越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(長尾景虎)の略譜 【4】

2012-08-16 18:50:43 | 上杉輝虎の年代記

天文20年(1551)正月~3月 越後国長尾景虎(平三) 【22歳】

古志郡に在陣を続けるなか、正月26日、村松城攻略時に戦功を挙げた旗本の小越平左衛門尉に感状を与え、このたび村松要害を攻め落とした折、上屋を討ち取られたのは、殊勲の極みであること
、今後ますます粉骨を励むべきこと、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』47号「小越平左衛門尉とのへ」宛長尾「景虎」感状写)。

2月21日、この正月に上田長尾六郎政景(関東管領山内上杉家の家領である越後国上田荘の代官の系譜。越後国魚沼郡の坂戸城主)との対決姿勢を明らかにした宇佐美定満(前上杉家の譜代衆)の拠る越後国魚沼郡堀内地域の真板倉(平)城へ加勢に向かわせた旗本の庄田惣左衛門尉定賢へ宛てて感状を発し、真板倉へ加勢として移り、しっかりとその地に在城しているそうで、陣労を物ともしておらず、感じ入っていること、其元の防備など厳重に固めて、ますます奮闘するべきこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』231号「庄田惣左衛門尉殿」宛長尾「景虎」書状写)。

24日、去る21日に越後国上野の地(魚沼郡波多岐荘。上野家成の居城節黒城であろう)に攻め寄せた上田勢を撃退した越後国中郡の国衆である中条玄蕃允(越後国魚沼郡の大井田城主か)へ宛てて感状を発し、去る21日、その地へ上田衆が攻めかけたところ、一戦に及び、主立った者共を数多討ち取られたのは、殊勲の極みであること、言うまでもなく明らかなものであること、今後ますます抜かりなく奮闘されるのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』48号「中条玄蕃允殿」宛長尾「景虎」感状写)。

3月13日、中条玄蕃允へ宛てて感状を発し、このたび上田勢が上野の地へ攻めかかったところ、勝利を挙げて地利を堅持されているのは、並外れていること、今後ますます忠信を励むのが肝心であること、されば、(中条玄蕃允の)本領に件ついては、間違いのないように、(景虎の)力の及ぶ限り正常に調えること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、その庄における本地については、間違いなく調えるので、ますます奮闘されるべきことを申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』50号「中条玄蕃允殿」宛「長尾 景虎」感状【花押a1】 封紙ウワ書「中条玄蕃允殿 長尾」)。



この間、上田長尾政景(六郎)は、正月15日、与力の発智右馬允長芳(もとは越後国上杉家の譜代衆。魚沼郡藪神地域の山田城に拠ったと伝わる)へ宛てて書状を発し、このたびその地(山田城)に在城されての御奮闘は歴然であること、敵が引き退いたので、金子勘解由(上田衆の金子勘解由左衛門尉尚綱。魚沼郡堀内地域の板木城に置かれている)が今夜中に(山田城へ)移るとの注進が届いたこと、(発智長芳から)その首尾はどうなったのかをこちらに知らせてほしいこと、このうえの(山田城の)防備をますます堅固とするため、(金子尚綱と)御相談し合うのが肝心であること、なお、詳細については使者の口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』40号「発智右馬允殿」宛長尾「六郎政景」書状)。

同日、上田長尾家の年寄である栗林長門守経重が、発智右馬允長芳・原丹波守へ宛てて副状を発し、このたびその地に御在城しての御奮闘は、実に並外れたものと承知していること、敵は昨日の戌刻(午後8時前後)に引き退いたので、金勘(金子勘解由左衛門尉尚綱)は丑の刻(午前2時前後)に板木からその地へ移ると申し越したこと、その後の首尾はどうなったのかを承りたいばかりであること、是非とも政景方は使者をもって、(発智・原を)御奮闘への心情を申し述べられるとのこと、どのようにもその地の(敵方への)対策が万全にされているならば、安心な思いであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』41号「発右・原丹 御宿所」宛「栗長 経重」書状)。

