小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源15

2013年11月18日 20時37分51秒 | 哲学
倫理の起源15



 つぎに〔証明3〕では、肉体が諸部分の合成であるのに対して、魂は単一であり、肉体に比べて、変化せず、自己同一的で、不可視であることをもって、魂が不死であることの根拠としていた。
 しかしここでのソクラテスの説明の仕方は論理としてまったくあいまいである。魂は、単一で、変化せず、自己同一的で、不可視であるものに「似ている」から、不死であるというのである。ここでひそかに思い浮かべられている、単一で、変化せず、自己同一的で、不可視であるなどの特性は、いうまでもなく神のそれである。しかし神が不死であるからといって、神的なものに似ている魂もまた不死であるなどという論理は通らない。要するにこれは出来損ないの三段論法なのである。いわく、大前提:神は不死である。小前提:ところが魂は神に似ている。結論:よって魂は不死である……。
 加えて、魂が神に似ているという指摘も疑わしい。なぜなら、人間の魂の中には、少しも神的でない、悪い魂、欠けたところだらけの魂(欲望に目がくらんだ魂)などが存在することを、ソクラテス(プラトン)自身がいたるところで認めているからである。認めているからこそ、プラトンは、魂への配慮という戒律を何よりも重視したのであった。
 最後に、〔証明4〕では、数のあり方からの比喩的転用が用いられている。
 このやり方は一種の集合論的な証明方法が採られていると考えるとわかりやすい。3は奇数集合の中のひとつの要素であるが、3と2とは別に反対ではないのに、2が偶数集合の中に含まれるという理由によって、3は2をけっして寄せ付けない(同族としない)結果になる。これと同じように、魂は、仮に生命そのものではないにしても、生命をもたらすものの集合に含まれる。ところが生命をもたらすものの集合とけっして相容れない集合は、「死」的な集合である。二つの集合は交わりをもたないので、はじめの集合の要素(または部分集合)である魂も、けっして死を寄せ付けないというのである。
 これも、証明1と同じ、論点先取の誤謬に陥っている。あるいは同義反復といってもいい。ソクラテスの頭のなかでは、「生命をもたらすもの」という概念と「魂」という概念とがはじめから結びついているので、魂が死を寄せ付けないのは自明のことなのである。しかも、この場合、「生命をもたらすもの」という概念のうちには、「常に」「いつも」「必ず」「永遠に」というニュアンスが込められている。しかし、魂が常に永遠に生命をもたらすものであるかどうかこそが、まさにここで証明しなくてはならないことであった。
 以上で、「魂の不死・不滅」に関するソクラテスの「証明」は、すべて証明の体をなしていないことが明らかになったと思う。
 だが私は、ソクラテスの証明が不備で幼稚であると指摘することで、プラトンの思想的モチーフそのものを殺ぐことになったのであろうか。けっしてそうではない。
 むしろ私は、『パイドン』を著したプラトンが、ここまで無理な苦心を重ねて若者たちを折伏しようとしたところに、彼の悪魔的・詐欺的な情熱のおそろしさを感じるのである。その情熱の直接的な動機は次のようなところに認められよう。

①魂の不死・不滅を信じさせること
②思惟によってしかとらえられない「真実在」「ものそのもの」「イデア」の存在を信じさせること
③①と②とは、必然的な連関をもち、いっぽうが叶わないなら、他方も崩れることを認めさせること


 そしてすでに述べたように、これらの動機は、あきらかに倫理的なものである。『パイドン』におけるプラトンは、「知への愛」(哲学)を人間の営みのうちで最も優れたものとし、そのほかの現世的な営み(生理的欲望、資産を増やす欲望、名誉を得たいとする欲望などを達成しようとすること)の価値をほとんど認めていない。この浮世離れした「哲学」なるものに、魂がこの世で魂であることの一切の価値を集中させるラディカリズムは、「物事を正しく認識し、真理を徹底的に求める」という常人にはけっして叶わぬ狭い通路を指し示しながら、それ(真理の追究)なくしては人間の道徳(善)は成り立たないという、固い信念を表現している。つまり、真理の追究を旨とする「哲学」という名目は、ここでは道徳的な「善」の実現という目的のために利用されているのである。
 あの時代に「哲学」を追究することだけが、道徳的な「善」への唯一の道であるという信念を貫くこと、「善」の実現のためにほかのことは全部捨てて「知識への愛」だけに集中せよと説くことには、ある意味で歴史的・社会的な必然があったかもしれない。
 しかし現実にそれをなすためには、妻子への愛、私的生活への物質的・精神的な配慮、社会的役割を果たすこと、などをすべて捨ててかからなくてはならない。ちょうどイエス・キリストが、集会場に身内の者がやってきたことをだれかによって知らされたとき、「私の家族とはだれか。ここに集まっている者たちこそ私の家族である」と喝破して、血縁的な絆の意義を否定し、自分の思想の共鳴者だけをメンバーとして認めたように。
 共同態的な関係を否定することによって思想を屹立させること、これは、原理的な思想のもつ一種の宿痾のようなものだ。むろん、ある程度裕福な当時の自由市民の一部には、浮き世の雑事に関心を払わずに、知への愛にひたすらかまけることが可能であったろう。だが、問題はそういうことが可能であるか不可能であるかではない。イデアの原理を用いて道徳的な「善」の原理を基礎づけようとすること、その純粋性自体が、巨大な思想的倒錯であり、現実的な価値を転倒させるたくらみなのだ。
 ところで、先に記しておいたように、ソクラテスは若いころ、自然研究に熱中したが、その方法に満足できず、アナクサゴラスの「万物の原因は知性である」という説に触れたという。しかしこれにも失望を感じた彼は、事物の真相を知るための自己流の考え方を編み出した。それは美そのもの、善そのものなどのイデアが確実に存在するという前提から、物事がかくある根拠や原因を説明するという方法である。
 この部分は『パイドン』の中で非常に重要な意味をもつので、これについて考察を進めるために、たいへん長い引用になるが、直接抜き書きしてみよう。

