小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

トーク・イベントのお知らせ

2013年12月30日 23時49分06秒 | お知らせ
●トーク・イベントのお知らせ


長谷川三千子氏、西村幸祐氏、小浜逸郎の鼎談
「あらためて、フェミニズムを斬る!」

●2月2日(日) 午後3時開場、3時半開演
●新宿のジャズバー「サムライ」(定員40名)
●詳細はこちらまで。
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倫理の起源17

2013年12月24日 02時57分52秒 | 哲学
倫理の起源17



 プラトン哲学を根底的に批判するには、キーワードである「イデア」という言語(概念)そのものが含む大いなる倒錯性をさらにはっきりと指摘しなくてはならない。しかしそのためには、そもそも言語というもの自体をどのように捉えたらよいのかについて、概説しておかなくてはならない。
 私たちは普通、「言語とは何か」に思いをいたすとき、「それはこの世界のもろもろの事実・真実を私たちの意識表面に再現したものだ」(「言語=真実写像」説)とか、「それは世界で起きていることについての理解を共有するための手段だ」(「言語=コミュニケーションの道具」説)とか、「それは物事を秩序づけて認識するために、世界を分節して再編した体系だ」(「言語=人間による世界再編の体系」説)など、漠然と概念規定を施して済ませている。
 これらは、それぞれに言語のある側面を捉えており、一概に誤りであるとは言い切れない。
 しかし、たとえば第一の「言語=真実写像」説は、大きくいって三つの点で欠陥をさらす。ひとつは、言語は、それが表出されるために、必ず抽象作用を必要とするので、この世界の実在や私たちの観念の個別実態を、そのまま正確に映し出すことが原理的に不可能であるということ。二つ目にこの説では、「客観的真実」なるものが、言語表現以前に確実に存在することが前提とされているが、そういうものは想定不可能であり、むしろ言語活動の協同的積み重ねこそが、それらしきものを構成してゆくのだということ、三つ目にこの説では、日常的な言語的やり取りの機能の多様性(たとえば疑問、命令、感動表現など)をとうてい言い尽くしていないこと、である。
 第二の「言語=コミュニケーションの道具」説もまた、次のような難点を持っている。ひとつは、言語が意思を疎通させるための単なる道具(手段)であるとすると、私たちが伝えたいと考える思考内容が、言語表現以前に、しかも表現主体それ自身とは独立に、確固として存在することになるが、実際には、思考内容はそれについての言語表現をまさに行う主体自身によってはじめて組み立てられるのであって、しかも言語表現とは、むしろ活動する主体(私たち自身)そのものの表出形態のひとつと考えられること。
 二つ目に、国語学者の時枝誠記が見抜いたように(『国語学原論』岩波書店)ひとつの言語活動は、聞き手や読み手の理解に到達して初めて完結するのだから、そうだとすると、話し手や書き手が「道具」によって運んだはずの思考内容が、「聞く」「読む」という言語活動の帰着点でまったく違ったものに変化する可能性が常にあることになる。事実そうなのであって、聞き手や読み手も「受け取って理解する」という意味での言語主体であることを考え合わせるなら、言語は一定の思考や感情を運ぶ道具なのではなく、むしろ言語表出という活動それ自体を通して幾様にも変化する思考や感情の内容そのものなのである。
 第三の「言語=人間による世界再編の体系」説は、これまでの説に比べて最も言語の本質に迫るものといえるが、それでもこの定義は、言語全体(ソシュールの言う「ラング」)を静的に把握しているきらいがあり、現実の言語活動において、話し手、書き手、聞き手、読み手など、あらゆる言語主体自身の動的な「表現とその享受」の過程を掬い取りえていない。言語は、発話者や聴取者の主体性のあり方如何によって、短い時間の間にも、長い時間の間にも、まさに変幻自在ともいうべき「生き物」性をいつも保持しているのである。
 結果、第三の説のみでは、言語によっていくらでもウソがつける可能性とか、伝言ゲームのように、作為はなかったのに、はじめの事態とはまるで違ったことを伝えてしまう可能性とか、想像力の駆使によって限りなく空想的な物語を作ることができる可能性などの面が、見逃されてしまう恐れがある。
 そこで、第三の説にいま少し動力を加えてより発展させ、次のように定義づけてみてはどうだろうか。すなわち――

 言語とは、人間が、身体と身体とがかかわる場において、規範的、象徴的な音声表出を通して互いに自己を投企することによって、自己自身を含めた世界像をそのつど再編する営みである。

 ずいぶんややこしい、こなれない表現になってしまったが、私自身は、これでもまだ言語という現象を十全に言い当てるには、どことなく不満を感じている。
 ちなみに、ここでは、文字言語や身振り言語(手話)、触覚言語(点字)などを無視して、あえて「音声表出」と限定しているが、なぜそうするのかについての詳しい説明は、当ブログで同時進行中の『日本語を哲学する』第一部・第一章を参照していただきたい。
 一応簡単に要約しておくと、言語はまずその起源において音声表出でなくてはならなかった必然性をはらんでおり、しかも現在においても、その必然性が保存されたところで言語活動がおこなわれていると考えられるからである。
 その必然性とは、意識の表出の授受としての言語活動が、音響知覚の持つ次の三つの特性によって、根源的に支えられるというところに求められる。
 ①発生源が他の知覚によって確認されなくても知覚できること
 ②知覚する「主体」と知覚される「対象」との分離対立という認識論的な把握ができにくく、主体は音響の知覚に意識そのものを満たされてしまうこと
 ③音響は時間的に知覚されるために、意識の流れにそのまま同期すること
 音響知覚のこれらの特性が、言語意識の熟成に必要な「内面的意識」(現場からの超越性、内的な時間意識)の形成に与るのである。
 音声言語以外の言語は、音声言語にもとづいて作られた概念体系が複雑に発達した後に、その体系性にもとづいてより高次なかたちで補完的に考案されたものと考えられる。たとえば文字言語は、「書く」「読む」という行為によらなければその機能が果たされないが、「書く」は観念化された音声の駆使と同じであり、「読む」もまた、観念化された音声の聴取と同じである。もちろん、文字言語と音声言語との違いは多々あるが、言語の本質を考えるにあたっては、その違いは捨象してかまわない。

 さて、言語について以上のように概括した上で、プラトンに戻ろう。
「イデア」とは何か。 哲学者や哲学研究者は、プラトンの編み出したこの言葉の「真意」を、テキストのなかでこの言葉が使われている幾多の事例から帰納的に推定しようとするかもしれない。そして、確からしい推定が成り立った時点で、プラトンがあらかじめ考えていたイデア思想の体系を、その一見するところまとっている神秘的なイメージから引き剥がし、透明なかたちで素描することに成功したと信じるかもしれない。
 しかし、私たちは、彼の著作『パイドン』からすでに引用した部分を、もう一度ここに再現してみよう。けだしじつを言えば、この何気ない表現の中に「イデア」の何たるかが明瞭に表現されているのである。そこで、それをたよりに、プラトンが「イデア」という言葉を持ちまわることで、何を「考えて」いたかではなく、何を「しよう」としていたかを見破ることにしよう。じつはこのことこそが重要なのである。

 では、君も、たとえだれかが、ある人はほかの人よりも頭によって(頭だけ)大きいとか、反対に小さいほうの人は同じその頭によって小さいとかいうようなことを言ったとしても、そんなことは認めないで、自分が言いたいのは、すべて大きいものはまさに『大』によって大きいのであり、ほかならぬこの『大』こそ大きいことの原因であり、また、小さいものは『小』によって小さいのであり、ほかならぬこの『小』こそ小さいことの原因であるということだけだと、そう主張するだろうね?

 君は声を大にして、こう叫ぶだろうね。個々のものが生じるのは、個々のものがそれを分かちもっている固有の本質にあずかることによってであって、それ以外の仕方を自分は知らないと。いまの例で言えば、2になることの原因は2にあずかること以外にはなく、2になろうとするものは2〔のイデア〕にあずからねばならないし、1になろうとするものは1〔のイデア〕にあずからねばならないと。


 たとえばここに一本のボールペンがあるとする。このボールペンをこのようなボールペンたらしめている「原因」は何かと誰かに聞かれたならば、その複雑な製造工程や発明の歴史などを苦労して語ろうなどとはせずに、あなたは、それはボールペンの「イデア」だと答えればよい。プラトンは要するにそう言っているだけである。つまり「イデア」とは、ある物事をその当の物事たらしめているもののことで、いまなら、ある物事の「本質」あるいは「概念」と言い換えるべきところだろう。
 ところで、たったこれだけの言語行為、単に「原因」を「イデア」へと言い換えた言語行為、あるいは既成の言葉による定義の煩雑を嫌って言い逃れたにすぎないとしか思われない言語行為が、なぜ以後二千数百年にわたってヨーロッパ哲学界の基本的な思考様式を強く、しかも大いなる倒錯的思考様式として規定するに至ったのか。
 個別のある事物には、何であれ、必ずその事物が分有する(あずかる)ところの核心的な「何か」があって、それあるがゆえに、それぞれの事物は存在を許されているのである。その「何か」はいまだ名づけられていないが、仮に「イデア」と言っておくことにしよう――このプラトンの言語哲学的プランは、からくりとしては、現実の事物の多様を分類した上で、それぞれの事物を表わす言葉の抽象力を損なわないようにしつつ、そのことによって当の可感的事物よりも、それに対して与えられた言葉(名辞)のほうに存在のふるさとを与えようという提案を意味している。
 つまりは、「存在」の比重を、名づけられたものから名前そのものに移し変えるのである。言い換えると、事物にはすべてそれ固有の「イデア」があると宣言することは、真に存在するものはもろもろの可感的事物ではなく、それらに与えた言語(概念)なのだと言い切っているに等しいのである。
 可感的事物は、真なる存在の影に過ぎず、感覚で捉えることのできない「イデア」、思考によってしか語ることのできない「イデア」こそが真の実在である。それは形も色も大きさも持たず、運動したり静止したりもしない。なぜならそれは、人間の命名行為という純粋に思考の産物であって、この命名行為の総体がイデア界を作り上げるからだ。
 プラトンはしかし、いくらなんでも「イデア」を単なる命名行為とは考えなかったろう。そのように舞台裏を明かしてしまうことは、「イデア」という言葉によって積み上げてきた理想主義精神をみずから掘り崩すことだ。彼はむしろ、そのように名づけられるひとつの純粋で完璧な「世界」が厳然と存在し、もろもろの可感的事物はそこから魂を吹き込まれることによって初めて存在に与ることができるのだと固く信じていた。あるいは固く信じているかのようにこの言葉を用いた。
 しかし、よくよく考えれば、このイデア説を流布させることは、まさに先に指摘した言語行為、つまり自己自身を含めた世界像をそのつど再編する営みなのであって、すべての人々がこの営みに説得され、この流布が完全な成功を収めたあかつきには、「それは存在する」と高らかに唱えてかまわないのである。逆に言い換えるなら、ある言語による世界像の再編がうまくいっていないと普遍的に感じられる場合には、その言語は、物事の本質を形成する資格を持たないことになるのである。
 こうしてプラトンはひとつの観念論を創始したのであり、そうと自覚せずに、この「名前のみが存在の名に値する」という観念論によって、世界像の大きな創造的再編成をおこなったのである。その再編成の試みにはまた、より抽象的なレベル、思考によってしか捉えられないレベルにある概念ほど価値が高いという考え方が引き剥がしがたく結びついていた。
 だが私たちは、言葉というもののたいへん厄介な特性を知っている。
 すでに述べたように、それは個別的事物群をひとまとめに抽象化し、またある事物への形容や修飾を名詞的に固定化することができる。
 絢爛と咲き誇る桜や満天の星空や優美な稜線を描く山、水平線上に沈み行く太陽や若く生命力にあふれた女性の容姿等々を、それぞれに「素晴らしい=美しい」と感じる経験を積み重ねた後、それらの情緒的経験のうちにある共通の感得様式を見出し、それを「美」という名で呼ぶ。この概念の固定化・客体化がいったんなされると、それはそれ自体で存在しているかのような幻想に私たち自身を誘い込む。
 言語のこの自己幻惑的な特性は、さらに進んで、もろもろの「美しい」事物よりも、純粋性において優る「美」という概念そのもののほうが、存在的にも先立つのだという錯覚を呼び起こすのである。「美しい『花』がある。『花』の美しさという様なものはない」にもかかわらず。
 この錯覚は、繰り返すが、言葉というスタイルによって思考する私たちにとって、ほとんど逃れることのできない必然性を持っている。しかし、必然性を持ってはいても、それが錯覚であることには変わりがない。「神」が宇宙万物の「原因」なのではなく、はじめにあったものは、私たち人間の力や日常的状態をはるかに超えていると感じさせるもろもろの事象であり、それらの事象に対する私たち自身の驚きと畏敬の感情、すなわち「神的な体験」なのである。「神的な体験」が普遍的であればあるほど、「神」は存在し、しかももろもろの事物に先立って存在すると感じられるようになる。だが本当は、「神的な体験がある。『神』そのものという様なものはない」のである。
「イデア」も同じである。美しいもの、真実なもの、善きものがあちこちに見出され感じ取られれば、美のイデア、真のイデア、善のイデアは、個々のものに先立って存在し、しかもその値打ちは、個々のものよりもはるかに高いということにされてしまう。なんとなればイデアは感覚によっては捉えられず、思考のみによってその存在が確認されるからである――この「信」を支えているのは、言語というものがもともとその特性として持っている抽象力、虚構力、固定化力・客体化力以外の何ものでもない。
 ゆえに、私たちにとっては、言語の厄介な特性あるいは本質的な制約と映るものが、プラトンの世界再編の野心にとっては、格好の思想構築力であった。このじつに単純な、とはいえまことに大いなる錯誤こそが、「イデア」思想の倒錯の核心をなしているのである。
 私はプラトンのイデア論を、言語動物にとって避けることのできない「倒錯」を巧みに利用した思想史上最大の詐術であると考えるが、まさにそうであることによって、この思想は二千年以上の力を及ぼしたのだった。

