小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

泊原発を再稼働すべき理由

2018年09月20日 00時10分05秒 | 政治


北海道胆振東部地震から二週間経ちました。
ライフラインはだいぶ復旧してきたようです。
でも依然として断水が続いている地域があります。
しかし、北海道最大の火力発電所である苫東厚真発電所の復旧は意外に早く、すでに一部
の供給は始まろうとしています。
そういえば、関空の復旧もハイスピードで進んでいますね。
このあたりの日本の技術者、作業員の協力体制はさすが、まだまだ捨てたもんじゃないな
と思いました。

それはいいのですが、問題は、ハード面に関するこれからの対応です。

このたびの地震によって生じた全道ブラックアウトの問題を考えてみましょう。

筆者は、泊原発をすぐにでも再稼働すべきだと考えています。
政府が決断しさえすれば、一か月でこぎつけることができます。

以下に、再稼働すべき理由を述べます。
これは、単純な数字の問題なのです。

苫東厚真の最大出力は165万kW。
地震時(9月6日)の全道の電力需要は380万kW。
苫東厚真が担っていた電力は全道の総電力需要の半分以下でした。
しかし、苫東厚真が損傷を起こしただけで、全道295万戸が停電してしまいました。
それには、二つの原因があります。
第一に、このような大幅な供給バランスの崩れによって、他の発電所からの送電の周波数
を一定に保つことができなかったこと。
第二に、もともと北海道電力は、一部の電力を本州からの供給に頼っていた(はずでした)。
これが機能しなかったのですね。
この本州からの供給を北本連携線といいます。

海底ケーブルのように長距離で絶縁が重要なポイントになる送電では、直流が有利ですか
ら、本州から北海道に送電されてくる電気は直流です。
家庭での電気は交流ですね。
これは発電所から家庭に至るまでに、交流だと変圧が容易だからです。
すると北本連携線では、直流を交流に変換しなくてはなりません。
ところが今回の場合、この変換がうまく行きませんでした。

しかし、この北本連携線が仮にうまく作動したとしてもその最大出力はわずか60万kW。
ということは、仮に第一の周波数の問題がなく、かつ第二の北本連携線をうまく利用でき
た場合でも、
380-165+60=275(万kW)
しか確保できなかった計算になります。
残りの105万kWは、不足したわけです。
部分的な停電は避けられなかったでしょう。

ちなみに苫東厚真発電所は、初稼働以来33年以上を経ていて、かなり老朽化しています。
さらに、不足分を慌てて補った五つの発電所の年齢はこれよりも古く、38歳から48歳で
す。
一般に火力発電の耐用年数は40年とされています。
最大の危機に対応すべく、青息吐息のお年寄りに頑張ってもらったわけですね。

こんな状態を続けていていいのでしょうか。
何か肝心なことを忘れていませんか。

今回、テレビのニュースを見ていて、初めのうち、政府筋から原発の「ゲ」の字も出ない
のに驚きました。
10日になってようやく政府見解が出ましたが、何と泊原発の再稼働は「考えていない」というものでした。
常識的に考えて、こんな大緊急時には、政府は直ちに泊原発再稼働の議論を開始すべきで
しょう。
原子力規制委員会の審査などを待っている場合ではありません。

その審査とは、例によって、数十万年前の活断層の安全性を確かめるという悠長極まるも
のです。
活断層の存在が地震に結びつくかどうかは、個々の場合で異なります。
ふつう数千年から数万年規模のサイクルで地震が起きるとして、たとえば5000年周期の
活断層で、2000年前に地震が起きたとしたら、あと3000年は大丈夫ということになり
ます。
いずれにしても、100年単位以下の精密さで活断層地震の発生確率を計算することはき
わめて困難だということになります。

しかし、もし今回のような地震によるブラックアウトが厳冬の北海道で起きていたら、寒
さのために何人の人が凍死するでしょうか。
ライフラインも途絶え、物流も滞り、道内の産業は停止し、回復に何か月もかかり、その
間に餓死する人も出るかもしれません。
これらの確率の方がずっと高いことは確実です。

