小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する18

2015年03月27日 14時06分03秒 | 哲学
日本語を哲学する18




 ここで少し道を迂回して、時枝誠記が言語の存在条件として整理した三つの規定、「主体」「素材」「場面」のひそみに倣って、しかしこれとはやや異なる発想から、発語がなされたり沈黙したりする現実様態の直接的な条件ともいうべきものを考えてみたい。
 ちなみに時枝のこの存在条件の規定はたいへん優れたものだが、言語表現が実現している時の何 ( 「概念」「リズム」など)をどこに収めるかに関しては、論理の混乱が見られる。しかしこの問題は、ここでは詳しく取り扱わない(拙著『日本の七大思想家』幻冬舎新書参照)。いずれにしても、時枝のこの発想が、いま「沈黙の言語的意味」を考えることにとって大きなヒントを提供してくれていることはたしかである。
 私が、言語行為としての「発語・沈黙」の直接的な条件と考えるのは、時枝の存在条件よりももう少しその行為の直前にまで踏み込んだレベルである。心的レベルと言ってもよいかもしれない。それは、「気分」と「関係」と「話題」である。

     
       
             
 上の正四面体で、Aを「発語・沈黙」、Bを「気分」、Cを「関係」、Dを「話題」とする。そのうえでBCD 三つのキーワードについて解説する。

 まず「気分」。
 私たちは、言語活動において発語したり沈黙したりするとき、必ずある気分に根拠づけられてそうしている。驚き、悲しみ、怒り、喜びなどの明瞭な感情によって発語したり沈黙したりする場合は言うに及ばず、疲れていて黙りがちになったり、場面(相手も含む)に応じて尻込みしたり、面倒くさいので何となく黙っていたり、性愛行動のように同調や共感の気分が高いためにかえって言葉を必要と感じなかったりする。私は、こうした気分状態を、発語や沈黙のあり方を規定する非常に重要な条件と考えるので、「気分」としてひとくくりに立てたのである。
 なおここでは、この「気分」という概念を、単に発語している、または沈黙している「個人」主体の心理状態のみに限定せず、言語活動が行われている全体の場に漂う共有された何とはなしの雰囲気という意味にまで拡張して考える。日本語の「気」という概念が、個人身体内の状態、個人意識の状態、集団の雰囲気、個人身体外の客体的な事物情景、天然自然の状態、社会情勢など、じつに多様な状態にまたがって使用される事実に注意を喚起されたい。
 病気、元気、平気、気息、悋気、勝ち気、気合、意気、気概、気遣い、気にする、気になる、気がする、気苦労、雰囲気、気流、天気、気候、気体、景気、気運等々。
 しかしそこまで拡張するなら、「空気」という言葉のほうが適切ではないかと思われるかもしれない。山本七平の『空気の研究』という有名な著作は、きちんと対話や議論を重ねずに、何となくその場の空気で非常に大事な事柄が決定され、責任の所在があいまいになってしまう日本的慣習を批評する目的で書かれたものだった。これはどちらかといえば「場の空気の絶対性」に対する否定的な姿勢を貫いているが、最近流行した「KY」という言葉は、逆に座の「空気」が読めない人を批判的にとらえた言葉である。いずれにしても、人々の集まる「場」や「座」というものが、良きにつけあしきにつけ、それだけである強い集団心理的な力を持つという認識が前提となっている点では共通している。ただ、重大な決定が絡んでいる場合には、ある反対意見が提出されているのに、それを無視あるいは軽視してこの集団心理によってことが動いてしまうのはまずいことだし、逆に、愉快で楽しかったり、平穏で冷静だったりする雰囲気が流れていて皆がそれに満足している場合には、その雰囲気に同調できずに我を張って水を差すような人は、やはり非難されてしかるべきだろう。
 この「場」や「座」が現実に存在しているとき、特定の個人の「気分」と、集団全体の「気分」とを明瞭に分けることは難しい。個人原理を出発点としてこの状態を評価するなら、個人の心が集団に同調することの是非がそのつど具体的に問われるわけだが(「付和雷同」とか「麗しい結束」などとして)、反対に、共同性が個に先立つという考え方からすれば、個人の心はもともと常に集団から分け与えられたものであり、一人でいる時にもその心のありようは、共同の心に規定されていることになる。したがってこの場合には、すでに同調の準備態勢が出来上がっているのだから、是非が問われるべきなのは、ある共同性の構造そのものが具体的にいかなる性格のものかという点をめぐってであろう。
 かくして、言語活動が行われている現場において、物理的な発語や沈黙を規定する力あるいは作用を、「気分」と呼ぼうが「空気」と呼ぼうが、じつはそんなに違ってはいないのである。ここでは「気分」とは、座の雰囲気の共有状態を個人心理にバイアスをかけて定義した概念だが、同時にそれは、その座全体の「空気」の表現でもある。
 また、先に沈黙を「意志」との関係に限定させて考察するわけにいかない事情に言及したが、そのことと、この「気分」という概念を「意志」よりも上位のレベル(より抽象的な軸)に立てたこととの間には関連がある。「意志」はあらゆる「気分」の様相のなかの一つであり、後者によって規定され、かつ後者に含まれる下位概念として理解すべきである。

