小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

『風立ちぬ』と『永遠の0』について(その3)

2013年11月14日 16時57分01秒 | 文学

『風立ちぬ』と『永遠の0(ゼロ)』について(その3)




4.『永遠の0(ゼロ)』

『永遠の0』は、百田尚樹(ひゃくた・なおき)さんのエンターテインメント小説です(2006年・太田出版刊。講談社文庫でも読めます)。のち漫画にもなり、今年(2013年)の12月には、映画が封切られるそうです。
 司法試験に何度も落ちて働く気もなく浪人している弟が、ライターの姉から依頼を受けて、特攻隊で死んだ実の祖父(義理の祖父は別にいる)のことを二人で調べ始める。いまや80代前後になった生き残り兵士たちを苦労して探し当てて話を聞くうち、祖父の意外な側面がしだいに明らかになって行き、最後に劇的な落ちがついて終わります。読んでいない方のために、この落ちについては言わないことにしましょう。
 あらかじめお断りしておきますが、私は、正直なところ、この作品の小説としての出来については、それほど高く評価していません。人間関係の作り方が少々おざなりだし、どんでん返しも、これはちょっとやりすぎという感じ。何よりも、狂言回し役の現代人姉弟が生き残り兵士たちの話を聞いていくうちに、彼らの生き方、考え方に大きな変化が生ずるという設定が、どうにも安っぽい。そんなことはたぶんあり得ませんよ。つまりこの非現実的な流れが、戦争から遠く離れた世代に対してクサイ教訓を垂れているような感じで、その無効性が露出してしまっているのがいただけない。こんな余計な設定をせずに、ただ一人の現代人の聞き書きというシンプルな形をとった方がよほど良かったと思います。もっとも、姉の恋人(?)であるジャーナリストの男のイメージは、いかにも朝日新聞的な「戦後民主主義」体質がカリカチュアライズされていて、なかなか痛快でしたけどね。
 またこの作品は、詳しい資料的な記述に満ちており(たとえば坂井三郎の『大空のサムライ』。私は未読)、それらを借りてきて寄せ集めただけだというような批判があるようです。しかし、こういう批判については、逆に賛同しかねます。というのは、たとえ資料がいくらそろっていようと、それにいちいち当たって調べる人は、戦前・戦中史に特別の関心を持つごく少数に限られます。ですから、それらをきちんと参照したうえで、現代の多くの若者にも楽に読めるようなエンタメ物語に仕上げるというのは、並大抵の業ではありません。
 前回、小林よしのり氏の漫画『戦争論』に対する林道義氏の批判について述べましたが、林氏も、この漫画が、膨大な資料を駆使して、現代の若者たちに「あの戦争とは何だったのか」という問いを広く喚起した点、戦争を少しでも肯定的に語ることに対するタブーを打ち破り、空想的な平和主義の欺瞞性を暴いて見せた点については、大いに評価していました。私も同意見で、特に南京虐殺問題や従軍慰安婦問題について、いかに中韓寄りの記録や写真が虚偽であるかをきちんと示して見せた功績はとても大きいと思います。
 つまり、百田氏も小林氏も、大衆読者を相手にする小説家や漫画家が歴史問題を扱う時の役割とは何かということをよく自覚しているので、この、「編集し、発信し、広範な大衆に認知させる」という作業がいかにたいへんな力技を要するか、それはやってみない人にはわかりません。もちろん、この作業を通して、その作者なりの思想性(史観)がおのずと現れます。それを問題にすることは大いにやるべきですが、これこれの資料を引き写して継ぎ合せているから「パクリだ」などと軽々に非難してはいけないのです。
 
 さて、私が『永遠の0』に惹きつけられた大きな理由は、まさにその思想性にあります。
 主人公・宮部久蔵は次のように造型されています。

①海軍の一飛曹(下士官)。のちに少尉に昇進。これは飛行機乗りとして叩き上げられたことを意味する。
②すらりとした青年で、部下にも「ですます」調の丁寧な言葉を使い、優しく、面倒見がよい。棋士をめざそうかと思ったほど囲碁が強い。
③パイロットとしての腕は抜群だが、仲間内では「臆病者」とうわさされている。その理由は、機体の整備点検状態に異常なほど過敏に神経を使うこと、飛行中絶えず後ろを気遣うこと、帰ってきた時に、機体にほとんど傷跡が見られないので、本当に闘ったのか疑問の余地があること、など。
④「絶対に生き残らなくてはだめだ」とふだんから平気で口にしており、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」とは正反対の思想の持ち主である。ガダルカナル戦の無謀な作戦が上官から指示された時には、ひとり敢然と異議を唱え、こっぴどく殴られる。
⑤奥さんと生れたばかりの子どもの写真をいつも携行しており、一部の「猛者」連中からは軟弱者として軽蔑と失笑を買っている。
 一度だけ宮部は部下を殴ったことがある。それは、撃墜された米パイロットの胸元から若い女性のヌード写真が出てきたときのこと。部下たちが興奮し、次々に手渡して弄んだ後、宮部がそれを米兵の胸元に戻すと、ひとりの兵が彼の制止も聞かずもう一度取り出そうとしたからである。その写真の裏には、「愛する夫へ」と書かれていた。「できたら、一緒に葬ってやりたい」と彼は言う。
⑥内地でパイロット養成の教官を務めている時期、厳しい実践教育をくぐり抜けた生徒に合格点を与えれば与えるほど、彼の苦悩と葛藤は深まる。戦局はもはや敗色濃厚で、優秀な人材を死地に送ることに仕事がら加担せざるを得ないことがわかっているからである。
⑦空中戦で彼が珍しく油断した時、腹心の一人が機銃の装備もないままに、捨て身で割って入り、敵の銃弾を受けて重傷を負う。宮部は命拾いをしたことに感謝しつつも、いっぽうではその部下の無謀さをなじる。

 まだまだあるでしょうが、私の印象に残ったのはこんなところです。この作品は、なぜあれほど「生き残らなくてはならない」と主張していた宮部が、敗戦間際の特攻隊攻撃で敵艦に進んで突っ込んでいったのかという謎を最大の焦点として進むのですが、それがじつは⑦のエピソードと関係があります。これ以上は、読んでのお楽しみということにしましょう。
 ところで、前回と前々回とを読んでくださった皆さんには、私がなぜこの宮部久蔵という人間像に強い関心を抱くのかが、ほぼおわかりだと思います。作者・百田氏は、日本にとってあの戦争のどこがまずかったのかという根本的な問題をよくよく考えたうえで、こういうスーパーヒーローを創造しているのですね。もちろんこんなスーパーマンがいるわけはありませんが、宮部の人となり、ふるまいを見ていると、こういうキャラが許容されるような軍であったなら、つまりそういう余裕のある雰囲気が重んじられていたなら、日本のあの戦争(和平・停戦への努力も含めて)はもっとましな結果になっていたに違いないという、作者の日本批判が強く込められていることを感じます。
 実際、作者は、ひとりの語り手をして、机上で地図とコンパスだけを用いて作戦を立て、ゴロゴロ死んでいく兵隊たちを将棋盤上の歩兵のようにしか考えていない参謀本部(軍事官僚)のハートのなさを強く批判させています。この現場を知らない官僚体質が、民の苦しみなど想像もせずにTPP参加や消費増税などを平然と決めていく現在の官僚(およびその腰巾着になっているマスコミと一部の経済知識人たち、それに決然と抵抗もできない政権担当者たち)の体質とダブって見えるのは、私だけでしょうか。
 ちなみに私は、「いのちのたいせつさ」といった戦後的な価値の抽象性をそのままでよしとするものではありません。この価値は、抽象的なぶんだけ人間には命をかけて闘わなければならない時がある、というもう一つの価値を忘れさせます。この戦後的価値が実際に作動するときには、超大国頼み、金頼み、無策を続けて状況まかせ、憤るべきときに憤らない優柔不断、何にも主張できない弱腰外交、周辺諸国になめられっぱなしといういくつもの情けない事態を招いてきました。それは、私たちがさんざん見せつけられてきた戦後政治史、外交史の現実です。「いのちのたいせつさ」と言っただけでは、何も言ったことにならないのです。
 しかし逆に、「命をかけて闘わなければならない時がある」という言い方も、それだけでは抽象的であり不十分です。問題は、どういう状況の下で、どういう具体的な対象に対してなら「命をかけるに値する」と言えるかなのです。
 敗北必至であることが、少なくとも潜在的には感知されている状況の中で、いたずらに「命をかける」という価値を強調すれば、結果的に多くの「犬死」を生むことにしかならないでしょう。特攻隊がそのよい例です。美学や一時の昂揚感情が、軍事上最も必要とされる戦略的合理性を駆逐して多くの若者を犠牲にし、あとには、やるせない遺族の思いが残るだけ。こういうことをずるずるとやってしまうのが、情緒的な空気に流されやすい日本人の国民性(そしてそれに憑依する一部保守派)のダメなところです。
 もう一度、宮部久蔵というキャラに象徴的に表れている「価値」に注目しましょう。彼は別に「お国のため」に命をかけているのではありません。生きなくてはならないという信条がそれをよく表しています。しかし逆に、彼は自分だけこすからく生き残ろうと、状況から逃避しているのでもありません。現実には隊長として部下の命をあずかりつつ、いかにして眼下の敵を撃墜して勝利するかという合理的な算段に心血を注いでいるのです。前線という制約下に置かれて、多少とも賢くかつ有能にふるまおうとすれば、だれでもそうするべきだし、またそうせざるを得ないでしょう。
 彼がよりどころとしているのは、抽象的な「公」でもなければ、抽象的な「いのち」でもありません。彼がよりどころとしているのは、結婚して日の浅い妻と、いまだ会うことのかなわない子どもという具体的な存在なのです。私なりの言い方で言えば、エロスの関係こそが、自分の「いま」を支えているのです。私はこの宮部の在り方にとても共感を感じます。「公」も「いのち」も、一種のイデオロギーであり、実体の不確かな超越的な観念にほかなりません。どちらにも魅力はあり、それに引き寄せられていく心情は理解できます。乱暴な言い方をすれば、男は前者、女は後者を選びがちですね。しかし、抽象的な「公」理念にひたすら奉仕すれば、具体的な「いのち」を犠牲にしなければならず、抽象的な「いのち」理念にただ身をあずければ、公共精神を喪失しただらしない無策や無責任が露呈するだけです。
 単純なイデオロギーにけっして籠絡されてはなりません。これらはもともと絶対の二者択一項というわけでもない。それが絶対の二者択一項に見えるとすれば、社会構造のどこかが切迫しすぎていて狂っているのです。図式的な言い方になりますが、大切なことは、エロス的関係をよく生きることが可能となるために、私たちはどのような社会構造(「公」)を必要とするのか、という問題について叡智を注ぐことなのです。
 国家とは、共有できる情念を最大の幅のもとに束ね、そうしてその成員たちすべてに秩序と福利と安寧を保証することを理想とする共同性です。この共同性(共同観念)の現在における存在理由は、いくら視野や経済が地球規模に広がったとしても、それぞれの地域が背負ってきた具体的な歴史や文化の重みを無視することは到底無理だというところにあります。国家は、その内部の住民の実存を深く規定しているのです。
 さて、そのことを踏まえたうえで、宮部久蔵が体現している思想的訴えを整理すると、次のようになるでしょう。
 国家はそのメンバーの情緒的な信任と期待を基盤として成り立ちますが、その統治機構づくり(法づくりがその基礎となります)と運営とは、国民一人一人の好ましいエロス的関係を守るために、あくまで合理的になされなくてはなりません。ことに戦争のような国民の命にかかわる一大事業に取り組まなければならない時には、この合理性のいかんが一番問われます。
 大量の殺し合いが双方にとって良くないことは当たり前なので、戦争は最後の最後の手段であり、まずいかにしてそれを避けるかにこの合理的な努力を最大限注がなくてはなりません。外交のみならず、国防の必要も、実はここにあります。潜在的な武力の表現を背景に持たない外交は、無力です。両者はパッケージとして意味をもつのです。
 しかしもしどうしても避けられずに戦争に突入してしまったら、いかに勝つかということ、犠牲者をできるだけ少なくするために、いかに早く決着をつけるかということ、時には狡猾に立ち回っていかにうまく負けるかということに向けて、合理的精神を存分に発揮しなくてはなりません。緻密な戦力分析、状況分析によって負けることがほぼ確実となった場合には、戦いは一刻も早くやめること、投了によるしばしの屈辱に耐える勇気を持つこと。ヘンな精神主義や美意識で「どうにかなる」などと考えて蛮勇をふるうのは最悪です。そういう方向に国民や部下を強制しないことが、統治者や軍事リーダーの責任として要求されるのです。
 ところで、対米戦争こそ、初戦勝利に舞い上がってあの強大な敵を見くびり、この合理主義を忘れてしまったいい見本です。特攻隊などというものを考え付いた時点でもう勝敗は決しています。あの戦争では、「大和魂」とやら(この種の士気昂揚精神は、別に日本特有ではなく、どこの国にもあります)によって、いかれやすい若者を煽り立て、国民全員に必要情報も知らせず「お国のため」という威圧的な決まり文句によって次々に国民を死地に追いやるほかなくなりました。戦う以上、士気はもちろん必要ですが、合理的な計算能力を失っていながらその代りに士気さえあれば何とかなると考えるのは、ただの破れかぶれです。ちなみに大東亜戦争時の日本のGDPは、アメリカのわずか8.5%です。
 私の言っていることは、しょせん事後的な反省だという反論があるかもしれません。ごもっともです。しかし、事後的というなら、特攻隊のような「玉砕」作戦を何十年もたってから美化するような傾向こそ、その実態を忘れた事後的な陶酔というべきでしょう。
 緊迫した非常時こそ、「お国のため」というスローガンと、自分には親しい家族や恋人や友人がいるという「実存的な事実」とが、矛盾・分裂しやすいのです。両者は順接ではつながりません。国運が急を告げれば告げるほど、国民の私的関係は軽んじられやすくなりますから、それだけ悲運に巻き込まれる質量は増大します。宮部久蔵は、そのことがよくわかっていたからこそ、戦場のさなかで「必ず生き残らなくてはならない」という信念を維持し続けたのでしょう。
 ところが、えてして国家や戦争を論じる言論は、その概念上の枠組みにとらわれて、このことを忘れがちです。前回登場していただいた林道義氏も、銃後の女子どものことを考えない戦争論はだめだとしきりに強調されていました。おそらく百田氏はこの作品で――ついでに、宮崎駿氏の『風立ちぬ』も、と言いたいところです――、若者たちが政治や軍事を論じるときには、つねに「銃後の女子ども」との関係に思いを馳せよ、と訴えたかったのではないでしょうか。
 敗者の哀しみという感情にただ溺れたり、形式的な平和への祈りの繰り返しに終始したり、進んで命を捨てた者たちの崇高さを称揚したりするだけでは、どんな「闘い」にも勝てないでしょう。大切なことは、こうした情緒的な反応をさらに突き抜け、理不尽を強いてくる「何か」に対する正当な憤りを組織すること、そうしてその「何か」がいったい何であり、どういう仕組みによってそのような理不尽が発生するのかを見抜き、どうすればその理不尽を克服できるのかを、理性の限りを尽くして考え抜くことです。



  ファイト! 闘う君の唄を

  闘わない奴等が笑うだろう

  ファイト! 冷たい水の中を

  ふるえながらのぼってゆけ

            ( 中島みゆき 「ファイト!」 )



  明らかにわたしの寂寥はわたしの魂のかかはらない場所に

  移動しようとしてゐた わたしははげしく愼らねばならない理

  由を寂寥の形態で感じてゐた

            ( 吉本隆明 「固有時との対話」 )


『風立ちぬ』と『永遠の0』について(その2)

2013年11月14日 16時36分07秒 | 文学
『風立ちぬ』と『永遠の0(ゼロ)』について(その2)



     高村光太郎

2.高村光太郎のことなど

 前回、『風立ちぬ』は、女性版出征兵士の物語ではないかといういささか奇矯な説を述べました。その心は、大災害や不治の病のような自然事象にしろ、戦争のような巨大な社会事象にしろ、個々の生を生きている私たちは、それらに「理念の正しさ」のようなものを対置すればたやすく打ち勝つことができるのかと言えば、そんなことはなく、みなそれぞれのポジションでとりあえず迫る状況の中を生き抜けるほかはないのだ、ということです。
 これは別に諦念やあきらめや自己放棄の勧めではありません。現実の生においては、制約の中でできることをやる、怒るべきことに怒る、闘うべきときに闘うということが求められます。また過去を振り返り、あれは失敗だったと感じるなら、その失敗の事実と意味を曇りなく見つめ、未来の生に少しでも役立てることも必要です。けれどこうした人間のポジティブな志向は、いわゆる進歩主義的な「反省」のようなものによって簡単に支えられるわけではありません。事情はもっともっと複雑です。それにはおそらく人間存在の本質に根差す二つの理由があります。
 一つは、人間が、過去の経験事実から自由に現在や未来を構成することができず、必ず過去を呼び起こしつつ現在の意識を形作り、そうして未来への立ち向かい方を定めていく生き物だということです。過去がたとえ間違っていたからと言って、では明日からそれと無縁に生きていくというわけにはいかないのです。人間は、あってしまった過去をそうやすやすと清算できません。
 もう一つは、人間が、いつも感情と理性のアマルガムで出来上がっていて、理性的な正しい判断だと思っていることがじつは特定の感情の虜になっているにすぎない状態だったり、逆に怒りや悲しみなどの単純な感情の発露の中に、深い理性的な知恵の光を垣間見ることがありうるということです。
 こんな哲学めいた抽象的な言い方では、私が何を言いたいのかよくわからないかもしれません。この稿の流れに沿って一つの例を挙げるなら、特攻隊で死んでいった青年の遺族の思いの複雑さの中に何を見るべきかということになるでしょうか。
 敗戦によってそれまでの日本の針路が誤りであったことが誰の目にも明らかとなった。では「誤り」と言われたのちに、その「誤り」を正しいこととして自他に懸命に言い聞かせて命を投げ出していった若者を悲痛な思いで送り出した家族たちは、どのように現在を構成しなおせばよいのでしょうか。やるかたない感情を理性によってどのように整理すればよいのでしょうか。
 犬死をさせた国家に対する怒り? ああいう時代だったのだから仕方がなかったのだという鎮撫? お国のために命を捨てた息子に対する崇敬の念? 彼らの死によってこそ現在の私たちが生かされているという贖罪論的なロジックによる納得? ――どれもそれぞれ理が通っているところはあるものの、他方でそれら一つだけに収束させたのでは、いずれも生き残った人々や遺族の複雑な感情からは乖離してしまうような気がしてなりません。だれでも過去に生きた自分を「新時代に向けて」とか、「過去をきちんと反省し」とか、「彼らは私たちを越えた崇高なところに行った」などというすっきりした言葉によってもみ消すことはできませんよね。
 たとえば高村光太郎という詩人を、思想的な意味で、私はあまり信用していないのです。智恵子が狂気に至るたいへんな内外の事情にしっかりと目をすえた形跡がなく、「余計なものを脱ぎ捨てるとだんだんきれいなる」などと歌い、ことが済んでから「レモン哀歌」のような自己浄化の心情を何のこだわりもなく歌う(「レモン哀歌」はいい詩ですけどね)。戦中には「堅氷いたる」のような荘重な迎合詩をたくさん書き、敗戦に至るや、「一億号泣す」と、あたかもすべての国民感情を代表しているかのような詩を書く(けっして代表などしていません)。かと思えば『暗愚小伝』のなかで、「わたくしの暗愚は計り知れず」などと懺悔のポーズをとってみせる。男性的、近代知識人的な剛腕を振るっているように見えますが、要するに状況にそのつど流されて単純な感傷に浸っているだけではありませんか。
 ここに見られるのは、じつは、島崎藤村などにも共通する、身勝手な男性庶民の夜郎自大な思想感覚であって、時代を貫く詩魂(士魂)の筋金といったものが感じられないのです。近代詩というものがもしこういうものならば、古い生活からの思想的自立を目指したはずの日本の近代詩の精神そのものを疑わざるを得ません(もちろん、光太郎だけが日本の近代詩人ではないですが)。
 一つに整理しきれない複雑な思いの姿を損なわないままに、なお言葉によって掬い取ろうと試みること、それが私たち言語を駆使する者に課された使命なのではないでしょうか。
『永遠の0(ゼロ)』は、その文学としての評価はともかく、この難しい課題に挑戦した作品であることは確かです。しかしこれに踏み込む前に、そもそも「特攻隊」という問題(3000人の乗組員を乗せて片道燃料だけで最後に出航した戦艦大和の問題もこれに近いでしょう)について、私が長年印象に残っていたことを、この機会に整理しておきたいと思います。これは、あの戦争をどう見るかというより巨視的な視点にもつながるものです。

3.梅崎春生『桜島』および、心理学者・林道義氏との出会い


    梅崎春生

 梅崎春生の『桜島』は、敗戦の翌年にいち早く発表された戦後文学の傑作として名高い作品です。「死ぬならば美しく死にたい」という知的な青年(通信兵)の純な観念が、敗戦直前わずか一か月間の鹿児島県でのいくつかの体験によって徐々に相対化されてゆき、やがてこの観念をシニカルに否定する考え方をも乗り越えて、静かに死を受け入れようとする境地に落ち着く。そうした一種の弁証法的な心理の流れがハードボイルドタッチの文体を通して緻密に描かれています。屈指の名作と言ってよいでしょう。
 いまそのことはさておき、この作品の前半、まだ「私」の気持ちが整理できないうちに、たまたま水上特攻隊のグループに出会って一種の違和感を抱く場面が出てきます。少し長くなりますが、そのくだりをここに引きます。

――先刻、夕焼けの小径を降りて来る時、静かな鹿児 島湾の上空を、古ぼけた練習機が飛んでいた。風に逆らっているせいか、双翼をぶるぶるふるわせながら、極度にのろい速力で、丁度空を這っているように見えた。 特攻隊にこの練習機を使用していることを、二三日前私は聞いた。それから目を閉じたいような気持で居りながら、目を外らせなかったのだ。その機に搭乗している若い飛行士のことを想像していた。
 私は眼を開いた。坊津の基地にいた時、水上特攻隊員を見たことがある。基地隊を遠く離れた国民学校の校舎を借りて、彼らは生活していた。私は一度そこを通ったことがある。国民学校の前に茶店風の家があって、その前に縁台を置き、二三人の特攻隊員が腰かけ、酒をのんでいた。二十歳前後の若者である。白い絹のマフラーが、変に野暮ったく見えた。皆、皮膚のざらざらした、そして荒んだ表情をしていた。その中の一人は、何か猥雑な調子で流行歌を甲高い声で歌っていた。何か言っては笑い合うその声に、何とも言えないいやな響きがあった。
(これが特攻隊員か)
 丁度、色気付いた田舎の青年の感じであった。わざと帽子を阿弥陀にかぶったり、白いマフラーを伊達者らしく纏えば纏うほど、泥臭く野暮に見えた。遠くから見ている私の方をむいて、
「何を見ているんだ、此の野郎」
 目を険しくして叫んだ。私を設営隊の新兵とでも思ったのだろう。  私の胸に湧き上がって来たのは、悲しみとも憤りともつかぬ感情であった。此の気持だけは、どうにも整理がつきかねた。この感じだけは、今なお、いやな後味を引いて私の胸に残っている。欣然と死に赴くということが、必ずしも透明な心情や環境で行われることでないことは想像は出来たが、しかし眼のあたりに見たこの風景は、何か嫌悪すべき体臭に満ちていた。基地隊の方に向って、うなだれて私は帰りながら、美しく生きよう、死ぬ時は悔ない死に方をしよう、その事のみを思いつめていた。――


 このくだりを読んで、一部の人は、このようなことを書く梅崎春生自身に「知的な戦後文学者」特有の反戦平和思想(あるいはサヨク思想)を見出して、逆に嫌悪感を抱くかもしれません。しかしことはそう言いくくれるほど簡単ではありません。戦後文学といっても、この作品はまだそういう概括ができるには至っていない戦争直後に書かれています。もともと梅崎という人は、それほど知識人(文化人)的な作家ではありませんし、彼自身もおそらく見たまま感じたままをルポルタージュのように書いているのでしょう。
 ところで私は、『桜島』を初めて読んだ若い時から、このシーンがずっと気にかかって仕方がありませんでした。
 梅崎自身の実体験とそのときの実感を表現したと思えるこのシーンには、政治思想的な整理では片づけることのできない生々しいリアリティがあります。英雄視されてマフラー付きの「雄々しい」イメージの制服を着せられてはいるものの、じつはその内側から、若い身空で「どうせ間もなく死ぬ」ことを決定づけられたことによるある種のすさんだ自暴自棄の気分がどうしようもなく露出してしまう。「伊達者らしく纏えば纏うほど、泥臭く野暮」に見え、やくざっぽく食ってかかってくる隊員の態度に、それを受ける側は「何か嫌悪すべき体臭」を感じてしまう。そういう心理表出過程が特攻隊員たちの一部に確実に存在しただろうことを私は疑いません。
 特攻隊員を志願兵と考えて、その散華していく姿を美談として語る言説は数多くありますが、こういうシーンを作品に定着させた例はあまり見当たりません。その意味で、死の直前の特攻隊員たちの一コマをスナップ・ショットのように切り取って見せた文学者・梅崎のカメラ・アイはたいへん貴重なものです。美しく悲しい「遺書」だけが特攻隊員たちの「遺品」ではないのです。『はだしのゲン』のような露悪的・作為的なサヨク漫画(この漫画はだいたい絵が下手で汚いですね)とはちがって、「国に殉ずる」という事態の中には、こういう側面もあったのだという「証言」の重みをきちんと受け止めることは、私たちにとって大切なことだと思います。



