倫理の起源15
つぎに〔証明3〕では、肉体が諸部分の合成であるのに対して、魂は単一であり、肉体に比べて、変化せず、自己同一的で、不可視であることをもって、魂が不死であることの根拠としていた。
しかしここでのソクラテスの説明の仕方は論理としてまったくあいまいである。魂は、単一で、変化せず、自己同一的で、不可視であるものに「似ている」から、不死であるというのである。ここでひそかに思い浮かべられている、単一で、変化せず、自己同一的で、不可視であるなどの特性は、いうまでもなく神のそれである。しかし神が不死であるからといって、神的なものに似ている魂もまた不死であるなどという論理は通らない。要するにこれは出来損ないの三段論法なのである。いわく、大前提:神は不死である。小前提:ところが魂は神に似ている。結論:よって魂は不死である……。
加えて、魂が神に似ているという指摘も疑わしい。なぜなら、人間の魂の中には、少しも神的でない、悪い魂、欠けたところだらけの魂(欲望に目がくらんだ魂)などが存在することを、ソクラテス(プラトン)自身がいたるところで認めているからである。認めているからこそ、プラトンは、魂への配慮という戒律を何よりも重視したのであった。
最後に、〔証明4〕では、数のあり方からの比喩的転用が用いられている。
このやり方は一種の集合論的な証明方法が採られていると考えるとわかりやすい。3は奇数集合の中のひとつの要素であるが、3と2とは別に反対ではないのに、2が偶数集合の中に含まれるという理由によって、3は2をけっして寄せ付けない(同族としない)結果になる。これと同じように、魂は、仮に生命そのものではないにしても、生命をもたらすものの集合に含まれる。ところが生命をもたらすものの集合とけっして相容れない集合は、「死」的な集合である。二つの集合は交わりをもたないので、はじめの集合の要素(または部分集合)である魂も、けっして死を寄せ付けないというのである。
これも、証明1と同じ、論点先取の誤謬に陥っている。あるいは同義反復といってもいい。ソクラテスの頭のなかでは、「生命をもたらすもの」という概念と「魂」という概念とがはじめから結びついているので、魂が死を寄せ付けないのは自明のことなのである。しかも、この場合、「生命をもたらすもの」という概念のうちには、「常に」「いつも」「必ず」「永遠に」というニュアンスが込められている。しかし、魂が常に永遠に生命をもたらすものであるかどうかこそが、まさにここで証明しなくてはならないことであった。
以上で、「魂の不死・不滅」に関するソクラテスの「証明」は、すべて証明の体をなしていないことが明らかになったと思う。
だが私は、ソクラテスの証明が不備で幼稚であると指摘することで、プラトンの思想的モチーフそのものを殺ぐことになったのであろうか。けっしてそうではない。
むしろ私は、『パイドン』を著したプラトンが、ここまで無理な苦心を重ねて若者たちを折伏しようとしたところに、彼の悪魔的・詐欺的な情熱のおそろしさを感じるのである。その情熱の直接的な動機は次のようなところに認められよう。
①魂の不死・不滅を信じさせること
②思惟によってしかとらえられない「真実在」「ものそのもの」「イデア」の存在を信じさせること
③①と②とは、必然的な連関をもち、いっぽうが叶わないなら、他方も崩れることを認めさせること
そしてすでに述べたように、これらの動機は、あきらかに倫理的なものである。『パイドン』におけるプラトンは、「知への愛」(哲学)を人間の営みのうちで最も優れたものとし、そのほかの現世的な営み(生理的欲望、資産を増やす欲望、名誉を得たいとする欲望などを達成しようとすること)の価値をほとんど認めていない。この浮世離れした「哲学」なるものに、魂がこの世で魂であることの一切の価値を集中させるラディカリズムは、「物事を正しく認識し、真理を徹底的に求める」という常人にはけっして叶わぬ狭い通路を指し示しながら、それ(真理の追究)なくしては人間の道徳(善)は成り立たないという、固い信念を表現している。つまり、真理の追究を旨とする「哲学」という名目は、ここでは道徳的な「善」の実現という目的のために利用されているのである。
あの時代に「哲学」を追究することだけが、道徳的な「善」への唯一の道であるという信念を貫くこと、「善」の実現のためにほかのことは全部捨てて「知識への愛」だけに集中せよと説くことには、ある意味で歴史的・社会的な必然があったかもしれない。
しかし現実にそれをなすためには、妻子への愛、私的生活への物質的・精神的な配慮、社会的役割を果たすこと、などをすべて捨ててかからなくてはならない。ちょうどイエス・キリストが、集会場に身内の者がやってきたことをだれかによって知らされたとき、「私の家族とはだれか。ここに集まっている者たちこそ私の家族である」と喝破して、血縁的な絆の意義を否定し、自分の思想の共鳴者だけをメンバーとして認めたように。