 しかし、よくよく考えると、「善のイデア」という考え方には、仮にその存在を最高のものとして認めるとしても、いまひとつよくわからないところがある。というのは、このアイデアは、ことを倫理学的な視点で切り取ってみると、最高度に抽象的な「よきもの」があるといっているだけだから、かえってそのことで、人間の言動のうち何を善と呼び、何を悪と呼ぶのかという識別の原理が導き出せないのである。思い切りわかりやすいたとえで言えば、「果物」といっただけではそれがリンゴなのかミカンなのかバナナなのかわからないのと同様である。
 もとより、先に述べたように、個別の意志や行為をそれだけとして取り出して、何々は善、何々は悪というように絶対的な規定をほどこすことはできない。しかし、悪について私が先に説いた「人が自分の存在の根拠を置いているところの共同性に反する意志や行為」という規定、あるいは和辻の説いた「全体性からの離反としての個への停滞」という規定を善悪の絶対的な識別基準とすれば、単なる相対主義に陥らないために必要な抽象水準を保つことができる。しかも、個人の心中において、自分の過去や未来における意志や行動が善にかなったものであるかどうかという判定が確実に得られるのである。

 プラトンはみずからのイデア論を引っさげて、社会的な現実のあるべき姿を模索すべく、『国家』(『ポリテイア』)という長大な作品に挑んだ。かの有名な「哲人国家」の理想はここから出てきたものである。この意気込みや、まことに壮とすべきで、私はこの理想自体はそんなに悪くないと思っている。プラトン自身の問題意識は、民主主義の行きつく先としての衆愚政治に対する危機感にこそあった。ソクラテスの時代にすでにその兆候ははっきりと現れていた。プラトンが尊敬してやまなかった師のソクラテス自身が、この民主政治の衆愚性によって犠牲になるありさまを、若きプラトンは、この目でじかに見たのである。また、彼(プラトンは貴族出身である)の親族が参画した三十人政権も失敗に帰し、当時のアテナイは政治的混乱のさなかにあった。ソクラテスの活動した時代は、民主主義体制が曲がりなりにも生きており、彼はその中で哲学問答、倫理問答に生涯を費やしたのだが、40年を隔てて活躍したプラトンの時代は、ポリスの再建というテーマが心ある人々にとって差し迫った課題だった。
 おそらくソクラテスの時代と異なり、プラトンが哲学の世界でイデア論を構築したその基本動機のなかには、ポリス全体の運命をいかにしてより良い方向に導くかという社会哲学的な問題がはじめから含まれていたに違いない。私はこれまで論じてきたとおり、個人的には、彼のイデア論を哲学的・原理的な人間認識としてみるかぎりにおいて許しがたい倒錯だと考えているが、その国家論への応用という点では、もう少し別の観点からの評価が必要だろうと思う。
 彼の「哲人国家」思想は、言ってみれば、衆愚政治の弊害を脱するためには「精神のアリストクラート」が政治の代表者になるほかはないという思想であり、『論語』における「君子」の概念などと共通している。時代背景もよく似ており、その哲学的な問題意識が国家論に結びつく必然性を考慮すれば、彼の政治哲学としての国家論の基本図式は、当時における理念型の提示としては、かなり妥当なものと考えられる。
 とはいえ、プラトンの国家論こそは全体主義の濫觴であるというような、カール・ポパー(『開かれた社会とその敵』未来社)に代表される批判にも共感できる部分が皆無ではない。たとえば、守護階級の徹底的な育成のために男も女も区別なく素っ裸で体育術を学ばせるべきだというような、後のロシア・マルクス主義における全体主義的教育論やラディカル・フェミニズムの「ジェンダー・フリー」を連想させる記述、国家統治を完成させるために家族の解体を要請しているかに見える記述、統治者と守護階級とその他おおぜい(経済的階級)を、理性、勇気、欲望という人間の心の三特性になぞらえ、国家体制をそのような三層構造によって強固に打ち固めるべきだといった、過剰な設計主義的性格など。
『国家』にじっさいに見られるこれらの特性が、20世紀前半のヨーロッパにおいて激しい議論の対象になったことは、佐々木毅氏の『プラトンの呪縛』(講談社学術文庫)に詳しい。この時期には、自由主義体制、社会主義体制、ナチスによる国家社会主義体制など、大衆社会にふさわしいイデオロギーがいっせいに出そろい、それらが帝国主義戦争の現実に揉まれる中で、思想的にもしのぎを削った。したがって、二千年以上前のプラトンの国家思想がはるかに呼び出されて、それと現代政治思想との関連が熱を帯びて論じられるのも当然であったろう。
 しかし竹田青嗣氏が『プラトン入門』(ちくま新書)でつとに指摘しているように、近代民主主義(開かれた自由な社会)の時代を生きる私たちの観点から事後的にプラトン国家論の全体主義的性格を批判しても、それだけでは、全体主義そのものの起源や問題点や克服課題を的確に剔抉したことにはならない。歴史の教えるところによれば、全体主義は、多くの場合、むしろ民主主義の只中からこそ発生しているからである。
 全体主義が生み出されてしまう事情は、単に頭で考えられた理想自体にのみあるのではない。人性がもともと秘めている強さと弱さ、権力とそれに媚びる卑屈さ(権威主義)、単純で愚昧なエモーションに道を譲り渡すことを許す文化的な退廃、欲望の放任による経済格差の拡大と中間層の衰弱、などにその原因が求められる。そしてこれらの傾向は、民主主義が行き過ぎたときに露出しやすい。プラトン自身も、この傾向に対する問題意識を十分に持っていて、そのために統治の理論を構築する必要に駆られたのである。
 問題意識は十分だったのだが、彼の国家思想は、「なんでも頭で構想する」過剰な設計主義に貫かれていた。それが、政治のあり方を考えるにあたって、ふつうの人間の人性や、社会状況が持つ規定力のおそろしさに対する視野と感覚とを常に織り込む必要を忘れさせたのである。そのため国家にかかわる彼の理想主義的な精神の型は、後世、何度も人民抑圧や専制政治の道具として利用されてしまうことになった。もちろん、こういう理想主義が利用されやすいその哲学的な原因は、やはり彼のイデア原理にあるということをも見ておかなくてはならない。
 だがプラトン国家論には、功績もまたある。それは、哲学的思考を社会の考察にまで拡張して、正義とは何か、共同体の幸福とは何かといった社会哲学的な問いの形式を創始したことである。その始原の原理であるイデア論がたとえ倒錯にもとづいていたとしても、そのこととは別に、あるべき共同体のヴィジョンを具体的に構想したところには、哲学する彼の本来的な動機がよく活かされている。哲学を単なる暇人(スコラ)の遊戯とみなしていなかった証拠である。


*次回からはカントをとりあげます。

「自由・平等・人権・民主主義」とハサミは使いよう(その2)

2013年12月20日 02時49分13秒 | エッセイ
「自由・平等・人権・民主主義」とハサミは使いよう(その2)





 最後に、最も濫用されている「民主主義」という言葉について触れましょう。自分の立場を正当化し敵対する立場を論難するために、この言葉を盾にしない政治言論は、右から左までほとんどないといってよいくらいです。つまり「民主主義」は現代社会では神聖な葵の印籠と化しているわけですが、しかしそうなると、インフレと同じで、その言葉の価値がどんどん下がってしまいます。どの体制、どの思想が「本当の民主主義」に値するか、まあ、そういう旗の奪い合い、正統争いをやっている光景ですね。
 もちろん、この事態に深い疑いを持ち、早くから「民主主義国家」「民主政治」「民主憲法」などの概念を原理的なレベルで批判している数少ない人たちもいます。私はこの人たちを尊敬しています。民主主義はいま、その内的な必然からして、衆愚政治(いわゆるポピュリズム)に堕していく傾向が大いに顕在化しています。そうした状況のなかでは、こうした思想的営みはぜひ必要なことです。というのもこの傾向は、時々の社会経済的条件いかんによって、その急激な危機克服の手段としての全体主義へ結びついていくことが歴史的にも証明されているからです。

 しかしながら、他方では、「自由」や「人権」と同じように、相手のやっていることの不当性を指摘するためにこの言葉を葵の印籠として用いざるを得ない局面が多々あることも事実です。繰り返しますが、北朝鮮王朝政府や中共独裁政府の勝手な振る舞いに対しては、これらの体制そのものが民の福利にまったく寄与していないという抗議の意味合いを込めて、「民主化せよ、さもなくば体制転覆を覚悟せよ」と訴えることが必要ですし有効でもあります。
 たまたま新聞で目にしましたが、ロシアのプーチン政権も情報統制においてずいぶん強硬手段をとっているようです。報道機関として定評のあった国営ロシア通信社RIAノーボスチの解体を一方的に決めたというのです(産経新聞12月19日付)。同日付の北大名誉教授・木村汎氏の論説によれば、ロシアでジャーナリストが客観的な報道に従事するのは命がけで、過去20年間で341人の記者が殺害され、いまだに一人の犯人も捕まっていないそうです。
 こういうお国柄(ツァーリズム時代、社会主義時代を通しての伝統)の政権に対しては、報道の自由や、より開かれた民主主義体制の実現を訴えることは大いに意義があります。
 また生活の場面でも、エコ・イデオロギー、効率主義イデオロギー、過剰健康主義イデオロギー、「被差別者」特権イデオロギーなどが、当事者の生活感覚を無視して有無を言わせずじわじわと攻め寄せてくるとき、もっと民主的な議論が必要だろう、と感じることがしばしばあるのではないでしょうか。
 さらに、この恐ろしく多様化した大衆社会のなかで、国論を少しでも統一させてまともな政治を行なおうとすれば、だれもが最大限民主的な手続きを取らざるを得ません。政策を一つ一つ実行するにあたっても、世論のマジョリティがどの辺にあるかということに何の配慮もしなくてよいとはとても言えないでしょう。権力がなければ政策を実現することはできず、近代民主主義国家の権力は、世論によってこそ支えられるという点を無視できないからです。
 
