小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源62

2015年01月26日 18時02分12秒 | 経済
倫理の起源62




 ところで先に、ソクラテスが若いころ自然哲学に関心をもって熱心に研究したが、自分はそれに不向きなことを知って、人間学的な方面に研究の矛先を変えたといういきさつについて記した。ソクラテス以前の哲学は宇宙万物の謎を解くことを主目的としていたが、ソクラテスは大きく舵を切って、「善とはなにか」「正義とは何か」「よく生きるとはどういうことか」という方向に哲学船の方向を変えたのである。これは哲学の主たるテーマを人間学的・倫理学的なものに求めるのと同じである。
 プラトンの弟子・アリストテレスは、このソクラテスの視線変更を再び軌道修正し、哲学(学問)は両方を含んだ総合的な視野を持たなくてはならないと考えた。だから彼の考察領域は、自然学、政治学、倫理学、論理学、詩学、魂の学などあらゆる分野に及んでいる。彼は、ソクラテスの遺志を受け継いだプラトンのような魂の学への激しい情熱に比して、もっと冷静さと客観性と中庸とを重んじたのだろう。そのためにその手つきは、いかにも冷ややかで、賢くて、諸学の博物学とでも形容したくなるような雰囲気を具えている。しかしそのようにしてこそ、宇宙の問題も人間の問題も統一的に理解できるというのが、アリストテレスの密かな理念だったに違いない。そうしてこの理念こそは、今日、学問とか科学とか呼ばれている営みの基本精神を形成している(はずだった)。

 さて近代科学がやってきた。それは観察と実験と現実整合性を最重要視する自然学から始まった。そうしてガリレイ、ケプラー、ニュートン、ラボアジェ、ダーウィンら超天才を生み、大成功をおさめた。やがて西洋の人々は、この大成功の果実である「普遍妥当的な法則の確立」をそのまま、あるいは若干の方法的変更を加えさえすれば、人間社会の現象や魂の問題にも適用できるのではないかと考えた。
 むろんこのスライド方式によっていくつかの成果は得られたであろう。しかしその際、見落とされていたことが一つある。それは、人間社会の現象や魂の問題を扱うのに、それを扱う主体自身の存立そのものが疑われることがなかったという点である。言い換えると、学問としての客観性が保証されるために、学問主体は、彼が扱う対象からあくまで神のように超越していなければならず、したがって彼自身が人間的・倫理的な問題、つまり生の不安や生活上の迷いなどに囚われていてはならないという条件が暗黙の裡に要請された。
 これは自然を対象とする場合にはそれで構わない。重力の法則や天体の法則は、ガリレイやニュートンのある日の気分や彼らの生死に関係なく成り立つからである。しかし人間が人間自身の事象を扱う場合には、この問題を等閑視することは許されない。というのは、ある主体が人間世界を観察しようとするとき、彼はまさに人間世界のただなかに、その一員として参加しつつそうするので、彼自身の精神を形づくっている具体的な文化や歴史や時代の諸傾向から無縁に学問の営みを続けることは不可能だからである。これは要するに、人間世界を対象とする諸学問は、価値の問題から自由に中立的に成立することなどありえないということを意味する。彼の駆使する「学問的言語」は、そもそもの初めからある価値観に支配されているのである。それを排除しうるなどと幻想しないほうがいい。
 そのことはまた、どんな人文諸科学といえども、人間学的・倫理学的関心をその方法論のうちにあらかじめ含むべきことを要求する。つまり、ソクラテスが大きく舵を切ったあの方向性を、現代の人文諸科学は見習うべきなのである。
 だが現状はどうだろうか。
 前期ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものごとについては沈黙せねばならぬ」とダンディな見栄を切ったが、この語りえぬものごととは、人間学的・倫理学的な問題のことである。これを聴いた多くの人たちは、新しい哲学(学問)のご託宣を得たように感じて、論理実証主義や分析哲学や記号論理学などの道を切り開こうとした。だが彼らの志向性そのものが深層のレベルで一つの価値意識に拘束されていたのであり、その価値意識とは、「我々は、倫理のことなど無視して、人間社会の事象を純粋に、数学的に、システマティックに学問すべきなのだ!」という選択意志である。
 しかし繰り返すが、どんなに細分化された現代の個別諸科学といえども、それが人間世界そのものを対象としている限り、倫理的問題と切り離されて自立的に存立することはあり得ない。そのような脱倫理の体裁を保っている学問や理論は、まさにその脱倫理性のゆえに、必ず人間の現実から乖離した空虚な、あるいは人間の幸福に資さない有害な姿をさらすのである。

 たとえば経済学という学問がある。まさしく人間社会の活動そのものを扱う学問だが、現在、この学問の主流を占めている「新古典派」は、経済活動に参加するすべての人間は、利益追求という合理的な目的に従って行動するはずだという前提から出発する。この前提は、人間の意志や行動には不確定な要素が含まれるという当然の認識を無視している。また、社会は個人意志の算術的総合ではなく、まさにそれらが合成されることによって、それ自体が独自の構造と力学を持った生き物のようになるという視点も欠落している。いずれにしてもこの前提が脱倫理的であることは明らかだろう。脱倫理的であることを担保することによって、この学派は、理論的学問の純粋性追求の地歩を獲得できたと錯覚するのである。
 次に、この合理的経済人の経済的目的を最大限に達成するためには、市場の自由を最大限保証しなければならないと、この学派は考える。よってどんな社会状態になろうと、国家などの公共体の市場への介入は極力排除しなくてはならない。そうすれば、需要と供給とは自動的に均衡状態に達するので、価格は安定する。モノやサービスの供給量が決定されれば需要はそれに見合うようについてくる。前者が過剰になったり後者が過小になることは単なる一時的な現象だから、長い間には完全雇用が実現するはずだ。ゆえに非自発的な失業はあり得ない……。
 しかしこのようなオートマチックな考え方は、実態とまったく合わない。企業の倒産や投資の停滞、非自発的な失業は、デフレーション、すなわち供給が過剰となってモノが売れない場合にはいくらでも見られるし、インフレーション、すなわち通貨の量が膨張するときには、バブル経済で返済不能な債務が増大し、物価の上昇に賃金の上昇が追いつかず多くの人の生活は困窮する。
 こうした景気の変動現象と、それが引き起こす国民の貧困化に対して、新古典派経済学はあえてそっぽを向こうとするのである。それもそのはず、彼らにしてみれば、経済学とは「純粋な」理論学問であって、低所得者の生活の困窮やそれによる社会秩序の混乱を解決しようという社会倫理的な動機など端から持っていないからである。現実と理論とが乖離しているときには、現実のほうが間違っているのだ!
 しかし、ケインズはそうではない。彼の経済学は、企業が大規模に倒産もせず、失業者が増大せず、国民がそこそこ豊かな生活を送れるようにするには、どういう考え方をすればよいかを絶えず念頭に置いている。景気の極端な変動を抑制するには、市場の自由にゆだねたのではだめで、状況に応じて国家の適切な介入が必要である。失業者が増大したり深刻な不景気が出現したり貧富の格差が極端に開いたりした時には、一国の総需要を拡大するような方策を取るべきで、そのためには、政府が積極的に財政出動を行って、民間企業に息を吹き込むのでなくてはならない。じっさい世界恐慌の時代に、アメリカは彼のこの主張に基づいた大規模な公共事業によって多くの雇用を創出したのだった。
 ケインズはある状況の下で一定の法則性が成り立ったとしても、それは絶対的ではなく、別の状況下では、前提を変えなくてはならないという柔軟な態度をいつも貫いた。彼は常に、経済活動というものが特定の条件の下で行われるという現場性を重視した。ある法則を抽出するためには、多数の経済学的要素の関係を複合的に組み合わせて仮定しなくてはならない。そのことが、後から見ると彼の理論が単純な法則性に収斂せず、難解に感じられる一つの理由である。そうして、こうした柔軟な態度こそ、人間生活の現実をよく見ていた証拠なのである。
 つまりケインズの「経済学」には、その学的追究のモチベーションのうちに、もともと人間学的・倫理学的な観点が盛り込まれているのである。一見、欲望追求という脱倫理的な力学のみで動いているように見える経済の世界も、単純な法則や原理に依存した「純粋理論」によって解析することはできない。どういう立場の人間が、どういう条件の下で、どういう期待を抱いて自己投企するか、経済の動きには、そうした不確定な要因がもともとはたらいている。ケインズはそのことをまず深く承認する。
 しかし不確定ということは、未来が全く予測不可能だということではない。その活動因子は、私たちがよく知っている生きた人間である。ゆえに、こういう場合にはこの立場の人間はこのような行動をとるということは、ある程度までは予測可能なはずである。だから経済学は、社会心理学的な要素を不可欠とする。そうして同時に、事態が深刻となった時には、どのような解決策を講ずるべきかというモチベーションを具えていなくてはならない。
 ではその対策を講ずる主体はだれか。それは、マルクスが思い描いたように、暴力革命による国家の転覆と私有財産の揚棄を実行するプロレタリアートでないとすれば、国民の生命や財産を保障する国家であり、それをリードする賢明な政府でなくてはならない。
 ちなみに、マルクスもその思想の根幹には、悲惨な社会状態を克服して人類を幸福に導くためには、どのような社会構想が必要かという倫理的動機が息づいており、その点に関する限りはケインズと共通しているのである。資本主義の根本的矛盾の原因を人間労働の抽象化による資本への転化に求めたその考察は、いまなお有効である。十九世紀という時代が持っていた苛酷な条件と彼自身の激しい気性とを割り引くならば。
 こうして、ケインズの経済思想は、国境を超えるグローバリズムを許すような自由放任主義を是とせず、国民全員、特に中間層が豊かさをキープするためにはどうすることがよいのかという政治倫理学と経済倫理学とを内包していた。それは個別科学のなかに孕まれた公共精神の表れなのである。
 個別諸科学は、それが人間自身を対象とする限り、その根底に、倫理学的な動機と観点とを必ずひそませていなくてはならない。願わくは、これほどまでに専門分化してしまった現代の人文科学のうちに、倫理学=哲学的な思考が少しでも浸透し、それによって、統一的・総合的な「人間学」との間に有機的な関連が回復されんことを。

