小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

全体主義体制下で考えるべき事

2021年01月22日 12時10分36秒 | 思想

PCR検査を診断に用いてはならないと警告したキャリー・マリス博士

アメリカでは、すったもんだの挙句、バイデン政権が誕生してしまいました。「カナダ人ニュース」という動画を送り続けているカナダ在住の優秀な若者が、大統領就任式を「特別介護老人ホーム入所式」と皮肉っていました。言い得て妙です。
バイデン新大統領は、まるでロボットのように、矢継ぎ早に大統領令にサインしています。パリ協定復帰、WHO脱退中止、メキシコ国境の壁建設中止、100日間のマスク着用義務付け、テロ防止のための特定イスラム諸国からの入国制限を撤廃、カナダからメキシコ湾までの原油パイプライン建設中止・・・・・。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN20EPJ0Q1A120C2000000?unlock=1

すべて、トランプ政権時代の政策を急速にひっくり返すために行なわれています。
これら一つ一つについて言いたいことは山ほどありますが、あらかじめ宣言されている政策提言でバイデン政権の性格を如実に示すものとして、特に重要なのは、次の2つでしょう。
①米国在住の不法移民に市民権を与える。
②最低賃金を7.25ドルから一気に15ドルにまで上げる。


①の政策は、法秩序の無視という点で、けっして倫理的に許されるものではありません。しかしそれよりも問題なのは、この安易な理想主義的政策がどういう効果を引き起こすかです。
移民問題は、世界中で混乱を招いてきました。移民は安い賃金で我慢するので、国民の賃金の低下競争につながり、今まで家族を養えていた人びとが食べられなくなります。それだけではなく、さまざまな文化摩擦を生み、国民を分断させる大きな要因になります。治安は悪化し格差もいっそう開くでしょう。
不法移民を認めるという情報を聞いたホンジュラスの人たち(9000人?)が、「キャラバン」と称してグアテマラ経由でメキシコを通り、アメリカに押し寄せつつあります。これはトランプ政権時代にもありましたがメキシコ国境でグアテマラに押し返されました。しかし今回は、バイデンが不法移民を認めようというのですから、押し返すのは難しいでしょう。良好だった米墨関係も危ぶまれます。
法秩序を壊し経済を混乱させるこういう政策を新政権は平気で取ろうというのです。
この「キャラバン」については、誰が考えても、領導する勢力がいるに違いありません。

②は、一見労働者救済策のように見えますが、すでに極左勢力のメッカであるシアトルで実験済みです。物価が高騰し、給料を支払えなくなった中小企業の多くがつぶれ、失業者があふれました。
https://www.youtube.com/watch?v=BpKrF0KEOrU&feature=share&fbclid=IwAR2wYegU4KPRvNNKZuPGohzR0B1aAwu8vrsZmR867S66hhOPjlwDKl9r9xE
GDP成長率と雇用を劇的に改善したトランプ政権の政策を真っ向から壊そうというのです。

バイデン一族が習近平を始めとした中共上層部と、ずっと以前から親しい関係にあることはすでにいろいろな形で伝えられています。次の情報がその癒着ぶりを具体的に示すよい例です。
https://www.youtube.com/watch?v=MkU9I-FEepw&feature=share&fbclid=IwAR28e_igtwwjIj0Cn3pqWpJ7RUP6q1e5vSgVWVw3NGLa_aG1rErtJg58Tl0
前回のメルマガで、「自由を国是に掲げる最先進国・アメリカが中共全体主義によって中枢まで侵蝕され、民主主義体制が崩壊の危機に瀕している」と表現しましたが、もちろんこれは単なる政治的な危機ではなく、経済的な共産主義化をも意味します。
https://38news.jp/politics/17392
上記の二つの政策は、いずれも中間層を脱落させ、国民の貧困化を作りだす意図に基づいています。バイデン自身はボケ爺さんですから気づいていないでしょうが、その背景には、中共が時間をかけてアメリカ国家全体を共産主義体制にする周到な計画(アジェンダ)があるのです。今回の「目的のためには手段を選ばない」無法な選挙のやり口とその「成功」は、この計画の第何段落目かが成就したことを示しています。
国民の中間層が脱落し、大多数が貧困化すれば、毎日の生活に追われるのがやっとになり、社会的発言力は低下し、政治的な無関心が常態となり、さらに、人と人との紐帯、協力体制が解体します。またほとんどの人が情報弱者となりますから、一握りの支配層がいくらでも虚偽を垂れ流し、自分たちの都合のいいように法を作り替え、人権を無視して厳罰を与え、政府に少しでも批判的な言論はすべて封殺し、あらゆる自由を国民から奪うことが可能となります。つまり全体主義の完成です。

ところで、いま述べたような事態は、やや形が違うものの、わが日本ですでに起きていることです。その中にいると気づかないだけなのです。
安倍政権時代に緊縮財政と増税による国民の貧困化がなされ、各産業へのグローバリズムによる外資の侵略が進み、日本共同体が長きにわたって作り上げてきた雇用制度が有名無実化し、移民政策が公然と取られ、国土は中国に奪われ、民主主義制度が単なる政権正当化のアリバイと化し、実権は一部官僚と竹中平蔵のような「民間議員」が握るようになりました。
これを受け継いだ菅政権は、露骨にこの道を進んでいます。アトキンソンなる不良ガイジンに言われるがままに、生産性向上の名目で中小企業の整理を提唱し、「最低賃金」を掲げてさらに中小企業を苦しめ、種苗法改定を断行し、コロナ禍による休業補償はほとんど行わないままに緊急事態宣言を発動し、時間制限を守らない飲食業には罰則まで設け、ワクチン接種の情報をマイナンバーにひも付けし、コロナ患者の国籍情報を隠蔽して平気で中国人を入国させ、おまけに国民皆保険制度の見直しまで口走る始末。
これらのすでに施行された制度やこれから施行を企んでいる制度は、何ら国民の合意を得ないままに強行されつつあります。日本の民主主義もすでに死んでいるのです。これを全体主義と呼ばずして、何と呼べばいいのでしょうか。