 民主主義(デモクラシー)というのはデモス(民衆)自身による民衆の支配・統治を意味しますが、もとよりこれは専制政治(オートクラシー)・貴族政治(アリストクラシー)との関係において成り立つ、統治形態の形式的な概念です。別にはじめから葵の印籠であったわけではまったくありません。よい専制政治、よい貴族政治というのも十分考えられるし、現に歴史上ありました。
 民主主義の弊害は、早くから気づかれており、プラトンが『国家』のなかで哲人政治を構想したのも、当時のアテナイ社会の衆愚政治に対する批判意識からです。またアリストテレスは、上記三つの政治体制のうち、一応、理念としては民主政治が最もよいが、それが現実に堕落した時には、他の二つに比べて最悪の事態を引き起こすと見抜きました。
 十六世紀イタリアの思想家で、『君主論』の著者・マキャヴェッリは、良い統治を成し遂げるための君主の条件について深く考察しましたが、民主政治などという概念は彼の頭の中のどこにもありませんでした。また徳による統治を説いた孔子も、「小人閑居して不善をなす」と言い放ち、君子たるものの条件を力説しています。ニーチェに至っては、民主主義思想などは端的に奴隷のルサンチマンの上に成り立つものでしかなく、オルテガも大衆の支配がいかに人間を堕落させるかについて力説しています。バークのフランス革命に対する徹底的な否定は有名ですね。

 少し論理的に考えてみましょう。そもそも民衆自身による民衆の自己統治という、民主主義の根幹をなす概念はおかしいですね。なぜなら、個々の民衆はそれぞれの生活で忙しく、また識見、能力、視野において限界を持つのが当然であって、政治というものが、自分と直接にかかわらない不特定多数者の意思を統合させる仕事である以上、そんな大仕事を民衆のだれかれに任せるわけにはいきません。政治というのはもともと高度な専門職なのです。
 もちろん、近代民主主義がこのことをまったくわきまえないわけではありません。ですから、表看板は民主主義とか、国民主権とか謳いながら、現実には間接民主制あるいは代議制という形をとらざるを得ない。つまり近代民主主義のなかにも、選ばれた優れた専門家が実際の統治に当たるという理念は一応生かされてはいるわけです。選挙制度というのが形式的には、そのことを保障しています。
 しかし実際には、この制度も候補者の知名度が高いこと、イメージとして「ステキ」に感じられること、地元で勢力を持っていて人気があること、などの情緒的な要因によって規定されてしまうケースが多い。ことに現代のような情報社会においてはそうですね。集団としての「大衆」の多くは、候補者の政治的な力量や思慮深さ、所属政党の政策理念の是非、などをいちいち詳しく検討せず、単なるムードで選びますから。
 このよい例が小泉純一郎元総理であり、近いところでは、さる7月の参院選におけるYT氏やAI氏の当選です。この二人がいかにバカであったかは、その後の行動で白日の下にさらされましたね。こういうことが、間接民主制下においても起きるのは、民主政治の担い手が、最終的には国民による直接の「平等な一票」によって決定されてしまうからです。

 世の中には、アメリカで理想とされているような直接民主制こそ、一番進んだ政治の理想なのだと考えている浅慮な人士が絶えません。ことにアメリカに負けた戦後日本は、この考え方を助長しました。別にアメリカだって直接民主制を敷いているわけでも何でもない。一見直接民主制に思える大統領選も、その複雑なシステムによって間接民主制を担保しています。
 でもあんなに徹底的に負けると、勝った方がなんだか思想的にも道徳的にも優れていたのだという思いを刷り込まれてしまうのですね。いったんそれを刷り込まれたこの人たちにその信念を覆してもらうのはとても難しい。そこで一つのわかりやすい例を出します。

 シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演の『十二人の怒れる男』という名作があります。この映画は、アメリカの陪審員制度に材を取ったものです。スラム街で父親を殺したという容疑で被告席に立たされた17歳の少年の法廷での審理が決着し、あとは無作為に選ばれた多様な市民で構成される12人の陪審員たちが、有罪か無罪かを巡って密室で議論を交わすというシチュエーションです。陪審員制度では、全員一致でなければ評決が成立せず、いくら議論しても決着がつかなければ、その陪審員は解任されます。
 ご承知のようにこの映画では、はじめに投票で評決をはかると、11人が有罪、ただ一人、8号陪審員(ヘンリー・フォンダ)だけが無罪という結果が出ます。それから騒然とした議論が展開し、冷静な8号陪審員が粘り強い努力によって、ひとりひとり「無罪」を増やしていき、最終的に全員無罪を勝ち取ります。この映画のエンターテインメントとしての魅力はいろいろなところにあるのですが、いまはそれについては語りますまい。
 ここで指摘したいのは、この映画を不用意に見ると、アメリカの民主主義はなんて素晴らしいんだというふうに勘違いしがちなことです。陪審員制度は、雑多な市民が重大事の決定に当たるので、たしかに直接民主制の典型です。それが見事に一人の少年の命を救うところまで行き着くわけですから、その感動を、政治形態の理想に結びつけたとしても無理もない、と言えるかもしれません。じっさい、登場人物の一人が途中で「この国の強さは民主主義に宿っている」とスピーチする場面もあります。
 しかし、ちょっと考えてみましょう。この映画は、論理的に冷静にものを考えることの大切さを訴えてはいますが、けっして政治制度としての「直接民主主義」を肯定しているのではありません。なぜなら、もし8号陪審員がいなかったら、この審理は何の議論もなく5分間で「有罪」の決着がついてしまっていたからです。8号陪審員は、めったにいるはずのないスーパーヒーローです。すると、雑多な市民によって構成される陪審員制度は、当事者たちの都合、気分、根拠なき信念、偏見などによってひとりの人間の運命を決めてしまう公算が極めて強い、ということになるわけです。この映画はよく見れば、そのことがわかるようにきちんと描かれています。
 ちなみに現在、アメリカでは、刑事訴訟全案件中、陪審員制度が適用される事案は、わずか1.2%(1999年)に過ぎず、国内でもこの制度に対する批判が高まっており、適用数も年々減少傾向にあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%AA%E5%AF%A9%E5%88%B6#.E7.B5.B1.E8.A8.88

  陪審員制度は、ひとりの見知らぬ人間の運命などに真剣に関心を寄せる気がなく、専門家としての職業倫理も持たない人たち(それはそれで当然のことです)の「人民裁判」の典型です。これをなにか、「より進んだ制度」であるかのように考えた一部の戦後日本人がおバカなのです。このようなおバカな人たちの強引な主張によって、日本でも裁判員制度が施行されてきました(陪審員制度よりはその過激さが薄められているのでまだましですが)。まことに敗戦日本のアメリカ万歳の卑屈な精神には嘆かわしいものがあります。

 いまこの国の政治勢力の一部には、地域主権、道州制、参議院廃止、首相公選制などを平然と政策理念に掲げている人たちがいます。こういう政策を掲げる人たちは、ただ何となくこれらが中央集権的な政治体制から脱却して、より個々の住民の利害に結びつくように見えるので、「直接民主主義的な理念の実現に近づく」と考えているだけなのではないでしょうか。これらの政策がどんな現実的結果をもたらすかという長期的見通しが何もありません。人間というものを知らない、また、日本という国の歴史的、文化的なまとまりの良さを正当に評価できない、とんでもなく間違った考えです。間接民主制がかろうじてこの間違いの歯止めになっているのです。

 そろそろ結論です。
「民主主義」という言葉が現代先進社会のなかでもっている強大な呪力をいまさらなくしてしまうことはできません。さしあたり、右も左も、方便としてこの葵の印籠を大いに使えばいいでしょう。しかし、よりよい社会制度をどう構想していったらよいかという問題としてこれを捉えるなら、「民主主義」という言葉を少しでも肯定的に用いるために、最低限、次の要件を満たす必要があります。

①この制度を金科玉条と思わず、つねに懐疑の精神を失わないこと。

②政治に携わる人は、多数の多様な民の要求・利害をうまく調整して統合するだけの、専門的な能力、豊富な経験、決断力、公共精神を持った「選ばれた」人であること。

③国民は、どういう人がそれに値するかについて、情実やイメージに惑わされず、できるかぎり理性的な判断力を養うこと。

④適切な人が選ばれるために(YT氏やAI氏のような人が選ばれないために)どういう選抜制度が必要であるかについて、智慧を絞ること。ことに「良識の府」と呼ばれる参議院のあり方について見直すこと。
 
 これは必ずしも、平等・普通選挙を必須としません。また評論家・呉智英氏が提唱しているように、選挙人資格を簡単な試験などによる免許制にするというのも一方法だと思います。

⑤議員の選抜に当たっては、その手続きが透明なものとして開かれていること。

 こういう要件が本当に満たされると、実際には、私たちがいま抱いている「民主主義」のイメージとは、だいぶ違ったものとなるはずです。私はこれをあえて、「民主的な手続きによる精神的貴族政治(アリストデモクラシー)」と呼びたい。
 

「自由」「平等」「人権」「民主主義」とハサミは使いよう(その1)

2013年12月16日 21時59分22秒 | エッセイ
「自由・平等・人権・民主主義」とハサミは使いよう(その1)



 最近、日本や世界の政治にかかわるニュースを見たり聞いたり読んだりしていると、自由・平等・人権・民主主義といった言葉が、とても大安売りで使われていますね。
 これらの言葉は、現代の自由主義諸国(おっと、私もたちまち使ってしまいました)では、「普遍的価値観」と呼ばれて、たいへん重宝されています。
 普遍的価値観とはまた、大ぶろしきを広げたものですが、こうした言葉を「普遍的」と呼ぶことそのものが、アメリカを中心とした自由主義諸国(おっと、また)の戦略なのですね。現代社会では、みんながこれらの言葉には弱いので、看板として大いに使えると感じてしまうのでしょう。「朝鮮民主主義人民共和国」なんて、実態とまるで合わないスゴイ国名をつけている国さえあります。
 ところで今の日本の言論界でこれらの言葉が使用される場合、それらはいつも両義性、両価性を帯びています。両義性、両価性――ambiguity――つまり「二つ以上の意味や価値を持っているようにとれること」。
 ですから私たちは、これらの言葉を聞きとるときには、それがどういう文脈で使用されているのかに注意しなくてはなりません。また私たち自身がこれらの言葉を使うときには、それをどういう価値観のもとに使っているのかに自覚的でなくてはなりません。前者に関しては、まあ、それほど誤解の余地はないと言えますが、特に後者の場合、その人の思想がもろに現れます。何の疑いもなく肯定的に使っているのか、それともこれらの言葉の価値に対して否定的に使っているのか、はたまた懐疑的に、アイロニカルに使っているのか、方便として使っているのか等々。

 たとえば「自由」。
 日本国憲法で謳われているさまざまな自由は、何人も奴隷的拘束や思想弾圧を受けてはならないという規定ですから、これは原則的に保障されるべき大切な規定です。しかし、責任の伴わない無限定の自由が保障されているかといえば、それは違いますね。「個人の自由」は、野放図に許容されるとしばしば他人を侵害し、公益に抵触します。

 ひところ「自由教育」なる理念のもとに、子どもへの指導・管理・強制をほとんどしない教育機関がはやりましたが、これなどはとんでもない倒錯です。社会的良識が発達していず、責任を免除されている未熟な子どもに自由を許したら、授業を聴かない自由、教室で漫画を読む自由、おしゃべりしたり飲食したり携帯をかけたりする自由、先生に逆らう自由、学校に行かない自由なども認めることになり、教育は成り立ちません。じっさいにこんなことを提唱していたバカ論者がいたのです。

 また先ごろ、特定秘密保護法案の国会通過を巡って、一部のマスコミが「知る権利・報道の自由を侵すものだ」というネガティブキャンペーンを大々的に張りましたが、これなども、国民の安全を保障するための国家機密をみだりに漏らしてはならないという当たり前の趣旨を理解しない、まことに身勝手な主張というべきでしょう。この法律が施行されても、別に報道の自由は侵害などされず、これまでどおり保障されます。一部マスコミはナイーブな反権力感情だけを盾にして、自分たちが情報をリークしてもらえなくなるのではないかという恐れから、無関係な国民を巻き込んで煽動しているのですが、国民はこんな反安倍政権キャンペーンにたぶらかされてはなりません。
 なおこの問題については、当ブログに拙論を掲載しましたので、ご関心のある方はどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/13d043deb6f1e242766bf85f2c67d388
また1月10日発売の月刊誌『Voice』2月号にも拙稿を寄せています。