倫理の起源61

2015年01月21日 22時07分17秒 | 哲学
倫理の起源61




 さて私は、この作品について次のように書いた。

 私はこの二作を、エンターテインメントとしての面白さもさることながら、重い倫理的・思想的課題を強く喚起する画期的な作品だと思う。その画期性のうち最も重要なものは、戦後から戦前・戦中の歴史を見る時の視線を大きく変えたことである。この場合、戦後の視線というのは、単に戦前・戦中をひたすら軍国主義が支配した悪の時代と見る左翼的な平和主義イデオロギーを意味するだけではない。その左翼イデオロギーの偏向を批判するために、日本の行った戦争のうちにことさら肯定的な部分を探し当てたり、失敗を認めまいとしたりする一部保守派の傾向をも意味している。言い換えると、この両作品は、戦後における二つの対立する戦争史観の矛盾を止揚・克服しているのだ。

 前者の史観における中心的な思想は、「いのちの大切さ」ということになるだろう。また後者の史観では「いのちを捨ててもお国のために闘うべきだ」ということになる。そうしていまやこの二つの史観が、ほぼ、女性的な倫理観と男性的な倫理観とにそれぞれ対応することも納得してもらえるだろう。さらに言えば、宮部久蔵というキャラクターが、両者を兼ね備えつつ、しかもその根本的な矛盾を、最終的には身を後者のほうへ捧げ、魂を前者のほうへ捧げることによって止揚・克服したのだということも。
 作者・百田氏は、日本にとってあの戦争のどこがまずかったのかという根本的な問題をよくよく考えたうえで、こういうスーパーヒーローを創造している。もちろんこんなスーパーマンがいるわけはないが、宮部の人となり、ふるまいを見ていると、こういうキャラが許容されるような軍であったなら、つまりそういう余裕のある雰囲気が重んじられていたなら、日本のあの戦争(和平・停戦への努力も含めて)はもっとましな結果になっていたに違いないという、戦中日本への批判が強く込められていることを感じる。
 実際、この作の中で百田氏は、ひとりの語り手をして、机上で地図とコンパスだけを用いて作戦を立て、ゴロゴロ死んでいく兵隊たちを将棋盤上の歩兵のようにしか考えていない参謀本部(軍事官僚)のハートのなさを強く批判させている。そういう側面では、この作品は、たしかに「いのちの大切さ」を第一義に立てる戦後的価値観を代弁していると言えよう。
 しかし一方、宮部久蔵は、パラシュート降下する敵兵を容赦なく殺すし、空母と油田を爆撃しなかった真珠湾攻撃作戦の不徹底さを批判してもいる。撃墜されないように過剰なほど用心するが、それは自分だけこすからく生き残ろうと状況から逃避しているのではない。現実には隊長として部下の命をあずかりつつ、いかにして眼下の敵を撃墜して勝利するかという合理的な算段に心血を注いでいるのである。彼は少しも反戦思想の持ち主ではないし、ここぞと思うときには誰よりも的確にその優れた戦闘技術を発揮する。こうした側面では、この作品は、戦争をただ感情的に忌避して空想的平和主義に安住する戦後の空気への痛烈な批判とも読めるのである。
「いのちの大切さ」といった戦後的な価値の抽象性をそのままでよしとすることはできない。この価値は、抽象的なぶんだけ、人間には命をかけて闘わなければならない時がある、というもう一つの価値を忘れさせる。じっさい、この戦後的価値が実際に作動するときには、超大国頼み、金頼み、無策を続けて状況まかせ、憤るべきときに憤らない優柔不断、何にも主張できない弱腰外交、周辺諸国になめられっぱなしといういくつもの情けない事態を招いてきた。それが、私たちがさんざん見せつけられてきた戦後政治史、外交史の現実である。「いのちの大切さ」と言っただけでは、何も言ったことにならない。
 しかし逆に、「命をかけて闘わなければならない時がある」という言い方も、それだけでは抽象的であり不十分である。問題は、どういう状況の下で、どういう具体的な対象に対してなら「命をかけるに値する」と言えるかなのだ。敗北必至であることが、少なくとも潜在的には感知されている状況の中で、いたずらに「命をかける」という価値を強調すれば、結果的に多くの無駄な死を生むことにしかならない。美学や一時の昂揚感情が軍事上最も必要とされる戦略的合理性を駆逐して、多くの前途ある若者を犠牲に供し、あとにはやるせない遺族の思いが残るだけである。これでは、国家的人倫性が果たされたとは言えないのである。
 宮部がよりどころとしているのは、抽象的な「公」でもなければ、抽象的な「いのち」でもない。彼がよりどころとしているのは、結婚して日の浅い妻と、いまだ会うことのかなわない子どもという具体的な存在である。抽象的な「公」も抽象的な「いのち」も、一種のイデオロギーであり、実体の不確かな超越的な観念にほかならない。どちらにも誘惑の力はあり、それに引き寄せられていく心情は理解できる。しかし、抽象的な「公」理念にひたすら奉仕すれば、具体的な「いのち」を犠牲にしなければならず、抽象的な「いのち」理念をただ信奉すれば、公共精神を喪失しただらしない無策や無責任が露呈するだけである。
 こうして、宮部久蔵が体現している思想は、戦後のイデオロギーでもなく戦前・戦中のイデオロギーでもない。それは生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認するという考え方である。そこに私は、戦前を懐旧する保守派思想にも、国家権力をただ悪とする戦後進歩思想にも見られなかった新しい思想を見る。それは男女双方が持つ人倫性の融合態だと呼んでもよい。