コロナ話題に触れたので、この流行病が、緊急事態宣言などに値しないものであることをもう一度確認しておきましょう。
私はこれまでブログやメルマガ、フェイスブックなどを通じて一貫して、新型コロナ騒ぎが経済を委縮させ文化を荒廃させるだけのインチキであることを主張してきました。前回のブログでも拙稿のURLを紹介しましたが、もう一度ここにリンクを貼っておきます。ぜひ一度参照してください。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/effcc9c591be4f8689a563b585ae5639
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/a9a480d0a5a23d4e3cc49838e3566463
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/c3f0af074bf98a10a0e4428d535ec56e

以上の拙稿発表以後に得た知見もあるので、ここではそれも含めて、現時点で大事だと思える点だけをここに要約します。

①PCR検査は遺伝子の存在を確かめるだけの検査で、感染の診断には使えないと、この検査を開発してノーベル賞を受けたキャリー・マリス博士が明言している。
②厚労省は、コロナ以外の病気で亡くなった人の死因もコロナによるとしてカウントしている。
③PCR検査のCT値は、高く設定するほど、過敏な陽性反応を示しやすくなるが、専門的知見によれば、35サイクル程度が限界である。しかるに日本では45サイクルに設定されている。
④マスコミは、PCR検査で陽性反応を示した人をすべて感染者として発表し、しかも検査件数との割合(陽性率)を決して示さず、感染者が増えているかのように見せかけている。
⑤コロナによると称される重症者、死亡者はほとんどが基礎疾患のある高齢者に限られる。
⑥新型コロナは2級指定感染症に指定されているが、これはエボラ熱、SARSなどの、致死率の極めて高いランクに属していて、新型コロナの実態にまったく見合っていない。
⑦マスクは、健常者が着用しても、コロナの予防には役に立たず、特に子どもには心身に悪影響を及ぼす。

まだまだあるのですが、これくらいにしておきましょう。代わりに、私と同様の考えを発表して、コロナのインチキ性を提示しているブログが最近増えてきましたので、いくつか説得力のあるものをここに紹介しておきます。これらは希望の光です。

https://ameblo.jp/obasannneco/entry-12641199459.html?frm_src=favoritemail

https://ameblo.jp/yoshino0716/entry-12651367565.html?frm_src=favoritemail&fbclid=IwAR0pe3eJPPP9cV7JEobWvtqoZOYfaDObtNa1M6AJyO8BlEjIGNgaiZuPvq4
このブログでは、実にたくさんの専門家(医師)の、コロナで大騒ぎすることに対する反対意見が紹介されています。

https://ameblo.jp/djdjgira/entry-12650625899.html?fbclid=IwAR1dAD4Ewf1cqLJBzMb4Fdb6yPusQmMp1nxy_wi16AOni0JLUDXUu0r1ISg

なぜこれほどコロナのインチキ性を強調したかというと、ほとんどの人がマスコミ情報や政府、自治体の対応をそのまま鵜呑みにして、大方の医療機関さえ、それを疑うことなく唯々諾々と従っているからです。この空気の蔓延こそが、まさに全体主義なのです。
知らず知らずのうちに全体主義に巻き込まれているという意味で、コロナ騒ぎは典型的です。

さて、米大統領選話題から、コロナ話題に転換してしまいましたが、実は、両者は無関係に並立している問題ではありません。そこには確実に連関が見られるのです。
まずお断りしておきますが、私は陰謀論者ではありませんし、陰謀論を弄するだけの根拠の持ち合わせもありません。武漢ウイルスがどのように広がったのか、それについて確かなことはわかっていません。中共政府がこれを意図的に流したという証拠は今のところありませんし、その可能性も少ないだろうと思います。憶測ですが、武漢ウイルス研究所の管理がずさんだったために漏れてしまったというのが真相に近いのではないかと私は思っています。
その上で言えるのは、次のようなことです。
ウイルスが全世界に広がったのが、このウイルスの伝染性の猛烈さとグローバルな人的交流との結合によるものであるとして、いわゆる「パンデミック」と呼ばれるような事態になってからは、世界のDSたちが、自分たちの都合のためにこれを大いに利用してきたことは疑いないだろうと考えられます。その利用に関しては、意識的なものから無意識的なもの、悪意に満ちたものから善意でやっているものなど、いろいろあるのでしょう。しかし事実として、闇の支配者や公然たる支配者たちが、一般大衆の不安と恐怖(それは根拠がないのですが)に乗じて、自分たちの権力維持や利権のために、コロナの重大性を過剰に煽り、不必要にその引き延ばしを行ない、疫学的な真相を隠蔽してきたことは間違いありません。
この事情は中共政府にも、アメリカの民主党勢力やエスタブリッシュメントにも、欧州の支配者たちにも、それによって得をする大商人にも、そして日本政府、自治体、マスコミにも例外なく当てはまります。
そうして、こうした社会心理的な力学にこそ、全体主義の土壌があるのです。

