倫理の起源5
ここで、「共同性」という言葉に注釈を付け加えておこう。
これまで、「共同性」という言葉と同時に、「共同体」あるいは「共同態」という言葉を用いてきた。三者は意識的に使い分けられたものである。
「共同体」という場合、複数の人間が作る具体的なまとまりのある制度的な社会集団をイメージしている。家族、村落、経済的組織、文化的共同体、国家などがこれに当たる。それらは、人間が織りなす関係の様態のなかで、最も実在的、固定的なイメージの強いものである。
これに対して、「共同態」と表記するときには、もう少し固定的・制度的ではなく、個人と個人とが何らかの原理にもとづいて、そのつど共同関係を作っている、その動的な様態そのものを指している。たとえば恋人同士がつきあっていたり商取引で売り手と買い手が関係を結んでいれば、それだけで共同態的と言えるが、まだ共同体とは呼べない。
さらに「共同性」というときには、前二者よりも抽象度が高く、人間を構成する根源的な条件をあらわしている。
すでによく言われてきたことだが、人間は、どんなときにも、ただ孤立した個人ではない。和辻哲郎が強調するように(『倫理学』)、人間は本質的に「間柄的存在」であって、個人性と社会性の二重の相のもとに生きている。このことは、人間が互いに他者と実践的に交流しあう存在であるという意味にとどまらない。
人間はそれぞれ個的な人格であることにおいて、固有の意識の持続性を確保している。この意識の持続性は「自我」と呼ばれている。「自我」は通常、たったひとりでいるときにも、少なくとも形式上は、ある自立性と恒常性を保っている。しかし「自我」の自立性と恒常性は、何によってその内実を保証されているだろうか。
「自我」の内実をそのつど占めているものは、知覚表象であったり、特定の感情や気分であったり、記憶であったり、予期であったり、想像的なイメージであったりする。しかしとりわけて重要な事実は、これらの表象や観念の多様を、時間を貫いてひとりの「私」にとってのものとしてまとめ上げているのが、反省的な言語作用だということである。
意識は時間に沿って絶えず流れるが、そのつど必要に応じて諸表象や諸観念にとらわれる。だが、それらの多様のなかにただ身を任せていたのでは、「私」という自己同一性はあらわれない。「さっき部屋の中にいた私」と「いま外を歩いている私」とを、まさしく同一の「私」にまつわる一定の文脈として把握させているのは、反省的な言語作用である。「私」は、反省的な言語意識によって、「さっき部屋の中にいた」と「いま外を歩いている」とを、状況の異なる「私」として区別し、同時に両者を同一の「私」として統合する。反省的な言語意識は、「私」を絶えず超越しながら、「私」に帰る。
ところで、この、「私」の自己同一性を成り立たせている反省的な言語意識は、どのような条件によって作られたのだろうか。そもそもたったひとりであるはずのこの「私」が言語意識を手にしているという事実は何を示しているだろうか。
言語というものは、発話者と聞き手とのやりとりにその本来の実現の場所をもっている。したがって、言語は、人間の共同性によって支えられ、また共同性を支える。
私たちは、一定の共同社会のただなかに生まれ、そこで流通している言語を習得することで、その共同社会のメンバーの資格を獲得する。この言語の習得の達成は、当然、当該社会のなかで自分が一人格として認められたことを意味するから、「私」がある言語の使用能力をもっているということは、「私」という一個の自我の統一体のなかに、その統一の必要条件として、当の社会の共同性を抱え込んでいることと同じである。
「私」は、他人と関わっていないときにも、多くの場合、その意識を言語的なざわめきで満たしており、時には独り言を表出したりする。このようなとき、「私」は、いわば観念化された共同性を生きているのであり、共同社会の一員としての振る舞いをしているのである。だから、「私」の自己同一性が反省的な言語意識の保持によってこそ可能であるということは、「私」が「私」であるだけで、共同性の実現を果たしていることを意味する。
以上のように見るかぎり、共同性とは、個人の外側にあって個人と対立するような、何か実体的なものではなく、個人のなかに、個人が個人としての輪郭と面目を示すための本質的な条件あるいは場面として、あらかじめ深く埋め込まれた特性であると考えられる。
さてそうだとすると、何らかの「悪」をなす個人は、先に試みた「悪」の定義により、みずからの内なる共同性との間の分裂を生きていることになる。この分裂は、どんな極悪人をも不安に陥れる。シェイクスピアの『マクベス』において、マクベスもマクベス夫人も不安の増大に絶えきれずに身を滅ぼすが、それは、外側からやってくる敵に対する不安によるのではなく、すでに自分のなかに深く埋め込まれた共同性の声を聞いてしまうからである。
十九歳で四人を射殺し何度も公判を繰り返した後、最終的に死刑に処せられた永山則夫は、獄中で厖大な手記を残し、自分の所業は無知と貧困によるものだとした。さらに彼は長い獄中生活による拘禁反応とメディアで有名人扱いされたこととが重なったせいか、一種の誇大妄想癖に陥り、自分の所業が何か社会的に特別有意義な性格をもつものと勘違いしたようでもあった。
