弘治3年(1557)10月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【28歳】
18日、大熊朝秀退転後に新たに編成された奉行衆である本庄宗緩・長尾景繁・同 景憲・直江実綱・吉江長資が、広泰寺に証状を与え、頸城郡夷守郷榎井保内の大高山湧光寺領の事、当代(景虎)が改めて進め置かれること、されば、郡司不入と諸役免許に関して、去る応永29年4月5日に(長尾上野入道)性景(実名は邦景と伝わる)が落着した旨に任せ、年来の通りその心配はいらないものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集』155号「広泰寺」宛本庄「宗緩」・長尾「景繁」・長尾「景憲」・直江「実綱」・吉江「長資」連署状写、『新潟県史 資料編5』2641号 某景繁過所、3316号 長尾景憲裁許状)。
● 本庄宗緩:新左衛門尉実乃。新左衛門尉入道。景虎旗揚げ時以来の重臣。越後国古志郡栃尾領の栃尾城を本拠とする。
● 長尾景繁:通称不詳。山東(西古志)郡内の地を基盤とする長尾氏であろう。
● 長尾景憲:古志郡司で古志長尾氏の当主であろう。越後国古志郡栖吉領の栖吉城を本拠とする。長尾右京亮景信(十郎)の前身か。
● 直江実綱:神五郎。与右兵衛尉。前上杉家譜代の重臣。越後国山東(西古志)郡与板の与板城を本拠とする。
● 吉江長資:通称は与橘か。吉江織部佑景資の前身。もとは古志長尾氏の重臣。景虎初政の側近であった吉江木工助茂高の世子。
一方、甲州武田晴信は、10月27日、甲府から信濃国東条(雨飾)城に在番中の信州先方衆の真田弾正忠幸綱(信濃国小県郡真田郷の真田城を本拠とする信濃国衆)へ宛てて書状を発し、風聞の通りでは、景虎が飯山へ移ったとのこと、時期としてはどうなのか、確信が持てず覚束ない思いであること、申すまでもないとはいえ、(東条)在城衆(甲州譜代の重臣である小山田備中守虎満を主将とするか)と相談し合い、城中の堅固な防備が何より大事であること、それからまた、番中は相応の普請に精励するのが肝心であること、この趣を原 与左衛門尉かた(甲州直参)へ伝言を頼み入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』577号「真田弾正忠殿」宛武田「信玄」書状 ● 同前592号 武田家朱印状写)。
景虎が飯山城へ着陣した事実はなかったようである。
永禄元年(1558)閏6月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【29歳】
〔越後衆に陣触れをする〕
これより前、在地の諸将へ向けて陣触れをしたところ、14日、揚北衆の本庄弥次郎繁長(越後国瀬波(岩船)郡の村上城を本拠とする外様衆)と色部弥三郎勝長(同平林(加護山)城を本拠とする外様衆)の同族間で起請文を取り交わし、起請文、右の意趣は、このたび当郡中が申し合わせ、出張する旨により、世間からどのような悪意にある作り話を浴びせてきたとしても、殊に陣中において謂れのない旨を申し掛けてきたとしても、御間を互いにいささかも見放してはならないこと、およそ、今後においても、身辺に邪な輩が現れて奸計などをめぐらそうとも、互いに露顕され、いよいよもってその交誼を深め合うのが肝心であること、もしこの旨を偽るにおいては、神罰冥罰を蒙るべきものであること、よって、起請文に前記した通りであること、これらを誓約している(『新潟県史 資料編4』1119号「色部弥三郎殿 参」宛「本庄弥次郎 繁長」血判起請文)。
〔景虎、乱入してきた相州北条家の軍勢を上田庄で撃退する〕
下旬に、相州北条軍が上野国吾妻谷を攻略して岩下の斎藤氏らを降し、越後国にも乱入したので、上・越国境の越後国魚沼郡上田庄へ急行して撃退した。こうしたなかで、揚北衆も参陣してきたのであろう(『新潟県史 資料編5』3379号 本庄繁長知行宛行状写)。
