小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源23

2014年02月22日 23時16分49秒 | 哲学
倫理の起源23


  ラ・ロシュフーコー

 最後に、このことに関連して、先に触れたとおりカントが幸福の原理をすべて無前提に「自愛」の原理に直結させている点の誤りを指摘しておこう。

 理性的存在者の全存在に不断に伴なうところの生の快適に関する意識は幸福であり、またこれを意志の最高の規定根拠とするところの原理は自愛の原理である。したがって、意志の規定根拠を、なんらかの或る対象の現実から感じられる快あるいは不快に置くところのあらゆる実質的原理は、これらの原理がすべて自愛すなわち自己幸福の原理に属するかぎりにおいて、全然同一種類のものである。(『実践』第一篇・第一章・第三節)

 生の快さについての意識が「幸福」であることには異論はないが、問題は、その生の快さの意識が、すべて自愛を原理とするところから生まれてくるという論理である。
 見落してはならないのは、生の快さの意識、すなわち幸福感が、果たしてカントが同一視したがっているように、いつも「自愛」を原因とするものであるかどうかという点である。私たちが快や幸福を感じるとき、それはほんとうに他者と切り離された限りでの「自己」への執着に由来するだろうか。ちなみにカントがそう考えていたことは、次の引用によって明らかである。

 あらゆる傾向性(このような傾向性は、かなり統一のある体系に纏められうる、その場合にその満足は自己幸福と呼ばれる)は相ともに我欲を構成する。我欲は自分自身に対する極度の好意である自愛の我欲か、そうでなければ自分自身に対する満足の我欲かである。前者は特に私愛といわれ、後者は自負といわれる。(同・第一篇・第三章)

 ここで「傾向性」とは、理性的な意志の自由に従わず自然の法則に服従することを意味する。感情や欲望や衝動などに動かされて何か行為することは、すべて「傾向性」のなかに分類される。傾向性を満足させることがすなわち「自己の幸福」であり「利己心」であり「自愛」であり「自己愛」または「自負」であるというのである。
 たしかに、うまい食事をして幸福感を味わうというような単純な個人的欲求満足の場合、それは「自愛」の原理にもとづくと考えてよいだろう。しかし、その幸福感さえも、ひとりでうまさを味わう時よりは、気の合う仲間と楽しく食事したほうがずっと大きくなるのではないか。
 家族で行楽に出かけて子どもたちが喜んでいるのを見て、親が幸福感に浸る場合、それは「自愛」だろうか。
 またたとえば、先に挙げた例のように、人は困った人を助けることができると幸福感を味わうし、よい商品や作品を提供して人に喜んでもらうと、自分だけでその品物に満足しているのに比べて幸福感が倍加する。多少とも長く仲良くつきあってきた人が何かの栄誉を受ければ、わがことのようにうれしくなるというのも、しばしば経験することである。
 こうした「幸福」の事例を、他者と区別される限りでの「自愛」の原理によってどのように説明できるというのか。カントの頭の中には、分断された個人としての自己と他者との区別に重なり合う「自愛」と「他愛」の二分法の原理しかなく、それをまたそのまま「幸福」と「道徳」の非妥協的な対立原理に適用しているのである。
 こういう考え方は、近世から近代初期の西欧における知的社会を支配した思想図式として通り相場だったのかもしれない。たとえば17世紀フランスのモラリストとして名高いラ・ロシュフーコーは、その著『箴言と考察』の冒頭を「われわれの美徳は、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」というシニカルな一句で飾っている。彼は、友愛や博愛や謙遜や貞節や勇敢などの美徳を、すべて自己愛の変形であり虚栄心の屈折した表現であるとみなした。これはこれで鋭い人間洞察として大いに評価できる部分があるが、しかしいっぽう、この種の「人間通」的なものの見方にあまりに淫するのもどうかと思われる。それは、つまるところ、カント的な道徳至上主義(他愛原理主義)の反転した鏡にすぎないともいえるからだ。すべて美徳とされているものは、その化けの皮をはがせば虚栄であり自己愛であるという人間認識こそ、まさにその対極としてのカント的な道徳的絶対理想を要請するのである。なぜなら、論理的に言って、こういう把握の仕方(言語の用い方)そのものに中間項は考えられないからだ。
 しかし人間は、自愛精神か他愛精神かのどちらかに徹して生きることはできない。だれしも自愛を通しての他愛、他愛を通しての自愛、両者のあいまいな混淆状態を行きつ戻りつしながら生きるのである。これを幸福と道徳というカント好みの二元論的な用語につなげて言い換えるなら、人間は幸福になろうとすることによって道徳の意義を理解し、徳を身につけることをめざしつつ幸福の可能性をつかむのである。両者は言語によって截然と分かたれるような非妥協的な要素ではない。それは、不幸に陥ったものがしばしばそのことで不徳を犯し、不徳を行ったものがしばしばそのことで不幸になるのを見てもわかる。
 ソクラテスやプラトンの時代には、ここでカントが行っているような「善」と「快」、「他愛」と「自愛」の妥協不可能な分節は明瞭ではなかった。「善」という概念は道徳的なそれに特化されず、「幸福」概念とも折り合いが悪くなかった。彼らの時代には、公的正義と私的快楽とを鋭く対立させる意識はあったが、「よきこと(アガトン)」という場合は、「善」「快」「優」のすべてを未分化な形で包含していた。だからこそ、プラトン自身は、その言語使用の実態を利用しながら、本当の「よき」生き方とは何かという問題を提起し、それを正義や徳や道徳的な善の概念の方に思いきり引っ張っていくことができたのである(『ゴルギアス』他参照)。
 以上のことは、人間がもともと、互いに孤立した個人としてあるのではなく、ひとりひとりが共同存在・関係存在としての本質的な存在構造をもっているところに理由が求められる。人は人とともにあることによってはじめて「人間」となるのであり、その場所にこそ幸福の源泉があり、人倫の要請もその場所においてこそ立ち上がるのである。


*次回より、ニーチェを論じます。

倫理の起源22

2014年02月19日 16時21分24秒 | 哲学
倫理の起源22





 以上みてきたように、カントは「徳」と「福」との原理的な不一致に固執した上で前者の価値の絶対的な優位を説いているが、いま挙げたような道徳に直接かかわらない価値がいくつも存在するという問題とは別に、次のような洞察もまた重要である。
 それは、私たちの生活の現実の中には「善」と「快」、「徳」と「福」とは、事実上一致している場合が非常に多いという点である。両者はけっしていつもぶつかり合うわけではないのだ。
 たとえば、困っている人を助けると相手が喜ぶのはもちろん、自分もいい気持になる。我を通さずに譲る気持ちをもつと、自分のなかに余裕のある心が確認できて満足感を抱く。
 これはなぜだろうか。
 エゴイズムだけの観点からこの現象を分析すれば、自分が優位に立てたからだとか、相手に感謝されることが自分の価値を高め、自己愛を満たすように感じられるからだといった指摘以上に出ることはないだろう。だがこれは間違いとは言えないにしても、同義反復の思考停止というべきである。
 なぜ優位に立てると感じたり、自己愛が満たされるのか?
 それはひとえに、共同体の人倫が「よい」として認め、勧めていることを実行したので、自分が共同体のメンバーであることが実感できたからである。人と通じ合えたことがうれしいのである。他から孤立した純粋な「自己愛」というようなものはあり得ない。この場合の「自己」とは、自己を振り返る自己であり、その振り返りの作用そのものの中に、すでに他者(共同性)のまなざしが組み込まれている。ナルキッソスでさえ、他者のまなざしの象徴としての「みずかがみ」を必要としたのである。
 またたとえば、母親がかわいい子どもを深い愛情(これは別に無条件に「善」であるわけではない)をもって育てることに幸福感を見出し、その実践が、そのまま子どもの人格を立派なものにすることにつながる。
 持続する夫婦愛は、人間の性愛感情の乱脈さをなだめるので、社会秩序を維持する基盤となるし、友情に伴う幸福と充実の感情が結束を生み出し、正義にかなった行動を促進させることもある。
 さらに、本当の商売繁盛を目指す精神のなかには、自分の提供する品によって客に喜んでもらうことを心から願う気持ちが不可欠のものとして含まれている。この気持ちがなく、ただ儲けることの快だけを追求してもかえってうまくいかないというのは、ほとんどの成功した実業家が口にすることである。
 同じように、いい品を作ろうと魂を込める職人の努力とその欲求がかなった時の満足感(快)とは、それを使う他の人たちの満足(すなわち職人にとっての善)にそのまま重なり合っている等々。
 カントは道徳的な善と幸福とを原理が異なるものとして切り離し、前者を幸福実現の「手段」と考えることを絶対的に拒否するために、こういう現実面にあえて目をふさいでいるのである。
 さて、彼は、なぜこれほど徳と福との不一致の原則にこだわるのだろうか。
 この疑問は簡単に解ける。次の引用を見よう。