ですから、米大統領選における中共やDSや民主党勢力が仕掛けた巨大な詐欺行為と、新型コロナの流行を「パンデミック」と名付けて民衆の感覚と経済とをこれほどまでに委縮させた行為とが時期的に一致したことは、単なる偶然とは言えないと私は思います。
「彼ら」――全体主義者たち――は、民衆を隔離し閉じ込め、貧困に追い込み、その言葉を封じ込み、自分たちの権力の伸長と維持を図ろうとしています。その圧力と欺瞞性に対して、ほとんどの民衆はそれが圧力と欺瞞によって成り立っていることにも気づかず、「お上」のお達しを黙って受容せざるを得ないところに追い込まれています。

私たちは何ができるでしょうか。

トランプさんとその忠実な支持者たちが闘ったように、いまも闘っているように、私たちもまた、秩序と平和を尊重しながら、理性的な言葉を用いて、粘り強く「彼ら」の虚偽を暴き、その傲慢を打ち砕いていくほかはないでしょう。

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太宰治の短編5つ(その2)

2021年01月15日 16時48分00秒 | 文学


【男女同権】(昭和21年12月発表、太宰37歳
さて戦後です。
この作品は、ある老詩人が、売れなくなって都落ちし、故郷の弟の家に居候しているが、その土地の文化組織から声がかかり、講演をした記録という体裁。
自分は子どもの時から母親を含め、出会った女性にことごとくいじめられてきた。そのさまを縷々語った後、最後に、このたび民主主義の世の中となり、「男女同権」が認められたことはまことに慶賀すべき事であり、これからは言論の自由が保障されるので、女性の悪口を堂々と言うことで余生を過ごそうと思うと結びます。
この作品は戦争直後の浮ついたイデオロギーを徹底的に茶化すと同時に、また、個人どうしの関係では、女性が男よりも常に強いという生活的事実を誇張して表現しています。太宰の真骨頂が出ていると言ってもよいでしょう。
また、彼の一貫した女性観がよく滲み出てもいます。それは、前作『新郎』『十二月八日』にも表れていましたが、女性は日常的現実にとことん根を下ろした存在であり(『皮膚と心』はその典型例です)、男性はそれに支えられて観念の世界に遊ぶことができているという把握です。彼は谷崎のように、女性をそれゆえに崇拝していたのではありませんが、よく女性という存在の本質をとらえていました。このことが男性にとって謎を秘めた女性という存在の内面にうまく入り込めた条件の一つでもあるでしょう。彼自身が多分に女性的な意識・感性の持ち主であったとも言えます。

女権拡張運動の延長としてのフェミニズムは、女性を「男性の支配を受けてきた被害者・弱者」というカテゴリーで一括し、男性の社会的権力に対抗してきました。しかし彼女たちの思想の決定的な欠陥は、意識的にか感性が鈍いせいか、けっしてプライベートな関係における両性のやり取りの構造を見ようとしないことです。エロスの関係では、暴力を用いるのでない限り、諾否の権利はいつも女性が握っています(男が金を支払って女の体を抱かせてもらう売春がその最もよい例)。普通の女性はそのことを必ずわきまえています。一般的な政治的社会的権力関係において、女性がいかに弱者と見えようと、彼女たちは自分たちの「勝利」=「性的アイデンティティ」に自信を持っています。福沢諭吉もその事実を『通俗国権論』の冒頭ですでに指摘しています。
さて最近では、多くの女性たちが「弱者」のレッテルを逆用して、この「隠れていた権力」をあらわに表出するようになりました。何でもセクハラ、痴漢冤罪など。これらはポリコレとして過剰に表通りをまかり通っています。結果、男性たちはますますお行儀がよくなり、女性に対して委縮するようになりました。老詩人の「男女同権」への期待は裏切られたと言えましょう。
何はともあれ、この作品は、硬直した「社会正義」の建前に、搦め手から痛快な一撃をくらわしたもので、思わず吹き出してしまわない読者はまずおりますまい。

【トカトントン】(昭和22年1月発表。太宰37歳)
終戦の詔勅を聞いた時、悲壮な気持ちで死ぬべきだと思ったとたん、どこからか釘を打つ「トカトントン」という音が聞こえ、たちまちその悲壮感が消えて白けてしまった主人公の青年。それから後は、何かに夢中になりかけるたびに「トカトントン」が聞こえて、たちまち情熱が冷めてしまうようになります。この頃では、日常の些細な試みにもこの幻聴が聞こえるようになり、どうにかならないものかと悩んでいます。
こういう人生相談の手紙を受け取った作家は、次のような返事を書きます。

《拝復。気取つた苦悩ですね。僕はあまり同情してはゐないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けてゐるやうですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ伝十章、二十八、「身を殺して霊魂(たましひ)をころし得ぬ者どもを懼(おそ)るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅ぼし得る者をおそれよ。」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいやうです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不盡。》

有名な作品ですが、なかなか難解でもあります。この作品の読解のポイントを私なりにいくつか挙げてみましょう。
①一億玉砕も辞さずとまで思いつめた多くの庶民の思いが、一日にしてすかされてしまったその何とも言えない虚脱感が始めに置かれていて、いったいあれは何だったのかというその気分が「トカトントン」という長閑な響きによって象徴されています。これは、死を賭してまで情熱を傾けたことが無意味だったと知らされた時の気持ちをじつによく表しています。この気分が戦後社会の出発点に確実にあったことを太宰は見事に見抜いて表現しました。坂口安吾の『堕落論』『続堕落論』と合わせて読むと、面白い議論ができそうです。

