷代官の系譜。越後国蒲原郡の下田(高)城主)
柿崎和泉守殿(前上杉家の譜代衆・柿崎景家。越後国頸城郡の柿崎城主)
琵琶嶋殿(長尾為景に没落させられた上杉一族の琵琶嶋氏に代わって台頭した柏崎氏か。越後国刈羽郡の琵琶嶋城主)
長尾源五郎殿(景虎の近親者か)
加地殿(上杉定実・長尾為景期の享禄4年に見える外様衆・加地安芸守春綱か。上杉輝虎期の永禄末年から加地彦次郎が見える。越後国蒲原郡の加地城主)
竹俣殿(外様衆・竹俣三河守慶綱。越後国蒲原郡の竹俣城主)
大川殿(外様衆・大川駿河守忠秀か。上杉輝虎期の永禄12年に大川三郎次郎長秀が見える。越後国瀬波(岩船)郡の藤懸(府屋)城主)
長尾右衛門尉殿(一右衛門尉か。下田長尾遠江守藤景の弟か)
相川殿(外様衆・鮎川摂津守清長(岳椿斎元張)あるいは世子の鮎川孫次郎盛長か。そうであれば越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城主)
仁科清蔵殿(江戸期の米沢藩主・上杉定勝の時代に見える人物なので竄入の可能性があろう。あるいは音が似る菅名源三か。菅名氏であれば、越後国蒲原郡の菅名城主)
平賀殿(外様衆・平賀左京亮重資。越後国蒲原郡の護摩堂城主)
安田新八郎殿(外様衆・安田治部少輔長秀あるいは世子の治部少輔か。謙信期の天正3年に見える外様衆の安田新太郎堅親は、大身の旗本衆・河田長親の弟。越後国蒲原郡の安田城主)
竹俣平太郎殿(天文年間に一旦没落した筑後守系の外様衆・竹俣氏か。謙信期の天正3年の譜代衆に竹俣小太郎が見える)
吉江殿(前上杉家の譜代衆・吉江中務丞忠景か。忠景は上杉政虎期の永禄4年には旗本衆として見える。越後国蒲原郡の吉江城主か)
甘糟近江守殿(前上杉家の譜代衆・甘糟長重。越後国山東(西古志)郡の枡形城主あるいは同国蒲原郡の村松城将か)
水原小太郎殿(上杉輝虎期の永禄末年に外様衆・水原蔵人丞が見える。越後国蒲原郡の水原城主)
下条殿(外様衆・下条薩摩守実頼か。謙信期の天正3年に見える外様衆・下条采女正忠親は、大身の旗本衆・河田長親の弟。越後国蒲原郡の下条城主)
大関殿(前上杉家の譜代衆・大関阿波守盛憲か。謙信期の天正2年に大関弥七郎親憲が見える)
荒川殿(外様衆・荒川伊豆守長実か。謙信期の天正3年に荒川弥次郎が見える)
唐崎殿(不詳)
桐沢殿(上田長尾氏の被官・桐沢氏がいる。ここに陪臣が見えるのは不自然なので、誤記か改竄であろう)
大崎殿(不詳)
有留弥七郎殿(不詳)
計見出雲守殿(前上杉家の譜代衆)
野路弥左衛門尉殿(天正年間後期の赤田斎藤氏の家中に野呂氏が見える。こののち斎藤氏に吸収されたのか)
計見与十郎殿(出雲守の世子か)
毛利丹後守殿(前上杉家の譜代衆・北条高広。越後国刈羽郡の北条城主)
長井丹波守殿(上杉景勝の時代に、甲斐国出身の長井丹波守昌秀が見えるので、誤記か改竄であろう)
村山平次郎殿(永禄2年の景虎の上洛に譜代衆・村山善左衛門尉慶綱が従っている。この慶綱は、前上杉家の譜代衆・山岸隼人佑の次男。越後国頸城郡の徳合城主)
大崎九郎左衛門尉(謙信次代の上杉景勝の時代に見える人物なので、誤記か改竄の可能性がある)
何らかの事情により、祝儀に参加しなかった、この頃の越後国長尾家の外様衆・譜代衆にあたる領主に、黒川氏(外様衆・黒川竹福丸。上杉輝虎期の永禄10年には元服して四郎次郎平政と名乗る。越後国蒲原郡の黒川城主)・新発田氏(外様衆・新発田尾張守忠敦。越後国蒲原郡の新発田城主)・五十公野氏(上杉定実・長尾為景期の享禄4年に外様衆・五十公野弥三郎景家が見える。上杉輝虎期の永禄9年見える五十公野玄蕃允は景家の後身か次代であろう。越後国蒲原郡の五十公野城主)・菅名氏(謙信期の天正3年に外様衆・菅名源三が見える。越後国蒲原郡の菅名城主)・新津氏(謙信期の元亀4年から外様衆・新津大膳亮が見える。越後国蒲原郡の新津城主)・飯田氏(外様衆・飯田与七郎。のちに山吉氏の与力に配される)、御屋敷長尾氏(譜代衆・長尾小四郎景直。