 次に「関係」。
 これは、言語活動をする主体どうしがどのような関係におかれているかという規定条件を意味する。「関係のモード」「関係のスタイル」「関係のゲシュタルト」などと言い換えてもよい。この場合、互いにとっての既知の度合い、ある言語活動の行われるタイミングや時間の長さ、言語活動が行われる物理的な空間のあり方、人数、地位や身分や権力関係、その言語活動に至るまでの経緯などにしたがって、より抽象的な関係のモード(例:友人どうし)から個別具体的なそのつどの関係のモード(例:一方が他方に喫茶店で相談をもちかけている)に至るまで、さまざまなレヴェルと質の違いを想定する必要がある。
 たとえば、いま話し合っているのが、長年連れ添った夫婦であり、その仲はそれほど悪くなく、夫は平凡な会社員で妻は専業主婦であり、子どもは大学受験を控えており、夫が会社から帰ってきてふたりで夕食をとりながら短い会話を交わしているといった場面(シーン)では、これらの条件だけでその発語や沈黙のあり方が規定される。同じこの夫も、呑み屋で部下や同僚と騒いでいる時、上司に向き合う時、顧客に接する時などには、それぞれまったく違った発語や沈黙のあり方を見せるだろう。そもそもそれらの場合には、彼は「夫」という関係を生きていない。
 なおこの「関係」は、先の「気分」が、なかなか言葉で相対化できにくい面をもっているのに比べて、より客観的な枠組として対象化しやすい。

 最後に「話題」。
 これは、現に発語や沈黙がなされている時、その中身全体に関する漠然たる「わかり」を意味する。言い換えると「いま話し合っているのは、……についての問題であろう」という相互の理知的な察知のあり方である。これはより正確には「了解」と呼ぶべきなのだが、わかりにくいので、あえて「話題」とした。しかし「話題」という概念を普通に理解すれば、すでに明確に言語行為の中身に入り込んでしまっているような印象を与えてしまうのも避けがたい。だがここでは本当は、少しその手前の部分、なぜ私たちは今ここでこの話をしているのか、という無意識の共通理解のことを指していると受け取っていただきたい。
 そこで、この概念のもとには、どの程度その指示内容が指示内容として理解されているか(たとえば外国人や子どもだったら、話されている、または書かれている言語に対してどの程度理解力があるか)、また話し(書き)それ自体の調子はどのようなものか(たとえば「強い怒りの調子が込められている」とか「しなやかな文体だ」というような)、発語や沈黙に付随する身体のあり方はどうか(たとえば芥川龍之介の「手巾」で表現されている「彼女は毅然と言葉を紡ぎだしてはいるが、手の震えからじつは懸命に悲しみを抑えていることがわかる」というような)、などの感知・判断の概念がより下位の概念として帰属する。