 国家とは、共有できる情念を最大の幅のもとに束ね、そうしてその成員たちすべてに秩序と福利と安寧を保証することを理想とする共同性である。この共同性(共同観念)の現在における存在理由は、いくら視野や情報や経済が地球規模に広がったとしても、それぞれの地域が背負ってきた具体的な歴史や文化の重みを超え出ることは不可能だというところにある。国家は、その内部の住民の実存を深く規定しているのである。
 国家はそのメンバーの心情的な信任と期待を基盤として成り立つが、その統治機構づくりと運営とは、生活共同体としての国民一人一人の好ましい関係を守るために、あくまで機能的かつ合理的になされなくてはならない。ことに戦争のような国民の命にかかわる一大事業に取り組まなければならない時には、この機能性・合理性のいかんが一番問われる。
 大量の殺し合いが国家双方にとって良くないことは当たり前なので、戦争は最後の最後の手段であり、まずいかにしてそれを避けるかにこの合理的な努力を最大限注がなくてはならない。外交のみならず、軍事力の必要も経済力の必要も実はここにある。これらの潜在的な力の表現を背景に持たない外交は無力である。両者はパッケージとして初めて意味をもつのだ。
 しかしもしどうしても避けられずに戦争に突入してしまったら、いかにうまく勝つかということ、犠牲者をできるだけ少なくするために、いかに早く決着をつけるかということ、時には狡猾に立ち回っていかにうまく負けるかということに向けて、合理的精神を存分に発揮しなくてはならない。緻密な戦力分析、状況分析によって負けることがほぼ確実となった場合には、戦いは一刻も早くやめること、投了によるしばしの屈辱に耐える勇気を持つこと。現実を見ない精神主義や美意識で「どうにかなる」などと考えて蛮勇をふるうのは最悪である。そういう方向に国民を強制しないことが、統治者や軍事リーダーの責任なのだ。
 この合理的精神の存立を俟って、初めて国家共同体の人倫性はまっとうされる。そうしてその精神が目指す最終地点は、あくまでも幸福なエロス的関係の達成でなくてはならない。与謝野晶子も津雲半四郎も宮部久蔵も、そのことをこそ願っていたのである。だからこの願いが本当に果たされさえすれば、公共性の倫理とエロス的な倫理との二項対立的な矛盾関係は止揚・克服されるだろう。公共性の倫理は、エロス的な倫理の確乎たる存立を目指して、それにふさわしい形で「機能」するのでなければならない。
 では公共性の倫理とエロス的な倫理、言い換えると、義に殉ずる心と、身近な者たちどうしの幸福の実現とが対立しないようなあり方とは何か。この問いは、「義」とか「自分を超えた存在に殉じる」という抽象的な用語に執着している限りはけっして答えが出ない。この問いに答えるために最も有効なのは、端的に言えば、身近な者たちどうしの幸福の実現が損なわれることのないような社会あるいは国家のかたち(秩序)を、いかに工夫して練り上げるかという課題に実践的に取り組むことである。そうしてその取り組みこそが、最高の人倫精神の表れなのである。だがこの課題の具体的な追究はすでに個別学としての倫理学の範疇を越えているだろう。


パリ銃撃事件の背景をよく考えてみよう

2015年01月16日 00時22分45秒 | 政治
パリ銃撃事件の背景をよく考えてみよう




 以下の記述は、当ブログに掲載済みの「EU崩壊の足音聞こゆ」、およびポータルサイト「ASREAD」に掲載された拙稿「なぜ中東で戦争が起こるのか」と合わせて読んでいただければ幸いです。

EU崩壊http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/3249423496d0112f3d568fc9b6fda158
なぜ中東でhttp://asread.info/archives/1205

 まずは、いきなりずっこけたことを言います。
 ここ数日、パリ銃撃事件の報道を産経新聞と朝日新聞とで読み比べてきましたが、事実報道に関する限り、なんとあの朝日のほうが、突込みが深く、公正な視野をキープしているという印象を持ちました。と言って、別にいまさら朝日を擁護する気など毛頭ありませんが、メディアを論評する側も、個々の情報発信の仕方に関して公正な判断を要求されるので、このことを指摘すべきだと思いました。
 具体的に言いましょう。
 産経新聞は、ほとんどの記事が、欧米が至上の価値観とする「自由と民主主義」理念――この場合は「表現の自由」――に乗っかって、「テロをけっして許すな」という単純な主張で盛り上がっている欧米の空気をそのまま伝えているだけです。1月9日付では、ニューヨーク、サンパウロ、香港、東京における集会で「私はシャルリー(襲撃された週刊誌本社)」というプラカードを掲げる人たちの大きな写真を掲載していますが、いっぽうで、テロ実行者たちが属するイスラム文化圏の人々の複雑な背景については詳しい記述がありません。
 これに対して、朝日新聞は、1月11日付で、フランスのニュース専門局によるテロ実行者へのインタビュー記事を載せ、彼らが「イスラム国」に所属しているという明確な証言を引き出しています。また警官と人質を殺してスーパーに立てこもったクリバリ容疑者がこのスーパーを選んだ動機はユダヤ人の店だからだという証言も引き出しています。12日付では、イエメンを拠点とする「アラビア半島のアルカイダ」、「イスラム国」、アルジェリアを拠点とする「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」などが今回の行為を支持している事実、これらの組織をめぐる複雑な事情、アフガニスタンやパキスタンでの、政権の公式声明と一部の国民の意識の間のギャップ、印刷工場に立てこもった兄弟のサイド、シェリフ両容疑者の、従業員に対する優しい態度などについて詳しく報じています。
 まさか反日メディアの判官贔屓というわけでもないでしょうが、いずれにしても、こういう国際的なテロ事件に関しては、バイアスをなるべくかけない報道の仕方が大切で、ことに私たちが事情をあまり知らないイスラム文化圏にかかわる場合には、なぜこういうことになるのかをよくよく考えてみる必要があります。あらゆるテロをただひたすら一括りにして「絶対に許すな」と叫んで済ませているだけでは、そのへんの事情が見えてきません。それを見るための素材を少しでも提供してくれているという意味で、今回の朝日報道は評価されてしかるべきでしょう。

 以上はまあ、話の枕のようなもので、これからが本題です。

 次に思ったのは、今回のパリ警察の対応が、テロを取り締まる立場からすれば、最悪だったということです。
 4人の人質が殺され、一人の容疑者を逃がしてしまい、3人の容疑者は銃殺されました。だれも逮捕されていません。これでは、犠牲者を出しながら、相手が属する組織や実行動機について確かな情報が何も得られません。フランスの警察は、8万人もの動員をかけながら、そのへんの配慮がどうも甘く、やり方が荒っぽすぎる。こんな失態を重ねるようでは、警察への不信感はいっそう深まるでしょう。どうも武力面だけは粗暴になっていて、肝心の秩序維持のためのインテリジェンスがはたらいていない。言葉にはなりにくいそういう現場の雰囲気を見逃してはなりません。
 これは小さなことのようですが、国内の空気が想像以上に殺気立っていることを象徴しています。それもそのはず、フランス(だけでなく一般にEU諸国)は「開かれた自由な圏域」という建前を取りながら、かえってそのことのために移民との文化摩擦や治安の悪化を助長しており、みんなが異民族に対する警戒心で互いにピリピリしているのだと思われます。フランスの人口の約8%に当たる500万人はイスラム系です。その他ユダヤ系、スラヴ系、アフリカ系などの人種・民族・もたくさんいるので、パリなどは多様な人種・民族が混在する一種の「プチ・アメリカ」といってもよいでしょう。
 こういう地域では、いったん事が起きると、市民の間に緊張が走り、関連地域の住民はひっそりとドアの内側にこもり、自主的な戒厳令のような様相を呈します。今回の事件がまさにそうでした。日本人が当たり前と思っている、見知らぬ路傍の人同士の信頼関係などはまずないと考えた方がよい。フランスから初来日したある人は、電車の中で乗客が居眠りしているのにびっくりしたそうです。