共同態的な関係を否定することによって思想を屹立させること、これは、原理的な思想のもつ一種の宿痾のようなものだ。むろん、ある程度裕福な当時の自由市民の一部には、浮き世の雑事に関心を払わずに、知への愛にひたすらかまけることが可能であったろう。だが、問題はそういうことが可能であるか不可能であるかではない。イデアの原理を用いて道徳的な「善」の原理を基礎づけようとすること、その純粋性自体が、巨大な思想的倒錯であり、現実的な価値を転倒させるたくらみなのだ。
ところで、先に記しておいたように、ソクラテスは若いころ、自然研究に熱中したが、その方法に満足できず、アナクサゴラスの「万物の原因は知性である」という説に触れたという。しかしこれにも失望を感じた彼は、事物の真相を知るための自己流の考え方を編み出した。それは美そのもの、善そのものなどのイデアが確実に存在するという前提から、物事がかくある根拠や原因を説明するという方法である。
この部分は『パイドン』の中で非常に重要な意味をもつので、これについて考察を進めるために、たいへん長い引用になるが、直接抜き書きしてみよう。
ところで、いつか、ある人が、アナクサゴラスの書物--―ということだったが、その中から、万物を秩序づけ万物の原因となるものは知性(ヌウス)であるという言葉を読んでくれるのを聞いて、ぼくはこの「原因」に共鳴した。知性を万物の原因であるとするのは、ある意味では、結構なことだと思えたからだ。
そして、もしそうなら、この秩序を与える知性は、それが最善であるような仕方で万物を秩序づけ、個々の事物を位置づけるであろうと考えた。それゆえ、個々のものについて、それがどのようにして生じ、滅び、存在するかの原因を発見したいと望むなら、その事物がどのような仕方で存在し、あるいはどのような仕方で何らかの働きを受けたり与えたりするのが、そのものについて最善であるかを、発見しなければならない。
この考えによると、人間自身についても、また、そのほかの何についても、何が最善であり何が最上であるかということ以外には、人間にとって探求するに値するものは何一つないことになる。そして、それを探求する同じ人は、また必ずや、何が悪であるかをも知るはずだ。善と悪についての知識は、同一の知識なのだから。こう考えてぼくは、事物の原因についてぼくの望むような仕方で教えてくれる人をアナクサゴラスに見出したと思って、喜んだわけだ。
つまり、それぞれ(大地や諸天体のあり方――引用者注)がこのような働きをしたりされたりするのがなぜより善いことなのかを、たずねようと決心した。なぜなら、彼が、これらのものが知性によって秩序づけられたと言う以上、現在のあり方が最善なのだということ以外の原因をそれらに与えるとは、ぼくには考えられなかったのでね。彼は、それらそれぞれに個々の原因を、また、全体に共通な原因を与えるにあたって、それぞれにとって最善なるもの、全体にとって共通な善きものを明らかにするであろうと、ぼくは考えた。
大いなる希望の重みから、ねえ君、ぼくは転落していったのだ。というのはね、読みすすんでゆくにつれて、ぼくが見出した男は知性など全然使ってもいないし、事物を秩序づける原因を知性に帰することもなく、空気とかアイテールとか水とか、そのほかたくさんのくだらないものを原因としていたのだよ。
それはちょうど、こう言ったら、いちばん近い譬えになるだろう。つまり、だれかが、ソクラテスはそのすべての行為を知性によっておこなうと言っておきながら、ぼくの行為の一つ一つの原因を説明する段になると、こんなふうに言うのだ。つまり、ぼくがいまここに坐っている原因については、まず、ぼくの肉体は骨と腱からできていて、骨は硬くて関節によってたがいに分かれ、腱は伸び縮みして肉や皮膚といっしょに骨をつつみ、この皮膚がこれら全部がばらばらにならないようにまとめている、そこで、骨はそのつなぎ目でゆれ動くから、腱を緩めたり縮めたりして、ぼくはいま肢を曲げることができ、そしてこの原因によって、ぼくはここにこうして膝を曲げて坐っているのだと。あるいはまた、君たちとこうして話し合っていることについても、彼は別の同じような原因をあげるだろう。つまり、声とか、空気とか、聴覚とか、その他、無数のそのようなものを原因だとして、真の原因を語ろうとはしないのだ。
真の原因とは、すなわち、アテナイの人たちがぼくに有罪の判決を下すのを善しとし、それゆえぼくのほうもここに坐っているのを善しとし、とどまって彼らの与える罰を受けるのがより正しいと思ったという、このことなのだ。なぜなら、誓って言うが、もしぼくが逃亡するよりも国の命ずる罰にしたがうことのほうがより正しく立派なことだと考えなかったとしたら、思うに、これらの腱や骨は、それこそ最善なりとする考えに動かされ、ずっとまえにメガラかボイオティアあたりに行っていたことだろうからね。