②その後社会、特にジャーナリズムで喧伝されたさまざまな営いやスローガンがすべて空々しい虚妄としか思えないという感慨を、終戦直後の太宰自身は抱いていました。民主国家、文化国家、アメリカに見習え、新生日本・・・・・。

③主人公が情熱を傾けかけた時に「トカトントン」が聞こえる場面は、次の六つ。終戦の詔勅による死の決意、小説の執筆、勤労の神聖さ、恋愛、労働者のデモ行進、マラソン大会。しかし、すべてが外からの影響によって触発された事柄であって、自分から進んで選んだ意思決定ではないことに注意。小説の場合も、もともと太宰らしき作家の作品に長く親しんでいたというきっかけがありました。
唯一の例外は恋愛の場合で、これは勤めている郵便局の窓口にやってきた旅館の女中さんを自然に好きになります。実はこの場合だけは、「トカトントン」という釘打ちの音は、浜辺に二人して座っている時に、幻聴ではなく本当に聞こえてきたとあります。向こうが誘ってくれたのですが、実際には彼女が青年に好意を持っていたわけではなく、自分が定期的に大金を預けに来ることを青年が知っているので、そのことで変な誤解を受けては困ると思って、その秘密を明かして青年の口を封じるために誘ったのでした。
つまり、リアルなかたちで青年の幻想は打ち砕かれたのです。あることがらに情熱を傾けようと思ったときにおのずから白けがやってきて「トカトントン」が聞こえたというのではなく、自分の思い込みが、相手から実際にふられることで勘違いだったことを知らされたのでした。だからこそ、この場合の「トカトントン」は幻聴でなかったのでしょう。

④そこで、「作家」の返事の意味を考えてみます。ちなみに、これがなければこの作品は、戦後社会の上層に漂う虚妄の空気への気の利いたアイロニーだけで終わっていたかもしれません。
近年物故したある文芸批評家は、文学作品に対して奇抜な比喩を仲立ちにしながら社会的解釈を施すことを得意としていた人でしたが、彼がこの作品に触れて、最後の作家の返事は不必要だと唱えたことがあります。なぜ彼がそう言ったのかを私なりに想像してみると、いつもの方法論に従って、文学作品を社会的解釈のほうにことさら引っ張りたかったからなのでしょう。しかし私はそこだけに限定する読み方は不十分だと思います。この結末は不可欠なのです。
この作家の言葉は、青年が何一つ、自分から本気で(命をかけて)取り組んではいないことに関係しています。太宰は(ペンネームからして、堕罪をもじったと言われています)、自分を世間に顔向けのできない恥じ多き人生を送ってきたと常に考えていました。しかし同時に、自分が経てきた苦悩だけは本物だという自恃の念を抱いてもいました。
つまりは、この作品は、戦後の軽佻浮薄な世相の一部に現れた神経症的な傾向の形を借りて、ひそかに自分の魂に救われる余地があるかどうかを問いかけた作品なのだと解釈できます。「トカトントン」に悩まされる青年は、当然、太宰自身の一面でもあるわけです。自分の苦悩など、もしかしたらまだ救済に値しないものなのかもしれない。そう太宰は自問自答しているのです。
ちなみにここにも、他人のあり方の内面に、こっそり自分を忍び込ませる彼の文学的手法が躍如としています。傑作と言っていいと思います。


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https://ameblo.jp/comikot/

太宰治の短編5つ(その1)

2021年01月12日 18時22分39秒 | 文学


由紀草一氏と私が共同主宰している「思想塾・日曜会」の一環として、「文学カフェ・浮雲」というのが運営されています(運営責任者・兵頭新児氏)。1月10日にこの会が開かれ、私・小浜が太宰治の短編をテキストに、レポーターを務めました。扱った作品は、『春の盗賊』『新郎』『十二月八日』『男女同権』『トカトントン』の5作です。その時提出したレポートを訂正・加筆したものを、以下、2回に分けてこのブログに掲載します。久々に文学がテーマです。
「思想塾・日曜会」のHPへのリンクは、このサイトの下部にURLが貼ってありますので、そちらをどうぞ。


【はじめに】
太宰作品は、中学校教科書で「走れメロス」がよく取り上げられます。これは友情を守ることの尊さを主題にした作品だという教育的効果を狙っているのでしょう。しかしこの作品は、太宰作品の中ではあまり上出来とは言い難いし、また太宰らしくないテーマでもあると、私は思っています。
高校から大学くらいになると、文学好きが個人的に太宰作品に触れるようになり、『人間失格』『斜陽』『ヴィヨンの妻』(いずれも戦後作品)などの「代表作」にいかれる、いわゆる「太宰ファン」が大量発生します。自分自身の中にある弱さをそこに投影でき、そうした自分を代弁してくれているような気がするからでしょう。
しかし文学作品として見た場合、これらは太宰自身の直接的な自己投影の度が強すぎ、それは同時に彼の「本領発揮」の力が弱ってきたことを意味します(ただし『斜陽』は長編としてはかなり成功していますし、私も好きです)。これらの作品だけを読んで、その「弱さの自己肯定」臭に嫌気がさし、逆に太宰嫌いになってしまう人も多いように思います。しかしこれでは太宰文学の優れた点をきちんと評価したことになりません。
私自身が初めて太宰作品に触れた時、上記のいわゆる「代表作」を読んで、なぜこれがそんなにいいのかわかりませんでした。ところが数年後、彼の全作品を通読する機会があり、「これがわからなかったとは」と、かつての自分の未熟さを恥じた覚えがあります。この数年の間に私は大学紛争での挫折や母が精神を病んだ経験をもっています。それらの経験が私を多少大人にしてくれたように思います。