 特攻隊員が志願兵だったということを信じている若い人たちがいるかもしれません。これがとても志願兵などと言える代物ではなかったという事実は、『永遠の0(ゼロ)』にも詳しく書かれていますが、これに関連してもう一つ、私自身の体験を書き留めておこうと思います。
 1999年に、ユング派の心理学者・林道義氏(ベスト・セラー『父性の復権』の著者)との対談集を出しました(『間違えるな日本人!』徳間書店)。このなかに、漫画家・小林よしのり氏の『戦争論』(1998年・幻冬舎)をかなり長く批評した部分があります。当然特攻隊の問題にも言及したので、その箇所における林氏の発言を一部引用しておきましょう。

 もう一つは、(小林氏の『戦争論』の中に――引用者注)特攻隊を美化する表現がありますが、特攻隊の人たちは、国のためを思って自発的に参加したわけではない。志願したというけれども、自発的な志願ではありません。ここの部隊では何人の特攻隊員を出せというようにノルマとして上から来ている。そして説得があって、最終的には志願という形になりますが、本当の純粋な志願などではない。
 私の親戚に特攻隊員が何人かいましたが、一九四五年の正月に妻のいとこが特攻に出撃する前に、暗黙のうちに家族に別れを告げに帰ってきた。そのときの話を聞いてみると、それはかわいそうです。自分は本当は行きたくない。けれども、国のために行かなければいけないという感じで、無口で暗い沈んだ感じだったそうです。かっこいい白いマフラーを巻いてさっそうとした姿ではあったが、何か淋しげだったそうです。
 妻の兄が軍国少年で、特攻隊に志願したいというのに対して、そんなことはやめろと言う。「親を泣かせてはいけない」「戦争に行ってはいけない」と言ったそうです。そして、妻に凧を買ってくれて、二人で丘の上へ行って凧を揚げていると、飛行機が飛んでいくのが見えた。「お兄さんもああいうふうにして飛んで行くのね」というと、何にも言わず、ただ空を見ていたそうです。そしてしばらくして戦死してしまった。本当に優秀で男らしくて立派な若者だったそうです。もっと早く戦争を終わらせていれば死ななくてすんだという家族の思いは、『戦争論』の中には出てきませんね。
 ですから美学などというものではありません。志願もしていないし、公のために死のうとか、そんなことは全然ない。なかには本当に信じ込んでいた人もないとは言いませんが、多くの人は半ば強制されていた。公共のために死ぬんだなんて、それ自体が美しいかどうかは別として、実態はそういうものではないんですね。


  林氏は、もちろんサヨクではありません。はっきりと保守派を自称している論客です。その人が特攻隊を美化するような小林氏の『戦争論』に対して、当時の体験的事実に即しつつ、小林氏は戦争を知らないのだと、静かな憤りをあらわに示しているのです。
 このくだりは、こうして対談後に整理された冷静な文章でさえ、読んでいて涙を禁じえません。しかしこの部分を取り上げたのは、ここでの林氏のお話そのものが私を感動させたから、というだけではないのです。
 私はまさに対談者として林氏の眼前にいました。このくだりを語るとき、彼は、思わずこみあげてくる嗚咽をこらえるのに懸命でした。「私は、親類で特攻隊で死んだ人を知っていますが……志願なんて……そんな、そんなものじゃないんです」と喉を詰まらせながら。そのつらそうな何とも言えない表情を、私はけっして忘れることができません。そのことをここにぜひ書き留めておきたかったのです。
 戦争末期における田舎の国民学校生徒の一年を扱った映画『少年時代』(篠田正浩監督)のなかに、出征してゆく青年と恋愛関係にある娘が、列車のホームで日章旗を振って歓送する周りの人たちの間を縫って、「行っちゃ、いやだあ!」と叫びながら飛び出し、デッキで敬礼している青年にすがろうとする場面があります。この娘は抑えられてヒステリーを起こし、戸板で家まで運ばれるのですが、それ以前から父親は、この娘の恋愛に対して家長として禁圧的な態度をとっています。しかし、この父親がただ一方的にかつ忠実に共同体の要請を履行しているだけなのかと言えば、必ずしもそうではないでしょう。父親には父親なりの葛藤があるのだと思います。ここには、エロス(私的な関係様式)と社会(公共的な関係様式)との永遠のねじれが象徴されています。これを思想家・吉本隆明に倣って、「対幻想と共同幻想の逆立」と呼んでもよいでしょう。
 人々の実存に侵入し、そこに亀裂を入れる理不尽な物事に対して、私たちはとりあえずはそれをそういうものとして受け入れるほかない。たとえそれが死ぬ運命に確実に導かれるのだとしても。しかし、その事態を、ただ受容して美談や美学という精神衛生学に昇華してすましてはなりません。なぜなら、哀しみはずっと私たちの中に処理不能な感情として残り続け、この哀しみこそが、国家や社会や歴史へのまなざしの在り方を不可避的に培っていくからです。 
 私はここで「実存」という何やら小難しい言葉を使っていますが、それは、身近な関係のみをよりどころとしつつ、普通に、平穏に暮らしている人々の生活実態のことと言い換えてもよい。では、そうした平穏さを引き裂き、戦争を引き起こす「国家」なるものこそ悪である、と言えばよいのか。残念ながら、ことはそう単純ではありません。
 なぜなら、私たちはふだんあまり意識しませんが、そのような平穏さを保証してくれるものもまた、「国家」だからです。国家の存在イコール悪と考える思想は、私たちの日常生活を保証する秩序の維持が、国家という最高統治形態によってこそなされているのだという事実を忘れているのです。国家がまともに機能しなくなった時、私たちの生活がどれほど脅かされるか、それはそうなってみなくては実感できないでしょう。これについては、いま理論的なことや細かいことを指摘しません。
 結論を急ぎますまい。ここではひとまず、私たちの実存にもたらされる亀裂や悲痛な哀しみをただ自家処理して済ませるのではなく、その亀裂や哀しみを生む「何か」に対する「正当な憤り」の形式を、あくまでも理性的な思想として鍛え上げてゆく必要がある、とだけ言っておきましょう。



日本語を哲学する11

2013年11月14日 16時22分43秒 | 哲学
日本語を哲学する11



 さらにヴィトゲンシュタイン批判を続ける。

 
 五・六   わたくしの言語の限界は、わたくしの世界の限界を意味する。
 五・六一  論理は世界に充満する。世界の限界は、論理の限界でもある。


 この二節のうち、はじめのほうは当たっているところがある。たしかに言語コミュニケーションが通じないと感じるとき、私たちは、それぞれの「世界の限界」をどうしようもなく意識するために、言語を用いることを諦める(別れるとか殴るとかの行動に出る)。ただし、それは人間をどこまでも言語動物として規定できるかぎりで言えることで、「言語=世界全体」という図式から逃れて、言葉にできない身体性(感覚や運動)、情緒性(欲望や感動)の世界に浸るとき、私たちは別の世界に住まっているのであり、そこでは言葉とは次元の違う「わたくしの世界の限界」に出会っているのである。
 後者は、これまで述べてきたように、ヴィトゲンシュタインの前提を認めれば、前者から当然に導かれる命題だが、世界=論理でもなければ言語=論理でもないので、まったく的をはずしている。
 しかし、この誤った世界把握をそのまま続けていくと、次のようなことになる。

 六・三七三 世界はわたくしの意志から独立している。
 六・四   すべての命題は等価値である。
 六・四一  世界の意味は世界を越えたところに求められるにちがいない。
 六・四二  (略)倫理の命題は存在しえない。(略)
 六・四二一 倫理を言葉になしえぬことは明らかである。


 
 世界が「わたくしの意志」から独立しており、かつその世界そのものの「意味」が、世界を越えたところに求められるにちがいないのだとすれば、その「意味」の宿る場所とはどこなのか。それはまさしく人間が絶対にたどり着けない「神」の領域というほかはないだろう。
「神」という超越的な表象あるいは概念を人間が作り出さざるを得なかった事情を、私たちは十分に理解することができる。そうしてそれは、だれもが神にはなりえないという痛苦な認識(デカルトの言う、「不完全性」の認識)を基盤として初めて成り立つことも確かである。しかし、そのことは、別に人々が神に近づこうとする意志(すなわち「倫理」)や、神と親しくありたいという感情(すなわち「信仰心」)をも否定することにはならない。ヴィトゲンシュタインは、「論理」という意匠のもとに、神と人との間に橋をかける可能性を一気に否定して得意げである。だが、この「得意げ」は、人間生活の苦しみを知らない「子どもの得意げ」と何ら変わるところがない。彼は絶対的な超越性と人間臭さとの間に「論理」的な境界線を引いて、これで万事解決であるかのようにふるまっているが、それは、じつをいえば、両者を断ち切って見せることによって、「絶望」を、ただその見かけのかっこよさのためだけに肯定していることと同じなのだ。彼はこの「潔い」断絶の強調によって、「絶望」のさなかにある人間の切なる思いに対する関心から無限に逃避しているにすぎない。
 ヴィトゲンシュタインはここで、「人間には自由意志をはたらかせて世界を変えることなどできない。ゆえに、倫理的なことがら、価値選択にかかわることがらについては私たちは語る資格をもたない」という絶望を、あたかも「論理的に証明している」かのような仮象を用いて表現している。しかし、彼が置いているはじめの公理――世界は徹頭徹尾、論理それ自体である――が不適切であるなら(人々の情緒的な賛同を得られないなら)、この帰結はすべて無意味である。
 私たちは上記のような絶望を抱くことがいくらでもある。しかし人が絶望するのは、まさに自由意志に希望を託すからであって、希望をもたなければ絶望することもできない。ヴィトゲンシュタインの考えるように、世界が論理構造として脱倫理的に出来上がっているから倫理や価値を言葉にできない(と感じることがある)のではない。私たち人間が厳密な論理の支配には我慢ならないと感じて、未知を引き受けつつ自らの実存を歴史(世界)のなかに投企する(自由を求める)存在であるからこそ、固いこの世の必然に衝突してくず折れるという経験がはじめて訪れるのである。小林秀雄が言うように、「僕等が抵抗するから、歴史の必然は現れる。僕等は抵抗を決して止めない」(「歴史と文学」)のだ。
 こうして『論理哲学論考』におけるヴィトゲンシュタインの純粋論理展開の姿をまとった世界観が、人間を殺すための絶対客観主義的な発想にもとづいていることがわかるであろう。人間を殺すこと、倫理や価値についての絶望を「論理的に」語ることは、同時に世界を完全支配する絶対的な超越者を立てるキリスト教特有のニヒリズムを語ることと等しい。ヴィトゲンシュタインの哲学は、神に酔える哲学者・スピノザの現代ヴァージョンであると言えるかもしれない。
 このことに気づかず、『論理哲学論考』の見かけのかっこよさにいかれて、言語の適用領域を脱倫理的な「論理」の世界にのみ限定する「潔さ」の体裁にころりとまいってしまう日本の「ポストモダン」風な哲学・言語学・社会学の徒たちがあとを絶たないのは、まことに困ったことである。
「語りえぬ物事については沈黙すべきである」という彼の有名なテーゼは、じつはユダヤ=キリスト教的な神の絶対性の前には、現実的な生から立ち上がるいかなる倫理的な要請も無意味であると言っていることと同じなのだ。しかし、。人は倫理や価値についても語らねばならないし、それは可能である。なぜなら、生の在り方そのものが倫理命題や価値命題を絶えず要求するのだし、その要求に適切に応えるためには、言葉を用いる以外に方法がないからである。
 日本のヴィトゲンシュタイン・ファンたちは、一度でもこの問題について考えたことがあるだろうか。彼らは、日本人の伝統的な世界感性から独自に言語学・倫理学を普遍的な形で立ち上げようとする試みを封鎖するお先棒を担いでいることに気づいているだろうか。

 以上によって、言葉の問題を命題の真偽の問題だけに限定することがいかに偏った言語思想であるか、またその偏りが、言語表現に先立って永遠不変の「真理」があるという想定からきたものであること、そしてこの想定は、ユダヤ=キリスト教文化における唯一絶対の創造神というイメージを前提として導き出されたものであること、が明らかになったと思う。
 言葉以前に、漠然とした「意」とか情緒とか気分、イメージ、ごく広い意味での認識、世界の意味把握といったものはありうるし、そういうものの存在に権利を与えることは重要である。言葉をもたない動物も、これらのものをさまざまなレベル、さまざまなかたちで分有していることはたしかである。しかし、思考・思想・論理は、言葉以前には成立し得ない。しかも言葉が切り開いている世界は、けっして「論理」や「命題」などに限定されない。
 私たちは、あらかじめしっかりとした「思想」や「論理」をもち、しかるのちそれを「言語」という規範形式に流し込むのではない。そうではなく、言語の使用そのものが、すなわちそのまま思想表出なのである。心の中で何を言おうか考えてから口に出すとき、口に出す前にすでに言葉は彼の内面で表出されつつあるのだ。
 以上のことは、どんな言語表現にも例外なく当てはまる。「ああ」「うん」「えっ?」などの間投詞でさえ、ある思想をあらわしている。そこには発語主体の主体的な状況把握とそれを引き受けて自らを投企する姿勢とが同時に込められているからである。


*次回は、言葉の本質についてまとめます。

『風立ちぬ』と『永遠の0』について(その1)

2013年11月14日 16時09分26秒 | 文学

『風立ちぬ』と『永遠の0(ゼロ)』について(その1)





 この夏、宮崎駿監督のアニメ『風立ちぬ』が評判になりました。また百田尚樹作『永遠の0(ゼロ)』が売上二百五十万部を突破し、この冬には映画が封切られることになっています。戦後七十年近くたち、日本をめぐる国際環境は大きく変化しました。そうしていま、あの戦争の意味、戦後社会の意味が改めて問い直されつつあります。まさにそうした時期にこの二作が大きな話題となることに深い因縁を感じるのは私だけでしょうか。
 両作は、どちらもゼロ戦(ゼロ式戦闘機)を中心にしているという点では共通しています。前者はゼロ戦の設計に心血を注いだ優秀な技術者・堀越二郎が主人公、後者は、ゼロ戦の超有能なパイロット・宮部久蔵が主人公です。
 しかし、この二作には、そういう見かけ上の共通点とは別に、もっと深いところで響きあうものがあるように感じられます。それは言ってみれば、愛する人と別離することが確実であることを自覚した時、人はどのように生きればよいのかという永遠の文学的テーマです。

1.『風立ちぬ(記憶が頼りなので、セリフなど、細かい点で誤認しているかもしれません。ご指摘いただければ幸いです)

 アニメ『風立ちぬ』は、もちろん堀辰雄の『風立ちぬ』から枠組みの一部を借りてきていますが、それはあくまで一部であり、全体は完全に宮崎さんの自立した作品に仕上がっています。それに、堀作品は、語り手の「私」が、婚約者・節子と結核療養所で共に過ごしたかけがえのない時期を追憶しつつ、いまは亡き節子に呼びかける形をとっています。その文体の流れは、「死」を共有した二人の短かった時間の固有の意味を少しでも壊さないように反芻していくという、内向的で繊細きわまる独特の調子で満たされており、いわば独白体の散文詩のようなものです。ストーリー展開らしきものはほとんどありません。そこにラディゲやプルーストなどのフランス心理小説的な気障と臭みを感じる人も多いと思われますが、いずれにしても、この調子は言葉でしか表現できず、それが宮崎作品の映像に「翻訳」されているかというと、そんなことはまったくないと言ってもよいでしょう。
 宮崎作品が堀作品から借りているのは、二郎が菜穂子(この名前は堀辰雄の別の作品『菜穂子』からとったもの。ちなみに『菜穂子』は失敗作です)と軽井沢で恋愛関係になって婚約し、その後、菜穂子が病状悪化のために八ヶ岳の結核療養所で冬ごもりするという部分だけです。堀作品では「私」はずっと節子に付き添うのですが、宮崎作品の二郎は、仕事が忙しいので名古屋の会社と下宿にこもりっきり。
 以下に、宮崎作品で、一見、堀作品に関係がありそうに見える印象的なシーンを書き出してみます。
 軽井沢のホテルでの紙飛行機飛ばしのシーン、ホテルでの婚約シーン、菜穂子の喀血を知り二郎が多忙を振り切って東京の菜穂子宅に駆けつけて庭から侵入するシーン、菜穂子が療養所を抜け出して二郎のところに駆けつけるシーン、二郎の上司・黒川夫妻の媒酌の下、たった四人で結婚式を挙げるシーン、初夜のシーン、臥床にある菜穂子と計算に忙しい二郎とが二人で手を握り合い、「片手で計算尺を操るコンクールがあったら僕は優勝するな」と二郎が冗談を言うシーン、そして死の運命を予感していた菜穂子が、仕事に没頭している二郎の妨げになるまいと決意して一人黙って療養所に帰っていくシーン……。
 ところがこれらはすべて堀作品とは何の関係もない宮崎さんのオリジナルなのです。
 こうしていくつかのシーンを書き並べていると、このアニメの一番の見どころはこの二人の短い交流場面にこそある、と言いたい気持ちになってきます。事実私は、この一連の流れに接するうち、涙が止まらなくなってしまいました。結婚式の衣装を着た菜穂子のなんと美しいことか! そしてそれが束の間のものであると既に知っている私たちにとって、なんと哀しい絶対性として映ることか! 私は年甲斐もなく、たとえ別離が予定されていてもいい、こんな女性に巡り合うような生涯が送れたら、などとバカなことを考えたものです。
 もちろん、二郎が少年時代からの夢を実現すべく、美しい航空機の設計に全情熱を傾けていくシーンも感動的です。男が技術の完成に魂を込める姿は、いまこの国のあちこちでも現に見られるのであって、それは、時局がどうであるか、何のための技術であるかという政治問題とは一応別です。
 私は少し前に、運転停止中の浜岡原発を見学する機会に恵まれましたが、そこの人たちが、イデオロギー的な反原発浮かれ騒ぎなどとは関係なく、福島事故の教訓にしっかりと学びつつ、職業倫理を懸けて、そして静かに、高度な安全技術の実現に向かって日々の努力を重ねている姿に心を打たれました。技術者は、むろん時の政治の要請に従う運命から免れがたいものですが、その制約された範囲内で自分の果たさなければならない責務に心血を注がざるを得ないのです。これはあらゆる職業人にも当てはまることです。
 宮崎さんも、あえて時代を戦争期に設定し、そういう緊張のなかでも懸命に日常を生きた人たちの像を描き出したかったのだと思います。彼がサヨクだからどうのこうのなどということをことさら問題にする人が後を絶ちませんが、そんなことは作品そのものの芸術的価値と何のかかわりもない、どうでもいいことです。
 ところで、『風立ちぬ』をご覧になった方は、気づかれたかどうかわかりませんが、ようやく完成したゼロ戦がテスト飛行に見事に成功した時、周りの人たちの喜びに反して、二郎だけがなんとなく浮かない顔をしており、すぐそのあと不吉な感じの雲が地を這うように流れるシーンがあります。これはもちろん、戦争協力をしてしまったことへの自己懐疑がきざした、などということを意味していません。一心に情熱を傾けた仕事が達成されて一段落したとたん、急に菜穂子の身の上が気がかりになり、ふと悪い予感がしたのです。そういう心憎い仕掛けを宮崎さんはさりげなく置いておくのですね。
 このアニメは、いったいに、説明的な要素を極力省き、騒がしい饒舌をなるべく抑え、沈黙によって余韻を響かせるという方法論に貫かれているように思います。
 たとえば、二郎が特高に狙われるのは、軽井沢で知り合ったドイツ人がスパイ容疑をかけられていたからでしょうが、そのことはほんの少ししかほのめかされていません。
 二郎の妹や黒川夫人も名脇役ですが、セリフの量はすごく制限されているのに、かえってそのことでキャラが際立っています。
 また、菜穂子が一人名古屋を去ってから、彼女はほどなく死んだのだと思われますが、死に近づいていく場面や臨終の愁嘆場は一切描かれません。
 さらに、なんといってもこれが重要ですが、肝心のゼロ戦の戦闘場面、戦争の成り行きなどが少しも出てこず、すべてが終わってからゼロ戦の残骸だけが映し出されます。そうして天国の野原にあの憧れのイタリア人飛行機設計家があらわれ、二郎を菜穂子に一瞬出会わせます。そのあと、「生きていかなきゃな、でもちょっとその前に家に寄らんか。うまいワインがあるんだ」と呼びかけて、作品は終わります。変に通俗的な情緒で観客を引っ張らずに、何とも後味のさわやかな、余韻にあふれた幕切れですね。
 宮崎さんは、「ナウシカ」にせよ、「ラピュタ」にせよ、「魔女宅」にせよ、その登場人物や背景などを見ると、ヨーロッパ趣味が強い人だな、と感じさせます。今度の作品などもまさにそうですね。でもこうした「沈黙の大切さ」をよくわきまえているという点では、やっぱり日本人的な美意識の持ち主と言えるかもしれません。
 宮崎さんは、なぜ戦闘シーンや、戦争の成り行きを一つも描かなかったのでしょうか。人によっては、それを描くと宮崎さん自身が戦争に対する政治思想的な姿勢を示さなければならず、それが誤解のもとになるから避けたのだと考えるかもしれません。しかし私はまったくそう思いません。
 彼は戦争シーンをそうした猥雑な配慮によって「避けた」のではなく、初めから意識的にそれを描くことを拒否したのです。なぜ? 作品の核心的なメッセージを印象づけるために、そういうものは、ただただ邪魔者以外の何物でもないと彼の芸術家魂がささやいたからです。
 では、その核心的なメッセージとは何でしょうか。それはすでに述べましたが、だれもが先の見えない時代的な制約の中で、それぞれに固有な生を背負って、不条理な死と向き合いつつ生きなくてはならないということです。「風」がどんな方向、どんな勢いであろうととにかく吹いているかぎりは。
 イタリア人設計家が「日本の少年」に向かって何度も問いかけますね、「風は吹いているか?」と。これは、「君は生きているか」という問いかけと同じです。この作品には、人間の「実存」の普遍性が徹底的に描かれているのです。だからこそ、時代を超えて私たちの胸に響くのです。
 ふつう、この時期を私たちが思いやるとき、一国が大戦争をやっているのだから、さぞかしどんな日常もその巨大な社会事象に隅々まで彩られていたに違いないととらえがちです。それはそれで間違いとは言えませんが、そうではない瞬間、そうではない生活感覚というものもたくさんあります。たとえば戦艦大和は、フィリピンに停泊していた当時、何も実戦に挑む機会がなかったので、乗組員たちは毎日楽しくだらけて過ごし、前線で戦っている人たちから「大和ホテル」と揶揄・軽蔑されました。
 さて、私はこの『風立ちぬ』という作品について、次のようなことを考えます。
 菜穂子はもうすぐそこに迫った死が予定されている存在。そのことを本人のみならず、二郎もよく知っている。それは二人にとってのっぴきならない事態ですが、だからこそ、愛も深まり、一日一日を大切に生きようとする。そうしてささやかな華燭をともし、契りの永遠を誓い合う。やがて凝縮された短い幸福の時ののちに別離してゆく。
 これ、何かに似ていませんか。
 そう、あの時代に、このような事態が現れるのは、主として戦場に出征してゆく若い夫とそれを見送る若い妻という構図ですね。出征を控えた若い兵士たちに、両親がその悲運を予感して、せめて妻を娶らせてやろうと切に願う。菜穂子の「お父様」も、病の癒えていない娘に婿なんて、と最初はためらうふうでしたが、本人たちの強い決意とドイツ人の励ましでついにそれを許します。
 ですから宮崎さんは、この作品で、死地に赴く夫とそれを見送る妻という、ややもすれば月並みになりがちな構図を鮮やかにひっくり返して見せたのです。菜穂子は、「女性版出征兵士」と言えるでしょう。宮崎さんは、このような逆転劇をあえて演出することで、こういう哀しく美しい関係の在り方というものは、死んでゆくのが女の場合だって同じなんだよ、と言いたかったのではないでしょうか。