 昔から、ヨーロッパはジプシーその他による観光客相手のすり・泥棒が多く、日本人旅行者はいいカモにされると言われてきましたが、ここ数年、治安や人心の荒廃がより進んでいるような気がしてなりません。もちろん、一律にそうだとは言い切れませんし、見てきたようなことを言うのは危険だと承知の上ですが。
 しかし仮に私のこの推測が当たっているとして、なぜそういうことになるのでしょうか。答えは明らかです。域内グローバリズムおよび積極的な移民受け入れ政策が自ら招いた結果としか考えられません。
 ヨーロッパは、国によってEU(欧州連合)に参加していない国(例:スイス、ノルウェー)、ユーロ圏に参加していない国(例:イギリス、スウェーデン)、国境検査の必要ないシェンゲン協定に参加していない国(例:イギリス、アイルランド)などいろいろです。しかし、二つの大戦のトラウマと、冷戦期における西側諸国のソ連に対する結束の必要とに発した、「国境の壁を低くしてヨーロッパ人同士が互いに国を開くことはいいことだ。ナショナリズムを超えなければならない」という理念だけは、いまだに共通して生きていると言ってよいでしょう。
 ところがこの理念がまさに曲者なのです。
 この理念は、二つの大きな困難を生み出しました。
 一つは、経済的な統合のために通貨の統一を図ったことにより、各国の経済的な主権が失われたことです。一国の経済政策は、金融政策と財政政策の連係プレーによって行われますが、ユーロ圏の諸国には金融政策の権利がありません。また、GDPに対する政府の負債の割合の上限が決められていて、国情に合わせた自由な財政政策がとれないのです。もちろんこの割合はまったく守られていませんが、それだけに一層、各国首脳陣は、借金が膨らんでしまった危機感を募らせているわけです。
 そのため、不況や財政危機に陥った国がそれを克服しようとして他国からお金を借りようとする場合には、厳しい緊縮政策を取ることが条件となります(健全財政ぶりを見せなければ貸してくれないので)。しかしこれは同時に国民経済の成長を阻害し、国民を一層貧困化させる要因になります。財政破綻したギリシアがそのよい例で、現在この足枷を解くためにEU離脱も辞さないという勢力が急激に成長しつつあります。フランスの国民戦線、イギリスの独立党なども同じ方向性を目指して、多くの国民の支持を得ています。
 二つ目は、大量の移民を受け入れたことによって、深刻な文化摩擦が発生し、さらに、低所得に甘んじる移民によって賃金競争が引き起こされ、一国の経済規模が全体として低成長(ゼロ成長あるいはマイナス成長)に陥り、デフレの悪循環に突っ込みつつあることです。移民問題は、現代のヨーロッパの理想と現実のギャップを象徴する最も頭の痛い問題で、彼らを露骨に排除するわけにもいかず、さりとてそこに生ずる宗教的な文化摩擦や経済問題を解決することもできません。
 以上二つを合わせて考えると、なぜ今回のような事件が発生したか、その背景が少し見えてくるでしょう。ヨーロッパの主要国はいま「自由平等と人権と民主主義」を価値として信奉する世俗的・近代的な市民と、厳しい戒律を遵守するイスラム系の移民との間に存在する妥協不可能な対立意識が沸騰していると言っても過言ではありません。そのうえに、経済の停滞による格差の拡大、貧困層の増加、失業率の高止まりという問題が重なり合います。フランスはいま、移民であると否とを問わず、低所得者層に不満が鬱積しているわけです。

 ヨーロッパの外に目を向けてみましょう。
 もともと中東地域は大英帝国の植民地でした。強い宗教的色彩を帯びたイスラム文化圏であるにもかかわらず、その国家区分と統治のスタイルは、オスマントルコ滅亡後にヨーロッパ近代が自分たちの世俗的な国民国家モデルを無理に押し付けたところに成立しています。その形態がどこでも通用する普遍的で最高の形態なのだという傲慢さと優越意識が当時のイギリスにはあったのでしょう。今回の事件の場合にもこの負の歴史的遺産が影を落としていることは明らかです。
 思えば、キリスト教文化圏とイスラム教文化圏とは、十字軍の昔から、深い交流あるがゆえに歴史的な近親憎悪を繰り返してきました。近親憎悪というのは、両宗教が母胎(ユダヤ教)を同じくしながら互いに相手を異端視する一神教であるという意味です。
 さまざまな風土的・社会的条件が幸いして豊かな産業社会の確立に成功したヨーロッパと比較して、隣接する中東地域は、古代におけるあの隆盛をよそに繁栄から取り残され、世界でも有数の貧困地域に落ち込んでしまいました。宗教的な近親憎悪にこの経済的なギャップが加わります。2001年の9・11テロもそうですが、今回のような事件には、中東側のそうした長きにわたる怨嗟の歴史が関わっています。よく、イスラム圏の内外におけるテロ事件が発生するたびに、欧米諸国の政府は「自由」を普遍的価値としてことさら強調しますが(日本政府もそれに追随していますが)、そういう言い括りは、現在のイスラム圏にそのまま通用すると考えるほうが無理でしょう。

 ところで1月11日、パリで犠牲者の追悼と表現の自由を訴える数十万人の集会とデモが行われ、フランス全土では、370万人が反テロのデモに参加したと伝えられています。この状況を私はとうてい素直に受け入れるわけにはいきません。それにはいくつもの理由があります。
 第一に、この集会とデモが政府の呼びかけによる官製デモだということ(官製デモは反日を掲げるどこかの国もやりましたっけ)。参加した50か国の首脳の多くは、もちろんイデオロギーを同じくする西側自由主義諸国(国連も含む)の人々です。この何やら大げさな運動によって、「自由」を普遍的価値として掲げる強国の威力はいやがうえにも世界に印象づけられたと言えるでしょう。もとよりこれは、グローバリズムの恰好の宣伝になります。
 ちなみにオランド大統領は、デモを呼びかける前に国民戦線のルペン党首をひそかに呼び何ごとかを言い含めたそうです。そうしてルペン党首は、集会に招かれませんでした。おそらく大統領は国民戦線がデモで排外主義的表現行動に出ることを恐れたのでしょう。ここには、「表現の自由」を掲げながら、いわゆる「極右」にはそれを許さないという政治的欺瞞の臭いが紛々です。結果的に、この事件とデモとは、ヨーロッパ・グローバリズムの政治的な意図に巧妙に利用されたのです。すべての思想や宗教的信条に寛容であるかのような建前は、それが権力を握る者の口から発せられるメッセージであることによって、実際には自分だけが正しいという主張に転化します。ですから、この数十万人のデモには、おそらく多くの穏健なイスラム教徒も、テロリストと自分たちとを区別して見せるために、慌てて参加せざるを得なかったでしょう。

 第二に、ごく一般的に言って「テロ=絶対に許せない悪」と一口に言い括れるのかどうか。たとえば大義のない戦争として名高いイラク戦争は、多くの民間人犠牲者が出ているにもかかわらず、アメリカはそのことについて公式的に反省したという話を聞きません。また原爆投下や日本本土無差別爆撃は、明らかに民間人の大量殺戮であり、テロどころではありません。これは連合軍がナチス・ドイツを裁くときに自らレトリックとして用いた「人道に対する罪」にどう見ても匹敵しますが、彼らはそのことを一度も認めたことがありません。もしテロを一方的に道徳的非難の対象にするなら、それらについてまず公式見解を出してからにすべきでしょう。単に、一国の治安維持のためにテロから国民や市民を断固として守るというだけなら理解できますが。

 第三に、今回のテロは、9・11テロと同一視できない面があります。9・11テロにおける貿易センタービル攻撃は、その目標がアメリカの繁栄の象徴を打ち砕くという多分に観念的な動機に基づいています。これは明らかに無辜の民衆をも巻き込んだ無差別テロです。これに対して、今回の事件は、イスラムの最高預言者・ムハンマドを「諷刺」し続けてきた特定の週刊誌の執筆者たちを狙ったのであり、それは実行者たちおよびその背後の勢力の直接的な屈辱感情に裏付けられている面があります。無関係な人質4人を殺した行為は、平和を享受している私たちから見れば確かに道徳的に非難されてしかるべきですが、これは警察の目をひきつけるための一種の陽動作戦とも解釈できます。けっして実行者たちを擁護するわけではありませんが、彼らにしてみれば命を捨てることを覚悟の上での決死の作戦なのですから、道徳的な非難を浴びせても何の効果もないでしょう。