16日、被官の穴沢新右兵衛尉(実名は長勝と伝わる。魚沼郡広瀬地域の鷹待山城に拠る))へ宛てて感状を発し、このたび宇佐美駿河守(定満)が変節したところ、いつもながらとはいえ、皆々(広瀬契約中)が奮闘してくれたそうであること、感じ入っていること、ますますの忠信を励むのは今この時であること、なお、詳細は栗林長門守(経重)の所から申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』42号「穴沢新右兵衛尉殿」宛長尾「政景」感状)。


※ 天文18年末頃に守護代方から上田方へ転じた宇佐美定満だが、この年が明けて守護代方に復したことになる。


18日、発智右馬允長芳へ宛てて書状を発し、このたび(発智長芳の)御老母・御足弱(妻)ならびに息達が敵方へ引っ捕らえられてしまったこと、実に無念であり、口惜しくて仕方ないこと、なお、使者(石井雅楽助)に口上を申し付けたこと、どうにも許容し難い事態であり、ここは先忠を守られて奮闘してもらいたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』43号「発智右馬允殿」宛長尾「六郎政景」書状)。

同日、栗林長門守経重が、発智右馬允長芳へ宛ててて副状を発し、一昨日にも申し上げた通り、このたび老母様・御内儀ならびに御息達がことごとく敵方へ引っ捕らえられてしまったのは、実に無念であり、口惜しくて仕方がないこと、御心底が揺れ動かないように願うばかりであること、しかしながら、どうにも許容し難い事態であり、ここは筋目に従われて御忠信を励まれるのが肝心要であること、これにより、(政景は)直書をもって申し述べられること、なお、詳細は石井雅楽助が説きつけること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集』46号「発右 御宿所」宛「栗長 経重」書状)。

同日、小平尾小屋中・須加(須川ヵ)小屋中(ともに広瀬契約中が拠る魚沼郡広瀬地域の城塞)の面々へ感状を発し、このたび宇佐美駿河守(定満)が変節したところ、いつもながらとはいえ、皆々が奮闘してくれたので、感じ入っていること、ますますの忠信を励まれるのは今この時であること、なお、詳細は栗林長門守(経重)の所から申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』44号「小平尾 小屋中」宛長尾「政景」書状写、45号「須加 小屋中」宛長尾「政景」書状写)。


こうしたなか、前守護代の長尾晴景(弥六郎)が2月10日に死去している( 高野山清浄心院「越後過去名簿」 )。



天文20年(1551)6月~7月 越後国長尾景虎(平三) 【22歳】

6月28日、府内の雑掌である大串某に証状を与え、三ヶ津(越後国蒲原郡沼垂・蒲原・新潟湊)横目代官職を、由緒に任せて申し付けること、されば、上分(収益)の件については、検見の結果次第、
厳重に徴収するべきこと、今後も従来通りに在府を遂げるべきこと、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』52号「大串殿」宛長尾「景虎【花押a1影】」安堵状写)。


この春に上田長尾六郎政景が和睦を懇願してきたにもかかわらず、一向に進展させないばかりか、策謀を巡らしている気配が察せられたことから、越後国のうちでも巷の地であった長尾政景が拠る坂戸城(『上越市史 上杉氏文書集』1696号 上杉景虎書状写)
への総攻撃を決すると、7月7日、三奉行の庄(本庄)新左衛門尉実乃(大身の旗本衆。越後国古志郡の栃尾城主)・大熊備前守朝秀(前上杉家の譜代衆。越後国頸城郡の箕冠城主)・小林新右兵衛尉宗吉(前上杉家の譜代衆か)が、越後国小千谷(魚沼郡)の領主である平子氏(前上杉家の譜代衆。越後国魚沼郡の薭生城主)の年寄中へ宛てて書状を発し、上田御戦陣の日限について、(景虎が)脚力をもって申されること、(近隣の)皆々と仰せ合わされての御出陣が肝心であると思われること、詳細は(脚力へ)申し含められたので、この紙面は要略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』53号「平子殿 人々御中」宛「庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・小林新右兵衛尉宗吉」連署状写)。