しかし、そのようなものを原因と呼ぶのは、まったくばかげたことだ。もしだれかが、それらのものをもつことなしには、つまり骨とか、腱とか、その他ぼくのもっているいろいろなものをもつことなしには、ぼくは自分の考えを実行することができないと言うのなら、それはほんとうだろう。しかし、ぼくが行為するのは――しかも知性によって行為するのであるのに――そのようなもののゆえにであって、最善のものを選んでではないというのなら、それはまったくもって、いいかげんな議論と言うべきだろう。真の原因であるものと、それがなければ原因が原因たりえないものとを、区別することができないとはね。多くの人たちが、まるで暗闇を模索するようにして、不当にも原因という名で呼んでいるものは、じつは、このようなものではないかとぼくには思われる。
万物が一定の秩序のもとにかくある原因は「知性」であると言うときのアナクサゴラスの「知性」とは、おそらく神々のそれを指すのであろう。自然の法則が整然と成り立つ様は、神々がそれを司っているからだ、という以外に、説明のしようがない。これは現在のように自然科学が発達した時代でも同じことで、自然科学は物質の運動や反応について、その法則的な整合性そのものを記号としての言語を用いて驚くほど精緻にすくい取ってはいるが、「なぜそうあるのが善いことなのか」については沈黙している。
たとえば、万有引力の法則が「なぜ」成り立つのかはわからないし、ある速度をもつ物体のエネルギーは速度の二乗に比例するという法則が成り立つことが「なぜ」善いことなのかについて説明しようとする科学者はいない。DNAが螺旋状配列をしていることが「なぜ」善いことなのかもわからない。
ソクラテスは、ここで、アナクサゴラスに無理な要求を突きつけているというべきである。アナクサゴラスは、自然界や生命界におけるさまざまな現象の機序や過程を記述しただけなのであろう。そしておそらくそれらをそうあらしめているのは、神的な「知性」であると考えたにすぎない。神的な「知性」をもたなくとも、物質の運動や反応の因果関係は人間でも追認できるから、そこに一定の法則性を見出すところまでは可能であり、しかもそのことによって、人間は自然を加工して生活に役立たせることができる。
つまり自然科学は、さまざまな物理化学的な現象に見られる法則性を記述することを通して、物質を操作する技術に結びつくので、有用性という意味では大いにその価値を発揮する。ソクラテスの座っているベッドは、人間が寝たり座ったりするのに都合よくできているであろうし、ソクラテスの身体の構造もまた、ベッドに座りやすくできているであろう。
ただ、ここでソクラテスがアナクサゴラスを批判しているように、「原因」という概念を「なぜそうあること、そうすることが『善い』ことなのかを説明してくれるもの」というように規定するならば、アナクサゴラスの説明(現代でいうなら、自然科学的な原因規定の記述)は、たしかに「真の原因」とは言えないことになる。骨や腱や筋肉の、また一般的に身体の合目的的なしくみを解き明かすことは、人間の意志や行為が思い通りに運ぶことにとっての単なる契機であり、それらを支えるハードシステムにすぎない。
現在隆盛を極めている脳科学にしても、それは同じことで、一部の脳科学者たちは、脳神経系の構造と、その構造を通して実現されている電気化学的な反応のプロセスとを可視化することによって、私たちの「心」の動きがなぜそのようであるかが解明されるに違いないという確信を抱いているようである。しかし私にいわせれば、これは原理的な錯覚である。
なぜなら、第一に、脳神経系の構造や反応プロセスの可視化は、被験者以外の第三者の視界に訪れる知覚と認識の現象であるから、そこにまた被験者当人のそのときの心のはたらきとは別種の知覚・認識過程、つまり「心」の過程が入り込む。それは、被験者の心のはたらきそれ自身とは別のものであって、いわば外部からのなぞりであり、トレースにすぎない。脳神経のはたらきの生理学的・物理学的・化学的プロセスを可視的に客観化することは、どれほど精密になされたとしても、それらのプロセスが、なぜある特定の意志や感情や知覚として実現するのかを説明することはできない。
また第二に、可視的となった脳の構造や反応のプロセスは、じつはある心のはたらきの「原因」ではなく、心身に同時並行的に起こっている現象にすぎない。したがって、脳の現象の可視化から心の解明へという矢印は引けないのである。
なるほど、ちょうどソクラテスがそこに座っていられるのは骨と腱とがその持ち前の機能を座るにふさわしくはたらかせていられるからなのと同じように、脳の言語中枢が侵されれば、言葉を話すという心の機能は果たせなくなる。しかし脳の言語中枢は、「それがなければ原因が原因たりえないもの」(機会、条件、契機)に過ぎず、ソクラテスの言わんとする「真の原因」ではない。「真の原因」はこの場合、その人がある言葉を発しようとするとき、なぜその言葉を発しようとするのかという「意」そのものの中に求められなくてはならない。
たとえば私がモーツァルトの音楽に感動しているとする。この心のはたらきの「原因」なるものは、脳の特定部位の電気化学的反応などにあるのではなく、すぐれて文化的・精神的な交流のプロセスそれ自体にある。それはモーツァルトが創り出した「美」そのもの、テクストそのものの構造解明と、鑑賞者である私の美的感覚がいかにして経験的に養成されたのかという過程の解明との接点を見出すことによってしか究明できない。