冬期の北海道の電力需要は約500万kW超。
今回、青息吐息の老兵たちをかき集めることと、北本連携線の修復と、相当無理をした節
電によって、ようやく380万kWの需要の9割を確保したのです。
しかしこんな状況では、とうてい冬の電力需要を満たすことはできないでしょう。

泊原発の総出力は、207万kW。
苫東厚真が全面回復すれば(11月までには可能とされています)、苫東厚真プラス泊で、
165+207=342(万kW)
ですから、残り160万kWを他の発電で確保すればよいことになります。
しかも泊の年齢は1号機29歳、2号機27歳、4号機9歳です(3号機は廃止)。
若い彼らに頑張ってもらえば、楽々厳しい冬場をしのげるでしょう。

ちなみに原発の耐用年数は、国際的にも法的な基準がありませんが、原発を最も活用して
いるフランスでは40年を目途にしようという動きが有力です。

泊原発ではまた(どこの原発でも事情はだいたい同じですが)、福島事故の教訓を活かして、
16.5メートルの防潮堤、建屋への水の浸入を防ぐ水密扉、免震重要棟、フィルター付きベ
ントなどの設置・建設をすでに終えています。
できる限りの備えがすでにできているのです。

反原発派は何を言っても100%の安心を求めますが、そんなことは神でもない限り不可能
です。
交通事故で毎年4000人以上の人が死ぬのに、車をなくせという声が盛り上がらないのは、
車の効用が大多数の人に受け入れられているためと、交通事故を可能な限り少なくする努
力が現に多方面で行われているためです。
文明の利器にはリスクがつきものですが、私たちは、便利さや快適さの度合いとリスクの
大きさとを、広い視野と正しい情報をたよりにしながら、常に天秤にかけて生きていくほ
かはない
のです。

本当は、北海道電力は、もっと発電設備を増やさないと危ないのです。
泊も含めた北海道の総発電設備による出力は、一応780万kWありますが、泊はまったく稼働していませんから、それ以外の発電所の出力は、フル稼働して573万kW。
設備利用率は、ここ数年、ピーク時で9割に達しています。
8%以上は余剰電力としてキープしておくのがこの業界の常識ですから、
573×(1.00-0.08)=527
となって、ぎりぎりなわけです。

 電力は私たちの生活と産業の源です。
 悲惨な結果がこれ以上広がらないように、政府はもっとエネルギー行政にお金をかけ、
知恵をはたらかせなくてはなりません



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守るべきは「日本文化の型」

2018年09月15日 16時47分54秒 | 思想


1年半ぶりに復帰した横綱・稀勢の里が、序盤、五連勝していたのに、昨日(9月14日)、ついに一敗を喫してしまいましたね。今日もかろうじて勝ったものの大苦戦。これから先が思いやられる取り口でした。
ところで、あえて憎まれ口をたたきますが、筆者は、この稀勢の里という力士を、ずっと以前からあまり評価していません。腰高で取り口が不安定、モンゴル力士に比べてメンタル面に弱さが見られ、早く横綱に、早く横綱にと、ファンの期待をよそに、いつまでも大関にとどまっていました。
在籍31場所(5年超)という長丁場の最後の1年で好成績を残し、ようやく初優勝して横綱に昇進しますが、大関時代の勝率は七割ちょっと。
昇進後初の場所で左肩を強く痛めながら強行出場して劇的な逆転優勝を収めたため、いやが上にも人気は高まりました。しかしこの怪我がたたって八場所連続の休場となりました。
本人にしてみれば横綱になって一場所しか完全出場していないのだから、ここでやめるわけにいかないという気持ちなのでしょう。それはよくわかりますが、横綱の威信を守るという角界の公的な建前からすれば、もっと早い時点で引退すべきでした。

稀勢の里は、なぜあんなに人気があるのでしょうか。
もちろんあの劇的な逆転優勝がそれを支えていますが、それ以前からこの力士への期待感は実力に見合わないものがありました。思うにそれは、最高位をモンゴル力士に独占され続けたという、日本人にとって悔しい事情が背景にあったからでしょう。