 第四に、そもそも「表現の自由」という理念の抽象性にもっぱら依存することは、実質上どんな問題を引き起こすでしょうか。
 まず浮かぶのは、だれもが指摘するように、その線引きが難しいという点です(今回のシャルリー・エブドの表現についてどう判断すべきかは後述します)。
 次に、表現の自由をじゅうぶんに行使するには、いろいろな意味での「力」が必要とされるという点です。才能、意志力、心の余裕、経済力、文化環境、政治的バックボーン、等々。これはすでに誰かが指摘していたことですが、たとえば現在のフランスで、移民二世、三世としてのイスラム系の普通の人が、シャルリー・エブド誌に対抗してキリスト教やヨーロッパ市民主義を「諷刺」しようと思って、同誌に匹敵するだけの「力」を発揮することはまず無理でしょう。強者のみが表現の自由を行使できるのです。社会的弱者は強者の表現という権力行使を我慢するより外に道はありません。表現の自由を普遍的価値として声高に叫ぶことは、そうした現実を隠蔽する作用として機能します。

 第五に、肝心のシャルリー・エブド誌のイラストが、具体的にどんな性格のものだったかを検証せずに、いまここで表現の自由の大切さを唱えることには意味がありません。
 すでに事件後初めて刊行された同誌の表紙は、いくつかのメディアに公表されているので、ご覧になった方も多いでしょう。ムハンマドが「私はシャルリー」と書いた紙を胸元に掲げながら、涙を流している絵で、上に「すべては許される」と書かれています。これだけでもかなりイスラム教徒に対する挑発的なメッセージですが、事件以前のものは、もっとずっと下品で、イスラム教徒を激しく愚弄し、侮辱しているとしか思えません。二つだけ紹介しておきましょう。

①素っ裸のムハンマドが尻をこちらに向けて陰嚢をだらりとたらし、肛門部分に黄色い星があてがわれ、上に「星は生まれぬ」と書かれている。(私はコーランに詳しくないので推測ですが、この言葉はきっと神聖な語句として有名なのでしょう)。

②イスラム教のウラマー(法学者)がコーランを前に掲げているところに、たくさんの弾丸が飛んできてコーランを貫いている。「コーランは弾除けにならない」との文句があり、表題部には「コーランは糞だ」と書かれている。

*なおこれらは「シャルリー・エブド イスラム教 諷刺画 画像」と検索すれば閲覧できます。

 こういうのを風刺というのでしょうか。だれが見てもただの愚弄、侮辱、嘲笑い、差別表現に他なりません。これで怒りを感じないイスラム教徒がいたらお目にかかりたい。よく言われるように、イスラム教徒の間では、ムハンマドの肖像を描くだけでも冒涜とされます。かつてムハンマドを侮蔑したあるアメリカ映画が元で、駐リビア大使をはじめとする数人のアメリカ人が殺された事件がありましたが、私は、この映画のダイジェスト版を見る機会がありました。言葉は半分くらいしかわかりませんでしたが、映像を見ただけでも、これではイスラム教徒が怒って当然だと思いました。これらは許されるべき「表現の自由」などではなく、日本でもいま話題となっている「ヘイト・スピーチ」と何ら変わりません
 じつはここには、移民の増加に対する一種の無意識の「恐怖」が作用しているのだと思います。経済評論家の三橋貴明氏が語っていましたが、アラブ系の住民が多く住むパリのある地区(おそらく18区か19区だと思われます)で、広い範囲にわたって交通を遮断し、大勢のイスラム教徒たちがいっせいに礼拝をしていた映像を見たことがあり、戦慄を感じたとのことでした。こういうことがたびたび起きているとすると、もともとのパリジャンが不安や恐怖を抱いても不思議ではありません。
 つまりこういうことです。
 シャルリー・エブドの制作者や読者であるパリジャンは、そういうメディアを広めたり愛読したりすることのできる文化環境や政治的バックボーンを手にしてはいるが、じつは自分たちのナショナリティが移民たちによって脅かされつつあることをじわじわと察知している。そのために対抗手段としての侮蔑的な表現に手を出す。そうしてそれが暴力によって否定されると、その潜在的な不安や恐怖の解消手段として、極度に単純化された「テロを許すな。表現の自由を守れ!」というスローガンにヒステリックなまでに縋ることになる。「表現の自由」とは、じつは彼らにとってだけの「表現の自由」であり、イスラム系移民にはそんなものは許されていない!……数十万人のデモの実態はおそらくそれです。
 問題は深刻です。なぜなら、「自由、平等、人権尊重」を表面上謳ってきたはずのフランス人の多くが、グローバリズムの進展とともに生じた社会矛盾の現実の前で、じつは差別意識や排外主義を少しも解消できていないことがあらわとなったからです。
 いまやヨーロッパ諸国は移民だらけです。そうして、そういう地域で差別意識や排外主義的感情がなくなるわけがないのです。
 ヨーロッパでは、表現の自由を最大限尊重しているかのように誰もが言います。しかしフロイトではありませんが、何を言ってはいけないか(たとえば、人種差別的、女性差別的言辞、ナチス肯定的言辞、特定宗教を批判する言辞)というタブー感覚が骨身にしみているので、かなりきつい無意識の拘束と抑圧と緊張の下にあり、そのためむしろ表現の自由などさほど許されてはいないのだと思います。だからこそ、シャルリー・エブド的な刺激的ガス抜き表現が噴き出すのでしょう。
 ここには、一種の心理的な戦争状態があり、それは現実の戦争や革命を不気味に予告してもいるのです。それでも自分たちにとってだけ都合の良い「表現の自由」を守りたいと考えるなら、それが何を代償として成り立つのかについて、よくよくの覚悟が必要でしょう。
 ちなみに、フランス共和国建国の理念は、「自由、平等、同胞愛」であって、多くのメディアが間違えているように「自由、平等、博愛」ではありません。fraterniteには、普遍的な人類愛などというニュアンスはまったくないのです。フランス革命はルイ16世をギロチンにかけ、さらに恐怖政治へと突っ走りましたが、この種の「同胞愛」は、暴力革命(=テロリズム)を遂行するための結束が成り立つところでだけ生きるのだということを、私たちもわきまえておいた方がよいでしょう。現代フランス人だけでなく、先進国のパワーエリートは、いまイスラム系移民に代表される貧困階層の「同胞愛」によって脅かされつつあります。フランス議会の議員たちは、90年ぶりに「ラ・マルセイエーズ」を歌ったそうですが、それが彼ら自身の葬送行進曲にならないことを祈ります。

倫理の起源60

2015年01月12日 19時44分16秒 | 文学
倫理の起源60




 さて『永遠の0』に話を戻そう。
 すでに述べたように、この作品が提供している最も重要な思想的意味は、宮部久蔵という主人公の造型のうちに、大東亜戦争時における「お国のため」イデオロギーと、戦後における「平和主義」イデオロギーとの矛盾を止揚・克服しているところにある。
 とかく、特攻隊などをテーマとした作品・言論は、前途ある若者たちが「お国のために」死を引き受けていくその悲運に対する哀切な共感を核にしたものか、そうでなければ、ただ「間違った戦争」という戦後イデオロギーによる言いくくりで、ここにある大切な思想的問題に頬かむりを決め込んだものが大半である。両者は共にセンチメントを根拠にしているので、永遠に交わることがない。
 この稿を起こしている間に、私は原作・映画両作品に関するいくつかの感想、批評に触れたが、右翼的だ、左翼的だなどの政治的批判は問題外としても、残念ながら、この作品が戦中イデオロギーと戦後イデオロギーとの不幸な対立を克服するメッセージを発しているのだという最も重要な指摘に出会うことがなかった。
 宮部久蔵は戦争という状況の中にいるかぎりは勝たなければ意味がないという信念の持ち主である。だから不合理な作戦には上官に逆らってでも異を唱える。何のために? 「お国のために」というスローガンは、それだけでは、崇高に見えるぶんだけ超越度が高すぎる。しかし、「身近な愛する者たちのために」ならば時代を超えて、だれでもそのロジックに納得するだろう。そうしてこの場合重要なのは、何々のために「死ぬ」ではなく、何々のために「勝って生還する」という構えである。「お国のために」は、背後にこうした精神の裏付けがあってこそ意味をもつのだ。
 先に引いた与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』は、身近な愛する者に向かって、生きて還ってきてくれることを切に願う歌であり、それが「大みこゝろ」に必ずかなうはずだと訴えている「女歌」だった。宮部の言動は、男の側からそれに一心に応えようとした「男歌」だったのである。