コメント(2)
コメントを書く

2013/09/28 23:36
Commented by 美津島明 さん

興味深く拝見しました。特に最終段落の、宮崎監督が「この作品で、死地に赴く夫とそれを見送る妻という、ややもすれば月並みになりがちな構図を鮮やかにひっくり返して見せた」というご指摘には感心しました。
そのご指摘を踏まえたうえで、ちょっとだけその先を考えてみました。
この映画を観る者は、宮崎監督の、菜穂子への深い鎮魂の念を印象づけられます。エンディング曲の『ひこうき雲』がそれを決定づけているのでしょう。そうしてその鎮魂の念は、菜穂子を「裏返された特攻隊員」とするならば、彼らにこそ向けられたものなのではないかということです。
つまり宮崎監督は、若き特攻隊員たちへの鎮魂の念を隠し絵として当作品に織り込んだのではないでしょうか。
とするならば、堀越二郎のゼロ戦への愛と菜穂子への愛と菜穂子の死への哀悼の念とが、宮崎監督の、ゼロ戦に搭乗し若くして散華した特攻隊員たちへの鎮魂の念において重なり合うことになるのではないでしょうか。
宮崎監督は、なにゆえそういう形で特攻隊員たちへのレクイエムを歌ったのか。それは、その歌が政治的な色彩を帯びて受けとめられることを、一流の作家としての想像力が本能的に忌避したからではないでしょうか。
その本能的な忌避によって、当作品は、人間があくまでも人間らしくありたいと願うことから生まれる上質な抵抗芸術たりえているのではないかと思いました。言いかえれば、監督は、鎮魂という人間的なあまりに人間的な営みを、政治という粗野なるものの容喙から能う限り守りきったのではないでしょうか。
当作品に感動したところを、自分なりの言葉にする大きなきっかけを与えていただいたことを感謝します。


2013/09/29 02:31
【返信する】
Commented by kohamaitsuo さん
To 美津島明さん

いつもながら、拙稿に真剣に付き合っていただいて、ありがとうございます。特に以下の部分、とても心に残りました。まったく異議ありません。

>その本能的な忌避によって、当作品は、人間があくまでも人間らしくありたいと願うことから生まれる上質な抵抗芸術たりえているのではないかと思いました。言いかえれば、監督は、鎮魂という人間的なあまりに人間的な営みを、政治という粗野なるものの容喙から能う限り守りきったのではないでしょうか。
>
しかし、いま続きを書いているのですが、この問題を的確な言葉にするのはとても難しく、想念が乱れ飛んで、書きあぐねている状態です。
貴兄が「究極の言葉」として特攻隊員の遺書をいくつか挙げられているのを同時進行で読み、それはそれで深く共感したのですが、じつのところ、それを提示しただけでは思想言語として何かが足りない、とかすかに感じていたのも事実なのです。もっと言えば、鎮魂の心情や文学的な感動(美意識の打ち震え)そのものを再び「政治という粗野なるもの」のために利用しようとする傾向に対して、どう抵抗すればよいのか。「特攻隊員」というイメージは、純粋な美談として語られがちなために、かえって利用されやすい。私が、「特攻隊員」と書かずにあえて「出征兵士」と書いたのには、その思いがあったからなのです。両者は必ずしも同一視できません。さらに、「特攻隊員」という「像」そのものも、遺書に体現された「最後の言葉」の象徴的な力だけに収束され尽くすものなのか……まあ、そういうひねくれたことをいろいろと考えています。それで、次回は、『永遠の0(ゼロ)』に行く前に、梅崎春生の『桜島』と、私が心理学者・林道義氏と対談した折に、彼が小林よしのり批判として見せた何とも言えない印象的な表情について書こうと思っています。違和感を感じられたら、遠慮なくコメントしてください。


倫理の起源10

2013年11月14日 16時01分02秒 | 哲学

倫理の起源10

――プラトン『饗宴』批判(つづき)――






 さて③の恋愛(性愛)感情の本質についてであるが、私たちは、それを考えるのに、平均的な恋愛感情の実態にあくまでも忠実に記述すべきであって、どこかその実態を超越した「高み」に導くものだというような、外部からの意味づけをなしてはならない。
 人間の恋愛(性愛)感情の本質は、特定の個体どうしが、それぞれの心身の醸し出す「雰囲気」を交錯させることによって、そこに「互いの合致」の可能性を見いだすというところに求められる。ある場合にはそれは、肉体的な要素が強い媒介となるし、別の場合には心的な要素が重要な条件となる。
 しかしいずれの場合にも、その合致の形成は、肉体と魂とのどちらかに価値の優先権をおいて把握できるものではない。それは、それぞれの個体がそれまでの人生途上で培ってきた歴史的・身体的な「雰囲気」の表出を仲立ちとすることによって成立するものであって、けっして、「美一般」とか「知を愛すること一般」といったイデア世界に還元することによってではない。
 このことは、だれかを恋しているときの感情を外から超越的にとらえるのでなく、内在的によく反省してみればわかる。それは「切なさ」の感情と不即不離の関係にある。人が人を恋するときには、何か美しい対象に触れてその美に圧倒されるとか、「知」的なものや道徳的な「善」を表現しているものに触れて感動するなどの経験に終始するわけではなく(これらは、はじめの契機としては考えられるとしても)、その相手がすぐにはわがものとならない不安といらだちにちりちりと胸を焦がし続けるような感覚がつきまとう。
 なぜそういうことになるのだろうか。それは、恋愛感情というものが、相手が同じ人間でありながら、自分とは異質の心身をもつことによって媒介されているからである。この「同じ人間でありながら」というところが重要である。恋愛の幻想は、自分と同じ類に属する存在が自分を受け入れてくれる可能性によって支えられながら膨らんでゆく。
 人は何か人以外の美しいものを金や権力や身分などの力によって手に入れることができるが、よく言われるように、「愛は金では買えない」。なぜなら、相手もまた「人の心」の持ち主なので、その心をこちらに向かせるには、何よりも自分自身が、相手の心の固有性にとって魅力ある心身の状態にならなくてはならないからである。自分が相手からその固有の価値を認められて、相手がその固有性そのものを愛してくれるようにならなければ、恋は実らない。相手の心もまた自由に、かつ不安定に揺れ動くのである。
 これに対して、生身の人間ではない美しい「もの」は、心をもたず、ただそこに美しいものとして厳然とあるだけである。それらに感動したりそれをわがものにしたいという欲望をもつことは、「もの」に恋する人の自由だが、当の「もの」はそのことによっていささかも動揺をこうむることはない。
 人への恋に特有の「切なさ」の感情は、こちらの固有な心身が相手の心に叶ったものであるかどうかがしかとつかめないという、いわば自分に対する不安である。ある人を恋するとは、自分の全心身が相手の全心身と合致する可能性を抱えて、この「自分に対する不安」にみずから飛びこんでいくことを意味する。
 恋をした男女は、どうすれば自分が相手に気に入られるかについて、滑稽なほど精力と気を遣う。たとえば女性であれば、今日はあの人とデートすることになっているので、何を着ていこうかしら、私の趣味はあの人に合うかしら、化粧はどのくらいにしようか。あの人はすっぴんのほうが好きかもしれない。あの人が求めてきたらどうしよう、等々。男性であれば、どういう言葉で口説いてやろうか。俺って彼女にどのくらいかっこよく見えているのかな。どういうコースを用意すればいいのかな。ケチっちゃいけねえな、等々。これらのことに気を遣わないとすれば、それはあなたが相手を本当には恋していない証拠なのである。
 そういうわけで、恋愛感情はあくまで個別特殊な「対」関係のあり方を、まさにその特殊性ゆえにめがけるという特質からけっして逃れられないのである。あなたがほかならぬ「あなた」以外の何ものでもなく、相手がほかならぬ「この相手」以外の何ものでもないという事実を根拠として、恋心は展開する。
 なぜ人は特定の人に恋をするのか。それは、必ずしもその対象が肉体的もしくは精神的に「美しい」からではなく、それぞれの心身が固有性をもちながら孤立しているという事実に出会い、相手の固有性が自分の固有性にとってのみ魅力的であるように実感されるからである。そのとき恋の欲望は、この二つの固有性の重なり合いによって、心身の隔離状態をなんとか乗り越えて合一したいという希求の意識に染まる。
 恋愛は、この希求の意識を、心身の結合に伴う快楽という「物語」によって満たそうとする試みである。そしてこの互いにバラバラな二つの固有性を解消しようとする「希求の意識」こそは、人間的な「エロス」の本性をなすものであり、人生に「意味」をもたらすための基本条件のひとつをなしているのである。アリストパネスの語る「神話」のほうが、ソクラテスの説く強引な教説よりも、人間をよく見ているもののそれであると判断できる所以である。
 また、恋愛が神仏信仰や知への愛と似て非なるものであるのは、後者(神仏信仰や知への愛)が、揺らぎのない絶対者と、不安定な自我との関係として成立するのに対し、前者(恋愛)が、相互に不安を抱えた自我どうしの関係を前提とするという点である。そこから言えるのは、次のことである。
 すなわち恋愛という幻想が成就するために欠くことのできない条件とは、相手の欲求の満足をこちらが実感できることが、こちらの欲求の満足にとって不可欠であるということ(相手が自分を好きだと感じていることが、自分のなかで確信できること)である。
 またその裏返しとして、恋愛においては、互いの欲求の満足の間に「ずれ」が生じるとき、葛藤や闘いといった危機の様相を必ず呈するということである。
 いうまでもなく、知への愛においてはこういうことは起こらない。ソクラテス(プラトン)が考えた究極のイデアに向かっての恋、すなわち自分の知に欠けたところがあると感じて絶対的なものを求める営みにおいては、目標は絶対的で完全なものとして揺るぎなく彼方にそびえていることが前提となっているので、恋愛におけるように、求め方しだいで相手も動揺してほだされるというようなことはあり得ないのである。

 最後に④であるが、ソクラテス-プラトンの生きた古代アテナイ黄昏の時代には、性的な欲望の激しい強度を放置するのではなく、その激しさ自体を手なずけながら、よき国家、よき共同体を立て直す「正義」や「徳」のためになんとか活用できないかという問題意識が自由市民の間に広汎に存在した。
 というのも当時は少年を立派な公民として育てる公的な教育機関はまだ存在せず、年長者が年少者に政治や文化の価値を伝授するのに、個別的なエロス関係を通じて行うという習慣が一般的だったからである。だから、こうした問題意識がプラトニズムのような「快楽から善へ」という思想に編み上げられるのもむべなるかなというところがある。
「私的な恋(主として自由男子市民の同性愛)」を、公共性の維持継続を支える基盤にするというのが、彼らにとって切実な課題だったのだ。性的な快楽の持ついかがわしさのなかに、どのようにして国家的正義と公共性の維持という崇高な目的を果たす力を植えつけ、維持することができるのか。つまりこれは重大な「倫理問題」だったのである。
 その倫理問題を克服するために、プラトンは、通常の恋からイデアへの恋という道筋を、より高級なあり方へ向かっての段階的な上昇過程として示してみせた。
 もちろんはじめの三人の演説者たちも同じ倫理問題を抱えていた。そこで彼らは、ひとつの肉体への恋の精神として通用している「エロス神」がともすれば価値の低い、卑しい欲望としてイメージされがちなのを何とか救い出そうと考えた。思えばエリュクシマコスの最初の提案にしてからが、その動機を含んでいたのである。
 その動機を満たそうとして、彼ら三人は、公共的な正義にとっての有用性(友情による廉恥心の育成)を説いたり(パイドロス)、恋される側は堕落しやすいから、恋される側が知恵や徳目を享受できるような恋だけを選ぶように心がけるべきだと説いたり(パウサニアス)、エロスには、低いエロスと高いエロスがあるから、人は慎みと節度をもって高いほうを選ばなくてはならないと説いたり(エリュクシマコス)してみせたわけである。当然、彼らよりもはるかに「私的関係から公的関係へ」の理想に燃えるプラトンにとって、これらの単なるバランス維持の知恵にとどまることは、不満だらけの弥縫策にしか見えなかった。
 年若いアガトンにはまだその問題意識はなく、ひたすらエロスの美点を称揚するにとどまっている。また人間通のアリストパネスは、こういう倫理的な問題意識に沿ってエロスについて説くことを意識的に拒否し、人が人を恋する感情としての「エロス」とは、ある意味で、始末に負えない人間本性の一部であるという「本質看取」に徹することにとどめたのである。
『饗宴』をこのように、「性」を素材とした社会倫理学的なモチーフに裏付けられたものとして読めば、プラトンの道徳的野望のすさまじさが浮き彫りになってくる。おそらく理想主義者プラトンにとって、アリストパネスのような単なる「本質看取」は我慢のならないものだったにちがいない。
 彼は、まず「エロス」の狂気性(道徳的観点からは危険性)をとりあえずそのまま肯定するしかないと考えた。それは「節制」や「抑制」や「寛容」や「均衡」などの日常的な「大人の徳」を対置させてもとうてい歯が立つ代物とは思えなかったからだ。そこで彼は、「エロス」(性愛・恋愛感情)のうちから狂気性(非日常性)のみを抽象し、いっぽうで、その対象の違いによる階梯を示すことにした。対象が崇高でありさえすれば、恋の狂気性は許されるどころか、ますます推奨すべきものとなる。かくして彼は、善の最高原理に「エロス」(恋)もまた服するものであることを証明しようとしたのである。
 私の考えをひとことで言えば、ここには明らかに現世的・感覚的な欲望を低いもの、価値なきものとして否定する抑圧的な思考に特有の倒錯がある。そしてこの倒錯は、プラトンの他の重要な著作においても見事に貫かれているのである。


(次回は、同じプラトンの『パイドロス』を取り上げます。)



「婚外子相続二分の一は違憲」判断について

2013年11月14日 15時30分12秒 | 政治

「非嫡出子相続二分の一は違憲」判断について
――長谷川三千子論文を支持しつつ憲法問題に及ぶ――



 去る9月4日、最高裁大法廷が、「非嫡出子の相続分は嫡出子の相続分の二分の一」という民法の規定について、法の下の平等を定めた憲法14条に違反するという判断を下しました。
 この民法の規定は、わが国の司法界でかなり長い間問題視されてきました。欧米先進諸国ではそのような規定はなく、日本だけがこれを「残している」という事実の提示と、国連の懸念の表明、「法改正」勧告とが、わが国の司法に圧力をかけ続けてきたのです。今回の判断で一応の結論が出た形になるのでしょう。
 しかし私は、この欧米及び国連の杓子定規な「平等」原理を日本社会に適用することが妥当と言えるのかと疑ってきました。これは各国の国情、人間生活の具体性というものを無視した悪しき形式主義なのではないか。
 とはいえ私自身、この問題についてこれまで明確な意思表示をしたわけではありません。自分の私生活に直接関係があるわけではないので、どうもヘンだな、面白くないな、という程度でやり過ごしていたのです。
 また論壇全体でも、この議論が盛り上がったという話を聞きません。今回の最高裁判断に対しても違和感の表明や明確な反論が数多くなされてはいないようです。新聞各紙は、こぞってこの判断に対して疑問の余地なく容認といった按配です。もしこの判断に基づいて「改正法案」が国会に上程されれば、おそらく満場一致で可決されてしまうことでしょう。「差別」がなくなることはよいことだ~、と。
 一見、法適用の対象そのものが特殊なので、みんなの真剣な注意をあまりひかないのだと思われますが、よく考えると、この成り行きにはけっして見過ごしてはならない重要な法的かつ思想的問題が含まれています。
 ところでここにただ一人、このたびの最高裁判断に対して敢然と異議を表明している論客がいます。長谷川三千子氏です(産経新聞9月12日付「正論」欄「憲法判断には『賢慮』が必要だ」)。この論文の主旨は次の通り。
 民法の現行規定は、法律婚以外の関係で生まれた子には法律の保護が及ばないという問題と、両当事者を完全に均等に扱ってしまうと今度は法律婚の意義そのものがあいまいになってしまうという問題の矛盾を広く見渡して、両者に配慮した調整の意味をもっているのであり、そこに法律の「賢慮」が見られるのだ。それを軽視してはならない。
 氏の論文の明快な論理性、人間洞察の深さに対して、私は全面的に賛同の意を表したいと思います。
 氏によれば、今回の決定についての「法廷意見要旨」の冒頭には、次のようなことがちゃんと謳われているそうです。

 相続制度を定めるにあたっては、それぞれの国の伝統、社会事情、国民感情なども考慮されなければならず、また、その国における婚姻ないし親子関係に対する規律、国民の意識などを離れてこれを定めることはできない。

 え、だったらなんで? と思いませんか。今回の決定は、この冒頭の文言とまったく背馳していますね。一応原則のようなものを形式的にそろえてはおくものの、実際の判断にあたっては、欧米先進国の既成事実と、国連の勧告という「脅し」の前に屈しているのです。日本の司法は、憲法問題との関連では、完全に背骨を抜き取られているようです。背骨を抜き取られた国家機関の判断が、大手を振ってまかり通ってしまうところがまさに問題なのです。
 ここで、日本の婚外子の比率が欧米といかにかけ離れているかを示しておきましょう。これこそまさに、「法廷意見要旨」が言うところの、「それぞれの国の伝統、社会事情、国民感情」を如実に表しています。



 これでわかるように、欧米では事実婚が当たり前で、婚姻が法的に認可されたものかそうでないかがほとんど意味をもっていません。 したがって、法的には婚外子であっても別に不倫関係による子ではない場合、先妻と後妻の子どうしである場合などが非常に多いことが考えられます。これなら同等に扱われて当然でしょう。つまり、この問題に関する限り、欧米スタンダードに基づく「平等主義」を日本に適用するのは間違いなのです。

 同じような例に、これに先立つ数か月前、広島高裁及び同岡山支部が3月に下した「一票の格差=違憲、平成24年12月の衆院選無効」判決があります。私はこれについて、月刊『Voice』6月号誌上で、単に算術的な平等によって物事を判断するのは、都市住民と地方住民との事情を無視した機械的な判断であり、法曹界のごく少数の「平等原理主義者」が民意の総体も検証せずに、権力を悪用した典型であると批判しました。問題の構造が同じであることを納得していただけるでしょう。
 それはともかく、長谷川氏の論の「さわり」を、もう少し紹介しておきましょう。

 そもそも嫡出子と婚外子がともに存在するという状況自体、そこに置かれた人間には辛く苦しいものであって、今回の発端となった遺産分割審判の双方のコメントを見ても、それぞれのやり切れない思いが切実に伝わってきます。

 (意見書の結論によれば――引用者注)「上記制度の下で父母が婚姻関係になかったという、子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず、子を個人として尊重し、その権利を保障すべきであるという考えが確立してきている」。だからこの規定は違憲だというのです。
  しかしこの結論はおかしい。まず、先ほども見たとおり、これは親を同じくする嫡出子と非嫡出子の利害を調整した規定であって、自ら選択の余地のない事情によって不利益をこうむっているのは嫡出子も同様なのです。その一方だけの不利益を解消したら他方はどうなるか、そのことが全く忘れ去られています。またそれ以前に、そもそも人間を「個人」としてとらえたとき,(自らの労働によるのではない)親の財産を相続するのが、はたして当然の権利と言えるのでしょうか? その原理的矛盾にも気付いていない。
 ここには、国連のふり回す平等原理主義、「個人」至上主義の前に思考停止に陥った日本の司法の姿を見る思いがします。


 氏の指摘によって浮かび上がる問題点を私なりに敷衍すると、次の三つになるかと思われます。
 ①法があって人間があるのではありません。人間生活の辛い現実があるからこそ法の運用の妥当性がそのつど測られるのです。そのことを忘却した法的判断は、人間音痴の典型です。
 目下の問題に即して言えば、この事例の背景には、どちらがいくらもらえるかといった、欲得ずくの争いだけがあるのではありません。嫡出子側にも辛く苦しい事情があるという氏の指摘について想像力を馳せるなら、そこには、まず自分の父親(まあ、たいていは父親でしょう)に母親以外の女がおり、子どもまで作っていたと知った時の心の動揺と解決のつかなさが考えられます。あるいは、その父親は、「外」では金を使うが家に金を入れず、妻子に苦しい生活を強いてきたかもしれない。愛情のバイアスをもっぱら「外」に差し向けていたのかもしれない、等々。仮にこうした事情があった時に、嫡出子の心境として、法的に正当な婚姻関係の下に生まれた自分と、そうではない子とがまったく対等なのだという論理を持ち出されて釈然としないものを感じないで済ませられるでしょうか。
 ②今回の決定は、欧米先進国のリベラリズムを金科玉条として、それに抗することのできない思想的戦後レジームの惰性的な継続が見事に象徴されています。
 この問題は、いまの日本社会のあらゆる領域に依然としてしみわたっていて、むしろますますそれを「普遍的価値」としてそのお先棒担ぎを演ずるような傾向が随所に見られます。別に私は国粋主義者ではないので、いいものはどんどん取り入れればよいと思っています。現に欧米的な価値観や行動様式の中には、すぐれたものがたくさんあります(ex.言論の尊重、責任の重視)。
 ですが問題は、この敗戦コンプレックスからいまだに脱却できないために、自国にとって何が取り入れるべき価値であり、何は乗っかるに値しないかという選別眼がすっかり衰弱してしまっていることなのです。だから欧米や国連が(傲慢にも)「普遍的価値」を僭称して押し付けてくれば、それに対して深い考慮もなく跪拝してしまう。その権威主義的な精神構造を何とかしなくてはなりません。日本人は、人間関係の繊細な綾、自然と向き合う時の丁寧な手つきをとても大切にする民族です。それは、人間を社会や自然から孤立した「個人」としてとらえる価値観とは合わないものです。
 しかし、急いで付け加えなくてはならないのは、「個人」至上主義なるものが、必ずしも西欧的な価値観にそのまま重なるものではないということです。ヨーロッパにはもともと強固な共同体的伝統があり、それを無視して「個人」至上主義があちら由来の「普遍的価値」だと思い込むことが、戦後社会特有の誤解に基づいているのです。ヨーロッパが「個人」至上主義に見えるとすれば、それは、戦後日本人が敗北の痛手から勝手に構想した突然変異的な「ゆがんだ神様」の姿にほかなりません。人間は孤立した個人ではないという認識こそが真に普遍的なのであって、それは欧米でも同じ。その認識を世界に通用させていくことにとって、日本人の伝統的な感受性はとても有利なのだということだけは言っておきたいと思います。
 ③現行憲法に規定された「すべて国民は個人として尊重される」(13条)とか、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し……」(24条1項)などの条文は、習俗や道徳に介入しないという近代憲法の精神を考える限り、じつに余計で下らない規定です。ですから逆に、「家族の尊重」などの条文を憲法の中に盛り込もうといった一部保守派の目論見もただの反動なのです。個人も尊重されなくてはならないし、家族も尊重されなくてはならないのは当たり前であって、憲法の条文でわざわざ謳わなくても、良識と人倫とが生きていれば自然に果たされることです。両者は別に矛盾しません。どちらも「お互いに相手の存在を認め合い思いやって大切にする」ということですから。
 逆にこうしたことを謳わなくてはならないというその動機の中に、人間不信と統治者の自信のなさとあせりとが覗けて見えます。こんな条文があろうとなかろうと、現実的な社会秩序が安定し生活にゆとりがあればこうした良識や人倫は守られるし、逆に秩序が乱れたり生活が困難を克服できなくなれば、たちまち良識も人倫も荒廃するのです。
 ちなみに、実際の婚姻過程では、「両性の合意のみに基づいて成立」するなどということはまずあり得ず、良識ある若者たちは、みな両親や兄弟姉妹の理解と合意とを不可欠と考えて行動しています(事前にフィアンセを両親に引き合わせるとか、結婚式・披露宴を挙行するとか)。
 ところでこの条文は、占領軍が原案を作ったのだから、アメリカ的価値観をそのまま持ち込んでいるのではないか、やはりその事実は、「個人」至上主義が欧米からやってきたことを証明しているのではないかという反論があるかと思われます。
 それは半分は当たっていますが、半分は当たっていません。というのは、もともとこの憲法は、米占領軍の統治のための暫定的措置でした。アメリカは、日本軍国主義を解体するという火急の目的のために、とりあえず何が必要かと考えました。そうしてその精神的基礎に封建思想や集団主義のもつ負の側面の強固な残存を見たのです。だからその反措定として「個人」というイデオロギーをことさら打ち出すことにしました。そこには彼らの日本誤解が映し出されています。
 今その誤解について詳しく論じるだけの余裕がありませんが、一番の問題は、そういう応急手当を、これこそが素晴らしく新しい道徳的理想なのだと受け取ってしまった日本人の側にあります。それは、あれだけコテンパンにやられた敗者の感受性として、致し方なかった部分があるかもしれませんが、同時に卑屈になり下がった日本人の悲しさ、情けなさをも示しています。そうしてこの悲しさ、情けなさが、豊かな大国となった今の日本の平均的な生活実感とはほとんど縁がなくなっているにもかかわらず、いまだに精神構造として残っていること、それが法的な物事を決める時の基準として必ず顔を出してくること、それこそが脱却しなくてはならない「戦後レジーム」なのです。
 私たちは、「自由」とか「平等」といった言葉の価値をそれなりに認めつつ、いっぽうで日本人の伝統的な世界観にふさわしい価値機軸を表現できる言葉を創出していかなくてはなりません。



コメント(8)
コメントを書く

2013/09/17 17:34
Commented by 美津島明 さん
当論考の主張に全面的に賛同します。ツイッターに「当違憲判決問題は、戦後レジームからの脱却がいかに難しい課題なのかを象徴していることを言葉を尽くして説いている秀逸な論考です」という口上を入れて当論考のURLを掲載し拡散を図りました。