この事例の場合、通常私たちが考える「良心の疚しさ」が深く彼の実存を規定するという成り行きにはならなかったように見える。しかし、永山は犯行を行い逮捕された後に、ほどなくして自分の行為を言語によって対象化しようとする強い衝動に見舞われている。ほとんど盲目的な行為のあと、その行為を社会的な視野から彼なりのやり方で位置づけ直そうとしたのだ。その位置づけ方がどんなに詭弁に満ちた歪んだものであったとしても、この営みもまた、みずからの内なる共同性の声を聞く聞き方のひとつであったことは否定できない。自分が社会的に大きな意味のある存在であるという誇大妄想に陥ったのも、自分の過去の行為を、あくまで共同性の言語によって縁取ろうとする心理のひとつの行く末である。
また、八人のいたいけな小学生を次々に斬り殺して死刑に処せられた宅間守は、「早く死刑にしてほしい」として、控訴を拒否した。そればかりか、彼はいかなる謝罪もせず、改悛の情もまったく示さなかった。彼の自我の内部には、一見、共同性の声としての「良心の疚しさ」が宿る場所はどこにもなかったように見える。犯行の直後から法や習俗への服属を完全に拒絶していると見なせるからだ。
しかし宅間は、この犯行以前に、すでに精神病の詐病による嫌疑逃れや度重なる結婚生活の破綻など、数々の共同性の敗れ、自己破産を経験してきている。その息せき切った反抗的な「生き急ぎ」ぶりには、舌を巻くほどである。つまり彼は、自分の幼少年期の無惨な生活史と特異な資質とを早い時期から自覚していたのであり、それらが法と習俗の支配するこの世の平均的な生活リズムにとうてい適応できないことをよく知っていたようであった。
この「自分はこの世では平穏に生きられない」という自己認識は、やはり共同性の声のなさしめるところであり、それが、最後の残忍な所業のあとで、自分を早く死ぬにふさわしい存在として規定する意志に結びついているのである。
控訴もせず弁解も謝罪もせず改悛の情も示さずに法の裁きをそのまま受けるということは、妥協抜きに自分を「極悪人」と認めている証拠であり、救済への退路をはじめから完全に断ちきっている証拠である。このように、彼は、何が許されるべきことで何が許されるべきことでないかをしたたかにわきまえた、確信犯中の確信犯である。「良心」の持ち合わせはなくとも、自分には「良心」などないということを知っているという点において、彼は共同性の声をじゅうぶんに聞いているのである。死刑判決と共に、内なる共同性との分裂状態は終わりを告げ、彼は不安から解放されたのだ。
「悪」をなそうと思っている人や、すでに「悪」をなしてしまった人は、自分の依拠する共同性からの離反を企てるのであるから、独特の孤独と不安のなかにみずからを追い込むことになる。「悪」をなすことは、それがよほど習慣的で無自覚なものでないかぎり、当人にそれ相応の勇気を強いてくる。
思春期や青年期の若者が、「悪」を進んでなす仲間をヒーロー視し、自分もそのようなことをやってみたいというあこがれを抱きがちなのは、彼らが、家族や法社会などの制度的に根づいたものとしての共同性から距離を置いており、自分が独立した個であることを積極的に示したがるからである。独立した個であることを示す最も早い道は、「悪」をなすことである。「悪」をなすことはそれゆえ、彼らにとって勇気を要する「カッコイイ」ことなのである。
彼らにとって、自分が生まれ育ってきた家族の共同性は、もはや自分を全面的に帰属させるには足りないものとなっている。また一方、一般社会が敷いている法を軸とした共同性にはいまだなじめない。両者の端境期にある彼らは、多くの場合友人同士の共同性を作るが、それはだいたいにおいて、制度的な共同性からは自由な、独立した個でありたいとする欲望の算術的な集合にすぎない。彼らの群集いの性格は、「悪」をなす事にアイデンティティを見いだすような者のそれにいちばん近いのである。このことをとてもうまく表現した文学作品に、三島由紀夫の『午後の曳航』や大江健三郎の『不満足』がある。
ティーンエイジャーたちを管理統制しなくてはならない学校教育は、彼らの勉学意欲だけをよりどころに統制をはかることの無理を無意識的によく知っている。そこで、放置しておけば「悪」に走りがちな彼らのエネルギーを束ねて、部活動、学校行事などの装置を置いて集団形成を促そうとする。
部活動は、「戦闘的に相手を倒す」種類のものが多い。それは、うまくはたらけば、彼らの「悪」に走りがちな攻撃的エネルギーを、ルールと集団的規制によって成り立つ虚構された枠組みのなかに囲い込むことが出来る。
また体育祭や文化祭などの学校行事は、生徒たちがばらばらな個にとどまることを許さずに、文字通り彼らを祝祭的な共同性のほうへ誘い込む絶好の教育的効果を持っている。
宗教性を色濃く帯びた教育機関が、服装や生活規律などの形で、この時期の若者にことさら禁欲的気風を吹き込もうとするのも、同じ危機意識に発している。