小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「ブルキニ」禁止の欺瞞性

2016年08月22日 21時02分54秒 | 政治
      





 まずは上の写真を見てください。
 浮き輪を持った女性が普通の服装で海岸から引き揚げていくだけの画像に見えます。
 ところがこの女性の着ているのは、イスラム教で許されている通称「ブルキニ」(ブルカとビキニの合成語)と呼ばれる水着なんですね。えっ、こんな服で泳げるのだろうかと思うのですが、ブルカと同じように女性が肌を露出することを禁ずる一部ムスリムたちの間では、これが当たり前ということです。
 ところで、すでに新聞報道でご存じの方も多いと思いますが、いまニース、カンヌ、マルセイユなど、リゾート地のあるフランスの10以上の自治体では、「政教分離」の原則という建前から、このブルキニの着用を認めないという判決や決定が出されています。カンヌでは、違反者は38ユーロ(約4300円)の罰金が科せられており、今月17日現在で、4人が罰金を払ったそうです。(毎日新聞8月19日付)
 フランスでは、ブルカやヒジャブ(頭から首にかけて巻くスカーフ。顔は隠さない)が学校や公共の場所で着用禁止とされていることは古くから知られています。前大統領のサルコジ氏が2010年に提案し、2011年には議会で圧倒的多数で可決されました。もちろん、「宗教の自由」に反するとか、人権侵害だとかの理由で反発の声も多く挙がっています。 同じような問題は、フランスばかりではなく、ドイツ、ベルギー、オランダ、オーストリアでも起きています。
 ドイツでは19日、大連立政権のうち、メルケル首相の保守系与党が自動車運転時や、公的機関、学校など公共の場の一部でのブルカ着用禁止を目指す方針を公表しました。移民らの社会統合を促すのが目的で、メルケル氏は「顔を隠す女性が統合される見込みはほとんどない」と強調したそうです。オーストリアでも移民統合問題を担うクルツ外相が18日、ブルカ禁止を図る意向を表明。ベルギーも公共の場でのブルカ着用を禁じ、オランダも一部の場で着用を禁止していますが、こうした動きがさらに広がる可能性もあるとのことです。(産経新聞8月21日付)
 みなさんはこの問題、どう思いますか。

「政教分離」の原則とはいったい何でしょうか。フランス革命から近代の自由・平等思想が定着していったとはよく言われることですが、これは言うまでもなく、人種、性、言語、宗教、政治的信条、文化的慣習などに関わらず、各人の法的な平等と、思想・信仰・表現の自由をどこまでも認めるという理念をあらわしたものです。だからこそ、現実政治や公共的な取り決めの場にいっさいの宗教的制約、強制、教唆、指導、判断などを持ち込んではならない――これが「政教分離」の原則であるはずです。この原則は、特定宗教に対する徹底的な寛容を貫くものでなくてはなりません。
 ところがムスリムに対するこの仕打ちはどうしたことでしょう。「政教分離」の原則を掲げながら、やっていることは、明らかにヒステリックな宗教弾圧です。同じ原則を、その理念とはまったく逆の政策に利用しているのです。フランス(ドイツ、ベルギー、オランダ、オーストリアも)政府や自治体は、その論理破綻に気づいているのでしょうか。自分たちが立てた原則を自分たちで壊しているのだということに。
 もしブルカやブルキニやヒジャブを公共の場でまとうことを禁止するなら、キリスト教の修道尼が僧服を着て街を歩くことも禁止すべきだし、カトリック教会やプロテスタント教会が寺院のファサードに十字架を掲げることも禁止すべきでしょう。いえ、教会という施設がそもそも誰が出入りしても自由という意味で、半公共的な施設ですから、この施設における宗教的行事なども禁止すべきだということになります。キリスト教のみならず、ユダヤ教のシナゴーグも、イスラム教のモスクも。

