越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(長尾景虎)の略譜 【8】

2012-08-23 17:16:08 | 上杉輝虎の年代記

弘治3年(1557)正月3月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【28歳】

正月20日、信濃国更級八幡宮(更級郡)へ宛てた願文を認め、「隣州国主」として信州の安寧を取り戻すために甲州武田晴信を打倒する決意を表し、この立願が神助によって成就したあかつきには、信州の内で一所を当宮に寄進することを誓った(『上越市史 上杉氏文書集一』140号「八幡宮 御宝前」宛「長尾弾正少弼 平景虎」願文写)。

2月16日、在地の色部弥三郎勝長(外様衆。越後国平林(加護山)城主)へ宛てて書状を発し、信州陣については、一昨年に駿府(駿州今川義元)の御取り成しにより、無事が成立したにもかかわらず、懸念していた通り、晴信(甲州武田晴信)が策動を始めたので、はなはだ不愉快な思いをしていること、神慮といい、駿府の御取り成しといい、此方(景虎)からは手出しするべきではないとの思いから、ひたすら堪忍していたところ、このたび(武田)晴信は計略をもって、信州味方中である落合方の家中を引き裂き、(落合の拠る)葛山(水内郡)の地を攻め落としたこと、このために同じく味方中の嶋津方(左京亮忠直)は、何はさておいても本城の長沼城(水内郡)を放棄して支城の太蔵城(大倉城。水内郡太田荘)に後退せざるを得なかったこと、もはや我慢の限度を越えたので、爰元(越後国)の総員を彼の口へ急派し、景虎も半途に在陣中であること、雪中であるがゆえに御面倒ではあろうが、昼夜兼行での御着陣を待ち侘びていること、信州味方中が滅亡してしまっては、当国の存亡も危ぶまれるので、今般は相応の人数を整えられて、ここぞとばかりに精励されるべきであること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』141号 「色部弥三郎殿 御宿所」宛「長尾弾正少弼 景虎」書状写)。


これより前、能州畠山悳祐(左衛門佐入道。義続)・同義綱(次郎。修理大夫)父子から、内乱(年寄衆の神保宗左衛門尉総誠・温井兵庫助続宗・三宅筑前守総広らが、畠山一族の畠山四郎晴俊を擁して挙兵した)を鎮圧するための支援要請を受けるも、信州出馬を予定しているため、援軍の派遣を丁重に断り、兵糧の援助のみを請け負うと、18日、畠山悳祐・同義綱から返書が発せられ、再び飛脚を差し下すこと、このたびは返札をはじめとした様々な厚意を受け、感謝の言葉もないこと、いかにも累代の交誼に変わりないので、めでたく喜ばしいこと、ますます当城(能登国七尾城)は堅固なので、安心してもらいたいこと、今般の事情については、何度も申し伝えており、ここでは敢えて触れないこと、糧米を扶助してくれるそうで、何はさておき士卒の意気が揚がったこと、とにかく越国に計策を託したく、その助成をもって本意を達する以外に仕様がないやもしれず、少しでも波が穏やかで渡海に適する時機を得たならば、是非とも加勢を派遣してもらいたいこと、別紙をもって条々を申し伝えること、委細は遊佐美作守(続光)が書いて伝えること、これらを恐れ謹んで伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集』156号「長尾弾正少弼殿」宛畠山「悳祐」・畠山「義綱」連署状 封紙ウハ書「長尾弾正少弼殿 悳祐 義綱」)。

同日、畠山悳祐・同義綱から、取次の山田修理亮長秀(旗本衆)へ宛てて書状が発せられ、取り急ぎ飛脚を差し下したこと、当方の籠城について、このたび景虎から厚意を示してもらったので、ひたすら喜んでいる旨を申し伝えてほしいこと、糧米を扶助してくれるそうなので、何はさておき士卒の意気が揚がり、めでたく喜ばしいこと、とにかく越国に計策を託したく、その助成をもって本意を達する以外に仕様がないと思われ、少しでも波が穏やかで渡海に適する時機を得たならば、速やかに加勢を派遣してもらいたい旨を申し伝えるものであり、(山田長秀の)取り成しに期待していること、なお、詳細は遊佐美作守(続光)が書いて伝えること、これらを畏んで伝えられている(『新修七尾市史 七尾城編』文献史料編第三章 123号「山田修理亮殿」宛畠山「悳祐」・畠山「義綱」連署状写)。