 その心はまた、『伊勢物語』に収められている、業平が歌ったとされる次の歌ごころにまっすぐ通じている。

名にし負はば、いざ言問はん都鳥、わが思ふ人は、ありやなしやと

 この歌は、遠く都を離れた一行が心細い東路にあって、すみだ河の舟の上からカモメを見つけ、それが「都鳥」という名だと聞いて、たちまち京都に残してきた愛しい人のことを思い出し、彼女たちが息災でいるかどうかを切なく思いやった歌である。船上の男たちはこれを聴き「舟こぞりて泣きにけり」と皆大泣きした。「川を渡る」には、そもそも異界に旅立つという象徴的な意味合いが込められており、それは死を覚悟で戦場に赴くときの心情に見事に重なるだろう。
『伊勢物語』では、東下りの動機について、「その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ。あづまの方にすむべき国もとめにとてゆきけり」とだけ説明されているが、『伊勢物語』の説話は、歌にさまざまな伝承を後から付け加えたものだから、この動機を歌が本来示している情調に結びつけて解釈する必要はない。歌の主が本当に「身をえうなきものと思ひなし」たのかどうかはわからないし、「すむべき」を、この一行のみが自発的に「すむ」ことを目指したと考えなくともよい。要は、はからずも流離の身となった男がはるか遠国から恋する女のことに思いを馳せるという一般的なシチュエーションが歌心の核心であることが読み取れればよい。だからこの歌は、都の官吏が上からの指令によって(たとえば土地開拓や遠征の意図をもって)そこに派遣されざるを得なかった時に歌われたと考えてもよいし、急な左遷を強いられたと解釈することも可能である。さらに政争に敗れて追放の身になったのかもしれない。いずれにしてもこの歌は、戦場に赴くときの兵士たちの切ない心ときわめてよく通じ合うのである。

 宮部が、部下に家族の写真を見せて、辛い戦いにくじけそうになった時にこれを見ると勇気が湧いてくると答えたのも、彼がエロス的な絆を最も重んじている証拠である。束の間の休暇からの隊への帰還に当たって、背後からつと寄り添う妻に「私は必ず帰ってきます。手をなくしても足をなくしても……死んでも帰ってきます。」と彼は答える。このシーンがかぎりなく涙を誘うのも、守るべき価値がなんであるかについての彼の明晰な意識が読者・観客の胸に素直に伝わればこそである。この瞬間、その精神は、超越的・抽象的な「お国」の理念を突き抜けているのだ。
 しかしひとりのうつしみは、現実には国家的共同性(公)とエロス的共同性(私)の両方を背負わざるを得ない。そればかりではない。敗色濃厚な戦局のさなかにあって、宮部は、学徒特攻要員の育成という、前途ある有能な人材を次々に死地に追いやる職業的役割を果たさなければならなかった。ここで彼の苦悩はいよいよ深まる。教官としての職業倫理と、身近なものを救わなければならぬという個体生命倫理とがまず葛藤する。
 さらに教えた者たちのなかには、自分の命を捨て身で救ってくれた生徒(大石)もいる。その間に介在するのは、単に抽象的な個体生命倫理ではなく、かけがえのない友情というもう一つの具体的な人倫性であった。この人倫性もまた、職業倫理との間に葛藤を生み出さざるを得ず、こうしてこの段階で、宮部久蔵という一つの身体は、公共性と個体生命と友情という三重の人倫性を一気に背負うのである。それらのどれか一つを「選択」して貫くということが到底かなわない状況の下で。
 やがて宮部と大石を含む特攻隊要員はいのちの離陸地点である鹿屋基地に配属される。当座、宮部は特攻機の目的を遂げさせるために、飛行中に特攻機を敵機の攻撃から守る直掩機に搭乗する。しかし特攻機は、装備を格段に向上させた敵艦の迎撃に遭って、目的を達する前に次々に海中に墜落してゆく。宮部は自分の無力を日々痛感して、その形相は別人のように変わり果てている。ぎらついた目と無精ひげとひとり部屋の片隅に頑なにうずくまる姿。この鬼気迫る形相は、映画作品ではじつによく描かれている。
 こうして、迫りくる戦況の切迫情態と、すぐ目の前で日々命を落としてゆく若き「戦友たち」に何ら援助の手を差し伸べられない激しい無力感とによって、妻子の下に必ず生還するという彼の最大の価値感情は、無残にも押しつぶされてゆくのである。死んでゆく戦友たちをさしおいて自分の日ごろの信念を貫くことはもはや不可能だ――作品に直接描かれてはいないが、おそらくこの絶望が、彼をして特攻隊員への志願をぎりぎりのところで決断させたのである。しかし彼は信念を曲げたのではない。恩人であり戦友である大石隊員の命を救う試みと、妻子を助けてほしいというメモ書きによる大石への委託。これこそは、その信念を生かす道を最後まで捨てなかった証拠である。
 こう考えてくると、絶望的な思いを抱えながら遂に特攻隊志願の道を選んだ時点における宮部の身体は、単に国家的共同性(「お国のため」)とエロス的共同性(愛しい妻子のため)とのねじれに引き裂かれていただけではないことがわかる。彼は、若き同志たちを目の前で次々に失ってゆく残酷な光景、それでも(それだからこそ)自分の磨きぬいた技量を使い尽くして敵を倒さねばならぬという職業的使命、これらにもまた引き裂かれているのだ。言い換えると、公共性、個体生命、友情、職業、エロスと、それぞれ一筋に貫くことのかなわない五つの領域における人倫の命令が互いにもつれ合いながら、宮部の身体にいっせいに襲いかかっているのだ。
 それにもかかわらず、宮部はこの四分五裂した自らの身体から、命の瀬戸際で自らの信念(魂)を救い出す方法をかろうじて見つけ出した。身は公共性と職業が要求する人倫性のほうへ、そして魂は、友情とエロスが要求する人倫性のほうへ分割して奉納したのである。だから、彼の魂は、戦友・大石と妻・松乃の下へと帰ってきた。そうしておそらくは孫たちの下へも。
身を殺して魂を殺し得ぬ者どもを懼るな。身と魂とをゲヘナにて殺し得る者を懼れよ」(マタイ伝10章28節)という厳粛な言葉を思い浮かべるのは私だけだろうか。魂は殺されなかったのであり、それは、近代国家という公共体の下にではなく、友情とエロスという実存のふるさとのほうに帰還したのだ。

 ここで、映画作品での一連の印象的な展開について触れておきたい。宮部の命を救った大石が入院しているとき、宮部が見舞いに訪れ、妻が念入りに修理してくれた外套を大石にプレゼントする。大石は戦後もずっとその外套を着ている。新しい品を買う余裕がなかったのも理由かもしれないが、これはあの宮部さんの形見であるという気持ちが強かったのだろう。彼がようやく松乃の家を探し当てて戸口に立った時、松乃は男の影が差すのを見て警戒し、思わず箒に手を伸ばす。じつはこの箒に手を伸ばす場面は、宮部が不意の休暇で帰宅した時にも出てくる。両者は意識的にダブらせてあるのだ。そうして次の瞬間、戸が開くと、松乃はそこに宮部の姿を見る。だって自分が精魂込めて修理したあの外套を着ているではないか。すぐカットが変わり、立っているのは見知らぬ男・大石である。
 外套を小道具に使ったこの展開は見事であり、まさに宮部の魂が帰ってきたことが暗示されているのである(なお同じ展開は、作品構成上の制約はあるものの、原作でも伏線として記されている)。

倫理の起源59

2015年01月08日 15時56分44秒 | 文学
倫理の起源59




 さて三つ目に、島尾敏雄吉田満の対談『特攻体験と戦後』(2014年・中公文庫)から、二人の発言の一部を引いておきたい。
 島尾は、特攻隊長として南島に赴任し出撃直前に終戦を迎えて肩すかしを食った頃の内的な体験を、緻密な文体で『出孤島記』『出発は遂に訪れず』などの作品に結晶させた。また吉田は周知のように、『戦艦大和ノ最期』の著者である。この対談が行なわれたのは1977年という古い時期であり、本は1981年に中公文庫から出版されているが、2014年版は、いくつかの文献が増補されて「新編」として再出版されたものである。

