小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

劉暁波氏の死去に際して「自由」について考える

2017年07月19日 10時06分03秒 | 思想
        




2017年7月13日、中国の民主活動家、劉暁波氏が死去しました。
劉氏は、コロンビア大学客員研究員として米国に滞在していた1989年、本国で起きた民主化運動に参加するためにただちに帰国、同年6月の天安門事件で投獄され、以後、民主化運動と獄中生活とを繰り返しました。

2008年12月、彼が中心となり、303名連名で、三権分立、司法の独立、人権尊重、言論、集会、結社、宗教の自由の保障、公職選挙、社会保障などを謳った「零八憲章」をネット上で公開し、逮捕拘束されます。

2009年12月、国家政権転覆扇動罪で懲役11年の判決を受け、翌10年2月に服役し、同年10月に獄中でノーベル平和賞を受賞します。
この時、中国政府は「ノーベル平和賞は西側諸国が政治的に利用するためのものだ」といってノルウェーを激しく非難しました。
これはある意味、正しい認識です。

2017年5月、劉氏は末期がんと診断され、仮出所を許されます。
国際社会では彼を国外で治療すべきだとの声が高まりますが、中国政府はこれを拒否、ついに国内で死去することになりました。

同年7月15日には、劉氏の兄、劉暁光氏が市当局立会いのもとに記者会見し、弟を海葬に付したと発表しました。
暁光氏は弟に対する政府の対応を絶賛しました。すべての発言内容が当局にチェックされていたことは自明だと産経新聞は報じています(7月16日付)。

海葬とは要するに灰を海にばらまくことですが、この措置にも当局の強制的な指示があったことは明瞭でしょう。
お墓を作ればそこに共鳴者が集まり、新たな民主化運動の拠点となることが当然予想されるからです。
中国政府は、劉暁波氏の存在そのものを歴史から完全に抹消したわけです。
民主化? 自由? 人権? そんな言葉は我が邦の辞書にはない、と。

やれやれ。
今に始まったことではないですが、中国とは要するにそういう国です。
民主国家の住人である私たちからは非常識としか言いようがありません。

しかし、キング牧師、ネルソン・マンデラ氏などとともに、劉暁波氏は今後世界史にその名を刻むことになるでしょう。
度重なる不当な弾圧にもかかわらず、祖国の民主化のために生涯闘い続けた彼を筆者も尊敬してやみません。

しかし、このように言明するだけなら、誰にでもできることです。
じつは筆者は、ことはそう簡単ではないと思っているのです。それについて述べます。

欧米では、自由、平等、人権、民主主義を「普遍的価値」として高らかに掲げ、これに反したり疑ったりするいっさいの思想、行動、感じ方を絶対に許そうとしません。
日本は敗戦で魂を抜かれて、いまだにアメリカの属国状態ですから、半ば以上、この「イデオロギー」に追随せざるを得なくなっています。

本当に自由、平等、人権、民主主義は、「普遍的価値」なのか?
この命題を懐疑する必要はないのか?
これらの用語を「普遍的価値」として掲げる欧米先進国の建前のうちには、じつは現実を覆い隠す大きな欺瞞が隠されているのではないか?
それぞれの用語の使われ方に対して、もっと繊細な目配りをすべきではないのか?

ここではひとまず「自由」という概念に絞って考えてみましょう。

北朝鮮や中国のように、自由な言論も政治活動もまったく許されず、政府に対する批判的言動が直ちに弾圧され粛清されるような独裁国家に対しては、自由の価値を叫び続けることには大きな意義があります。
これはおそらく、いったん自由の味を知った人が、その国に住んでみればすぐに実感できることでしょう。

逆に日本がいかに思想・言論・表現・信教などの自由が保障された恵まれた国であるかもわかろうというものです。
むしろ恵まれすぎていて、多様な見解・主張が乱れ飛び、いくらまともな言論を発信しても、「暖簾に腕押し」状態になってしまっています。
実際上、裏でこっそり政治の実権を握っている人たちというのは、「自由な」民主国家にもちゃんと存在しています。
彼らは権力に安住しているので、まともな言論に対してほとんど聞く耳を持とうとしません。
その結果、思想、言論の自由は、じつは生きて働かず、「少数派が愚痴を言う自由」「無力感をかみしめる自由」のようになってしまっています。
日本におけるこの事態をどうやって根本的に打開するかについては、当ブログで「『新』国家改造法案」と題して試論を書きましたので、参考になさってください。まだ生煮えですが。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/fee57cf113cc09fe54fde5299f6fb1b0