 ところで、いつか、ある人が、アナクサゴラスの書物--―ということだったが、その中から、万物を秩序づけ万物の原因となるものは知性(ヌウス)であるという言葉を読んでくれるのを聞いて、ぼくはこの「原因」に共鳴した。知性を万物の原因であるとするのは、ある意味では、結構なことだと思えたからだ。
 そして、もしそうなら、この秩序を与える知性は、それが最善であるような仕方で万物を秩序づけ、個々の事物を位置づけるであろうと考えた。それゆえ、個々のものについて、それがどのようにして生じ、滅び、存在するかの原因を発見したいと望むなら、その事物がどのような仕方で存在し、あるいはどのような仕方で何らかの働きを受けたり与えたりするのが、そのものについて最善であるかを、発見しなければならない。
 この考えによると、人間自身についても、また、そのほかの何についても、何が最善であり何が最上であるかということ以外には、人間にとって探求するに値するものは何一つないことになる。そして、それを探求する同じ人は、また必ずや、何が悪であるかをも知るはずだ。善と悪についての知識は、同一の知識なのだから。こう考えてぼくは、事物の原因についてぼくの望むような仕方で教えてくれる人をアナクサゴラスに見出したと思って、喜んだわけだ。

 つまり、それぞれ(大地や諸天体のあり方――引用者注)がこのような働きをしたりされたりするのがなぜより善いことなのかを、たずねようと決心した。なぜなら、彼が、これらのものが知性によって秩序づけられたと言う以上、現在のあり方が最善なのだということ以外の原因をそれらに与えるとは、ぼくには考えられなかったのでね。彼は、それらそれぞれに個々の原因を、また、全体に共通な原因を与えるにあたって、それぞれにとって最善なるもの、全体にとって共通な善きものを明らかにするであろうと、ぼくは考えた。

 大いなる希望の重みから、ねえ君、ぼくは転落していったのだ。というのはね、読みすすんでゆくにつれて、ぼくが見出した男は知性など全然使ってもいないし、事物を秩序づける原因を知性に帰することもなく、空気とかアイテールとか水とか、そのほかたくさんのくだらないものを原因としていたのだよ。
 それはちょうど、こう言ったら、いちばん近い譬えになるだろう。つまり、だれかが、ソクラテスはそのすべての行為を知性によっておこなうと言っておきながら、ぼくの行為の一つ一つの原因を説明する段になると、こんなふうに言うのだ。つまり、ぼくがいまここに坐っている原因については、まず、ぼくの肉体は骨と腱からできていて、骨は硬くて関節によってたがいに分かれ、腱は伸び縮みして肉や皮膚といっしょに骨をつつみ、この皮膚がこれら全部がばらばらにならないようにまとめている、そこで、骨はそのつなぎ目でゆれ動くから、腱を緩めたり縮めたりして、ぼくはいま肢を曲げることができ、そしてこの原因によって、ぼくはここにこうして膝を曲げて坐っているのだと。あるいはまた、君たちとこうして話し合っていることについても、彼は別の同じような原因をあげるだろう。つまり、声とか、空気とか、聴覚とか、その他、無数のそのようなものを原因だとして、真の原因を語ろうとはしないのだ。
 真の原因とは、すなわち、アテナイの人たちがぼくに有罪の判決を下すのを善しとし、それゆえぼくのほうもここに坐っているのを善しとし、とどまって彼らの与える罰を受けるのがより正しいと思ったという、このことなのだ。なぜなら、誓って言うが、もしぼくが逃亡するよりも国の命ずる罰にしたがうことのほうがより正しく立派なことだと考えなかったとしたら、思うに、これらの腱や骨は、それこそ最善なりとする考えに動かされ、ずっとまえにメガラかボイオティアあたりに行っていたことだろうからね。
 しかし、そのようなものを原因と呼ぶのは、まったくばかげたことだ。もしだれかが、それらのものをもつことなしには、つまり骨とか、腱とか、その他ぼくのもっているいろいろなものをもつことなしには、ぼくは自分の考えを実行することができないと言うのなら、それはほんとうだろう。しかし、ぼくが行為するのは――しかも知性によって行為するのであるのに――そのようなもののゆえにであって、最善のものを選んでではないというのなら、それはまったくもって、いいかげんな議論と言うべきだろう。真の原因であるものと、それがなければ原因が原因たりえないものとを、区別することができないとはね。多くの人たちが、まるで暗闇を模索するようにして、不当にも原因という名で呼んでいるものは、じつは、このようなものではないかとぼくには思われる。