 
島尾 ……特攻というのも、そのような戦争の中での一つのやり方だとは思うけれども、やはりぼくは、ちょっとルールがどこかはずれているような気がするね、人間世界では戦争は仮に致しかたないにしても、せいぜいスポーツみたいなところにとどめておくべきですね。特攻は、もうとにかく、最後のところまで、なんというかね……そうじゃなくもっと気楽に……戦争を気楽にするというのもおかしなもんだけども……。最後のものまで否定してしまわないで……。
吉田 死ぬ確率と生きる確率とのあいだには適正配分がありまして、戦争が人生の一場面としてあるとすれば、その適正配分の範囲内であるし、……特攻というのは、そういう原則を破るものですね。だから、みんなやむを得ず、無理をしてその中をくぐりぬけるわけでしょう。だから、あとにいろんな問題が残るわけでしょうけれども。
島尾 あれをくぐると歪んじゃうんですね。
吉田 歪まないとくぐれないようなところがありますね。
島尾 それはやっぱり歪んでいるという気がしますね。
(中略)
吉田 その通りだと思いますね。ただ、ぼくらの学徒出陣の時代は、たとえ歪んでいても、敗戦直前に戦場にかり出されて、なにかそういうものを自分たちに課せられたものとして受け入れて、その中からなにかを引き出すほかはないというような、そういう追い詰められた、受け身の感じがどうもあったと思うんです。そう感じた仲間が多かった。これは事実を言っているので、この事実をどう受け止めるか、われわれ自身がどう乗りこえるかは、別の問題で……。
島尾 その中からやはり水中花みたいな、非常にきれいな人間像が出てきたりなんかするんですね。冷たい美しさを持って死の断崖に剛毅にふん張った人たちなんか。しかし、それに惑わされないで……。だから、そういう一見美しく見えるものをつくるために、やはり歪みをくぐりぬけることが必要ということになると、ぼくはやはりどこか間違っているんじゃないか、という気がしますね。ほんとうはその中にいやなものが出てくるんだけれど、ああいう極限にはときには実にきれいなものも出てくるんですね。そこがちょっと怖いような気がしますね。


 整理すれば、次の四つのことが言われている。

①特攻隊作戦のようなものは、通常の戦争なら必ず暗黙の了解としてあるような、人間の生についての基本的な規範感覚を逸脱している。
②その逸脱は、普通の人間の意識を歪んだものにする。
③しかし自分たちには、その逸脱と歪みから抜け出す道は許されていず、それを運命として引き受けたうえで、それぞれに自分を納得させるほかはなかった。
④その納得の仕方のうちには、美しい人間像が出てくることもあったが、歪みを肯定しなければその美しさを引き出すことができないと考えるとすれば、それはやはり間違っている。


 この対談では、こういう作戦を立て実行に移した軍上層部への批判とか恨みのようなものは一切語られていない。事後的な客観認識にもとづいて当時を振り返る試みは、この二人のたくまざる文学的な誠実さによって、無意識のうちに避けられているのだ。しかしそうであればあるほど一層、実存体験としての特攻体験がどのようなものであったかという実相が過不足なく描き出されていると言えよう。
 ことに、訥弁の島尾の最後の発言は、「いやなもの」と「美しいもの」との両面性を指摘していて、かぎりない重みが感じられる。私は、ここで言われている「いやなもの」という生理的な表現に、梅崎春生が目撃して感じた水上特攻隊員の「いやな」感触を重ね合わせる誘惑からの逃れ難さを感じる。
 傲慢に聞こえることを承知の上でつけ加えれば、特攻隊員たちの遺書などに限りなく「美しいもの」がみられるのは、むしろ当然と言ってもよい事態なのである。若い身空で死にゆく運命を意識的に引き受けた上での瀬戸際の言葉なのだから。
 私自身もそれらに触れて涙を誘われることを告白するにやぶさかではない。しかしそれらの言葉の美しさは、すぐれた文学作品とちょうど同じように、それ自体で完結してしまう。それは、そのような運命に多くの若者たちを追いやった大きな力の正体がなんであったかという疑問、そうして疑問がある程度答えを得た時に生じてくるその正体への憤りを育まない結果に終わりがちである。だが、疑問や憤りは、それがどの方向に向けられるかは措くとして、また明確な表現を獲得するかどうかは別として、生活者の心の奥深くにずっと現存し続けるのである。
 これはまた、『きけ わだつみのこえ』(光文社)に収録されたいくつかの文章などについても同じである。この本の初版に対してその編集方針に左翼的イデオロギーの匂いをいち早くかぎつけて、「遺書にイデオロギーなどを読んではいけないのである。……彼等(編集者達――引用者注)は、それと気付かず、文化の死んだ図式により、文化の生きた感覚を殺していたのである」(「政治と文学」)と鋭く指摘したのは、小林秀雄だった。
 小林は、最後まで「政治」や「社会」にかかわるテーマに言及することを嫌い、「文化」の息の長さの維持に己れの表現の生命を賭けた。そのかぎりで、彼もまたある組織化された明瞭な「憤り」のかたちに自分の言葉を収斂させはしなかった。彼の思想を理解する上での重要なキーワードは、憤りではなく、ある運命を味わった生活者たちへの「深い共感と哀しみ」である。だが、いっぽうで彼は、子どもを失った母親の哀しみのうちにこそ、客観的な事実の羅列ではない真の「歴史」が生まれる根拠があると主張し、そうした生活者の営みや感情自体に、歴史的必然という「大きな力」への「抵抗」を見出している。「僕等の望む自由や偶然が、打ち砕かれる処に、そこの処だけに、僕等は歴史の必然を経験するのである。僕等が抵抗するから、歴史の必然は現われる、僕等は抵抗を決して止めない」(「歴史と文学」)。つまり実存者の生活の持続のなかに孕まれる具体的な哀歓が、「歴史の生産」に論理的に先立つのである。
 もとより憤りや反省を構成することは、実存思想家・小林の役割ではなかったが、その彼もまた逆説的な仕方で、生きることそのものが運命に対する「抵抗」であることを認めていた。この彼の態度を、憤りを正当に構成するための心の土壌と考えるのは我田引水であろうか。

 以上三つの例によって、特攻隊精神なる純粋で美しいもの(だけ)がすべての特攻隊員の心を貫いていたという思い込みが少しは相対化されただろうか。何度も繰り返すが、そういう思い込みに耽ることの一番まずい点は、この自暴自棄的な作戦を考え出した軍上層部の非合理性と人命軽視という最大の問題が不問に付されてしまうところである。フィリピン戦における大西中将がこれを発案したとかしないとか諸説があるが、それはどちらでも構わない。それがだれだったにせよ、特攻隊などという「十死零生」の作戦を考えて死の美学に国民の運命をゆだね、どこまでもこの作戦に固執しようとした時点で日本の敗北は明らかだったのである。後から来た私たち、英霊たちの遺族でもない私たちにとっては、あの戦争にかかわるなにかを言論思想として語ろうとすれば、そのように語るほかにすべがない。

倫理の起源58

2015年01月03日 12時29分37秒 | 政治
倫理の起源58




*以下の記述は、当ブログにすでに掲載済みの「『風立ちぬ』と『永遠の0』について(2)」と重複する部分が多い。

 ここで少し『永遠のゼロ』を離れて、特攻隊なるものが実像としてどうであったかについて、三つの証言を書き留めておく。どれもどちらかといえばネガティブな像の提出になっているが、私がここにそれらを記すのは、ただ単純に大東亜戦争を否定しようと思ってのことではない。私自身も含めて、あの戦争の実態を知らない世代が、特攻隊員たちを、単に「お国のために」進んで命を捧げた美しい精神の持ち主だったと勘違いしないためである。時間が経つほど過去は美化されやすい。だからこそ、そういう傾向を少しでも相対化しておきたいのである。