そして、坂戸城攻略の日時をを8月朔日に定めると、23日、平子孫太郎へ宛てて書状を発し、上田の一件については、(長尾政景が)去春から無為(和平)を懇望しているので、内々にはその意向を受け入れるつもりでいたところ、とやかく言って落着を引き延ばし、おまけに事の顛末が良くないとして不服を唱えるなどしていること、もはや策略を巡らせているのは疑いなかろうと思われること、ここに至っては速やかに戦陣を催すのみであること、されば、来る朔日、(平子は)御陣労であるとはいえ、彼の口へ立ち向かわれるのが肝心であること、委細は各所(三奉行)から申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』54号「平子孫太郎殿」宛「長尾平三 景虎」書状【花押a1】 封紙ウワ書「平子孫太郎殿 長尾」)。


同日、三奉行の庄(本庄)新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・新保八郎四郎長重(前上杉家の譜代衆であった新保勘解由左衛門尉景重の後継者)が、平子孫太郎へ宛てて副状を発し、上田総攻撃についての詳細を伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』234号「平子殿 参御宿所」宛「庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・新保八郎四郎長重」連署状写)。

この総攻撃の前に上田長尾六郎政景が降伏したので、減封処分を科して赦免する(『上越市史 上杉氏文書集一』291号 上杉政虎条目写、393号 上杉輝虎書状写)。



天文20年(1551)10月 越後国長尾景虎(平三)【22歳】

長尾景繁(山東郡司か)が、山東郡和島村籠田の名主である村田次郎右兵衛方の小林神左衛門尉へ宛てて過所状を発し、村田椎名分の西方の馬一匹の件について、米売買のため、路次の通行を間違いなく保障することを申し渡している(
『新潟県史 資料編5』2641号「村田 次郎右兵衛所 小林神左衛門尉殿」宛長尾「景繁」過所)。



天文20年(1551)11月 越後国長尾景虎(平三) 【22歳】

越後国瀬波(岩船)郡小泉荘において、国衆の本庄弥次郎繁長(越後国瀬波(岩船)郡の村上城主)と鮎川摂津入道元張(岳椿斎。清長。同大葉沢城主)の同族間で抗争が起こると、やはり同族の色部弥三郎勝長(同平林(加護山)城主)の仲裁により、三者の間で誓詞を交換して和解が成立する。
この同族間抗争は、本庄繁長が、長年にわたる無礼な振舞いを理由に叔父の小河右衛門佐長資(越後国(瀬波郡)岩船郡の小河城主)を切腹させたので、小河長資と懇意であった鮎川元張が反発したことに端を発している(『新潟県史 資料編4』 1107号 鮎川元張起請文、1108号 本庄繁長起請文案、1108(ママ)号 色部勝長起請文案、1109・1110号 本庄繁長起請文案、1111・1112号 鮎川元張起請文案、1985号 本庄繁長起請文)。



天文20年(1551)12月 越後国長尾景虎(平三) 【22歳】

これより前、将軍足利義藤(のちに義輝と改める。このたび三好長慶(筑前守)と和解して江州から還京した)に金品を献上して官途を得たので、謝礼をするために使者の神余隼人入道(俗名は実綱。これまで越後国上杉家の京都雑掌を務めていた。旗本衆)・同小次郎父子を上洛させると、道程の越前国朝倉義景(左衛門督)や江州六角佐々木定頼(弾正少弼)に領国通行の際の便宜を要請したところ、18日、佐々木定頼から返書が発せられ、音信として、太刀一腰と弟鷹(雌鷹)一連を、神余入道をもって贈られたこと、遠境にもかかわらず、懇志の極みであり、祝着であること、すこぶる愛玩していること、よって、その返礼として兼定作の太刀一腰と紅毛氈鞍覆を進上すること、なお、詳細は進藤新次郎(実名は賢盛。譜代衆)が紙面をもって申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』57号「長尾平三殿」宛佐々木「定頼」書状 封紙ウハ書「長尾平三殿 定頼」)。