2013/09/17 17:48
【返信する】
Commented by kohamaitsuo さん
To 美津島明さん
さっそくのコメント、ありがとうございます。
また、有効な援護射撃もしていただいたようで、深く感謝いたします。
それにしても、長谷川氏の秀逸な論考に皆さんが注目してくださるといいのですが。お互いに、少数ながらも孤立しない闘いが必要ですね。


2013/09/18 13:17
Commented by 美津島明 さん
ツイッター仲間のプシケさんのツイッター上でのコメントをご本人の承諾を得た上で、掲載します。

*****

読んで、靄が晴れました。
論評中にある婚外婚の各国割合を提示したうえで、我が国においてどうか?という議論、報道がなされるべき類いですね。
各国の婚外婚の割合を見て、感じていた違和感がすっきりしました。
これも国柄を踏まえていない事例なのですね。


2013/09/18 16:26
Commented by tiger777 さん

私もこの件について何も知らなかったのですが、婚外子を平等に扱えば今後の遺産相続は更に揉めることにことになるだろうなあという思いとやはり直観的に日本的な家族観を壊すことになるだろうなという思いはすぐに浮かんできました。
判決当日の夜のテレ朝報道ステーションで、コメンテーター(誰だか知らないが、当然朝日の人間でしょうが)が、しきりに家族形態が多様化しているんだから、それを認めた判決は素晴らしい、と絶賛し、自民党が旧来の家族に重きを置くことを批判していました。これは大ごとかも、と。
 経済評論家三橋貴明氏のブログ「新世紀のビッグブラザーへ」で後藤孝典弁護士の投稿が紹介され、法律専門家の意見を知りました。後藤弁護士は、自らの「会社分割の後藤孝典が語る!」(http://toranomon.cocolog-nifty.com/gototakanori/)というブログで最高裁判決批判を書いています。
9月 6日 「最高裁平成25年9月4日大法廷決定の矛盾(婚外子)」
9月12日「婚外子相続分2分の1違憲は家業を潰す」
    「婚外子は家庭の中の子なのか、外の子なのか?」
少し引用してみます。
「そもそも現行法上、遺産というものは、被相続人の個人的な財産であって、妻がいても子供がいても、家庭の外に子がいようと、いないとにかかわらず、どう処分しようが、被相続人の勝手だという大原則があります。だから遺言状で自由に処分することが認められています。
 ついで、遺言状がないときは、相続人同士で相談の上、法定相続分などまったく無視して遺産を分割することが認められています(民法906条)。つまり、相続分に反する内容の遺言状を書いても違法にはなりませんし、相続分に反する遺産分割も違法にはなりません。
 ですから本件の決定が、相続分は権利だと言っていますが、期待分という程度のはなしで、債権や物権のような権利ではないのです。不利益を及ぼすことは許されないと大見得を切っていますが、遺産分割である以上、不利益を及ぼしてもいいのです。長男の取分が次男より多いことなど普通の話です。」
(続く)


2013/09/18 16:28
Commented by tiger777 さん

(続きです)
また、後藤弁護士は「婚外子相続分2分の1違憲は家業を潰す」として、次のように述べています。

「最高裁は、家庭を個人が棲むところ位にしか思っていないようだが、家庭は古来家業を遂行する場所なのだ。家業(もちろん農業・漁業を含め)においては、家産の承継は死活的に重要な意味をもっている。
 全国の企業総数約420万社のうち99%は小規模、中小企業で、同族企業だ。この小規模、中小企業、同族企業が日本の産業の基盤をなしている。このように小規模、中小企業にとっては、遺産の最重要部分は中小企業の生産施設とか当該企業の株式であるから、その企業の生産と収益向上に貢献する可能性の高いほうに法定相続分を多くするのが合理的である。
 家庭の外にいて、家産の承継ではなく、家産の取得だけを考えるものに対して、厳しくすることには合理性がある。家産の集中、累積は、単に物的財産の蓄積ではない。知識と技術の蓄積でもある。いわば、日本の国力なのだ。最高裁の裁判官たちは、家業とか老舗とか、事業を継続し承継することの重要性を理解していない。」

 最高裁が勝手に日本の家族解体につながる判決を安易にすることも問題ですが、最高裁判事全員が賛成したのはもっと驚きでした。韓国の最高裁のように成り下がってしまったような。


2013/09/18 19:18
Commented by tourokurad さん

kohamaitsuoさん こんにちは
最高裁判決が示す社会的影響はメデイアの報道にも、ネットの反応にも
大きな振幅があります。
長谷川三千子論文の価値は法解釈における判例とも言うべき事で、
判決文、弁護士、行政書士などの法を飯の種にする職業人とは異なり、
論議するには、不得手な、法の範囲に生活する庶民の手助けになります。
最高裁は今回の判決で、2%の非嫡出子の法の元の正義を守った。
それでは、残り98%の人々の正義は如何になりましょうか。
メデイアの報道にも拘らずに、弁護士や行政書士にも、
判決に異論を言う人がおります。
民法の規定、(民法第900条第4号ただし書の規定)は、
まったくただし書きであって、非嫡出子の相続分を零にするのは、
可哀想だとの温情から社会的認知を含めた分量と解しております。
この様な考え方は、日本国民一般の考えであり、今回の司法判断に
批判的見解は広く通用している。我々は、社会の根幹に位置しており、
その考えは絶対多数派であります。
司法が国民の総意を曲げれば、当然に弾劾裁判などの法的措置は
考えられるところです。


2013/09/18 20:47
【返信する】
Commented by kohamaitsuo さん
To tiger777さん

貴重なコメント、ありがとうございます。
ご紹介いただいた後藤弁護士の論説、「小規模、中小企業にとっては、遺産の最重要部分は中小企業の生産施設とか当該企業の株式であるから、その企業の生産と収益向上に貢献する可能性の高いほうに法定相続分を多くするのが合理的」「家産の集中、累積は、単に物的財産の蓄積ではない。知識と技術の蓄積でもある。いわば、日本の国力なのだ。最高裁の裁判官たちは、家業とか老舗とか、事業を継続し承継することの重要性を理解していない。」
は、不覚にも私にとってまことに新鮮な観点であり、蒙を啓かれる思いでした。本当に、こういうことも考えるべきですね。
最高裁判断の迷妄は、安倍政権の一角に巣食う竹中一派の「新自由主義」と連動している感じがします。日本はどうなることやら。


2013/09/18 21:09
【返信する】
Commented by kohamaitsuo さん
To tourokuradさん

貴重なコメント、ありがとうございます。

>メデイアの報道にも拘らずに、弁護士や行政書士にも、
>判決に異論を言う人がおります。
>民法の規定、(民法第900条第4号ただし書の規定)は、
>まったくただし書きであって、非嫡出子の相続分を零にするのは、
>可哀想だとの温情から社会的認知を含めた分量と解しております。
>
>この様な考え方は、日本国民一般の考えであり、今回の司法判断に
>批判的見解は広く通用している。我々は、社会の根幹に位置しており、
>その考えは絶対多数派であります。

このご意見に触れて、少々ホッとしました。ただ懸念されるのは、たとえ批判的見解が絶対多数だとしても、その民意と遊離した形で違憲判決にのっとった「改正法案」が国会を通過する可能性は高いでしょうし、法曹界は判例を重んじる風習が強いので、その後の訴訟の解決方向がこの判決による悪影響を相当程度こうむるのではないか、という点です。問題は、一部の人たちの粗雑な「平等・個人原理主義」が、複雑な民意と無関係に、権力の中枢部で機能してしまう、という点ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。


日本語を哲学する10

2013年11月12日 16時46分25秒 | 哲学

日本語を哲学する10
(ヴィトゲンシュタイン批判つづき)



  三・三   命題のみが意味をもつ。(略)

 これも納得し難い言明である。ふつう、命題とは、「AはBである(ない)」とか、「もしAならばBである」とか、「AがBでないならばCはDではない」というように、「陳述」の形をとった言葉のことをいう。ヴィトゲンシュタインは、言葉の世界の核心を「命題」すなわち「明瞭な陳述」というところにのみ求めている。しかし、いうまでもなく言語表現の形式は陳述のみに限られない。それには、質問、命令、依頼、勧誘、忠告、叱責、謝罪、挨拶、感謝、追及、説明、教唆、語り、告白、宣言、口論、喧嘩、討議、感動表現、芸術表現、言語自身への自己言及その他、ありとあらゆる形式のものが含まれ、その多様な形式は、ちょうど私たちの行動と同じように、それら固有の「表情」をもつ。
 もちろん、この中には、陳述と解釈されうる形式がないではないし、陳述を内部に含むものもないではない。しかし、たとえば「死ね!」という言葉は、「あなたは死ぬべきである」という陳述とそのままイコールだろうか。「ありがとうございます」という言葉は、「私はいまあなたに感謝の意思を表明している」という陳述だろうか。「今日限りタバコをやめます」という決意表明は、「私は禁煙の決意をしている」という陳述だろうか。ヴィトゲンシュタインは、これらの言語行為の多様なありさまが、まさにそういう多様な表現スタイル(表情)をとる必然性にまったく配慮を届かせていない。
 ところで、それでは、これらの多様な表現スタイルが、「命題」ではないからという理由で「意味」をもたないのかといえば、だれもそうは思わないだろう。
 ヴィトゲンシュタインは、「意味」という言葉(おそらくドイツ語でSinn、これは英語のsenceに相当し、「意義」(釈義)と訳されるBedeutungやmeaningとは異なる)の本質を間違えているのである。あるいは、はなはだしく瘠せた範囲でしかこの言葉を把握していない。多様な表現スタイルが示すそれぞれ固有の表情は、私たちが特定の行為に意味を見出すように、それにふさわしい、他には替えがたい「意味」の探索へと私たちをいざなう力をはじめからもっているのである。たとえば「死ね!」という言葉は、その調子も含めてある情緒的な効果を聴き手に与える。私たちは常に、そうした効果も含めて「意味」という言葉を理解しているのである。
「意味」とは、ある生活文脈のなかである表現(現象)がもつ固有の表情をも含むところの「興趣」のことであり、「おもむき=面向き」のことである。それは表現主体または感受主体が、「どこに向かおうとしているか、どのように受け取っているか」というときの「どこに」「どのように」のことであり、そのような実存者の志向性のことである(「意味」についてのこの考え方は、ハイデガー『存在と時間』にもとづいている)。時枝の端的な定義によれば「意味とは、主体の把握作用である」ということになる。
 したがって「意味」という言葉の意味は、もともと言葉の形式的な本質を超えているのであり、単なる顔の表情も、沈黙でさえも「意味をもつ」と言いうるのである。「目は口ほどにものを言い」「重苦しい沈黙がその場を支配した」等々。むろん、歩いている人も寝ている人も、青空も逆巻く波も路傍の石ころも子犬も、それに向き合う人間主体にとって「意味をもつ」。

 
  四・〇〇二 (略)言語は思考を仮装させる。すなわち、ひとは衣装の外形からそれをまとう思考の形を推測することはできない。その衣装の外形は、肉体の形を知らしめる目的でデザインされたのでは決してないからだ。

 じつにバカなことを言っている。これぞまさしく私がこの節の②で問題にしている「言葉は、あらかじめ存在する世界の普遍的真理をあらわす」という命題に相当する。この断章は、一見そうではなく、言語が真理とは乖離してしまう限界をもっていることを述べているかのように見える。しかし、こういう言い方の背景にあるのは、やはり例のユダヤ=キリスト教的な命題なのである。
 なんとなれば、ここでヴィトゲンシュタインは、言語を衣装に、思考を肉体にたとえており、このように言語と思考とを外形と内的実質とにナイーヴにも分けて平然としている考え方こそ、言語表現以前に、それとはまったく別の形で「永遠の真理」なるものが存在するという理念を前提としているからである。しかし、言語以前に「真理」などは存在しない。「真理」とは、私たちの言語による思考実践によって作り出された創造物なのである。
 ここでヴィトゲンシュタインはみずから明記していないが、彼が拠っているのは「言語以前の思考」なるものが確乎として存在し、しかもそれを本体とみなす言語観である。そしてこれこそは、長い間西洋を縛ってきた言語観であり、それは先に批判した「言語=道具」観の誤りにも通じている。
 先に引いた「命題は実在の写像である」という断章は、彼のこれまでのユダヤ=キリスト教的「真理」観念を端的にまとめたもので、言語思想としては二重の意味でピントをはずしている。第一に、なぜ「実在」が素朴に信じられるのかについて彼は何も言及していない。それは「神」によって与えられているゆえに疑う必要がないからだ。第二に、仮に言語が「実在の写像」(神の似姿)であることを認めるとしても(認められないが)、すでに述べたように、「命題」という形式は、言語行為の中のほんの一部分にしか過ぎないものである。彼がこの書で説きたがっているような、命題こそが日常言語の夾雑物を取り除いた純粋無雑な言語の本質をなすものであるという言語観には、何の根拠もない。
 私なら、この断章を次のように言い換える。

 命題は、世界の混沌を論理という言語の一様式にしたがって秩序づけた創造物である

 なるほど、この時期のヴィトゲンシュタインの頭の中は論理こそ言葉の本命という観念で一杯になっていて、論理以外の言語表現をすべて「ダメな写像、不完全な写像」として一蹴したかったのにちがいない。しかし、私にいわせれば、それこそは現実というものをわきまえない「子どもの論理」にほかならない。彼が哲学者たちを批判しながら、いかに言葉が背負っている現実をわきまえない哲学者特有の「子どもの論理」を弄しているか、その一例を挙げよう。

  四・四六一  同語反復命題と矛盾命題とは、それらが何ごとをも語らぬことを示す。
  四・四六二  同語反復命題と矛盾命題とは、実在の写像ではない。それは、いかなる可能な状況をも叙述しない。前者は可能な状況すべてをうけいれ、後者はすべてを拒否するゆえに。


 
 同語反復命題とは、「教師は教師だ」というようなもの、矛盾命題とは、「教師は生徒だ」というようなものを指す。
 ヴィトゲンシュタインは、同語反復命題や矛盾命題という言葉で、真の論理に値しないものをすべて葬り去りたかったにちがいない。
 その破壊性こそが彼の言語哲学の「魅力」をなしている。しかしこれが魅力であるように感じられるのは、それこそ言葉の遊戯にすぎないパラドックスを好んで取り上げて議論する「哲学者」たちの袋小路を、「哲学」言語の枠内で一見打ち破ってくれるように見えたからである。しかし、けっして本当に打ち破っているわけではない。
 ちなみに「哲学者」好みのパラドックスとは、たとえば「私はいま嘘をついている」「すべてのクレタ島人は嘘つきだとひとりのクレタ島人が言った」「私の命令に従うな」のような例である。これらを、それだけ取り出して論理としては真偽を決められない難問だなどと大真面目に論じるのは、ただのバカらしい遊戯である。
 このバカらしさについては、哲学者の竹田青嗣氏が『言語的思考へ』(径書房)のなかで、「現実言語」と「一般言語形式」という対概念を使って徹底的に論じている。前者がその言語が使用される状況や背景を考えた場合の言語観を象徴し、後者がただ論理形式としてのみ問題視するような抽象的な言語観を象徴する。「哲学者」好みのパラドックスは、後者の「一般言語形式」の範囲内でしか言葉の作用を受け取っていないのである。
 たとえば、「私はいま嘘をついている」という命題が「真」であるならば、現に「私」の言っていることは「嘘」であるということになるはずであるが、そうだとすると、この命題自身の反対、つまり「私は真実を語っている」という命題のほうが「真」だということになり、相反する命題がともに「真」であるという矛盾に逢着する。論理形式としてはそういうことになる。
 しかし、こういう言葉が現実に語られるときには、その前に言われた言葉が必ずあって、それを言ってはみたものの、すぐに「ああ、私は本当のことが言えていないな」という自己反省や、「あ、相手を傷つけてしまったかな」といった聴き手への配慮がはたらいている。この言葉は、そうした感慨の表現として、立派な意味を持つのである。
 また、「私の命令に従うな」という「命令」は、命令であるがゆえに、それを聞いたものの行動を不能にするかに見える。論理形式としては、この命令の内容に従うなら、命令に背くのが正しいことになり、そうだとすれば、この命令自体が無効と化すからである。「じゃあ、どうすればいいんですか」と反問したくなるだろう。
 しかし、これも現実状況の中で語られるときには、「いちいちロボットみたいに俺の命令を杓子定規に受け取らずに、自分の頭で考えろ」という含意があることは明らかである。
 これと同じように、ある状況、あるコンテキストのなかでは、「教師は教師だ」という同語反復命題は何ら無意味ではない。また、「教師は生徒だ」という矛盾命題も少しも無意味ではない。それどころか、彼の言葉を使えば、これらはいずれも「実在の写像」たりえており、ある「可能な状況を叙述」しえている。
 というのは、現実の言葉のやり取りの場面で前者のような言葉が発せられる場合、はじめの「教師」という言葉は、教師一般を指示する以外に格別の含意はないが、あとの「教師」という言葉は、「職業としての限界がある」とか、逆に「子どもを正しく導くために高い理想を持たなくてはならない」などの含意を込めた上で使われるからである。また、後者の場合、「生徒」ということばは、「生徒によって逆に教えられることがじつに多い」とか「教えることそのものが永遠の勉強なのだ」といった含意のもとに使われるからである。

 なおまた、ヴィトゲンシュタインは、「同語反復命題」という概念で次のようなことを言いたかったと考えられる。
 陳述における主語と述語との関係で、述語の表現が見かけ上主語とは違っていても、その主語の概念の中に述語で言い表されている内容がもともと含まれている場合には、それは同語反復とみなして差支えない。よってこの場合にも、「何ごとjも語」ってはいず、「実在の写像」たりえない、と。
 たとえば、「ひとは二足歩行動物である」という命題で、「ひと」という概念の中にはすでに「二足歩行する動物」という条件が含まれているので、こう言っただけでは、同語反復であり、何か論理的なことを言ったことにはならないというように。
 たしかに言いたいことはわかる気がする。しかし、この種の命題が「何ごとをも語っていない」のかと言えば、そんなことはないだろう。もしヴィトゲンシュタインがそういうことを言いたいのだとすれば、「三角形の内角の和は二直角である」とか、「ライターは火をつける道具である」といった命題も、すべて同語反復で、「何ごとをも語っていない」ということになろう。
 けれども、これも彼が言葉というものをわかっていないことをかえって証明している。
 ある言葉はある形態をもち、別の言葉は別の形態をもつ。そうして「主語―述語」関係による陳述は、まさに互いに別々の形態を同一のものとして結びつけるところに成立する。するとこの種の陳述は、じっさいの生活の中でどういう効果を持つだろうか。
「ひと」という言葉は幼い子どもも知っており、広くいろいろな意味で使われている。しかし「二足歩行動物」という言葉は、生物学という固有領域における特別な概念であり、そのかぎりで、「ひと」という概念をある特殊な仕方で限定しているのである。したがって、これを初めて聞いた人にとっては、「ひと」を生物一般というカテゴリーでとらえればそういう把握が可能なのかという新鮮な感銘が訪れてくるはずである。「ライター」という言葉が何を指しているのか知らない人には、「火をつける道具」という規定は、より明確な理解を提供する。また「火をつける道具」はほかにもあるので、マッチやガスレンジの点火装置と同類のものなのか、というように、個物をカテゴリーとしてくくる認識が成立する。さらに、「ライターはすぐに火をつけることができるので、小さな子どもに持たせては危険である」という文脈の中でこの命題を強調することには十分な意味があるだろう。
 このようにして、ちがう形態どうしを結びつける言語行為そのものが、それを聞いた者に、「あ、そうか」という一種の動揺をもたらすのであって、それは、共同社会への参加へと人々を促すのである。
 ある語彙あるいは語彙群のもつ概念は、いつも、だれにとってもその内包や外延が自明のものとして把握されているとは限らない。 ある語彙あるいは語彙群のもつ概念のすべてを理解している人にとってのみ、「形態がちがっても概念は同じだからそれは同語反復で当たり前のこと」で、よって「何ごとをも語っていない」という退屈な感じがやってくる。しかし、そのほかの人の生活にとっては、形態の異なる語彙と語彙との結びつけによる同語反復的な命題が新鮮な意味をもちうるし、またその使用の繰り返しが、前後の文脈しだいで共同生活の維持のために大きな役割を演ずることもあるのだ。「政治家の役割は、人々の多様な意思をまとめることだ」というように。

 矛盾命題については、次のようなことが言える。
 言語が現実に使用される状況しだいでは、「丸い三角形がある」とか、「一足す一は三である」というような端的な矛盾命題・誤謬命題ですら意味をもつことがありうるのである。というのは、前者の場合は、描かれた二つの三角形を比較して、いっぽうが角張っており、もう一つが丸みを帯びているので、あとのほうを指し示すための表現と解されることがあるからである。また後者の場合は、この世の中は何でも合理的に割り切れるものではないということを言いたいために使えるからである。人生を知らない人を「あいつは何でも一足す一は二だ式の考え方をする奴だからな」と軽侮を込めて批評することも可能であろう。


(次回もヴィトゲンシュタイン批判を続けます)



これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(3)

2013年11月12日 16時31分06秒 | ジャズ

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(3)


 時計の針を大学入学前に戻します。
 渋谷のジャズ喫茶に通っていたころ、よくかかっていたのは、楽器別に言うと、次の通りです。もちろんそれぞれのプレイヤーが共演しあっている場合が多いのですが、アルバムによって、だれをフィーチャーしているかということがほぼ決まっており、その人の名前が前面に出ているわけです。
 ピアノ: ホレス・シルヴァー、バド・パウエル、ソニー・クラーク、ウィントン・ケリー、オスカー・ピーターソン、セロニアス・モンク、マル・ウォルドロン、マッコイ・タイナー、ハービー・ハンコック、デイヴ・ブルーベック、そしてビル・エヴァンス。
 トランペット: ディジー・ガレスピー、ドナルド・バード、アート・ファーマー、ケニー・ドーハム、リー・モーガン、フレディ・ハバード、そしてマイルス・デイヴィス。
 テナーサックス:  コールマン・ホーキンス、ソニー・ロリンズ、デクスター・ゴードン、ウェイン・ショーター、スタン・ゲッツ、チャールス・ロイド、そしてジョン・コルトレーン(彼はソプラノサックスも吹きます)。
 アルトサックス: ジャッキー・マクリーン、アート・ペッパー、リー・コニッツ、ポール・デスモンド(と、なぜかこの楽器、白人が多い。柔らかい音質だからか)、キャノンボール・アダレイ(黒人)、そしてエリック・ドルフィー(黒人)。彼はバスクラリネットとフルートも吹きます。チャーリー・パーカーの嫡出と言えるでしょう。
 いま挙げた中で、それぞれの楽器の最後に置いた人たちはみな巨匠なので、いずれゆっくりと語りたいと思います。
 その他、脇役的な立場で共演していながら目を見張る出演者がたくさんいるのですが、きりがないのでこのくらいにしておきましょう。
 さて、大学受験も押し迫った高3の11月、文化祭の折に、友人K君(先のK君とは別人)と語らって校内でジャズ喫茶をやろうという話になり、私はそれまでに小遣いをはたいて買い集めたLP10枚ほどを持ち込んで、店内に好き勝手に流しました。これはなかなか好評で、そのころコルトレーンのソプラノサックスにいかれていた級友のT君が、私のささやかなコレクションを見て、「小浜、それはすごい財産だな」と言ってくれました。得意満面。しかしこういうことにうつつを抜かしていたせいか、第一志望には見事に不合格。
 ここで、当時爆発的にヒットしていたデイヴ・ブルーベック・カルテットによる「テイク・ファイヴ」を聴いてください。このメロディ、きっとどこかで聞いたことがあるでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=vmDDOFXSgAs

 軽くソフトでいいノリですね。白人らしい洗練されたセンスです。スコッチやブランデーなどをかたむけながら聴くとゴキゲンかも(ちょっとクサいか)。
 でも正直な話、当時、私はこの曲の大流行があまり面白くありませんでした。エラそうに言うと、ジャズに対する自分の感受性はもっと激しいものを求めている! と感じるところがあったのです。
 この曲が有名になったのには、テーマが親しみやすいことのほかにもう一つの理由があります。ジャズはふつう四拍子ですが、これは四分の五拍子という変則リズムなのです。ツダッツダッ、ンダッ、ツダッツダッ、ンダッ、とブルーベックのピアノがそのリズムを打ち続け、それに乗せられてポール・デスモンド(as)が軽快にソロを奏でます。それが何ともオシャレな雰囲気を醸し出しているのですね。一種の知的な操作の勝利でしょうか。
 しかしこの楽団は、ほとんどこれ一曲しかヒットがなく、やがてジャズのメイン・ストリートから消えていきます。「一節太郎」というヤツですね。お聴きになってわかるとおり、リーダーのブルーベックは、何にもソロ・パートを弾いていません。一説によると、彼は魅力的なアドリブができないのだとか。ジーン・ライトのドラムソロも、どうってことのないつまらないものです。まあ、いまでもよく聴かれているようなのでいいですけど。
 悪口を叩きましたが、これって、ジャズ鑑賞における私自身の「白人差別」かも。でも、同じく白人のビル・エヴァンスについては、最高級の評価をしていますので。