 万物が一定の秩序のもとにかくある原因は「知性」であると言うときのアナクサゴラスの「知性」とは、おそらく神々のそれを指すのであろう。自然の法則が整然と成り立つ様は、神々がそれを司っているからだ、という以外に、説明のしようがない。これは現在のように自然科学が発達した時代でも同じことで、自然科学は物質の運動や反応について、その法則的な整合性そのものを記号としての言語を用いて驚くほど精緻にすくい取ってはいるが、「なぜそうあるのが善いことなのか」については沈黙している。
 たとえば、万有引力の法則が「なぜ」成り立つのかはわからないし、ある速度をもつ物体のエネルギーは速度の二乗に比例するという法則が成り立つことが「なぜ」善いことなのかについて説明しようとする科学者はいない。DNAが螺旋状配列をしていることが「なぜ」善いことなのかもわからない。
 ソクラテスは、ここで、アナクサゴラスに無理な要求を突きつけているというべきである。アナクサゴラスは、自然界や生命界におけるさまざまな現象の機序や過程を記述しただけなのであろう。そしておそらくそれらをそうあらしめているのは、神的な「知性」であると考えたにすぎない。神的な「知性」をもたなくとも、物質の運動や反応の因果関係は人間でも追認できるから、そこに一定の法則性を見出すところまでは可能であり、しかもそのことによって、人間は自然を加工して生活に役立たせることができる。
 つまり自然科学は、さまざまな物理化学的な現象に見られる法則性を記述することを通して、物質を操作する技術に結びつくので、有用性という意味では大いにその価値を発揮する。ソクラテスの座っているベッドは、人間が寝たり座ったりするのに都合よくできているであろうし、ソクラテスの身体の構造もまた、ベッドに座りやすくできているであろう。
 ただ、ここでソクラテスがアナクサゴラスを批判しているように、「原因」という概念を「なぜそうあること、そうすることが『善い』ことなのかを説明してくれるもの」というように規定するならば、アナクサゴラスの説明(現代でいうなら、自然科学的な原因規定の記述)は、たしかに「真の原因」とは言えないことになる。骨や腱や筋肉の、また一般的に身体の合目的的なしくみを解き明かすことは、人間の意志や行為が思い通りに運ぶことにとっての単なる契機であり、それらを支えるハードシステムにすぎない。
 現在隆盛を極めている脳科学にしても、それは同じことで、一部の脳科学者たちは、脳神経系の構造と、その構造を通して実現されている電気化学的な反応のプロセスとを可視化することによって、私たちの「心」の動きがなぜそのようであるかが解明されるに違いないという確信を抱いているようである。しかし私にいわせれば、これは原理的な錯覚である。
 なぜなら、第一に、脳神経系の構造や反応プロセスの可視化は、被験者以外の第三者の視界に訪れる知覚と認識の現象であるから、そこにまた被験者当人のそのときの心のはたらきとは別種の知覚・認識過程、つまり「心」の過程が入り込む。それは、被験者の心のはたらきそれ自身とは別のものであって、いわば外部からのなぞりであり、トレースにすぎない。脳神経のはたらきの生理学的・物理学的・化学的プロセスを可視的に客観化することは、どれほど精密になされたとしても、それらのプロセスが、なぜある特定の意志や感情や知覚として実現するのかを説明することはできない。
 また第二に、可視的となった脳の構造や反応のプロセスは、じつはある心のはたらきの「原因」ではなく、心身に同時並行的に起こっている現象にすぎない。したがって、脳の現象の可視化から心の解明へという矢印は引けないのである。
 なるほど、ちょうどソクラテスがそこに座っていられるのは骨と腱とがその持ち前の機能を座るにふさわしくはたらかせていられるからなのと同じように、脳の言語中枢が侵されれば、言葉を話すという心の機能は果たせなくなる。しかし脳の言語中枢は、「それがなければ原因が原因たりえないもの」(機会、条件、契機)に過ぎず、ソクラテスの言わんとする「真の原因」ではない。「真の原因」はこの場合、その人がある言葉を発しようとするとき、なぜその言葉を発しようとするのかという「意」そのものの中に求められなくてはならない。
 たとえば私がモーツァルトの音楽に感動しているとする。この心のはたらきの「原因」なるものは、脳の特定部位の電気化学的反応などにあるのではなく、すぐれて文化的・精神的な交流のプロセスそれ自体にある。それはモーツァルトが創り出した「美」そのもの、テクストそのものの構造解明と、鑑賞者である私の美的感覚がいかにして経験的に養成されたのかという過程の解明との接点を見出すことによってしか究明できない。