大相撲モンゴル場所を提案する(半分冗談、半分本気)

2015年03月23日 23時47分17秒 | エッセイ
大相撲モンゴル場所を提案する(半分冗談、半分本気)




 大相撲春場所が終わりました。今年は鶴竜をはじめ休場力士が多く、三大関の成績も前半からふるわず、また白鵬の独走に終わるのか、すごいけどつまらないなあと思っていましたが、関脇・照ノ富士が何と白鵬を破って千秋楽まで優勝圏内に残り、大いに観客を沸かせました。しかも新関脇で13勝2敗という素晴らしい成績。先場所関脇に躍進してさすがに負け越した新鋭・逸ノ城も、今場所は、西前頭筆頭で9勝6敗の好成績を残しましたから、来場所は三役復帰が確実でしょう。
 ところで今場所も例によって白鵬をはじめとしてモンゴル出身力士が席巻し、対して日本人上位力士のふがいなさといったらありません。若乃花引退以来15年間日本人横綱が誕生していないことを嘆く関係者の声がしきりです。しかし私は、以前にもこのブログで取り上げましたが(http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/3b4a77e2426361a58000939ff4bc3559)、そのことをまったく気にしていません。むしろモンゴル力士の活躍を大いに応援したい気分です。その理由は、国際スポーツ大会などと違って、あの遊牧の小国からはるばる出てきた彼らがほとんど日本人になりきって、国技である相撲に命をかけているさまが、何とも気持ち良いからです。ことに、3年前の夏場所、モンゴル関取第1号の旭天鵬が、苦節20年を経たのち、なんと37歳で平幕優勝を遂げた時には、思わず涙ぐんでしまいました。豊かな大国になってしまった日本からは、もうこうしたハングリー精神の発露は望めないのではないでしょうか。
 現に今場所も日本人三大関の成績は振るわず、稀勢の里9勝6敗、琴奨菊と豪栄道はいずれも8勝7敗という情けなさです。この三人が横綱になることは、その相撲内容から見てもまず考えられず、やがては照ノ富士や逸ノ城に先を越されることは確実に思われます。
 いま、全幕内力士42名のうち、外国出身力士は17名、そのうちなんと10名がモンゴルです。また蒼国来は中国出身となっていますが、モンゴル自治区(内モンゴル)出身ですから、実質的にはモンゴル人です。ちなみに幕内現役モンゴル力士11人の四股名と番付をすべて書き出しておきましょう。

 東正横綱・白鵬  西正横綱・日馬富士  東張出横綱・鶴竜  東関脇・照ノ富士  東小結・玉鷲  西前頭筆頭・逸ノ城  同8枚目・時天空  東前頭10枚目・旭秀鵬  西前頭11枚目・旭天鵬  同13枚目・蒼国来  同14枚目・荒鷲      

