小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源5

2013年11月10日 14時42分55秒 | 哲学

倫理の起源5



 ここで、「共同性」という言葉に注釈を付け加えておこう。
 これまで、「共同性」という言葉と同時に、「共同体」あるいは「共同態」という言葉を用いてきた。三者は意識的に使い分けられたものである。
共同体」という場合、複数の人間が作る具体的なまとまりのある制度的な社会集団をイメージしている。家族、村落、経済的組織、文化的共同体、国家などがこれに当たる。それらは、人間が織りなす関係の様態のなかで、最も実在的、固定的なイメージの強いものである。
 これに対して、「共同態」と表記するときには、もう少し固定的・制度的ではなく、個人と個人とが何らかの原理にもとづいて、そのつど共同関係を作っている、その動的な様態そのものを指している。たとえば恋人同士がつきあっていたり商取引で売り手と買い手が関係を結んでいれば、それだけで共同態的と言えるが、まだ共同体とは呼べない。
 さらに「共同性」というときには、前二者よりも抽象度が高く、人間を構成する根源的な条件をあらわしている。
 すでによく言われてきたことだが、人間は、どんなときにも、ただ孤立した個人ではない。和辻哲郎が強調するように(『倫理学』)、人間は本質的に「間柄的存在」であって、個人性と社会性の二重の相のもとに生きている。このことは、人間が互いに他者と実践的に交流しあう存在であるという意味にとどまらない。
 人間はそれぞれ個的な人格であることにおいて、固有の意識の持続性を確保している。この意識の持続性は「自我」と呼ばれている。「自我」は通常、たったひとりでいるときにも、少なくとも形式上は、ある自立性と恒常性を保っている。しかし「自我」の自立性と恒常性は、何によってその内実を保証されているだろうか。
「自我」の内実をそのつど占めているものは、知覚表象であったり、特定の感情や気分であったり、記憶であったり、予期であったり、想像的なイメージであったりする。しかしとりわけて重要な事実は、これらの表象や観念の多様を、時間を貫いてひとりの「私」にとってのものとしてまとめ上げているのが、反省的な言語作用だということである。
 意識は時間に沿って絶えず流れるが、そのつど必要に応じて諸表象や諸観念にとらわれる。だが、それらの多様のなかにただ身を任せていたのでは、「私」という自己同一性はあらわれない。「さっき部屋の中にいた私」と「いま外を歩いている私」とを、まさしく同一の「私」にまつわる一定の文脈として把握させているのは、反省的な言語作用である。「私」は、反省的な言語意識によって、「さっき部屋の中にいた」と「いま外を歩いている」とを、状況の異なる「私」として区別し、同時に両者を同一の「私」として統合する。反省的な言語意識は、「私」を絶えず超越しながら、「私」に帰る。
 ところで、この、「私」の自己同一性を成り立たせている反省的な言語意識は、どのような条件によって作られたのだろうか。そもそもたったひとりであるはずのこの「私」が言語意識を手にしているという事実は何を示しているだろうか。
 言語というものは、発話者と聞き手とのやりとりにその本来の実現の場所をもっている。したがって、言語は、人間の共同性によって支えられ、また共同性を支える。
 私たちは、一定の共同社会のただなかに生まれ、そこで流通している言語を習得することで、その共同社会のメンバーの資格を獲得する。この言語の習得の達成は、当然、当該社会のなかで自分が一人格として認められたことを意味するから、「私」がある言語の使用能力をもっているということは、「私」という一個の自我の統一体のなかに、その統一の必要条件として、当の社会の共同性を抱え込んでいることと同じである。
「私」は、他人と関わっていないときにも、多くの場合、その意識を言語的なざわめきで満たしており、時には独り言を表出したりする。このようなとき、「私」は、いわば観念化された共同性を生きているのであり、共同社会の一員としての振る舞いをしているのである。だから、「私」の自己同一性が反省的な言語意識の保持によってこそ可能であるということは、「私」が「私」であるだけで、共同性の実現を果たしていることを意味する。
 以上のように見るかぎり、共同性とは、個人の外側にあって個人と対立するような、何か実体的なものではなく、個人のなかに、個人が個人としての輪郭と面目を示すための本質的な条件あるいは場面として、あらかじめ深く埋め込まれた特性であると考えられる。
 さてそうだとすると、何らかの「悪」をなす個人は、先に試みた「悪」の定義により、みずからの内なる共同性との間の分裂を生きていることになる。この分裂は、どんな極悪人をも不安に陥れる。シェイクスピアの『マクベス』において、マクベスもマクベス夫人も不安の増大に絶えきれずに身を滅ぼすが、それは、外側からやってくる敵に対する不安によるのではなく、すでに自分のなかに深く埋め込まれた共同性の声を聞いてしまうからである。