 確かにわれわれの幸と不幸とはわれわれの実践理性の判定においてきわめて重大な意義を有するものである。
もしわれわれの幸福が、理性のとくに要求するように、一時的の感覚によってではなく、この偶然事がわれわれの全存在ならびにこの存在に対する満足に対して有する影響如何によって判定されるとするならば、感覚的存在者としてのわれわれの本性に関する限りにおいて、われわれの幸福は唯一の重要事であろう。けれどもそれのみが絶対的に唯一の重要事なのではない。人間は、感性界に属する限りにおいて、要求をもつところの存在者である。そしてその限りにおいて彼の理性は感性の要求を顧慮し、かつ実践的格率を現世的生活の幸福に関して、またできるなら未来の生活のそれに関しても樹立するように、感性の側からの拒みにくい委託を受けている。けれども人間は、理性が断固として言うところの一切事に対して無頓着であったりまた理性をば感性的存在者としての彼の要求を満足せしめる道具としてのみ用いるほどひどい動物的存在ではないのである。もし理性が人間に対して、本能が動物にあってつとめると同じことをなすためにのみ役立つべきものならば、彼が理性を有するということは、価値において彼を単なる動物性以上に少しも高めはしないからである。もしそうだとすれば理性は、自然が人間により高い目的を与えることなくしてただ動物に与えたと同一の目的を与えるために用いた特殊の方法に過ぎないであろう。もちろん人間は、とにかく彼に対してつくられたこのような自然的体制に従って彼の幸不幸を常に考慮するために理性を必要とする。けれども彼はそのほかにより高い使用のためにも理性を有するのである。すなわちそれ自体善でありあるいは悪であるところのもの──これについては純粋な、感性にまったく左右されない理性のみが判断しうるのであるが、──をも考量するのみならず、この判定と彼の判定(引用者注――幸福実現のための実践理性の判定)とを全然区別して、この判定を前の判定の最高の制約とするために、理性を有するのである。
(『実践』「実践理性の分析論・第二章」

 引用部前半では、理性が幸福追求のために使われることを部分的には容認して、いかにも寛容さを示しているかのように読める。しかし、読み違えてはならない。カントが本当に言いたいことは、引用部終末の「すなわち」以下数行にある。
 これでわかるように、カントは人間の理性のはたらきが、単に幸福追求の知恵として与えられているのではなく、また「それ自体として善もしくは悪である」ものを正しく判定するために与えられているだけなのでもない、さらに進んで道徳的な善悪の判定そのものによって幸福追求の判定を絶対的に制限してしまうところにこそ、その本来のはたらきがあるのだと力説している。つまり理性の本領は、ただ道徳的価値の実現にのみあるのではなく、幸福追求のために知恵をはたらかせるその力が独り歩きしないように抑え込んでしまうところにあると言っているのである。
 言うまでもなく、こういう考え方は、人間の理性は、ただ動物の本能と同じように感覚に奉仕するものであってはならず、幸福追求を目的として用いられてもならず、ただ善悪の判断のためにだけ用いられてもならず、これらの理性の働きそれ自身を統制するいっそう高い使命をもっているという道徳観が基礎になっている。きわめて抑圧的な道徳至上主義である。
 このロジックの背景にあるのは、幸福=感覚的満足=動物にも共通するより低い価値しか持たないもの、道徳=理性の行使=人間にのみ可能なより高い価値をもつものという、単純きわまる図式的な断定である。
 もう少し言うと、ここでイメージされている「幸福」とはあくまで主観的レベルにとどまる「よきもの」の概念であり、これに対して「道徳」は、あくまで客観的な視点を確保した上での「よきもの」の概念ということになろう。
 なんという単純な図式的断定だろうか! しかし、この単純な図式こそが、じつにプラトン以来の西洋哲学の核心部分を二千年以上にわたって支配してきた当のものなのだ。なぜ西洋の哲学史は、かくも執拗に感性、感覚、感情、情緒、欲望などの概念を、より低いもの、主観に限定されたものとして見下し、これに対して感覚界を超えたイデア、主観的関心に惑わされない知性、欲望に支配されない理性、快楽追求におぼれない道徳性、日常性に堕落しない本来的な自己、などの概念を、ほとんど痙攣的と形容したくなるほど、懸命になって打ち立てようとしてきたのか。
 すでに本稿でしつこく扱ったように、はじめに、物事の抽象へ抽象へと向かう力学をもっている言語の特性を巧みに利用したプラトンの壮大な詐欺があったのである。その詐欺は、見事に西洋の哲学界を長く支配する力を示した。それは要するに、公的な秩序を維持するためであった。つまり自分たちが抑えきれずに駆り立てられてきた強い欲望(特に情欲)を何とかコントロールして克服したいという隠れた動機が彼らのうちに共通に存在したからに他ならない。
 しかし、ここにこそ、西洋哲学の欺瞞の根っこがある。なぜなら、哲学とは、「学の学」として、あらゆる偏見から自由に、普遍的な真理を追究するという体裁を伴っているのに、じつはその体裁の陰で、初めから「感覚=低いもの、理性=高いもの」という価値審級を当然のこととして密輸入しているからである。
 なぜ感覚や情緒が「より低いもの」であると断定できるのか。この問いに西洋哲学はきちんと答えたことがあっただろうか。それはニーチェが登場してこの欺瞞を暴くまではほとんどなかったといってよい。わずかにデカルトが認識論の範囲内で、感覚は誤りやすいという例を示しているくらいなものだが、それとても大いに批判の余地がある(大森荘蔵『知の構築とその呪縛』ちくま学芸文庫参照)。つまり、西洋哲学は、長い間、自分の本懐とするところとは裏腹に、もともとカントに代表されるような「道徳的(宗教的)拘束」の鎖につながれていたのである。
 この欺瞞はまた、感覚や情緒をパッシヴ(受け身的)なものとしてとらえる西洋の言語的慣習のなかによく象徴されている。パッションは受苦であり受動であると同時に、情熱でもあるのだという。この矛盾した言語的把握を私たちは素直に受け取れるだろうか。
おそらく彼らの言語的慣習のもとでは、つぎのようなロジックがはたらいてきたのだと考えられる。
 その強さ激しさにおいて、情緒や情動や情欲は、抑えがたく内から沸き起こる「情熱」的なものと考えざるを得ないが、それを、自分たちを構成する欠くことのできない要素と認めてしまっては、公共の秩序を維持することができない。そこで、それらは外からやってくるものとしてその責任を「より価値の低い」他者(たとえば対象化された動物的な自然や、女の誘惑)に押しつけなければならなかった。
 聖書の創世記では、まず蛇が女であるイヴをそそのかし、イヴが男アダムをそそのかすという順序になっている。理性の代表者を僭称してきた男たちは、自分の欲望を、自分を構成する要素として肯定せずに克服の対象とみなし、初めからその原因や責任を外部になすりつけたのだ。誘惑と戦って禁欲を貫こうとする修道院の童貞僧侶たちの滑稽な姿が目に浮かんでくる。カントの道徳論は、まさにその近代ヴァージョンである。
 日本思想や仏教でもそれは同じではないかといわれるかもしれない。しかし日本古来の思想は、よく知られるように、自然を自分にとって外的な客体として対象化する感性とは無縁である。
 たとえば優れた短歌の自然詠によくあらわされているように、景物の描写が同時に主情の表現にもなり得ている。また神道の精神は、自然を、生活に直結した親しいものではあるがしかし時には暴威を振るって生活を根こそぎにするものとしてとらえる。それゆえ伝統的な日本人の感覚では、自然は常に、その姿のままに畏怖尊敬すべきものである。
 ここには、そもそも欲望を肯定するか否定するかといったような過度な倫理的選択の問題は発生する余地がない。内部と外部とは明瞭に区別されず、情緒は逆らいえない流れ、自分もそこに乗っているものとして受け止められる。これは、公共的秩序への関心がもともと薄いことと表裏をなしていて、政治的統制術があまり得意ではなく、そういうものが必要なときには、外来の思想を借りてきたのである。だらしないと言えばだらしないのだが、少なくともここには西洋哲学的な欺瞞を創出する必然性がない。学としての倫理学が発達しなかったゆえんでもある。
 また、仏教にも修行僧はおり、彼らは選ばれた者たちとして厳しい戒律を守ることを強いられはした。しかしもともと仏教では、欲望を、この世にあるかぎりはけっして逃れられない「煩悩」としてとらえるので、それは必ずしも、すべての衆生にとって克服しなくてはならない主題ではないのである。ユダヤ教やキリスト教(カトリック)のように、割礼や懺悔告解や聖体拝受のような慣習が一般大衆の生活に根づいたことはなかった。
 伝統的な西洋哲学における感覚、肉体、情緒、感情、欲望への骨がらみの蔑視は、人間や自然のあらゆる事象を公平に取り上げて真剣に考える哲学や倫理学本来のあるべき姿をたいへん歪めたというべきである。それは、超越的な一者への帰依をひたすら勧めるという意味で、現実に対する一種のニヒリズムを含んでいる。カントの倫理学はその極みといっても過言ではない。
 いったい、これらのアイテムがただ社会的人格の完成の邪魔になるとか、公共性を養わせなくさせる危険があるという教育上の理由だけで、あるがままにそのあり方を受け止めて探求しようとする哲学の心を捨ててもよいものだろうか?
 私は人間の身体性や情緒性を哲学的な探求の標的としてとらえることは、倫理学的にも重要な意味をもつと考えている。しかし、その場合にそれらを、プラトンやカントのように倫理学を成り立たせるための否定的な媒介とみなすのではなく、共同存在・人倫存在としての人間の本質構造を担うものとしてとらえるべきだと思うのである。なぜならば人間の身体性や情緒性は、一見そう見えるように、ある個体に固有な閉じられたものとしてあるのではなく、もともと共同性をかたちづくる本質的な要件だからである。
 このことは、芸術への共通の感動、おいしい(まずい)食事はほぼ誰にとってもおいしい(まずい)と感じられ、しかもどのようにおいしい(まずい)かについて細かな点まで言葉で共有できる事実、親しい者どうしの無言の気持ちの通じ合い、表情や身振りの模倣可能性やその意味の直感的な共通理解、ある感情の集団的発生と伝播などを思い浮かべるとわかりやすい(身体や情緒についての私自身の言及については、『エロス身体論』平凡社新書、『人はなぜ働かなくてはならないのか』洋泉社新書、『日本の七大思想家』幻冬舎新書・四章などを参照)。


