戦国期の越後国主上杉輝虎(長尾景虎。号宗心。上杉政虎。号謙信)の実記については、『上越市史』(上越市)・『増補改訂版 上杉氏年表』(高志書院)などによって、既に定まった感があります。
しかしながら、黒田基樹氏による上杉輝虎花押型の分類(『戦国大名と外様国衆』 【文献出版】・『戦国期東国の大名と国衆』 【岩田書院】)と今福匡氏による上杉旱虎署名文書の解析(『歴史研究』第502号 「旱虎」署名の謙信書状について 【歴研】)で得られました重要な研究成果が反映されていないのが、とても残念でなりません。
それから、『別冊歴史読本 上杉謙信の生涯』(新人物往来社)によって、永禄7年から永禄10年に改められられた甲州武田・越後上杉両軍による信州野尻城の陥落と奪還が、なかなか永禄10年の出来事として定着しないことに、とても憂慮しています。
そこで先ずは、誠に僭越ではありますが、『越佐史料』(名著出版)・『新潟県史』(新潟県)・『上越市史』(上越市)・『増補改訂版 上杉氏年表』(高志書院)などや、黒田、今福御両氏を始めとする研究者の方々の論考や著書などを参考にし、更には小考も交えまして、現時点に於ける実証可能な限りの上杉輝虎の略譜をまとめて示したいと思います。
簡単ではありますが、御二方の研究成果の実例を挙げておきます。
黒田氏の分類による上杉輝虎花押型の一種(『上越市史』はe2型とする)は、主に永禄9年に使用が認められることから、『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 464号 (永禄8年ヵ)7月17日付河田豊前守(長親)宛上杉輝虎書状(柏崎市 個人蔵)・465号 (永禄8年ヵ)7月19日付長尾伊勢守(景貞)・大井田藤七郎(国景)・栗林二郎左衛門尉(政頼)宛上杉輝虎書状(上越市 個人蔵)などの上杉輝虎花押e2型の文書は、永禄9年に発給されたものとなる。
今福氏の解析による上杉旱虎署名文書は、上杉輝虎が、越後衆(輝虎の旗本や国衆など)に私信を送る際、永禄12年の初頭頃から、元亀元年(永禄13年)に法号謙信を称するようになるまでの間に限って、「輝虎」との併用が認められるため、『上越市史 別編1 上杉氏文書集一 』308号(永禄5年ヵ)2月13日付長尾喜平次(顕景)宛上杉旱虎(輝虎)書状(上杉家文書)などの文書は、永禄12年(永禄13年2月は長尾顕景が関東遠征に従軍している)に発給されたものとなる。
ちょっと思い付いたので、メモさせてもらいます。
河田長親の受領名豊前守は、古志長尾氏の当主が名乗っていたものを与えられたのだから、鰺坂長実の受領名備中守は、鯵坂と河田との関係を考えると、古志長尾氏の有力一族長尾備中守からきているのではないだろうか。
しかしながら、黒田基樹氏による上杉輝虎花押型の分類(『戦国大名と外様国衆』 【文献出版】・『戦国期東国の大名と国衆』 【岩田書院】)と今福匡氏による上杉旱虎署名文書の解析(『歴史研究』第502号 「旱虎」署名の謙信書状について 【歴研】)で得られました重要な研究成果が反映されていないのが、とても残念でなりません。
それから、『別冊歴史読本 上杉謙信の生涯』(新人物往来社)によって、永禄7年から永禄10年に改められられた甲州武田・越後上杉両軍による信州野尻城の陥落と奪還が、なかなか永禄10年の出来事として定着しないことに、とても憂慮しています。
そこで先ずは、誠に僭越ではありますが、『越佐史料』(名著出版)・『新潟県史』(新潟県)・『上越市史』(上越市)・『増補改訂版 上杉氏年表』(高志書院)などや、黒田、今福御両氏を始めとする研究者の方々の論考や著書などを参考にし、更には小考も交えまして、現時点に於ける実証可能な限りの上杉輝虎の略譜をまとめて示したいと思います。
簡単ではありますが、御二方の研究成果の実例を挙げておきます。
黒田氏の分類による上杉輝虎花押型の一種(『上越市史』はe2型とする)は、主に永禄9年に使用が認められることから、『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 464号 (永禄8年ヵ)7月17日付河田豊前守(長親)宛上杉輝虎書状(柏崎市 個人蔵)・465号 (永禄8年ヵ)7月19日付長尾伊勢守(景貞)・大井田藤七郎(国景)・栗林二郎左衛門尉(政頼)宛上杉輝虎書状(上越市 個人蔵)などの上杉輝虎花押e2型の文書は、永禄9年に発給されたものとなる。
今福氏の解析による上杉旱虎署名文書は、上杉輝虎が、越後衆(輝虎の旗本や国衆など)に私信を送る際、永禄12年の初頭頃から、元亀元年(永禄13年)に法号謙信を称するようになるまでの間に限って、「輝虎」との併用が認められるため、『上越市史 別編1 上杉氏文書集一 』308号(永禄5年ヵ)2月13日付長尾喜平次(顕景)宛上杉旱虎(輝虎)書状(上杉家文書)などの文書は、永禄12年(永禄13年2月は長尾顕景が関東遠征に従軍している)に発給されたものとなる。
ちょっと思い付いたので、メモさせてもらいます。
河田長親の受領名豊前守は、古志長尾氏の当主が名乗っていたものを与えられたのだから、鰺坂長実の受領名備中守は、鯵坂と河田との関係を考えると、古志長尾氏の有力一族長尾備中守からきているのではないだろうか。