 梅崎春生の『桜島』は、敗戦の翌年にいち早く発表された戦後文学の傑作として名高い作品である。「死ぬならば美しく死にたい」という知的な青年(通信兵)の純な観念が、敗戦直前わずか一か月間の鹿児島県でのいくつかの体験によって徐々に相対化されてゆき、やがてこの観念をシニカルに否定する考え方をも乗り越えて、静かに死を受け入れようとする境地に落ち着く。そうした一種の弁証法的な心理の流れが、乾いたタッチで自己を見つめる文体を通して緻密に描かれている。
 いまそのことはさておき、この作品の前半、まだ「私」の気持ちが整理できないうちに、たまたま水上特攻隊のグループに出会って一種の違和感を抱く場面が出てくる。そのくだりをここに引いてみよう。

 ――先刻、夕焼けの小径を降りて来る時、静かな鹿児島湾の上空を、古ぼけた練習機が飛んでいた。風に逆らっているせいか、双翼をぶるぶるふるわせながら、極度にのろい速力で、丁度空を這っているように見えた。特攻隊にこの練習機を使用していることを、二三日前私は聞いた。それから目を閉じたいような気持で居りながら、目を外らせなかったのだ。その機に搭乗している若い飛行士のことを想像していた。
 私は眼を開いた。坊津の基地にいた時、水上特攻隊員を見たことがある。基地隊を遠く離れた国民学校の校舎を借りて、彼らは生活していた。私は一度そこを通ったことがある。国民学校の前に茶店風の家があって、その前に縁台を置き、二三人の特攻隊員が腰かけ、酒をのんでいた。二十歳前後の若者である。白い絹のマフラーが、変に野暮ったく見えた。皆、皮膚のざらざらした、そして荒んだ表情をしていた。その中の一人は、何か猥雑な調子で流行歌を甲高い声で歌っていた。何か言っては笑い合うその声に、何とも言えないいやな響きがあった。
(これが特攻隊員か)
 丁度、色気付いた田舎の青年の感じであった。わざと帽子を阿弥陀にかぶったり、白いマフラーを伊達者らしく纏えば纏うほど、泥臭く野暮に見えた。遠くから見ている私の方をむいて、
「何を見ているんだ、此の野郎」
 目を険しくして叫んだ。私を設営隊の新兵とでも思ったのだろう。
 私の胸に湧き上がって来たのは、悲しみとも憤りともつかぬ感情であった。此の気持だけは、どうにも整理がつきかねた。この感じだけは、今なお、いやな後味を引いて私の胸に残っている。欣然と死に赴くということが、必ずしも透明な心情や環境で行われることでないことは想像は出来たが、しかし眼のあたりに見たこの風景は、何か嫌悪すべき体臭に満ちていた。基地隊の方に向って、うなだれて私は帰りながら、美しく生きよう、死ぬ時は悔ない死に方をしよう、その事のみを思いつめていた。――


 このくだりを読んで、一部の人は、このようなことを書く梅崎春生自身に「知的な戦後文学者」特有の反戦平和思想(あるいは左翼思想)を見出して、逆に嫌悪感を抱くかもしれない。しかしことはそう言いくくれるほど簡単ではない。戦後文学といっても、この作品はまだそういう概括ができる以前の戦争直後に書かれている。もともと梅崎という人は、それほど知識人(文化人)的な作家ではないし、彼自身もおそらく見たまま感じたままをルポルタージュのように書いているのだと思われる。
 ところで私は、『桜島』を初めて読んだ若い時から、このシーンがずっと気にかかって仕方がなかった。
 梅崎自身の実体験とそのときの実感を表現したと思えるこのシーンには、政治思想的な整理では片づけることのできない生々しいリアリティがある。英雄視されてマフラー付きの「雄々しい」イメージの制服を着せられてはいるものの、じつはその内側から、若い身空で「どうせ間もなく死ぬ」ことを決定づけられたことによるある種のすさんだ自暴自棄の気分がどうしようもなく露出する。「伊達者らしく纏えば纏うほど、泥臭く野暮」に見え、やくざっぽく食ってかかってくる隊員の態度に、それを受ける側は「何か嫌悪すべき体臭」を感じてしまう。そういう心理表出過程が特攻隊員たちの一部に確実に存在しただろうことを私は疑わない。
 特攻隊員を志願兵と考えて、その散華していく姿を美談として語る言説は数多くあるが、こういうシーンを作品に定着させた例はあまり見当たらない。その意味で、死の直前の特攻隊員たちの一コマをスナップ・ショットのように切り取って見せた文学者・梅崎のカメラ・アイはたいへん貴重なものである。美しく悲しい「遺書」だけが特攻隊員たちの「遺品」ではないのである。「国に殉ずる」という事態の中には、こういう側面もあったのだという「証言」の重みをきちんと受け止めることは大切なことだと思う。

 特攻隊員が志願兵だったということを信じている若い人たちがいるかもしれない。これがとても志願兵などと言える代物ではなかったという事実は、『永遠のゼロ』原作にも詳しく書かれている。一応志願という形を取りつつ、状況の切迫と上層部の圧力と同志からの脱落を潔しとしない仲間意識とが、若者をして「志願」にマルをつけさせざるを得ないような力としてはたらいたのである。それは強制か自由意志かという二元論では片づかない問題である。これに関連して二つ目に、私自身の体験を書き留めておこうと思う。
 1999年に、ユング派の心理学者・林道義氏(ベスト・セラー『父性の復権』の著者)との対談集を出した(『間違えるな日本人!』(徳間書店)。このなかに、漫画家・小林よしのり氏の『戦争論』(1998年・幻冬舎)をかなり長く批評した部分がある。当然特攻隊の問題にも言及したので、その箇所における林氏の発言を一部引用しておこう。

 もう一つは、(小林氏の『戦争論』の中に――引用者注)特攻隊を美化する表現がありますが、特攻隊の人たちは、国のためを思って自発的に参加したわけではない。志願したというけれども、自発的な志願ではありません。ここの部隊では何人の特攻隊員を出せというようにノルマとして上から来ている。そして説得があって、最終的には志願という形になりますが、本当の純粋な志願などではない。
 私の親戚に特攻隊員が何人かいましたが、一九四五年の正月に妻のいとこが特攻に出撃する前に、暗黙のうちに家族に別れを告げに帰ってきた。そのときの話を聞いてみると、それはかわいそうです。自分は本当は行きたくない。けれども、国のために行かなければいけないという感じで、無口で暗い沈んだ感じだったそうです。かっこいい白いマフラーを巻いてさっそうとした姿ではあったが、何か淋しげだったそうです。
 妻の兄が軍国少年で、特攻隊に志願したいというのに対して、そんなことはやめろと言う。「親を泣かせてはいけない」「戦争に行ってはいけない」と言ったそうです。そして、妻に凧を買ってくれて、二人で丘の上へ行って凧を揚げていると、飛行機が飛んでいくのが見えた。「お兄さんもああいうふうにして飛んで行くのね」というと、何にも言わず、ただ空を見ていたそうです。そしてしばらくして戦死してしまった。本当に優秀で男らしくて立派な若者だったそうです。もっと早く戦争を終わらせていれば死ななくてすんだという家族の思いは、『戦争論』の中には出てきませんね。
 ですから美学などというものではありません。志願もしていないし、公のために死のうとか、そんなことは全然ない。なかには本当に信じ込んでいた人もないとは言いませんが、多くの人は半ば強制されていた。公共のために死ぬんだなんて、それ自体が美しいかどうかは別として、実態はそういうものではないんですね。


  林氏は、もちろん左翼ではなく、はっきりと保守派を自称している論客である。その人が特攻隊を美化するような小林氏の『戦争論』に対して、当時の体験的事実に即しつつ、小林氏は戦争を知らないのだと、静かな憤りをあらわに示しているのである。
 このくだりは、こうして対談後に整理された冷静な文章でさえ、読んでいて涙を禁じえないが、この部分を取り上げたのは、ここでの林氏の話そのものが私を感動させたからというだけではないのである。
 私はまさに対談者として林氏の眼前にいた。このくだりを語るとき、彼は、思わずこみあげてくる嗚咽をこらえるのに懸命だった。「私は、親類で特攻隊で死んだ人を知っていますが……志願なんて……そんな、そんなものじゃないんです」と喉を詰まらせながら。そのつらそうな何とも言えない表情を、私はけっして忘れることができない。