この接点の確定は、文化論、芸術論的な方法の確立を待ってはじめて可能なことであり、自然科学の方法の出る幕ではない。そのかぎりで、アナクサゴラスは「真の原因であるものと、それがなければ原因が原因たりえないものとを、区別することができない」というプラトン(ソクラテス)の指摘は、まことに的を射たものである。
ちなみに、巧みな整理屋で絶妙なバランス感覚の持ち主であったアリストテレスは、プラトンのこの「唯一の真なる原因=善のイデア」の解明に哲学の真の動機を求める一元性を批判的に相対化して、原因と呼ばれるものをさまざまに分類し、質料因や始動因という概念を設定することで、自然科学的な因果論理の思考法にもじゅうぶんな余地を与えた。アリストテレスの存在が、科学的な探求の礎と見なされるのもゆえなしとしないであろう。そして、ここでソクラテスの主張する「真の原因」は、アリストテレスの整理に従えば、形相因に相当するであろう。
ところで、ソクラテスは、真の原因とは、なぜ物事がかくかくのあり方をしていることが「善い」ことであるのかを解明するものでなくてはならないという考え方に固執している。万物の根源は何かという問いから始まったソクラテス以前の哲学では、自分たちが存在しているこの世界全体のメカニズムを解明するところに主力が注がれていた。ところがソクラテスは、そういうことを問題にするのは、真の哲学ではなく、方向性を誤っていると考える。そして彼は、事物を秩序づける原因を、空気やアイテールや水などの「くだらないもの」に求めるのは、ほんとうの原因探しではないとして、一蹴している。
いったいここでは何が行われているのだろうか。
ソクラテスは、はじめのうちは、万物を秩序づけている原因が何であるかを知ろうとする在来の哲学的関心を一応そのまま受け継いでいる。大地や天体がなぜかくかくのありかたをしているのか、そしてそうあることがなぜよいことなのかを知りたいと語っているからだ。
ところが、話が進むにしたがって、「なぜかくあることがよいことなのか」という関心の対象を、しだいに「人間そのもの」に移行させている。はじめのほうで、「人間自身についても、また、そのほかの何についても、何が最善であり何が最上であるかということ以外には、人間にとって探求するに値するものは何一つないことになる。」という断定がなされているが、ここですでに「人間自身について」という言葉が鮮明に打ち出されている。とはいえ、まだここでは、「また、そのほかの何についても」と付け加えていて、既存の哲学の発想に対して、一応の敬意を払っていると言える。しかし、書き手プラトンの本意では、もはや「人間自身」のほうに軸足が移っており、「そのほかの何か」は、じつは蛇足なのである。
また、この部分ではまだ、「何が最善であり何が最上であるか」という言い回しにおける「最善」という言葉遣いにしても、「よい」という言葉一般のもつ多くの含みを保存している。最善、最上と書き並べることで、そのことが推定される。
しかし、ソクラテス自身がここに座っていることがなぜ「よい」ことなのかというたとえ話を持ち出す段になると、もはや、万物がかくあることの原因が何であり、なぜそれを原因とするのが「よい」ことなのかという問いは、ほとんどソクラテスの関心の埒外に追いやられるのである。
なぜならば、万物がこのようにあることがなぜ「善」であるのかという問いと、「私」がここに座って死刑を待ち受けていることがなぜ「よい」ことであるのかという問いとの間には、千里の径庭があるからである。前者において問題とされているのは、神々の創造の秩序(自然法則)の意義を求める問いにかかわることがらであり、これに対して、後者において問題とされているのは、人間が作った秩序が、まさに人間同士の生きる社会において適切であるか否かという問いなのである。言い換えると、この、後者の問いは、神々の創造の秘密とは離れて、ほとんど純粋に、人間に自己責任を課さなくてはならない領域の問題、すなわち、倫理的な問題に転化しているのである。
かくして、「真の原因とは、すなわち、アテナイの人たちがぼくに有罪の判決を下すのを善しとし、それゆえぼくのほうもここに坐っているのを善しとし、とどまって彼らの与える罰を受けるのがより正しいと思ったという、このことなのだ。」と言い切るにおよんで、「善し」という言葉は、完全に倫理的な意味のそれに限定される。
同時に、哲学が目指すべき課題は、「万物の根源」などではなく、「われわれ人間がいかにすれば善く生きられるか」という問いに答えることだけだと断定されているのである。 つまりこのくだりで行われていることは、「哲学」が目指すべき対象と課題についての、まことに大胆な「視線変更」なのである。プラトンは、哲学が目指すべき対象はわれわれ人間自身であり、その究極の課題は、人間は自らの魂にいかなる配慮を施せば道徳的な意味で「善く生きる」ことができるかという、すぐれて倫理学的なテーマに終始すると言っているのである。