*次回でカント批判に区切りをつけ、その次からニーチェを論じます。

「ほんとうの父親」って何?

2014年02月15日 17時31分38秒 | エッセイ
「ほんとうの父親」って何?




 冒頭に掲げたのは、昨年評判になった映画『そして父になる』の一画面です。
 ご承知の通り、この映画は、5歳まで愛情を注いで育てた子どもが「実の子」ではなく、病院で取り違えられたことを知らされ、それから夫婦の苦悩が始まるという設定です。
 実は私、この映画を見そびれてしまいました。ですので、詳しい展開や結末を知りません。でもテーマにはずっと関心を抱いていたので、DVDが発売されていたら買おうと思って注文したところ、4月発売予定ということです。ずいぶん先の話で残念なのですが、見るのはそれまで我慢することにしました。
 本来なら、映画を見てからこの文章を書くべきなのですが、映画の内容いかんにかかわらず、「ほんとうの父親」という問題について現時点での考えを発表することはできますから、それを書いてみます。DVD発売を待ちきれなくなったというのが本音です。

 現代の科学技術はたいへん高度な水準に達しています。なかでも、人物特定にかかわるDNA鑑定は近年その精度が飛躍的に高まり、犯罪捜査や拉致問題などにも利用されていることは周知の事実です。遺骨、毛髪、体液などのほんの少しのサンプルがあるだけで、当人をめぐる血縁関係が特定できるわけですね。
 この鑑定法は、夫が妻の浮気や不倫を疑って「ほんとうに俺の子なのか」という疑惑が生じた場合や、遺産相続をめぐって兄弟姉妹間で争いが生じた場合などで、一つの決着をもたらすための有力な手段としても活用されているようです(数としてはそれほど多くないでしょうが)。
 しかし、この「決着」なるものが、果たして当人たちを心から納得させるものなのかどうか、まして、「決着」があったからと言って、当人たちのどちらかあるいは両方に、これまでよりも将来の幸せを約束してくれるものなのかどうか、ということになれば、これははなはだ疑わしい。新しいトラブルの起爆剤にならないとも限りません。
 2014年1月、次のような興味深い(と言ってはご本人たちに失礼ですが)新聞記事が載りました。全文転載します。

DNA鑑定「妻と交際相手との子」、父子関係取り消す判決
(朝日新聞デジタル版 2014年1月19日05時00分)

 DNA型鑑定で血縁関係がないと証明されれば、父子関係を取り消せるかが争われた訴訟の判決で、大阪家裁と大阪高裁が、鑑定結果を根拠に父子関係を取り消していたことがわかった。いったん成立した親子関係を、科学鑑定をもとに否定する司法判断は、極めて異例だ。
 訴訟は最高裁で審理中。鑑定の精度が急速に向上し、民間機関での鑑定も容易になるなか、高裁判断が維持されれば、父子関係が覆されるケースが相次ぐ可能性がある。最高裁は近く判断を示すとみられ、結果次第では、社会に大きな影響を及ぼしそうだ。
 争っているのは、西日本の30代の夫婦。2012年4月の一審・大阪家裁と同年11月の二審・同高裁の判決によると、妻は夫の単身赴任中、別の男性の子を妊娠。夫は月に数回、妻のもとに帰宅しており、実の子だと疑っていなかった。
 その後、妻と別の男性の交際が発覚。妻は夫に離婚を求め、子と交際男性との間でDNA型鑑定を実施したところ、生物学上の父子関係は「99・99%」との結果が出た。妻は子を原告として、夫との父子関係がないことの確認を求めて提訴。「科学的根拠に基づいて明確に父子関係が否定されれば、父子関係は取り消せるはずだ」と主張した。
 民法772条は「妻が婚姻中に妊娠した子は夫の子と推定する」(嫡出〈ちゃくしゅつ〉推定)と定めている。この父子関係を否認する訴えを起こせるのは夫だけで、しかも、子の出生を知ってから1年以内に限られている。
 今回のケースはこれにあてはまらないうえ、「夫がずっと遠隔地で暮らしている」など、明らかに夫婦の接触がない場合は772条の推定が及ばないとする、過去の最高裁判例も適用されない事案だった。家裁の家事審判は、あくまで夫と妻が合意した場合に限り父子関係の否定を認めるが、今回はそれもなかった。
 夫側は父子の関係を保ちたい考えで「772条が適用されるのは明らか。子への愛情は今後も変わらない」と主張。民法の規定や従来の判例、家裁の実務を踏襲すれば妻の訴えが認められる可能性はないはずだった。ところが一審の家裁は「鑑定結果は親子関係を覆す究極の事実」として妻側の訴えを認めた。二審の高裁は子どもが幼く、妻の交際相手を「お父さん」と呼んで成長していることなども考慮。家裁の結論を維持した。(田村剛)
 ◆キーワード
 <嫡出推定> 民法772条は、妻が身ごもった時、夫の子と推定すると定めている。妻が夫に隠して別の男性の子を身ごもった場合も、この規定により法律上は親子となり得る。父を早く確定することが子の利益になるとの考えからだ。ただ、この規定ができたのは血縁の有無が科学的に証明できなかった明治時代。DNA型鑑定で血縁関係を確認するケースは想定されていなかった。
 

 いかがですか。
 この記事には、「いったん成立した親子関係を、科学鑑定をもとに否定する司法判断は、極めて異例」と書かれていますが、さらに「異例」な印象を受けるのは、夫が訴えているのではなく妻のほうが原告代理で、「科学的根拠」を使って夫と離婚し、交際相手とその子どもと共に新しい家族を作ろうとしている動機が見える点です。しかも最高裁で争うということは、夫のほうが妻の不貞を知り、「根拠」を突き付けられてもなお判決を不服とし、控訴、上告していることを意味しますね。
 特異といえば特異であり、また当事者間には、外からはうかがい知れない複雑な事情があるので、軽々しく倫理的な判断は下せません。しかし野次馬的に言うなら、時代も変われば変わるもの、離婚への妻の意志の強さ、婚姻関係・家族関係に対する夫の執着の強さだけはうかがえるでしょう。夫側の主張にある「子への愛情」というのがはたして本物なのか、それとも形式にこだわっているだけなのか、あるいは自分を裏切って幸せになろうとしている妻への復讐心が根元のところにあるのか。想像はいくらでもたくましく膨らみます。ただ心配なのは、こんな争いに終始している間にどんどん子どもは成長していくのに、その子の人生を二人がどこまで真剣に配慮しているのかという点です。