日本人に特徴的な国民性に、判官びいき精神論的な(つまり合理的でない)ナショナリズムとが数えられます。この心情的な同質性の高さは、状況に応じて強さとして現れることがありますが、おおむね、緻密で強靭な戦略と、目的合理的な思考と、長いスパンや総合的な視野でものを見る力の前に敗北することが多いと言えます。稀勢の里人気は、そういう日本人の弱点を象徴している気がして仕方ないのです。

筆者は、相撲が好きですが、モンゴル力士が上位をいくら支配し続けようと、悔しさなど感じたことは一度もありません。ちなみにかつては、関脇時代から一貫して日馬富士(当時は安馬という四股名)のファンでしたし、いまは栃ノ心と御嶽海を応援しています。栃ノ心はジョージア出身、御嶽海は、フィリピン人とのハーフです。
筆者が彼らを好きなのは、それぞれ理由がありますが、共通しているのは、その相撲内容がきわめて個性的で優れているからです。要するに、本当の強さというものがそこにはあるのです。

話は変わりますが、九月場所開始の前日、大坂なおみが全米オープンでランク1位のセリーナ・ウィリアムズをストレートで破って見事優勝を果たしました。今に至るまで、メディアの一部ではこの話題でもちきりです。
日本人の二十歳の女性がランク1位の選手を破って優勝した!
このニュースは、筆者も素直にうれしい、と言いたいところなのですが、またもやへそ曲がりの虫が頭をもたげてくるのを抑えることができません。

大坂なおみは果たして日本人と言えるのだろうか?
彼女はハイチ人とのハーフですし、三歳の時アメリカに渡り、母語は英語です。国籍も日本とアメリカの二重国籍。大会には日本国籍者として出場することを表明してはいますが、その大柄な体躯や肌の色、素晴らしい身のこなしを見ていると、どう見ても中米系の血が濃厚に出ています。

そんなことはどうでもいいじゃないか、という声が聞こえてきそうです。
君はさっき、相撲を論じながら、日本人であるかどうかになど、少しもこだわらないと言ったばかりじゃないか、それと矛盾していないか、と。

矛盾していないのです。

筆者が気になるのは、日本で起きている「なおみフィーバー」では、彼女が人種的に中米系の血が濃厚であり、育ちがアメリカであり、母語が英語であり、二重国籍者であり、現在もアメリカ在住者であるという事実を、まったく気に留めず、ひたすら日本人としてしか扱っていないという点なのです。
つまり、そこに、はしゃいでいる日本人たちの強引さを感じるわけです。このフィーバーの背景には、彼女は何が何でも根っからの日本人、と思いたがっている日本人たちの深層心理が作用してはいないか。

テニスはヨーロッパで生まれたスポーツです。
そこにはそのスポーツ特有の文化の型というものがあります。
アメリカで育ち母語も英語でアメリカ在住者なら、この文化の型に適応することは、普通の日本人に比べればはるかに容易でしょう。
そのことに日本人のほとんどだれも気づいていない、気づこうとしない点に違和感をもつのです。

この傾向は、自国の文化や存在感が世界にあまり認めてもらえないので、無理にでも国際的日本人を作り出そうとする、一種の「弱さのナショナリズム」ではないでしょうか。
またこれは、日本人力士を、その実力のほども正確に見積もらずに、彼がただ日本人であるという「観念」だけで熱狂的に応援する心理と、じつは背中合わせではないでしょうか。

かたや、相撲の場合は、日本特有の国技であって、そこにも他のスポーツには替えがたい文化の型があります。
この型に参加してくる力士たちは、モンゴル人だろうと、ジョージア人だろうと、ブラジル人だろうと、ブルガリア人だろうと、みな、その型に忠実に従い、言葉までも短い期間に日本語を流暢にしゃべれるようになります。
これは、彼らが人種や民族として「日本人」になったのではなく、日本文化の一つの「型」に、自分のアイデンティティを、それこそ命を懸けて適応させた結果を表しています。
だからこそ、筆者はそのことを喜ばしいと思いこそすれ、彼らが何人であろうと気にならないのです。