 フランスで、ヨーロッパで、何が起きているのでしょうか。
 もちろん、移民・難民が引き起こす文化摩擦やイスラム・テロに対する不安と恐怖が今回のような罰則まで伴う厳しい規制をもたらしていることは明瞭です。しかしそれなら、「私たちはキリスト教文化圏に属する市民を防衛する」とはっきり言えばいいのに、特定宗教に対する明らかな抑圧を、「政教分離」の原理によって正当化するのは、いかにも欺瞞的です。ただの排外主義を近代の普遍的価値のように言いくるめているのですから。これでは普通のムスリムが腹を立てても当然と言わなければなりません。その点では、新たなムスリム移民の制限を打ち出しているアメリカのトランプ大統領候補のほうがずっと正直です。
 こうした問題は言うまでもなく、率先してナショナリズムを否定し、域内グローバリズムの理念を掲げたEUが自ら招きよせたものですが、じつは根深い歴史を持っており、昔からヨーロッパの内部には、妥協しえない多くの民族どうしの対立、差別被差別、支配被支配、互いの潜在的な憎悪と恐怖の感情などが渦巻いていたのです。
 シェイクスピアの『ヴェニスの商人』にはあからさまなユダヤ人差別の実態が盛り込まれていますし、ヨーロッパが主戦場になった第一次大戦は、帝国主義国家どうしの植民地争奪戦が大きな原因の一つでした。また戦後のヴェルサイユ体制にも「戦勝国」フランスの長年にわたるドイツへの怨念が盛り込まれていましたし、日本がこの時提案した人種差別撤廃法案は、にべもなく却下されています。
 このヴェルサイユ体制の大きな歪みが、ナチス・ドイツを生みました。ヴェルサイユ条約後わずか20年で第二次大戦に突入し、そのさなかにユダヤ人強制収容と大虐殺とが行なわれました。多くの人々(特に戦後ドイツ人)は、悪者を特定することが贖罪願望を満たしてくれるので、ヒトラーだけを悪魔のようにみなしていますが、よく知られているように、フランスにもユダヤ人を売る人々はたくさんいましたし、当のユダヤ人でさえ同胞を密告する人が少なからずいました。また戦後、ポーランドでは、一部の人たちが報復のためにドイツ人を強制労働に駆り立てたと言われています。きれいごとを言っていても、有事にはこのように隠されていた本音が露出するのです。
 記憶に新しいところでは、2015年1月に起きたムスリム過激派によるシャルリー・エブド襲撃事件がありますが、このシャルリー・エブドという雑誌の内容がどれほど下品な形でムスリムを侮辱したものか、みなさんはご存知でしょうか。よろしければこれについて触れた以下の拙ブログ記事をご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/9b41f69650ef0ef5018dab8b5e325872


 さてこのたびの報道には、あの硬直した理想主義が好きなドイツまでもが、ブルカ着用禁止の方針を決めたことが報じられています。つい昨年の八月に難民受け入れ大歓迎と大見得を切った当のメルケル首相が、わずか1年で「統合のため」を表看板にし、難民150万が引き起こす混乱と矛盾にたまりかねて、とうとう本音を吐いたと見るべきでしょう。これは、自分たちの文化に従うのでなければ、いっしょにやっていくことはまかりならぬと宣言したに等しいからです。でも今さら追い返すわけにいかないとすれば、どうやって同化政策を取っていくのでしょうね。私の見る所では、この「統合」は失敗するでしょう。そしてその時がおそらく「EU統合」の失敗がだれの目にも明らかになる時でしょう。
 それにしても、ハンガリーの防壁建造に象徴されるダブリン協定(難民は初めに到着した国が受け入れる)の実質的無効化、英国のEU離脱決定、かつてEU参加を熱望していたトルコの大混乱、そうして今回の「ブルキニ」禁止決定などを考え合わせますと、EUの空想的な理念が一歩一歩崩壊してゆく様をまざまざと見せつけられる思いです。そうしてこの事態は、グローバリズムというイデオロギーがいよいよ暗礁に乗り上げて、世界がナショナリズムを基調としたさらなる多極化の時代に突き進みつつあることを表わしています。世界の多くの人々は、ヒューマニズムやコスモポリタニズムの欺瞞性に気づき始め、正直に本音を語ろうとしているのです。これはよいことです。「ブルキニ」を禁止されたムスリムたちは、正当な抵抗に立ち上がるべきでしょう。

 わが国は、欧米由来のヘンなリベラリズムや空想的な地球市民主義にかぶれさえしなければ(困ったことに知識人や政治家ほどかぶれやすいのですが)、もともとナショナルなまとまりを維持できる条件に恵まれているのです。日本語という統一言語、島国という地政学的条件、天皇をいただく長い歴史を持つ文化的同質性等々。
 わが国で、牧師さんが僧服姿で歩いていたり、坊さんが袈裟を着て公共の場所に出入りしたりすることを禁止するなどということが考えられるでしょうか? おそらくムスリムが「ブルキニ」を着て湘南海岸で海水浴をしていても、誰も文句を付けないでしょう。この驚くほどの寛容さと安定感覚が何に由来しているか、よくよく考えてみましょう。
 それは欧米や中国のように、多民族どうしの軋轢と摩擦に悩まされてこなかったからです。彼らは長く悩まされてきたがゆえにこそ、EUとか、共産主義とかいった、維持困難な苦しい理念を掲げざるを得ないのです。私たちは、永く天皇の存在によってまとめられてきたこの文化の同質性のありがたさを、もっともっと自覚すべきだと思います。ゆめゆめ欧米を見習ってわざわざ低賃金競争や文化摩擦を引き起こす移民政策などに手を出してはなりません(残念ながらもう政府は手を出しているので、何とかこの動きを阻止すべきなのですが)。