23日、能州畠山家の年寄衆である遊佐続光から副状が発せられ、去る頃は御返書ならびに御厚意を給わり、感謝の言葉もないこと、今もって当陣に別条はないこと、糧物の援助を請け負って下さり、何はさておき歓喜していること、御加勢については、このたび越国は信州へ進攻されるため、御同意を得られなかったのは、やむを得ない事態であること、しかしながら、是非とも高徳をもって、その多寡にかかわらず一勢を援軍として寄越してもらいたいとの思いから、(畠山悳祐・義綱父子が)直書と条書にて申し入れられたものであり、早速にも御同意を得られれば、まさに当家再興にとっては主要であること、ここを十分に心得て申し入れたこと、これらを恐れ謹んで伝えられている。さらに追伸として、委細を飛脚の金台寺に申し伝えてほしく、(金台寺の)帰国を待って談合するつもりであることを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集』157号「長尾弾正少弼殿 御宿所」宛遊佐「続光」書状)。


※ 『上越市史 上杉氏文書集一』は、能州畠山父子と遊佐続光の書状を弘治4年に仮定しているが、『新修七尾市史7 七尾城編』における文献史料編第三章の概説と文書の年次比定に従った。


3月18日、返報を寄越してきた色部弥三郎勝長へ宛てて返書を発し、信州陣について、わざわざ御切書を寄越してもらい、祝着千万であること、再三にわたって申し上げた通り、このたびは(武田晴信と)興亡の一戦を遂げる覚悟なので、ここが正念場であり、ひたすら速やかな御参陣を待ち侘びていること、景虎もようやく出陣できること、(色部勝長の)御用意が整ったとの知らせは、望みを達して満足であること、今のところ彼口(信州奥郡)に異変はないので、どうか御安心してほしいこと、一切合切は対面の折に承ること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』142号「色部弥三郎殿 御返報」宛「長尾弾正少弼 景虎」書状【花押c】)。

3月23日、姉婿の上田長尾越前守政景(譜代衆。越後国坂戸城主))へ宛てて書状を発し、信州陣については、何度も申し伝えている通り、このたびはさらに抜き差しならない困難な状況であるため、看過してはならないこと、そのように考えながら、出陣の日取りについて、皆々と談合していた間にも、信濃味方中の高刑(高梨刑部大輔政頼。信濃国飯山城主)から、このまま景虎の信州出馬が遅延するようであれば、飯山城(水内郡)を放棄しなければならないとして、しきりに出馬を求められており、ここで救援を怠っては、いよいよ信望を失ってしまうため、明24日に出立するので、そのたびに申し伝えている通り、御面倒ではあっても、早々に御着陣されるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えた。さらに追伸として、こちらの様子については、藤七郎方(実名は景国と伝わる。政景の弟。越後中郡国衆・大井田氏の名跡を継いだとされる)が詳報することを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』143号「越前守殿」宛長尾「弾正少弼 景虎」書状【花押c】)。



この間、信府深志城(筑摩郡)に在陣中の甲州武田晴信(大膳大夫)は、2月15日、信濃在陣衆に命じ、敵方の信濃衆・落合次郎左衛門尉が拠る信濃国葛山城(水内郡)を攻め落としている。

25日、信州先方衆の木嶋出雲守・原(山田)左京亮(ともに高梨氏の旧臣。信濃国山田城に拠るか)へ宛てて
書状を発し、このほど飯富兵部少輔(譜代衆。信濃国塩田城代)の所へ寄越してくれた注進状によれば、敵勢が中野筋(高井郡)に進出してきた事実を把握したこと、幸いにも当府(深志城)に在陣中なので、もしも敵勢が大軍であるならば、その方面に再進攻するつもりであること、それまで城内を堅守するべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』531号「木嶋出雲守殿 原左京亮殿」宛武田「晴信」書状写)。