 さて私がここでひとまず指摘しておきたいのは、現代人の「科学的根拠」なるものについての異様なまでのこだわりについてです。このこだわりは、こうしたプライベートなケースに限らず、今日、他のあらゆる場面で物事の決着のための最終根拠として重宝されています。医療分野、原発問題、環境問題、経済問題、日々の健康美容……。何か問題を感じたり意見が対立したり判断に迷う場合、必ず駆り出されてくるのが、「科学さま」という神様です。あたかも古代中国において亀甲の罅の入り方によって政治的な決断をしたように。いや、この卜占によるほうがまだましかもしれない。人知ではうかがい知れないことを神々の定めにゆだねるという謙虚な自覚があったのですから。
 では「科学さま」という神様によって万事が解決するのかといえば、それはとんでもない。ある問題をめぐって、どちらも「専門的」「科学的」という看板を使いながら、まったく反対の主張をして譲らない例は腐るほどありますね。
 私は、この科学万能主義にもとづく判断や行動の少なからぬ部分が、良識と寛容とよき慣習によって成り立っている社会関係を破壊する大きな作用を持っているのではないか、と考えています。もちろんこう言ったからといって、万人をよく説得しうる真の科学的精神を否定するものではまったくありません。「科学さま」のお札をかざしさえすれば、それを主体的に疑いもせずに安易に信じ込んでしまう現代の風潮こそが問題なのです。信仰が宗派の数だけ多様であるのと同じように、現代の科学教の乱戦模様もすさまじいものがあります。なおこの問題については、まもなく発売(2月17日)になる雑誌『表現者』53号掲載の拙稿をご参照ください。

 話を「ほんとうの父親」問題に適用してみましょう。
 DNA鑑定によって法的な判断を下すという場合、その背景にある私たち共通の観念とは何か。それは「血がつながっている」ということですね。では「血のつながり」とは何か。これはふつう、妊娠は男女の性交によるという生物学的な因果関係の知識に基づいています。DNA鑑定がこれほど威力を持つというのも、この知識があればこそです。だれもこの「科学的」知識の力を疑おうとはしていません。それどころか、冒頭に掲げた『そして父になる』においても、その次に掲げた新聞記事の中身においても、私たちのいざこざ、煩悩、苦しみが、この「血のつながり」を疑いえない絶対の真実と前提するところから生まれてきていることは明らかです。
「ほんとう」とはこの場合、「性交→妊娠」という生物学的な事実を唯一のよりどころにして成立しています。特に、父親は母親に比べて「ほんとうに私の子か」という疑いを持ちやすい条件の下におかれていますね。いや、大病院で出産することが多くなった現代では、まれとはいえ、母親だってこの疑いを持つ可能性があるわけです。

 さて性交→妊娠という生物学的な因果関係を根拠としたこの「ほんとうの子」という観念は、疑うに値しないでしょうか? この「ほんとう」は本当でしょうか?
 昔から、お前は私の実の子どもではないと聞かされた人が心理的な動揺をきたして、「ほんとう」の親はどこで何をしているのか探索する気持ちに駆り立てられるという話がよくあります。ずいぶん前に流行った「ルーツ」探しなども、同じですね。当人の気持ちはよくわかりますが、これって科学がもたらした近代人特有の過剰なオブセッション(強迫観念)に思えて仕方がないのです。
 私は、生物学的な事実そのものを疑えといっているのではありません。また、文明のある段階からは、どの社会でも、「性交→妊娠」という因果論理が基礎となって家族が営まれてきた歴史を否定するつもりもありません。いわんや、血縁などただの幻想だから捨ててしまえなどと、ひところのフェミニズムみたいなことを言いたいのでもありません。
 ただ、この生物学的な事実だけに依拠して婚姻の秩序や家族的な人倫の慣習が成り立っていると限定してしまうと、もし「科学」が、ある婚姻関係や家族関係においてこの事実の存在を否定し、ほとんどの人がそれに納得してしまったら、これまでの夫婦、親子の生活の共同過程そのものはすべて無意味ともなりかねない。それでもいいのですか、と問いたいのです。
 何が婚姻や家族にまつわる秩序、人倫意識を成り立たせているのか。それは「血がつながっている」という科学的な「知識」ではありません。
 かつて「生みの親より育ての親」とよく言われました。また、江戸期から明治時代までは、養子縁組が当たり前でした。これらの言葉や事実を媒介している根本のところには、もちろん「血のつながり」の観念があります。これらの言葉や事実は、社会の現実が必ずしもその観念どおりには貫かれてはいないので、そうした実態に即したカウンターあるいはサブの役割を担っていたのでしょう。
 しかし、実際にそういう言葉や事実が生きていてそれを多くの人が受け入れるということは、人々が生物学的な事実の知識そのものよりも、むしろそれに先立って、「夫婦」や「親子」という社会的な認知の関係を大切にしていることを示しています。この認知の関係が成立するためには、必ずしも生物学的血縁の事実を絶対の必要条件としてはいません。「この子は婚姻関係を結んだ私たちの子ども」という男女相互の「信憑」と、それに対する周囲の社会的「承認」があれば足りるのです。この当事者の「信憑」と周囲の「承認」があるからこそ、物心ついた子どもも、「自分のお父さん、お母さんはあの人」として疑わず、そのいのちの行く末をその人たちにゆだねるのです。少し乱暴かもしれませんが、これは、ペットが家族同然となる例などを見ればわかりやすいでしょう。
 この信頼関係が揺らぐような契機さえなければ、鑑定の必要なども生じないわけで、家族を営む以上は、夫婦、親子の信頼関係が揺らがないような努力が必要とされます。そのためには、時には余計なことは言わずに黙っていたり、しらを切りとおしたり、嘘をついたりする必要もあります。私がこれまで見聞してきた中でも、だれかが子どもに「真実」なるものを教えてしまったために、家族関係に深刻な亀裂が入ってしまった例、逆に、黙りとおしていたために何とかうまくやりおおせた例などがあります。
 ギリシャ悲劇の最高傑作『オイディプス王』では、主人公は「お前は父を殺し母と交わるであろう」というアポロンの不吉な予言が的中したことを知らされます。それを知ってしまった一番の原因は、他ならぬオイディプス自身の、「真実」追究へのあくなき情熱です。そのことを悟った彼は、「見ようとすること」が呼び込む不幸に打ちひしがれ、われとわが両眼を突き刺すのです。
「知らぬが仏」とはまさにこのことです。

 以上述べてきたことは、人間の関係、人間の社会が、もともと、何か絶対の「真実」というようなものによって支えられているのではなく、「そうである」という相互の信憑、あるいは「そういうことにする」という相互の約束によって成り立っていることを示しています。思想家の吉本隆明は、これを「共同幻想」と呼びました。そう、ラディカルな言い方をすれば、人間の社会は「幻想」によって動いているのです。
 しかし「幻想」といってしまうと、「幻想というからには、幻想ではない真実なるものの存在があらかじめ想定されていることになるではないか」という反論がただちに返ってくるでしょう。ですからこの言い方は確かに誤解を招きやすい。
 幻想といっても、個人の妄想ではなく、ある共同世界に共有されている幻想には、それなりの必然性と根拠があるのです。ですから、共同幻想というよりは、「共同観念」と言い直すべきでしょう。
 すべてとは言いませんが、人間がともに生きていくために、「共同観念」のあるものは、なくてはならない価値を持っています。では、親子関係、血縁関係という「共同観念」が性交→妊娠という単なる生物学的な「知識」によって生かされているのではないとすれば、それは何によって維持されているのでしょうか。
 答えはすでに述べたとおり、婚姻という約束と承認から生じた「私たち夫婦の子」という信憑であり、また、その信憑に息を吹き込み続けているのは、実際の生活の共同過程なのです。『そして父になる』における、福山雅治演じる野々宮良多は、余計なことを知らされて悩む必要などなかったのです。
 この認識は、何ら私のオリジナルではありません。昭和十七年、なんと今から七十年以上も前に、哲学者・和辻哲郎によってほとんど同じことが、しかもはるかに周到に書かれています(『倫理学』第三章・人倫的組織)。一節をひきましょう。

 母親はその子が自分の体内の細胞から生育し出でたということを、何らかの仕方で直接に知っているというわけではない。彼女はその産褥の苦しみや哺乳の世話を通じてその子の間に関係を作るのであり、従って血縁の関係は彼女の自覚的な存在に属する。それを証するために我々は次のような極端の場合を考えることができる。もし出産の直後に、偶然の出来事によって、何人もそれに気づくことなく嬰児が取り換えられるとしたならば、そうして母親がそれを己の子と信じて哺乳を続けたならば、その母子の間には血縁関係が体験せられるであろう。(中略)かく見れば、血のつながりと言われるものは、生殖細胞によって基礎づけられるのではなく、逆に主体的な存在の共同にもとづいて成立し、後に生殖細胞によって説明せられるに過ぎぬのである。母親は胎児との間にすでに存在の共同を設定している。従って現前の嬰児が生まれ出たその胎児であると確信している限り、たといそれが他の児であっても、同じき存在の共同を続けうる。
(中略)
 父と子との間の血縁に至っては、それが事実上の物質的関係に基いて初めて成立するのでないことは一層明白である。父は夫として妻への信頼を持つ限り、嬰児が彼の子であることを確信する。彼の身体のある細胞が事実上この子の原因となっているかどうかは、父子関係の成立を左右するものではない。もちろん父と子との間には肉体的類似の見いだされるのが通例であるが、しかしこれに基いて初めて父子関係が成立するのではない。逆に父子関係がかかる類似を見いださしめるのである。これに反して、夫が妻への信頼を持たぬ場合には、たとい事実上彼の細胞が生育して嬰児となったのである場合にでも、それを彼の子として確信することはできない。