 十九歳で四人を射殺し何度も公判を繰り返した後、最終的に死刑に処せられた永山則夫は、獄中で厖大な手記を残し、自分の所業は無知と貧困によるものだとした。さらに彼は長い獄中生活による拘禁反応とメディアで有名人扱いされたこととが重なったせいか、一種の誇大妄想癖に陥り、自分の所業が何か社会的に特別有意義な性格をもつものと勘違いしたようでもあった。
 この事例の場合、通常私たちが考える「良心の疚しさ」が深く彼の実存を規定するという成り行きにはならなかったように見える。しかし、永山は犯行を行い逮捕された後に、ほどなくして自分の行為を言語によって対象化しようとする強い衝動に見舞われている。ほとんど盲目的な行為のあと、その行為を社会的な視野から彼なりのやり方で位置づけ直そうとしたのだ。その位置づけ方がどんなに詭弁に満ちた歪んだものであったとしても、この営みもまた、みずからの内なる共同性の声を聞く聞き方のひとつであったことは否定できない。自分が社会的に大きな意味のある存在であるという誇大妄想に陥ったのも、自分の過去の行為を、あくまで共同性の言語によって縁取ろうとする心理のひとつの行く末である。
 また、八人のいたいけな小学生を次々に斬り殺して死刑に処せられた宅間守は、「早く死刑にしてほしい」として、控訴を拒否した。そればかりか、彼はいかなる謝罪もせず、改悛の情もまったく示さなかった。彼の自我の内部には、一見、共同性の声としての「良心の疚しさ」が宿る場所はどこにもなかったように見える。犯行の直後から法や習俗への服属を完全に拒絶していると見なせるからだ。
 しかし宅間は、この犯行以前に、すでに精神病の詐病による嫌疑逃れや度重なる結婚生活の破綻など、数々の共同性の敗れ、自己破産を経験してきている。その息せき切った反抗的な「生き急ぎ」ぶりには、舌を巻くほどである。つまり彼は、自分の幼少年期の無惨な生活史と特異な資質とを早い時期から自覚していたのであり、それらが法と習俗の支配するこの世の平均的な生活リズムにとうてい適応できないことをよく知っていたようであった。
 この「自分はこの世では平穏に生きられない」という自己認識は、やはり共同性の声のなさしめるところであり、それが、最後の残忍な所業のあとで、自分を早く死ぬにふさわしい存在として規定する意志に結びついているのである。
 控訴もせず弁解も謝罪もせず改悛の情も示さずに法の裁きをそのまま受けるということは、妥協抜きに自分を「極悪人」と認めている証拠であり、救済への退路をはじめから完全に断ちきっている証拠である。このように、彼は、何が許されるべきことで何が許されるべきことでないかをしたたかにわきまえた、確信犯中の確信犯である。「良心」の持ち合わせはなくとも、自分には「良心」などないということを知っているという点において、彼は共同性の声をじゅうぶんに聞いているのである。死刑判決と共に、内なる共同性との分裂状態は終わりを告げ、彼は不安から解放されたのだ。
「悪」をなそうと思っている人や、すでに「悪」をなしてしまった人は、自分の依拠する共同性からの離反を企てるのであるから、独特の孤独と不安のなかにみずからを追い込むことになる。「悪」をなすことは、それがよほど習慣的で無自覚なものでないかぎり、当人にそれ相応の勇気を強いてくる。
 思春期や青年期の若者が、「悪」を進んでなす仲間をヒーロー視し、自分もそのようなことをやってみたいというあこがれを抱きがちなのは、彼らが、家族や法社会などの制度的に根づいたものとしての共同性から距離を置いており、自分が独立した個であることを積極的に示したがるからである。独立した個であることを示す最も早い道は、「悪」をなすことである。「悪」をなすことはそれゆえ、彼らにとって勇気を要する「カッコイイ」ことなのである。
 彼らにとって、自分が生まれ育ってきた家族の共同性は、もはや自分を全面的に帰属させるには足りないものとなっている。また一方、一般社会が敷いている法を軸とした共同性にはいまだなじめない。両者の端境期にある彼らは、多くの場合友人同士の共同性を作るが、それはだいたいにおいて、制度的な共同性からは自由な、独立した個でありたいとする欲望の算術的な集合にすぎない。彼らの群集いの性格は、「悪」をなす事にアイデンティティを見いだすような者のそれにいちばん近いのである。このことをとてもうまく表現した文学作品に、三島由紀夫の『午後の曳航』や大江健三郎の『不満足』がある。
 ティーンエイジャーたちを管理統制しなくてはならない学校教育は、彼らの勉学意欲だけをよりどころに統制をはかることの無理を無意識的によく知っている。そこで、放置しておけば「悪」に走りがちな彼らのエネルギーを束ねて、部活動、学校行事などの装置を置いて集団形成を促そうとする。
 部活動は、「戦闘的に相手を倒す」種類のものが多い。それは、うまくはたらけば、彼らの「悪」に走りがちな攻撃的エネルギーを、ルールと集団的規制によって成り立つ虚構された枠組みのなかに囲い込むことが出来る。
 また体育祭や文化祭などの学校行事は、生徒たちがばらばらな個にとどまることを許さずに、文字通り彼らを祝祭的な共同性のほうへ誘い込む絶好の教育的効果を持っている。
 宗教性を色濃く帯びた教育機関が、服装や生活規律などの形で、この時期の若者にことさら禁欲的気風を吹き込もうとするのも、同じ危機意識に発している。