景虎の近親者)・平子氏(譜代衆・平子孫太郎。上杉輝虎期の永禄11年から若狭守として見える。越後国魚沼郡の薭生城主)・宇佐美氏(譜代衆・宇佐美駿河守定満。上杉輝虎期の永禄11年に平八郎が見える。越後国魚沼郡の真板平城主か)・上野氏(譜代衆・上野中務丞家成。越後国魚沼郡の節黒城主)・福王寺氏(譜代衆・福王寺兵部少輔。実名は重綱、孝重などと定まらない。越後国魚沼郡の下倉山城主)・善根氏(譜代衆・善根毛利氏。越後国刈羽郡の善根城主)・小国氏(上杉輝虎期の永禄11年に譜代衆・小国刑部少輔が見える。越後国蒲原郡の天神山城主)・山岸氏(上杉輝虎期の永禄8年に譜代衆・山岸隼人佑が見える。越後国蒲原郡の黒瀧城主)・志駄氏(上杉政虎期の永禄4年に譜代衆・志駄源四郎が戦死したのちは、直江氏に吸収される。越後国山東(西古志)郡の夏戸城主)・力丸氏(譜代衆・力丸中務少輔。のちに松本氏の与力に配される。越後国山東(西古志)郡の根小屋城主)などがいる。
11月朔日、旗本衆から祝儀の太刀を献上される。
【御馬廻年寄分之衆】
若林方(謙信期の天正2年に若林九郎左衛門尉家吉が見える)
山村方(天文17年に見える山村右京亮か。越後国頸城郡の青木城主か)
諏訪方(上杉輝虎期の永禄11年に諏方左近允が見える)
山吉方(上杉輝虎期の永禄9年に山吉孫次郎豊守が見える。兄の山吉孫四郎(実名は景久であろう)は永禄元年に早世している。越後国蒲原郡の三条城主)
相浦方(謙信(上杉輝虎)死去の直後に相浦主計助が見える)
松本方(大学助か。上杉輝虎期の永禄9年に松本石見守景繁が見える。越後国山東(西古志)郡の小木(荻)城主)
荻田方(与三右衛門尉か。天正5年に上杉謙信から長の一字を付与された荻田孫十郎長繁の父と兄がどちらも与三右衛門尉を称しており、どちらかに当たるであろう)
庄田方(もとは古志長尾氏被官の庄田惣左衛門尉定賢)
何らかの事情により、祝儀に参加しなかった、この頃の景虎の旗本衆に、直江与右兵衛尉実綱(越後国山東(西古志)郡の与板城主)・吉江織部佑景資(古志長尾家被官吉江氏の系譜)・荻原掃部助・金津新右兵衛尉(景虎の乳母夫と伝わる)・本庄新左衛門尉(本庄実乃(号宗緩)の子。越後国古志郡の栃尾城主)・三潴出羽守長政(越後国蒲原郡の中目城主)・新保清左衛門尉秀種・本田右近允(実名は長定か)・野島平次左衛門尉・小越平左衛門尉(もと古志長尾氏被官。のちに景虎の寵臣である河田豊前守長親に附属される)・山田修理亮長秀(小越平左衛門尉と同じく河田長親に配される)・秋山氏・飯田氏・五十嵐氏・小野氏・河隅氏・小嶋氏・小林氏・高梨氏・塚本氏・林氏・平林氏・村田氏・吉田氏・吉益氏などがいる。
※ 金覆輪の太刀を献上した大身の侍衆は紫字で示した。それから、補筆と入道衆については、疑わしいので除外した。
永禄2年(1559)12月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【30歳】
先の上洛中に将軍足利義輝から相伴衆に処遇されたことなどにより、大名並みの家格を得たので、国内に於ける権威が上昇し、この頃より、有力領主(前上杉氏譜代衆)の長尾遠江守藤景・斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条丹後守高広を年寄衆として政務に参画させる(『上越市史 上杉氏文書集一』200号 長尾藤景等四名連署状写)。
※ この景虎の権威上昇 、有力国衆の政務参画については、片桐昭彦氏の論集である『戦国期発給文書の研究 ― 印判・感状・制札と権力 ―』(高志書院)の「長尾景虎(上杉輝虎)の権力確立と発給文書」に依拠した。
『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』(上越市)
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