 和辻が言うとおり、「ほんとうの父親」は、「事実上の物質的関係」=遺伝子の同一性を意味するのではなく、妻への信頼にもとづく「自分の子である」という確信の上にこそ成り立つのです。
 この記述で何とも鮮やかなのは、「類似」の問題すらも、生物学的父子関係の「証拠」と考えずに、父子関係の承認が逆に「似ている」という把握を導き出すのだと主張している点です、なるほど、生物学的血縁であっても、いっぽうあるいは両方の親にちっとも似ていない子というのはいくらでもあり、そういう場合に人々はふつう、似ていないことを根拠に「あれはほんとうの子ではない」などと騒ぎ立てたりしません。信頼の揺らぎが生じた時に初めてそういうことが問題とされるのです。じっさい、他人の空似ということもよくあることですし、逆に類似の問題をDNAがかなり決定づけると仮定したとしても、夫婦両者のアマルガムによって、両方に似ない顔が出現することは大いに考えられるでしょう。

 近代科学・技術の偉大な成果を私は否定しません。特に乳幼児死亡率の激減、貧困からの脱却、資源・食料の確保、災厄に対する防衛、快適で豊かな生活の保障などに近代科学・技術が大いに貢献したことは争うことのできない重要な事実です。
 しかし行き過ぎは何ごとも人を仕合せにしません。いったい、「科学さま」の一出先機関に過ぎないDNA鑑定を唯一の頼みとして、「ほんとうの父親」なる観念に金縛りになり、そのことによって、つつがない生活の平穏さを自らかき乱すような振る舞いが良識のあるふるまいと言えるでしょうか。
 先の新聞報道の例では、つつがない生活の平穏さが通っていたとはもともと言えないので、当事者の意志についてどうこう言うつもりはありません。また裁判所が、結果的に原告代理である妻側の離婚要求を認めることになったとしても、それはそれで仕方がないことでしょう。
 問題は、よき慣習に見合った普遍的な良識に立脚すべき法曹界の判断が、形式上の生物学主義にひたすら根拠を求めている点です。これはいかにも安直であり、「人間」を考えないわざと言うしかありません。「近代」の諸価値をけっして盲信してはならないという教訓がここからも得られると思うのですが、いかがでしょうか。

西部邁ゼミナールに出演します。

2014年02月14日 01時03分02秒 | お知らせ
西部邁ゼミナールに出演します。



西部邁ゼミナール (西部邁先生 小林麻子さん)
(TOKYO MXテレビ/9ch/毎週土曜日午前10:30-11:00/再放送13:00-13:30)
「情報社会の高度化は現代青年の生活の質を高度化させるのか」
ゲスト―先崎彰容氏 浜崎洋介氏 藤田貴也氏 小浜逸郎
①〔情報社会の高度化は現代青年の生活の質を高度化させるのか〕―OA予定日2月15日(土)
②〔情報社会が現代青年の心理と行動にどんな影響を与えているか〕―OA予定日2月22日(土)
③〔情報社会で書物(古き情報媒体)はどうなってゆくのか〕―OA予定日3月1日(土)
④〔現代社会は高度情報社会によって解体に向かうのか〕―OA予定日3月8日(土)

倫理の起源21

2014年02月08日 17時34分09秒 | 哲学
倫理の起源21


  エピクロス

 次に、カントの道徳論では、「よい」という言葉の概念を徳(善)と幸福(快)との二分法のもとにのみとらえており、他の「よい」もありうるという点に考えが及んでいない点について述べる。
『実践』第一篇・第二章のはじめのほうに、次のような興味深い記述がある。

「善の見地のもとにないならば我々はなにものをも求めない、悪の見地のもとにないならばわれわれはなにものをも斥けない」(引用者注――原文ラテン語)という言葉は学校における古くからの公式である。この公式はしばしば正当に使用されるが、しかし哲学にとってはまたしばしば極めて不利に使用されるものである。なぜならば善ならびに悪なることばが曖昧だからである。これは言語の不完全に由来するものであって、このために以上のことばは二重の意味に解され、したがって実践的法則を必然的に曖昧にするのである。そうして哲学はこれらのことばの使用に際して同一語における概念の異別を感知するが、しかしそれに対して格別特殊なことばを発見しえないところから、後になって衆人の一致することのできないような微妙な区別を余儀なくされるのである。つまりこのような区別が、適当なことばによって直接に表明されえなかったためである。(中略)
 ドイツ語は幸いにしてこの区別をみのがせないことばを持っている。ラテン人が唯一の善(bonum)なることばをもって命名したものに対し、ドイツ語は二個の甚だ異なった概念と同様に異なったことばとを持っている。すなわちそれはbonumに対する(das Güte)と幸福(das Wohl)、(malum)に対する(das Böse)と(das Übel) あるいは不幸(das Weh)とである。こうしてわれわれが一行為についてそれのあるいはドイツ語の不幸(禍)とを考察するとき、それは二つのまったく異なった判定を表わすのである。故に前に述べた心理的命題は、「われわれはわれわれの不幸に関してのほかなにものをも欲求しない」と訳されるならば、少なくともなお甚だ不確実たるを免れないが、これに反して「われわれは理性の指示に従って、それを善あるいは悪と思う限りにおいてのほかはなにものをも意欲しない」と訳されるならば、それはまったく確実にして同時にきわめて明瞭に表現されるのである。


 ラテン系の「よい」bonumが道徳的な「善」の意味と幸福感をあらわす「快」の意味とをあいまいに含みこんでいるのに対し、ドイツ語では両者をはっきりと区別するから、例の決まり文句におけるbonumという語をdas Güte(善)の意味だけに用いれば、哲学的な議論の混乱が避けられるというのである。
 ここにはすでに、カントが「よい」について考えるのに、何を価値観として優位に立てているかが明瞭にあらわれている。これは倫理学を打ち立てようとするそもそものはじめから、不公平な態度ではないか? なぜなら、bonumが「善」の意味と「快」の意味の両方を含んでいるなら、それは人々が生活の中でそのようにこの言葉を使い続けてきた(文脈に応じて使い分けてきた)長い歴史の重みをあらわしているのであって、その重みを無視して、道徳的な意味でだけ「よい」という言葉を使えというのは、思想家として公正な態度とは言えないからである。カントは、人間世界のあり方を包括的に見通した上で人倫の原理を見出そうとする姿勢をはじめから放棄している。
 加えて、もっと重要な問題は、カントが「よい」という言葉のうちに、互いに対立して譲らない「徳」と「福」、「善」と「快」との二元的な要素をしか見ていないという点である。
 私たちがある物事に関して「よい」とか「いい」とか形容するとき、それは道徳的な「善」か、幸福感を実感している「快」か、どちらか二つの意味しか持たないだろうか? いま試みに、とてもこの二つのどちらかには分類できないと思える例を日本語でいくつか挙げてみよう。

①「ここからの景色はなかなかいいね」
②「今季はよい成績を修めることができました」
③「いい文章を書くのはなかなか難しい」
④「人間世界のあり方をよく見つめる必要がある」
⑤「育ちがいいとやっぱり気品があるね」
⑥「そのときの君の判断はなかなかよかったね」

 以下、いくらでも可能だが、これらはそれぞれ、①「美しい」②「優れている」③「人の心に響く」④「鋭く幅広く深い」⑤「恵まれている、身分が高貴である」⑥「時宜にかなっている」などの意味で「よい(いい)」が使われている。いかにこの言葉が多様な用法をもっているかの見本のようなものであろう。そしてそれは同時に、いかにこの言葉の抽象レベルが高いかをもあらわしていよう。
 しかしこのように多様な「よい(いい)」の用法をただ列挙しただけでは、カントが固執している二元的な図式の偏狭さを根本的に打ち破るにはまだ不足している。①③⑥などは、無理に解釈すれば、またそれが使われた文脈しだいでは、「善」か「快」かのどちらかに分類することも不可能ではないからだ。
 そこでカントの哲学的な論理の土俵につきあうために、これらの多様な「よい(いい)」の抽象レベルをもう少し上げて、より単純な形で整理してみよう。
すると、カントの徳福二元論には何が決定的に欠けているかが明らかとなる。
 カントは「よい(いい)」の概念の基本的な内包に関して何を見落しているのか?
 それは、「優」という概念である。特に②④⑤の場合などは、この概念を導入しなければ、なぜ「よい(いい)」と表現できるのが理解できない。
」「(幸)」「」、反対に「」「不快(不幸)」「」──私は、この三つの基本概念と、それら相互の重なり合いとによって「よい(いい)」という言葉が構成されていると考える。「よい・悪い」という言葉から「優劣」という概念を取り去ってしまったら、もうそれだけで倫理問題(人間問題、人倫問題)を考える基礎からして不十分である(論として「よくない」すなわち「劣」である)。