太宰作品には太宰自身と思しき主人公が一人称で頻出しますが、太宰は私小説作家ではありません。このことを押さえることが太宰文学の理解にとってまず何よりも重要です。
また彼の文学的教養はたいへんなものですが、けっして「教養主義」ではなく、むしろ自分が身につけた教養を恥じていました。
さらに彼が極度にデリケートで傷つきやすい性格の持ち主で、自意識過剰であったことは確かですが、彼のいくつかの成功作では、その過敏さを逆用して、他人の中に巧妙に入り込み、他人の意識に非常にうまく取りついてしまう(憑依してしまう)方法が用いられています。自意識とはすなわち対他意識です。
例:「皮膚と心」「女学生」「駈込み訴へ」「カチカチ山」「盲人独笑」など。
この特性と、彼の作の多くがパロディ(パクリ)であることとは深く連続しています。ちなみにパクリという言葉にはネガティブなニュアンスを込めていません。そっくりの盗作でない限り、パロディやパクリの名人であることが、いかに特異な才能を要するものであるかは、一度本気で言語表現に取り組んでみた人ならすぐ納得するはずです。そもそも個人表現の独自性、独立性という事実に価値を置き過ぎるのは近代以降の傾向で、先人の思想や文学に依拠していない作品などありえないのです。言葉は共同体の共有財産です。いかにかつて語られた言葉を生き生きと賦活させるかが大事なのです。
また彼の文体の特徴は、落語のように物語を語っていくところにあります。一見思いついたままを放胆に語っているように見えて、そこには、実際の落語がそうであるように、意識的な計算に基づいて言葉を選んでいる痕跡がうかがえます。
物書きの楽屋などいちいち詮索しない読者は、これらのトリックのために、その軽妙で平易な語り口に思わず乗せられ、魅せられてしまうのです。

【春の盗賊】昭和15年1月発表 太宰30歳
この作品は、結婚後1年を経ずして書かれています。
主題であるはずの「どろぼう」が実際に登場するまでに全ページの3分の2ほどを、「私」が実際の太宰ではないことについてのしつこい言い訳、不眠に悩まされる自分の述懐、来し方の反省、文学への執着、その他の与太話に費やし、どろぼうを自分から招き入れて対話してからも、ひとりごとのように妄言を繰り広げ、余計なことを言って引き出しからなけなしの20円という大金をあっさり持っていかれてしまいます。奥さんが隣室でその様子を始めからうかがっており、最後に慰められ、たしなめられて、しかし心の底では、この現実的で健全な日常生活に甘んじてしまうことに満足できないことを吐露して終わります。
この作品は、青年時代の乱脈から立ち直った太宰が、かつての奔放な、しかし自己をさいなむ生活状態から、賢い妻を得て安定した作家生活に移っていく途上で書かれています。「炉辺の幸福、どうして私にはそれができないのだろう」とは、後の彼の述懐ですが、彼は戦後に至るまでのこの期間は、それができていたことがわかります。
どろぼうの登場以前とどろぼうがリアルな行動をしている間に繰り広げられる「私」の絢爛とも評すべき妄想・連想・饒舌の展開は、語り師としての太宰の才能の凄さを感じさせてあまりあります。
また、「私」が太宰自身でないことのしつこい言及は、作家個人としてはかつて受けた誤解を避けるという動機があったのかもしれませんが、この言及には、日本の自然主義文学が読者に対して進んで招き寄せたこの大いなる誤解(悪弊)への克服の意志が込められていると思います。「私」はここでは二重にからみあった存在として描かれていて、自己韜晦と自己執着の表裏になった構造が見られます。これが太宰の表現意識の原型と言ってもよいでしょう。「私」という語そのものがフィクションとして設定されていますが、同時にそのフィクション仕立てそのものを意識的に種明かしする――この方法のうちに、人はいかにも太宰的表現の典型を見出すでしょう。メタ「私」、メタメタ「私」と呼んでもいいかもしれません。

