渓流の雄 岩魚(イワナ)
奥出雲は鳥取県と峰分けする船通山、私の住む場所から車で二時間ほど、南に行
った所である。途中『たたら』(玉鋼を作る鋼炉で日本刀の材料となっていた)でその
名を馳せた横田町があり、更にその近くには松本清張の推理小説『砂の器』の舞台
となった算盤の産地、亀嵩町(かめだけ)がある。
船通山は雪深い。下界が春の息吹を感じても未だ、笹の下には残雪が残る。雪も去
り、下手くそな鶯がホーケキョと鳴く頃、渓流釣りは解禁になる。川で魚を釣るくらい、
細かいことなど言うなと言いたくなるが自然を守る掟は厳しい。誰に、この川の権利が
あるの。この川は日本人誰ものはず、勝手に漁業権なんか作って、もぉ!
イワナは敏感な魚だ。川の中を見ていると餌となるものが流れて来ると,棲家としてい
る岩の下から素早いスピードで飛び出し、黒い糸を引くように見える。
敏感な割には貪欲なため、エサを追う姿は周囲のことに無頓着のようだ。
こいつを釣り上げるため、四時に起きて船通山まで来たのだ。途中には立派な熊笹が
生い茂り、端午の節句の頃には、これを生計の足しにする人もいる。
逸る心を抑え竿を出す。渓流釣りの竿は川辺の雑木が邪魔になるので短い方がいい。
本当は魚に警戒心を与えない長い竿が理想であるが木に糸が絡みどうもならないの
で、小さい川では向かない。餌は、その川にいる自然のものが最適だ。川虫、幼虫,蝶、
青蛙が好物とみえる。しかし私たちは好物を取り揃えて釣りに出掛けることはできない
から、ミミズ、それも縞ミミズがいい。上流からサッと流れに載せる。これを何度も繰り返
す、やがて黒い綫が走る。警戒してか、餌が気に入らないのか当たりはなく下流で糸を
張る。その内、思わぬ方向に走る、遂に食いついた。周りの雑木を気にしながら手繰り
寄せると二十センチ程のイワナを手にすることができた。更に、上流に移動して行くと川
幅が僅か五十センチもない所で糸を垂れてみた。
水は山々がこの冬に受けた雪を溶かし、そのまま流しているように冷たい。五分と手を
つけていられないほどで、この水を手ですくい飲んでみると、何物にも代えがたい自然
の味を感じることが出来る。水はこんなに美味しいものなのかとも思う。上流にいくほど
川幅は狭くなるから、そこに棲むイワナの食するものも限られてくる。つまり下流になる
ほど色々な餌が流されてくるが、上流では、それが下流より少ない。
餌をつけ狭い川の中に糸を流すと、すぐ目の下にイワナが姿を現した。餌のミミズには
見向きもしないで、流れの調子とりにつけている板鉛ばかりに興味を示しつついてい
る。ミミズを口先に持ってきても興味を示さない。
その時、小さな蝶が飛んできて木に留まったので、そいつを採り餌にしてみたところ、そ
れまで鉛にばかり行っていたイワナが蝶に食らいついた。言うまでもなく、それからはそ
こらにいる虫を餌に大漁を重ねた。釣った魚の腹を開けてみると、先述の餌を食べてい
た。それからは、昆虫採集後にイワナ釣りとなり、子供用の補虫網を持参することになる。
イワナは身体の割に口が大きいので、釣針は渓流用の五号、ハリスは一号以下の細い
ものを使い、餌が軽く流される程度の錘を針から三十センチほど上につける。流れの強
弱によって分量を変えるので板鉛を切り貼りして調整する。
私の場合、三間の振出竿をばらして一間程度にしたものを使用していた。
山奥に入るので、イバラや棘で直ぐに破れてしまうのを防ぐ厚手の作業ズボン、滑り防
止、マムシから身を守るためスパイク付きの長靴を履いていた。
イワナは川魚でありながら川魚特有の臭いはなく、ヤマメや鮎と比べても臭いは全くと言
ってもいい程だ。軽く塩を振り炭火で焼き頂く、その風味は絶品である。下唇がシャクレ
た尺物を求め歩いたが一度も出会うことはなかった。ここではイワナと紹介したが、当地
ではコギという。違いがどこにあり、どんな亜種かは知らないが、獰猛な魚で川を渡る蛇さ
えも餌にすることや、水面を飛ぶ蜻蛉を水中から飛び跳ねて捕まえるダイナミックな渓流
の王者である。