3月10日、去る2月15日に信州在陣衆と共に葛山城を攻めて戦功を挙げた諏方清三・千野靫負尉・内田監物をはじめとする信州先方衆やその被官たちへ宛てて感状を発し、それぞれが敵兵ひとりを討ち取った戦功を褒め称えるとともに、今後ますます忠信を励むように申し渡している(『戦国遺文 武田氏編一』533・534号 武田晴信感状、535号 武田晴信感状写、536~538号 武田晴信感状、539号 武田晴信感状写、540号 武田晴信感状、541号 武田晴信感状写、542~545号 武田晴信感状、546号 武田晴信感状写、547・548号 武田晴信感状、549号 千野靫負尉勲功目安案)。

11日、葛山城域内の静松寺へ宛てて書状を発し、落合遠江守・同名三郎左衛門尉は最前からの筋目により、相変わらず忠信を励むつもりである旨を申されているのであれば、なおさらに感じ入ること、落合惣領のニ郎左衛門尉方が当手に属されたとはいえども、両所(遠江守・三郎左衛門尉)に対してはますます懇切に遇するつもりであり、この趣意を仰せ届けてもらいたいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』495号「静松寺」宛武田「晴信」書状)。

14日、原左京亮・木嶋出雲守へ宛てて返書を発し、去る11日付の注進状が、今14日の晩に着府したので、被読したところ、越国衆が当国に出張してきたようであるが、元より承知のうえなので、いち早く出馬したこと、詳細については、その表に着陣した折に面談するべきこと、(原・木嶋の)存意もつぶさに承ること、詳細は飯富兵部少輔の方から書いて伝えること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』550号「原左京亮殿 木嶋出雲守殿」宛武田「晴信」書状)。

20日、信州先方衆の室賀兵部大輔(信濃国室賀城主。越後国に亡命した村上義清の旧臣)へ宛てて感状を発し、去る15日の信州水内郡葛山城攻めにおいて、其方の被官である山岸清兵衛尉が小田切駿河守を討ち取った戦功に感じ入っていること、(山岸へ)今後ますます忠信を励むように申し含めてほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』551号「室賀兵部太輔殿」宛武田「晴信」感状 封紙ウハ書「室賀兵部太輔殿 晴信」)。



弘治3年(1557)4月7月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【28歳】

4月18日、信州へ向けて出馬する(『戦国遺文 武田氏編一』550・558号の武田晴信書状によれば、越後衆の出張を受けて武田晴信父子は信州へ出馬してきたと述べているから、景虎は一部の越後衆を先に向かわせていたことになる)。

21日、信濃国善光寺(水内郡)に着陣すると、参陣途中の色部弥三郎勝長へ宛てて書状を発し、このたび善光寺の地に着陣したこと、甲州武田方の山田要害・福島城(ともに高井郡)が自落し、退去していた信州味方中はそれぞれ還住を遂げたので、取り敢えず御安心してほしいこと、味方中の皆々から寄せられた事情もあるので、早々に御着陣されるのを心待ちにしていること、どうにか参戦してもらえれば、めでたく喜ばしいこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』145号「色部弥三郎殿 御宿所」宛「長尾弾正少弼 景虎」書状【花押c】)。

25日、数ヶ所の敵陣や要害の根小屋を焼き払い、信濃国旭山城(水内郡)を再興して拠点と定め、甲州武田晴信を戦場に引き摺り出して決戦を挑むための駆け引きを始めると、武田側は和睦(将軍足利義輝から双方に停戦命令が下されている)を含めた様々な働き掛けをしてきたので(『戦国遺文武田氏編一』609号 武田晴信書状写)、今後の推移を見定めるために一旦、信濃国飯山城(水内郡)へと後退する。

5月10日、飯山の小菅山元隆寺(高井郡)に願書を納め、甲州武田晴信が一戦を避けているので、しばらく飯山の地に滞陣していたが、明日に上郡へ進出することを表明し、神助をもって勝利を得られれば、河中島において一所を、末代まで寄進することを誓った(『上越市史 上杉氏文書集一』147号「平景虎」願文写)。