 これだけ揃っているのですから、いっそ6つの本場所のうち一回くらいは、モンゴルのウランバートルで開いたらどうでしょうか。もちろん費用はこっち持ちです。もしこれが実現したら、人口わずか240万人、GDPでは日本の約450分の1しかないモンゴルは、国を挙げて湧きかえるでしょう。経済効果もあるかもしれません。モンゴル人の対日感情はすこぶる良く、2004年11月に在モンゴル日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、「最も親しくすべき国」として第1位になったそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD#.E5.AF.BE.E6.97.A5.E9.96.A2.E4.BF.82
 この親日感情の由来は、第一には、隣国中国の進出野心に対する根深い悪感情の裏返しが考えられます。また、日本がODAで多額の支援をしてきたこと、それからもちろん、まさに相撲を通して国内にヒーローを何人も作り出したことが関係しているでしょう。いま政治的・歴史的なことは詳しく述べませんが、ソ連と中国という大国の思惑にたえず翻弄されてきたこの国は、近年ようやく自主独立の気概を持ったナショナリズムが育ちつつあるようです。資料を見ると、こうした勢力を「極右」と書いているけれど、自由主義諸国圏のメディア情報は、その国のもつ複雑な内情をよく想像せずに、すぐ「極右」などと決めつけるんですよね。それは、ヨーロッパの反EU政党の勃興を「極右」と呼び続けているのと同じです。
 わが国は、韓国などを過剰に気にするより、周囲との微妙な関係に置かれたこういう親日的な小国との親善関係を大切にするほうが、これからの外交に役立つかもしれません。
 とはいえ、万一モンゴル場所が実現するとなると、どこか一場所は休止しなくてはなりませんね。これ以上お相撲さんに苛酷な労働を強いるのは無理だからです。さてどの場所がいいでしょうか。私は7月の名古屋場所をモンゴル場所に当てたらよいのではないかと思います。名古屋圏のみなさん、怒らないでね。といっても怒るよね。「勝手に決めるな、この野郎!」……。
 東京を一回削ればいいというアイデアもあるでしょうが、やっぱり本場国技館で、年3回はやってほしい。
 昔タモリが「名古屋人差別」なるギャグをやったことがありますが、私は別にそれを踏襲しようというのではありません。名古屋は京・大坂に近く、行こうと思えば大して時間がかからないでしょう。新幹線でなら1時間ちょっと。それと7月の東海地方は暑くてお相撲さんがたいへんです。調子を崩す力士が多い。涼しいモンゴル(7月平均気温20℃以下)のほうがずっといいと思うんだけどなあ……。大多数の国民はテレビで観戦できるんだし。

 ところで、ここからはあまり愉快でない話題を取り上げなくてはなりません。先に述べた旭天鵬優勝の折、パレードの車に白鵬が同乗して旗手を務めたのを覚えておいでですか。美談として称えられましたが、当時のある週刊誌(週刊ポスト)によると、あれには舞台裏があったのだそうです。旭天鵬の属する大島部屋の親方が定年退職するので、同じ立浪一門のどこかの部屋との合併が必要になり、それを機会に白鵬が同じ一門に属する宮城野部屋(自分の部屋)との合併を画策していたというんですね。将来、旭天鵬が引退したら親方になってもらってモンゴル力士を集めて”モンゴル部屋”を作ることを計画していたとか。相撲協会はそれを許さず、結果的に旭天鵬は他の立浪一門である友綱部屋に属することになったそうです。これは相撲協会の一幹部が漏らした話として書かれています。
http://www.news-postseven.com/archives/20120528_111157.html
 それ以来、白鵬と協会との間には確執がある――そういうことになります。最近でも白鵬が稀勢の里との一番で勝負審判の判定(取直し)に公然と不服を漏らしたことがあって、問題になりましたね。私はこの一番を見ましたが、不服を漏らすことの是非はともかくとして、勝負は明らかに白鵬の言うとおり、彼の勝ちです。
 でもこの週刊誌の「陰謀」話、私は額面通りには受け取れません。個人的には、力士としての白鵬をあまり好きではありませんが、外国人であった彼のこれまでの角界での超人的な努力と業績の数々を考えれば、そこには想像を絶する日本への同化の意志が感じ取れます。震災の折、東北の海を前にして数度にわたり神様への祈念を込めて鎮撫の土俵入りを試みたこと、前人未到の優勝回数達成を果たしたとき、優勝インタビューで、明治時代の相撲廃止の動きを大久保利通(伊藤博文という説もあり)と明治天皇とが尽力して止めさせたという、私たち日本人も知らなかった話を披露し、天皇陛下に感謝すると語ったこと、などを素直に受け取るなら、彼がモンゴル部屋を作ろうと画策していたなどという話のほうがよほどマユツバものです。
 しかし、それにもかかわらず、白鵬のなかに、現在の協会のあり方に対するある不満がくすぶっているのはどうも確からしい。最近の荒っぽい相撲のとり方にも、そのイライラがやや表れているように思います。その元にあるのは何かといえば、これだけやっても協会は、「外国人力士」という半ば無意識のレッテル貼りによって自分たちを差別しようとするのかという悔しさではないでしょうか。
 私は彼の悔しさの感情を支持したいと思います。そうして、この協会側の無意識のレッテル貼りの底にあるのは、偏狭な排外主義と、外国人実力者に土俵を乗っ取られたことに対する嫉妬です。
 くだんの週刊誌記事の記者も、協会幹部が抱いている陰湿な排斥感情に加担している様子がありありです。いくらこれほど偉大な業績を残しつつある白鵬でも、厳しい身分秩序を残しながら(それ自体は悪いことではありませんが)大相撲の興行を差配している協会幹部にひとりで戦いを挑むわけにはいかないでしょう。
 記者は立浪一門のある親方が吐いたセリフとしてこう書いています。