 さらにいま、TPP交渉の年内妥結の可否が云々されています。もともとこのTPPというのは、国境を超えて市場を自由に開放せよというアメリカの一部グローバル企業や投資家の要求を通そうとするもので、これが認められると、それぞれの国家主権やその地域に根差した慣習や文化に破壊的な影響を与えることは明らかです。
 この新自由主義のグローバリズム攻勢については、東谷暁氏、中野剛志氏、三橋貴明氏、柴山桂太氏、施光恒氏、関岡英之氏ら、多くの優れた論客が早い時期から何度も国益に反するものとして警鐘を打ち鳴らしてきました。それにもかかわらず、安倍政権は日米同盟という外交・軍事上の「ご縁」をそのまま経済関係にまで延長して、平然と対米従属を受け入れようとしています。ここでは私は、安倍政権を批判することになります。
 TPPのような経済的条約における「自由」理念をそのまま信じることは、弱肉強食的な競争至上主義を肯定することであり、日本の国益にとって有害であるのみならず、途上国、新興国にとっても経済的な主権を強国の富裕勢力に奪われることを意味します。

 しかし逆に、北朝鮮や中国のように、自由な言論も政治活動も許されず、政府に対する批判的言動が直ちに弾圧され取り締まられ粛清されるような独裁国家に対しては、自由の価値を叫び続けることに大きな意義があります。これはおそらく、その国に住んでみればすぐに実感できることで、逆に日本がいかに思想・言論・表現・信教などの自由が保障された恵まれた国であるかもわかろうというものです。恵まれすぎていて多様な見解・主張が乱れ飛び、結局は「暖簾に腕押し」になってしまっているわけですが。

 以上のように、「自由」とは、それだけとしては単なる抽象的な言葉にすぎず、どういう具体的文脈の中で使われるのかという背景と不可分のかたちでその価値が測られるのでなくてはなりません。

 同じことは、「平等」や「人権」という言葉にも当てはまります。
 たとえば、金融資本の自由取引が行き過ぎて世界経済を混乱させ、失業率が高まって社会格差が極端に開いてしまうような事態が起きた時には(現にいま世界的にそうなっているのですが)、公共体が適切に介入し、「平等」理念に基づいて雇用創出や所得の再配分を実現させる政策が必要とされます。現代のような複雑な社会システムの下では、どのように介入するかがまさに問題なのですが。

 またアメリカにおける黒人の公民権獲得のために闘ったキング牧師や、先ごろ亡くなった南アのマンデラ氏のように、不当な人種差別を受けている現状を打破するために、「平等」を強く訴えることはぜひとも必要です。

 しかし日本の戦後教育の世界では、悪平等主義がはびこってきました。機会の平等を保障することは、近代国家の教育政策として当然のことです。ところが、いつしかそれが結果の平等をも実現しようという非現実的な理想に置き換えられました。個々の子どもには驚くべき能力格差があるという当たり前の事実を認めることがタブー視されるようになったのです。東京都の学校群制度、偏差値追放、ゆとり教育、大学定員の供給過剰、面接重視を目指す昨今の入試改革案など、みなこの流れです。いま、これらのどこに問題があるかについては詳説しませんが、戦後教育における「改革」なるものがことごとく失敗してきたことは確かなところです。そうしてその失敗の元凶が、平等主義イデオロギーの支配にこそあるということも。

 さらに、最近の「一票の格差」についての違憲判決や、「婚外子相続分が嫡出子の二分の一」についての違憲判決のように、その背景にどういう具体的状況があるかということを見ない形式的平等主義は、まことに困ったものです。
 これらについても、当ブログで論じたことがありますので、ご関心のある方は、以下のURLへどうぞ。
 一票の格差問題:http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/130814b7041b2847b8be69d676d9d488
 婚外子相続問題:http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/a77b97ae04df91d61a6febf3c0bc3dcb

 日本では「人権派」というと、憲法11条をタテにとって、何でも自分たちの特殊な要求と主張を通そうとする種族を意味します。要するにサヨクあるいは「地球市民」派ですね。死刑廃止論者、人権擁護法案提唱者、「子どもの人権」論者、ジェンダーフリー論者などがこれに当たります。この人たちは、国家というものの存在意義や歴史的意味がわかっていないために、「正義」のよりどころをただひたすら反国家的な感情に求めます。公共精神のかけらもない幼稚な人たちですが、そういう幼稚な議論がけっこう通ってしまうところが問題です。

 しかし日本国憲法というものが現実に存在して、そのなかで「基本的人権」の規定が謳われている以上、時に応じてこの規定およびその土台になっている人権思想を利用する必要が生じてくるのも事実です。たとえば、拉致被害者の生命や自由が無視されてきた状況に対して、私たち日本国民は、「人権の大切さ」という旗印を大いに掲げる必要があるでしょう。
 私事で恐縮ですが、私はあるご縁から、明らかに冤罪と思われる事件に少しばかり関わった経験があります。これは、その当事者の職を不当に奪う行政措置がなされたことに対する抗議文書を書くという形をとったのですが、こういう場合、憲法を頂点とする法体系に則って訴訟に立ち向かわなくてはなりませんので、当然、その行政措置は憲法違反(つまり人権侵害)であるという論陣を張ることになります。

 また、ノーベル平和賞を獲得した中国の人権活動家・劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏のように、過酷な弾圧のなかで闘ってきた人の思想的よりどころが、「人権」という概念の価値に依っていることは明らかです。そうして、それは正しいことだと思います。

 このように、「人権」という概念をひたすらお札のように絶対化して拡張解釈するのもはき違えだし、いっぽう、圧政や弾圧や不当な措置が現にあるところでは、この概念を「普遍的価値」として掲げていくことも有効な意味をもつと考えられます。要するにそれは政治状況、社会状況に応じて使い分けるべき概念だということになるでしょう。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(8)

2013年12月14日 02時14分12秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(8)


 ピアノトリオ特集を続けます。あと二人。
 前回、ジャズピアニストとして、個人的にはレッド・ガーランドが一番好きだと書きましたが、これからご紹介するウィントン・ケリーも、私の大好きなピアニストです。じつはどちらかを選べと言われると迷います。



 先日、音楽通の知人と飲んで話題がジャズに及んだ時、彼はピアニストではウィントン・ケリーが一番好きだと言っていました。その気持ち、とてもよくわかります。この人は私より10年ほど若いのですが、早くから音楽にいかれてきたようで、なんとCD4000枚のコレクションがあるそうです。むろん、知識も私などよりはるかに豊富、その彼とジャズ談義をしてみたら、さまざまな演奏についての好みや評価が自分と一致しているのに驚きました。そうして、これまで身の回りにあまりジャズについて語り合える知人友人がいなかったので、私はとてもうれしくなりました。何しろこの人はすごい鑑賞キャリアなので、その行き着いた先でウィントン・ケリーを称えるというのにはとても説得力があります。
 ちなみに評価が一致した一例を挙げると、ジョン・コルトレーンの活躍期のアルバムで、「至上の愛」以後のものはダメだという説。これについては、モダンジャズ史全体にとって大きな意味をもつ話題なので、またのちに話しましょう。
 そう言えば、前々回、ビル・エヴァンスの後期について、異説を唱えてきた人がいたと書きました。この人とは旧知の間柄なのですが、このシリーズを始めるまで、彼がジャズを深く聴きこんできた人だった(おそらくはクラシックについても)ということを私はまったく知りませんでした。
 じつはみんな遠慮して黙っているだけで、隠れファンて、けっこう多いんでしょうね。何でも一応は話してみるものです。しかし、宗教や政治の話は気心が知れるまで慎まなくてはならないように、趣味の話も、それとは違った意味で、やたら無防備に話さないほうが賢明かもしれません。関心のない人に薀蓄を垂れても、相手を白けさせるだけです。また、趣味ほど人によって多種多様である領域はないので、たとえ同じジャンルの趣味を持っていても、やたら「これはいい、これはダメだ」などと勝手に決めつけると、ケンカになってしまうかもしれません。自分の好きなものを「あれはよくない」と言われると、人はけっこう傷つくものです。好きな女性のことを悪く言われたのと同じように。
 ですから、言い方に気をつける必要があるのですね。ただ決めつけるのではなく、なぜそう感じるのかを静かに説いていく。相手の評価もきちんと聞く。そういうやりとりをねばり強くしているうちに、まともな批評が成立してくるのだと思います。以上は、すぐ評価を下したがる私自身への自戒の弁。

 さて本題。
 レッド・ガーランドのピアノが趣味(洒脱なセンス)の良さを極めたものだとすれば、ウィントン・ケリーのそれは、明るく晴れやかに歌い上げると言ったらいいでしょうか。テクニック的には、古参兵のアート・テイタムなどから大きな影響を受けているようですが、もちろん、ケリーにはケリー固有のスタイルがあります。
 この人のピアノタッチの特徴は、まず一音一音がとても弾みをもっていて、しかもそれぞれが孤立していず次の音との連続性が感じられる点です。おそらく、一つのキーに指を置いている時間が普通よりもかすかに長いのだと思います。ピアノは、一種の打楽器ですから、下手に弾くととぎれとぎれになりやすいですね。その危険を見事に克服しているので、そこに独特の抒情性が生まれるとともに、演奏全体が淀みのない流れとして聞こえてきます。
 次にソロの時のフレーズですが、これはとても溌剌としていて、特にアップテンポの曲ではいつも楽しい「唄」になっています。乗ってくると、高音部でキラキラと輝くような得意のトレモロを響かせます。まるで喜びにあふれた人が踊り続けているようですよ。それでいて、クラシック音楽の名曲にそのまま通ずるようなとても上品で典雅な雰囲気に貫かれているのですね。たぶんこの秘密の一端も、キータッチの息の長さにあるのだと思います。
 テクニックについてもっと専門的なことが言えるのかもしれませんが、これ以上は私の手に余りますので、とにかく一曲。名盤「ウィントン・ケリー」のなかから、「風と共に去りぬ」。
 パーソネルは、ポール・チェンバース(b)、ジミー・コブ(ds)。ただし、ベースについては、たぶんポールだろうとの推定の限りを出ません。というのは、このアルバムでは、もう一人、サム・ジョーンズがベーシストとして参加しているのですが、どの曲がポールでどの曲がサムなのか書いてないのです。諸説あるそうですが、この曲では、弾き方の特徴からして(伴奏の時は脇役に徹して音が低く慎ましい)、ポールに間違いないでしょう。

Wynton Kelly - Gone With The Wind


 もう一曲。あまり話題にならないアルバムですが、「フル・ヴュー」というのがあります。全体に非常に完成度の高いアルバムで、ケリーの絶頂期ではないかと思うのですが。
 この中から、スロー・バラード「ホワット・ア・ディファレンス・ア・デイ・メイド」。パーソネルは、ロン・マックルー(b)、ジミー・コブ(ds)。
 何とも言えないしっとり感に浸ること、請け合いです。

Wynton Kelly Trio - What A Difference A Day Made


 じつは、本当はこのアルバムからは、「アイ・ソート」という曲を紹介したかったのですが、残念ながらうまくつかまりません。
 若かりし頃、この「アイ・ソート」」を聴いた時、私は親しみやすい旋律とケリーの「舞踏への招待」にいっぺんで誘惑されてしまいました。躍動するソロが、ケリーらしさを見事に表しています。
 この曲はワルツ(三拍子)です。ジャズはフォービート(四拍子で二拍目と四拍目にアクセントがある)が基本だと前に書きましたが、早い時期からいろいろな人がワルツを好んで演奏しています。前に取り上げたビル・エヴァンスの「いつか王子様が」もワルツですし、ソニー・ロリンズマックス・ローチのコンビもワルツだけでアルバムを作っています。かの有名なコルトレーンの「マイ・フェイヴァリット・シングズ」も三拍子ですね。ちょっと先走って言うと、「いつか王子様が」は、マイルス・デイヴィス・クインテットの演奏が絶品で、ここで控え目ではありますがピアノを担当しているのがウィントン・ケリーなのです。
 ジャズとワルツとは、もともと相性がいいのだと思います。何というか、三拍子って、アレグロ(快速調)くらいのテンポの時のスー・ハー・ハーという人間の呼吸のあり方にマッチしているのではないでしょうか。つまり、ワルツとはそのまま「舞踏」なのですね。