落語の魅力(中間報告)

2013年11月10日 14時05分54秒 | 芸能
落語の魅力(中間報告)

 去年の秋以来、あるきっかけがあって、ほんの少しばかり、落語にハマっています。手帳の記録を調べてみたら、11月から6月まで、ホール落語に計16回通っていました。一回平均三席として、約50席聴いたことになります。こんな程度でハマっているとはおこがましいのですが。
 中野翠さんの『この世は落語』(筑摩書房)によれば、コラムニストの堀井憲一郎さんは、七年間になんと一万席聴いたそうです。毎日平均四席聴いた勘定。こいつ、半端じゃねえな。どこで稼いでいつ食ってやがったんだ。さしづめ吉原に通いづめる若旦那だな。
 まあ、そういうわけで、私など、まだ現段階で落語について語る資格はないのですが、それでも、「ひいき」にしたくなる師匠が出てまいります。
 中堅どころでは、柳家喜多八と古今亭志ん輔。若手では、柳家三三と春風亭一之輔。
 志ん生、円生、小さん、志ん朝など、いまや古典的な名人として知られる人々の噺をYouTubeやCDで少しばかり聴いてみましたが、私はやっぱりライブがいいですね。なぜって、何しろ師匠たちが目の前で語りかけてくれます。ひとつひとつのしぐさも目が離せません。そうして、一人語りで立ち上がる「はなし」空間の中へ、身も心もすっぽり包まれていくような気分にさせられるからです。
 落語というと、ジャンルとしては古典芸能ということになるのかもしれませんが、むしろ「いまここで」行なわれている現代芸、という要素が強いように思われます。と、これはある人からの受け売りなんですが。
 じっさい、噺家たちも、基本のネタを古典からとりながらも、そのつど客席の雰囲気との交流を通してアドリブを多用しているようで、それが会場を生き生きとさせるのですね。いまの話題を枕にしながら、スーッと本題に入っていく。その間合いと呼吸が聴きどころの一つです。また本題に入っても、いまの芸能人ネタや世間の話題、楽屋話、客の反応を即座に話に取り込むなどということが頻出します。
 こないだも、橘屋文左衛門師匠が「猫の災難」をやっている最中に、客席でガタン、と音がしました。すると師匠、すかさず「今なんかヘンな音がしたな。ホントに猫が来やがったんじゃねえか」と。