つまり私たちが守るべきなのは、あくまでもそれぞれの伝統に根差した文化の型であって、異文化の型を如実に表現している個人を、血筋が半分こちらに属するからといって、強引に「日本人」だと思い込んでしまうことではありません。

一方には、こういうことがあります。

このブログを始めたころにも触れたのですが、敗戦後、いまなお残っている、いわれなきアメリカ化を象徴する事象として、国際的なスポーツ大会などで日本選手が出場してその名をアナウンスされると、決まって欧米風に、名、姓の順で呼ばれるというのがあります。
「ユズル・ハニュー」「マオー・アサーダ」というやつですね。

筆者は以前からこれを不快に思ってきました。
個人名は、母国において、母国人の両親によってつけられたものです。
多文化共生主義とか異文化尊重主義とかを、普遍的思想であるかのように掲げるなら、まず何よりも、各個人のアイデンティティとして最も大切な姓名を、その名付けられたとおりに呼ぶのが適切なのではありませんか。

ちなみに、ほとんど指摘する人がいなくて困ったことなのですが、東アジア文化圏の他の国、中国や台湾や韓国(もちろん北朝鮮も)の選手で、こんな呼ばれ方をされることはけっしてありません。
キム・ヨナは「ヨナ・キム」などとは呼ばれず、ちゃんと「キム・ヨナ」と呼ばれます。
出場選手の表示でも、日本だけがひっくり返されて表示されるのです。
私が不快を感じるのは、「ユズル・ハニュー」と呼んだり「Yuzuru Hanyu」と表示したりする主催団体に対してではありません。
そういうことを何の疑問もなく受容している日本人に対してなのです。
誰もこれに抗議しないのは、戦後、アメリカによって魂を抜かれてしまったからです。
この魂を抜かれた日本人の情けない精神状態に対して憤りを覚えるのです。

筆者は名刺のローマ字表記部分には「Kohama Itsuo」と刷ってありますし、たまに日本語の話せない西洋人と下手な英語で会話しなくてはならない時、日本人の名前が出てくる場合には、必ず姓を先に言うことにしています。

こういうこともあります。

車内放送が英語で流れます。
それ自体は、国際通用語としての英語を尊重している態度の表れですから、大いにけっこうなことです。
ただ気になるのは、路線によって、駅名をネイティブスピーカーの発音で流している場合があることです。
初めはほとんどの路線でそうでした。
最近ではやや改善されて、駅名の部分だけをきちんと日本語発音でやるようになったところがけっこう増えてきました。
おそらくかつてはネイティブスピーカーを使っていたのでしょう。
しかし最近は、日本人もきれいな発音で(あくまで国際通用語として)英語を話す人が増えてきたので、この変化が可能となったのでしょう。
しかしまだ残っています。「ヨコハーマ」「シブーヤ」といったたぐいですね。
地名もまた、その土地に根差して生活する人たちのもので、固有のアイデンティティを持っています。
それを尊重してこそ、文化が生きるのです。

筆者はかつて横浜市の教育委員をしていたことがあります。
その当時、横浜市営地下鉄が「ヨコハーマ」「アザーミノ」とやっていたので、教育委員の地位を傘に着て、市の交通局に、「あれは教育上もよくないので、正しい日本語発音に変えるべきではないか」と抗議に赴いたことがあります。
担当者は「ごもっともですが予算の関係で」などと理由にならないことを言って抗議を退けました。

市営地下鉄は路線が二つあります。
その後知ったのですが、新しくできた方の車内放送は、ちゃんと日本語発音になっていたのです! 
なんで古い方も変えないのか。
そんなにお金がかかるはずはありません。

いつまでも杉原千畝の美談に酔いしれていたり、大東亜戦争初期段階での日本軍の強さを力説する一部の保守派がいます。
国際社会のだれも、そんなことは認めてくれません。
だれもと言っては語弊があるので、ほとんど、と言い換えておきましょう。
こういうただの心情ナショナリズムの高揚は百害あって一利なしです。
いま求められているのは、いろいろな領域で危機に瀕している日本にあって、さまざまな文化の個性的な型がどんな質のものであるかをよく見直し、そこに他国にはないよきものが再発見されるなら、それをいかにして守るかに心を砕くことです。



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