要するに、私たちは、自由という言葉を聞きとるときには、それがどういう文脈で使用されているのかに注意しなくてはならないのです。
また私たち自身がこれらの言葉を使うときには、それをどういう価値観のもとに使っているのかに自覚的でなくてはなりません。
たとえば、中国における「自由」と、日本における「自由」とは、その問題点の置き所がまったく異なっています。
中国では、いかに自由を獲得するかが問題です。日本においては、手にしている自由を空文に終わらせず、いかに実効性のあるものにするかが問題です。

またアメリカは、自由という「普遍的価値」の実現を表向きの旗印にしながら、イラク、北アフリカのアラブ諸国、グルジア(現ジョージア)やキルギスやウクライナなど旧ソ連勢力下にあった国々への介入を正当化してきました。
しかしそこには、覇権国家としての現実的な利害や、イデオロギーの押しつけや、冷戦時代以来の感情的なロシア敵視などの要因が隠されていたことが、今では明瞭になっています。
結果的に、これらの地域はいま、先の見えない不安定な状態にさらされることになりました。
リビアの独裁者カダフィ氏は、アメリカのこの一連の介入の中で殺されましたが、彼は利害の入り乱れる諸部族を巧みに統率し、手厚い福祉を施していたと言われています。

またEUは、域内のヒト・モノ・カネの自由な移動(グローバリズム)を認めた結果、各国間の極端な格差や大量の移民・難民に悩まされるという深刻な事態に至っています。

さらにいま、トランプ大統領の保護主義的な方針に対抗して、「自由貿易主義」のイデオロギーが幅を利かせています。
中国の習近平主席は、2017年1月、市場の眼を惹きつけるチャンスと見て、さっそく世界の富裕層が集まるダボス会議で演説し、自由貿易の意義を強調しました。
あの中国が「自由」の強調? 滑稽というほかないですね。

でも笑って済ませるわけにはいきません。
中国は、政治的自由主義と経済的自由主義を巧みに使い分けているのです。
国内では人民の自由を弾圧し、国際的には国家利益追求のために、アメリカの覇権後退の趨勢にちゃっかり便乗しているわけです。
一党独裁と市場原理の両立――それが鄧小平以来のあの国の基本方針でもあります。
もっとも、中国経済がうまく行っているとはとても言えませんが。

いずれにせよ、経済的な「自由」理念をそのまま追求することは、弱肉強食的な競争至上主義を肯定することであり、弱小国にとっては経済的な主権を強国の富裕勢力に奪われることを意味します。
ここでは「自由」の概念がグローバリズム・イデオロギーの正当化として使われます。
グローバリズムのもとでは、強国・富裕層の「自由」が、弱小国・貧困層にとってはそのまま「不自由」となるのです。

 以上のように、「自由」とは、それだけとしては単なる抽象的な言葉にすぎません。
どういう具体的文脈の中でこの言葉が使われるのかという背景と不可分のかたちでその価値が測られるべきなのです。
自由理念を振りかざして、それを何かとても素晴らしいことのように吹聴する有力勢力(わが国では竹中平蔵氏がその代表)は、必ずと言ってよいほど、その裏に自己利益最大化と弱者抑圧という意図を隠し持っています。
私たちは、その欺瞞を見抜き、おさおさ警戒を怠ってはなりません。
名高いアウシュビッツ強制収容所のゲートには、「Arbeit macht Freiheit(労働こそ自由を生み出す)」という標語が掲げられていました。

いやな予感

2017年07月04日 18時02分59秒 | 政治
        





東京都議会選は、都民ファーストの圧勝、自民党の惨敗に終わりました。
自民党もまさかこれほどとは思っていなかったでしょう。
投票結果を見ると、自民党は、定数の多い地区で今までどおり2人候補者を立てていたために、共倒れや一人だけ当選というケースが多くなっています。党選対策本部の警戒感がまったく足りなかったのが最大の敗因だと筆者は思います。