 少し風向きの違う話をします。
 私は昔からジャズが好きで、高校時代に時々授業サボって渋谷のジャズ喫茶に入り浸ってたなんてことがありましたっけ。
 ご承知のとおり、ジャズは即興演奏がいのちです。だれが作った何という曲を演奏しているかは、極端に言えばどうでもよくて、誰が弾いているか、吹いているか、どんなふうにプレイしているか、だけが問題です。
 クラシックはこれと違って、まずだれが作った何という曲かが問題ですね。そりゃクラシックファンは、1944年のフルトヴェングラーがどうだとか、グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲がどうだとか、いろいろおっしゃいますが、それは初級を卒業して中級以上のファンになった人にとって初めて重要になってくること。まずはバッハの何、ベートーヴェンの何、ということが問題です。感動の基本が原曲に宿っているからです。
 それが証拠に、あなた、クラシックのコレクションは作曲家によって分類されますが、ジャズのコレクションは、はじめからプレイヤーによって分類されているでしょう(ポップスや演歌もそうですけどね)。
「枯葉」と言えば世界中の人が歌ったり演奏したりしていますが、ジャズでもたくさんの人がやっています。でもまず思い浮かぶのは、「サムシン・エルス」でのマイルス、コルトレーン、キャノンボール・アダレイのあれですね。違うプレイヤーの「枯葉」は、それはそれでまったく違った曲です。
 私が何を言いたいか、もうお分かりと思いますが、そう、落語ってジャズに似ているんですよ。原曲や古典をネタにしながら、どうそれを「いまここで」処理するか。そのことが決定的です。だから、ビギナーにも、ごく自然に「ひいき」ができてしまうんですね。
 落語のもう一つの魅力は、ことに人情話について言えることですが、笑わせながら同時に泣かせるという点です。あんまりおかしいので涙が出てくる、というのとも違う。大げさな話を通じて、私たちがふだんは示さないような、また出すのをはばかるような深いところにある「情」を引き出して見せるんですね。だからウソ話のくせに、「そうだね、人間てこういう風だよね。変わらないね」と納得させられてしまいます。浅ましさと意地と見栄と、そして最終的には相手のために一肌脱ぐ心意気。これが泣かせどころなんですね。
 バカ正直者同士の意地の張り合いからくる思わぬくいちがい。どうしようもない道楽者がふとしたきっかけで命をかけて人助けに手を出してしまう。いけ好かない野郎をみんなでとっちめてやろうと計画して失敗する。女の手に触れたこともないような堅物がまわりの助けによって人もうらやむような幸せをつかむ。まあ、どれをとってもありえないような話ばかり。それでも、というべきか、だからこそ、というべきか、人生の哀歓をこもごも味わってきた私たちの共感を誘うツボを心得ていることは確かです。
 楽しいとき笑い、悲しいとき泣く、なんて嘘じゃねえのかな。そんなふうに思っている間はまだガキで、笑いと泣きは、反対の情動じゃなく、意外と重なっているのかも。これを言い換えるに、しみじみとした人情に触れない笑いはつまらないし、ただ泣き叫ぶ悲しみの表現は白ける。私の偏見と食わず嫌いですが、吉本系のお笑い(たとえばDT)って、ちっとも面白いと思わないんですけど。
 大旦那と若旦那と番頭、貧乏長屋の大家と店子、武士と町人、ご隠居さんと熊さん八っあん、兄ぃと弟分、道楽おやじとけなげな子ども、花魁と客と若衆、弱気亭主と強気女房――落語のキャラってだいたいパターンがきまっていますね。これって一種のマンネリズムですが、だからこそ永続性をもっているんじゃないだろうか。
 ちょいと、あなた、自分の身の回りを考えてみてください。こういうパターンて、現代の人間関係にも応用可能で、だいたい直接的な人のつながりの世界を網羅できているんじゃないでしょうか。身分制社会の何とか、なんて野暮なことおっしゃっちゃ困ります。