ところで、肝心の「どろぼう」は、華奢な女として設定されています。そこで私は、これは奥さんのデフォルメだろうと解釈します。もちろん最後に実際の奥さんが登場するのですが、太宰は巧妙に奥さんの分身をどろぼうに託して表現しました。
では彼女が盗んでいったものは何か。生活費の20円であることはもちろんですが、「私」が稼いだ金を生活のために使うのは奥さんです。太宰は、その事実を落語的なヒューモアによって表現してみせたのです。
太宰は奥さんを作中に登場させるときに、けっして彼女を悪く言うことがありません(岩野泡鳴などとそこが違うところ)。女房に頭が上がらないのと女性に優しい彼自身の性格がそうさせたのでしょう。この作品でも、奥さんをひそかに恨んでいたなどという気配はみじんも感じられません。だからこそ、女泥棒という、実際にはあり得ない着想で結婚生活が強いて来る現実の厳しさを表現したのだと思います。
じつはもう一つ「私」が盗まれたものがあります。それは、この作品のメインテーマに関わるもので、自ら恃んできた芸術家としてのプライドです。このプライドの過剰な部分の放棄は、本当は生活破綻を極限まで突き詰めてしまった太宰が、自ら屈して現実生活を受け入れたところから生まれたのですから、「盗まれた」とは言えないかもしれません。しかし最後の「私」のセリフには、実生活を選んだことで、もう帰らないロマン的心情への未練が響いています。
一編の主題を簡単に言えば、芸術と平凡な生活とのどちらにも徹することのできない一人の男の悩み、というところでしょうか。
途中にこういうくだりがあります。
《あたりまへの、世間の戒律を、叡智に拠って厳守し、さうして、そのときこそは、見てゐろ、殺人小説でも、それから、もつと恐ろしい小説を、論文を、思ふがままに書きまくる。痛快だ。鴎外は、かしこいな。ちゃんとそいつを、知らぬふりして実行してゐた。私は、あの半分でもよい。やってみたい。》
そしてこの芸術と現実生活との引き裂かれは、この先も続く太宰文学にとっての本質的な主題の一つでした。しかしそれは、結婚生活での落ち着き(美知子夫人のもたらした功績が大きい)と、戦争に突入していく日本の非常時という状況の中で、直接露出することなくうまく隠されて、その結果かえって多くの佳品を生み出しました。戦後その自己カムフラージュが崩れてしまうのですが。
つまり『春の盗賊』は、青年の嵐の時期から中年の安定期への過渡を表す重要な作品なのです。趣向を凝らした面白い作品であるだけでなく、太宰文学を批評するうえで外せない作だと思うのですが、今までこれについてきちんと取り上げた例を私は寡聞にして知りません。

【新郎、十二月八日】(昭和16年12月執筆。太宰32歳)
①『新郎』(十二月八日脱稿)には、日米戦争開始の日を迎えた男の生真面目な気持ちが素直に描かれています。これはこ
れで当時の一般男性庶民の偽らざる気持ちの表現になっていて、身の引き締まる思いが感じられます。
ところが、訪ねて来る大学生や手紙をよこす国民学校の訓導や遠方に住む叔母に厳しく対応していながら、それをわざ
わざ「俺はこんなに真面目に殊勝になっているんだぞ」と書くところに、太宰ならではの自己相対化の芸が感じられるの
です。
また、最後の馭者との対話と、紋服を着て銀座八丁を練り歩きたいなどの願望の表現のうちに、自分の肩ひじ張った殊勝
ぶりに対する自己戯画化が施されています。そこに、本気で言っているとは思えないユーモラスな偽装(仮装)が感じら
れます。
『春の盗賊』に見られた二重化された「私」、いつも生身の「私」を超越する「私」の視点を作者はけっして離しません。
自分の来し方のダメさ、一般人として生きることの出来ないコンプレックスがにじみ出ていて、そういう自省と羞恥の上
にしか成り立たない作品でしょう。

しかし、これだけだったら、彼のいつものやり口であり、さして特徴的とは言えないかもしれません。ところが太宰は、わずか二週間弱ほど後に、『十二月八日』(十二月二十日ごろ脱稿)を書きます。今度は奥さん(美知子夫人)の立場に立って、厳粛な心掛けを吐露している夫の気持ちにそのまま寄り添うのではなく、普段の夫の姿をよく知っている人にしか書けないようなスタンスから、その滑稽なさまを描き出しています。
これによって前作の自己戯画化、自己相対化の視線はさらに明瞭になります。説教師よろしく似合わぬ裃を着てはみたものの、西太平洋がどこかも知らず、原稿を届けてしまえば殊勝な心構えもすぐに崩れて、出先で酔っ払って帰ってきて放言するいつもの癖をさらけ出します。その姿態を、奥さんは見逃しません。どうせまた今夜も帰りは遅いだろうということまで見越しているのですね。
ですがその見逃さない奥さんの視点を描くのは太宰自身であるという事実に注目しましよう。
この作品と前作とをセットにして読むことで、男と女とが、この日をどのように迎えたかが、よくできた夫婦漫才のように見えてくる仕掛けになっています。
もちろんこの女主人公も、この特別な日をある種の感動でもって迎えていることは確かなのですが、女のまなざしは、裃を着ようと息張っている男のそれとはまったく異なり、普段とほとんど変わらない暮らしの細部を掬い取り、赤子を抱えて一日を過ごす苦労をさりげなく綴っています。

以上で、太宰は大東亜戦争開戦に対して本気で興奮していないことがわかります。自分が引き締まった気持ちを抱いたことにウソはないのでしょうが、むしろそれを、語り手をチェンジさせることによってすぐに「語り」の素材にしてしまう醒めた目こそが、文学者としての太宰の本領なのです。優れた語り師はこのように、自分自身とその周りとに絶えず気を張り巡らせています。この「語り」の位相は、世界を大真面目に硬直した眼で眺める「男」のある種のタイプを顔色なからしめます。
太宰は、島崎藤村のように「お面!」と大上段に構えて打ち込む作家を嫌っていました。優れた「語り」には、「やんちゃの虫」「ユーモアとパロディの精神」「自分を突き放す二重の目」がぜひ必要なのです。
ちなみにある若手の保守系政治学者が、雑誌論文で大東亜戦争期を論じていました。それはそれでまっとうな政治論文でしたが、その中で太宰の『新郎』を取り上げ、太宰治は愛国者だったと評していました。これはいただけません。冒頭に述べたように、『新郎』は『十二月八日』とセットで読むことで、初めて太宰文学らしさが浮き彫りになるのです。この学者は、申し訳ないけれど、文学の読み方がわかっていないと申せましょう。


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米大統領選は民主主義の死をもたらした?