同日、進藤新次郎賢盛から副状(謹上書)が発せられ、御音信として、御太刀一腰と弟鷹一連を遣わされたこと、御懇ろであるとして(佐々木定頼が)直札をもって謝意を申されること、よって、兼定作の一振と紅毛氈鞍覆を贈られたこと、そこを心得てもらうために申し入れるとのこと、従って、私(進藤賢盛)にも一腰を贈って下さり、ひたすら恐悦していること、私からもとりもなおさず一振を進上すること、委細は神余入道殿が演説されること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』58号「謹上 長尾平三殿」宛「新次郎賢盛」書状 封紙ウハ書「謹上 長尾平三殿 進藤新次郎賢盛」
)。


※ 両書状は天文21年6月28日に神余親子が持ち帰った。


古志郡高波保の栃尾内の守門神社と諏方神社の間で相論が起こり、20日、古志郡司であろう長尾景憲が、守門神社の宮司である藤崎文八へ宛てて書状を発し、塩の地(同塩条)を巡る諏方神社と其方(守門神社)の間で相論において、(守門社が諏方社を)言い込めたそうであるが、双方の言い分を聞き合わせたところ、諏方の社人の言い分には非の打ち所がないので、今後においては、(長尾景憲が)塩之条の相論を取りさばくこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『新潟県史 資料編5
』3316号「藤崎▢(文)八殿」宛長尾「景憲」裁許状)。



天文21年(1552)4月~6月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【23歳】

4月3日、蒲原郡司の山吉丹波入道政応(恕称軒。上杉定実・長尾為景期からの守護代長尾家の重臣。越後国蒲原郡の三条城主)が、三条領内の名刹である本成寺へ宛てて証状を発し、去る11月20日に火事があり、御文書以下を焼失された件については、痛ましい思いであること、しかしながら、御本領などの本地・新地ともに、間違いなく安堵すること、ついでをもって、 (景虎が)御上判を調えられること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』59号「本成寺 参」宛山吉「政応」判物)。


8日、管領細川晴元(右京大夫)から返書が発せられ、音信として、大鷹一連と栗毛の馬一匹が到来し、喜びもひとしおであること、よって、(返礼として)楊茂作の堆朱の香合(香料を収納する容器)一合と堆朱の盆一枚を遣わすこと、なお、詳細は波々伯部伯耆入道(宗徹)が紙面をもって申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』60号「長尾平三殿」宛細川「晴元」書状 封紙ウワ書「長尾平三殿 晴元」)。


※ この書状は天文21年6月28日に神余親子が持ち帰った。


このほど相州北条方の攻勢に屈して越後に逃げ延びてきた関東管領山内上杉成悦(五郎憲政・憲当)の帰国を援助するため、上州へ僧侶を派遣して関東の情報を収集させたところ、5月24日、越府の上杉成悦から、越後国上田荘(魚沼郡)の領主である長尾越前守政景(越後国魚沼郡の坂戸城主))へ宛てて書状が発せられ、それ以来は、取り立てて申し遣わすほどの事案がなかったこと、よって、同名平三(景虎)が上州へ遣わした使僧が帰府したこと、彼の国の状況をいよいよ把握できたので、関東越山の件を急ぐべきこと、怠りない準備が肝心であること、必ず爰元の事情などについては、平三方(景虎)から(長尾政景へ)申し越すであろうこと、また、(景虎から)山中の軍道の整備について、申し付けられているならば、堅実に取り組むべきこと、これらを謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』62号「長尾越前守殿」宛上杉「成悦」書状写)。


同日、大覚寺門跡義俊から返書が発せられ、芳札を拝読したこと、本望であること、とりわけ青銅(銭)千疋を贈ってもらい、祝着の極みであること、筆舌に尽くし難いこと、よって、(返礼として)些少で憚られるも大緒(鷹を繋ぐ紐か)二筋を、些少で憚られるとはいえ、進上すること、なお、重ねて申し述べること、これらを畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』63号「長尾弾正少弼殿」宛大覚寺義俊書状【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」)。