もう一つ。
 落語ではよく、ほとけ、つまり死人が出てきます。話中に死んだり、幽霊として出てきたり。しかし概して、生き死にを突き放して軽く扱うんですね。そこには主人公自身の命の問題も出てくるわけですから、それをも笑い飛ばすということは、話そのものが相当胆の座った根性をもっていることになります。
 いずれくたばる、これだけはどうしようもねえや。次から次へと死んでいって、これといってなすすべもなかった時代。いまだって本質は変わっていないのですが、こういう避けられない人間の運命をそのまま引き受けて、そうしてその地点から人間自身を笑ってやろうという感性が否応なく育ったのでしょう。まあ、これは言ってみれば明るいニヒリズムですな。
 私などは、ここに文化の爛熟から生まれた思想の成熟(笑)を見る思いがします。現代は、妙にしかつめらしく、大した命でもねえのに、やれ「命の尊厳」とか、大して害もねえのに、やれ何ミリシーベルト、とか騒ぐ人たちで溢れているようで、こういう手合いには、てめえら、落語の根性を煎じて飲め、などと、過激なことを時たま口走りたくなります。
「おまぃさん、ずいぶん大きな口きいてるようだけど、うちの金坊にもしものことがあったら、責任とってもらうよ」
 あ、ご勘弁、ほ、ほんの時たまでございます。

しつこくもう一つ。
 落語は一人語りですが、これはだいたい、ちょいと左向き、右向きして対話を繰り返すのと、モノローグに耽るスタイルを基本としていますね。ナレーション部分は極端に切り詰められています。
 で、モノローグの場面では、たいてい登場人物が、一人で勝手に妄想から妄想へと突っ走ります。「小言幸兵衛」「不動坊」など。全部夢だったなんて落ちもよくあります。
 ところでこのスタイル、対話形式の場合も、演者が一人ですから、じつは全部こいつの妄想なんじゃなかろうか、と言いたくなってくるんですね。全然、「客観的」なディスクール(言説)じゃなく、極めて私的な世界です。何しろ話がとんでもない方向に発展していくからです。
 川島雄三監督、フランキー堺主演の『幕末太陽伝』は、いくつかの落語を手本にしていますが、なかでも中心をなすのは、「居残り佐平次」という話。この話は、品川の遊郭を舞台にした、登場人物がおそらく十人を超える、絢爛たる展開になっております。これを一人でこなす噺家の芸もすごいですが、私が興味を覚えるのは、これが絢爛であればあるほど、ファンタジーのとんでもなさを表わしている点です。しかもとんでもなければとんでもないほど、そこに鮮やかな世界が立ち上がってきて、とにかく面白いんですね。

 さてよく考えてみると、言葉の芸術の本質は――なぁんてね。噺家さんたち、芸術などと言われて、照れないでね。でも、ホントの話、小説にしろ,詩歌にしろ、お芝居にしろ、言葉の芸は、みな妄想を豊かにしていって、そこにこれまでの世界とは違った世界を切り開いてみせ、そうして私たち自身の生き方を新しく創造していくのではないでしょうか。
 これはじつは芸に限らず、私たちの日常の言語生活でも同じで、落語はまさに庶民の日常言語に徹して妄想を繰り広げていくので、それは、いちばん身近なところで言葉の本質に忠実な営みをやっているのではないか、というのが、この中間報告の一応の結論であります。
 ただし申し添えますが、一人の妄想が人々の共感を勝ち取るためには、その妄想を紡ぐ人が、単に伝統的な語り芸を磨くだけではなく、妄想の基盤となる豊かな人生修行を積んでいなくてはなりません。ちなみに、冒頭、中堅どころ(今が旬、ですね)としてご紹介した喜多八師匠は当年63歳、志ん輔師匠は当年59歳です。
 つい調子こいて、エラそうなことを申し上げました。へい、おあとがよろしいようで