つぎに〔証明3〕では、肉体が諸部分の合成であるのに対して、魂は単一であり、肉体に比べて、変化せず、自己同一的で、不可視であることをもって、魂が不死であることの根拠としていた。
しかしここでのソクラテスの説明の仕方は論理としてまったくあいまいである。魂は、単一で、変化せず、自己同一的で、不可視であるものに「似ている」から、不死であるというのである。ここでひそかに思い浮かべられている、単一で、変化せず、自己同一的で、不可視であるなどの特性は、いうまでもなく神のそれである。しかし神が不死であるからといって、神的なものに似ている魂もまた不死であるなどという論理は通らない。要するにこれは出来損ないの三段論法なのである。いわく、大前提:神は不死である。小前提:ところが魂は神に似ている。結論:よって魂は不死である……。
加えて、魂が神に似ているという指摘も疑わしい。なぜなら、人間の魂の中には、少しも神的でない、悪い魂、欠けたところだらけの魂(欲望に目がくらんだ魂)などが存在することを、ソクラテス(プラトン)自身がいたるところで認めているからである。認めているからこそ、プラトンは、魂への配慮という戒律を何よりも重視したのであった。
最後に、〔証明4〕では、数のあり方からの比喩的転用が用いられている。
このやり方は一種の集合論的な証明方法が採られていると考えるとわかりやすい。3は奇数集合の中のひとつの要素であるが、3と2とは別に反対ではないのに、2が偶数集合の中に含まれるという理由によって、3は2をけっして寄せ付けない(同族としない)結果になる。これと同じように、魂は、仮に生命そのものではないにしても、生命をもたらすものの集合に含まれる。ところが生命をもたらすものの集合とけっして相容れない集合は、「死」的な集合である。二つの集合は交わりをもたないので、はじめの集合の要素(または部分集合)である魂も、けっして死を寄せ付けないというのである。
これも、証明1と同じ、論点先取の誤謬に陥っている。あるいは同義反復といってもいい。ソクラテスの頭のなかでは、「生命をもたらすもの」という概念と「魂」という概念とがはじめから結びついているので、魂が死を寄せ付けないのは自明のことなのである。しかも、この場合、「生命をもたらすもの」という概念のうちには、「常に」「いつも」「必ず」「永遠に」というニュアンスが込められている。しかし、魂が常に永遠に生命をもたらすものであるかどうかこそが、まさにここで証明しなくてはならないことであった。
以上で、「魂の不死・不滅」に関するソクラテスの「証明」は、すべて証明の体をなしていないことが明らかになったと思う。
だが私は、ソクラテスの証明が不備で幼稚であると指摘することで、プラトンの思想的モチーフそのものを殺ぐことになったのであろうか。けっしてそうではない。
むしろ私は、『パイドン』を著したプラトンが、ここまで無理な苦心を重ねて若者たちを折伏しようとしたところに、彼の悪魔的・詐欺的な情熱のおそろしさを感じるのである。その情熱の直接的な動機は次のようなところに認められよう。
①魂の不死・不滅を信じさせること
②思惟によってしかとらえられない「真実在」「ものそのもの」「イデア」の存在を信じさせること
③①と②とは、必然的な連関をもち、いっぽうが叶わないなら、他方も崩れることを認めさせること
そしてすでに述べたように、これらの動機は、あきらかに倫理的なものである。『パイドン』におけるプラトンは、「知への愛」(哲学)を人間の営みのうちで最も優れたものとし、そのほかの現世的な営み(生理的欲望、資産を増やす欲望、名誉を得たいとする欲望などを達成しようとすること)の価値をほとんど認めていない。この浮世離れした「哲学」なるものに、魂がこの世で魂であることの一切の価値を集中させるラディカリズムは、「物事を正しく認識し、真理を徹底的に求める」という常人にはけっして叶わぬ狭い通路を指し示しながら、それ(真理の追究)なくしては人間の道徳(善)は成り立たないという、固い信念を表現している。つまり、真理の追究を旨とする「哲学」という名目は、ここでは道徳的な「善」の実現という目的のために利用されているのである。
あの時代に「哲学」を追究することだけが、道徳的な「善」への唯一の道であるという信念を貫くこと、「善」の実現のためにほかのことは全部捨てて「知識への愛」だけに集中せよと説くことには、ある意味で歴史的・社会的な必然があったかもしれない。
しかし現実にそれをなすためには、妻子への愛、私的生活への物質的・精神的な配慮、社会的役割を果たすこと、などをすべて捨ててかからなくてはならない。ちょうどイエス・キリストが、集会場に身内の者がやってきたことをだれかによって知らされたとき、「私の家族とはだれか。ここに集まっている者たちこそ私の家族である」と喝破して、血縁的な絆の意義を否定し、自分の思想の共鳴者だけをメンバーとして認めたように。