 さてもうひとり。ソニー・ロリンズをご紹介した時に名前を挙げておいたトミー・フラナガンです。



 彼の演奏は、ラテン系の味わいを持ちながら、たいへんオーソドックスで、それだけに、だれもが安心して楽しく聴けるというメリットを持っています。
 アルバム「エクリプソ」から、ソニー・ロリンズ作曲のスリリングな名曲「オレオ」。パーソネルは、ジョージ・ムラーツ(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)。

Tommy Flanagan Trio - Oleo
  

 ジョージ・ムラーツの比較的高い音域でのスウィンギーなサポートも聴きものですが、ここで注目すべきは、何といってもエルヴィン・ジョーンズの巧みなブラッシュワークです。エルヴィン・ジョーンズといえば、コルトレーンのバンドでその名を馳せた趣がありますが、じつをいうとコルトレーンとの演奏では、私は少々文句を言いたいことがあります。



 それはともかく、この曲でのエルヴィンは、トミーを思い切りインスパイアしつつ、自分も力強いソロを演じています。彼のブラッシュワークは、他の追随を許さない迫力満点の演奏で、もともとおとなしい楽器であるブラッシュでこれだけの個性が打ち出せるというのは、まさに驚異です。
 同じトミー・フラナガンとの共演で、かつて幻の名盤と言われた「オーヴァーシーズ」というアルバムがあります。ここでも「ヴェルダンディ」という曲でエルヴィンのスリリングなブラッシュが聴けますが、あいにくうまく転載できません。URLを記しておきますので、興味を持たれた方はどうぞ。

http://www.youtube.com/watch?v=dWtV6JyKK3w&list=PLkl9EfuWu4wFE2fEayNIzyZajiP1QYvYm
 私は彼の生演奏を聴いたことがあります。今は懐かしき新宿紀伊国屋裏の「ピットイン」という生演奏のジャズ喫茶で、たまたま今日エルヴィンが来るという看板を目にして、特別料金もいとわず、あわてて入り込んだのです。看板には「世界一ドラマー、エルヴィン・ジョーンズ来る!」と書かれてありました。世界一かはともかく、当時、コルトレーンのバンドでの大活躍の後で、彼の名声はジャズファンの間で轟いていました。その出演前に、日本人の前座的な(といってはまことに失礼ですが)演奏があって、それがずいぶん長く続き、私はいまかいまかと待ち焦がれて、何度も彼が登場するはずの後ろを振り返った覚えがあります。
 そのとき、あの力強いブラッシュワークを目の前で見る(聴く)ことができて、それはそれで大いに興奮したのですが、いかんせん、彼の演奏時間はあまりに短く、どうにも未練を残しました。悔しい!
 というわけで、エルヴィンの名前を出しましたので、そこからの連想で次はいよいよコルトレーンについて語ることにします。









日本語を哲学する15

2013年12月09日 18時21分14秒 | 哲学
日本語を哲学する15

第Ⅱ章 沈黙論(2)

③の1 統合失調症患者にしばしばみられる緘黙


 統合失調症患者やうつ病患者の緘黙の場合もまた、一義的にその「意味」を確定するわけにはいかない。統合失調症とか、うつ病とか診断される患者自身が多様な病像を示すし、さまざまな「境界例」と呼ばれるケースもある。精神病理学・精神医学は新しい学問だから、その疾病概念自体が曖昧さを免れないし、精神医療の専門家たちの間でも基礎理論的なレベルで議論百出の混乱状態を呈してきた。
 しかし、診断者の膨大な臨床経験の蓄積から、ほぼ「統合失調症」とか「うつ病」とか診断するにふさわしい共通の病像が見られる事実も否定できない。この両者を「二大精神病」として位置づけたのは、クレペリンやブロイラーだが(前者は、「早発性痴呆」と「躁鬱病」、後者は「精神分裂病」と「躁鬱病」)、いうまでもなく、それぞれの疾病概念の中身もまた、その型によって多岐に分かれるとされてきた。なお現代では、「躁鬱病」にくくられる種々の病像のなかでは、単相型の「うつ病」の占める割合が圧倒的に多いとされている。
 ところで、病像の多様性や疾病概念をめぐる議論の混乱に足をとられて、「沈黙」という本稿の主題に言及できなくなってしまうのでは意味がない。そこで、いささか乱暴ではあるが、「統合失調症」と「うつ病」とが現在でもなお、精神医学上、二つの大きなテーマである事情に鑑みて、この二つにおいてしばしばみられる「緘黙」が、言語論的にそれぞれ何を意味しているのかについて、私見を述べておきたい。

 統合失調症における緘黙(言語的閉じこもり、また周りに人がいるのもおかまいなしにぶつぶつと独語する状態など)は、ウジェーヌ・ミンコフスキーが規定した「現実との生ける接触の喪失」という概念――この概念の当否についても議論があろうが――に照らして、おそらく、自己の世界像と周囲の他者のそれとの大きな乖離に対する漠然とした・不安な認知からやってくるものである。
 患者は幻聴や妄想に悩まされ、それを他者に向かって「現実」であるとして表現することが多いが、他者はそれを「現実」ではないとして否定する。また活発な幻聴や妄想を特に他者や自己に対して表出しない場合でも、事情はさほど変わらない。なぜなら、「自己」とは、キルケゴールの言うように(『死に至る病』)、「関係が関係それ自身に関係するということ、そのこと」なので、患者は、自己のなかに住まう「他者」によって、共同世界からの疎隔感そのものを多かれ少なかれすでに問題視し、あるいは「否定」していると考えらるからである。じつは彼は、「無意識の病識」とでもいうべきパラドックスをどこかにかならず抱えながら生きている。
 この「否定」は、フロイト流に言えば、それ自体がまた一種の反動形成として、孤独な世界像への固執をうながすであろう。人間は、どんな具体的な契機からであろうと、周囲との共同関係から切り離された時間を長くもつと、ちょうと夢の世界がそのことをよく示しているように、「経験的事実」なるものによって検証されない「意識の自己展開」を次々と繰り広げてゆく本質的な性向をもっている。人間とはもともと「妄想的生物」である。
 だから統合失調症における緘黙は、いわば自分の世界像が他者と共有されていないという不安な認知そのものの「言語的表現」なのである。そしてまたこの基礎的な認知とその「否定」とによって再生産される幻聴や妄想への関心の固執が、実際上の緘黙状態をさらに持続させることになる。というのも、身体の中心を襲ってくる音声や、ある妄想観念への囚われは、それ自体が「意識の活動」であることによって、それ以外の周囲の出来事や対象を、意識的な関心の埒外においてしまうだろうからである。
 そもそも、幻聴(病理学用語では「考想化声」とか「作為体験」とか呼ばれる症状を通して現われる体験)とはいったいなんだろうか。
 それは一言で言うなら、「自己」を成り立たせている条件としてすでに内在的に住み込んでいる「他者」を〈私〉の一部として身体的・情緒的に統合することの失敗である。
 前章で述べたように、音響の知覚は、時間に添って確認されるというその本性からして、意識にとっての「対象」とはなり得ず、むしろ意識の流れそのものに寄り添い、意識の具体的なあり方、すなわちある一定の「内面」の形成に与かる。しかし人間は、個々の意識のあり方、「内面」のあり方を他者と共有しているかどうかを絶対的に確定する方法をもっているわけではない。だから、この「共有」を確信して不安を解消するために私たちがとりうるのは、具体的な他者とのそのつどの、身体的・情緒的・言語的なやり取り(一般に「行為」)という方法以外にあり得ない。このやり取りが維持される限りで、共有の確信はたえず更新され、不安は克服される。こうして通常の場合は問題なく生活(共同関係)が成立し、進行する。
 だが、資質、環境、体験その他の諸条件によって、ある極端な孤立が蓄積されると、言語的な意識は、この唯一の方法としての「行為」への結びつきからの撤退を余儀なくされる。言い換えると、身体的・情緒的なやり取りと、言語的な意識との乖離、後者の前者からの浮き上がりが出現する。その結果、言語的な意識(=ここでは観念化された音声)が自分の意識の流れそれ自体を、何か自分の身体の外に存在する「他者」を源としてやってくるものと感じるようになるのである。
 つまり幻聴体験は、人間の意識構造の次の二つの根源的な条件を基盤として生じる。

 a.人間が一個の〈私〉でありうるために「他者」を内在せざるを得ないこと
 b.言語が音声を本源としており、その基礎である「音響」が時間に添って知覚される という点で、意識そのものに同期すること

 したがって幻聴体験は、通常の人間的あり方からは理解を絶した現象なのではなく、むしろまったく逆に人間の意識の普遍的な本質を屈折した形で照らし出しているのである。

③の2 うつ病患者にしばしばみられる緘黙

 うつ病の緘黙の場合はどうであろうか。私はこれを「意識が、過去としての〈私〉に抽象的に、かつ過剰に囚われた状態」によるものと考える。
 うつ病患者がよく訴えるのは、自分には何の存在価値もないとか、未来に何の希望も感じられないとか、自殺したいとか、過去の行為に根拠をもたない罪悪感、全身の倦怠感といった気分である。こうした気分を訴えるのは、几帳面で責任感が強く、こつこつ型の人に多いと言われている。
 自分の「存在価値」にこだわることとか、「絶望感」とか、「罪悪意識」とかいった様態は、存在論的には何を意味しているだろうか。
 まず人の「存在価値」とは、その人が過去において、どんな業績や喜びを他者に与えてきたかによって測られる。他者がある人を「あれはああいう人」とみなすとき、その根拠は、その人との具体的な交渉経験の結果としてである。だがすでに述べたように、ある人が一個の〈私〉でありうるためには、「他者一般」のまなざしを自分のうちに内在化させざるを得ない。したがって、その内在化された観念的な他者による自己評価は、自分の過去を対象とするほかはない。さまざまなきっかけ(リストラでも、出世の望みが断たれたことでも、失恋でも、目的達成後の空虚感でも、何でもよい)によって、自分の前半生は無意味だったという極端な自己卑下の感じに支配された時、彼は、現在かかわりをもっている事実上の他者や対象との生き生きとした交渉の可能性に目が向かなくなってしまう。彼にとって〈私〉とは、ほとんどすべて「私の過去」である。
 また「絶望感」とは、未来の可能性を手元にたぐり寄せつつ生きるという人間の実存的なあり方を封印された状態を意味する。ハイデガーの言うように、人はいまだあらぬところの「ありうる自己自身」をたえず関心の的として生きる存在であるから、その「ありうる自己自身」が具体的な可能性を何も提供してくれないと感じられる状態が「絶望感」である。だからこれもまた、〈私〉の過去に過剰にこだわっている状態だと言える。
 さらに「罪悪意識」が、「すでに行われた自分の行為」にかかわるものであることは言うを俟たない。しかし、その行為なるものが、本当に行われたある具体的な何かを指しているのではなく、自分の前半生全体を漠然と指し示しているような場合、あるいはいくつかの具体的な何かを指しているとしても、それがそれほどの罪責感に値するようなものとはとても考えられない場合には、その人の意識は〈私〉の過去に過剰に囚われていると言える。
 このように、うつ状態とは、意識が過去としての〈私〉に過剰に囚われた状態にあるために、抽象的な過去としての〈私〉、〈私〉の来歴一般のまわりを空転してしまう事態である。意識とは、本来は、未来の行動を条件づける動物的なはたらきとして与えられた機能である。しかしうつ病においては、その「意識」が、目の前に開けた身近な他者や対象世界に自分を着地させることができない。彼の意識にとっては、「これから先の私」が実感をもって存在するように感じられない。しかし、意識だけは、まさに「ただの意識」として空転しつつ流れるので、そこに、うつ病に特有の不安感も伴うのである。
 この状態では、当然、他者へ向かっての情緒的な「開かれ」が何かを生むようには期待できないから、発語という構成行為をあえてなすことにほとんど意味が見いだせなくなる。こうして彼は緘黙に陥りがちになるのである。
 そして、この場合も、通常の人間がしばしば過去の失敗や挫折の経験にとらわれて、暗い落ち込んだ気分になり、「誰とも話したくない」という状態になるのと本質的には変わらない。資質や環境や体験などの条件によって、その固定化の程度が違うだけである。
 統合失調症の幻聴や妄想の場合には、念慮はある具体的な内容をもっており、その緘黙は、しばしば一種の過剰な豊かさゆえの緘黙とも言えるので、意識の未来志向そのものは損なわれていないと考えることが可能である。だが、うつ病の場合には、存在論的な未来志向そのものが壁にぶつかっているのである。