日本語を哲学する5

2013年11月10日 13時39分02秒 | 哲学

 2節 言葉は世界を虚構する


 まず言葉は、事物を概念で括って抽象化するはたらきであるということ。このことには異論の余地がないだろう。
 たとえば、「あなたのお父さんはどんな人ですか」と聞かれたとき、言葉でそれを説明しなくてはならないとする。あなたは相手にできるだけ正確なイメージを与えようと思って、年齢、身体的特徴、仕事、趣味、性格、癖、家族内でのエピソード、彼自身の成育史、生活史などなど、あらゆることを話す。しかし、「百聞は一見にしかず」という。五時間かけて説明したとしても、じかに五分間会うほうが、相手ははるかにあなたの父に対する確かなイメージを得るだろう。
 これは、言葉というものが、概念によって構成されているからで、具体物そのものをそのままに指し示すことができないからである。「あ、犬がいる」と言うとき、発話者は、現に具体物としての犬を見てどんな犬であるかを感覚として確実につかんでいるのだが、「犬」という言葉を使ったとたんに、それを見ていない人には、それがどんな犬であるかまでは伝わらないことに気づく。もちろん、その犬の具体的な特性をいくら細かく説明しても、その説明が言葉であるかぎりは、ついに具体物としての「この犬」には到達し得ない。これが抽象作用としての言葉というものの宿命である。
 ソシュールが規定したように、概念(シニフィエ)は、言葉の形式的な本質の欠くことのできない一面である。シニフィエとは、「指し示されるところのこと」という意味であって、「指し示されるところのもの」ではない。「もの」というように考えると、〔i-nu〕という音韻(シニフィアン)が、実体としてそこにいる「この犬」を直接に表わしているという誤解が生じやすい。そうではなくて、〔i-nu〕という音韻は、あくまでも概念としての「犬」一般を表わすことしかできないのである。
 このように、言語表現は、表現すること自体によって、それが表わそうと思っている当の実在との間に必ず何がしかのずれ、距離を生み出してしまうことが避けられない。具体的事物を抽象することしかできないこの言葉の宿命は、たとえば、匂いの感覚をそれ自体として言葉で表現することは不可能であるという事実に最も端的にあらわれている。「ミントの香り」といえばたいていの人がイメージできるが、ミントの香りを嗅いだことのない人に、他の経験の助けを借りずどういう香りかわかるように説明してみろと言われたら、だれもできないだろう。
 こうして言葉は、それが抽象作用、概念化作用であることによって、必然的に虚構性を持つのである。

 第二に、言葉は、それが語られるとき、時間に沿ってラインを引いていくように語られるほかはないという特性(制約)をもっている。これを言葉の「線型性」と呼ぼう。
 たとえばあなたが、春の宵、公園ではらはらと散る桜の花に包まれて、その美しさはかなさに、これまでにない深い感動を味わったとする。この感動は言語以前の身体感覚あるいは情緒としてあなたの全身を押し包む。それはあなたとあなたがいまいる空間との一体化であり、そこには日常を流れるリニアな(時計的、カレンダー的な)時間感覚を超越した場が開かれている。時間が消えているのではない。むしろあなたがこれまで生きてきた長い時間のすべてがうっとりとしているあなた自身の情緒世界そのもののうちに凝縮しているのだ。あなた自身の生活史の凝縮が「いまここ」になければ、散りゆく桜の美しさはかなさに感動することはありえないからである。
 さてあなたはその感動を言葉で表現しようと思った。散文で語るのもよいし、歌に詠むのもよいだろう。ことに歌は、うまくできれば、あなたの感動の世界の全体をそっくり、まるでそこに聞き手が居合わせたかのように伝えることができる。しかし、それに成功するには、高度な言葉の技巧が必要とされる。高度な技巧を媒介にしなければ感動を伝え得ないのはなぜか。そこに立ちふさがっているものこそまさに、感動の直接経験が持つ全体性(知覚と記憶と美意識との総合としての身体性)と、言葉の線型性とのいらだたしい矛盾なのである。
 これはたとえて言えば、毛糸の玉の全体が持つあのなんともいえない柔和なフワフワ感と、それを解きほぐしてずるずるとひとつながりの糸にしてみたときの感じの違いに近い。ひとつながりの糸のままでは、あのフワフワ感が甦らない。何とか甦らせるためには、もう一度うまく丸めて見せなくてはならない。
「昨夜、近所の公園で桜がはらはら散る光景に出くわしたが、そのなんともいえない美しさに私は、いのちのはかなさを感じ、しばし、時を忘れてうっとりとしていた。私も長く生きてきたが、こんな感動を味わったのは初めてで、おそらくあの時、自分の来し方を振り返る心境とたまたま出会ったその光景が醸す雰囲気とが不思議に一致したのだろう」……。これでは、感動の全体性そのものをまるで伝え切れていない。すでに毛糸の玉はほぐれて、ずるずるとひとつながりの糸の連鎖になってしまっているからである。順次説かれた秩序ある「説明」になっている分だけ、世界とあなたとの混沌たる融合の瞬間は損なわれている。よくできた四コマ漫画のユーモアを言葉で説明するとたちまち白けてしまうようなものだ。
 美的感動に限らず、およそ世界経験というものは、すべてが同時多元的な混沌の連続体として現われる。言葉は世界経験を伝達する使命をもっているが、この混沌をそのまま伝えることはもともと不可能で、言語規範(ラング)にしたがって線状に、ひと筋にひもといていくほかはない。
 こうして、言葉の線型性は、特別の技巧や繊細な配慮なしには、そのつどそのつどの人と世界とのかかわりの全体性を毀す可能性が高いのである。力を注いだ再構成の試みこそが、何とかその近くまでたどり着くことができるのだ。このことは、陳述機能としての言葉(言葉の機能はもちろん陳述だけではない。これについては3節で述べる)というものが、もともと世界経験の伝達において、経験の直接性を改めてたどたどしく虚構していく行為であることを表している。何か複雑な事情を人に話すとき、何から話し始めたらよいか相当ためらうことがあるのを、多くの人が経験しているだろう。