(*注:この話をある思慮深い知人にした折に、「よい・悪い」には、「適切・不適切」というのもあるのではないか、という示唆をいただいた。なるほど、右の⑥の場合などはまさにそれに当たるであろう。傾聴に値する指摘だが、これについては私も考えてみた。その結果、次のように思い至った。
「適切・不適切」というのは、ある意味で、ただ「よい・悪い」というのと同じほど抽象度が高く、たとえば「道徳的に良いことをしたから適切である」「気持ちがよくなり満足したので適切だった」「優れた成績なので合格させるに適している」というふうに汎用できる。そこで、これを「よい・悪い」を構成する分析概念のひとつとして他の三つから別立てにするのは、いささか論理的に煩雑に過ぎるのではないかと考えた。)


 さて、炯眼の読者はすでにお気づきと思うが、「優劣」の概念を「よい・悪い」に加えるべきだというここでの提案は、ニーチェの影響を受けたものである。ニーチェは、「よい・悪い」から「優劣」の概念を追い出してしまった考え方こそは、自分たち弱者のルサンチマンを合法化したキリスト教道徳のひねこびた知恵であると喝破した。彼ほどこの「歴史的捏造」を徹底的に攻撃した思想家はいない。この「歴史的捏造」なるものが果たしてキリスト教独特のものであるのかどうかについては議論の分かれるところだろうが、キリスト教的な環境以外に直接に他の精神文明を味わったことのないニーチェにとっては、キリスト教が秘めている欺瞞がすなわちそのまま「道徳」そのものの欺瞞を意味していた。ちなみに彼はプロテスタント牧師の息子である。プラトニズム以前のギリシャ世界への彼のあこがれは、おそらくこの精神的な父親殺しの無意識の情念のリアクションであろう。
 彼は『道徳の系譜』のなかで、まるで先に引用した「よい」についてのカントの言語論的な言及に呼応するかのように、次のような意味の、鋭い反論を対置している。
 もともと「よい」(gut)という判断は、「よいこと」を示される人々の側から生じるのではない。高貴な人々、強力な人々、行為の人々、高邁な人々が自分たち自身および自分たちの行為を「よい」と感じ、第一級のものと決めて、これをすべての低級なもの、卑賤なもの、卑俗なもの、的なものに対置したのだ。貴族的起源の「わるい(schlecht)」は単に「よい」の付録であり、補色である。これに対して、奴隷的起源の「悪い(böse)」は、ルサンチマンに基づく。その対象は貴族道徳における「よい者」つまりにとっては「悪い者」である。貴族道徳における「よいとわるい」、奴隷道徳における「善と悪」の二対の対立した価値は、幾千年の間闘いをつづけている。ローマ対ユダヤ、ルネサンス対宗教改革、ナポレオン対フランス革命----
 ここで持ち出されているschlechtというドイツ語は、böse(道徳的に悪い)ともübel(不快な)とも違って「出来の悪い、下手な、劣った、病気の」といった意味合いである。
 ニーチェ自身についてはのちに詳しく論じるが、ここで論及されている「よい・悪い」についての言語的な起源と、のちの歴史におけるその転倒過程についての指摘は、実証的な意味において正しいか間違っているかが問題なのではない。「よい・悪い」の概念を道徳的な意味の「善悪」にだけ限定させようとする(まさにカント的な)道徳至上主義を、別の価値概念の媒介によって相対化しようとする、その思想的態度こそが鮮烈なのだ。
 カントにとっては、道徳的な「善悪」と、個人の感情や運命としての「快・不快」「幸・不幸」との二元的な対立関係だけが問題であり、前者が後者に優先する(価値として高い)ことをひたすら主張すればよかった。だがそれは何ら「証明」ではなく、ニーチェの先の指摘のとおり、どこまで行ってもただの「信仰告白」である。それをあたかも「証明」であるかのように見せているのは、「理性批判」という近代的な叙述の形式によるのである。
 そこで、繰り返しになるが、見落としてはならないのは、カントの倫理学には人間存在をそのあらゆる特性から総体としてつかむ人間学的な視点が前提とされていないという点である。これはただ、徳と福、善と快とを非妥協的な対立命題として立てて人間をとらえるという単純素朴な方法から帰結する必然的な欠陥なのだ。
 なお彼は、この非妥協的な対立関係が、前者の絶対的な優位さえ承認されるなら、必ずしも両立不可能ではないことを、次のように論じている。

(前略)最高善の概念には私自身の幸福もともに含まれているにしても、しかし最高善を促進するように指示されるところの意志の規定根拠となるものは、幸福ではなくて道徳的法則である(それどころか道徳的法則は、幸福を追求しようとする私の無制限の要求を厳格な制約によって制限するのである)。
 それ故にまた道徳は本来、いかにしてわれわれはわれわれを幸福になすべきかという教えではなくて、いかにしてわれわれは幸福に値するようにならなければならないかという教えである。(中略)
 人が或る事物あるいは或る状態を所有するに値するのは、これを所有していることが最高善と一致するときのことである。今やわれわれはおよそ値するということは道徳的行為に関係するということを容易に看破しうる。この行為は、最高善の概念において他のもの(中略)すなわち幸福に与かることの条件を構成するからである。さてこのことから当然生じてくることは、人は道徳そのものを幸福説として、すなわち幸福に与かることの指示として決して取り扱ってはならないということである
。(『実践』第二編・第二章・三)

 これを読むと、カントがいかに徹底して、最高善のために道徳律を遵守すること、道徳的態度を貫くことが結果的に(道徳的であるがゆえに)人を幸福に導くことはあっても、けっして道徳が幸福のためにあるのではないと考えていたかがよくわかる。だがもちろんこんな人間理解は、途方もなく現実離れしている。
 およそ道徳だけでなく科学も宗教も芸術も、人間が作り出してきた文化的アイテムは、その目指すところは「幸福」という一点にかかっている。もっとも、科学者や宗教家や芸術家本人たちの主体的情熱のありかが人類の幸福を意図しているかどうかはまったく疑わしいし、またそれらの成果が幸福を生み出してきたかどうかもはなはだ疑問である。しかしなぜ人類がそのような文化的営みに踏み込もうとするのかという基本的な動機が、「こうした方がよい(みんなにとって仕合せな)のではないか」というところに置かれていることは明らかであろう。
 その点で、互いに立場は違っても、カントが条件づきで退けているストア派もエピクロス派もカントほど間違ってはいなかった。とはいえ、「幸福」という概念ほど哲学が扱いにくい概念はなく、後述するように、カント自身もその個体主義的な人間把握によって、この概念をただ「自愛」の概念に直結させるという根本的な誤りを犯している。
 たとえば上の引用でカントは、「われわれはおよそ値するということは道徳的行為に関係するということを容易に看破しうる」と述べているが、なんという教条主義的断定だろうか。この断定の狭隘さは、先に指摘した「よい・悪い」という価値概念についての徳福二元論のやせた窮屈な構図からまっすぐつながっている。
 もちろん「容易に看破しうる」ことであるが、値するという概念には、さまざまな質の異なる価値が参加している。美しい音楽は感動に「値する」し、学問の優れた業績は学位授与に「値する」し、強健で立派な体はスポーツ選手や兵士などの職業に「値する」し、若い魅力的な女性の裸体は男性の性的興奮を呼び起こすに「値する」。これらはどれも道徳的態度とは何の関係もない。しかもこれらの価値はみな、それ自身において、提供する側と受け取る側との両方にとっての「幸福」の行方に深く関与している。カントの決めつけは、「よい・悪い」の概念から「優劣」の概念を引き去ってしまったために起きた視線欠落なのである。
 カントはここで、道徳的であることだけが、まさにそのことによって幸福に結びつくと強弁しているが、残念ながら世の中はそんなふうにできていないのである。伝統的なキリスト教道徳を近代の啓蒙的理想主義で変奏してみせたカントは、たとえばヨブ記のような神義論的テーマ(悪人が栄え、何の罪も犯していない人が苦しむようなこの世の不条理な現実を、神はどのように解決してくださるのかというテーマ)についてどう考えていたのであろうか。彼自身にぜひ聞いてみたいものである。