各紙、「もりかけ」問題、豊田問題、稲田問題などにおける「自民党のおごり」が今回の結果を招いたと報じています。自民党自身もそのように総括しています。
しかし、マスコミ主導による反安倍キャンペーン、反権力・反日キャンペーンが功を奏したという意味でなら、それは当たっていますが、こういう形で勢力分布ががらりと変わること自体に、筆者は政治のマスヒステリア化を見ます。

また小池都知事の人気が都民ファーストの圧勝をもたらしたという見方もあるようですが、これも必ずしも当たっていないと思います。
というのは、まず、投票率が前回より上がったとはいえ、有権者の半分しか投票していないのです。都知事選に対する都民の関心の低さが歴然としています。
次に、小池都知事の人気は、選挙公示前の意識調査では決して高くなく、特に豊洲問題では、あの引き延ばし政策にほとんどの人が反対していました。
一月時点で安全確認がなされていたにもかかわらず、小池氏はこれをひと月以上も隠しており、「安心と安全」などという怪しげなキャッチコピーによって、いたずらに移転を引き延ばしてきました。そのために巨額の税金が無駄遣いされており、現在もこの事態は続いています。
ちなみに豊洲市場が築地に比べてはるかに安全であり、衛生的であることは、氏の都知事就任以前からわかっていたことです。
要するに「選挙ファースト」であり、肝心の問題を無視して陣営固めのために時間稼ぎをしていたにすぎないのです。
さらに、小池氏はゆくゆく国政進出を狙っているようですが(すでにそれを匂わせています)、この人には、日本をどうしたいのかというヴィジョンと信念が何もありません。悪い意味でのポピュリズム政治家の典型です(「国民ファースト」!)。
たとえば、安倍政権が進めてきたグローバリズム政策の害毒(消費増税、TPP,農協法改悪、「岩盤」規制緩和、移民政策、労働者派遣法改悪、電力自由化、種子法廃止など)について、何か定見を持っているでしょうか。筆者にはとうてい、そうは思えません。これまで国政にさんざん関与してきながら、重要課題に関する立場をほとんど明らかにしたことがないからです。

以上のように、今回の選挙結果は、安倍政権に対する都民一般の「飽き」の気分、「デフレ疲れ」の気分、権力者や公務員に対する「ルサンチマン」の気分の蔓延に、反日・反権力野党やマスメディアがうまく乗っかった結果にすぎないのです。

これがただの気分、ムードにすぎないというのは、都民(あるいは国民)の大半が、安倍政権の政策の問題点や、これまでの都政一般の問題点について、よく理解しているとは思えないからです。
それは、ここ最近、首長や政権批判が高まる時に、具体的な政策に関しての理性的な批判として現われるのではなく、必ず権力者のスキャンダルだけを大げさに騒ぎ立てる感情的な形として現れるのを見てもわかります。
しかもそのスキャンダルは、半分以上、反日・反権力野党やマスメディアによってほじくり出されたりフレームアップされたりしたもので占められています。

思えば、この大衆のムードによる権力者引きずりおろしの兆候は、舛添要一前都知事に対する執拗な攻撃の時から始まっていました。多くの人が舛添批判にうつつを抜かしている時に、筆者はこの引きずりおろしの動きには実に不快なものがあるということを、このブログに発表しておきました(「舛添騒動に見る日本人の愚かさ」2016年6月16日)。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/0ced7935bbc25e77b979dc7856739432

気分、ムードの支配による政治の転換は、たいへん危険です。
安倍政権や自民党には上述のように、良くないところがたくさんあります。しかし外交、軍事的安全保障、憲法問題などの面では、現行憲法やアメリカの睨みなどに手足を縛られた厳しい制約の中で、概してよくやっています。
そのように、是々非々で物事を見ず、他に適切な対抗馬も見当たらないうちに、「盥の水と一緒に赤子を流す」体のことをやってしまうと、そこに空白が生じます。アナーキー状態ですね。いま、日本の政治は、確実にこの道を歩んでいます。
アナーキー状態では、国民の不満感情、やけっぱち感情が高まります。それに乗じて、国民感情を巧みに束ねたデマゴーグ政治家が登場して、一挙に全体主義政治体制を作り上げてしまう。これは、歴史が教えているところですね。