25日、将軍足利義藤から御内書が発せられ、官途の礼として、長光作の太刀一腰・河原毛の馬一匹・青銅三千疋が到来し、めでたいこと、よって、(返礼として)国宗作の太刀一振を遣わすこと、なお、詳細は晴光(申次の大館左衛門佐晴光。奉公衆)が紙面をもって申し述べること、これらを申し渡されている。また、別紙において、大鷹一連が到来し、こよなく愛玩しており、喜びもひとしおであること、なお、詳細は晴光が紙面をもって申し述べること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』64・67号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義藤御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。

同日、大覚寺門跡義俊から返書が発せられ、公儀(足利義藤)へ御礼を申し入れられたこと、喜びを感じられていること、とりわけ進上の御馬は、御上洛の時に御乗馬とされたこと、いかにも稀有にめでたいこと、御愛玩のほどが知られること、よって、(御返礼として)御太刀一腰を、 御内書をもって遣わされること、なお、詳細は大館左衛門佐(晴光)が紙面をもって申し述べられること、これらを畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』65号「長尾弾正少弼殿」宛大覚寺義俊書状【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」)。

同日、大館晴光から副状が発せられ、御礼として、長光作の御太刀一腰・河原毛の御馬一匹・鵝眼三千疋を御進上されたこと、披露に及んだところ、 (御返礼として)御内書を発せられ、国宗作の御太刀一振を下されること、なお、そこのところを心得て(副状をもって)申し述べるように仰せられたこと、稀有にめでたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。また、別紙において、大鷹一連と鳥屋を御進上されたこと、披露に及んだところ、 (足利義輝は)喜びを感じられていること、よって、 (御返礼として)御内書を発せられること、なおそこのところを心得て(副状をもって)申し述べるように仰せられたこと、稀有にめでたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』66・68号「長尾弾正少弼殿」宛大館「晴光」副状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 大館左衛門佐 晴光」)。

同日、大館晴光から返書が発せられ、御礼された次第ならびに御鷹の御進上を披露した件ついては、いずれも別紙において御返事したこと、ついでに私(大館晴光)へも太刀一腰と鳥目五百疋を贈って下されたこと、めでたく喜ばしい限りであること、よって、(返礼として)太刀一振を進上すること、誠に祝意を述べるばかりであること、なお、詳細は神余隼人入道(実綱)が申し述べられること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』69号「長尾弾正少弼殿 御返報」宛大館「晴光」副状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 御返報 大館左衛門佐 晴光」)。

同日、大館晴光から別紙の追伸が発せられ、追って申し上げること、私へも大鷹一連を贈ってもらい、ひたすら祝着の極みであり、筆舌に尽くし難いこと、なお、詳細は神余隼人入道が申し述べられること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』70号「長尾弾正少弼殿 進之候」宛大館「晴光」書状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 進之候 大館左衛門佐 晴光」)。

同日、大館晴光の内衆である富森信盛から返書が発せられ、御札を拝読したこと、仰せの通り、故信州(長尾為景)とは格別に御意見を承ってきたこと、しかしながら、ここしばらくは無沙汰をしていたのは、不本意な思いであること、よって、(富森信盛が)青銅二百疋を拝領し、御懇志に極まり、恐縮していること、従って、(返礼として)弓懸二具を進上すること、(大館晴光からは)誠に御音信ばかりであること、詳細は神余小次郎殿が申し入れられるので、御意見を承りたいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』72号「長尾弾正少弼殿 まいる貴報」宛富森「信盛」書状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 まいる貴報 富森左京亮 信盛」)。

同日、富森信盛から、越後国長尾家の年寄中へ宛てて返書が発せられ、御官途の件について、(御内書を)調えられたこと、いかにも稀有に目出たい思いであること、とりもなおさず御礼を申し上げられたのも、めでたいこと、委細については神余小次郎殿が申し入れられるので、御意見を承りたいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』71号「長尾弾正少弼殿 人々御中」宛富森「信盛」書状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 人々御中 富森左京亮 信盛」)。

26日、大覚寺門跡義俊から返書が発せられ、御官途の件について取り計ったこと、御内書を調えられたこと、近頃にない御面目を施され、稀有にめでたい思いであること、様子においては神余小次郎が申すこと、これらを畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』73号「長尾弾正少弼殿」宛大覚寺義俊書状【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 (花押)」)。