 外国人力士が増えたことが人気低迷の原因として、協会は外国人の入門規制を敷いている。それに不満を持っていた白鵬は、頻繁に会合を開いてモンゴル人の結束を高めていた。合併話が拒否されたことにも怒り心頭だった。

 ある親方が本当にこう言ったのだとすれば、ふざけた話です。外国人力士が増えたことが人気低迷の原因とはよくも言ったり。一時期の人気低迷は、八百長疑惑やしごきによる不祥事など、要するに協会自身の監督不行き届きが原因であることは、ファンの誰もが知っています。その何よりの証拠に、モンゴル力士を中心とした外国人の活躍によってここ1、2年の相撲人気は見事に復活し、先場所(平成27年初場所)などは、15日間すべて満員御礼だったではないですか。ファンのほうがよっぽど正直です。不人気の原因を外国人になすりつけ、それにもとづいて入門規制を敷いているなんて、相撲協会とはなんとアンフェアでけち臭い体質を温存しているところなのでしょう。たかが相撲と思うなかれ、こういう差別感覚はどこの社会にもあることです。
 もうひとつ例を挙げておきましょう。今場所の白鵬の優勝インタビューと、場所での取り口について論評した産経新聞記者の隠微な調子の文章です。

 土俵下で行われたテレビの優勝インタビュー。これまで多くを語らなかった白鵬が口を開いた。『初場所に(優勝回数の)新記録を達成して、それにふさわしい優勝。1つ、2つ上にいったような相撲内容だった」。大鵬に並ぶ2度目の6連覇で34度目の優勝をつかみ、自賛した。(中略)貪欲に勝利を追い求めた結果でもある。以前、33度優勝を達成後は立ち合いの極意『後の先(ごのせん)』に取り組みたい考えを明かしていたが、今場所は一度も披露せず、先場所の審判部批判につながった因縁の稀勢の里戦では、右変化の注文相撲、受けて立つどころか、格調の低い取り口で目先の白星を求めた。(以下略・3月22日付)

 相撲の世界では、格上の者ほど、下に対して堂々と胸を貸す態度を示すことが人格的に良しとされることは知っていますが、何も大記録をさらに伸ばして見事に優勝したその日 ( この日の対日馬富士戦では堂々と戦っています )の論評で、わざわざこんな意地の悪い書き方をしなくてもいいでしょう。素直に栄誉を称えればよいではありませんか。記者自身の格調を疑います。
 外国出身の力士がいかに活躍したからといって、国技としての様式が崩されたわけでも何でもなく、ことにモンゴルの人たちは相撲を通して日本という国を知り、そうして多くのモンゴル国民は今なお(おそらく)憧れの目をもって豊かな大国・日本を見つめているのでしょうから、そのせっかくの気持ちを温かく受け入れる寛容で余裕のある心を、相撲協会自身が率先して持ち続けなくてはならないと思うのです。
 好きな相撲について軽いノリで書くつもりが、調べながら書いているうちに、いろいろなことに気づいてきて、つい真面目くさった批評文になってしまいました。申し訳ありません。






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特別シンポジウム開催のお知らせ

2015年03月20日 19時24分02秒 | お知らせ
特別シンポジウム開催のお知らせ



『繁栄の絶対法則』(3月7日[土]発売/本体価格1500円[税別])の発刊を記念して、シンポジウムを開催!
『Voice』特別シンポジウム『日本の資本主義は大丈夫か――グローバリズムと格差社会化に抗して――』