 この接点の確定は、文化論、芸術論的な方法の確立を待ってはじめて可能なことであり、自然科学の方法の出る幕ではない。そのかぎりで、アナクサゴラスは「真の原因であるものと、それがなければ原因が原因たりえないものとを、区別することができない」というプラトン(ソクラテス)の指摘は、まことに的を射たものである。
 ちなみに、巧みな整理屋で絶妙なバランス感覚の持ち主であったアリストテレスは、プラトンのこの「唯一の真なる原因=善のイデア」の解明に哲学の真の動機を求める一元性を批判的に相対化して、原因と呼ばれるものをさまざまに分類し、質料因や始動因という概念を設定することで、自然科学的な因果論理の思考法にもじゅうぶんな余地を与えた。アリストテレスの存在が、科学的な探求の礎と見なされるのもゆえなしとしないであろう。そして、ここでソクラテスの主張する「真の原因」は、アリストテレスの整理に従えば、形相因に相当するであろう。
 ところで、ソクラテスは、真の原因とは、なぜ物事がかくかくのあり方をしていることが「善い」ことであるのかを解明するものでなくてはならないという考え方に固執している。万物の根源は何かという問いから始まったソクラテス以前の哲学では、自分たちが存在しているこの世界全体のメカニズムを解明するところに主力が注がれていた。ところがソクラテスは、そういうことを問題にするのは、真の哲学ではなく、方向性を誤っていると考える。そして彼は、事物を秩序づける原因を、空気やアイテールや水などの「くだらないもの」に求めるのは、ほんとうの原因探しではないとして、一蹴している。
 いったいここでは何が行われているのだろうか。
 ソクラテスは、はじめのうちは、万物を秩序づけている原因が何であるかを知ろうとする在来の哲学的関心を一応そのまま受け継いでいる。大地や天体がなぜかくかくのありかたをしているのか、そしてそうあることがなぜよいことなのかを知りたいと語っているからだ。
 ところが、話が進むにしたがって、「なぜかくあることがよいことなのか」という関心の対象を、しだいに「人間そのもの」に移行させている。はじめのほうで、「人間自身についても、また、そのほかの何についても、何が最善であり何が最上であるかということ以外には、人間にとって探求するに値するものは何一つないことになる。」という断定がなされているが、ここですでに「人間自身について」という言葉が鮮明に打ち出されている。とはいえ、まだここでは、「また、そのほかの何についても」と付け加えていて、既存の哲学の発想に対して、一応の敬意を払っていると言える。しかし、書き手プラトンの本意では、もはや「人間自身」のほうに軸足が移っており、「そのほかの何か」は、じつは蛇足なのである。
 また、この部分ではまだ、「何が最善であり何が最上であるか」という言い回しにおける「最善」という言葉遣いにしても、「よい」という言葉一般のもつ多くの含みを保存している。最善、最上と書き並べることで、そのことが推定される。
 しかし、ソクラテス自身がここに座っていることがなぜ「よい」ことなのかというたとえ話を持ち出す段になると、もはや、万物がかくあることの原因が何であり、なぜそれを原因とするのが「よい」ことなのかという問いは、ほとんどソクラテスの関心の埒外に追いやられるのである。
 なぜならば、万物がこのようにあることがなぜ「善」であるのかという問いと、「私」がここに座って死刑を待ち受けていることがなぜ「よい」ことであるのかという問いとの間には、千里の径庭があるからである。前者において問題とされているのは、神々の創造の秩序(自然法則)の意義を求める問いにかかわることがらであり、これに対して、後者において問題とされているのは、人間が作った秩序が、まさに人間同士の生きる社会において適切であるか否かという問いなのである。言い換えると、この、後者の問いは、神々の創造の秘密とは離れて、ほとんど純粋に、人間に自己責任を課さなくてはならない領域の問題、すなわち、倫理的な問題に転化しているのである。
 かくして、「真の原因とは、すなわち、アテナイの人たちがぼくに有罪の判決を下すのを善しとし、それゆえぼくのほうもここに坐っているのを善しとし、とどまって彼らの与える罰を受けるのがより正しいと思ったという、このことなのだ。」と言い切るにおよんで、「善し」という言葉は、完全に倫理的な意味のそれに限定される。
 同時に、哲学が目指すべき課題は、「万物の根源」などではなく、「われわれ人間がいかにすれば善く生きられるか」という問いに答えることだけだと断定されているのである。 つまりこのくだりで行われていることは、「哲学」が目指すべき対象と課題についての、まことに大胆な「視線変更」なのである。プラトンは、哲学が目指すべき対象はわれわれ人間自身であり、その究極の課題は、人間は自らの魂にいかなる配慮を施せば道徳的な意味で「善く生きる」ことができるかという、すぐれて倫理学的なテーマに終始すると言っているのである。