安倍長期政権疲れやデフレ不況疲れ、ブラック企業下での過重労働疲れ、これらが重なって、中身は何でもいいから、とにかく都政も国政もリフレッシュ! 
先の拙ブログ原稿には、日本がこうした傾向を深めていることがすでに書かれているのですが、この傾向は、残念ながらさらに脈拍を高めていると思わずにはいられません。
というのは、メルマガ・三橋経済新聞(新経世済民新聞)でも以前触れましたように(https://38news.jp/politics/10577
)、天才的デマゴーグ・橋下徹氏が、いよいよ国政の中枢部に登場しようとしているからです。

すでに藤井聡氏が7月4日の同メルマガでこの危険について強調されているとおり、橋下氏入閣は、かなり確度が高そうです。水面下では橋下氏入閣の交渉が進んでいるのでしょう。
「ゴネ得」という言葉がありますが、橋下氏は、入閣しない、しないと拒否し続けることで、「ほかに人がいなくてそんなに求めるなら、仕方ないから引き受けるか」という手法で印象をよくしておくと同時に、「ただし引き受ける以上は、こちらにも条件が……」などと切り出して、巧みに「条件闘争」をしていくのではないかと疑われます。有力ポスト、実際に発揮できる権限などについて。

政府が彼に求めているポストは、報道によれば「人づくり革命」担当相だそうです。
https://dot.asahi.com/wa/2017070200034.html?page=3
何じゃ、そりゃ? という感じですね。
人づくりは養育者、教育者、社会全体が行なうもので、橋下氏などにそんなことをされたらたまったものではありません。このネーミング(誰が考えたのか知りませんが)そのものが、イデオロギーに付和雷同する単純人間製造装置の新設を企んでいるようで、全体主義的発想そのものではありませんか。

ちなみに、予定されている内閣改造は、「都知事選の大敗を受けて」と報道しているメディアが多いですが、都知事選とは直接関係なく、任期中に憲法改正を実現したいとする安倍総理が、その体制固めを目論んで以前から決めていたことです。橋下氏の入閣プランは、そのための最大の目玉です。
先のメルマガでは、それがいかに百害あって一利なしか書いておきましたが、都議会選大敗という結果と合わせて考えると、さらにとてもいやな予感がしてきました。

以下は、筆者が考えた最悪のシナリオです(敬称略)。

都議会選大敗の結果、これまでくすぶっていた自民党内の反安倍勢力がさらに力を増し、安倍引きずりおろしの気運が高まる。安倍はそれを敏感に察知し、自分の首相生命は遠からず終わりを告げるだろう。早々に自分の任期中に改憲を実現させなくてはならない。内閣改造を急ごう。改憲発議を急ごう――こうして8月には橋下徹が入閣。
一方、ポスト安倍を狙う石破茂は、安倍凋落という絶好の機会を逃さず、消費増税の必要性を党内外で力説する。おバカな自民党員の多くの賛同を集め、増税延期を防ぐため、来年の総裁選を待たずして首班交替を画策する。
年内に改憲の発議が成立し、来年早々に国民投票へ。安倍政権支持率低下のため、公明党もこれまでの協力的態度を変え、国民投票では「自衛隊の存在を憲法に記入」ならず。安倍の責任が問われ、総理辞任。総裁選前倒しで石破が当選、そのまま総理に就任。橋下は安倍の期待に応えなかったにもかかわらず、新閣僚人事で巧みな根回しにより留任。総務大臣に。
経済音痴の石破は、財務省の緊縮真理教をそのまま実行。日本のデフレ化が加速し、国民生活は貧困化を深める。財務省と黒幕竹中と橋下が実権掌握。国民の不満表現を弾圧。言論統制へ。
グローバリズムの浸透さらに早まり、中国人の移民、不動産取得、企業買収激増。小池は中国の一帯一路に賛同、二期目の習近平主席に媚びを売り、東京五輪の財政は事実上中国資本で。

こんなことにならないように、心より祈念いたします。


バニラ・エア問題を冷静に考えてみる

2017年07月01日 20時31分26秒 | 社会評論
        





6月5日、奄美空港で、関西空港に向かう超格安航空バニラ・エアの搭乗の際、下半身不随の障害を持つ木島英登さんが、車椅子ごと同行者に担いでもらってタラップを昇ろうとした時、バニラ・エアーのスタッフから止められたため、腕の力でタラップを這い上りました。これに対してもスタッフは制止したそうですが、木島さんはそれにかまわず昇ったそうです。 バニラ・エアは、「不快にさせた」と謝罪し、今後車椅子でも搭乗できるように設備を整えると発表したとのこと。