この間、敵対関係にある甲州武田晴信(大膳大夫・信濃守)は、閏6月16日、武蔵国市田の上杉一族である市田茂竹庵(武蔵国大里郡の市田城を本拠とする武蔵国衆)へ宛てて返状(謹上書)を発し、来意の通り、昨年は当方の(信濃国川中嶋陣の)加勢として上州に向かって御出陣あり、そのゆえをもって、(当表の)敵が退散し、この御礼として(使僧の)宝泉院をもって申し述べたところ、御祝儀の趣を御使いに預り、殊に甲二鉢と鞦十具を贈り給い、大慶の思いであること、委細は念入りに(市田の使者の)板倉方が口上されるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』598号「謹上 市田茂竹庵 御返報」宛武田「晴信」書状写)。
19日、山城国醍醐寺理性院へ宛てて返状を発し、(信濃国伊那郡)安養寺・文永両寺(の勅命による再興)に関しては、昨年に存慮の旨を申し述べたところ、重ねて御札に預かり、殊に由緒があるにより、すでに、 綸旨が発せられたからには、異議には及ばないとはいえ、当世は戦国であるので、(両寺が焼亡してしまい)武運の祈祷として、近年は当国の法善寺(筑摩郡)に寄附して任せているにより、やむを得なかったこと、つまるところ、来る秋に越国に向かって出勢の折、一戦勝利の御丹精な祈祷を、ひたすら貴僧に頼み申し上げること、速やかに成就においては、かならず本寺(理性院)に寄附致すつもりであること、まことに身勝手な申し出であり、その恐れ多いとの趣を、御使僧が演説すること、これらを恐れ畏まり敬って申し伝えている。さらに追伸として、青蓮院(尊円法親王)の御真筆一巻を贈って下さり、勿体ない思いであること、これらを申し添えている(『戦国遺文 武田氏編一』599号「理性院 尊報」宛武田「晴信」書状(黒印・印文「晴信」) 封紙ウハ書「理性院 尊報 大膳大夫 晴信」)。
同日、取次の飯富昌景(御譜代家老衆)が、理性院へ宛てて副状(進上書)を発し、貴札を拝読し、それを心得たこと、両寺の一件を、晴信へ申し聞かせたところ、(晴信が)申された通りは、当秋に信国の残賊を退治し、速やかに本意を達するについては、(両寺の再興に)異存はない旨であること、恐れながら御分別が肝心であると存じ申し上げる趣をば、尊意を得たいこと、これらを恐れ畏まり敬って申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』600号「進上 理性院 貴報」宛飯富「昌景」副状)。
当月中に甲州武田軍は越後国に乱入している(『戦国遺文 武田氏編 第一巻』609号 武田晴信書状写)。
そして、甲州武田家と同盟関係にある相州北条氏康(左京大夫)は、閏6月18日、他国衆の安中越前守重繁(上野国碓氷郡の安中城を本拠とする上野国衆)へ宛てて書状を発し、(上野国吾妻郡)吾妻谷に向けて、来る調儀(戦陣)を火急に企てること、半途まで出馬するので、このたびはいっそうの御奮闘が肝心であること、(出馬の)日時は重ねて三日前に申し届けること、(安中重繁においては)いささかも抜かりなく準備するのが第一であること、なお、(詳細は)遠山(丹波守綱景。準一家。家老衆に列し、武蔵国豊嶋郡の江戸領を管轄する)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』4653号「安中越前守殿」宛北条「氏康」書状写)。
その後、安中重繁らが越後国へも乱入し、安中氏に従って戦功を挙げた赤見山城守(実名は泰拠と伝わる)は北条氏康から感状を賜っている。
※ 相州北条陣営による上・越国境の上野国吾妻谷攻略および越後国乱入については、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第十二章 上杉謙信の関東侵攻と国衆」を参考にした。
永禄元年(1558)8月~9月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【29歳】