 その頃さかんにもてはやされて、いまはあまり聴かれなくなってしまったピアニストに、セロニアス・モンクがいます。「真夏の世のジャズ」という有名な映画に出演して世界的に人気を博しました。ちなみにこの映画には、ゴスペルのマヘリア・ジャクソン、ジャズ・ヴォーカルのアニタ・オデイらが出演しています。この二人は、それぞれ素敵です。マヘリア・ジャクソンは、のちのホイットニー・ヒューストンなどに大きな影響を与えた大歌手です。
 脱線しました。
 モンクのピアノは、極端に訥弁型でイレギュラーな不協和音を意識的に使うので、それが何やら神秘的、哲学的に感じ取られたようです。本国ではいざ知らず、日本ではエキセントリックな若者に妙に受けていました。しかしじつを言えば、私は当初からこの人の何がいいのか、よくわかりませんでした。でもほら、若い時って、自分の感性に自信がない分、なんだかわかったふりをしたがるところがありますよね。私は、「モンクはいい」と積極的に人に説いた覚えはありませんが、なんとなく周りの雰囲気に押されて、これっていいのかなあ、みんなが言うからいいんだろうなあ、くらいに思っていました。
 いまの時点で遠慮なく言わせていただくと、この人は歌えない人だし、聴衆を乗せない人だし、他のプレイヤーとのスリリングなインタープレイができない。でも、ひとりで弾いている「ソロ・モンク」というアルバムはちょっといいし、何を訴えたいのかがなんとなくわかります。
 要するに他のプレイヤーと共演することに向いていないなあ、と思います。マイルスとの共演がうまくいかなくて喧嘩別れしたという話もあります。この喧嘩別れでは、私はマイルスに断然軍配。同時代のピアニストなら、バド・パウエルのほうがずっと天才的で個性的です。シャブ中のためか、最盛期は短命に終わりましたが、彼についてはまたのちに紹介しましょう。
 モンクの才能は、むしろ作曲に活かされています。「ラウンド・アバウト・ミドナイト」「ストレイト・ノー・チェイサー」など、ジャズスタンダードナンバーとして有名な曲は、彼の手になるものです。
 
 当時よくかかっていた曲に、マル・ウォルドロン(p)の「レフト・アローン」、リー・モーガン(tp)の「ザ・サイドワインダー」があります。
 前者は、黒人女性歌手、ビリー・ホリデイの伴奏者だったマルが、亡きビリーを偲んで作った曲。ジャッキー・マクリーンの悲哀のこもったアルトサックスが妙に肉声に近く、日本人にはとても人気があります。ジャズで哀悼を表現した曲というのはあまりないので、貴重といえるかもしれません。素朴な心で聴いて、きっと泣けると思います。よい意味での「浪花節」ですね。浪花節は大切です。
 では「レフト・アローン」。
http://www.youtube.com/watch?v=E7lIffL3xaQ
 後者、リー・モーガンは、前にご紹介したアート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズでも花形スターでしたが、オリジナルアルバム「ザ・サイドワインダー」で一躍、一般のポップス界でも人気を勝ち得ました。この人は、ちょっと不良っぽい風貌ですが、早い時期から才能をきらめかせ、若々しく華やかなラッパを吹きます。



「ザ・サイドワインダー」は、ジャズとロックの中間のようなリズムで、とてもポップなイメージです。これなら、ジャズに興味がなかった人も、思わず体を動かしたくなるでしょう。私の友人、K君もA君も当時これを聴いて、ノリまくっていました。
http://www.youtube.com/watch?v=T5jFPrx51Dc
 このノリのよすぎる明るい曲は、ジャズを静かに聴く、という立場からは、少し邪道に感じられるかもしれません。事実、本格派を気取っていた私自身は、こういう方向にジャズが開かれていくことに、多少の不満を抱いたものです。
 しかしリー・モーガンは、一見やんちゃで派手に見えますが、ジャズが持つリリシズム(抒情性)や即興演奏での緻密な構成力をきちんと表現できる人です。オーソドックスなジャズ曲の中での彼の演奏を聴きたい人には、ジョン・コルトレーンの「ブルー・トレイン」がお勧めです。
 この曲でリー・モーガンは、初めから終わりまで、起承転結のある完璧なソロを吹いています。もちろんコルトレーンも大したものですが、彼については、言いたいことが山ほどあるので後回しにし、ひとまずこの曲では、リー・モーガンの演奏をお楽しみください。二人以外のパーソネルは、カーティス・フラー(tb)、ケニー・ドリュー(p)、ポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)。フィリー・ジョー以外のすべてのメンバーがソロパートを受け持っています。

http://www.youtube.com/watch?v=S1GrP6thz-k
 アトランダムにいろいろ紹介してきましたが、ほかの世界と同じように、ジャズの世界はたいへん奥が深く、とてもとてもこんなものでは本道にたどり着いたとは言えません。次回は、モダンジャズの栄枯盛衰ということについて私なりの考えを語ってみたいと思います。ただし気ままな旅なので、ここで予告したことは、その通りになるとは限りません。もしみなさんがまだ飽きていらっしゃらなければ、どうぞもう少しお付き合いください。


コメント(2)

2013/09/08 01:39
Commented by ogawayutaka さん
60年代のジャズシーン、私には懐かしい名前ばかりでしたが、懐かしいというだけでなく、挙げられている音楽家の独自性は、普遍性を持つと思います。次の世代に人にもぜひ、イントロデュースをお願いします。
ところで、そもそも、世間での評価以上に評論家という存在の役割はとても大きいと思います。ジャズ評論家もしかり。評論家は、芸術家と受け手の媒介をしてくれます。評論家と言っても、その名を職業としている人とはかぎりません。ときには、編集者、教師、それに音楽の場合、レコード会社や放送局の人、オーケストラの音楽監督と言われる人もそうでしょう。ジャズ喫茶のおやじもそこに入ります。
こういう人たちは聴き巧者であるとともに、多く場合、言語表現の達人です。この人たちが、音楽を「発見し」、大衆に伝えてくれます。偉大な芸術家は最初は、なかなか理解されないのですが、こういう人たちが熱心に説得するおかげで、人々は聴いてみようかなと気を起こします。または、放送局に働きかけて初めて多くの人の耳に達するということもあります。バッハは、メンデルスゾーンが広報活動をしなければ、発見がずいぶん遅れたでしょう。その間に多くの楽譜も失われてしまったかもしれません。
ついでに、個々のプレイヤーについてですが、たしかにブルーベックはつまらないです。しかし、数年前に大統領も出席して誕生日が祝われ、昨年亡くなったときは「偉大な芸術家」としてみなされたようです。芸術家を褒めるのは大切ですが、これで若い人へのメッセージなるのかどうか、疑問に思いました。
ところで、ポールデスモンドは、世間ではイージーリスニングとみなされがちですが、私は天才だと思います。


2013/09/08 14:35
【返信する】
Commented by kohamaitsuo さん
To ogawayutakaさん
たびたびコメントを寄せていただき、ありがとうございます。
おっしゃる通り、芸術・文化にとって紹介者・媒介者の役割はとても重要ですね。バッハが人口に膾炙するのにメンデルスゾーンが大きな役割を果たしていたとは、不覚にして初めて知りました。
編集者、教師、音楽関係者、ジャズ喫茶のおやじなどの広報活動や意見が貴重というお考えに賛成です。
評論家と言っても、当時「スウィングジャーナル」誌で活躍していた人たちの中には、名前は挙げませんが、あまり共感できない人も何人かいました。あるジャンルに心から惚れ込んでいること、趣味にあまりぶれがなく日和見主義に陥らないことが何よりも重要かと思います。油井正一さんがよかったですね。彼はジャズ評論界の淀川長治です。
私もこういう試みで、少しでもよき紹介者の末席に連なることができればと、少々身の引き締まる思いでおります。
デスモンドが超名プレイヤーだということは、もちろん認めます。彼がいなかったら「テイク・ファイヴ」もあれだけヒットするはずがないですよね。
今後ともよろしくお願いいたします。

倫理の起源9

2013年11月11日 23時42分14秒 | 哲学

倫理の起源9



 さてソクラテスは、「恋の対象というものは、何らかの意味で『善きもの』でないかぎりは、半分でも全体でもない。」と言っている。この微妙な表現に注意しよう。「何らかの意味で『善きもの』」とは、もともと、多義的な言い回しである。なるほど、恋する人が目標とする対象は、その人にとって「よきもの」であるにちがいない。
 しかし「よい」あるいは「いい」という言葉は、時には快、時には利得、時には健康、時には幸福、時には優良、時には強さ、時には美、時には情趣の豊かさ、時には適切、時には上首尾、時には安定性、時には身分や家柄の高いことなど、いろいろな意味に使われる。日本語では、これに「善」という字を当てることではじめて道徳的な「よい」という意味に限定される。
 この「よい」あるいは「いい」という言葉の多義性をどのように整理し、それらの連関をどうとらえるべきかは、倫理学にとって非常に重要な問題なので、後に言及することにしよう。
 この「善きもの」という言葉について、古代ギリシア語での原語がどういうニュアンスをふくんだものであったのか、私はつまびらかにしないが、おそらく同じような多義性を含んでいたであろう。ソクラテス(プラトン)がここで「よい」という多義的な表現を用いつつ、その意味をあえて道徳的な「善」の概念に引きつけようとしていることは、やはり後の文脈から考えて容易に想定できるからである。
 さて次にソクラテス(プラトン)は、「恋のはたらきとは、肉体的にも精神的にも『美しいもののなかに出産すること』である」と述べ、ついで肉体的な身ごもりと出産、精神的な身ごもりと出産とをアナロジカルに対応させつつ、「魂において身ごもり、出産する人々は、うつしみの子どもによるつながりよりもはるかに偉大なつながりと、しっかりした愛情とを持つ。それは、より美しく、より不死なる子どもを共有するからである」と結論づける。これがプラトンの詐欺の第二ステップである。
 すでに「エロス神」は、自分に欠けたものを求めること一般として、彼の哲学的な言語世界のうちに籠絡されてある。そして、肉体よりも魂のほうが価値として優れていることは、当時の人びとにとって自明の認識であったから、魂において身ごもり、出産することのほうがより美しくより永遠的であるという結論には、文句のつけようがない。現世を超えた「知への愛」のほうが現世的な欲望を満たすことよりも価値あることなのだという「プラトニック」な図式がここに成立するのだ。
 詐欺の第三ステップは、もはや隠し立てもなくあらわである。恋の道には、正しく進むべき順序、道筋があるというのである。そこには、個別の対象への愛から始まり、美そのもの(美のイデア)を対象とする学問の愛にいたる四つの段階がはっきりと示されている。そしてこの最高段階にまで達する人(哲学者)のみが、真の徳を産み育てるにふさわしい人であるというのである。
 現代の常識的な感覚の持ち主ならば、「え、何だって? 恋の道を正しく進めていくと学問の道にいたるんだって? そりゃありませんぜ、プラトンさん」と笑い出したくなることだろう。だがプラトンは、こういう考え方を大まじめでソクラテスに語らせているのである。
 しかし、笑って済ませられる問題ではない。「エロス」問題を扱った『饗宴』という、人々の関心を誘惑するこの楽しくも愉快な作品設定の本来的な意図はどこにあるか。それは、恋愛感情のもつ狂気性、非日常性をそのまま受け入れながら、いかにしてそれ自体を、徳の支配、「善」の支配のもとに結びつけるかというところにある。このことが理解できたならば、私たちはそこに、プラトンの道徳説教家としての野望がどれほど大きいものであったかも同時に知るのである。
 この思想家の巧妙な手口は、厖大な作品群のうちたったひとつを調べてみただけでも歴然としている。たとえば彼は、この作品のはじめのほうで、エリュクシマコスがエロスを称える演説をしようと提案したとき、ソクラテスにこう語らせている――「エリュクシマコス、だれも、君に反対投票するものはあるまいよ。このぼくは、恋の道以外はまったくの無知であることを主張しているのだから、断わるわけはないし……」。
 また、後に扱う『パイドロス』においては、恋の狂気性に絡めて、やはりソクラテスをして「実際には、われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである」と言わせている。
 つまり、恋愛感情に見られる狂気性(霊感、インスピレーション)は、神々たち(エロスやムゥーサ)によって吹き込まれたもので、それは人間界の卑俗な知恵、分別、節制などの配慮などよりも、それ自体としてはずっと価値の高いものであるとプラトンは主張しているのである。そこでこの彼一流のロマンチシズムを、「イデアへの恋」(愛知)として実現することができれば、それこそが最も神に愛される姿なのだという結論が導き出されるからくりになっているわけだ。
 要するに恋の狂気性をそれ自体として肯定することを前提にして彼のイデア論はうち立てられている。問題はその恋の「対象」なのである。その対象が、感覚によってとらえられる地上的なものではなく、現世を超えた永遠の魂を求める性格のものであれば、いっそう価値高きものとなる。地上の恋に見られる狂気性そのものを何とか保存しながら、それを、感覚ではとらえられず哲学的思惟の前にのみ姿をあらわす神的対象への狂気的な愛、つまりイデアへの愛に橋渡しすることはできないものか――これが「エロス」という、人間くさい厄介なあり方に対するプラトンの問題意識だった。
 だが結論をいえば、これは無理なことである。その無理を道理として押し通すために、彼は、くだんの四段階説を唱えた。より上位の段階に達したものは、いままで自分が陥っていた段階を、より低いもの、つまらないものとしてさげすまなくてはならない。肉の愛への軽蔑を核心にもつ道徳。
 キリスト教道徳に直通するこのテーゼは、じつはプラトンの中ではじめから動かし難いものだった。しかし、それを、節制の徳などを対置することによって説くのではなしに、よりすぐれた恋のあり方への上昇過程として展開してみせること、それこそが、彼の巧妙な言論詐術の要である。
 もう一度整理しておこう。
 ここでのプラトンの詐術とは、同じ狂気性を秘めた恋心でありながら、対象がより一般的なもの、より感覚を超越したものであればあるほど、その階梯が高いところに位置するという論理である。この論理的な詐術を克服しようと思うなら、最低限、次の四つのことを果たさなくてはならない。

①どこに彼の論理のおかしさがあるかを、論理そのものから見破ること
②対象や質が異なると思える人間のいろいろな感情をどうして、「愛」や「恋」という言葉でひとくくりにできるように私たち自身が感じるのか、その理由を探ること
③私たちが普通に使っている「恋愛」とか「恋」とか呼ばれる言葉(概念)の本質が何であるかを、新しく展開してみせること
④プラトンがこういう説を唱えた、その動機がどこにあったのかを、当時の社会の要請のなかから読みとること

 まず①については、すでに述べてきたが、プラトンは、ここで一種の論理的な詐術を二つ用いている。ひとつは、いわゆる恋愛感情と知への愛とを、単なる対象の違いとして共通項で括り、結果的に両者を「同一視」していること、そしてもう一つは、いわゆる恋愛感情を、「美一般」を恋い慕う気持ちの一種であるとして「抽象化」していること、である。
 人の人に対する恋愛感情は、けっしてプラトンの考えたように、知への愛にアイデンティファイできない。なぜならそれは、あくまで一人の自我と身体をもつ存在を対象とし、その固有な特性そのものとの心身の合一と共鳴をめがける感情だからである。そこにあらわれるのは、確固たる自我の境界が危うくなり関係性の揺らぎのなかに融解していくような経験である。
 これに対して「知への愛」が正当に果たされるためには、むしろ逆に、揺るぎない理性的自我が「正しい知」を冷静に識別し、その姿を曇りなく「観ずる」という賢者の毅然たる態度が要求される。単なる事物の現象的な展開にふらふらと心を動揺させていたのでは、知の探求や学問は成り立たないのである。
 また、人に対する恋愛感情は、必ずしも「肉体の美しい人」や「心の美しい人」を求めるとは限らず、ましてや「美一般」を志向するなどというところに本質をもっていない。恋の経験を多少とも味わったことのあるものなら、すぐ納得するだろうが、「身体美」や「心の美」の持ち主が恋愛対象としていつも勝者になるかといえばそんなことはない。「蓼食う虫も好きずき」とか「破れ鍋に綴じ蓋」という言葉があるように、「身体美」は恋愛成立の絶対条件ではない。
 また、道徳的な「悪い男」や「悪女」にどうしようもなく惚れていく例が数多くあるように、「心の美」も恋愛の必須条件ではない。ここには、後に述べるように、「肉体の美」と「心の美」という二元的な対立論理のどちらかに加担したのではどうしてもはみ出してしまう、恋愛独特の価値感情があるのであって、それをきちんと言い当てる必要があるのだ。
 次に②であるが、それにもかかわらず、プラトンの説が一定の説得力を持ってきたのには、それなりの根拠がある。それは、私たちが、ある共通感情を「愛」という言葉で呼び慣わしていることにかかわっている。
 一般に「愛」とは、惹きつけられものに向かって自分の心身を投げ出そうとすることによって、その対象との同一化を願う感情のことである。それは行動に対する意識の先駆けであり、いわば前のめりになった内的な行動であるために、いかなる対象をめがけようと、そこには、せき止められている者に特有の昂揚感情が伴うのである。人類愛、親の子どもに対する愛、友愛、恋愛など、みなこの共通点をもっている。
 ソクラテス(プラトン)による「エロス」(「恋」、「愛」)概念の規定をいったん受け入れれば、たしかに金儲け、体育愛好、愛知なども、この概念に包摂されることになる。しかしソクラテス(プラトン)のここでの目論見は、すでに述べたように、愛にはその対象にしたがって、価値の優劣があるという論理を提出するためになされているのであるから、この論理を納得しがたいものと考えるかぎり、「愛」という言葉の持つ抽象性(概念が含む範囲の広さ)を頼りにするわけにはいかない。むしろ具体的な人格の持ち主としての個人への愛と、知への愛との決定的な相違点に着目せざるをえないのである。



危ないぞ安倍政権(2)

2013年11月11日 23時29分59秒 | 政治

危ないぞ、安倍政権(2)


②成長戦略としての設備投資減税
 このアイデアは、すでにアベノミクス第三の矢の一環として打ち上げられていました(もともと財務官僚が考えてきたことなのでしょうが)。その中身は、平成25年度の税制改正で、設備投資額を前年度比10%以上増やした企業に、3%の税額控除を2年間認めるというものです。
 たとえば、前年度設備投資額1000万円を今年度1100万円に増やした企業が、損益計算で1億円の黒字を出したとします。法人税率25%として、2500万円の税額を払う義務が生じますが、その3%、つまり75万円の控除が認められるということでしょう。いかにもちまちましていて、効果薄弱に見えますね。経営上設備投資を増やせなかったら、何のうまみもないわけだし、黒字にならなければ関係ありません。しかもたったの2年間だけです。事実、これによる利用者はほとんどあらわれなかったようです。
 そこで政府は、もっと企業の設備投資を喚起する対策を考え、今秋の目玉戦略の一つとして、企業が支払う法人税額から設備投資額の3%を控除する措置を講ずることにしたそうです(産経新聞8月24日付)。たとえば100億円の設備投資をすれば、直ちに法人税から3億円の控除が認められるということですね。
 設備投資について減税措置を講ずるということは、企業、特に製造業の生産意欲を刺激し、実体経済への好影響を生むはずですから、一般的には景気回復の方法のひとつとして推奨されるべきことに思えるでしょう。しかし、このからくりはなかなか複雑で、その背景も踏まえた全体像を見通してみると、ほとんど国内企業の投資意欲を喚起しないとしか私には思えません。
 まず、次の二点を押さえておかなくてはなりません。

 .国内企業は、税務処理上赤字企業が多いため、7割は法人税を支払っていません。
 .政府は、それらの企業への対応策として、設備投資の減価償却費(設備に応じて何年かに割り振って控除対象となる)を初年度に一括経費計上できる「特別償却」を検討しています。

 の意味するところは明瞭ですね。7割の企業にとって、この減税措置は何の意味もないわけです。
 次にその事態に対する対応策のですが、これは先の減税措置との二者択一になっています。一見、経費計上(つまり課税所得の減額)に寄与するようですが、よく考えると、これはいずれは控除額に算入できるはずのお金を今すぐまとめて控除しますよというくすぐり策にすぎません。減税措置ではなく、民主党政権が得意とした一時の「バラマキ政策」と同じなのです。
 こんな対策に経営者は騙されますかね。あなたが事業主であるとして、あなたは、10年間均等割りの一定額を控除されるのと、今年限りで全額控除されるのとどちらを望みますか。人それぞれでしょうね。いずれにしても目玉戦略なんかにならないことは確かです。
 もう一つ言っておくべきことがあります。この設備投資減税案は、今年の3月5日に財務省によって策定された「税制改革大綱」http://www.mof.go.jp/tax_policy/tax_reform/outline/fy2013/25taikou_03.htm
に基づいています。この大綱では、「国内」設備投資という限定条件が付いていて、日本のデフレ脱却のための条件にかなっているので、その限りでは評価できます。つまり、グローバル企業が外国に工場を建てたとしても、それは控除対象から除外されるわけです。不況からの脱却にとって不可欠なのは、国内投資が伸びること、その結果、内需が拡大して国民の雇用が改善され、消費が活発化することですね。
 ただ問題なのは、この政策にかかわるマスコミの報道に、「国内」という言葉がついているかいないかの区別がなされていないことです。これがつくとつかないのとでは、デフレ脱却を期待させる効果の点で、雲泥の差があります。たとえばもし今秋の国会で「国内」という言葉がつかないままこれが法律として通ってしまったら(その可能性は日ごろの財界の圧力から見て十分ありえます)、グローバル企業が人件費の安い外国に工場を建てても、この減税の対象になってしまうでしょう。そうしたら、デフレ脱却の目的は骨抜きです。
 もっと悪いのは、この減税措置が、一般には法人税減税と誤解されているフシがあることです。デフレ期に法人税減税などをやれば、税収増につながらないだけではなく、企業は設備投資になど乗り出さずに、そのぶんだけ内部留保をため込むだけです。きちんと国民に理解させる義務があるマスコミ自身が、そのへんをぜんぜん理解していないようです。
 いずれにしても、こんなせこい減税措置は、じつは「目玉戦略」などにはなりえません。第三の矢の「成長戦略」なるものの柱が、本当は、小泉構造改革以来の規制緩和路線(それを忠実に引き継いでいる竹中路線)そのものにあることは明瞭です。そしてこの規制緩和路線こそは、価格競争の下方圧力として働き、デフレを一層助長させます。デフレ脱却を最優先課題として政権を獲得した安倍内閣にとって、これは自ら首を絞めることに他ならないのです。財務大臣の麻生太郎氏なども、いまやすっかりこの規制緩和路線にやられています。

③消費税増税
 これについては、産経新聞編集委員・田村秀男氏、イェール大学名誉教授・浜田宏一氏、日銀副総裁就任前の岩田規久男氏、経済評論家・三橋貴明氏、上念司氏らをはじめとして、多くの経済論客によって、デフレ期の増税策が経済学の常識から考えていかにとんでもない政策であるかが、繰り返し繰り返し理路を尽くして論じられてきました。しかしそれにもかかわらず、全体の流れは、これをそのまま容認する方向に動きつつあります。
 みなさんは、8月27日の新聞各紙をご覧になりましたか。これらの人たちの懸命な努力にもかかわらず、政府は「集中点検会合」なる機関を設定して、「幅広く意見を聞く」というアリバイの下、来年四月からの増税を正当化しようとしています。読んでみると、すべての理論的な抵抗の努力が水泡に帰するような目も当てられない内容です。
 この内容に踏み込む前に、なぜこの時期の消費税増税が類例のない大バカ政策であるかについて、手短にまとめておきましょう。

 .この政策の目的は、「国家財政の健全化」にあるが、そもそも財務省が流し続けた財政危機という情報は、デマ以外の何物でもない。GDPの2倍(1000兆円)の債務というのは、債務だけを強調しているので、政府が持っている資産については意識的に隠されている。だれでも自分の財産を考えるのに、借金だけを計算する人はいず、保有資産とのバランスシートをとるだろう。それによれば、政府の純債務は、GDP総額に達していない(500兆円未満)。また日本は、対外純資産では、世界一の債権国である。
 .GDPとの比較によってその国の財政危機状態を測ることにはさしたる根拠がない。過去においてイギリスはGDPをはるかに超える債務を抱えたことがあるが、破綻(デフォルト)しなかったし、逆にロシアやアルゼンチンは、債務額がそれほどでもなかったのに、外資依存率が高すぎたために破綻している(現在、韓国が限りなくこれに近い状態である)。
 .日本政府の債務は、裏返せば日本国民の資産である。国債の9割以上の保有者は日本国民であり、しかもすべて円建てであるため、為替変動の影響を受けない。日本国家に対する国民の信認がある限り、大暴落(金利の急騰)などということはあり得ない。また政府の借金というイメージをどうしても払拭したいならば、政府の下請け機関である日銀が通貨発行権を駆使して国債を市場から適切な量だけ買いとればよいだけの話である。この方策は、国内市場にお金が流れるので、デフレ対策としてもきわめて有効であり、現にアベノミクス第一の矢の戦略の中に組み込まれている。
 .したがって、「財政健全化」を目的として国民から新たに税を取り立てようとするのは、国民からの借金を踏み倒そうとするペテンにほかならない。
 .デフレ不況期に増税をすることは、さらに財布のひもを引き締めさせ(投資も消費も伸びず)、日本経済全体を冷え込ませる結果にしかならない。アベノミクス効果によってせっかく上向きかけている景気を、元の木阿弥に戻してしまう。
 .政府(特に財務省)は、増税によって税収増を皮算用しているが、経済の縮小による所得税、法人税の減収をきたすことは明らかであり、全体としては税収減を結果する。これはそもそも消費税増税の目的に反することであり、国民を苦しめるだけの結果に終わる。このことは、97年橋本政権時代の増税によって実証されている。
 .景気回復が、雇用の安定や給与の上昇など、国民生活にとって実感できるようになるためには一定の時間がかかる。アベノミクスが始まってまだ数か月しかたたない時点で、抽象的な数値指標に基づくわずかな景気回復の兆しによって増税の是非などを論議するのは早すぎるのである。