④脳の器質的損傷による失語

 これについては、多言を要しないだろう。器質的損傷による失語は、大きく、感覚性失語(ウェルニッケ失語:発語は流暢にできるが、人の言うことがよくわからない)と、運動性失語(ブローカー失語:人の言うことはよく理解するが、発語がうまくできない)、およびこれらの総合的な失調、その他に分かれるとされている。こうした大脳の言語中枢機能の局在的な障害として失語を切り取るかぎり、そしてその診断が臨床的に明らかであるかぎり、思想的な言語論としての「沈黙」の問題にこのケースを含めることには、さほどの意義は認められない。言語活動を支えるものとしての「情緒的な開かれ」には問題がないと考えてよいからである。
 ちなみに補足しておくと、構造主義言語学者のローマン・ヤーコブソンが規定した「選択(等価な語群から語を選ぶ力)」の失調による失語症と、「結合(文法的な統辞形式を構成する力)」の失調による失語症という有名な二大分類は、脳科学による病因論的分類とはまた違った次元に属する。これは、いわば自らの言語構造理論の証拠提供の意味をもつ分類である。語彙の選択能力の障害とそれらを統合して文として構成する能力の障害とは、いずれも感覚性失語(聞き取りの障害)、運動性失語(発語の障害)との両方に重ね合わせて考えることのできる分類だからである。聞き取りの障害にも「選択」と「結合」の両方の障害の区別が考えられ、発語の障害にも「選択」と「結合」の両方の障害の区別が考えられる。
 しかし、ヤーコブソンのこの分類が多様な失語症現象そのものに対して、どこまで深い認識に達しているかについては疑問なしとしない。たしかに言語現象内部の形式的な把握として失語現象を記述するという点では的確と言えるが、しかし、こういう仕方で失語症を分類した場合、今度は、それらの差異はそれぞれどのような心的状態を基盤として生ずるのかという問いを呼び起こすからである。
 というのは、選択や結合の障害は、「失語症」という常態化してしまった症状に注意を集中しなくても、私たちの日々の言語活動で、部分的にはたえず経験されていることだからである。たとえば、ある人の名前がどうしても出てこない(選択的失語)とか、話しながら語順や文法を間違えて、言いたいことを相手にうまく伝えられない(結合的失語)といったことは、ありふれた現象である。すると、こうした現象には、当然、その発語者の情緒的状態、もっと言えば、時枝が言語の三つの存在条件として掲げた、「主体、素材、場面」がどういう関係におかれているのかという問題が絡んでくる。だから、発語や聞き取りを支えるそうした言語外の条件にまで視野を届かせるのでなくてはならない。しかしこの問題は、時を改めて論ずることにしよう。

特定秘密保護法案について

2013年12月06日 22時55分30秒 | 政治
特定秘密保護法案について


 今これを書いている時点(12月6日午後)で、特定秘密保護法案は、参議院国家安全保障特別委員会を通過し、本会議での可決を待つ状態になっています。
 この法案を巡って、中央の政局・報道機関を中心にだいぶ世間が騒がしくなっているようなので、私はここ数日、この問題について自分なりの考えをまとめようと思ってきました。現時点での私見を述べます。
 この法案が熱い議論を呼び込む理由は、簡単に言ってしまえば、国家中枢の一部が、安全保障上重要な秘密の漏洩を防止することを理由に、特定秘密として指定された情報を国民に流さず、しかもその秘密の従事者が保護義務を破った場合には、10年以下の懲役という刑事罰に処せられる点にあるでしょう。
 この法案の成立に反対する勢力は、「国民の知る権利・報道の自由が侵される」「民間事業者の適正評価はプライバシー侵害だ」「憲法で規定された基本的人権に違反する」「戦前の治安維持法と同じで、戦争への道に近づく」などとにぎやかに騒いでおり、今日も国会前に採決反対の人々が集まったようです。午後7時のニュースによると、主催者発表9000人とのことですが、まあ、実態はこの半分以下でしょうな。
 また煽動メディア・朝日新聞は、かなり前から法案反対の一大キャンペーンを張り、社説、特集記事などにおいて、これでもかこれでもかと反対世論の形成に力を注いできました。著名人をたくさん取り込んで、その人たちに反対意見を語らせる。賛成意見はおろか、中立的な意見さえありませんし、これらの著名人のなかには、法案の趣旨をよく理解していない人もたくさんいます。なかには、「保守系漫画家」(?)として有名な小林よしのり氏まで入っています。かつては特攻隊賛美の漫画まで描いた小林氏(私はこの点での小林氏を評価しませんが)も朝日新聞に利用されるようでは困ったものですね。

 それはともかく、私はたまたま、4日の水曜日夕方、この問題についてのNHKラジオ解説番組を聴いていました。出席した「専門家」は、外交評論家の孫崎享(まごさき・うける)氏と、元防衛研究所所長の柳沢協二(やなぎさわ・きょうじ)氏。
 番組では、街の声を10人分ほど拾い集めていましたが、中で年配風の男性がただ一人、「必要なんじゃないの、同盟国から情報もらえないでしょ」とまともなことを言っていたのを除いて、他の人たちは、「なんか知る権利が侵されるようで怖いですね」とか「プライバシーが侵害されないかな」などと毎度おなじみ、「日本人」風。
 そもそも私は「街の声」などというものを信用していません。それは二つの理由からです。一つは、急ぎ足に街行く生活人にマイクを突き付けて、天下国家の大事についての深い考えが引き出せるはずがない。第二に、報道する局の意向が決まっていれば、たくさん集めた中からいくらでもその意向に都合のよい声だけを拾う操作が簡単にできます。
 また同じ番組では、哲学者(?)の内田樹氏ら何人かの著名人が「特定秘密保護法案に反対する学者の会」なる会を立ち上げて、12月3日に「戦争への道を開く」という趣旨の記者会見を行ったと報じていました。「学者の会」ね。知的権威の保持者がいかにもよく考えてきたような。
 ちなみに私事で恐縮ですが、この内田樹という人がいかに視野の狭いただの「サヨク」言論人でしかないか、という点について、私はいま発売中の月刊誌『正論』1月号で詳しく論じていますので、ご関心のある方は覗いてみてください。

 ここまで聞いた方は、NHKのこの番組が偏向報道以外の何物でもないということにお気づきでしょう。しかしまだまだ、そのあとがあるのです。こちらのほうが問題です。
 先に挙げた「専門家」の二人は、口裏を合わせたように同じことを言っていました。その要点は二つ。
①なぜ今この法案を通さなければならないかという本質的議論がなされないままに、政府は急いで通そうとしている。
②自分たちは、現役時代(それぞれ外務官僚、防衛官僚)にいろいろな機密情報に触れる機会があったが、日本に機密情報の漏洩を防ぐ法整備がなされていないからという理由で、アメリカから情報の提供を拒まれたことはない。
 以上二つは、NHK司会者の誘導尋問に答えたものです。
 いかがですか。

 ①については、自民党内にプロジェクトチームを立ち上げたのが8月ですから、たしかにそれだけを見ると、拙速との印象があるかもしれません。しかし、この法案成立を多少急がざるを得ないのは、周辺諸国、特に中国の近年における明白な侵略的意図に対する防波堤を早く築かなくてはならないからです。
 先の防空識別圏の強引な設定でもわかるとおり、中国は、日米の分断によって日本の孤立化を図ろうと画策し、両国がどういう反応を示すか試しています。これからも次々と策を弄してくるでしょう。そういうときこそ、同盟国との情報の素早い共有が不可欠なのです。そうしてこの共有は、高度な機密に属しますから、けっしてダダ漏れしてしまってはならないのです。
 充分な議論を尽くしたうえで、というのは理想ですが、それは物事によります。国際環境の切迫した状況への迅速な対応が必要とされるときに当たって、ゆっくり議論を尽くしたうえで、などと学者風、評論家風ののんきなことを言っていたら、いつまでたっても政治決着がなされません。
 またこの法案は、それだけとして値打ちが測られるのではなく、先に発足した国家安全保障会議(日本版NSC)と来年1月に創設される国家安全保障局とを実質的に運用させるための法的な保証の意味をもっています。この法律が整備していないと、機関だけできていてもそれを遺漏なく活用することができません。三者はセットです。だから急ぐ必要があるのです。

 ②についてですが、これは本気で言っているのだったらノーテンキもいいところです。外交や防衛のプロだったくせに、この人たちはなんてお人よしなんでしょう。「専門家」がこれだから、戦後日本は相変わらずの対米従属根性、奴隷根性から抜け出せないのです。
 本当に日本のようなダダ漏れ国家に対して、米政府がすべての情報を提供してきたなどと信じているのでしょうか。そんなことは、情報戦争のプロである米政府はとっくに斟酌し、この程度はいいがこれはだめ、と情報を厳密に選択したうえで日本政府に提供しているに決まっています。だからといって、米政府が「あんたのところは漏洩する危険があるからこの情報は教えない」などといちいち公式見解として言うはずがないではありませんか。
 公式見解としては言わなくても、それがアメリカの本音であることだけは確かです。事実、初代内閣安全保障室長の佐々淳行(さっさ・あつゆき)氏は、「私が警察庁や防衛庁に勤めていたころ、外国の情報機関から『日本に話すと2,3日後に新聞に出てしまう』と言われたことが何度もあった。……特定秘密保護法のない国に対しては、たとえ同盟国であろうと、どの国も情報をくれないし、真剣な協議もしてくれない」と述べています(産経新聞12月6日付)。その通りだと思います。

 もう一つ言っておきたいこと。
 東アジアの安全保障問題に直接利害を持つのは、当事国である日本であり中国であり韓国であり北朝鮮です(ロシアもか)。私たちのほうが、アメリカよりこの隣国同士の緊迫の度合い、質をよく心得ているのです。アメリカとの同盟関係はもちろん大切ですが、いまアメリカは、日中の悶着の解決にそれほど精力を注ぐだけの余裕がありません。このことは、昨日(5日)のバイデン副大統領と習近平国家主席との会談内容でも明らかですね。バイデン氏は、中国の防空識別圏の設定に対して、「懸念」を表明したにとどまり、本気で撤回を要求しませんでした。ここに日本政府が望むところとは、明らかな温度差があります。ともかく私たち自身が、いま米政府にできることとできないこととをよく見極め、アメリカ依存症から少しでも抜け出す必要があります。

 さて反対派の「憲法違反」「知る権利・報道の自由・プライバシーの侵害」「戦争への道」なる主張ですが、これらは、「いつか来た道」――聞いていてうんざりですね。何がうんざりかって? 以下、箇条書きにしましょう。

①この人たちは、いつもそうですが、外交・国防にかかわる政治問題を、その趣旨もわきまえずに国内問題としてしかとらえません。中央権力のやることには、よく調べもせずに何でも反対しておけばよい、という戦後日本特有の反国家感情を吐露しているだけなのです。一般の人がマスコミに誘導されてそうなるのは仕方ないかもしれませんが、知識人や専門家がそれでは困るのです。

②今回の法案は、その要旨をよく読めば(産経新聞12月6日付に掲載されています)、知る権利やプライバシーに対する配慮もちゃんとなされています。また、刑事罰の適用に当たっては、もちろん裁判で決着をつけるわけですから、法治国家における人権が原則として守られることは当然です(その際は、裁判機関に秘密が明かされます)。さらに、秘密が特定秘密に当たるかどうかのチェック機構も四つの機関によってなされることが公表されています。その政府からの独立性の不十分さに疑問を持つ向きもあるかもしれませんが、問題の性格上、完全な独立性をもたせてしまったら(たとえば民間機関)、そもそもある情報を特定秘密として守ることができなくなります。