 第三に、ソシュール言語学でよく言われるように、言葉は、世界を分節化し、切り分けることによって、私たち自身に分類体系としての世界像を新たに与える。
 このことは、名詞を例にとるのが最もわかりやすいが、しかし、べつだん名詞でなく動詞や形容詞でも、また、一文や文章でも同じなのである。
 ある対象を「犬」と呼んだとき、それは同時に「猫や狐や狼や羊ではないもの」という規定をともなっている。つまり、ある対象をかくかくの音韻で確定することは、ただちに他の対象と比較する行為なのであり、「それは他の対象ではない」という否定判断を含んでいるのである。
「歩く」は「立つ、座る、走る、止まる」などの否定であり、「美しいもの」は、「美しくないもの」の否定である。「今日、新宿の飲み屋で友人のAと一杯やりました」は、「昨日ではなく今日、渋谷ではなく新宿で、レストランではなく飲み屋で、上役ではなく友人と、またBではなくAと、食事をしたのではなく酒を飲んだ」ということを同時に表している。「そんなことはやめてください」というお願いは、同時に、相手の行為を承認しようとする自分の意志を否定することである。
 このようにして、ある言葉は、それに隣接する他の概念や文意との差異と相互否定の関係によってのみ、一定の意味作用として浮かび上がることになる。私たちは言語行為において、いわばあるものごとをあるものごととして措定しつつ、つねに同時に「それらではなくてこれ」という否定行為をやっているのである。これが「言葉は世界を分節し切り分ける」ということの意味である。
 ところでソシュールは、この切り分けによる分類体系の成立は、文化によって「恣意的」であると考えた。この「恣意的」という概念は次のように誤解されやすいので、ここで糺しておきたい。すなわちその誤解とは、例の動物を「犬」と呼ぼうが「dog」と呼ぼうが「chien」と呼ぼうが、文化によって勝手に決められているというのである。
 そもそもこういう誤解は、言葉そのものが虚構であるという考えを徹底的に突き詰めていないところから来る。この理解(誤解)では、人間の目に映った実在としての「犬」はあくまであの一つの同じ実在であり、「犬」と呼ぼうが「dog」と呼ぼうが「chien」と呼ぼうが、あの同じ実在を指しているということには変わりがないという考え方が前提になっている。日本人であろうと英米人であろうとフランス人であろうと、実在を捉えるその仕方そのものはみな同じだという認識論的な誤謬にもとづいているのだ。要するに素朴な客観性信仰に依存しているのである。
 しかしソシュールが言いたかった「恣意性」とはそういうことではない。虹が文化によって三色に分類されたり七色に分類されたりするように、また、英語では羊と羊肉とをsheepとmuttonのように区別するがフランス語では両方ともmoutonと一語で呼ぶように、対象世界(この場合は物質的実在)を言語によって把握・認識する(分節し、切り分ける)その仕方そのものが、文化によって異なるという意味である。
 この考え方によれば、対象は同じだが対象につける名前がバラバラ(恣意的)であるというのではなく、対象世界を言語によって把握し掬い取る人間主体自身の認識作用それ自体が恣意的であるというのである。このソシュールの言語理解は、我が国の言語学者・時枝誠記の打ち立てた「意味」概念――「意味とは主体の把握作用である」――に深く通ずる。
 もちろん恣意的といっても、それは個人によってバラバラだという意味ではない。それではそもそも一定の共同体内で言語が疎通するはずがない。ここでは一定の言語共同体が蓄積してきた歴史がそれぞれ多様であるということが言われているのである。だから私たちは、ある言葉によってだれにとっても同一な唯一の実在を捉えているのではない。実在の捉え方そのものが、それぞれの言語共同体によって「恣意的」なのである。
 さらに、この「恣意性」という概念にかかわってもっと大事なことは、そういう言葉による認識の恣意性は、自然から追放され自然に向き合って文化を形成してきた人間の普遍的な本性を物語っているということである。
 言い換えると、この場合にも、人間は言葉の世界を生きることにおいて、対象世界をそのまま映しているのではなく、むしろたえず世界を「虚構」しているのである。このことは、対象世界をいわゆる物理的・生物的自然に限らなくても言えることである。たとえば自分自身のある想念や観念、情緒や記憶、イメージといったものをいまあらたに言葉で表現しようとするとき、人は宿命的にそれらを「虚構」(構成作用によって創造)せざるを得ない。先の例にもう一度戻るなら、宵闇の中ではらはらと散りゆく桜に接した体験を、韻文にせよ散文にせよ表現しようとするとき、「あの感じがどうもうまく言い表せない」と悩むなら、そのときあなたは、現実を「虚構する」悩みのさなかにいるのだ。