 国際社会はいま、どこを向いても新自由主義とグローバリズムの席捲と、その爪痕が残した惨状に新たにどう立ち向かうかに苦慮しています。これは金融資本主義が行き着く末路を象徴しているのかもしれません。EU域内のテロ問題や移民問題、ウクライナ問題、ISIL問題、アメリカの格差問題、東アジアにおける中国の侵略圧力など、一見単発的に見える多くの政治的危機が、すべて金融資本主義が過度に進行した流れの必然という同じ根に発するように思えてなりません。
 もし日本がこの資本主義の危機を克服しうる独自のモデルを少しでも示せるなら、それは世界の金融資本主義の暴走を食い止めるヒントを提供することができるでしょう。
 本シンポジウムでは、このような問題意識に基づき、小浜逸郎(批評家)、『繁栄の絶対法則』著者の三橋貴明氏(経済評論家)、中野剛志氏(評論家)の三人で、資本主義の未来について議論いたします。

【日時】2015年5月15日(金)19:30~21:30 (19:00開場)
【場所】PHP研究所 2階ホール
      住所:東京都千代田区一番町21東急一番町ビル ※地図
      地下鉄半蔵門線「半蔵門駅」5番出口すぐ上
【参加費】2,000円
【定員】先着150名 ※席に限りがございますので、お早めにお申し込みください。
★お申し込みフォームhttp://peatix.com/event/79834
★キャッシュバック特典★
三橋貴明先生の『繁栄の絶対法則』(弊社刊)を当日会場にご持参いただくと、その場で500円をキャッシュバックいたします。

【登壇者プロフィール】
●小浜逸郎(こはま・いつお)批評家
1947年、横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。2001年より連続講座「人間学アカデミー」を主宰。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。現在、批評家。国士舘大学客員教授。著書に、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)、『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫)など多数。

●三橋貴明(みつはし・たかあき)経済評論家
1969年、熊本県生まれ。東京都立大学(現・首都大学東京)経済学部卒業。外資系IT企業、NEC、日本IBMなどに勤務ののち、2008年、中小企業診断士として独立。株式会社経世論研究所所長。近著に、『2015年暴走する世界経済と日本の命運』(徳間書店)、『繁栄の絶対法則』(PHP研究所)などがある。
■ブログ「新世紀のビッグブラザーへ」
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/

●中野剛志(なかの・たけし)評論家
1971年、神奈川県生まれ。東京大学教養学部卒業後、通商産業省(現経済産業省)入省。2000年より3年間、英エディンバラ大学大学院に留学し政治思想を専攻。11~12年春まで京都大学大学員工学研究科准教授。イギリス民族学会Nations and Nationalism Prizeを受賞。著書に、『資本主義の預言者たち』(角川新書)、『世界を戦争に導くグローバリズム』 (集英社新書)などがある。


日本語を哲学する17

2015年03月12日 11時01分35秒 | 哲学
日本語を哲学する17



永らく中断していた『日本語を哲学する』シリーズを再開します。第Ⅰ部第2章「沈黙論」の途中からです。沈黙は言語活動の重要な一部であるという考えに基づいて、言語表現のうちに沈黙が現象するさまざまな様相を8つ挙げましたが、その7番目からの展開となります。どうぞよろしく。