28日、大覚寺義俊の内衆である渡辺盛綱(右京亮)から返書が発せられ、御官途の件について、御門跡様が御精励されて調い、近頃にはなかっためでたい思いであること、委細は神余小次郎方が申し述べられること、これらを恐れ畏まって申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』74号「長尾弾正少弼殿 御宿所」宛渡辺「盛綱」書状)。

同日、渡辺盛綱から別紙の返書が発せられ、御門跡様へ御礼として、青銅千疋を御進上されたこと、すこぶる御祝着であり、それを心得て申し入れるものであること、従って、私(渡辺盛綱)へも青銅二百疋を贈って下されたこと、冥利過分に思っていること、なお、詳細は神余小次郎方が申し入れられること、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』75号「長尾弾正少弼殿 御返報」宛渡辺「盛綱」書状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 御返報 渡辺右京亮 盛綱」)。

同日、大覚寺義俊の内衆である津崎光勝(大蔵丞)から返書が発せられ、御官途の件について、御門跡様が御精励されて調えられたのは、近頃にはなかっためでたい思いであること、委細は神余小次郎方が申し入れられること、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』76号「長尾弾正少弼殿 御宿所」宛津崎「光勝」書状)。

同日、津崎光勝から別紙の返書が発せられ、御門跡様へ御礼として、青銅千疋を御進上されたこと、御祝着であり、そこのところを心得て申し入れるものであること、従って、私(津崎光勝)へも青銅二百疋を贈って下されたこと、冥利過分であり、筆舌に尽くし難いこと、また、このたびは神余方が長逗留していたにもかかわらず、公私にわたる御繁忙により、不十分な応対になってしまったこと、決して軽んじたわけではこと、なお、詳細は(神余)小次郎方が申し入れられること、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』77号「長尾弾正少弼殿 御返報」宛津崎「光綱」書状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 御宿所 津崎「大蔵丞光勝」)。

6月13日、管領細川晴元の内衆である波々伯部宗徹から副状が発せられ、御音信として、神余方を上せられたこと、とりわけ大鷹と栗毛の馬一疋を御進上されるにより、書札をもって承ったので、御披露に及んだこと、(細川晴元から)御祝着の意を示されるため、御書を発せられたこと、従って、堆朱の香合一合と堆朱の盆一枚を遣わされること、なお、そこのところを心得て申し述べるものであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』78号「長尾平三殿」宛波々伯部伯耆入道「宗徹」書状 封紙ウハ書「長尾平三殿 波々伯部伯耆入道 宗徹」)。


※ いずれの書状も天文21年6月28日に神余親子が持ち帰った。


昨年以来、越後国奥郡の国衆(揚北衆)である中条弥三郎(実名は房資か。越後国蒲原郡の鳥坂城主)と黒川四郎次郎(実名は平実か。同黒川城主)の同族間抗争の調停に努めるも、一向に両者は和談に応じないため、あらためて調停を試み、6月18日、蒲原郡代官の山吉丹波入道政応(恕称軒。孫四郎・丹波守政久。越後国蒲原郡の三条城主)が、越後奥郡国衆の色部弥三郎勝長へ宛てて書状を発し、ここしばらくは申し達していなかったので、切紙をもって申し述べること、よって、中条と黒河の間で争いが際限なく続いており、当口(蒲原郡)の代官を務める身体といい、奥郡の方々とは交流を培ってきた間柄といい、このような時こそ双方の御無事を御仲裁したい覚悟であり、黒河へ使者を向かわせたこと、貴殿(色部勝長)からも彼方に適当な御意見を加えてもらえれば、本望であること、あちらの状況を詳しく御聞かせしてもらい、折り返し申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』81号 「色部弥三郎殿 参御宿所」宛「山吉丹波入道政応」書状)。