共同態的な関係を否定することによって思想を屹立させること、これは、原理的な思想のもつ一種の宿痾のようなものだ。むろん、ある程度裕福な当時の自由市民の一部には、浮き世の雑事に関心を払わずに、知への愛にひたすらかまけることが可能であったろう。だが、問題はそういうことが可能であるか不可能であるかではない。イデアの原理を用いて道徳的な「善」の原理を基礎づけようとすること、その純粋性自体が、巨大な思想的倒錯であり、現実的な価値を転倒させるたくらみなのだ。
ところで、先に記しておいたように、ソクラテスは若いころ、自然研究に熱中したが、その方法に満足できず、アナクサゴラスの「万物の原因は知性である」という説に触れたという。しかしこれにも失望を感じた彼は、事物の真相を知るための自己流の考え方を編み出した。それは美そのもの、善そのものなどのイデアが確実に存在するという前提から、物事がかくある根拠や原因を説明するという方法である。
この部分は『パイドン』の中で非常に重要な意味をもつので、これについて考察を進めるために、たいへん長い引用になるが、直接抜き書きしてみよう。
ところで、いつか、ある人が、アナクサゴラスの書物--―ということだったが、その中から、万物を秩序づけ万物の原因となるものは知性(ヌウス)であるという言葉を読んでくれるのを聞いて、ぼくはこの「原因」に共鳴した。知性を万物の原因であるとするのは、ある意味では、結構なことだと思えたからだ。
そして、もしそうなら、この秩序を与える知性は、それが最善であるような仕方で万物を秩序づけ、個々の事物を位置づけるであろうと考えた。それゆえ、個々のものについて、それがどのようにして生じ、滅び、存在するかの原因を発見したいと望むなら、その事物がどのような仕方で存在し、あるいはどのような仕方で何らかの働きを受けたり与えたりするのが、そのものについて最善であるかを、発見しなければならない。
この考えによると、人間自身についても、また、そのほかの何についても、何が最善であり何が最上であるかということ以外には、人間にとって探求するに値するものは何一つないことになる。そして、それを探求する同じ人は、また必ずや、何が悪であるかをも知るはずだ。善と悪についての知識は、同一の知識なのだから。こう考えてぼくは、事物の原因についてぼくの望むような仕方で教えてくれる人をアナクサゴラスに見出したと思って、喜んだわけだ。
つまり、それぞれ(大地や諸天体のあり方――引用者注)がこのような働きをしたりされたりするのがなぜより善いことなのかを、たずねようと決心した。なぜなら、彼が、これらのものが知性によって秩序づけられたと言う以上、現在のあり方が最善なのだということ以外の原因をそれらに与えるとは、ぼくには考えられなかったのでね。彼は、それらそれぞれに個々の原因を、また、全体に共通な原因を与えるにあたって、それぞれにとって最善なるもの、全体にとって共通な善きものを明らかにするであろうと、ぼくは考えた。
大いなる希望の重みから、ねえ君、ぼくは転落していったのだ。というのはね、読みすすんでゆくにつれて、ぼくが見出した男は知性など全然使ってもいないし、事物を秩序づける原因を知性に帰することもなく、空気とかアイテールとか水とか、そのほかたくさんのくだらないものを原因としていたのだよ。
それはちょうど、こう言ったら、いちばん近い譬えになるだろう。つまり、だれかが、ソクラテスはそのすべての行為を知性によっておこなうと言っておきながら、ぼくの行為の一つ一つの原因を説明する段になると、こんなふうに言うのだ。つまり、ぼくがいまここに坐っている原因については、まず、ぼくの肉体は骨と腱からできていて、骨は硬くて関節によってたがいに分かれ、腱は伸び縮みして肉や皮膚といっしょに骨をつつみ、この皮膚がこれら全部がばらばらにならないようにまとめている、そこで、骨はそのつなぎ目でゆれ動くから、腱を緩めたり縮めたりして、ぼくはいま肢を曲げることができ、そしてこの原因によって、ぼくはここにこうして膝を曲げて坐っているのだと。あるいはまた、君たちとこうして話し合っていることについても、彼は別の同じような原因をあげるだろう。つまり、声とか、空気とか、聴覚とか、その他、無数のそのようなものを原因だとして、真の原因を語ろうとはしないのだ。
真の原因とは、すなわち、アテナイの人たちがぼくに有罪の判決を下すのを善しとし、それゆえぼくのほうもここに坐っているのを善しとし、とどまって彼らの与える罰を受けるのがより正しいと思ったという、このことなのだ。なぜなら、誓って言うが、もしぼくが逃亡するよりも国の命ずる罰にしたがうことのほうがより正しく立派なことだと考えなかったとしたら、思うに、これらの腱や骨は、それこそ最善なりとする考えに動かされ、ずっとまえにメガラかボイオティアあたりに行っていたことだろうからね。