人の話を聞いたり、本を黙読しながら、感じたり考えたりしている時

 この場合には、言語を機能としてみるかぎり、「沈黙」状態にあることが当然であるから、そこに何ら問題はないように見える。ある相手の話を聞きながら自分でも別のことを話したり、黙読しながら他のことを発語するのは、機能的に不可能だからである。聖徳太子は一度に十人の話をきけたという伝説があるが、仮にある言葉を聞きながら別の話題のモードを構成するようなことが可能に見えるにしても、それは、瞬間瞬間でモードの切り替えをやっているにすぎない。
 ただし、一点だけ注意しておくべきことがある。それは、聞きながら、あるいは読みながら、同時に別の言語をみずから構成することは不可能であるにしても、聞きながら、あるいは読みながら、同時に「感じる」ことは可能だということである。たとえば、相手の話を聞いている最中に怒りを感じるとか、小説を読んでいる途中でその内容に涙を流すとか。
 これらは、言うまでもなく、その当の話や読み物を唯一の媒介としつつ、もっぱらそれについて「感じて」いるのだが、そのとき、その「感じて」いる営みは、話されたり書かれたりしている当の素材とは別の言語表現としてけっして構成されはしない。しかし、みずからに対する情緒的表現にはなり得ているのである。なぜなら、「何事かを感じる」ということは、すでにそれだけで自分に対して表現的であることを意味するからである。情緒とは本来そういう本性をもっているのであって、この自分自身に対して表現的であることは、その次の瞬間にその「感じ」を「考える」営みにもっていくこと、言い換えると「言語」として構成する営みにつなげていくことの、準備態勢の意味をもつのである。
 私がこのことを強調するのは、「心」や「精神」のはたらきを、「思う、考える」という「理性」的な営みに限定しようとするプラトン、アリストテレス、デカルト、カントなど西洋哲学を代表する巨匠たちが示してきた伝統的な偏向に対して抗いたいからである。たしかに「人は何事かを思い、考えている時には言語によってそうしている」という命題は普遍的に妥当する。しかし、「心」や「精神」のはたらきは、「思う、考える」ことだけではない。
 感じること、情緒的であること、情念などは、西洋の伝統的な哲学では、「パッション」として把握されているが、周知のように、この把握は「パッシヴ(受け身)」であることと語源的に通底している。だが情緒は、単に、外界や肉体からやってくる刺戟によって引き起こされる受身的な態勢ではない。情緒もまた「心」や「精神」のはたらきの一部であるとすれば、私たちは、ある情緒の状態や気分に浸っている時(常に人はそうなのだが)、不断にかつ非反省的な仕方で、身体内的・身体外的な状況を一定の能動的な「意味(sense, Sinn)」としてとりまとめ、そのとりまとめをみずからに対して与えている。そしてこの「意味」は、とりあえず言語的な「意味」の外側にあって、次なる身体行動や言語活動の「意味」を支えるのである。
 本稿は『日本語を哲学する』と題されているが、わが日本語は、西洋哲学が言語をただロゴスとみなし、その裏側で情緒的な存在の仕方をただ「パッション」とみなしてきた偏向に対して異議申し立てをするのに、さまざまな意味で恰好の特性をもっている。自然と対立していない日本語の特徴は、曖昧で非論理的という非難をこうむってきたが、それは西洋的な観点から見るからそう見えるのであって、じつは私たち人間一般が世界をどう感受し、世界をどう生きているかということを表現するのにとても適しているのである。しかしこの点は第二部で具体的に展開することにして、ここでは、「沈黙」の様態のうち、思想的に見て最も重要と思われる「⑧現実場面における発語の断念(選択による沈黙)」というテーマに移ることにしよう。

⑧現実場面における発語の断念(選択による沈黙)

「黙る」あるいは「黙っている」状態を「発語の断念」とか「選択による沈黙」と名づけると、そこには明瞭で積極的な意志がはたらいているという感じがつきまとう。しかし人が身体間交流のさなかにおかれていながら、しかもこれまで記述してきた七つの状態のどれにも当てはまらずに「黙る」あるいは「黙っている」時、そこに常に明瞭な意志がはたらいているかどうかは、じつは微妙である。「断念」とか「選択」と名づけたのは私自身だが、これらの用語自体が少し不適切かもしれない。
 ここでは、ある生活文脈(状況コンテクスト)を背景としつつ身体間交流が行われている時、能力、病的状態、不全状態、性格傾向、相手の発語を聞いている(読んでいる)状態などを除外してもなお、「現に一定時間、黙る、あるいは黙っている」様態が存在することに着目し、その全体を想定している。だからこの様態には、たとえば次のようなさまざまなケースと大きな幅とが包含されている。