 だいたいこんなところでしょうか。
 さて、ことここに及んでも、増税派は、自説を通すためにさまざまな詐術を用いて政権に圧力をかけています。その詐術のうち、最たるものは二つあります。
 一つは、先ごろのG20などで、欧米諸国やIMFが日本の財政再建を望んで増税を促したから、これはもはや国際公約だという理屈です。
 しかし欧米が日本に増税を促すのは、自分たちの国が経済的な困難を抱えているので、このままアベノミクスや円安が進んで日本に一人勝ちされては困るからです。彼らは、自国の利益のためにいちゃもんをつけているにすぎません。
 またIMFという機関は、それぞれの国の事情を具体的に見ず、国際経済全体のバランスだけを抽象的に塩梅して、とかく財政健全化=緊縮政策を促す傾向があります。日本の財政はもともと「不健全」ではないのですから、そんな言い分を「国際公約」などと過剰に重んじる必要は全くありません。ここにも、(その1)で述べたと同じような、言われなき欧米追随の奴隷根性が見られますね。
 もう一つは、これが最も悪質な詐術なのですが、消費税増税は三党合意でもう決まったことなのだから、とにかくやるべきだという強引きわまる理屈です。こういうことを言う人たち(自民党の中にもたくさんいます)は、消費税増税法に附則18条があることを意図的に隠しています。彼らは、「引き上げ率を変更したり、増税時期を先送りしたりするためには、10月の臨時国会で消費税増税法の改正案を成立させる必要があるが、それはもう間に合わない」などと盗人猛々しいセリフを並べ立てています。
 附則18条とは何か。わかりにくい文章ですが、ここでは第一項だけを掲げておきましょう。

 消費税率の引上げに当たっては、経済状況を好転させることを条件として実施するため、物価が持続的に下落する状況からの脱却及び経済の活性化に向けて、平成23年度から平成32年度までの平均において名目の経済成長率で3パーセント程度かつ実質の経済成長率で2パーセント程度を目指した望ましい経済成長の在り方に早期に近づけるための総合的な施策の実施その他の必要な措置を講ずる。


 要するに、今後10年間に、実質GDPで年平均2%の伸び率が確実だという見通しが立つことが、消費税増税を行うための条件だと言っているわけです。
 これはれっきとした法律ですから、この条項が条項通りに実現されていない見通しが成り立つ場合には増税は行わない、すなわちしばらく凍結するというのが唯一合法的な手立てであって、それ以外にこの附則の解釈は考えられません。だからこそ安倍首相は、9月に明らかになる4月―6月の景気指標を判断材料として、10月にこの最重要政策の是非を決めると再三表明しているのです(もちろん、先述のように、それでは早すぎるのですが)。
 行政の長が、既定の法律に従って決断を下すのは当然です。それなのに、「10月の臨時国会で消費税増税法の改正案を成立させる必要がある」などと言っている人は、法治国家の原則を踏みにじる犯罪的な言動をしているとしか思えません。法律や政治や経済の専門家たちのくせに、よくもまあ、こんな嘘八百を平然と吐けるものです。しかも、ほとんどのマスコミが、こういう不当な言い分を疑いもせず、そのまま「有力意見」として掲載しているのです。民のための政治という大義をすっかり忘却した腐敗状況というほかはありません。
 ちなみに、景況次第では増税の凍結が可能というこの附則を土壇場で入れさせたのは、民主党の馬淵澄夫氏だそうです。民主党にもちゃんとこういう立派な人がいるのですね。
 現在、この消費税増税論議は、引き上げ率を年1%ずつに細分化しようとか、もう少し引き上げの時期を延ばそうとかいう細かい話になっています。異次元緩和を成し遂げたあの黒田日銀総裁までが、「消費税増税をしてもいい」などと職分を超えた余計なことを言い出す始末です。これらの論議では、財政再建のためにいつか近いうちに消費税を増税しなければならないということがすべての論者の暗黙の前提とされています。
 しかし、いま日本政府に財政危機などないし、デフレからの脱却こそが課題なのですから、その前提自体がおかしいのです。本当に論議されるべきは、第二の矢、すなわち、機動的な財政出動(積極的な公共投資)によっていかに劣化したインフラを建て直し、新しい需要を作り出し、そうして国民に建設的な機運を取り戻させるかにあります。
 大胆な金融緩和(第一の矢)と、第二の矢とは、連動して初めて意味を持ちます。第一の矢が、企業にお金を借りたい気持ちにさせ、第二の矢が、それを実際に使おうという意志を発動させるわけです。こうして国内市場に潤沢なお金の流れが出現します。第三の矢は、デフレ期には百害あって一利なしです。
 ことは意外に単純に思えるのに、いま政治の世界は、財界、官僚、学界、マスコミなどの多様な思惑に拘束されて、あっちこっちに引っ張られ、何を選ぶべきかが見えなくなっているようです。安倍政権がもし本当に国民のための政権として安定を望むなら、その課題は、アメリカ渡来のグローバリズムの大波に対していかに強靭な防潮堤を築くか、財務省由来の「財政健全化」という葵の印籠のウソを見抜き、いかにしてインフレ・アレルギー、公共投資アレルギーを克服するかという二点に集約されます。この二つの課題を果たさない限り、安倍政権は短命に終わる可能性が大です。しかしそれに代わる有力勢力は、与党内にも野党にもない、それこそが問題なのです。
 私は憲法問題、安全保障問題、国土強靭化問題、原発問題などに関して安倍政権の姿勢を支持しており、決して短命で終わってほしくないと思っています。これらの課題をきちんと解決に導くには、いまの政権のような安定性が必要だからです。しかしだからこそ、このままではまずいのではないかという警鐘をこの時点で打ち鳴らすことにした次第です。

危ないぞ安倍政権(1)

2013年11月11日 23時17分11秒 | 政治

危ないぞ、安倍政権(1


 ここ数日の報道を見ていて、現在の政府が取ろうとしている経済政策の方向性について、これはどうも国益(国民の福利)の観点から見て賛成できないと思えて仕方がないので、その点について書いてみます。
 論点は三つあります。

 ①TPP交渉参加
 ②成長戦略としての設備投資減税
 ③消費税増税


 上記3点に関して、私はいずれも反対ですが、安倍政権は、③については未決であるものの、①と②については、どんどん押し進めつつあります。これは下手をすれば安倍政権の安定維持を自ら崩す結果につながるのではないか。
 もとより私は、経済問題に関しては一介の素人です。現時点の知見の及ぶ範囲で一生懸命書いてみますが、見当違いを犯しているかもしれません。その節は遠慮なくご指摘ください。

①TPP交渉
 先日、ブルネイでの交渉開始直前に、米通商代表部ののフロマン代表が急遽来日し、TPPの年内妥結は可能だという意味のメッセージを残していきました。不思議なのは、日本国内には、農業団体のみならず、TPPに反対の勢力が多くあるにもかかわらず、交渉関係者の間で、だれも「なぜそんなに妥結を急ぐのか」と正面切って反論した人がいなかったという事実です。
 ウォールストリート・ジャーナルによれば、「日本政府は対象農産品に関する関税の保持を公約しているが、フロマン氏は、センシティビティ(重要品目)は『交渉によって解決されるべき』とし、米国の目標を『関税撤廃を含む高水準で野心的かつ包括的な合意』とした」http://newsphere.jp/world-report/20130820-2/
 これは、はっきり言って情けない。アメリカ交渉団は、日本の要求を飲む気が初めからないのです。日本の交渉団の人たち、急げ急げとけしかけているこの居丈高なアメリカに対して本気で対決する気がありますか。
 またファイナンシャル・タイムズの伝えるところによれば、アメリカが妥結を急ぐのは、EUとの貿易交渉を終わらせるために来年、連邦議会の承認が必要なためです(ソース同前)。それはアメリカの一部勢力のお家事情。何も日本がそれに同調する必要などまったくありません。またもや日本の経済外交筋は、アメリカのしたたかなテコ入れ政策に完全に押し切られているではありませんか。
 そもそもTPPにアメリカが途中から参入してきた最大の理由は、この協定が、一部グローバル企業及びその株主の利益にかなうからです。このことは、この協定書の作成がウォール街の一部勢力を中心に、徹底した秘密主義の下に進められてきたことだけから見ても明らかです。公開すれば、世界各国の国益を損なうものとしてごうごうたる非難を浴びるに決まっているからです。
 この協定の主たる内容を見ればそのことはもっとはっきりします。関税の撤廃だけではなく、保険事業や混合診療や新薬規制の自由化、遺伝子組み換え食品の非表示、企業が他国を訴えられるISD条項、雇用の自由化など、非関税「障壁」の撤廃がふんだんに盛り込まれていて(特に、最後の2つは重要です)、どれをとっても、特定のグローバル企業が他国の経済に勝手気ままに侵入するのを許すものばかりです。
 日本の保険事業はすでにアフラックに蚕食されつつありますね。混合診療の自由化は、富裕層ほどいい医療を受けられる結果になりますから、当然貧困層への医療は後回しとなり、苦労して作り上げた日本の素晴らしい皆保険制度を壊していく第一歩となります。遺伝子組み換え食品の非表示は、消費者の選択の自由を奪います。
 ISD条項は、グローバル企業が一国の規制によってその国への参入を阻まれていると感じた場合には、自分たちに都合のいい弁護団を大量に駆使して勝手にその国に対して訴訟を起こすことができる国家主権破壊条項です。
 雇用の自由化は、日本の良き雇用慣習を壊し、使い捨ての非正規雇用や日本の繊細な文化・技術を知らない外国人単純労働者を大量に増やすことにつながるでしょう。すでにそうなりつつあります。
 そのくせ、知的財産権(特許など)の保持・期間延長に関しては、アメリカ交渉団は最も強硬に保護主義的な姿勢を守ろうとしています。それが彼らの既得権だからです。交渉に参加している新興国からしてみれば、それでは困るので、反対の態度を鮮明に打ち出しています。
「自由は普遍的価値だ」というバカバカしくも抽象的な理念を信奉することから目覚めましょう。こと経済に関しては、こんな理念は成り立ちません。あなたは信頼関係が確立していない他人に、「ドアはいつでも開けておくからいつでも入ってきていいよ。その代り、あなたの家にも自由に入るからね」などと言いますか。
 一つ一つの協定条項が具体的に何を意味するかをよく見ましょう。甘利担当相はじめ日本の交渉団は、これらのほとんどが日本の国家主権と国益を損なうことを認識せず、またしてもアメリカの一部勢力のお先棒担ぎをやっているのです。これは乱暴に言えば、経済版GHQなのです。
 しかしここで重要なことは、けっしてアメリカ国民が一枚岩的にこの協定に賛成しているわけではないということです。戦後日本人は、とかく自意識(対他者意識)過剰気味のところがあり、国際舞台で、対米、対中というように相手国を一つのまとまりとして見なしがちです。反米、親米、嫌中、媚中、これらのわかりやすい感情的な枠組みにはまっている人たちは、その点では共通しています。
 しかしTPPに関して言えば、アメリカの製造業者は、デトロイトの惨状を見てもわかるとおり、関税撤廃に大反対ですし(ちなみに自動車では、アメリカは日本に2.5%の関税をかけていますが、日本はアメリカに対して無税です)、多くのアメリカ国民は、自国の産業の衰微と生活の逼迫を懸念してこの協定に反対の声をあげています。この反対にはそれなりのリアリティがあります。
 もともとアメリカの社会保障はほとんど機能していません。経済評論家・三橋貴明氏の「月刊三橋」8月号によれば、いまアメリカの経済格差ははなはだしく、富裕層と貧困層の平均年収の比は500:1だそうです。貧困層の平均年収が200万円とすれば、富裕層は10億円ということになりますね。保有資産価値ではありません。年収ですよ。
 アメリカ国内は、高額の自由診療が当たり前なので、貧困層はまともな医療を受けることができず、たいへん深刻な事態に陥っています。こういうことになるのも、アメリカが長年の間、「小さな政府」などと言って、自由競争原理主義を経済活動の基本としてきたからです。
 オバマ政権は、さすがにこの惨状を改善しようと社会保障制度の改革を試みたのですが、どうも一部ロビイストたちの活動によって骨抜きにされてしまったようです。
 それでは、TPP協定が通ることによってニンマリ笑うのは誰なのか。それはすでに述べたように、アメリカ政府でもアメリカ一般国民でもなく、新自由主義的な経済思想に支えられてたんまり儲けられる一部グローバル企業とその大株主(金融機関その他)だけなのです。彼らには、アメリカ国家や自国民の利益を守ろうなどという公共精神の持ち合わせが全くありません。日本のYさんやWさんと同じですね。それは私人である企業家としては当然のこととも言えます。
 しかしこんな人々の跋扈(ばっこ)によって、一国の政治が動かされるような状態を続けていると、やがては国民経済(経世済民)という概念自体が崩壊し、世界はそれこそ弱肉強食、間違いなく「万人の万人に対する闘争」という自然状態に帰結するでしょう。
 オバマ政権は、こういう新自由主義的な経済思想の危険性を十分把握したうえでTPP協定早期妥結という政策を打ち出しているのでしょうか。どうもそのようには見えません。というか、おそらく周辺の取り巻き勢力に内堀まで固められて籠絡されてしまったのでしょう。どこかの国のように。
 私が日本のTPP交渉参加を、「経済版GHQ」とあえて呼ぶのは、この協定をめぐる日本政府の態度に何ら国益を守るための独自の経済思想が認められず、初めからアメリカ様の「自由競争原理主義」理念のちょうちん持ちをやっているとしか思えないからです。これは「敗戦」の繰り返しなのです。
 しかもGHQよりさらに悪いのは、政治的信念を失った今のアメリカ政権が、自由競争原理主義で得をするごく一部の勢力の主張をそのまま通して政策として掲げ、それを世界に押し付けようとしている点です。そうして、そのことが見抜けない日本政府の相変わらずのダメさ、主体性のなさ。
 安倍政権は、財界、官僚、御用学者、御用マスコミに取り囲まれて、身動きが取れず、やむを得ず交渉に参加する羽目に陥ったのではないでしょうか。少なくとも、TPP参加を煽りつづけてきた新自由主義者の申し子である竹中平蔵氏一派と手を切らない限り、アベノミクスが真に国民のためになることなど望むべくもないでしょう。
 私には、「聖域なき関税撤廃には断固反対、これが通らなければ撤退も辞さない」という自民党の公約が、本当に貫徹されるとは到底思えません。ずるずるとアメリカ主導に従って要求を飲まされ、ほんのちょっとしたおこぼれにあずかるといったところが関の山でしょう。そもそも関税撤廃だけが問題ではないのは、上に述べたとおりです。
 ところで日本の大手マスコミのほとんどは、TPP問題の主要論点が、コメ、麦、乳製品などの農産品の関税撤廃だけにしかないような論調を張ってきました。これは意図的にしてきたのか、把握能力がなくてそうしてきたのかわかりませんが、結果的に一般国民からこの協定が持っている重要な問題点を隠蔽する作用を果たしてきたことは事実です。
 農業従事者は5%以下ですから、一般の都市住民の感覚からすれば、なんとなく食料は輸入に頼るしかないんじゃないのと思わされてしまいます。価格競争が起きてもっと安い品が手に入るならいいじゃん。自由貿易、国際化、うん、これからはそれしかないんだろうな……。
 しかし日本は政治的にも経済的にも、もはやぎりぎりのところまで「国際化」され切っています。国益を毀損してまでこれ以上「国際化」「自由化」する必要なんてどこにもないのです。下品なたとえで恐縮ですが、どこの世界に「タダで、だれでも私と寝ていいわよ」などと大股開きをする女性がいるでしょうか。
 繰り返しますが、TPP問題で重要な点は、農業問題だけではなく、むしろ国家主権が脅かされること、都市サラリーマンであるあなたが明日解雇されるかもしれないこと、病気になった時に十分な医療を受けられなくなる可能性が大きいこと、これらの点にこそあります。マスコミは問題点を農産品にだけ特化して、この協定が持つ全体的な危険性をこれまで前面に打ち出してきませんでした。その責任はとても大きいと思います。
 大手マスコミの中ではマシなほうである産経新聞が、ブルネイからの現地報告として次のように書いています(8月24日付)。

 この日の共同会見でも冒頭から、開催国ブルネイの閣僚ではなく、フロマン代表が共同声明をみ、米国主導を印象付けた。
 日本にとっても、TPPは「成長戦略の柱だ」(甘利氏)。交渉の時間がほしいにもかかわらず、協議の加速で米国に同調するのもこのためだ。
 ただ、米国は自国の都合で日本との関税交渉を後回しにし、新興国の間でも「主張を強硬に通そうとする米国主導の交渉に懸念を示す国は多い」(交渉筋)。実際、この日の共同会見では、米国が圧力を強める国有企業の扱いをめぐる現行案について、マレーシアのジャヤシリ首席交渉官が「懸念している」と反対を表明した。


 おいおい、今ごろそんなことを言うなら、なんでもっと早く、アメリカの強引さとそれに同調してきた日本の拙速ぶりを報じてこなかったんだい。日本の交渉関係者も、新興国マレーシアと同じように明確に「懸念」を示すべきじゃなかったのか。少なくとも、フロマン代表の来日時、「私たちは遅れて交渉参加して時間がなかったのだから、あなた方の都合にそのまま合わせるわけにはいかない」となぜ堂々と言えなかったのか。
 日本は立派な大国なのに、戦後からの対米従属意識(奴隷根性)は今も変わっていないのですね。この事態は、対等な同盟関係を大切にするということとは全く別の話です。こんな精神構造がこのまま続くようでは、「戦後レジームからの脱却」はまことにおぼつかないと言うほかはないでしょう。安倍さん、きついでしょうけれど、どうかしっかりしてください。

日本語を哲学する9

2013年11月11日 23時00分11秒 | 哲学
日本語を哲学する9


 次に「②言葉は世界の普遍的真理をあらわす」という命題について。
 言葉は、前節「言葉は世界を虚構する」の部分でやや詳しく論じたように、もともとウソ(「真理」ではなく「真実」の対義語)である可能性を必然的に具えているのだから、この命題を、もはや言葉の本質を言い切っているものとしてそのまま受け入れるわけに行かないことは納得してもらえるだろう。
 ただこの命題がある強い説得力を持っているという事実も否定しがたい。たとえば数学や科学の言葉に関しては文句なくうなずけるような印象を私たちは抱いているだろう。だが言葉総体に対する私自身の直観によれば、こういう捉え方はある文化の特性から来る非常に偏った捉え方(信憑)である。そこでなぜそのような信憑が成立するのか、その信憑の成立する有効範囲は、全言語世界のうちどの部分に限定されるのか、ということをきちんと整理しておく必要がある。そのために考えておくべき前提は以下のとおりである。

.「真実」と「真理」はどこが違うのか
.この命題はどういう歴史的・社会的・文化的な必然から生れてきたか
.それはなぜ偏った捉え方であるといえるのか

 まず、「真実」という言葉は、漢語として古くから日本で使用されていて、管見の及ぶかぎりでは遅くとも中世の仏教文献の書き下し文には頻出している。中国でも古くから使われていた言葉なのであろう。しかし「真理」という言葉はこの時期には見当たらない。これは憶測ということになるが、おそらくこの言葉は、近代以降、欧米語が輸入されてから訳語として作られたのではないかと思う。
 ちなみに「真実」の英語はfact,sincerity,truth、ドイツ語はWirklichkeitだが、「真理」は英語ではtruthのみ、ドイツ語ではWahrheitである。factやWirklichkeitには、事実、現実といったニュアンスが強く、またsincerityには、日本語の「信実」という言葉にも対応する「こころのまこと」とか「誠実さ」といったニュアンスが含まれる。憶測に憶測を重ねることになるが、江戸末期から明治の翻訳家・哲学研究者たちは、WirklichkeitとWahrheitとのふたつの類義語をもつドイツ語に象徴されるようなこの二概念を訳し分ける必要を感じて後者に「真理」という訳語を当てたのではないかと思う。
 ところで日本語におけるこのふたつの言葉の使用例の違いを考えてみよう。
たとえば「事件の真実が判明した」とは言うが「事件の真理が判明した」とはけっして言わない。逆に、「学問は真理探究を目的とする」とは言うが「学問は真実探求を目的とする」と言うとどうも的を外している感じがする。この違いによってわかるように、「真実」という言葉はドイツ語Wirklichkeitおよび英語factと同じように、事実、現実、そのつどの本当のこと、いままでわかっていなかったが新しく知らされたこと、という含意を持っている。また「真理」のほうは、私たち人間に現在知られていようがいまいが、時間や空間に耐える永遠普遍の本当のこと、という理念的な意味合いが強い。
 日本語の「しんじつ」という音声(もっともこれは漢音であるが)が「真実」にも「信実」にも当てられることから考えて、この言葉は人の心にとって本当だと感じられ信じられること、という含意があり、「まこと(真事=真言=誠)」という和語の概念にぴたりと重なり合う。
したがってこの言葉の重点は、客観的論理的に解き明かされた「本当」にあるよりも、むしろ主体的につかみとられた「本当」のほうにあり、だからこそ同時に倫理的な「正しさ」の概念も包摂しているのである。それは、ある具体的な事実や心の状態との間にいつも接点を保持している。「しんじつ」には「私の確信」が必ず関与している。だから「しんじつ」が構成されるために、自然と融けあって現にここにある「こころ」が、少なくとも可能性としては、いつもその条件となることができるのである。
 これに対して比較的近い時代に日本語になったと思われる「真理」のほうは、その基本概念からして、もともと客観的であることをその成立条件としており、「私にとっての真理」というようなものはありえない。そこには自他の間に差異があってはならないのである。と同時に、そもそも有限な人間の「こころ」が真理の構成条件になるなどということは考えられもしない。「真理」はまったく超越的、絶対的、究極的、永遠的にしか存在しえず、人間はただその一分の隙もない完璧な姿に触れ、その仕組みを理解し、記述することができるだけである。
 すでに何を言いたいかおわかりと思うが、「真理」とは、ユダヤ=キリスト教的文化圏からやってきた言葉である。それは、ユダヤ=キリスト教的な「神」(以下、ユダヤ=キリスト教の奉ずる神をかぎかっこつきで表記する)が、そして唯一、この絶対的に超越した「神」だけがみずから創り、その創造の「ことわり=理」について知り尽くしているところの、世界全体の合理的かつ道徳的なすがたそのものをあらわしている。それは一度創られたからには人間の手によって改変することはできず、すでに不動の形で与えられており、しかもこれからも永遠に続くのである。
 このまことに強い理念、理想観念のあり方が「真理」という言葉にはもともと込められている。したがって、新約聖書・ヨハネ伝冒頭の「はじめに言葉(ロゴス)ありき。言葉(ロゴス)は神とともにあり。言葉(ロゴス)は神なりき」という有名な一節から容易に想定できるように、西洋の論理学や言語哲学の手つきが、「ことば」総体の持つ全体像のうち、いかに「ロゴス」の面にだけその関心を集中させているか、その理由が了解されよう。
 そもそも論理、論理学(ロジック)とは、すでに「神」が創りたもうたこの世界の普遍的なありさまを、言葉と言葉のロジカルな関係の解明によって再び描き出そうとする試みである。言葉がこの試みのうちに追い込まれるとき、その学の方法は、「神」それ自身がもつ絶対的な合理性をそのまま映し出すことに一致する。それはそのまま、人間の言葉による「神」の似姿である。そこでは、「真理」という名のあらかじめある世界の完璧な姿が、はじめから前提されている。
 西洋由来の自然科学や近代哲学、論理学、言語哲学は、一見、宗教とはかかわりのないもの、または対立するもの、宗教のもつローカリズムを克服した普遍的なものと見られがちだが、けっしてそうではない。これらの学の発展に寄与した才能溢れる膨大な西洋人たちの発想の根本にあるのは、ユダヤ=キリスト教の神の唯一性、絶対性、完全性に対する信仰にほかならない。「神」が普遍的であるという信仰が彼らのなかに深く埋め込まれていればこそ、彼らはそのすさまじい学問的情熱を近代合理主義的な方法に注ぎ込むことができたのである。近代の学問は、いわばユダヤ=キリスト教の鬼っ子なのだ。こちらから見ていると、それが彼ら自身よりもよく見えるのである。
 この点につき、いくつか例示して解説を加えたいところだが、あまりにテーマから外れるのでそれは控えよう。その代わり、話を論理学、言語哲学に限定しよう。