*さらにカント批判を続けます。

倫理の起源20

2014年02月06日 18時50分22秒 | 哲学
倫理の起源20




 以上の指摘によって、カントが、意志と行為の関係をいかなる場合にも必然的に結びついたものとしか考えていない点が明らかとなる。
 行為という概念の広がり、外延について、私たちの日常的な営みをよく想像しながら考えてみよう。「行為」を(英)action (独)Handlungと考えるか、(英)behavior (独)Benehmen と考えるかで、そのニュアンスはずいぶん違ってくる。
 前者は明確な意志にもとづく能動的な行動を指しており、後者は、さほど意識的ではない振る舞い、作法、日常の習慣にのっとって何となくやってしまっている行動、さらには、寝ているとかただ座っているとか、食べているとか性愛行動をしているとか、ボーっとしているとかも含むであろう。ところがカントが道徳との関連で問題にしているのは、もっぱら前者であると考えられる。
 さて、それでは、私たちの現実生活で、ある行為(ふるまい)が道徳的か非道徳的か、責任があるかないか、義務を果たしたか果たしていなかったか、もっと明示的な場合を例にとるなら、合法的か非合法的かが問われるのは、前者の、自覚された意志的な行為の場合だけだろうか。
 そうではあるまい。
 そうではないケースをいくつか挙げてみよう。

①管理職についている人が、部下が引き起こした不祥事に直接かかわってはいず、あとからそれを知らされただけなのに、彼は監督責任を怠ったとして非難され、辞職に追い込まれる。
②運転中にふと脇見をしたために、人身事故を起こしてしまった。またきちんと注意していたのに、横の路地から子供が飛び出してきたために轢いてしまった。
③母親が疲れて何となくボーっとしていた隙に、自分の子どもがベランダから落ちてしまった。夫から「なんでもっと注意していなかったんだ」と非難され、本人も一生悔やみつづける。
④未成年の子どもが犯罪を犯したために、ただその子の親であるという理由だけで周囲から養育責任を追及されたり、自ら良心の呵責に悩まされたりする。
⑤ジャン・バルジャンのように、家庭環境、生育環境が厳しかったために盗みなどに手を出し、それが癖になってしまう。
⑥政治家や公務員がその職業柄、当然やらなくてはいけないことをやらずにいたために、不作為の責任を問われる。
⑦軍隊など、規律の拘束力が強い組織の中にいて、命令に従ったために人を殺めたり傷つけたりしてしまった。
⑧親愛の情を表現するつもりがつい悪乗りして友人の心を傷つけてしまった。
⑨生活の方便のために口実をもうけて申し出を断ったり、心にもないお世辞を言ったり、もっと大事な価値を守るために仕方なく嘘をついたりする。

 そのほか、こうしたたぐいの「行為」(actionではなくbehaviorに属する「行為」)をなすか、または逆になさなかったために、罪に問われたり責任を負わなくてはならなかったり、自ら良心の呵責に苦しめられたりする例というのは、この世にはいくらでもある。
 特に最後の例では、カント自身の通称「ウソ論文」が有名である。刺客に追われて逃げてきた友人をかくまったが、刺客が来て「やつがここに来ただろう。隠すな」と迫られたとき、たとえ友人をかばうためでも嘘をついてはいけない、なぜなら嘘を場合によっては許されることと規定してしまったら、道徳的義務一般が成り立たなくなるからだというのである。私はこれを初めて知った時、カントという哲学者はなんてバカなやつなんだと直感的に思った。
 しかし問題は、カントが底抜けの世間知らずだったかどうかではない。おそらくカントはそれほど世間知らずではなく、義務というものの形式的本質を明確に規定しようという十分な意図があってあえてこういうことを言っているのである。ところで重要なのは、彼が「行為」の概念をどこまでも明確な「意志」の必然的な結果として構成しようとしている、その思想の偏頗さ、人間生活全般を見渡す視野の欠如である。
 ここには、人間の行為がすべて「個人」の自由意志の結果であるという近代特有のフィクション性が最も象徴的にあらわれている。人間生活の現実、日常的なふるまいは、あらかじめ個人の内面によってそのつど意図された自由意志の結果などではない場合が圧倒的に多いにもかかわらず、である。
 浄土真宗の祖、親鸞は弟子の唯円が書き残した『歎異抄』のなかで、「わがこころのよくてころさぬにはあらず」と言っている。人は殺すまいと思っていても千人も殺してしまうことがある、逆にいくら殺そうと思っても一人も殺せないことがある。人の振る舞いは善意の持ち主か悪意の持ち主かによるのではなく、すべて「業縁」のなせる技なのだ、と。思想としては、このほうがはるかに深い。つまり人間生活の真実に届いている。
 それでは、「個人の自由意志の結果としての行為」という、近代道徳の図式の基礎にあるフィクション性には何の根拠もないのかといえば、そうではない。そこにはフィクションを構成せざるを得なかったそれなりの理由がある。また私たちは、人と交わりつつ生活していくうえで、このフィクションを設定せずにはすまない。
 それは、簡単に言えば、私たちが関係を編みながら生活しているとさまざまな摩擦葛藤が生まれ、やがてそれが高じて取り返しのつかない不幸な事件や解決不能な不祥事が引き起こされることがあるからである。つまり自由意志から行為へという因果関係は、じつは逆なので、まず不幸や不祥事が起きた時に私たちの感情が混乱し、自己喪失や共同性の崩壊の感覚に襲われるのだ。それを何とか収拾して未来に臨むために、私たちは、「ある個人の行為は、その人の自由で理性的な選択意志を原因としている」というフィクションを必要とするのである。この点について、哲学者の中島義道氏は、次のような鮮やかな論理を展開している。

 私があるときに Aを選んだことを承認しながら、「まさにそのときにこの同じ私がAを選ばないこともできたはずだ」と主張することは、よく考えてみますと、きわめて不思議な想定なのです。
 しかし、この想定が不思議だ不思議だと言っても、依然としてみな(私も)取り返しのつかない過去の自他の行為を責め続ける。まさにそのとき「それをしない自由もあったはずだ」という思い込みを捨てることはありません。とすると、この想定の根は、証明可能性とか何とかという理論のレベルにではなく、もっと生活に密着したところにあるにちがいない。それは何でしょうか。
 これだ! と言えるものはここでは出せませんし、出すのが目的でもありませんが、どうもこの思い込みは、われわれ人間が過去に何らかの決着をつけたいという要求、過去を「清算する」態度とでも言えましょうか、その要求から生まれたもののように思われます。つまり、われわれが過去の自他の行為に対して何らかの責任を追及するというところに「自由」や「意志」の根っこがあるわけで、もしわれわれがある日、責任をまったく追及しないような存在物に変質してしまえば、「自由」や「意志」は不可解な概念となるかもしれません
。(『哲学の教科書』講談社学術文庫)

「これだ! と言えるものはここでは出せません」と中島氏は控え目に構えているが、それは出せるはずである。私たちは、取り返しのつかない不測の事態が発生した時、自分たちの生が崩壊する感覚に襲われる。それを何とか弥縫し修復して先に進みたい、進まなくてはならぬという生きた感情が、「過去に何らかの決着をつけたいという要求」を生むのである。
 しかし私たちは、それぞれ周囲から孤立した「個」として生きているのではないので、「個」としての自分の過去をただ見つめているだけでは、この要求は満足されない。ひとつは事態にかかわる人間関係の網の目のどこに、その事態と最も深く結びつく中心点があるか(空間的関心)、もう一つは過去から現在の事態に至る過程のどのような経緯が、その事態に最も深く結びつくか(時間的関心)、おおざっぱに言ってこの二つの関心を事態そのものに差し向けることによって、崩壊感情の弥縫と修復とを図ろうとするのである。
 この関心のあり方は、私たちがまさに共同性を生きる存在であることを如実にあらわしている。しかし感情の修復は言葉による新たな分節と秩序づけによってなされるほかはないので、特定の個人や集団の特定の過去時点における意志や無意志、行為や不作為を、言葉によって事態の「原因」として固定させて炙り出させざるを得ないのである。「あの時、もし彼や私がああしないでいたなら、もしこうしていたなら……」
 これはもともと感情を基底においているから、後悔や責任のなすりつけは意味がないと論理的にわかっていても、どうしようもない。かくて「ある人間の行為には、そうしないことも可能である自由意志が存在した」というフィクションは、論理的な必然性は持たないが、一定の感情的な必然性をもつのである。
 しかしカントが道徳の根拠づけのために強調している「自由な選択意志」の想定では、どんな行為もそこに至る意志との間に論理的な結びつきがあるということが前提とされている。それは、彼が、行為と呼ばれるものの全貌のなかにはその行為をする個人にとっては無自覚的な日常的ふるまい、behavior、 Benehmenといったものが無数に存在し、しかもそれらも道徳的テーマとの間に深いかかわりを持つのだという事実に視線を巡らせていないからである。そこに彼の道徳論の過激な近代個人主義の性格と限界とがよくあらわれている。彼はこの個人主義的道徳論によって、道徳がじつは共同存在としての人間の長きにわたる慣習の存在を基礎としているという事実を断ち切ってしまうのである。