・ある興奮や感動が発語を抑止させる。
 (例)相手から思ってもみなかった非難を浴びる、素晴らしい映画を観終わる、目の前の相手を恋しく思う気持ちが急に募る、など。

・驚きのために言葉が出ない。
 (例)親しい人の突然の訃報に接する、大きな事件を目前にする、など。

・感情的な理由なしにとっさに言葉に詰まる。
 (例)スピーチをしていて、それまでの脈絡に連続させられる言葉を見つけられない、脈絡自体の混乱を意識する、語彙を忘れる、など。

・言いたいこと、言うべきことはあるように思えるが、うまく言葉に構成できない。
 (例)話題が微妙だったり深刻だったりする、精確さを意識しすぎている、言語表現技術がもともと未熟である、など。

・決断をためらったために結果的に黙ることになった。
 (例)相手の話に違和感を持つが、その饒舌に即座に太刀打ちできない、言ったほうがいいという気持ちもあるが、相手への思いやりもある、など。

・考えたうえで、ここは黙っておいた方がいいと感じる。
 (例)相手の言葉の意図がよく読めず、どう答えてよいかわからない、言えば関係を悪くすると判断した、相手が興奮しているので話にならない、など。

・こういう場合には黙っているべきだという人倫的・生活的慣習に規定されている。
 (例)儀式が進行中である、途中で口をはさむのは礼儀にもとる、公式的な場なので言葉の選択に慎重にならざるを得ない、卑猥な話は慎むべきである、など。

・人から口止めされている。
 (例)その人のプライバシーを暴くことになる、政治的な秘密にかかわる、など。

・口止めされていなくても、関係のモードが異なるために、ここでは言うべきではないと感じる。
 (例)仕事上の立場を優先させなければならない、子どもの前で性的な話、残酷な話、複雑な話をすべきではない、友人関係の質に差異があるのでこの人には言えないと感じる、など。

・あらかじめ黙っておこうと明確に判断・決意していて黙っている。
 (例)あの人には言ってもわかってもらえないとあきらめている、言えば人間関係を壊すことが明瞭である、無視することによって相手から遠ざかる、愛情や思いやりの深さのためにあえて黙っている、など。

・発語するタイミングを見計らっている。
 (例)相手の話が一段落つくまで待つ、わかってもらうためには時間が必要である、状況が成熟しないと逆効果になる恐れがある、など。

・「黙れ」と相手から言われてその見幕に押されて黙ってしまう。
 (例)一定の権力関係が前提となっている、こちらの発語に後ろめたさがもともとともなっている、など。

・沈黙をはさむほうが美学的効果を高められると感じられる。
 (例)これは、文学表現の場合に特に顕著である。詩人や作家はさほど自覚的でなくとも、ある種の美的直観に基づいてあえて散文的な説明をせずに飛躍させることがたいへん多い。漫画のコマ展開などもこの飛躍が生命になっている。

 そういうわけで、こうした種々の沈黙様態を単に「明瞭な意志」という概念との関係だけに限定して論じるわけにはいかない。というのも、意志とは、発語や沈黙もふくめた「身体的ふるまい≒行為」の根拠として自己確認される心的現象であり、人があるふるまい(この場合は「黙る」あるいは「黙っている」)をなしている時、そこにいつも並行的につきまとっているようなものではないからである。意志は、むしろあるふるまいのプロセスの出発点や終局点においてのみ発生する自己対象化の意識の一つである。これに対して、「黙る」あるいは「黙っている」様態の全体のなかには、他のすべてのふるまいと同じように、意志を自己確認するいとまがない場合や、あとから振り返ってみても果たしてそこに自分の意志がはたらいていたと言えるのかどうかはっきりしない場合というのが多く含まれている。
 それでは、「沈黙の言語的意味」を探索するために、その諸様態をどのような基準によって整理すればよいだろうか。