21日、黒川四郎次郎が、山吉丹波入道政応へ宛てて返書を発し、来簡の趣を精読したこと、ならびに使者の口上の旨も承ったこと、されば、中条との間の件について御示しに預かったこと、およそこのたびの相克の事情については、大筋を昨年から申し上げ続けているため、ここでは主旨を繰り返さないこと、また、先年に中条弾正忠(実名不詳。弥三郎の父であろう)が伊達の件(天文半ば頃に越後国上杉家の養子を羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達家(当時は奥州伊達郡桑折西山城に本拠を置いていた)から迎えること)を斡旋し、ことさらに時宗丸殿(伊達稙宗の三男)の来越を取り計ったこと、おまけに彼の手引きによって伊達の人衆が本庄(越後国瀬波(岩船)郡の村上城)・鮎川(同大葉沢城)の要害に攻めかかったので、彼の面々は大宝寺へ退去するに至り、すでに(当郡が)他の国になってしまったのは、嘆かわしい事態なので、色部に同心して揚北中が手を携え、中条領へ攻め込み、要害(鳥坂城)を巣城ばかりの裸城だけとし、落着の間際、伊達晴宗(次郎。左京大夫稙宗(号受天)の世子。母は蘆名修理大夫盛高の娘)が無事(和平)を取り扱うとして、(越府へ)使者を寄越されたからには、拙者(黒川四郎次郎。当時は父の四郎右兵衛尉清実が当主であった)からも府内へ注進に及んだこと、府内から筋目を承ったにより、その意に従って中条と無事を遂げたこと、そうしたところに、戦う意気込みをもって先駆け、境を接する上郡山某(伊達家に属する出羽国衆。出羽国置賜郡の小国城主)を誘い込み、(中条)弥三郎においては、またしても伊達と申し合わせ、当地に向かって武威を剥き出しにしてきたこと、これは国方に対する逆心であり、こうなった時には方々の助勢を得て、(中条を倒し)静謐とするべきところに、ただ今は和融するようにと承ったこと、つくづく意外であること、爰元の事情に考えを巡らされて適切に処置されるのが肝心であること、紙面ではっきり言った通り、一庄(蒲原郡奥山荘)の事柄とはいえ、ここのところは異変はなかったこと、そのゆえは(中条)弥三郎の家中が命令に服さず、(中条から)彼の処分をひとえに頼まれるにより、石井をはじめとしたそのほかの者を追罰し、瞬く間に本意を遂げたのは、紛れもない事実であること、そうしたところに、ほしいままに振舞ったのは明白であること、ここをもって彼の者の覚悟の様を御推察してほしいこと、なお、委細は使者の口説に任せるので、この紙面は要略させてもらうこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』83号「山吉丹波入道殿 返案文」宛「黒川 実」書状案)。

23日、色部弥三郎勝長が、山吉丹波入道政応へ宛てて書状を発し、黒河・中条の間の無事の件について、(山吉政応)が(黒河)四郎次郎方へ使僧を遣わされたこと、委細は彼方(黒河)から返答が寄せられるであろうこと、また、その口(蒲原郡三条領)は豊饒のようであり、いかにも相当であること、爰元の態勢は以前と変わらず保持していること、なお、異変でもあれば申し入れること、諸事万端は使者の口説に任せるので、この紙面は要略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』84号「山吉丹波入道殿」宛「色部勝長」書状案)。



13日、管領細川晴元の内衆である波々伯部宗徹から副状が発せられ、御音信として、神余方を差し上せられたこと、とりわけ大鷹と栗毛の馬一疋を進上されたとして、書札をもって承ったにより、(細川晴元へ)披露に及んだこと、(晴元は)御祝着であるとして、御書を発せられたこと、従って、堆朱の香合一合と堆朱の盆一枚を遣わされること、なお、それを心得て申し述べるものであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』78号「長尾平三殿」宛波々伯部「宗徹」書状 封紙ウハ書「長尾平三殿 波々伯部伯耆入道宗徹」書状)。

同日、波々伯部宗徹から別紙の返書が発せられ、御状に預かり、誠に本望の極みであること、主旨を承ったにより、こちらから申し入れたいと思いながらも、遠路であるため、不本意ながら時が過ぎてしまったこと、今後においては、折に触れて申し承るつもりなので、大いに喜ばしく思っていること、従って、御音信として、馬代三百疋を差し上せられたこと、祝着の極みであること、祝儀として太刀一腰を進上すること、委細は神余方が申し入れられるので、この紙面は要略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』79号 「長尾平三殿 御返報」宛波々伯部「宗徹」書状 封紙ウハ書「長尾平三殿 御返報 波々伯部伯耆入道 宗徹」)。