*さらにカント批判を続けます。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(10)

2014年02月04日 02時07分33秒 | ジャズ
 これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(10)
 ――番外編・女性ヴォーカル――



 このシリーズも10回目を迎えました。これまで楽器演奏の曲ばかりを取り上げてきましたが、ここらで趣向を変えて、ヴォーカルをご紹介しましょう。
 といっても、私はもともとジャズ・ヴォーカルにはさほどの関心がなく、知識もありません。しかも、なぜか男性ヴォーカルには魅力を感じてきませんでした。たとえばレイ・チャールズトニー・ベネットはとてもハートのある歌手ですが、フランク・シナトラなんてどこがいいの、と思ってきた口です。
 自分でも不思議なのですが、クラシックでは、逆に女性オペラ歌手にはあまり魅力を感じません。あの磨きに磨いた「芸術」的な発声にどうもなじめないのです。男性歌手には自分の思いを代弁してくれるものを感じるせいか、憧れと羨望を抱きます。マリオ・デル=モナコ、ジョゼッペ・ディ・ステファノ、バスティアニーニなど、イタリアの情熱的な歌手が好きです。
 ジャズ・ヴォーカルは、クラシックに比べると自然な発声に近く、裃を着ないで気楽に楽しむことができます。それで、そのぶんだけかえって歌い手の声の質や調子に対する好みが決定的になるところがあるようです。小説における文体、漫画における描線とおなじようなところがありますね。当の女性歌手がすぐそばにいて、自分に語りかけてくれているような錯覚に誘われるのでしょう。

 ところで昔ジャズ喫茶巡りをしていたころ、楽器演奏曲の合間を縫って、時々ジャズ・ヴォーカルがかかることがありました。あまり関心がなかったといっても、さすがに耳に残ります。それらのなかから、自分の好き嫌いや評価も含めていくつか紹介したいと思います。
 まず女性ジャズヴォーカルといえば、元祖ともいうべきビリー・ホリデイの名を挙げなくてはならないでしょう。しかし、私はどうも彼女の声が好きになれません。どれを聴いても、深み、味、うまさ、艶、洗練された調子、心に訴えかける情調といったものが感じられないのです。やや甘ったるい声を無雑作に出しているだけで、なぜこの人がこんなに大歌手扱いされているのか、よくわかりません。
 こんなことを言うとファンの方に怒られそうですが、彼女の価値は、幼児期からの哀れな境遇、白人のリンチに遭って木から吊るされた黒人を歌った大ヒット作「奇妙な果実」の衝撃性などによって、相当上げ底化されているのではないでしょうか。歌そのものよりもその周辺の神話化された部分が今日の名声に大きく寄与しているような気がしてならないのです。
 それともう一つ考えられるのは、有名になってからの彼女は、酒と麻薬とギャングが支配する夜の世界での仕事に追われ、男性関係も乱脈で、生活はかなり懶惰なものでした。毎日毎日、発声に細心の注意を払うという、プロとして要求されるストイックな修業の余裕があまりなかったのではないか。
 とはいえ、「奇妙な果実」の初期のころ(?)のヴァージョンでは、さすがに彼女の若いころの張りのある声と、魂を入れ込んだ強い思いとが伝わってきます。それをここに掲げましょう。

Billie Holiday-Strange fruit- HD


 ちなみに後年、彼女は何度も同じ曲を歌っていますが、歌い方は平板となり、このヴァージョンに及びません。

 次に、エラ・フィッツジェラルドの名を挙げなくてはならないでしょう。ビッグバンドを背景に力強く明るく歌う彼女のパンチのある歌唱は、いかにも最盛期だったアメリカを象徴していると言ってよいでしょう。巨躯から出される声量・歌唱力は文句なしです。しかし私は、彼女に対してもあまり心を惹かれません。もともと「可愛い」声の持ち主で好感が持てるのですが、いかんせん、そのためかどうか、「陰翳」というものが感じられないのです。要するにあまりセクシーじゃないんですね。ジャズ・ヴォーカルは、陰翳とセクシーさが大切、と私は頑固に思い込んでいます。

 さて、なんだか悪口を言うために書いているような按配になってしまいましたが、これから自分が高く評価している歌手を挙げます。
 まず、サラ・ヴォーン
 この人の歌は、適度にソフィスティケートされていて、低音部の響きもよく、しかもヴィブラートを効かせた伸びのある声は聴いていて何とも心地よいものがあります。何よりも、ジャズ・スピリットにぴったりの「乗り」を身につけているのですね。
 それでは代表曲「ララバイ・オヴ・バードランド」。

Sarah Vaughan - Lullaby of Birdland


 次に、歌のうまさという点では抜群といってもいいカーメン・マクレエ
 彼女は、サラがややポップに流れがちなのに比べて、頑固にジャズの本道を極めようとする精神に満ち溢れています。玄人受けする堂々たる本格派といってよいでしょう。若いころ私は、この人の存在感の凄さに気づきませんでした。しかし日本でも知的な層にファンが多いようです。
 声は太くて音域が低く、ちょっと枯れていて男声と見まがう時もあります。サラのようにスキャットはあまりやりませんが、その代わり、節回しに独特の工夫が施されています。
 軽い歌もたくさん歌っているのですが、彼女にふさわしいのは、やはりちょっと重たげで厳かな曲でしょう。先に挙げた「奇妙な果実」を彼女がどう歌っているか、聴き比べてみてください。もちろん、ビリー・ホリデイの創造者としての偉大さは認めますが、私はこちらのほうがずっとソウルフルで、歌心をよくとらえていると思います。

Carmen McRae - Strange Fruit(+ 再生リスト)


 よろしければもう一曲、「インサイド・ア・サイレント・ティア」。少し長いですが、この曲には彼女らしさがとてもよく出ていると思います。切ない恋心を歌ってはいても、ふつうのそれとはちょっと違って、詩にも歌い方にも抑制された深い内面性が感じられます。

Carmen McRae - Inside A Silent Tear - Velvet Soul(+ 再生リスト)


 あまりまじめに聴いていると、少々気分が「鬱」になるかもしれません。

 以上はすべて黒人歌手ですが、白人女性歌手にも、魅力的な人がたくさんいます。総じて彼女たちの歌いっぷりは、サーヴィス精神が旺盛です。聴いていて思わず楽しくなったり、耳元でささやかれているような気がしてきてとても親しみを覚えます。こんなふうに歌ってくれる人が身近にいたらなあ、などと妄想してしまうのですね。
 ではまず、これは厳密にはジャズとは言えないでしょうが、かつて全米でも日本でも大ヒットしたペギー・リーの「ジャニー・ギター」。このしっとりとしたフィーリングは、どなたにも必ず気に入ってもらえると思います。癒し系、かな?

PEGGY LEE - Johnny Guitar


 次にそのハスキーな声の魅力で「ニューヨークの溜息」と呼ばれたヘレン・メリルの「ユー・ド・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」。これは、本当に雰囲気で聴く曲です。彼女は声量もそれほどなく、歌もそんなにうまいとは思えませんが、この洗練された味わいは何とも言えないものがあります。

Helen Merrill with Clifford Brown / You'd Be So Nice To Come Home To


 最後に、アニタ・オデイ。この人は、このシリーズの一回目で紹介した音楽映画「真夏の夜のジャズ」に、帽子をかぶって出演した姿が印象的です。
 彼女もハスキー・ヴォイスです。彼女は一度名声を得てから、鳴かず飛ばずの不遇な時期もあったようで、その最盛期の歌手生命はそんなに長くありません。それにヘレン・メリルと同じように、サラ・ヴォーンやカーメン・マクレエと比べると、歌のうまさという点では聴き劣りがします。スローバラードなどでは、音程の不安定さも感じられます。しかし、これから紹介する「ラヴ・ミー・オア・リーヴ・ミー」のようなアップテンポの曲では、乗りまくっていて、この人こそジャズ・ヴォーカルの真打と思わせるところがあります。この曲ではスキャットは入っていませんが、ほとんどスキャットと同じような歌詞の運びと言ってよいでしょう。
 なお、私にはよくわかりませんが、カーメン・マクレエのように非常に聞きとりやすい発音をする歌手に比べて、アニタの発音は、聞きとりにくく、これは一種の「ニューヨーク弁」(ロンドンのコックニーや、東京のべらんめえ調のようなもの)を意識的に使っているのではないかと思います。それがまた都会的な歴史を感じさせて面白いのですね。

Love Me or Leave Me: Anita O'Day


 以上でお分かりのように、女性ジャズ・ヴォーカルの人たちは、たいていハスキーヴォイスか、太い声か、可愛い声か、のどれかで、キンキンした声の人はいません。これは日本の演歌でも同じで、やはり、庶民に親しまれる「歌」というものが、日常生活に疲れた感覚を癒す役割を果たしていることを示すのではないかと思います。