 あらかじめ「神」によって与えられている「真理」をそのまま映し出すことが哲学や論理学の使命であると考えて、言葉の問題にそれを適用し、言語総体の哲学的な把握としては痛ましくも失敗している好例がヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』である。



 もちろん、彼自身はこの著述で「神」という言葉をひとことも使っていない。また、私にはよくわからないのだが、彼のこの著述が、のちの記号論理学やITを生み出した現代情報理論に大きな影響を与えた業績は否定できないのだろう。
 さらに彼が、後年、長い生の彷徨を経てから著した『哲学探究』において、前著の方法的立場を自己批判して、言葉の問題を日常生活における「使用」という観点から編みなおしたことは有名である。私はこの帰結のほうを多とするものだが、それにしても『論理哲学論考』の時点における言語観が、じつは無意識のうちにユダヤ=キリスト教的な絶対神の観念に金縛りになった人のものである事実は否定し難い。それ自体は別にかまわないのだが、日本のヴィトゲンシュタイン・ファンにはそのことをよく自覚してほしいし、また、彼のような方法に追随することが、言葉の普遍的な本質をつかむことにとっては、ただの偏向以外の何ものでもないことを知ってほしいのである。ひとことで言うなら、『論理哲学論考』における彼の言語論は、言語主体不在の「死んだ客観主義」にほかならない。
 では、問題の書から、彼の発想と展開のよくわかる重要項目を書き出してみよう。周知のようにこの著作は、全体として短い断章の集積のような形をとっており、各断章には番号が付されて、大項目から小項目にいたるまで最高六段階までの系列化がなされている。ここでは、なるべく大項目(番号数の少ないもの)に着目し、彼が言葉に対してどういうイメージを描いていたか、そしてそれがどんな欠陥をもっているかという点に絞って摘出したいと思う。途中に私自身がいろいろと介入することになる。
 なお、テキストは坂井秀寿訳(法政大学出版会・叢書・ウニベルシタス6)を用いるが、この訳に見られる「映像」という訳語は、視覚的な印象を表していると感じられやすい。ここでは前後の文脈からして集合論や関数論で用いる「写像」(原事物からマッピングされたもの)という用語を当てるのが適切に思えるので、すべて「写像」に置き換える。

 一・一三  論理的空間の中にある事実が世界である。
 二・一   われわれは事実の写像をこしらえる。
 二・一二  写像は実在のひな型である。
 二・一三  写像のなかでは、写像の要素が、対象に対応している。
 二・一八二 すべての写像は、同時に論理的写像でもある。(略)
 二・二   写像は描写の論理的世界を被写体と共有する。
 二・二一  写像は実在と一致するか、しないかのいずれかである。写像は正しいか誤りか、真か偽かのいずれかである。
 三     事実の論理的写像が思考である。
 四・〇一  命題は実在の写像である。


 ここまでですでに、ヴィトゲンシュタインが、世界を、また世界と言葉との関係をどう見ているかが鮮明にあらわれている。世界は「論理的空間の中にある事実」なのであり、これは動かしがたいものとして前提されている。だが、私たちはこういう断定にまずもって激しい違和感を抱かないだろうか。
 この規定では、「論理的空間」なる概念がまず世界そのものに(論理的に)先行しており、その「中にある」事実が世界なのだとされる。こういう前提をそのまま呑むには、あのヨハネ伝の「ロゴスは神である」ということを認めなくてはならない。つまり、「神」であるところのロゴスが全世界をあらかじめ構成しているのだという理屈に、感性的なレベルで納得しなくてはならない。
 これは私たち日本人にとって不可能であるばかりでなく、より普遍的なレベルでの人間感情からしても受け入れ難いと思えるのだがどうだろうか。世界は、それ自体としては秩序づけられない混沌であり分節なき連続体である(少なくとも日本の神話では、そういう世界観が保存されている)という感じ方のほうが一般性があるし、「論理」以外のもの(朱子学風に「気」と呼んでもよいし、古代哲学風に「土、水、火、風」と呼んでもよい)がこの世界には満ちあふれているというのがふつうの捉え方ではないだろうか。
 次に、「写像」という言葉は、この論考では単なる比喩ではない。ヴィトゲンシュタインはこの用語を、世界と言葉(言葉が世界の写像である)との関係を表すキーワードとして厳密に用いているので、見逃すことのできない非常に重要な意味を持っている。その心は、論理そのものであるところの「神」が創った実在世界がまず厳然と存在し、私たちの言葉(思考)はその実在世界の「ひな型」であるのだから、それが正しくあるためには、実在世界の論理構造と精密に一致しなくてはならないというのである。要するに、言葉はこの世界の論理構造をそのまま映し出す「神の奴隷」であるといっているのと等しい。
 もちろん、引用箇所に「言葉」とか「言語」とかいう言葉はひとことも出てこない。しかし論考全体が言語についての哲学であることは明瞭であるし、右の三では「事実の論理的写像が思考である」と言っている。したがって、思考が言語によってなされるものと考えるかぎり、彼は、言葉とは「神」の論理的産物である「世界」の写しに過ぎないと言い切っていることにならざるを得ない。
 二・二一の「写像は実在と一致するか、しないかのいずれかである。写像は正しいか誤りか、真か偽かのいずれかである」に至っては、四・〇一との関係から見て「写像」という言葉が言語を意味しているのは明らかであるし、しかもそれが「命題」のみを指していることも明白である。
 すぐあとに批判するように、そもそも写像⇒言語⇒命題と限定していく方法自体が著しく偏ったものの見方であるし、百歩譲って写像⇒言語という図式を認めたとしても、それが真か偽かいずれかであるという考え方は、まったく認められない。私たちは、言葉を現実に使用するとき、それが真理を伝えるためであるという目的に準じて使うわけではない場合のほうが圧倒的に多いからである。
 実際には、ある言葉を出そうとするとき何らかの顧慮がはたらくとすれば、それが真か偽かということよりも、状況(場面)に応じた適切なものであるかどうかということのほうがはるかに重要なのである。その意味では、ヴィトゲンシュタインよりも後に登場したイギリスの言語哲学者・オースティン以下、日常言語学派の立場のほうがずっと的を射ている。
『十二人の怒れる男』という名作映画に次のような場面がある。「殺してやる!」という少年の声を聞いた証言者の証言が、少年を犯人と見立てる証拠としていかに当てにならないかを、ヘンリー・フォンダ演じる8号陪審員が証明してみせる。そのあと、少年を犯人と信じて疑わない他の頑固な陪審員をわざと怒らせて「殺してやる!」と叫ばせ、すぐに「本当に殺すつもりじゃなかったんでしょ」とやりこめる。
 この場合、陪審員の言葉に含まれる「私はあなたを殺すつもりである」という命題は、真偽問題として捉えれば明らかに偽であるが、しかし「殺してやる!」という言葉は、相手に怒りをかきたてられて感情的になった気持ちを表現したという意味では、状況にふさわしい適切な言葉である。
 次のような反論があるかもしれない。
『論理哲学論考』はもともと話を「論理」という問題だけに限って展開されているのであって、何も言葉全体を論じているわけではない。したがって、言葉の機能に他の部分があることを別に排除していないので、それはそれで別途追究すればよい。あなたは、ヴィトゲンシュタインが、言葉総体について論じられるべきことをすべて「論理」の中に押し込めてしまっていると言って非難しているが、それはないものねだりというべきである……。
 私はこの反論にまったく説得されない。
 なぜなら、すでに述べたように、ヴィトゲンシュタインは、言葉以前に、世界とは論理的空間の中にある事実のことであると明言しているのだから、むしろ言葉そのもの(という事実)も論理的空間のなかに含まれてしまうことになるからである。彼にとっては「論理的空間」が、あらゆる事実や事態や対象(後者ふたつは「事実」を構成する下位概念である)に絶対的に先立って存在するのであって、言葉(思考)が、その先験的な存在からのマッピングとしてしか存立し得ないことは論理的に当然のことになるはずである。そのような、あらゆる事実に先立って存在するようなものとは、「神」としか呼び得ないものである。したがって、私のヴィトゲンシュタイン解釈は、いささかも彼の言わんとすることを不当にゆがめてはいない。

(次回もヴィトゲンシュタイン批判を続けます。)


これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(2)

2013年11月11日 22時39分52秒 | ジャズ

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(2)

 前回、K君と悪友関係になったと書きましたが、途中からA君も加わり、私たちはジャズ好き三バカ・トリオとなります。三人の中では、A君がどちらかと言えばより開かれた趣味の持ち主。私が一番気難しくハードなものを好むタイプ。K君はその中間と言ったらよいでしょうか。ちなみにA君は、ずっと後に、ちあきなおみの素晴らしさを私に教えてくれることになります。
 さて私は、66年の春、横浜の大学に入学しました。横浜は地元だし、中心部の野毛には、日本で初めてのジャズ喫茶と言われる「ちぐさ」があります。もう一つ「ダウンビート」というのがあり、こちらは高校時代からちょくちょく通っていたのですが、大学生になってからは、両方に通うようになりました(授業がつまらないので)。
「ちぐさ」は、おそらく大正末期から昭和初めにかけて青春時代を送ったと思われるハイカラ爺さんの吉田翁が経営していました。十人も客が入るかどうかの本当に小さな煤けた喫茶店ですが、老舗の風格があり、多くのジャズメンたちも訪れています。
 CDやi-podやYou Tubeでいつでもどこでも音楽が聴ける今の若い人たちにはあまり想像がつかないかもしれませんが、ジャズ喫茶というのは、150円から200円くらい取ってジャズのレコードを聴かせコーヒーを出すだけの店です。そういう店が当時都会には何軒もあり、コーヒー一杯で何時間も粘る客がいたものです(私もその口でした)。社交場としての意味はあまりありません。なぜなら、孤独な青年たちが好きなジャズを聴くだけのためにやってきて孤独なまま帰っていくというのが、まあ、この種の店の客の主たる特徴だったからです。だから大きな声を出してしゃべってはいけないのです。有楽町の何とか――ちょっと名前が出てきません――という店、新宿の「木馬」などは、特にこの点がうるさく、有楽町の店では、私たちがちょっとおしゃべりをしていたら、そこのマスターに「坊やたち、静かにしなくちゃだめだよ!」と叱られたことがあります。
「ちぐさ」でも、おしゃべり禁止の規則があるわけではありませんが、そこらへんはみんな不文律として心得ていて、大きな声を出す客など一人もいませんでした。濃くて苦いコーヒーを飲みながら(今にして思うと、これはあまり美味くありません・笑)静かにジャズを聴いていると、そのうち吉田翁が寄ってきて、「そっち、なんかリクエスト!」とぶっきらぼうに言います。レコードのリストがその辺に置いてあるので、それを参考にしてもよし、勝手にリクエストしてもよし、もちろん手を振って断ってもかまいません。
 ちなみに、吉田翁亡き後も「ちぐさ」は相当長く続きましたが、一度店を閉じました。もう永久に失われたのかと思っていたら、なんと昨年、少し離れた場所に移って再開されたのです。今だと、お酒を飲ませたり料理を出したりするシャレた店でなければ客が寄り付かないと思うのですが、復活の「ちぐさ」は、前よりも少し広くなったほかは、どでかいスピーカー、小さなコーヒーテーブル、レコードしか聴かせない点など、昔のままです。野毛商店街の団塊オヤジたちが、亡くすにしのびず、復活させたのでしょう。
ちぐさ:http://noge-chigusa.com/

 高校時代に渋谷のジャズ喫茶をはしごしたと書きましたが、さまざまな曲を聴いた中で、私はソニー・ロリンズに一番ハマっていました。彼の吹くテナーは、男らしく、当意即妙、変化に富み、野心的で自由闊達、じつに独特の節回しです。ロリンズ節という言葉がありました。彼がいなかったら、モダンジャズの世界でテナーという楽器がこれほど注目を浴びることはなかったでしょう。



 もっとも有名なのは、「サキソフォン・コロッサス」というアルバムの一曲目、「モリタート」(「マック・ザ・ナイフ」のロリンズ版)ですが、ここでは、同じアルバム中から、親しみやすいカリプソ風のノリで目いっぱい楽しませてくれる「セント・トーマス」を紹介しておきましょう。彼のオリジナル曲です。

http://www.youtube.com/watch?v=Z4DySQyteRI

 この曲でドラムを叩いているのは、前回紹介したマックス・ローチですが、二人のコンビネーションは絶妙で、もう一つ紹介したい曲に、「ワーク・タイム」というアルバムの、「イッツ・オールライト・ウィズ・ミー」があります。速いテンポでスリリングな絡みを演じていますが、残念ながら、You Tube、ニコニコ動画その他からも取り込むことができないようです(ダウンロードはレコチョクなどからできるようですが手続きが少々面倒)。でもこの曲は絶対おすすめですよ。「ワーク・タイム」自体は、アマゾンなどで安く買えます。
 ロリンズは、軽妙に奔放に吹きまくっているように聞こえますが、じつは自分の音楽追究の志に関しては、けっこうストイックなところがあり、壁に突き当たったと感じると、そのたびに演奏活動を中断してしまいます。長い中断期間の後、おそらく私の大学時代だったと思いますが、インパルスレコードから復活を果たしました。しかしその頃は、テナー奏者としての王座をジョン・コルトレーンに奪われており、往年の輝きはもう見られませんでした。
 なお「セント・トーマス」で短いけれど気の利いたソロを展開しているピアニストは、トミー・フラナガンですが、彼は「オーヴァーシーズ」「エクリプソ」などの名盤を残しています。これらのアルバムについては、またの機会に。

 MJQ(モダンジャズカルテット)について触れましょう。
 このカルテットは、1951年の結成から解散まで20年以上の歴史を持ち、解散以後もファンの熱望にこたえて再結成しています。内部事情はいろいろとあったようですが、これほど長く同じメンバーで結束を保つことができたバンドは、他のジャンルでも珍しいのではないでしょうか。ちなみに、ビートルズは8年で解散しています。
 メンバーは、ミルト・ジャクソン(ビブラフォン)、ジョン・ルイス(ピアノ)、パーシー・ヒース(ベース)、コニー・ケイ(ドラム)。初期には、ドラムがケニー・クラークでしたが、彼の死後、コニー・ケイに代わりました。
 このバンドの特色は、一口に言うと、ミルト・ジャクソンのブルース魂あふれるプレイと、リーダーのジョン・ルイスのたぐいまれなプロデュース能力との見事な結合によって、ジャズ界にまったく新しい雰囲気を持ち込んだところにあります。ジョン・ルイスは、ヨーロッパ・クラシック音楽へのあこがれが強く、それにのっとって楽団全体のトーンを何とも上品で西洋音楽の深い伝統を感じさせるものに仕上げました。この特色は、ジャズをアメリカのものだけではなく、繊細な感覚の持ち主であるヨーロッパ人にとっても魅力あるものとして目を開かせることに大いに貢献したと思います。もちろんジャズのスタンダードナンバーもたくさん演奏しているのですが、ラッパやタイコのやかましい音が耳障りな人にとっては、ビブラフォンという楽器の何ともさわやかで心地よい響きがジャズに対する抵抗感を和らげてくれるはずです。
 しかし、よく聴いていると、ミルト・ジャクソンの即興演奏そのものは、きわめて白熱した情熱的なものであり、その独創的なフレーズのこんこんとわき出るような繰り出しには、まさに不世出の天才としか呼びようのないものがあります。ジャズ界でのビブラフォン奏者はあまり多くなく、彼の以前には、ライオネル・ハンプトン、彼の以後には、ゲイリー・バートンなどがいますが、まったく比較になりません。
 私は、大学1年の時に2回目の来日公演に接することができ、その渾身のプレイにすっかり感動してしまいました。彼は、見た目はまあ、さえない小男なのですが、あのきれいな音の連なりを出すのに、こんなにすごい力を集注させているのかというのを知って、ただただ圧倒されてしまったのです。この時の思い出は、いまでも、芸術って何だろうと考える時の重要なヒントの一つになっているほどです。



 では、お勧めの2曲を聴いてみてください。
 一曲目は、多くのジャズメンが好んで演奏している「朝日のようにさわやかに」。

http://www.youtube.com/watch?v=drxKsX0uI4Y 

 2曲目は、バッハのよく知られた曲の合間にオリジナル曲をはさんだ「ブルース・オン・バッハ」から、「ブルース・イン・Cマイナー」。これはミルト・ジャクソンのオリジナルです。ここでの彼のソロは、まるで初めから完成された曲のようです。

http://www.youtube.com/watch?v=D-_sYoaNVMw

お聴きになってわかると思いますが、これらの演奏では、ミルト・ジャクソンのソロがあまりにすごいので、それに続くジョン・ルイスのピアノ・ソロは、少々かすんで聴こえます。もともとジョン・ルイスという人は、ソロピアニストとしては、そんなに卓越した技量の持ち主ではありません。
 先にも言ったように、彼の本領は、ミルト・ジャクソンという天才を、自分が構想してきた音楽の中にいかに位置づけるかということに心を砕き、その苦労を通して、それまでだれも考えなかったモダンジャズとクラシックとの融合を見事に果たしたプロデューサーとしての才能にあります。2曲目のイントロに、いかにもバッハ風の典雅な枠取りが感じられますね。彼は、クラシック・ギタリストのジャンゴ・ラインハルトに捧げた「ジャンゴ」その他の名曲の作曲者でもあります。クラシカルな香りを基本にしながら、一方で、ミルト・ジャクソンのブルース魂を前面に立てることを決して忘れない、そうしてその融合を実際の演奏で実現させてしまう、そこがとても偉いところです。ちなみに、MJQとは、もともとは、ミルト・ジャクソン・カルテットの略称でした。
 当時の多くのヨーロッパ人たちは、新興大国・アメリカの文化に軽蔑心を抱いていたと思われますが(今でもフランスには、その気がありますね)、まさにMJQの存在によって、ジャズの魅力が彼らの心に深く浸透していったのです。その後、ヨーロッパからは、ジャック・ルーシェ(ピアノ)、ウラジミール・シャフラノフ(ピアノ)、ヨーロピアン・ジャズ・トリオなどのセンスの良いジャズメンが続出していくことになります。




コメント(2)
コメントを書く

2013/08/23 02:29
Commented by ogawayutaka さん
サヴ、ディグ、ありんこ、スウィング、少し離れてデュエット...。みな懐かしい名前です。5年という年差はありますが、当時のジャズ喫茶文化を私も共有していると思います。当時は、わが道を行くという気持ちでしたが、年を経てきますと、案外同じ趣味の人が多かったと聴いて、自分の「独創性」がたいしたことでなかったことに気がつきます。もっとも、放送局やレコード会社にもそういう人がいて、彼らが偉くなって選曲をしてくれるおかげで、いまでもラジオなどでジャズ番組が聴けるわけです。
私の場合、高校一年のとき、桑田慶介の歌などに出てくる、茅ヶ崎のリゾートホテル、「パシフィック・パーク・ホテル」のプールサイドで、アートブレイキーを聴いたのが最初でした。小学校の同級生の親がそこの経営者で、券をくれたのでした(ちなみにそのホテルは菊竹の設計です)。
演奏が始まる前は、勝手なことをしたり言ったりしていた背の高いやせた黒人たちが、ブレイキーの合図とともに、完全にリズムとハーモニーをあわせ、お互いの反応を見ながら即興演奏をすることに感嘆しました。それ以前は、音楽と言えば、小学校の合唱でハレルヤコーラスなどをしていたわけですから、かなりカルチャーショックでした。
その後は、横浜の高校をさぼって渋谷や新宿に出没していたのは、たぶん小浜さんと似ていると思います。あ、小浜さんは放課後ですね。私の場合は、ぐれていたわけですが。


2013/08/23 19:01
【返信する】
Commented by kohamaitsuo さん
ogawayutakaさんへ
 うれしいコメントでした。
 自分の趣味について公開的な文章を書くのは、好きになった女のことをのろけているみたいで、どうも恥ずかしかったのです。ちょっとばかり薀蓄をかたむけても、相手がシンクロしてくれなければ、意味ないですよね。でも、もうそういう年でもなくなったので、友人にそそのかされて、この際やっちゃうか、という気持ちで始めました。これからもどうぞよろしく。
 ogawayutakaさんは、私より世代がだいぶあとのようですが、やっぱりアート・ブレイキーですか。あの衝撃はすごかったのですね。
 続編で、横浜の「ちぐさ」についても書いていますので、よろしければそちらのほうも。
 あまりきちんと調べながら書く気がありませんので、記憶違いが多々あると思います。ボケをかましている場合には、遠慮なくご指摘いただければ幸いです。

倫理の起源8

2013年11月11日 22時33分37秒 | 哲学

倫理の起源8




 哲学の関心を鮮やかな手つきで倫理学的関心に結びつけた最初にして最大の功労者は、言うまでもなくプラトンである。
 だが、じつはプラトンは思想史上最大の詐欺師であるという直観を、私は永らく抱いてきた。
 彼が著作のほとんどで用いた「対話編」の主人公として登場するソクラテスは、言うまでもなくプラトン自身の思想の体現者である。しかし、このソクラテスの言論の運びこそ、巧妙な詐欺師の面目を躍如とさせていて、それは、当時の市民階層でもてはやされた職業の名前を借りるなら、ソフィスト中のソフィスト、弁論家中の弁論家であるといってもよい。プラトンが描き出すところのソクラテスは、自分があたかも無知であるかのように装いつつ、知者を気取る人々を底意地悪く窮地に追い込むたぐいまれな弁論術を用いて、世俗的な価値観を否定する思想理念を徹底的に私たちの頭に注ぎ込み続けたのである。これは偉大な価値倒錯といってもよい。そういう直観が私の頭にずっと宿っていたのである。
 しかし、直観だけでは、説得力を持たないことは当然である。私はこれから、自分のこの直観がどれだけ妥当なものであるかを読者に判断していただくために、少しばかりしつこくプラトンの説くところに付き添ってみることにする。
 なお、詐欺師であるという形容は、必ずしも一方的にその人を貶めたものではない。けだし多くの人びとを言説によってその気にさせるためには、人並み外れた才能と信じられないほどの執拗さとまた自分の思想の正しさを確信する心とが要求されるだろう。その点でプラトンは、奇跡と呼んでもよいほどに、超一級である。だれもこれを否定する人はいまい。

