倫理の起源10
――プラトン『饗宴』批判(つづき)――
さて③の恋愛(性愛)感情の本質についてであるが、私たちは、それを考えるのに、平均的な恋愛感情の実態にあくまでも忠実に記述すべきであって、どこかその実態を超越した「高み」に導くものだというような、外部からの意味づけをなしてはならない。
人間の恋愛(性愛)感情の本質は、特定の個体どうしが、それぞれの心身の醸し出す「雰囲気」を交錯させることによって、そこに「互いの合致」の可能性を見いだすというところに求められる。ある場合にはそれは、肉体的な要素が強い媒介となるし、別の場合には心的な要素が重要な条件となる。
しかしいずれの場合にも、その合致の形成は、肉体と魂とのどちらかに価値の優先権をおいて把握できるものではない。それは、それぞれの個体がそれまでの人生途上で培ってきた歴史的・身体的な「雰囲気」の表出を仲立ちとすることによって成立するものであって、けっして、「美一般」とか「知を愛すること一般」といったイデア世界に還元することによってではない。
このことは、だれかを恋しているときの感情を外から超越的にとらえるのでなく、内在的によく反省してみればわかる。それは「切なさ」の感情と不即不離の関係にある。人が人を恋するときには、何か美しい対象に触れてその美に圧倒されるとか、「知」的なものや道徳的な「善」を表現しているものに触れて感動するなどの経験に終始するわけではなく(これらは、はじめの契機としては考えられるとしても)、その相手がすぐにはわがものとならない不安といらだちにちりちりと胸を焦がし続けるような感覚がつきまとう。
なぜそういうことになるのだろうか。それは、恋愛感情というものが、相手が同じ人間でありながら、自分とは異質の心身をもつことによって媒介されているからである。この「同じ人間でありながら」というところが重要である。恋愛の幻想は、自分と同じ類に属する存在が自分を受け入れてくれる可能性によって支えられながら膨らんでゆく。
人は何か人以外の美しいものを金や権力や身分などの力によって手に入れることができるが、よく言われるように、「愛は金では買えない」。なぜなら、相手もまた「人の心」の持ち主なので、その心をこちらに向かせるには、何よりも自分自身が、相手の心の固有性にとって魅力ある心身の状態にならなくてはならないからである。自分が相手からその固有の価値を認められて、相手がその固有性そのものを愛してくれるようにならなければ、恋は実らない。相手の心もまた自由に、かつ不安定に揺れ動くのである。
これに対して、生身の人間ではない美しい「もの」は、心をもたず、ただそこに美しいものとして厳然とあるだけである。それらに感動したりそれをわがものにしたいという欲望をもつことは、「もの」に恋する人の自由だが、当の「もの」はそのことによっていささかも動揺をこうむることはない。
人への恋に特有の「切なさ」の感情は、こちらの固有な心身が相手の心に叶ったものであるかどうかがしかとつかめないという、いわば自分に対する不安である。ある人を恋するとは、自分の全心身が相手の全心身と合致する可能性を抱えて、この「自分に対する不安」にみずから飛びこんでいくことを意味する。
恋をした男女は、どうすれば自分が相手に気に入られるかについて、滑稽なほど精力と気を遣う。たとえば女性であれば、今日はあの人とデートすることになっているので、何を着ていこうかしら、私の趣味はあの人に合うかしら、化粧はどのくらいにしようか。あの人はすっぴんのほうが好きかもしれない。あの人が求めてきたらどうしよう、等々。男性であれば、どういう言葉で口説いてやろうか。俺って彼女にどのくらいかっこよく見えているのかな。どういうコースを用意すればいいのかな。ケチっちゃいけねえな、等々。これらのことに気を遣わないとすれば、それはあなたが相手を本当には恋していない証拠なのである。
そういうわけで、恋愛感情はあくまで個別特殊な「対」関係のあり方を、まさにその特殊性ゆえにめがけるという特質からけっして逃れられないのである。あなたがほかならぬ「あなた」以外の何ものでもなく、相手がほかならぬ「この相手」以外の何ものでもないという事実を根拠として、恋心は展開する。
なぜ人は特定の人に恋をするのか。それは、必ずしもその対象が肉体的もしくは精神的に「美しい」からではなく、それぞれの心身が固有性をもちながら孤立しているという事実に出会い、相手の固有性が自分の固有性にとってのみ魅力的であるように実感されるからである。そのとき恋の欲望は、この二つの固有性の重なり合いによって、心身の隔離状態をなんとか乗り越えて合一したいという希求の意識に染まる。
恋愛は、この希求の意識を、心身の結合に伴う快楽という「物語」によって満たそうとする試みである。そしてこの互いにバラバラな二つの固有性を解消しようとする「希求の意識」こそは、人間的な「エロス」の本性をなすものであり、人生に「意味」をもたらすための基本条件のひとつをなしているのである。アリストパネスの語る「神話」のほうが、ソクラテスの説く強引な教説よりも、人間をよく見ているもののそれであると判断できる所以である。