しかし、そのようなものを原因と呼ぶのは、まったくばかげたことだ。もしだれかが、それらのものをもつことなしには、つまり骨とか、腱とか、その他ぼくのもっているいろいろなものをもつことなしには、ぼくは自分の考えを実行することができないと言うのなら、それはほんとうだろう。しかし、ぼくが行為するのは――しかも知性によって行為するのであるのに――そのようなもののゆえにであって、最善のものを選んでではないというのなら、それはまったくもって、いいかげんな議論と言うべきだろう。真の原因であるものと、それがなければ原因が原因たりえないものとを、区別することができないとはね。多くの人たちが、まるで暗闇を模索するようにして、不当にも原因という名で呼んでいるものは、じつは、このようなものではないかとぼくには思われる。
万物が一定の秩序のもとにかくある原因は「知性」であると言うときのアナクサゴラスの「知性」とは、おそらく神々のそれを指すのであろう。自然の法則が整然と成り立つ様は、神々がそれを司っているからだ、という以外に、説明のしようがない。これは現在のように自然科学が発達した時代でも同じことで、自然科学は物質の運動や反応について、その法則的な整合性そのものを記号としての言語を用いて驚くほど精緻にすくい取ってはいるが、「なぜそうあるのが善いことなのか」については沈黙している。
たとえば、万有引力の法則が「なぜ」成り立つのかはわからないし、ある速度をもつ物体のエネルギーは速度の二乗に比例するという法則が成り立つことが「なぜ」善いことなのかについて説明しようとする科学者はいない。DNAが螺旋状配列をしていることが「なぜ」善いことなのかもわからない。
ソクラテスは、ここで、アナクサゴラスに無理な要求を突きつけているというべきである。アナクサゴラスは、自然界や生命界におけるさまざまな現象の機序や過程を記述しただけなのであろう。そしておそらくそれらをそうあらしめているのは、神的な「知性」であると考えたにすぎない。神的な「知性」をもたなくとも、物質の運動や反応の因果関係は人間でも追認できるから、そこに一定の法則性を見出すところまでは可能であり、しかもそのことによって、人間は自然を加工して生活に役立たせることができる。
つまり自然科学は、さまざまな物理化学的な現象に見られる法則性を記述することを通して、物質を操作する技術に結びつくので、有用性という意味では大いにその価値を発揮する。ソクラテスの座っているベッドは、人間が寝たり座ったりするのに都合よくできているであろうし、ソクラテスの身体の構造もまた、ベッドに座りやすくできているであろう。
ただ、ここでソクラテスがアナクサゴラスを批判しているように、「原因」という概念を「なぜそうあること、そうすることが『善い』ことなのかを説明してくれるもの」というように規定するならば、アナクサゴラスの説明(現代でいうなら、自然科学的な原因規定の記述)は、たしかに「真の原因」とは言えないことになる。骨や腱や筋肉の、また一般的に身体の合目的的なしくみを解き明かすことは、人間の意志や行為が思い通りに運ぶことにとっての単なる契機であり、それらを支えるハードシステムにすぎない。
現在隆盛を極めている脳科学にしても、それは同じことで、一部の脳科学者たちは、脳神経系の構造と、その構造を通して実現されている電気化学的な反応のプロセスとを可視化することによって、私たちの「心」の動きがなぜそのようであるかが解明されるに違いないという確信を抱いているようである。しかし私にいわせれば、これは原理的な錯覚である。
なぜなら、第一に、脳神経系の構造や反応プロセスの可視化は、被験者以外の第三者の視界に訪れる知覚と認識の現象であるから、そこにまた被験者当人のそのときの心のはたらきとは別種の知覚・認識過程、つまり「心」の過程が入り込む。それは、被験者の心のはたらきそれ自身とは別のものであって、いわば外部からのなぞりであり、トレースにすぎない。脳神経のはたらきの生理学的・物理学的・化学的プロセスを可視的に客観化することは、どれほど精密になされたとしても、それらのプロセスが、なぜある特定の意志や感情や知覚として実現するのかを説明することはできない。
また第二に、可視的となった脳の構造や反応のプロセスは、じつはある心のはたらきの「原因」ではなく、心身に同時並行的に起こっている現象にすぎない。したがって、脳の現象の可視化から心の解明へという矢印は引けないのである。
なるほど、ちょうどソクラテスがそこに座っていられるのは骨と腱とがその持ち前の機能を座るにふさわしくはたらかせていられるからなのと同じように、脳の言語中枢が侵されれば、言葉を話すという心の機能は果たせなくなる。しかし脳の言語中枢は、「それがなければ原因が原因たりえないもの」(機会、条件、契機)に過ぎず、ソクラテスの言わんとする「真の原因」ではない。「真の原因」はこの場合、その人がある言葉を発しようとするとき、なぜその言葉を発しようとするのかという「意」そのものの中に求められなくてはならない。
たとえば私がモーツァルトの音楽に感動しているとする。この心のはたらきの「原因」なるものは、脳の特定部位の電気化学的反応などにあるのではなく、すぐれて文化的・精神的な交流のプロセスそれ自体にある。それはモーツァルトが創り出した「美」そのもの、テクストそのものの構造解明と、鑑賞者である私の美的感覚がいかにして経験的に養成されたのかという過程の解明との接点を見出すことによってしか究明できない。