倫理の起源14

2013年11月18日 20時19分30秒 | 哲学

倫理の起源14




次に『パイドン』を調べてみよう。

 周知のように、『パイドン』は、青年の心を惑わしたとして死刑の判決を受けたソクラテスが、死の間際に彼の死を惜しんで集まった友人や弟子たちの前で、自分が死んでいくことは少しも哀しいことではなく、むしろ魂が汚れた肉の世界を離れて永遠のふるさとに帰っていくことなのだから、喜ぶべきことなのだという説をねばり強く展開した作品である。
 一編の主題は、ひとことで言えば「魂の不死と不滅」の証明にあると言えるが、この作品では、前二作に比べて、現世に対するイデア世界の優越性がさらに強調されている。この優越性を強調することは、ソクラテス(プラトン)にとって、単に認識論的な問題として「魂の不死」や「イデア世界の実在」が真実であるからという理由だけではなく、倫理学的に重要な意味をもっていた。
 というのは、作品の終わり近くになって(57節以下)、ソクラテスは、魂が不死・不滅であればこそ、われわれはこの世にある間に魂に対する真剣な配慮をないがしろにしてはいけないという道徳的な教説を、しきりに展開するにいたるからである。
 それは、感覚で把握できるかぎりの世界をはるかに超えた大地全体のモデルを示すことによってなされる。つまり、魂が可視的な世界から不可視の世界にまでずっとその歩みを続ければこそ、死後の歩みが生前の行状によって善くも悪くもいかようにも変わりうるゆえに、生きている間に身を清く正しく保っておかなくてはならないというわけである。
 これは、世界の多くの宗教に共通した因果応報説的な論理だが、ソクラテス(プラトン)は、宗教家としてではなく、まさに哲学者として、人が道徳的に生きるべき根拠を、「魂の不死と不滅」という事実から引きだしてこなくてはならなかった。言い換えると、この問題を論理的に証明してみせることが、彼(ら)にとって必須の課題だったのである。『パイドン』におけるプラトンは、肉体の快楽や欲望の追求に明け暮れる「醜い」人間界に、もしかろうじて倫理性が成り立つとすれば、その成立の可能性は、一にかかってイデア世界の厳たる存在と、その世界をわれわれが味わいうる条件としての「魂の不死・不滅」にこそあると考えたにちがいない。
 作品をソクラテスの論説という面のみに限ってていねいに追いかけてみると、全体を便宜上次のように五つに区分するのが適切に思われる。

①4節から13節まで。
 ここでは、哲学者はなぜ死を怖れないのかが論じられる。
 哲学者は、ただひたすら死ぬこと、死をまっとうすることを目指しており、それは、魂を肉体の結びつきからできるだけ解放しようとするからである。肉体的なものに煩わされていれば、われわれは真実に触れることができない。ただ純粋な思惟のみによってこそ真実在に触れることができるのだが、生きているうちにはそれは不可能である。
 死によって魂は肉体を離れ、純粋に魂だけになり、生きているうちにできなかったことが可能となるのだから、それこそは哲学者の望むところである。生きているときにできるだけ死に近くあるようにつとめてきた者が、いざその死が訪れたとき怖れたり嘆いたりしては、滑稽ではないか。死に臨んで嘆く者を見たら、それはその男が知を愛する者ではなくて肉体や金銭や名誉を愛する者であることの証拠ではないか。

②14節から34節まで
 ここでは、「魂の不死」の証明が三つなされる。
〔証明1〕およそあらゆる相反する性質を持つものは、一方から他方が生ずるというようにできている。小さいものが大きくなる、あるものが悪くなるのは善いものからである等。
 ところが生の反対は死である。ゆえに死んでいるものから生きているものが生ずるのであり、生きているものから死んでいるものが生ずるのである。
 しかもこれは循環をなしている。なぜなら、いったん死ぬと死者はその状態にとどまってふたたび生き返らないのだとすると、すべてはやがて死に絶えて、生きているものは何一つなくなってしまうから。したがって魂は不死である。
〔証明2〕学んで新しい知識を得るということが可能なのは、じつは想起による。ところである知識を想起するには、それをいつか以前に知っていたのでなければならない。われわれが学ぶということは、もともと自分のものであった知識を再把握することである。 たとえば、互いに等しく見える事物と等しさそのものとは同じではない。等しい事物を初めて見たときに、等しさそのものよりは劣っていると考えるとすれば、あらかじめ等しさそのもの(という規準)を知っていなければならない。このことは、美そのもの、善そのもの、正義そのものなどについても同様である。だからわれわれはこれらすべてについての知識を生まれる前に得てしまっていたのでなければならない。
 ゆえに魂は、肉体に宿る以前に、知力を持って存在していたのである。真、善、美など、これらのイデアが存在することと、魂がわれわれの生まれる前にも存在したこととは同じ必然性をもっていて、前者が否定されれば後者も否定されるのである。
〔証明3〕同一で変化しないものは非合成物であり、変化するものは合成物である。真実在は前者に当たり、それにあずかるさまざまな事物(たとえば美しい花)は後者に当たる。また、真実在は不可視であり、さまざまな事物は可視的である。前者の単一で不変で不可視なものは、思惟によってしかとらえられず、後者の合成され、移ろいやすく可視的なものは知覚によってとらえられる。
 ところで魂は、肉体に比べて、それ自身不可視的であり、肉体から離れて自分だけで何かを考察する場合には、純粋で永遠で不死で不変な存在(真実在)へと赴き、常にそれと共にあろうとする。また魂は、肉体に比べてより神的でもある。魂は、神的で、不死で、英知的で、単一の形をもち、分解することなく、常に不変で、自己同一的であるものに最もよく似ている。肉体はこれと反対である。ゆえに魂は不死である。
 この三つの証明のあと、肉体が魂にとっていかに重荷であるか、また哲学だけがこの肉体という牢獄の巧妙さを知っており、哲学者の魂は、快楽や恐怖や欲望を強く感じるとき、その結果としてうけとる悪こそは最大の悪であると考えるなどのことが述べられ、肉体からの魂の解放こそが哲学者の仕事であることが強調される。