2021年01月08日 01時01分03秒 | 政治

大統領選ジョージア州の不正証拠



これを書いているのは、2021年1月7日深夜12時です。
この間、米日主流メディアのひどいフェイクと隠蔽によって、次期米大統領はとっくにバイデンに決まったものと信じて、それをさしたる危機感もなく受け入れてきた人がたくさんいるようですが、事態はまったく違います。

2020年11月3日の大統領選挙から今日にいたるまで、列挙するのも億劫なほどのおびただしい選挙詐欺の証拠と、証言者や連邦政府高官・各州の選挙関係者に対する脅迫の事実が明らかになってきました。
これらの経緯については、信頼のおける情報筋からの情報を頻繁にフェイスブックにアップしてきましたので、ご関心のある方は、それを追尾してください。
https://www.facebook.com/i.kohama

2021年1月5日には、全世界が注目する中で、ジョージア州で2名を選出する上院議員選挙が行なわれました。民主党陣営は、これだけ不正を行なってきたにもかかわらず、反省の色すら見せず、開き直った形で、堂々と同じパターンで選挙詐欺を実行し、議席を独占しました。驚くべき厚顔無恥です。

そして帰趨を決する決定的な日と思われた6日の連邦両院合同会議では、ペンス上院議長並びに副大統領は、自分には選挙結果を決定する権限はないとしてトランプ支持者の期待に応えることはせず、複数の共和党上下両院議員から提出された異議申し立てによる両院各々の議論にゆだねることにしました。下院では民主党が優勢なため、これがトランプ有利に通るとは思えず、せいぜい最大限の時間稼ぎが行なわれる程度だろうと踏んでいましたが、その期待も空しく、連邦議会ではあっさりボケ・バイデンに決めてしまったようです。
またテッド・クルーズ上院議員が提出した、激戦州について調査委員会を立ち上げよとの公正を重んじた提案は、残念ながら93対6の圧倒的大差で否決されました。

さらにひどいことに、ツイッター社は、トランプ大統領の発信権を平気で剥奪しました。世界最大の国家アメリカ合衆国を代表する最高位にある人の言論の自由を封殺するとは、信じられない暴挙です。

しかしトランプ大統領の闘いはまだ終わっていません。いくつかの手が残されています。

前々回のメルマガで、現在は世界戦争のさなかにあるのだと強調しました。
武力行使だけが戦争なのではなく、情報戦こそが現代の戦争の最もヴィヴィッドな形なのだとも。
https://38news.jp/america/17189
この様相は、「自由」を国是に掲げる最先進国・アメリカが中共全体主義によって中枢まで侵蝕され、民主主義体制が崩壊の危機に瀕している形として言い括ることができます。
また、グローバリズムとナショナリズムの対立の極限の事態と形容することもできるでしょう。

ひとこと断っておきたいのですが、民主主義が正常に機能するためには、国家体制、国家秩序がしっかりしていること、つまりナショナリズム感覚が民衆の間に根付いていることが不可欠です。なぜなら、公共体としてのまとまり意識が崩壊しているところで、そこに属する人々の生をよりよくしていくために何が優先順位を占めるかという議論を対等な立場で交わすことは不可能だからです。ちなみに「人権」を保障するのも民主主義国家だということも忘れてはなりません。
グローバリズムは、この国民国家としてのまとまりを根底から破壊します。グローバリストにとっては、自分の属する国籍やその国固有の文化、公共精神などはどうでもよく、自分たちが最大利益を上げさえすればいいからです。彼らにとっては、戦争さえ利益追求の手段にすぎません。
こうして貧富の格差が進み、共同体的な紐帯が破壊されたとき、バラバラに分断された個人を上から掌握する体制は何でしょうか。言うまでもなく、各個人に政治参加も言論の自由も宗教の自由も認めない強大な独裁権力による全体主義体制です。現在の中国がまさにその典型です。

アメリカは、かつて、もちろん反共精神のしみついた国でした。戦前・戦中・冷戦時代を通してイデオロギーとしての「共産主義」には大いに警戒を示してきました。しかし冷戦崩壊後は、その開かれた国柄と覇権国家としての自信がかえって仇となって今日の中共侵略を招き寄せたとも言えます。この国の対中戦略は、経済的な自由を尊重するあまり、中国に対して甘い顔をし過ぎたのです。
つまり、独裁体制は発展途上国としての必然からきているので、経済的に豊かになりさえすれば、徐々に民主主義や自由の精神を理解するだろうというリクツと期待に自ら騙されたのです。ですから今回のような事態はアメリカ自身が招いた面が大きいのです。

日本も、すでに中共のサイレント・インベージョンに政官財、教育界、メディア界、国土など、すべての社会基盤をなす領域において蝕まれています。
それほどでもない、とあなたは感じられるでしょうか。
しかし私は、エラそうに書いていますが、今度の米大統領選問題がなければ、不覚にして、アメリカがこれほど中共勢力に侵略されていることに気づきませんでした。おそらく大方のアメリカ人も日本人も、私の認識と大して違っていなかったのではないかと思います。その意味で、今度のことは、コロナ流行という壮大なインチキ*と合わせて、とてもいい教訓になりました。
*コロナ流行が壮大なインチキであることについては、以下の拙稿をご覧ください。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/effcc9c591be4f8689a563b585ae5639
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/a9a480d0a5a23d4e3cc49838e3566463
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/c3f0af074bf98a10a0e4428d535ec56e