8月晦日、揚北衆の本庄繁長(弥次郎)が、被官の須貝彦左衛門尉に証状を与え、このたび(越府の要請に応じて)出陣したところ、罷り出でて奉公致したのは、神妙であったので、鮎川分一貫文の地を出し置くこと、今後いよいよもって奔走するのを心得るべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編5』3379号「須貝彦左衛門尉とのへ」宛本庄「繁長」知行宛行状写)。
9月22日、越後国守護代長尾家以来の重臣である山吉孫四郎(実名は景久であろう。蒲原郡司。越後国蒲原郡三条領の三条城を本拠とした)が死去する(高野山清浄心院「越後過去名簿」)。
この間、敵対関係にある甲州武田晴信(大膳大夫)は、8月吉日、信濃国戸隠山中院(戸隠神社。水内郡)に願文を納め、筮竹をもって、(武田晴信が)信州へ出馬するにおいては、十二郡を存分に治められるかどうか、また、越後と甲州の和融の交渉を取り止め、彼の国へ攻め入るべきかどうか、吉凶を占ったところ、いずれも吉の卦が出て、(晴信が)信州に出馬すれば、一国を残らず掌握し、よしんば越衆が信州に攻め込んできても、たちまち敵は滅亡し、晴信の勝利は疑いないところであり、神助を得られれば、貴社の修補費用を賄うことを誓約している(『戦国遺文武田氏編一』602号「戸隠山中院」宛「源晴信」願文)。
その後、甲州武田軍はまた越後国へ乱入している(『戦国遺文 武田氏編一』609号 武田晴信書状写)。
永禄元年(1558)10月~12月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【29歳】
これより前、京都に要脚を納めるために公田段銭を徴収すると、10月晦日、公銭衆の吉江長資(通称は与橘か)・庄田定賢(惣左衛門尉)・某 貞盛が、越後国夷守地域の領主の一人である山田帯刀左衛門尉へ宛てて請取状を発し、京都御要脚の公田段銭を納める事、 都合八段、てえれば、 右を、頸城郡夷守郷内の河井村・阿弥陀瀬村における益田分として、山田帯刀左衛門尉方が取り立てて納付したこと、所納は前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』160号 吉江「景(長)資」・庄田「定賢」・「貞盛」連署段銭請取状写)。
敵対関係にある甲州武田晴信は、将軍足利義輝から今夏の越後国乱入を咎められると(大館晴光が悦西堂に宛てた書状による)、11月28日、将軍家奉公衆の大館上総介晴光へ宛てて請書を発し、去る3月10日付の御内書(『戦国遺文 武田氏編六』 4019号 武田大膳大夫・同太郎宛足利義輝御内書案)を、謹んで頂戴、ありがたき次第であること、もとより、信・越の国分けをもって和融致すべきであると、御下知があり、その旨を心得申し上げたこと、なお、覚悟の趣は、(上使の)悦西堂を頼んで申し述べること、よろしく御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』610号「大館上総介殿」宛武田「晴信」書状)。
同日、別書(謹上書)をもって、御内書を拝読し、とりもなおさず、御請けに及ぶこと、よろしく御取り成しに預かれば、本望であること、一、このたび悦西堂への御札を披読した通りでは、この夏に越国に向かって攻め入ったのは、上意を軽んじたものではないと(誤解されたようで)、まずもって驚いていること、すでに去る頃、瑞林寺が御使節として下向した際に、信州(信濃国守護職)補任の御内書を、確かに頂戴しており、そういうわけであるから他者の干渉を受けるいわれはないところ、長尾が二度も信国で放火に及んだこと、これこそ上意に背いた第一であること、一、昨年に甲・越和睦を御取り扱うため、聖護院御門主(道澄。