③35節から43節まで
 ここでは、聞き手のシミアスが呈した疑問にソクラテスが答える。
 シミアスの疑問は、「魂は一種の調和であるといわれているが、もしそうなら、その調和を作り出している諸部分が狂いを示したら、魂は不調和となり死んでしまうのではないか。しかも調和を作り出しているのは、楽器などの物質的なものである。すると、物質的なもの(肉体)のほうが魂よりも長生きするということにならないだろうか」というものである。
 これに対してソクラテスは、「魂=調和」説そのものが誤りであることを説く。いわく、すでに魂が肉体よりも先に存在していたことをわれわれは認めたのだから、魂は肉体の構成要素からなる一種の調和などではない。またある魂は知性と徳とをもち、善き魂と呼ばれ、別の魂は愚かさと不徳とをもち、悪しき魂と呼ばれることがあり得るが、こうした魂のさまざまなあり方を考慮に入れた上でなお、魂が調和であるという説を支持しようとすれば、調和が自分の中に不調和を分けもつというおかしな結論に導かれてしまう。

④44節から56節まで
 ここでは、聞き手のケベスが呈した疑問にソクラテスが答える。
 ケベスの疑問は、「あるひとつの肉体から魂が離れるとき、その魂がいくら一時的に不死で長生きであったとしても、多くの肉体に宿るうちに、ついには疲れ果てて力を使い果たし、最後の肉体が死ぬとき滅んでしまうということはありうるのではないか。そうすると、自分の魂がこのたびの肉体からの分離において完全に滅びてしまいはしないかと、常に怖れなければならないのではないか」というものである。
 これに対してソクラテスは、その問いに答えることは容易ではないとした上で、長考思案の後、まず自分の研究履歴を語る。
 自分は若いころ、いまでいう自然科学的な探求に熱中したが、その研究は、事物の合成や分解や変化の原因についての説明の点で彼を納得させなかった。たとえば1と1とが近づけば2になるというとき、両者が近づくことがその原因だとされるが、他方では1を分割することによっても2が生じるので、今度は分割が原因だとされる。
 こういう説明に満足しなかったソクラテスは、万物の原因は知性であると唱えているアナクサゴラスの説を学んでみたが、それにも失望した。アナクサゴラスは、ある事象の原因を、その事象を事象たらしめているさまざまな可視的契機と取り違えていて、事物を秩序づける原因を、空気とかアイテールとか水などのくだらないものを原因としていたからである。
 そこでソクラテスは、事物の真相を知るために新しいやり方を考えた。それは、純粋な美そのもの、善そのもの、大そのものなどが確実に存在するというロゴスを前提として、その前提と一致するものを真とするというやり方である。要するにイデアの存在から出発して物事がかくある根拠や原因を説明するという方法である。これを認めてくれるなら、魂の不滅を証明することができると彼は言い、ケベスがこれに同意する。
 ちなみに、この箇所(前の三つのパラグラフ)は、プラトンの根本的発想を知る上できわめて重要である。そればかりではなく、哲学というものが本来何を探求する学であるのかという点について、ソクラテス(プラトン)が、それまでの考え方に対するラディカルな「視線変更」を断行しているという意味でも見逃してはならない急所なのである。しかしこれについては、後に述べる。
 ともあれ、以上の前提を納得してもらった上で、ソクラテスは数を比喩に用いて、それを「魂の不滅」の証明に援用する。
〔証明4〕たとえば3は「奇数そのもの」ではないのに、奇数という性質を持つが、それと反対の性質である偶数をけっして寄せ付けない。しかし3と2とは別に反対ではない。このように、相反する性質どうし(奇数そのものと偶数そのもの)が互いに相手を受け入れないだけでなく、相反する性質を持つ特定の事物(3)も、たとえ自分と反対ではなくとも、それが自分と反対の性質をもっているような事物(2)であれば、それをけっして受け入れない。
 さて、「魂」は、肉体に生命をもたらすという性質を持つが、生命と反対の性質を持つものは「死」である。このようにして、ちょうど「3」が「2」を、自分と反対の性質を持つものであるがゆえに受け入れないのと同様に、「魂」は「死」(という性質)をけっして受け入れないのである。ゆえに魂は不死であるばかりでなく、不滅でもある。
 なおこの証明の途中で、聞き手のだれかから、〔証明1〕では、小さいものから大きいものが生ずるように、一般に相反するものにとって、それぞれが自分と反対のものから生ずるといわれていたが、いまの説明はこれと矛盾するのではないかという異議が出される。これに対してソクラテスは、あの時は反対の性質を持った「事物」について語っていたのだが、いまはこの反対の「性質そのもの」について語っているのだと弁明する。何となく屁理屈めいた弁明に聞こえるが、プラトンのイデア原理からすれば、ここでの弁明は妥当である。