同日、出羽国の味方中である土佐林能登入道禅棟(杖林斎。出羽国大浦の大宝寺新九郎義増の重臣。出羽国藤島城主))へ宛てて返書を発し、このたび信州へ出馬するにあたり、先頃に使者の野島平次左衛門(旗本衆)を(色部勝長に参陣を要請するため)瀬波(岩船)郡へ下向させた機会に、直筆をもって申し上げたところ、御懇報が寄せられたので、本懐を達してめでたいこと、先月18日に信州へ向けて越山すると、同25日には、数ヶ所の敵陣と根小屋を焼き尽くし、旭山要害を再興して本陣を据えたこと、この上は、ひたすら武略を駆使して(武田)晴信を引き摺りだし、彼の軍勢と一戦する覚悟を決めていたところ、敵地から様々な和平案を提示してきたので、一先ず静観していること、御承知の通り、爰元は抜かりなく堅陣を維持しているので、御安心してほしいこと、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』148号「土佐林能登入道殿」宛長尾「弾正少弼 景虎」書状【花押c】)。

12日、犀川を越えて香坂(埴科郡。海津のことらしい)の地を強襲して周辺を焼き払う。

13日、坂木・岩鼻(ともに埴科郡)の両地を蹂躙したところ、一・二千ほどの甲州武田軍前衛が姿を現したので、迎撃態勢に入ったが、相手が後退してしまい、捕捉するには至らなかった。

こうしたなか、飯山城の高梨刑部大輔政頼から陣中見舞いの飛脚が到来すると、15日、すぐさま高梨政頼へ宛てて返書を発し、当口の戦陣について、取り急ぎ御飛脚が到来し、満足していること、去る12日に香坂へ攻め込むと、彼の地一帯を焼き払ったこと、翌13日には板木・岩鼻の地を蹴散らしたこと、すると一・ニ千ほどの凶徒が現れたので、一斉に攻めかかろうとしたところ、凶徒は五里から三里も遁走してしまい、打ち漏らしたのは、実に無念であること、今後については天気が好転すれば、また進撃を再開すること、何かしら異変があれば申し入れること、これらを恐れ謹んで伝えた。さらに追伸として、先刻にも申し入れた通り、御用件があるため、草出(草間出羽守。高梨氏の重臣)を寄越されるのを心待ちにしていることと、大変な御負担ではあっても、御力を発揮されるのは今この時であり、もう言えるのはこれに尽きることを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』149号「高梨殿 御報」宛「長尾 景虎」書状【花押c】)。

その後、飯山以北で武田方に属している信濃国衆の市川藤若(のち信房を名乗る)が拠る「野沢之湯」要害(高井郡)の攻略に向かい、高梨刑部大輔政頼を通じて帰属を勧告したところ(高梨政頼の使者として草間出羽守が野沢に赴いたと思われる)、市川に拒否される。

6月11日、再び飯山城へと戻った。



一方、この情報に接した甲州武田晴信(大膳大夫)は、16日、市川藤若へ宛てて書状を発し、取り急ぎ客僧をもって申し伝えること、去る11日に長尾景虎が飯山に移陣したそうであること、そして、このたび耳にした風聞によれば、長尾方の高梨政頼が野沢に現れ、其方(市川藤若)と景虎の和融を持ち掛けたそうであり、こうした互いにとって疑念が生じるような風説は伝えたくはないが、何事も隠し事をしないとする誓約の旨に従い、本心を残らず申し伝えること、幸いにも当陣は堅固であるばかりか、来る18日には、上州衆の全軍が当筋(信濃国深志城)に、相州北条氏康からは加勢として北条左衛門大夫(玉縄北条綱成。一族衆。相模国玉縄城主)が上田筋(小県郡)に到着するので、日増しに越国衆の威勢が減退していくのは明らかであるから、この機会に景虎を滅ぼしたいという晴信の宿願を達する決意であり、速やかに出撃してほしいこと、事態の推移により、そのたびに使者を派遣して一切を報知すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』561号「市川藤若殿」宛武田「晴信」書状写)。