この接点の確定は、文化論、芸術論的な方法の確立を待ってはじめて可能なことであり、自然科学の方法の出る幕ではない。そのかぎりで、アナクサゴラスは「真の原因であるものと、それがなければ原因が原因たりえないものとを、区別することができない」というプラトン(ソクラテス)の指摘は、まことに的を射たものである。
ちなみに、巧みな整理屋で絶妙なバランス感覚の持ち主であったアリストテレスは、プラトンのこの「唯一の真なる原因=善のイデア」の解明に哲学の真の動機を求める一元性を批判的に相対化して、原因と呼ばれるものをさまざまに分類し、質料因や始動因という概念を設定することで、自然科学的な因果論理の思考法にもじゅうぶんな余地を与えた。アリストテレスの存在が、科学的な探求の礎と見なされるのもゆえなしとしないであろう。そして、ここでソクラテスの主張する「真の原因」は、アリストテレスの整理に従えば、形相因に相当するであろう。
ところで、ソクラテスは、真の原因とは、なぜ物事がかくかくのあり方をしていることが「善い」ことであるのかを解明するものでなくてはならないという考え方に固執している。万物の根源は何かという問いから始まったソクラテス以前の哲学では、自分たちが存在しているこの世界全体のメカニズムを解明するところに主力が注がれていた。ところがソクラテスは、そういうことを問題にするのは、真の哲学ではなく、方向性を誤っていると考える。そして彼は、事物を秩序づける原因を、空気やアイテールや水などの「くだらないもの」に求めるのは、ほんとうの原因探しではないとして、一蹴している。
いったいここでは何が行われているのだろうか。
ソクラテスは、はじめのうちは、万物を秩序づけている原因が何であるかを知ろうとする在来の哲学的関心を一応そのまま受け継いでいる。大地や天体がなぜかくかくのありかたをしているのか、そしてそうあることがなぜよいことなのかを知りたいと語っているからだ。
ところが、話が進むにしたがって、「なぜかくあることがよいことなのか」という関心の対象を、しだいに「人間そのもの」に移行させている。はじめのほうで、「人間自身についても、また、そのほかの何についても、何が最善であり何が最上であるかということ以外には、人間にとって探求するに値するものは何一つないことになる。」という断定がなされているが、ここですでに「人間自身について」という言葉が鮮明に打ち出されている。とはいえ、まだここでは、「また、そのほかの何についても」と付け加えていて、既存の哲学の発想に対して、一応の敬意を払っていると言える。しかし、書き手プラトンの本意では、もはや「人間自身」のほうに軸足が移っており、「そのほかの何か」は、じつは蛇足なのである。
また、この部分ではまだ、「何が最善であり何が最上であるか」という言い回しにおける「最善」という言葉遣いにしても、「よい」という言葉一般のもつ多くの含みを保存している。最善、最上と書き並べることで、そのことが推定される。
しかし、ソクラテス自身がここに座っていることがなぜ「よい」ことなのかというたとえ話を持ち出す段になると、もはや、万物がかくあることの原因が何であり、なぜそれを原因とするのが「よい」ことなのかという問いは、ほとんどソクラテスの関心の埒外に追いやられるのである。
なぜならば、万物がこのようにあることがなぜ「善」であるのかという問いと、「私」がここに座って死刑を待ち受けていることがなぜ「よい」ことであるのかという問いとの間には、千里の径庭があるからである。前者において問題とされているのは、神々の創造の秩序(自然法則)の意義を求める問いにかかわることがらであり、これに対して、後者において問題とされているのは、人間が作った秩序が、まさに人間同士の生きる社会において適切であるか否かという問いなのである。言い換えると、この、後者の問いは、神々の創造の秘密とは離れて、ほとんど純粋に、人間に自己責任を課さなくてはならない領域の問題、すなわち、倫理的な問題に転化しているのである。
かくして、「真の原因とは、すなわち、アテナイの人たちがぼくに有罪の判決を下すのを善しとし、それゆえぼくのほうもここに坐っているのを善しとし、とどまって彼らの与える罰を受けるのがより正しいと思ったという、このことなのだ。」と言い切るにおよんで、「善し」という言葉は、完全に倫理的な意味のそれに限定される。
同時に、哲学が目指すべき課題は、「万物の根源」などではなく、「われわれ人間がいかにすれば善く生きられるか」という問いに答えることだけだと断定されているのである。 つまりこのくだりで行われていることは、「哲学」が目指すべき対象と課題についての、まことに大胆な「視線変更」なのである。プラトンは、哲学が目指すべき対象はわれわれ人間自身であり、その究極の課題は、人間は自らの魂にいかなる配慮を施せば道徳的な意味で「善く生きる」ことができるかという、すぐれて倫理学的なテーマに終始すると言っているのである。