③特定秘密を国家(政府)が保持することが、どうして「戦争への道」なのでしょうか。国民の平和と安全を守ることが国家(政府)の最大の責務であるからこそ、それを脅かす外部、および内部の隠然たる勢力に対して秘密をキープする必要があるのではありませんか?
 むしろこの法案は、日米協力関係、役割関係の強化という意味で、平和維持への現実的な選択なのです。現に米政府は、この法案に全面的に賛成しています。「日の丸・君が代=戦前の軍国主義」みたいな幼稚な連想ゲームはいい加減に卒業しましょう。

 ところで「いつか来た道」と言いましたが、今回の反対派の反応を見ていると、たいへん既視感があります。そう、60年安保闘争ですね。今回はあの時ほどの盛り上がりは見せていないようですが、その構造はまったく同じです。国家・国民の将来のことを考えずに、何でもかんでもそのつど衝動的に反権力の情念を吐き出そうとする。その気運は、60年安保条約改定の時の強行採決によって一瞬、革命到来かと思わせるほど盛り上がりましたが、自然承認がなされるや否や、たちまち潮が引くように消えてしまいました。
 いま日本国民のなかで、日米安保条約が、その後の日本の平和と繁栄に寄与したことをまっこうから否定できる人が誰かいますか? 
 私が許せないのは(といってもずっと後になってからわかったことなのですが)、あの当時、進歩主義知識人の代表として安保闘争の理論的リーダー格を務めた丸山眞男です。彼は、政治学を専門としているくせに、この安保条約改定の条項が具体的に何を意味するかについてきちんと検討した形跡が何もありません。丸山はろくに勉強もせずに、安保反対の旗を率先して振ったのですね。今回も専門風を吹かせながら、リベラリズム的良心をちらつかせて同じ態度をとっている人たちがいるようです(先の孫崎・柳沢両氏のように)。せめて知識人・言論人には、同じ轍を踏んでほしくないものです。そのために歴史の教訓があるのではありませんか。

 もちろん半世紀前に比べて日本の言論界はいくらか成熟していて、この法案を支持する見解も相当見られるようです。また、単なる反対論というのではなく、次のような急所を突いた見解にも耳を傾けるべきでしょう。

・この法案では、官僚が情報を独占する恐れがあり、首相が政治判断する前に官僚によって取捨選択されてしまうのではないか。

 これは日本のような官僚主導国家ではかなりその可能性があり、そうならないような方策が必要となるでしょう。

・この法案には、罰則に最低刑の規定がないので有期刑でも執行猶予が可能である(執行猶予は3年以下の懲役または禁錮の場合)。だから事実上、ザル法と言わざるを得ない。

 これはなるほどと思わせる部分があります。本当に当事者に抑止効果を与えたいなら、最低刑の規定を設けるべきでしょうね。

 ただ、以上のような見解があるからといって、まったく立法の存在意義がないかといえば、そうとも言えないと思います。私はこの法案の意義は、むしろ、国際社会に向けてのアッピール効果にあると考えます。先に述べたように、同盟国はこの法律の存在によって、ある程度信頼を深めるでしょうし、敵対国が日本を舐めてスパイを簡単に送るようなこともいくらかは抑止できる。つまり、まあ、建前をきちんと固めておくおくことによって、ある種の外交上の利点を獲得できる。やくざ世界の仁義のようなものですね。
 法案は一両日中にほぼ成立の見込みなので、これからの行方をしっかり見守ることにしましょう。

倫理の起源16

2013年12月05日 00時29分33秒 | 哲学
倫理の起源16




    トマス・アクィナス

 ここで少し私自身の感想をさしはさんでおきたい。
 まず、哲学を、認識論から倫理学へ「視線変更」させたこの手つきは、いかにも鮮やかであるということを認めなくてはならない。そして私は、人間自身を思索の対象とするこの基本的な態度を、大いに多とする。
 だが、同時に二つのことを言っておかなくてはならない。
 ひとつは、「よい」(「いい」)という言葉を道徳的な意味での「善い」に限定することで、『パイドン』におけるプラトンは、その他の「よい」と道徳的な「よい」との関係に配慮しつつ道徳論を展開するだけの広い視野を失っている。そのラディカルな道徳主義のために、人間の快楽や幸福と道徳とがどうかかわりどんな矛盾をはらむかという包括的な問題意識がここでは抹消されてしまっているのである。簡単に言えば、地上的な快楽や幸福の価値は、端的に貶められ、否定されている。
 ちなみにすでに触れたように、『ゴルギアス』では、登場人物に、ソクラテスの好敵手・カリクレスが配されており、彼との議論を通してこの問題が論じられているが、それはニーチェを論ずるときに取り上げることにする。
 もう一つは、既述の通りプラトンは、魂の不死・不滅の原理とイデア世界の厳たる存在とを、互いに支え合う車の両輪として、そこからのみ道徳の根拠を導き出そうとしているため、どちらかいっぽうでも信じられないものにとっては、道徳の原理を見出せないことになる。
「善」のイデアは、プラトンにとって最高のイデア、イデアのイデアであったが、現世での事物は、すべてイデアの影にほかならない(この考え方は、『国家』における有名な「洞窟のたとえ」でわかりやすく説明される)。したがってプラトンに従うなら、日常励行されている何気ない「善」の営みがなされるにあたっても、魂の不死・不滅の原理とイデア世界の存在の原理とがはたらいている理屈になる。だが果たしてそうであろうか。この両原理がなければ、個別の「善」は行われ得ないであろうか。
 そんなことはないのである。
 先に述べたように、「善」とは、共同社会の関係がうまく回っている状態それ自体のことである。この見方からすれば、道徳を道徳たらしめている原理は、私たち一人ひとりがその本質を分かちもつところの、生きた共同性そのもののあり方の中に求められるのであって、魂の不滅やイデアなどの超越的・超経験的な原理を持ち出す必要はない。私はまだ、ではその道徳を道徳たらしめている原理は何なのかという点についてはあまりはっきりとは述べていないが、それについては、後にもっと明確に展開するつもりである。プラトン思想との関連で少しだけほのめかしておくと、その原理は、じつは、「魂の不死とイデアの存在確実性」という原理とは、まったく反対の場所から闡明されるのである。

 ここではさしあたり、プラトンが「イデア」という観念にかくも固執した理由を、『パイドン』にあらわされたかぎりでの彼の思考様式、言い換えると、言葉の使い方という面から解き明かしてみよう。
 こんな箇所がある。

 ただぼくの断言するのは、すべての美しいものは美によって美しいということだ。(中略)で、これにつかまってさえいれば、ぼくはけっして倒れる心配はないし、ぼく自身に対しても、他のだれに対しても、美によってもろもろの美しいものは美しいと答えておけば間違いなしと思うのだ。

 では、君も、たとえだれかが、ある人はほかの人よりも頭によって(頭だけ)大きいとか、反対に小さいほうの人は同じその頭によって小さいとかいうようなことを言ったとしても、そんなことは認めないで、自分が言いたいのは、すべて大きいものはまさに『大』によって大きいのであり、ほかならぬこの『大』こそ大きいことの原因であり、また、小さいものは『小』によって小さいのであり、ほかならぬこの『小』こそ小さいことの原因であるということだけだと、そう主張するだろうね?
 思うに、君は、ある人が頭によって大きいとか小さいとか言ったら、つぎのような反対論にあいはしまいかと恐れているだろうからね。まず第一に、より大きいものがより大きくあるのと、より小さいものがより小さくあるのとは、同一の原因によるのか、とやられ、次に、頭というものは小さいものなのに、それによってより大きいものがより大きいということ、つまり、あるものが小さいものによって大きいということはおかしくはないのか、とやられる。君はこんな反対論が、こわくはないかね?

 では、どうだろうか、1に1が加えられるとき、この加えるということが2の生じた原因であるとか、あるいは1が分けられるとき、この分割が原因であるとかいうのも、君は躊躇しないだろうか。
 君は声を大にして、こう叫ぶだろうね。個々のものが生じるのは、個々のものがそれを分かちもっている固有の本質にあずかることによってであって、それ以外の仕方を自分は知らないと。いまの例で言えば、2になることの原因は2にあずかること以外にはなく、2になろうとするものは2にあずからねばならないし、1になろうとするものは1にあずからねばならない。