⑤57節から63節まで
 ここでは、ソクラテスは、先に触れたように、われわれにとって可視的な世界を超えた、大地全体のイメージを神話的に繰り広げてみせる。そして死後、魂は、生前の行状に応じて、いろいろなところに送り込まれ、苦を味わったり幸福になったりすることが説かれる。委細は省略するが、これは世界のどこにも見当たるような、一種の因果応報説である。ソクラテスが若い弟子たちに対して垂れる最後の訓辞は以下の通りである。

 で、こういうわけだから、その生涯において肉体にかかわるもろもろの快楽や飾りを、自分とは異質的なもの、むしろ害をなすものとして、それらから離れ、学ぶことの喜びに熱中し、魂を異質的なものによって飾りたてたりせず、魂自身の輝きで、つまり、節制、正義、勇気、自由、真実などで飾り、そうして運命の呼び声に答えてハデスへ旅立つ日を待つ人は、自分自身の魂について、心を安んじてしかるべきだ。

 以上見てきたように、『パイドン』におけるプラトンの筆致は、死の問題を扱うに至って、現世否定的な色合いを濃厚に示す。
 まず①において、哲学者だけが特権者として聖別され、他の現世的な欲望に追われてこの世に未練を残す者たちは、はっきりと、人間として低い存在であると規定される。哲学者(知を愛する者)と称する存在が、ふつうの人々とちがって、死を怖れ悲しまないのは、ふだんからふつうの人々よりも死に近いところにおり、死に親しみ、そして死とは何であるかについて絶えず思いをめぐらせているからというのである。これは、死が何であるかを考えようとしない人々よりも、死について考えているぶんだけ、哲学者のほうが偉いと言っているのと同じである。
 この種の自己権威づけは、たとえば日本の仏教などにも見られる現象であるが、仏教の場合は、寂滅涅槃の境地を最上とするので、そこに到達できるものならばだれでも仏になれることになっている。厭離穢土を唱える点では、ソクラテスと共通しているけれども、哲学者・僧侶(いまで言えば知識人)という存在の特権性を、これほど露骨に強調するわけではない。念仏さえ唱えればどんな凡夫でも阿弥陀様に迎えられて浄土にいけるという思想さえある。
 また仏教は、本来、魂の不滅を積極的に主張することはなく、死後、魂が寂滅せずにこの世の境界をさまようことは、むしろ好ましくないことと考える。生死の繰り返し、輪廻転生は、この世から容易に解脱できない魂の迷いをあらわしているのである。
 これに対して『パイドン』におけるプラトンの「哲学者こそ死を歓迎する」という思想は、二つの点で、仏教などとはちがった、非常に強い野心と情熱によって裏付けられている。
 ひとつは、この世では、金儲けや色欲や名誉欲に執着する人間に比べて、知識を求める存在だけが立派なのだという価値観を貫くことである。このことによって、生来の哲学者的種族は、自己価値を認められて救いを得ることになる。
 そしてもう一つは、ふつうの人々は、感覚によってたしかめられる世界を実在と信じているが、それはまったくの誤りで、純粋な思惟によって把握できる世界だけが真の実在世界なのだという信念を押し通すことである。
 前者が道徳的価値観の一例(ハイデガーと同じように誤った一例だが)であることは見やすい道理だが、じつは、すでに述べたように、またのちにもっと詳しく説くように、後者の信念も、ふつう哲学というものがそうであると思われているごとく単なるニュートラルな世界認識の是非を扱っているのではなく、いかにもプラトンらしい倫理学的関心と深く結びついているのである。そしてそのように、哲学の意匠をまといつつ道徳を語るという形式にこそ、プラトンの「思想の詐欺師」たる面目が躍如としているのだ。
 彼のこの野心と情熱は、②以下の、魂の不死と不滅を論理的に「証明」するという方法に顕著にあらわれている。魂の不死と不滅が、哲学的・論理的に証明されれば、道徳の根拠は、まさしくプラトニズム的に基礎づけられることになる。なぜなら、魂がもしほんとうに不死であり不滅であるなら、人はどうせ死んでしまうのだから現世で何をやろうと自由だという考えは通用しなくなるからである。
 さて問題はその「証明」である。私の考えでは、この四つの証明のうち、どれひとつとして論理的証明の名に値するものはない。一つ一つ吟味してみよう。