 まず『饗宴』を問題にしてみよう。
 周知のようにこの作品は、演劇祭で優勝したアガトンの家にお祝いのために皆が集まり、宴たけなわに達したころ、医師のエリュクシマコスによって、エロス神を称える演説を順に行うという提案がなされ、みながそれに従い次々に自説を述べるという結構で成り立っている。演説者は、計六人。最後のソクラテスが終えたとき、酔っぱらったアルキビアデスが乱入して、ソクラテスその人の人格高潔ぶりを称えるという形で終わる。
 各人の演説要旨は次の通り。
 まず弁論術の愛好者であるパイドロス。
 エロスは最も古い神である。エロスは、立派な生き方をしようとする人々にとって、門閥や富や名声もかなわない、確実な指導原理を植えつける。それは愛する人々に対する恥の感覚や、命を捨てても惜しくないという勇気の感覚を抱かせるからである。
 次に、ソフィストに心酔しているパウサニアス。
 エロスには上等なものと下等なものと二種類あるので、エロスのすべてが美しいわけではなく、どのような恋をするかによる。住民が能弁でなく、精神的怠惰が支配するところでは、恋は無条件に美しいこととされ、支配者が権力を振るっているところでは、民衆が力を得てはまずいので、恋は醜いものとされる。我が国(アテナイ)では、恋の価値を十分に吟味している。恋をしている者には全面的な自由を許すが、恋される側にとって、それをたやすく受け入れることに対しては、慎重さを説く。エロスは、本人の隷属や堕落を導きやすいからである。相手から知恵、その他の徳目を享受できて、より立派になれるかもしれないと考えて相手の思いを受け入れる場合だけが美しい。
 彼は、恋に対する自国の慣習をほめたたえているわけである。
 次に、医師エリュクシマコス。
 エロスはこの世のありとあらゆるもののなかにある。あらゆるもののなかに二種類のエロスがあるから、人は、よきエロスをつかむために、節度をもって望まなくてはならない。慎みと正義の徳をもって善きことの実現にはげむエロスこそ、われわれに幸福を約束してくれる。
 これもパウサニアスと同様、エロスを直接称えるというよりは、どういうエロスが望ましいかを述べているにすぎない。
 次に喜劇作家アリストパネス。
 自分は、「恋の力」の秘密がどこに起源をもつかについて話す。人間はもともと二身一体であり、「男-男」「男-女」「女-女」の三種類があった。しかしその驕慢がゼウスの怒りにふれ、二つに裂かれたため、互いが互いを激しく求めるようになり、ほかのことに気が回らず、しだいに滅んでいくようになった。ゼウスはこれを憐れみ、隠し所を前に移した。こうして男女が交わることで子供を産めるようになり、男性同士も一緒になることで充足感だけはもてるようになり、仕事や生活に気を配るようになった。エロスとはつまり、太古の完全な姿に戻ろうとする欲望と追求のことである。本然の姿に戻ることが最も尊いことならば、自分の意に最も叶った資質の恋人(片割れ)を手に入れることがエロスの究極の目的となる。
 この説は大変興味深い。ソクラテス説との関係で、後ほどまた取り上げよう。
 次に若き悲劇詩人アガトン。
 自分は、エロス神そのものの性質をはっきりさせなければ、賛嘆できない。エロスは最も年若い神である。エロスは、華奢な体をもち、その足取りは軽く、この世にあるかぎりのもののうちで最も柔らかいもの、すなわち神々や人々の心根や魂のなかに好んで住みたまう。エロス神の最大の美徳は、神との関係でも人との関係でも不正を加えることがないという点である。暴力はエロスとは無縁である。エロス神はまた、慎みの徳も備え、勇気の徳も最大限に備えている。また、芸術における創造、生物の創造の知恵をも備えている。すべての技術(アート)の神々も、エロスの弟子である。
 彼の説は、エロスの本質をすべて素晴らしいものと考えているようで、一般社会との関係における、その危険性を見ていない。贔屓の引き倒しというべきか。
 そして最後に、いよいよソクラテス。彼の先生であったディオティマの言葉を借りる形で、格段に長いエロス本質論を展開する。
 賞賛するよりも大事なことは、問題にしている対象が何であるのか、その真のイメージを正確につかむことだ。エロスはまず、あるものに対する関係としてあり、第二に、自分に欠けているものに対する関係としてある。エロスは、美しいものと醜いもの、死すべきものと不死なるものとの中間的なものである。それは、人間でも神でもなく、「偉大なダイモン」である。それは、神々へは人間からの祈願と犠牲を、人間へは神々からその命令と犠牲の返しを伝達し、送り届ける仲介者の役割をもつ。
 エロスは富を父にもち、貧困を母にもつので、両方の性質を持つ。常に欠乏と同居していながら、美しいもの、よきものをねらう勇気と努力、知を愛そうとする意志をもつ。知は最も美しいもののひとつであり、エロスは美しいものへの恋であるから、エロスは知を愛する者であり、すなわち、知あるものと無知なる者との中間者である。エロス像を、ひたすら美しいものとして思い描くのは、恋される対象のほうをエロスと考え、恋する者のほうに思いが及ばないからである。
 エロスの目的は、善きものを手に入れることによって、幸福になることである。恋とは、善きものと幸福への欲望一般であるから、普通は恋とは呼ばれない金儲け、体育愛好、愛知なども、恋の一種である。自分の半身を探し求める人は、「恋している人」と呼ばれるが、恋の対象というものは、何らかの意味で「善きもの」でないかぎりは、半分でも全体でもない。
 恋のはたらきとは、肉体的にも精神的にも「美しいもののなかに出産すること」である。エロスを抱えるということは、美しいもののなかに何かを生み出そうとする「身ごもっている状態」である。それは、エロスが、死すべきもの(=人間)にとって、善きものを永遠に所有したいと願うことである事実からして、必然的なことである。なぜなら、出産こそは、死すべきものが不死をめざすことだからである。
 人は不死なるものを恋い求める本性をもっている。肉体的に身ごもる者は、子を産むことによって不死と思い出と幸福とを永遠に手に入れようと考える。これに対して、魂において身ごもっている者は、知恵とその他もろもろの美徳を手に入れることを求める。魂において身ごもり、出産する人々は、うつしみの子どもによるつながりよりもはるかに偉大なつながりと、しっかりした愛情とを持つ。それは、より美しく、より不死なる子どもを共有するからである。
 恋の道には、正しく進むべき順序、道筋がある。まず初めは、あるひとつの美しい肉体。ここで美しい言葉(対象をほめたたえ恋の思いを訴える言葉)を生み出さなくてはならない。次に肉体の美しさ一般。ここで、一個の肉体にのみ恋いこがれる激しさをさげすみ、その束縛の力から自由になるべきである。次に魂の美しさ。人間の営みや法のなかにある美を求め、肉体の美しさを些末なものと見なすようにならなくてはならない。次にもろもろの美しい知識へ。そしてこの知を愛し求める究極において、美であるものそのものを対象とする学問に至る。
 人間の肉や色など、いずれは死滅すべき数々のつまらぬものにまみれた姿をではなく、唯一の形相(本質、あるものをまさにあるものにしているもの)を持つものとして、この神的な美そのものを「観る」人間こそが、神に愛される者となる。この人は、徳の幻ではなく、真の徳を産み育てるものである。

 以上が、『饗宴』における演説者の諸説の要約である。
 はじめの三人は、エロス神(恋心)の本質が何であるかに頓着せず、自分たちが通常抱いているこの神のイメージを自明なものとして、恋人の前では恥を恐れて勇敢になるといった付随的な効用を説いたり、エロスはいろいろなあらわれ方をするのでどういう場合にはこの神の力を受け入れるべきかと説教したり、この神とつきあうには節度が必要という忠告をしたりしているだけである。
 五番目のアガトンは、エロス神の柔和と平和を愛する性格や、創造的な性格に着目した上で、それがいかに私たちの生を美しいものにしてくれるかを力説している。恋心の危険性には目をつむっているが、「愛」と私たちが呼び慣わしている現象のポジティヴな面に対する期待感情をよく言い当てているとはいえるだろう。
 問題となるのは、喜劇作家アリストパネスと、ソクラテスの演説である。
 四番目のアリストパネスは、その職業柄にふさわしく、起源神話を語る形で、エロスの真像に迫ろうとしている。一見他愛ない物語を開陳しているだけのようだが、ここには、性愛というものの本質をついた深い洞察がいくつも込められている。
 ひとつは、性愛が、二者の間の強い求心力としてはたらき、それをそのままにすれば浮き世の必要、たとえば仕事や生活などをも忘れさせる閉じた世界を作りうるものであること。これは、日常性を支配する労働と、非日常で特殊な感情的昂揚を伴う性愛とが互いに相容れないものであり、しかも人間はそれらを二つともども抱えているという事実を見事にとらえている。
 もう一つは、エロスが太古の完全な姿に戻ろうとする運動であるとみなすことが、不可能な一体化を求めようとする私たちのエロス感情の巧みな比喩になっていること。これは、一身から二身への分裂によってこの世に生を受け、その個体化の事実を引き受けながら生きざるを得ない人間が、根源的な寂しさという形で、「ひとりであること」をいかに真剣な課題として抱え込む生き物であるかという心的な真実を描き出すことに成功している。
 さらに、アリストパネスは、「自分の意に最も叶った資質の恋人(片割れ)を手に入れることがエロスの究極の目的」であると語っている。これも恋愛感情の本質を言い当てている。恋愛においては、求める側が、あくまでもひとりの相手の心身をめがけるのであり、しかもそこに彼にとってだけの固有の美質を見いだすがゆえにそうするのである。そしてまたそれが「究極の目的」であるという指摘も真相を穿っている。恋愛は、打算や効用のためになされるものではないからだ。
 ちなみに現在の私たちの社会では、色恋沙汰が話題となることが多いが、恋愛について語られたエッセイなどに、「恋愛感情は、もともと一身であった男女が二身に分かれたために互いが互いを求めるようになったところに発生した、とプラトンは説明した」などとしたり顔で書かれているのをときおり見かける。『饗宴』をきちんと読んでいない証拠である。先の要約でも明らかなように、プラトンは、この説をソクラテスに批判させるために、意図的にアリストパネスにこの説を語らせたのである。
 これに対して、プラトンが、これこそはエロスの本質であると考えてソクラテスに語らせた言説のほうはどうであろうか。
 アリストパネスは、『雲』という自作のなかで、戯画化されたソフィストの代表としてソクラテスを登場させ、文字通り雲をつかむような空論が現実に何の役にも立たない様を風刺している。この二人の間に対抗心があったのかなかったのか、それはわからないが、シニカルに現実を見る文学者であったアリストパネスと、理想を追い求める哲学者のソクラテスとが、相容れない気質の持ち主であったことはたしかである。
 ソクラテスの弟子であったプラトンは、おそらくこの二人の和解し得ない違いをよく感じ取っていた。しかも、自作にアリストパネスを登場させながら、彼を揶揄嘲笑するような形ではその人物像を造形せず、むしろ、誠実にかつ正確にアリストパネスの「恋愛思想」を記述したように思われる。そしてその上で、その恋愛思想を超えるものとして、長大なソクラテスの演説をおいたのである。
 先のソクラテスの演説のなかに、「恋とは、善きものと幸福への欲望一般であるから、普通は恋とは呼ばれない金儲け、体育愛好、愛知なども、恋の一種である。自分の半身を探し求める人は、『恋している人』と呼ばれるが、恋の対象というものは、何らかの意味で『善きもの』でないかぎりは、半分でも全体でもない。」という文句が出て来るが、これは明らかに、アリストパネスの説を批判したものである。
 ここにすでにプラトンの意図がはっきりと出ている。アリストパネスは、エロス神、つまりエロスという言葉の概念を、ソクラテス以外の他の演説者と同様、人間が人間に恋をする時の力のはたらきという意味に限定して使っている。しかしソクラテスは、まず「恋とは、善きものと幸福への欲望一般である」と説くことで、初めからこれをもっと拡張した概念として用いていることがわかる。この一般化が、プラトンのイデア思想にいたるための最初の哲学的な手つきである。そして私には、この最初の手つきこそ彼の詐術の大きな第一歩であると思われる。
 なぜこのように「エロス」あるいは「恋」の概念を、ふつう使われるそれらよりも一般的な「人間のあらゆる欲望」という概念に拡張しなくてはならなかったか。そのモチーフを理解するのにさほど時間は要らない。
 ちなみに現在私たちが「エロス」あるいは「恋」という言葉を用いるとき、その概念の主軸は明らかに人間どうしの恋愛感情や性愛感情におかれているが、これを転用して、対象一般への愛、執着という概念で用いることがあることもたしかである。あの曲にはエロスを感じないとか、私はあの山に恋をしてしまったといった表現が可能だからである。
 しかしソクラテス(プラトン)は、そういう単なる比喩的な転用としてこの言葉を拡張したのではなかった。そこには明白な道徳的動機があった。ソクラテス(プラトン)は、その動機を満たすために、ふつうには最も道徳とは関係がないか、あるいはむしろ背徳的とされる「エロス」をも道徳に結びつくものとして籠絡しようとしているのである。
 この拡張の少し前に、ソクラテスは、エロスを「あるものに対する関係としてあり、自分に欠けているものに対する関係としてある」と規定し、さらに「美しいものと醜いもの、死すべきものと不死なるものとの中間的なものである」と規定している。この二つの規定は、エロスという概念を人間の欲望一般ととらえるかぎり、まことに的確な哲学的把握であると言える。
 古代において、この世の森羅万象や人間自身の営みの内在的な力に打たれて、その力に対する不思議や驚きの感じをさまざまな神話的表象で表現するとき、その表現にはその不思議や驚きの肉感的な感じがそのまま保存されていただろう。「エロス」の場合も例外ではなく、それは理性によって「概念」として明確に対象化されるより以前に、自分たちと共にいつも親しく連れ添う生身の恋の魂だった。
 しかしソクラテス(プラトン)は、その神話的な世界把握を、哲学の言葉によってまず破壊する。いかなる神々も、彼にとっては、理性的な述語によって規定されるべき一般的「概念」に変貌させられなくてはならなかった。「普通は恋とは呼ばれない金儲け、体育愛好、愛知なども、恋の一種である」というソクラテス(プラトン)の一般化は、当時の人びとの間で、理性的には漠然と、しかし内在的な生活感情としては生々しくとらえられていたはずの「エロス神」の具体的リアリティを斥け、代わりにそれを、あらゆる対象に対する人間の欠乏感覚という「概念」に読み替える。そして、そうすることで、「エロス」あるいは「恋」という言葉を、哲学的な言語世界の持ち駒として縦横無尽に使いこなせるだけの抽象的な存在者に仕立て上げてしまう。
 この事態を、私たちは、哲学的理性の祝福すべき生成としてただ歓迎しているわけにはいかない。なぜならば、ソクラテス(プラトン)は、この一般化・抽象化の手つきを通じて、「エロス」の概念のなかに「知への愛」を巧妙にも忍び込ませているからである。もちろんこうすることが最初からソクラテス(プラトン)の野心に満ちた狙いであったことは、そのあとのくだりを読めばすぐにわかる。


これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(1)

2013年11月11日 20時21分56秒 | ジャズ

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(1)


 私が高校生以来のジャズファンであることは、以前このブログでもお伝えしましたが(「落語の魅力」http://kohamaitsuo.iza.ne.jp/blog/entry/3108338/)、ある知人からの勧めもあって、ジャズについて書いてみることにしました。といっても、音楽知識に詳しいわけではありませんし、最近のジャズシーンについては、ほとんど知りません。ただ自分のこれまでのささやかな鑑賞履歴に沿って好き勝手なことをあれこれ言ってみようと思います。そぞろ歩き、道草、連想の赴くまま、いつ終わるか見通しなし。読者の皆さんが、この気ままな旅に付き合ってくださって、ジャズに興味を持っていただければ望外の喜びです。

 まず、いま日本でジャズというと、普通はモダンジャズのことを指すようです。けれどもじつはジャズというのは、20世紀初頭にアメリカ南部の都市ニューオーリンズで黒人を中心に発祥してから、すでに100年の歴史を閲しています。その間、多様な発展の仕方をしてきました。初期のラグタイムに始まり、カントリーウェスタン、黒人霊歌、ブルース、クラシック音楽、ブラジル系音楽など、様々な要素が混入して、一言ではくくれない様相を呈するに至っています。
 しかし中心的な流れは、次のようになります。
 ニューオーリンズから、やがてあのアル・カポネが暗躍したシカゴにその中心が移りました。すぐにニューヨークにも波及し、両大戦間に繁栄を謳歌したアメリカ、大都会の歓楽の巷で、ナイトクラブやキャバレーでのダンス音楽として栄えたのです。このころのジャズは、ビッグバンドが中心で、クラシックのメロディアスな要素を取り入れながら、「踊れるジャズ」として多くの人の人気を集めました。白人が大挙して演奏に加わり、当時のポップスとして隆盛を極めたのです。ベニー・グドマン、グレン・ミラーなどが有名ですね。もちろん黒人の名ミュージシャンとしてその名を欠かせない人もいます。デューク・エリントン、カウント・ベイシーは双璧です。前者二人と、後者二人との間には、やはり白人と黒人のスピリットの違いが明白に感じられます。
 やがてこういうビッグバンド系の流れに飽き足らないミュージシャンも出てきました。ダンスのため、一般公衆のための音楽ではなく、自己表現のための音楽を追求しようとした人たちです。若くして死んだ黒人アルトサックス奏者、チャーリー・パーカーがその代表です。彼はビバップという音楽様式を発展させて、強いアクセントをもつハードバップという独自の領域を切り開いていき、今日モダンジャズと呼ばれる流れを作り出しました。彼の演奏は速いテンポでゴリゴリとハードに吹きまくるものが多いので、とても恋人同士が甘い雰囲気で踊るというわけにはいかず、出てきた当時は、一部でひんしゅくも買ったようです。

 モダンジャズの演奏スタイルは、ピアノ、ベース、ドラムのリズムセクション、プラス、トランペット、サックス、トロンボーンなど、計4人から6人くらいの小編成がメインで、これをコンボと言います。このスタイルがジャズ界の一角を占めるようになってからは、かつての主流は、スタンダードジャズと呼ばれるようになりました。
 私は、華やかなビッグバンドにはあまり興味がなく、初めからコンボによるモダンジャズに惹きこまれていきましたので、これから語るジャズ話も、もっぱらモダンジャズにかかわるものです。
 ちょっと我田引水かもしれませんが、いま日本の居酒屋などでBGMとして流れている音楽は、じつにモダンジャズが多いですね。ある年齢以上の日本人には、西洋の習慣である、あの大きなホールで華やかな楽団をバックに踊るというスタイルはあまり似合っていないのかもしれません。私もその口で、モダンジャズの流れるちょっとおしゃれな居酒屋で友と語らいながら、日本酒をちびりちびり、というのが一番趣味にかなっているようです。
 ジャズという音楽形式の基本は、四拍子(フォー・ビート)のリズムで、二拍目と四拍目にアクセントが置かれる形をとります(アフター・ビート、またはオフ・ビートと言います)。これによって独特のスウィング感(躍動感)が出るわけです。その点は、ビッグバンドでもコンボでも変わりません。ロックはエイト・ビートですが、やはりアフター・ビート(三拍目と七拍目に強打)ですから、その点ではジャズのリズム様式を継承しているといえます。なお、モダンジャズも、比較的早い時期からワルツ形式を取り入れたり、ボサノバのようなラテン系のエイト・ビート形式を取り入れたりしています。
 コンボによるジャズ演奏の構成は、一番オーソドックスな形としては、次のようになっています。
 まず、テーマが出てきます。これはたいていの場合、リズムセクションに支えられながらトランペットやサックスなど、ホーンによって奏でられます。トリオの場合は、ピアノが奏でます。曲目は、何でもありです。映画音楽、シャンソン、その当時はやった曲、スタンダードナンバー、ジャズメン自らが作曲したオリジナル曲などなど。
 テーマ演奏が一通り終わると、それぞれのプレイヤーのソロ・パートになります。トランペット、テナーサックス、ピアノ、ベース、ドラムのクインテットなら、初めの三つが交代してソロを奏でるのが標準ですが、ベースソロやドラムソロもあります。ソロパートは、コード進行にのっとった即興演奏です。これは、それぞれのプレイヤーたちの出番ですから、だれがどんなふうに吹いたり弾いたり叩いたりするか、ここがまさにジャズの醍醐味です。ジャズの鑑賞では、クラシックと違って、だれが作ったなんという曲かはさほど問題になりません。プレイヤーの個性をこそ聴き取って、しだいに彼らのファンになっていく。そこがキモです。また、アンサンブルの妙味も大いにありますから、あのグループが演奏しているあのアルバムがいい、というようなかたちでの「好きになり方」もとても大切です。
 ソロパートは、仮にテーマ曲が32小節だったとしたら、これを1コーラスとして、一人が1コーラス分、2コーラス分、というように受け持つわけです。そうして最後にもう一度テーマに戻って終わる。だいたいこういう流れなのですが、テーマに戻る前に、フォアーズと言って、二人あるいは三人による四小節ごとの掛け合いを挟むことも多くあります。これもたいへんスリリングで、聴きどころの一つと言えるでしょう。
 ただし時代が進むにしたがって、こういう形式にこだわらないもっと自由な発想で演奏される曲もたくさん出てきました。しかしこれについては、またの機会に述べることにしましょう。

 さてここで、しばらく思い出に耽らせていただきます。
 1961年、「モーニン」「ブルース・マーチ」で大ヒットを飛ばしたドラマーのアート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズが初来日、日本に一気にモダンジャズブームを巻き起こしました(ファンキーブームと呼ばれました)。



当時私は中学2年でしたが、それまでラジオからシャワーのように流れるアメリカンポップスが日常的な音楽環境でした。パット・ブーン、ポール・アンカ、コニー・フランシス、ニール・セダカ、エルビス・プレスリーといった人たちですね。ちなみにこの人たちはみな白人です。
 そのさなかに入り込んできた黒人ジャズのサウンドは、何かまったく異質で新鮮な興奮を覚えさせるものでした。ことにブレイキーのお得意、「ナイアガラ・ロール」と呼ばれる嵐のようなトレモロ・プレイは、「カッコイイ!」の一言でした。トランペット奏者やサックス奏者のソロ演奏を見事にインスパイアする効果があるのですね。

 ではここで、モダンジャズ曲でもっとも有名な「モーニン」を聴いてみてください。

http://www.youtube.com/watch?v=VKXsnDvILmI&list=RD02eZacqCfAvEI
 当時、家にはテレビがなかったのですが、テレビ放映を見た同級生が、ブレイキーのドラムソロ演奏場面を下から仰ぐように撮るカメラアングルに驚いたと言っていました。なおアート・ブレイキーは大の親日家で、何度も日本に来ており、「オン・ザ・ギンザ」など、日本を素材にした曲も作って吹き込んでいます。
 中3になったころ、兄が大学に入り、さっそく東京の大学文化を家に持ち込んできます。その流れのなかで彼はジャズ・メッセンジャーズのLPレコードを買ってきて聴かせてくれました。学生がLPレコードを買うということ自体、普通の貧乏家庭では、かなり冒険だった時代です。
 これを聴きながら、私はますますジャズの世界にあこがれるようになっていきました。私の実家は横浜ですが、たまたま渋谷経由で東京の高校に通うことになり、裕福でオシャレな趣味の持ち主と浅い友達になります。彼が私のジャズ好きを知って、「四大ドラマー夢の競演」というのがあるから行かないか、と誘ってくれました。マックス・ローチ、フィリー・ジョー・ジョーンズ、ロイ・ヘインズ、シェリー・マン(彼のみ白人)……。今から考えると、ちょっと想像できないほどのメンバーです。まさに「夢の競演」。ただ残念なことに、期待していたフィリー・ジョー・ジョーンズが麻薬不法所持の疑いで入管に引っかかってしまい、出演不能。当時日本で一番人気だった白木秀雄が急遽代役を務めました。それでも私は大満足。モダンジャズ・ドラミングの完成者と言われるマックス・ローチにぞっこんほれ込み、サインを求めて追いかけたのですが、彼は「ゴメンナサーイ」と言って取り合ってくれませんでした。



 それからしばらく経って、ある日の学校の休み時間。たまたま近くにいた一人の同級生K君が、「俺のこの有り余るエネルギーをどう発散しようか」と独り言のようにつぶやいているのに接しました。そばにいたもう一人の同級生S君が、すかさず「ドラムやりゃあいいんだよ」。私はそれを聞いて、「四大ドラマーというのを聴きに行ったんだけど、その時のパンフレットがあるから明日持ってこようか」と言いました。
 さあ、それからがK君と私との悪友関係の始まりです。彼も完全にジャズにはまってしまいました。授業をさぼって音楽室の準備室に勝手に入り込み、タイコのまがい物のようなものを叩きまくったり、スティックを持ち込んで休み時間にかちゃかちゃやったり、放課後、渋谷の斎藤楽器店というところに何度も行ってベースをいじくりまわし、お店の人に嫌がられたり――しかし何といっても、このころジャズ鑑賞に深入りしたのは、当時、渋谷の百軒店に集中していたジャズ喫茶に通いづめた経験です。
 ブルーノート、サヴ、ディグ、ありんこ、スウィング、少し離れてデュエット、なんと6軒もかたまっていたのです。関係ないけど、デュエットでコーヒーを運んでくれたお姉さんはとても素敵でした。MJQ(モダンジャズカルテット)の「フォンテッサ」というアルバムをリクエストした時、「フォンテッサですね」ときれいな声で応えてくれたのをいまでもよく覚えています。
 私たちはこれらの店をはしごしながら、さまざまなジャズメンたちの演奏に接することになります。それについては、次回以降、だんだんとお話ししましょう。

 思い出話はまた折を見て続けるとして、いま取り上げたジャズメンたちの何人かについて、いまの時点での私なりの感想を簡単に述べておきたいと思います。チャーリー・パーカーは、その偉大な功績は認めますが、あまりにゴリゴリし過ぎていて、初心者にはお勧めできません。ほどなく登場したトランペットのディジー・ガレスピーやクリフォード・ブラウンのほうが、まだ聴きやすいかもしれません。二人とも天才的なテクニシャンです。クリフォードは、20代で事故死してしまいました。
 先に、アート・ブレイキーに魅せられてジャズを聴き始めたと書きましたが、彼のドラミングは、いまにして思えば、それほど個性的ではなく、むしろ、親分としての役どころを心得ていて、あまり出しゃばらない黒子的存在と言ったほうが適切です。
 マックス・ローチは、正確無比のドラミングですが、聴きなれてくると、少し定型的で特に伴奏時の遊びの要素が少なすぎる。しかし彼がいなかったら、その後のドラマーたちは存在しなかったでしょう。彼については、ソニー・ロリンズ(テナーサックス)について語るときにもう一度登場してもらいましょう。
 ロイ・ヘインズは、たいへんなテクニシャンで精妙なドラミング。彼はとても器用なたちで、時代が移ってかなりアヴァンギャルドふうな共演者が出てきても、それにきちっと合わせることができる人です。意外と知られていませんが、やはり器用貧乏の気があるのかな。お勧めは、チック・コリア(ピアノ)のアルバム「NOW HE SINGS NOW HE SOBS」の一曲目「STEPS-WHAT WAS」。

http://www.youtube.com/watch?v=Ga-M6LDmZzA

 シェリー・マンは、白人らしい繊細なタッチで、特にブラッシュ・ワークがいいですが、ちょっと迫力に欠けて物足りないか。
 フィリー・ジョー・ジョーンズは、私が一番好きなドラマーです。一見荒々しく聞こえるのですが、いつも計算されつくした演奏をします。ワイルドでありながら、音楽的な完成度が非常に高い。伴奏も出しゃばらず、ソロ・プレイヤーをじつに適切にインスパイアします。また、彼自身のソロは素晴らしいの一言です。マシンガン・ドラムの異名をとっていました。彼についても、マイルス・デイヴィスについて語るときにまた登場してもらいましょう。
 MJQについては、いろいろ語りたいことがあり、ここでは短くまとめられません。次回、自分のライブ鑑賞体験と合わせてじっくり語ってみたいと思います。
 それでは今日はこんなところで。