 これは奇妙な論理である。私ははじめ、これを読んだとき、何を言っているのかわからなかった。繰り返し読むうち、ようやくその意味と、またプラトンがソクラテスにこのような言い方をさせている意図とがわかってきた。
 プラトンの著作には、これ式の言い方が随所に出て来るが、要するにこれらはすべて、先に示した「ある物事の真の原因は、その当の物事のイデアである」という命題を、身近な例で説得しようとするヴァージョンなのである。
 美しいものの真の原因がただ「美のイデア」にしか求められないのと同じように、小さいと感じられるものの真の原因は「小のイデア」であり、1であること、2であることの真の原因は、それぞれ「1のイデア」「2のイデア」であるとしか考えられない、とプラトンは言うのである。
 こういう弁論の例を聞かされると、当時のアテナイでいかにソフィスト的な屁理屈の応酬がにぎやかに行われていたかが彷彿としてくる。そしてそれらの屁理屈(プラトン自身の論理も含めて)が、まったく常識的な理解とかけ離れたものであったかも。
 プラトンは、たぶん、当時はやっていた言論が、言語がもつことのできる一定の抽象性を利用して、どんな逆説でも真実であるかのように思わせてしまうその乱脈ぶりにうんざりしていたのである。ここでは、「原因(アルケー)」という抽象名詞がキーポイントになっているが、たとえば、頭ひとつ分だけ身長のちがう二人の人がいたときに、大きいほうの人の、その大である「原因」は何か、といった議論が大まじめになされていたことが想像される。
 そこでもし、それは頭一つ分の差によってだと不用意に答えるとすると、たちまち、大きいことの「原因」が、小さいほうの人のその小である「原因」と同じであるのは矛盾しているではないかとか、全身よりもずっと小さいものであるはずの頭が、大きいことの原因であるのはおかしいではないかといった反論が返ってくる。
 また、1に1が加えられるとき2になることの原因は、「加える」という操作だが、一つのものを二つに分割して2が生ずるときの原因は、「分割」という操作であると考えると、同じ2が生ずるのに、いっぽうは「付加」が、他方は「分割」が原因であるとするのは、おかしいではないかといった疑問が呈される。
 アルカイックな文明の時代におけるこれらのロゴスの混乱の理由は、言語の使い方の未整理な状況に帰せられる。その未整理な状況とは、ある言語がある文脈の中で用いられたとき、それがどの程度の具体性、抽象性のレベルで用いられているのかということに対する共通理解がないままに、反論に反論が重ねられていってしまうということである。
 私たちの常識に照らせば、身長を比較して大小の区別が感じられたとき、より大きい人のその大である原因は何かなどという問いは、およそこうした形而上的な議論の枠組みの中にいるかぎり、意味をなさないし、また回答不能である。原因などを問うこと自体がおかしい。しかしその形而上的な枠組みの外に出て、何でこの人はこんなに身長が高いのだろうと問えば、育ち盛りのときに栄養がよかったからだろうとか、両親も高いからそれを受け継いだのだろうなどと答えることができる。
 また言うまでもないが、ある人がある人に比べて頭一つ分だけ大きいととらえることは、その小さな頭が大きいことの「原因」とみなすこととはまったく違う。ただ現象として、それだけの差があると言っているにすぎない。何によってその比較が可能になっているのかと問われたら、それは頭一つ分だけ抜きんでていることによってと答えることは妥当だろうが、そういう言葉の使い方を「原因(元になっているもの)」という言葉に置き換える、その拡張された用法から混乱が生じる。
 また、1に1が加えられるとき2になり、1を分割するときも2になるのは、どういう原因によるのかといった問い方も無意味である。数の計算規則は、もともと具体的なもの(芋でもリンゴでもよい)の数量が増えたり減ったりするという生活経験上の事実にもとづいて立てられているから、1とか2などのそれぞれの数につけられた名前は、互いに他との関係によってその大いさが定まるように決められている。
 一つの芋にもう一つの芋が近づいて、見たところ芋の数量が倍になったととらえられるが、合体して一つになったわけではないので、この変化の結果に対して2という数記号が割り振られたのである。芋を切って分割したときも、二つになったととらえられるが、倍量にはならずかえってそれぞれは半分になってしまう。つまり二つになったうちの一つは、量としては減少している。この、量にかかわる変化の現象を外において、付加の場合も分割の場合も同じように2があらわれるのはなぜかなどと問うのはバカげている。
 なぜこのようなバカげた議論がまかり通ったのだろうか。
 それは、数の概念がうち立てられて、それぞれの数をめぐる相互関係についての認識が高度に発達したため、数の世界が、生活の現実とは自立的に成り立つ独自の世界であるというとらえ方が一般化したからである。
 数という言語はもともと個々の具体物の特性を純粋に捨象したところに成り立つ。一般に言語はこの捨象によって成り立つのだが、数の場合は、その捨象が徹底していて、ふつうの言語が温存している具体物への指示作用までも捨てているのである。たとえば、あれも芋、これも芋ととらえているうちは、「芋」という普通名詞は、個々の芋を指示するというかたちで、個物との連関を失っていない。だが数ある芋が同じ芋であるとしてとらえる言葉の抽象力を自明の前提とした上で、その同じ芋の数を一、二、三と数える段になると、すでにその言語意識にとっては、数えられている対象が何であり、どんな状態にあるか(小さいとか大きいとか)はどうでもよいこととして捨象されるのである。
 教室に集まった生徒の数を数えるようなときは、個々の生徒の具体性に着目していては目的が果たせないから、この捨象は不可欠である。しかし一般に、有理数の世界くらいまでは、そうした捨象が必要であると考えられるかぎりで、生活における有用性との結びつきからそれほと乖離せずに、両者(具体物と数)の関連を比較的簡単に実感できる。
 ところが数記号の世界は、いったんこの抽象化がなされると、人間の理性能力にしたがって、こうした生活の具体性への着目からどんどん離れていく運命にある。この言語としての抽象力の発展が進めば進むほど、数は生活とはかかわりのない自立した世界であるという仮象をまとうことになる。
 この仮象の成立によって、数学は哲学と折り合いがよくなり、数がもともともっている純粋な抽象性という特性をよいことに、数を利用した哲学的詭弁の余地が開けてくるわけである。生活的な実感からすれば、一つのものにもう一つが加わるときの2の発生と、一つのものを二つに分割するときの2の発生とは同じであるわけがない。にもかかわらず、数というものの純粋抽象の力に便乗して、「どちらも同じ2であるのに、それが生じた原因がちがうのはなぜか」などという愚かな哲学的問いが出てきてしまうのである。つまり、2という数が同じ一つの「実体」であるという思い違いをしてしまうのである。
 さてプラトンは、これらの詭弁の横行に対して、美しいもの、大きいもの、2などには、美のイデア、大のイデア、2のイデアというように、みなそれぞれのイデアがあり、それこそが、美しいもの、大きいもの、2としてあらわれているものの「真の原因」だと単純に考えておけばよいのだという論理を対置した。しかしこの考え方は先のような哲学的詭弁が陥っている弊害を免れることができるだろうか。
 なるほど、美そのもの、大そのもの、2そのものというような真実在が現実界の彼岸に存在して、それらによって、現実界における美しいものは(不完全に)美しく見える、などの考えを対置させれば、先ほどのような混乱した詭弁を避けることはできるかもしれない。だが、同時にこのイデア先行論によって何が行われることになるかといえば、言語のもつ特性、すなわち抽象的な概念も実体であるかのように信じさせる特性を極限まで利用するということが行われてしまうのである。
 この実体化の頂点において、まさにイデアという記号表象があらわれる。もちろんそれは、ことの性格上、感覚でとらえられる個物的な実体から最も遠い距離にあるので、不可視であり、可感的世界の外側にある。もともと思惟(言語的な思考)によって構成されたアイデアが、思惟(言語的な思考)によってしかその存在をたしかめられないのは当然である。
 要するに、プラトンが「イデア」という観念を用いてこの世界を秩序づけようとする試みにおいて行ったことは、言語哲学的な面からいえば、実在の多様に触れた人間の思惟作用(言語作用)が、もろもろの実在をその類似性のもとに抽象し、しかるのち出来上がった抽象概念を実体として固定化したということにほかならない。
 そして、「イデア」の絶対的な存在を人々に信じさせようとしたプラトンには、この抽象化と実体的固定化のプロセスが、じつは言語作用(思惟作用)のもつ宿命的な進行の力にもっぱら依存していたにすぎないという自覚がなかったようである。なぜなら彼は、私たちが普通に実体と考えるもので満たされている現象界よりも、言語の体系性によって現出する世界のほうをはるかに深く信じていたからである。ただそれが美しい秩序(善)によって構成されているように見えるという理由のみによって。
 だからこそ彼は、純粋思惟によってしかたしかめられないもののほうが、感覚によってたしかめられるものよりも、その存在の確実性において優位に立つという転倒を行うことができたのである。
 中世スコラ哲学における、唯名論と実念論の対立(普遍論争)も、プラトンのイデア論の当否可能性を引きずっているが、実念論が一つの立場を主張できるのも、プラトンのイデア論と同じように、人間の世界把握の仕方としての「言語」の特性から生まれてきたものと考えれば、納得できる。
 繰り返すが、言語は、抽象概念や類概念を編み出し、それを「もの」のように駆使して思考に力を与えるので、実念論者のように、個物よりも一般観念や普遍概念が先行するという主張もそれなりに一定の説得力をもったのである。
 しかし、ちょうど、ある大きいものの「原因」は「大」のイデアであるというプラトンの論理が今日奇妙にしか聞こえないのと同じように、「果物」という類概念が「リンゴ」という個物に先行して実在するというような考えもいまでは奇妙にしか聞こえない。
 それはなぜかというと、今日では、実際の個物の感知から多くの個物の共通点を抽象して、そこに果物なら果物という類概念を付与するのは、人間自身の言語的思考能力の必然的な道行きにすぎないということが知り尽くされているからである。この普遍論争に関しても、自分たちが使っている「言語」の構造と特性から由来する問題にすぎないという自覚に達すれば、個物が先か、一般観念が先か、どちらが「真に」存在するのかについて雌雄を決するといったたぐいの問題は、消えてしまうのだ。
 ところで、幸か不幸か、私たちは、本来具体的・個別的な世界場面でのそのつどの形容として使われていたはずの「美しい」とか「善い」とか「大きい」とかいった感動や驚きの表現をさらに抽象化して、「美」とか「善」とか「大」とかいった名詞的概念に練り上げ(固定化し)、それらが、それらの特性を発散させる具体的・個別的な「もの」とは独立に存在するかのような言語世界を作り出してしまった。
 小林秀雄は、「美しい『花』がある。『花』の美しさという様なものはない」(「当麻」)と言って、個々の実在と心との素朴な交流を通してのみ実現される情緒性だけを信じ、イデア的な「美」「善」「大」などの存在確実性に抵抗してみせた。しかし残念ながら、言語(概念)として成立してしまった観念は、その観念の内包を逸脱しないかぎりで存在すると考えるほかはないのである。それらは、それらにふさわしいかたちで私たちの言語生活のなかで現に使われるのであるから。たとえば「芸術家は永遠に『美』を追究し続ける」というように。
 しかし、プラトンのイデア主義は、人類社会の間で抽象概念・抽象言語が不可避的に成熟していったこの成り行きを徹底的に利用して、そこに思惟によってのみ把握できる世界という楼閣を築いた。そしてそれは同時に、感性的世界の価値のひそかな扼殺を意味した。繰り返すが、その動機は、最高のイデアは善のイデアであるというテーゼから理解されるように、すぐれて倫理的なものだったのである。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(7)

2013年12月02日 14時33分02秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(7)


 前回まで、ビル・エヴァンスバド・パウエルについて書いてきましたが、この二人はちょっと突出していて、ハード(高踏的)だったかもしれません。もう少し肩ひじ張らずに好きになれる、それでいてそれぞれとても個性的なピアニストたちを紹介しましょう。四人採りあげようと思っているのですが、今回はそのうちの二人。

 まずはソニー・クラーク
 彼の名は、アルトサックスのジャッキー・マクリーンとのアルバム「クール・ストラッティン」で最もよく知られています。しかもハイヒールで道を歩く女性の足が大写しにされたジャケットデザインでも有名になりました。大方の男性はこれを見て、この女性は誰だろう、どんな顔をしていたんだろう、などと、いろいろ想像力をたくましくさせてきました。
 もちろんこのアルバムにはいくつもの名曲が収められていますが、ジャッキーの活躍が前面に出ているので、ここでは、ソニーのピアノのほうに焦点を当てたいと思います。



 この人も早く死んでしまいましたが、短い期間に、黒人のソウルフルなジャズピアノを思い切り楽しませてくれたプレイヤーです。
 この人の演奏の特徴は、メロディーラインを奏でる右手のタッチが非常に強いことで、それが私たちの心をブルース魂そのもののなかにぐっと惹きこんでいきます。一つ一つの音がたいへん明快であり、それゆえリズムの進行にほんのわずか遅れがちのようにも聞こえますが、それがまた、ジャズという音楽の「けだるい大人っぽさ」とでもいうような雰囲気をうま~く醸し出しています。シンプルであることの良さがいかんなく発揮されているといえるでしょう。この時期の並み居るピアニストたちを代表する一人と呼んでいいかもしれません。
 それでは、タイム版のアルバム「ソニー・クラーク・トリオ」から、彼のオリジナル曲「ニカ」。このニカというのは、チャーリー・パーカーセロニアス・モンクの後援者だった有名な夫人の名前だそうです。パーソネルは、ジョージ・デュビビエ(b)、マックス・ローチ(ds)。

Sonny Clark Trio Nica


 次に、レッド・ガーランド



 この人は、マイルス・デイヴィス・クインテットのピアニストのなかで最も活躍した人で、そこでの演奏はまさに名人の一言に尽きますが、これについては、マイルスを紹介するときの楽しみとして取っておきましょう。ここでは、トリオでの演奏から二曲選んでみます。
 この人の演奏は、両手いっぱいを使ったきれいなハーモニーの部分と、左手の単純なブロックコードに支えられて右手を高音域で存分に遊ばせる部分とを交代させていくところに特徴があります。
 こう言っただけでは、彼の魅力を言い尽くしたことにはとてもなりませんが、とにかくこの奏法によって、何とも言えない洗練されたオシャレな雰囲気が演出されます。
 私はこれまで、いろいろなピアニストを聴いてきました。みんなそれぞれ魅力的で、甲乙をつけることはできません。そもそも甲乙をつけるというということにあまり意味を感じないのです。
 しかし年をとったせいか、いまでは個人的な好みとして言わせていただくなら、レッドのオシャレな演奏が一番好きです。彼のピアノは、モダンジャズ界のなかで、趣味のよさという方向を突き詰めていったひとつの頂点でしょう。まじめに音を追いかけるのもよし、グラスを傾けながら、背後に流れるきれいな音の連なりに何気なく身をゆだねるのもよし、とにかくこれが嫌いだという人はまずいないだろうと確信できます。若い女性にもきっと受けると思いますよ。
 それでは一曲目。「ブライト・アンド・ブリーズィ」から、ジャズ・スタンダードとして多くのプレイヤーが演奏している名曲「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」。パーソネルは、サム・ジョーンズ(b)、チャーリー・パーシップ(ds)。サムの円熟味のあるベースソロ、チャーリーの緻密なドラミングも聴きどころです。

Red Garland Trio, "On Green Dolphin Street"


 二曲目。「グルーヴィ」から、スローバラード「ゴウン・アゲイン」。パーソネルは、ポール・チェンバース(b)、アート・テイラー(ds)。

Red Garland Trio - Gone Again.wmv


 帰らぬ時を静かに回顧する。後悔のような生々しい感情は露出せず、それは表皮のずっと奥に埋められている。とにかく自分はこんな人生を過ごしてきた。いまはその起伏の記憶をなだめながら、ゆっくりと余韻を楽しむことにしよう……。
 もしあなたが、寝る前にこれを聴いているのでしたら、私からひとこと、「おやすみなさい」と申し添えたいと思います。