私はこのニュースを、たまたま6月28日の夕方、カーラジオを通してNHKの報道番組で知りました。その時は、アナウンサーを含めNHKに出演していた三人が、障碍者差別解消法などを持ち出して、バニラ・エアを総攻撃するような調子でした。
ただし、車いすで搭乗する場合は前もって連絡することになっているというバニラ・エア側の言い分については一応報じていたように記憶しています。
私は現場のやりとりなどを直接見たわけではありませんので、その時は明確な感想を抱いたわけではありませんが、何となく事の成り行きについて、NHK出演者の発言だけでは割り切れない違和感を抱きました。

さてこれを書いているのは、7月1日の深夜ですが、この二、三日の間に、このネタ、だいぶ炎上しているようですね。
テレビ局でも取り上げられ、木島さんご本人も出演しているようです。
FBを通して以下のメルマガを読みました。個人的な印象では、かなり信頼のおける記事です。
http://netgeek.biz/archives/98767

この記事によると、木島さんは、事前連絡が必要なことを知っていたらしい。しかも過去に四回も事前連絡なしで搭乗拒否された経験を持ち、「面倒くさいから連絡しない」と豪語していたそうです。
また木島さんは、自分が「プロ障害者」であると認めているとのこと。

厄介な問題ですね。

ところで、御存じない方も多いと思いますので、お伝えしておきます。
不肖私は、18年前に『「弱者」とはだれか』(PHP新書)という本を書いて、いわゆる「社会的弱者」と呼ばれる人々の一部が、弱者であることを特権として利用している問題を批判的に取り上げました。
この人のように、迷惑をかけながら名前を売ってビジネスにつなげるというのは困ったものだと、当時から感じていたからです。
これを組織的にやってきたのが、一部の団体です。それについても詳しく書き込んでおきました。
また、乙武洋匡氏の『五体不満足』(講談社)についても、そのいいところは認めつつも、おおむね批判的に論説いたしました。
しかし一方では、これらの人々を批判するだけではなく、特権を特権として受け入れてしまう側にも問題があるということも指摘したつもりです。
「弱者」という記号を振りかざして理不尽な要求がなされたときに、その「権威」に怯えて、きちんと反論せずに要求に従ってしまう「事なかれ主義」はおかしい、と。



問題は変わっていないようですね。それどころか最近では、欧米における過剰な「人権」尊重によるPC(ポリティカル・コレクトネス)のように、その窮屈さ、硬直ぶりは深まっているように思われます。日本もその波を大いにかぶっていますね。

異種の人々どうしのトラブルはなるべくないほうがいい。それは誰もが認める所でしょう。
では、社会的にカテゴライズされた人々とその「しるし」を持たない人々との間のバリアをできるだけ低くするには、どうすればいいか。
何かと言えば「人権、人権」と騒ぎ立てる人や団体が力を持った時、PCのような政治的な建前による意思決定でこの解決を図ろうとするのはよい方法ではありません。なぜなら、人々の現実の生というものは、たとえカテゴライズされていなくても、ひどい被害に遭っていることがありうるし、逆にカテゴライズされていても、何の被害感覚も感じていないことがありうるからです。
政治的な建前の言葉は、けっして人間の生の複雑多様な局面を覆い尽くすことができません。
そのため、政治的な建前が過剰にはたらくと、必ず、これに対して表ざたにできない不満や怨念の感情が蓄積してゆきます。

こうした問題を少しでも軽くするには、次の心構えが大切と思われます。

①各人が日常生活上で接触体験を深め、「慣れと親しみ」の関係が自然にできるようにすること。
②「弱者」と呼ばれる人々の多様性を、できるだけ個々の現実に即して理解すること。障害者の場合ならば、どこが不便でどういうサポートや技術が要請されるかを、なるべく多くの人がクールに認識すること。
感情的対応は、正負いずれの場合にも、何も解決を導きません。

ちなみに私は、大学で乙武洋匡氏の『五体不満足』(完全版)を読ませて感想を書かせていますが、批判すべきところを探せと事前に言い渡してあるにもかかわらず、素朴に感動してしまう学生が多くて、毎年やれやれと感じています。大学のレベルの問題もあるのですが(笑)。