 まず〔証明1〕では、あらゆる相反する性質を持ったものは、小さいものから大きいものが生じ、眠っている状態から覚醒が生じ、そして逆も真というように、一方から他方が生ずるという具合になっている。よって生から死が生ずるように、死から生が生ずるのであると説かれていた。これは、あとでソクラテス自身がことわっているように、反対の性質を持った「事物」について語られている。
 とすれば、この場合、何か特定の「事物」の存在がまず前提として疑いなく認められていて、その上でその「事物」の状態の変化を語っていることになる。たとえば小さかった子どもが大きな大人になる、というように。そしてむろんここでは、その「事物」そのものの自己同一性自体は疑われていない。小さかった健ちゃんも、大きくなった健さんも、同じ健である。
では、生と死の場合はどうであろうか。生から死が生じ、死から生が生ずると言い切るためには、特定の魂という「事物」が、まず肉体が生きているか死んでいるかの区別とは無関係に存在し、しかるのちその魂の状態が、互いに反対のものに移行するということが認められなくてはならない。言い換えると、魂がまずあって、それが肉体に宿ったり離れたりするという相反する状態変化を経験するのでなくてはならない。
 ところが、まさに魂という「事物」が、肉体の生死という状態とは無縁に存在するかどうかということこそ、ここで証明しなくてはならないことのはずであった。したがって、死から生が生ずるかどうか、つまり魂が生まれる前から存在していたかどうかは、証明不可能なのである。ソクラテスは論点先取の誤謬を犯していると言える。
 次に〔証明2〕では、知らなかったはずの知識が教えや気づきによって得られるのは、もともと持っていた知識がそのとき「想起」されるからにほかならず、この事実は、魂が生まれる前から知力をもって存在していたことの証拠となると説かれていた。
 ところが、この名高い「想起説」そのものが、一種の仮説である。ソクラテスは、知識が獲得されることの不思議さについて永年思索を重ねてきた後にこの仮説にたどりついたのだが、これは、イデア論者におあつらえむきの仮説だと言える。そのことをソクラテス(プラトン)はじつのところよく知っていて、この「証明」の箇所では、次のように述べている。

 ぼくたちがいつも話している美とか善とか、すべてそのような真実在が存在するならば、(中略)それらの真実在が存在すると同じように必然的に、われわれの魂も、われわれが生まれる前に存在していたことになる。しかし、もしそれらの真実在が存在しないならば、いまの議論はまったくなりたたないことになるだろう。(中略)そして、これらの真実在が存在するということと、われわれの魂がわれわれの生まれるまえにも存在したということとは、同じ必然性をもっていて、前者が否定されれば後者も否定されるのではないか。

 この記述から察しられるのは、「イデア=真実在」という超経験的な観念が、一種のあらまほしき「理念」あるいは「ゾレン」であって、ソクラテスみずからも、この世の人間のひとりであるかぎり、どれほど純粋な思惟のうちに沈潜したとしても、それの存在を明瞭にはたしかめられ得ないひとつの作業仮設であるということだ。
 問題とすべきは、ではなぜソクラテス(プラトン)がこうした理念(仮設)を立てたのか、その動機は何かということなのだが、それは簡単にいえば、魂は不死なのだから、生きているうちに魂をよく世話することを怠ってはいけないという、すぐれて倫理的な動機なのである。しかしこれについては、のちにもっと詳しく論じる機会があろう。
 ちなみに言っておくと、ここでのソクラテスの困惑にみちた自己暴露は、カントが純粋理性の二律背反を説き、神の存在や世界の始まりなどは純粋理性によっては証明することができず、それらは実践理性の要請として認められなくてはならないとして、純粋理性(認識能力)に対する実践理性(道徳への配慮)の優位を説いたのと、同じ思考の範型であると考えられる。だがこれも、カントについて触れるときにもう一度問題にすることにしよう。
 とまれ、ソクラテス自身も自己暴露しているように、「魂の不死」説と「イデア」説とは、互いが互いを支える形になっていて、いっぽうが崩れれば、他方も根拠を失うのである。したがって、想起説を媒介としたこの「証明」も、論理的には証明ではないことになる。
 なお、想起説そのものについてであるが、経験を超えた世界の存在を信じることができれば、想起説はたしかに魅力的なものとなる。しかし超経験的世界を想定しなければ、知識の獲得・発見は根拠づけられないだろうか。
 この想起説を人々に納得させる方法として、ソクラテスが年端のいかない子どもに、ある正方形の2倍の面積を持った正方形を書き示すにはどうしたらよいかという問題を出し、その子がちょっとしたヒントで見事に解いてみせたというエピソードが有名である(答は、対角線を一辺とする正方形を書けばよい)。
 しかし、この例でも言えることだが、その子のなかで未知から発見に至る過程で確認できるのは、人間の知識世界では、言語や図形という物質的なもの(記号)の連鎖によって伝達がなされており、その連鎖を構成している基本要素をその子がすでに経験によって学習し終えているという前提である。それまで持っていなかった知識が根づくのは、人間の経験世界の中で用いられている言語その他の力を彼が徐々に習得し、そのことによって、人間世界で真理とされていることに同化しうる能力が芽生えるからである。基礎的な記号理解がなければ「発見」はありえない。「神的なひらめき」など本当はないのである。つまりここで起きていることは、言語の獲得と生活経験の累積との照合可能な対応関係の成立である。したがって、想起説を持ち出さなくても、経験論的に知識の獲得は説明可能である。