23日、市河藤若へ宛てて書状を発し、このたび寄せられた注進状によると、(長尾)景虎が「野沢之湯」に侵攻し、その要害に攻めかかる素振りを見せる一方、(市河藤若の)籠絡を図るも、同意しなかったばかりか、要害の防備を尽くされたゆえ、長尾は何ら成果を得られずに飯山城へ後退したようであり、実に心地よく、このたびの其方(市河藤若)の振舞いはいずれも頼もしい限りであったこと、(長尾が)野沢に在陣していた折、飛脚をもって中野筋(高井郡)への援軍要請を受けたので、上原与三左衛門尉(直参衆)に先導させた西上野の倉賀野衆と、当手から信濃国塩田城(小県郡)の在城衆である原与左衛門尉(直参衆)に足軽衆をはじめとした五百名を、加勢として中野に在陣する真田(弾正忠幸綱。信濃先方衆。信濃国真田城主)の許へ急行させたが、すでに越国衆は退散していたので、無念極まりなく、いささかも対応を怠ったわけではないこと、こうした事態が二度とないように万全を期して、今後は湯本(野沢)から要請があり次第、こちらを通さずに、塩田城代の飯富兵部少輔(譜代衆)の一存で援軍を催す許可を与えたので、御安心してほしいこと、詳細は使者の山本菅助(直参衆)が口上すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編一』562号「市河藤若殿」宛武田「晴信」書状)。



こうしたなかで、越後国西浜口に侵攻してきた武田軍の別働隊を、急派した越後衆が鉄砲を撃ち掛けるなどして退けた。



この際、武田方の信濃先方衆である千野靭負尉(譜代衆・板垣信憲の同心)は、使者として西浜口の武田軍別働隊の陣所に赴いたところ、越後衆の襲撃に遭遇して鉄砲傷を負っている(『戦国遺文 武田氏編一』549号 千野靫負尉勲功目安案)。

そして、甲州武田晴信は自ら信府深志城(筑摩郡)から信濃国川中嶋(更級郡)の地へ進出すると、7月5日、板垣左京亮(実名は信憲。譜代衆)を始めとする別働隊をもって、信・越国境の信濃国小谷(平倉)城(安曇郡)を攻め落としている(『戦国遺文武田氏編一』549号 千野靫負尉勲功目安案、564~567号 武田晴信感状、568号 武田晴信感状写、569号 武田晴信感状、570号 武田晴信感状写、571号 武田晴信感状)。

6日、前線の水内郡で活動する宿将の小山田備中守虎満(譜代衆。信濃国内山城代)へ宛てて返書を発し、各々が奮励されているので、其元の陣容は万全であるとの報告が寄せられ、ひときわ満足していること、当口については、敵方の信濃衆である春日(信濃国鳥屋城主か)と山栗田(善光寺別当・里栗田氏の庶族)を追い払い、寺家(善光寺)・葛山衆に人質を差し出させたこと、嶋津(長沼嶋津氏の庶族である赤沼嶋津氏)については、今日中に服従する意思を示しており、すでに以前から誼みを通じているため、別条はないであろうこと、このうえは詰まるところ、信濃先方衆の東条(越後に逃れた東条氏の庶族。あるいは武田氏の東条(雨飾城)在陣衆か)と綿内(同じく井上氏の庶族。信濃国綿内城主)ならびに真田方衆と協力し、敵方の調略に努めるべきこと、今が信濃奥郡を制する好機と見極めており、いささかも油断してはならないこと、これらを恐れ謹んで伝えている。さらに追伸として、内々に綱島(更級郡大塚。犀川河畔)の辺りに布陣するつもりでいたところ、よしんば越後衆が進撃してきたら、彼の地は防戦に適していないとする諸将の意見に従い、佐野山(同塩崎)に布陣したことと、この両日は人馬を休ませたので、明日に軍勢を進めることを伝えている(『戦国遺文武田氏編一』563号「小山田備中守殿」宛武田「晴信」書状)。