全体主義というと、誰でも思い浮かべるのが、ナチス・ドイツとスターリン統治下のソビエト連邦でしょう。これらはユダヤ人大虐殺や反対者の大量粛清によってあまりにも有名です。もちろんこれに、ウィグル人、チベット人、内モンゴル人、法輪功信者や香港市民に対してひどい弾圧を行なっている現在進行形の中共政府を加えるべきです。
しかし、全体主義体制の恐ろしさは、こうした外からの目に見える、そして後になってわかる残虐な面にだけ存在するのではありません。その内部にいる者にとっては、権力中枢が何を企み、どんな方向に人民を連れていこうとしているかが見えないような仕組みになっている、そのことが最も恐ろしいのです。なぜなら、人民の多くがその進行中の全体主義化のプロセスに対して自覚的であれば、全体主義体制そのものが成立しないからです。
自分たちは、社会体制に対する懐疑を抱きさえしなければ、特段の不運に遭うこともなく、なんとか日々を過ごすことができる。複雑な社会構成の中で、目玉をカッと大きくして、全体を見ようとすることは難しく、またそんなにいつも目玉を大きくしている暇などないからです。しかし気付いてみると、いつの間にか生活は貧困化し、それに対する不満を自由に口に出すことができなくなっており、与えられる情報を否応なく信じ込まされ、かつて共有されていた記憶はおぼろげとなり、日常の中にあったはずの文化の香りは消え失せており、お互いがお互いを探り合うような監視社会が実現している。こうした土壌が培養されてこそ、私たちが知っているような残虐な歴史的事実も実現可能となるのです。

陳腐かもしれませんが、この仕組みを描いているのが、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』です。
この作品の中では、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの三国に分割されており、それぞれの国は常に国境付近で戦争を繰り返していることになっています。オセアニアはビッグブラザーという絶対君主の支配下にあり、政体は真理省、平和省、愛情省、潤沢省(その実態は名称と真逆)などに分かれ、人々は少数の党中枢、知的仕事に就く党外郭、圧倒的多数のプロールに分けられます。プロールは体制に対する疑問など一切もたず、あるがままの日々を過ごしています。家の内外の至る所にビッグブラザーを大写しにするテレスクリーンが据えられており、情報もここからしか与えられません。ほぼ全員がビッグブラザーを崇拝しています。恋愛は許されておらず、結婚は子孫を存続させるために党が決めます。子どもは親を絶えず監視して小さな違法でも見つければ密告できます。
真理省に勤める党外郭のウィンストンは記録の改竄を仕事にしており、この仕事によって、人々の間からかつての記憶の共有がしだいに消えていきます。かつてが豊かだったのかどうか、ほとんどの人がもう覚えていません。戦争が絶えず行われていることを人々に知らせるために、時々市街地にロケット弾がぶち込まれたり、捕虜を載せたトラックが市街地を通り抜けます。
何よりも真理省の仕事で大きなものは、言葉を「オールドスピーク」から、語彙をより貧困化した「ニュースピーク」へと編纂する事業です。これによって言葉は豊かなニュアンスや比喩的転用の可能性をなくし、直截な一義的表現に限定されていきます。
ウィンストンは、こんな社会はおかしいという口に出せない疑いを持っていて、これを転覆させようとする秘密組織の噂を気にかけていますが、思慮深そうな雰囲気を持ったオブライエンという党中枢に属する男がもしかしたらその秘密組織の一員であるかもしれないと感じて、ひそかに敬服の念を抱いています。
これ以上書くと未読の人にとってネタバレになってしまうので、ここらでやめますが、一つだけ言っておくと、オブライエンはウィンストンが考えていたような男ではありませんでした。
この作品には印象的な場面がいくつもありますが、なかでもオブライエンがウィンストンに「権力に執着する理由は何だと思う?」と質問し、ウィンストンが「支配者は、民衆が弱い存在で自由に耐えられないから彼らを瞞着してその代わりに幸福を与えてやろうと考えている」と答えようとすると、オブライエンはそれをにべもなく否定し、「党が権力を求めるのはひたすら権力のために他ならない。他人のことなど知ったことではない」と回答する場面が強く印象に残ります。
これはその通りというほかありません。

ところでいまの日本人はお人好し(いい意味でも)で、そんな権力欲に取りつかれた組織は存在しないようです(個人ならときどき見かけますが)。しかし中国人や欧米人ならありそうですね。
日本人はすでに外側からやってきたこうした全体主義思想の中に取り込まれてしまっていて、上から下までほぼ全員が「プロール」つまり精神的な奴隷になっているのではありませんか?
というのも、現状を見る限り、救いようのないアホばかりが政府やマスメディアの中枢に集まって、信じられない国民いじめの政治とその正当化に精を出しているからです。中小企業潰し、補償なしのコロナ緊急事態宣言、営業自粛「要請」を「命令」に切り替えて従わない業者に50万円の科料、持続化給付金の締め切り延長中止!
私たちは、せめてウィンストンのような運命に陥らないように、ダークエイジがすでにここに来ている状況に対して覚醒し続けましょう。闘いはこれからです。

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