また、恋愛が神仏信仰や知への愛と似て非なるものであるのは、後者(神仏信仰や知への愛)が、揺らぎのない絶対者と、不安定な自我との関係として成立するのに対し、前者(恋愛)が、相互に不安を抱えた自我どうしの関係を前提とするという点である。そこから言えるのは、次のことである。
すなわち恋愛という幻想が成就するために欠くことのできない条件とは、相手の欲求の満足をこちらが実感できることが、こちらの欲求の満足にとって不可欠であるということ(相手が自分を好きだと感じていることが、自分のなかで確信できること)である。
またその裏返しとして、恋愛においては、互いの欲求の満足の間に「ずれ」が生じるとき、葛藤や闘いといった危機の様相を必ず呈するということである。
いうまでもなく、知への愛においてはこういうことは起こらない。ソクラテス(プラトン)が考えた究極のイデアに向かっての恋、すなわち自分の知に欠けたところがあると感じて絶対的なものを求める営みにおいては、目標は絶対的で完全なものとして揺るぎなく彼方にそびえていることが前提となっているので、恋愛におけるように、求め方しだいで相手も動揺してほだされるというようなことはあり得ないのである。
最後に④であるが、ソクラテス-プラトンの生きた古代アテナイ黄昏の時代には、性的な欲望の激しい強度を放置するのではなく、その激しさ自体を手なずけながら、よき国家、よき共同体を立て直す「正義」や「徳」のためになんとか活用できないかという問題意識が自由市民の間に広汎に存在した。
というのも当時は少年を立派な公民として育てる公的な教育機関はまだ存在せず、年長者が年少者に政治や文化の価値を伝授するのに、個別的なエロス関係を通じて行うという習慣が一般的だったからである。だから、こうした問題意識がプラトニズムのような「快楽から善へ」という思想に編み上げられるのもむべなるかなというところがある。
「私的な恋(主として自由男子市民の同性愛)」を、公共性の維持継続を支える基盤にするというのが、彼らにとって切実な課題だったのだ。性的な快楽の持ついかがわしさのなかに、どのようにして国家的正義と公共性の維持という崇高な目的を果たす力を植えつけ、維持することができるのか。つまりこれは重大な「倫理問題」だったのである。
その倫理問題を克服するために、プラトンは、通常の恋からイデアへの恋という道筋を、より高級なあり方へ向かっての段階的な上昇過程として示してみせた。
もちろんはじめの三人の演説者たちも同じ倫理問題を抱えていた。そこで彼らは、ひとつの肉体への恋の精神として通用している「エロス神」がともすれば価値の低い、卑しい欲望としてイメージされがちなのを何とか救い出そうと考えた。思えばエリュクシマコスの最初の提案にしてからが、その動機を含んでいたのである。
その動機を満たそうとして、彼ら三人は、公共的な正義にとっての有用性(友情による廉恥心の育成)を説いたり(パイドロス)、恋される側は堕落しやすいから、恋される側が知恵や徳目を享受できるような恋だけを選ぶように心がけるべきだと説いたり(パウサニアス)、エロスには、低いエロスと高いエロスがあるから、人は慎みと節度をもって高いほうを選ばなくてはならないと説いたり(エリュクシマコス)してみせたわけである。当然、彼らよりもはるかに「私的関係から公的関係へ」の理想に燃えるプラトンにとって、これらの単なるバランス維持の知恵にとどまることは、不満だらけの弥縫策にしか見えなかった。
年若いアガトンにはまだその問題意識はなく、ひたすらエロスの美点を称揚するにとどまっている。また人間通のアリストパネスは、こういう倫理的な問題意識に沿ってエロスについて説くことを意識的に拒否し、人が人を恋する感情としての「エロス」とは、ある意味で、始末に負えない人間本性の一部であるという「本質看取」に徹することにとどめたのである。
『饗宴』をこのように、「性」を素材とした社会倫理学的なモチーフに裏付けられたものとして読めば、プラトンの道徳的野望のすさまじさが浮き彫りになってくる。おそらく理想主義者プラトンにとって、アリストパネスのような単なる「本質看取」は我慢のならないものだったにちがいない。
彼は、まず「エロス」の狂気性(道徳的観点からは危険性)をとりあえずそのまま肯定するしかないと考えた。それは「節制」や「抑制」や「寛容」や「均衡」などの日常的な「大人の徳」を対置させてもとうてい歯が立つ代物とは思えなかったからだ。そこで彼は、「エロス」(性愛・恋愛感情)のうちから狂気性(非日常性)のみを抽象し、いっぽうで、その対象の違いによる階梯を示すことにした。対象が崇高でありさえすれば、恋の狂気性は許されるどころか、ますます推奨すべきものとなる。かくして彼は、善の最高原理に「エロス」(恋)もまた服するものであることを証明しようとしたのである。
私の考えをひとことで言えば、ここには明らかに現世的・感覚的な欲望を低いもの、価値なきものとして否定する抑圧的な思考に特有の倒錯がある。そしてこの倒錯は、プラトンの他の重要な著作においても見事に貫かれているのである。
(次回は、同じプラトンの『パイドロス』を取り上げます。)
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