弘治3年(1557)8月 越後国長尾景虎(弾正少弼) 【28歳】

先月の信濃国小谷城陥落により、越後国西浜口(頸城郡)が危うくなったので、上田長尾越前守政景(景虎の姉婿。越後国坂戸城主)らを信濃国飯山城に残留させて、大きく後退したところ、その長尾政景から、同じく飯山城に留めた越後奥郡国衆の安田治部少輔長秀(政景とは姻戚関係にあると伝わる。越後国安田城主)を通じ、前線で孤立することへの不安を愁訴されたので、4日、上田長尾越前守政景へ宛てて書状を発し、このたび安田方をもって条々を仰せられたので、つぶさに御存分を聞き届けたこと、されば、(信州に)御出陣して御留守が長引くに至っては、万が一の事態が起こった場合、決して御進退を見放さないでほしいとの御存分を、くれぐれも承知していること、このような御懸念は御尤もであること、すでに信州の面々衆と一旦でも結んだ交誼の証として、今日に至るまでの間、長年にわたる加勢の苦労は並々ならぬものであったこと、まして浅からぬ因縁などがあるにもかかわらず、どうして貴所(長尾政景)の御事を見放せるわけがなく、この(景虎の)存分を安治(安田治部少輔長秀)に詳説したこと、ひとえに(長尾政景の)御心腹を頼もしく思っていること、それでもまだ御疑念があるならば、誓詞をもって示すこと、詳細については彼方(安田長秀)が雑談すること、これらを恐れ謹んで伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』150号 長尾「越前守殿」宛長尾「弾正少弼 景虎」書状【花押a3ヵ】)。

14日、旗本衆の重鎮である庄田惣左衛門尉定賢(公銭方)へ宛てて書状を発し、はやばやと西浜口に着陣したそうで、その殊勲は紛れもないこと、彼の口へ諸勢を派遣したからには、綿密に談合して陣容を整えるべきこと、この正念場は方々の奮励に掛かっていること、これらを謹んで伝えた。さらに追伸として、これらの旨を皆々に周知することと、取り分け小越と平林(ともに旗本衆)に申し伝えることを指示した(『上越市史 上杉氏文書集一』135号「庄田惣左衛門尉殿」宛長尾「景虎」書状写)。

その後、上田長尾越前守政景らが飯山方面に進出してきた甲州武田軍の信濃駐留部隊を信濃国上野原(水内郡)の地で撃退すると、29日、上田衆の南雲治部左衛門尉に感状を与え、このたびの信州上野原の一戦における並外れた軍功を称えるとともに、今後のさらなる奮闘に期待を寄せた(『上越市史 上杉氏文書集一』152号「南雲治部左衛門(尉)とのへ」宛長尾「景虎」感状写)。


同日、長尾政景が、被官の大橋弥次郎に感状を与え、このたびの信州上野原の一戦における並外れた軍功を称えるとともに、今後のさらなる奮闘に期待を寄せている(『上越市史 上杉氏文書集一』153号「大橋弥次郎殿」宛長尾「政景」感状写)。

同日、長尾政景が、被官の下平弥七郎に感状を与え、このたびの信州上野原における武田晴信との一戦に勝利した際の見事な軍功を称えるとともに、今後のさらなる奮闘に期待を寄せている(『上越市史 上杉氏文書集一』154号「下平弥七郎殿」宛長尾「政景」感状写)。


※ ウェブサイト『松澤芳宏の古代中世史と郷土史』上野原の戦い、飯山市静間田草川扇状地説



一方、甲州武田晴信(大膳大夫)は、別働隊が飯山口に進攻して敵勢と交戦したのを受けて、8月15日、東条(雨飾城)在陣衆へ
宛てて書状を発し、本日における皆々の奮戦は快然であること、ただし、今後は千曲川を渡河する際には、十分に瀬踏みをして軽はずみな進軍を慎むべきこと、皆々で相談し合い、堅実な攻戦を心掛けるべきこと、これらを恐れ謹んで伝えている(『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 574号 武田晴信書状写 )。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『新修七尾市史7 七尾城編』文献史料編 第三章 未曾有の内乱の中で
◆『戦国遺文 武田氏編 第一巻』

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