関白近衛稙家の三男)の御使僧である森坊(増隆)が御内書を携えて下国し、これにより、某(武田晴信)は干戈を停止し、信府に戻って(配下に)城普請を申し付けたこと、一方、長尾は御内書を頂戴しても、未だに(和睦勧告を)御請けには及ばず、その以前に信濃国海津(埴科郡)に放火し、これもまた周知の事実であること、一、その報復として晴信は越国へ攻め入ったのであり、いささかも上意に対し申し上げ、緩急するものではないこと、一、このたび重ねて(越国へ)乱入した意趣は、この夏に攻め入った際、越府を破却致すつもりでいたとはいえ、御使僧が甲州に御下向したと、留守の者共が申し越してきたにより、重ねて上意を奉じるゆえをもって、越府の破却を見合わせて帰陣し、とりもなおさず、西堂に対して申し述べた愚存は、右にはっきり示した通りであること、そして、(晴信が)信州補任の御内書を所持しているからには、甲・越和融の是非においては、越国へ仰せ届けられるのが最前であると納得して、(悦西堂は)彼の国へ下着したところ、すげなく追い払われたそうであること、これこそが上意への逆心であるわけで、御分別に勝るものはないこと、一、信州補任の御内書の旨がまだ成就しないうちに、信・越国の和融に関して、御下知が発せられたにより、(当時は)その旨を承知したものであること、なお、(詳細は)富森左京亮(信盛。大館晴光の内衆)の口上のうちにあること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』609号「謹上 大館上総介殿」宛武田「大膳大夫晴信」書状写、この書状の追而書は『戦国遺文武田氏編 第二巻』1410号のものである)。
12月に入って武田晴信は、出家して徳栄軒信玄と号する。
※『戦国遺文 武田氏編』609号文書と武田晴信の出家(『山梨県史 資料編5』2617号)については、鴨川達夫氏の著書である『日本史リブレット 人 043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』(山川出版社)を参考にした。
永禄2年(1559)2月 越後国長尾景虎(弾正少弼)【30歳】
20日、将軍足利義輝から御内書が発せられ、(武田)晴信との和談の勧告を、昨年に内書を書き記し、委細を申し遣わしたところ、大筋で同心した趣は、何よりも適当であり、神妙であること、いよいよ確実にそれを心得るのが肝心であること、なお、(詳細は大館)晴光(奉公衆)が申し届けること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』161号「長尾弾正少弼とのへ」宛足利義輝御内書【署名はなく、花押のみを据える】 封紙ウハ書「長尾弾正少弼とのへ」)。
足利義輝は、三好長慶(筑前守)と天文18年以来、対立と和解を繰り返したのち、同22年8月に三好長慶との抗争に敗れ、近江国高島郡朽木谷へ御座を移し、五年を経て、永禄元年の6月に江州六角佐々木義賢(左京大夫)らの支援を受け、京都の回復を目指して三好長慶(筑前守)と戦うと、同年9月に和睦が成立して11月に還京していた。
23日、公銭衆の吉江長資(通称は与橘か)・庄田定賢(惣左衛門尉)・某 貞盛が、越後国夷守地域の領主の一人である飯田与七郎(蒲原郡五十嵐川流域の飯田の地から出たと伝わる)へ宛てて請取状を発し、京都御要脚の公田段銭の事、 都合八段三十一束苅、てえれば、 以上参ヶ所、ただし、このうち二段四十四束苅の分は横曾祢にあり、彼の地は弘治二辰丙年に寺社方が横領し、これにより、未納で相論は今もって決着していないこと、右を、頸城郡夷守郷赤沢村内の富田与三左衛門尉分(係争地の横曽祢村分を除く)として、飯田与七郎が取り立てて納付し、よって、所納は前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』162号吉江「長資」・庄田「定賢」・「貞盛」連署段銭請取状写)。
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『新潟県史 資料編4 中世二』(新潟県)
◆『新潟県史 資料編5 中世三』(新潟県)
◆『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院「越後過去名簿」
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第六巻』(東京堂出版)
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