14日、越前国朝倉家の同名衆である敦賀朝倉太郎左衛門入道宗滴(俗名は教景。越前国金ヶ崎城主)から、初信となる自筆の返書が発せられ、仰せの通り、これまで音信を通じていなかったところ、御音問に預かって拝読し、何はさておき本望であること、よって、大鷹一連と鳥屋を進上されたこと、御懇志のほどは、これまた祝着の極みであること、とりわけ庵主(長尾為景)の御代には、格別な交誼で結ばれていたこと、それ以後は不本意ながらも音信が途絶えてしまったこと、今後においては往時と変わらない通交を復活させたい心中であること、方々がここから詳報するにより、この紙面を略筆すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』80号「謹上 長尾平三殿」宛朝倉「太郎左衛門入道宗滴」書状 封紙ウハ書「謹上 長尾平三殿 朝倉 太郎左衛門入道宗滴」)。


※ いずれの書状も天文21年6月28日に神余親子が持ち帰った。


28日、将軍足利義藤から御内書が到来したので、これより正式に弾正少弼の官途名を称する。



天文21年(1552)7月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【23歳】

このほど将軍より官途を賜った祝儀として、越後衆から太刀を献上されると、2日、越後中郡国衆の志駄千代松(越後国山東(西古志)郡の夏戸城主)へ宛てて返書を発し、京都から官途を賜ったところ、祝儀として、鳥目二十疋を贈ってもらいこと、意義深く祝着の極みであること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』86号「志駄千代松殿」宛長尾「景虎」書状【花押a1】 封紙ウハ書「志駄千代松 弾正少弼 景虎」)。

5日、越後国小千谷(魚沼郡)の領主である平子孫太郎(前上杉家の譜代衆。越後国魚沼郡の薭生城主)」)へ宛てて返書(謹上書)を発し、京都から官途を賜ったところ、御祝詞として、太刀一腰を贈ってもらい、めでたく祝着の極みであること、このほか諸々については来信を期すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』88号「謹上 平子孫大郎殿」宛長尾「弾正少弼景虎」書状【花押a1】 封紙ウハ書「謹上 平子孫大郎殿 長尾 弾正少弼景虎」)。

8日、同じく鵜河荘(刈羽郡)安田の領主である毛利越中守景元(前上杉氏の譜代衆。越後国刈羽郡の安田城主)へ宛てて返書(謹上書)を発し、京都から官途を賜ったところ、御祝儀として、太刀一腰ならびに鳥目百疋を贈ってもらい、めでたく祝着の極みであること、よって、太刀一振を進上すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』89号「謹上 毛利越中守殿」宛長尾「弾正少弼景虎」書状【花押a1】)。

12日、越後中郡国衆の力丸中務少輔(実名は慶忠と伝わる。越後国山東(西古志)郡の根小屋城主)へ宛てて返書を発し、官途の祝詞として、太刀一腰を給わったこと、めでたく祝着の極みであること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』90号「力丸中務少輔殿」宛長尾「景虎」書状写【花押a1影】)。


こうしたなか、3日、関東管領山内上杉成悦(五郎憲政・憲当)が、平子孫太郎へ宛てて返書を発し、思いも寄らない世上ゆえ、当国越後へ移ったこと、そうしたところに爰元(関東衆・越後国の合力衆)の戦備が調ったので、近日中に上州へ打ち入るつもりであること、(平子孫太郎も)長尾弾正少弼(景虎)と相談し合い、ひたすら奮闘されるべきこと、また、祝儀として、太刀一腰ならびに鳥目を書中の通りに給わったこと、恐れ入りつつ喜ばしいこと、従って、太刀一腰を贈ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』87号「平子孫太郎殿」宛上杉「成悦」書状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『新潟県史 資料編4 中世二』
◆『新潟県史 資料編5 中世三』
◆『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院「越後過去名簿」

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