(この節、続く)


コメント(2)
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2013/06/13 17:18
Commented by 美津島明 さん
こちらに、はじめて投稿します。

「何」を「どのように」書くか、しょっちゅうあれこれと試行錯誤をしている自分としては、今回は、とくにビンビンと響く内容でした。
ものを書くとき、これは私に限らないと思うのですが、「何」を書くかを決めたとしても、それを「どのように」書くかをめぐって、あれこれこまかいことを思いめぐらしながら書き進めます。その「どのように」のプロセスをのろのろとたどるうちに、「ああ、オレはこういうことを考えていたのか」と少なからず驚くことが少なからずあります。いや、正直にいえば、しょっちゅうあります。それは、小浜さんのお言葉を借りれば、自分が「言葉の世界を生きることにおいて、対象世界をそのまま映しているのではなく、むしろたえず世界を「虚構」している」という言語実践のただ中にいる、ということなのでしょう。
その場合、「どのように」書くかをめぐって、あの言葉ではなくこの言葉を、という言葉の無限の取捨選択をしているうちに、書こうと思っていた「何」にあたるものが、実は、当初からはっきりしていたのではなく、次第に創造されていくのだ、ということも、小浜言語虚構説は、含意しているのでしょう。
これは、書き言葉の世界においてのみならず、話し言葉の世界においても起こっている事態であり、また、話し言葉の世界で起こっていることを言語理解の土台におくべきであることもむろん理解できます。
それをふまえつつ思うのですが、書くことをめぐる「何」と「どのように」との間のダイナミックな虚構性の魔力に憑かれた者が、おうおうにして、「書くこと」に深入りし、のめり込んでいくのではないかと思います。
それは、どこか、結婚詐欺師が、騙す相手に「結婚したい」と何度も言っているうちに、本気でそう言っているような気分になり、その気分にのめり込むほどに、詐欺師としての腕を磨くことになるというパラドキシカルな事態に通じるところがあるような気がします。
雑駁な感想ですが、とりあえず投稿してみました。


2013/06/13 23:28
【返信する】

Commented by kohamaitsuo さん
美津島明さんへ
ご投稿ありがとうございます。
わたしが言いたいことを深く理解していただいて、感謝です。
詐欺師が腕を磨くうちに本気になる、というのは、その通りで、言葉には、明らかにそういう魔力があります。言葉は他者を動かすだけでなく、自分をも新しい展開に追い込むのですね。
そこで、「虚構」という言葉の理解にかかわるのですが、つづくくだりで、「虚構」とは、「ウソ八百」と同じではない、「真実」とか、「真理」と呼ばれているものは、じつは、「虚構」であるところの言葉によってこそ作り出されるのだ、ということを論じようと思っています。


倫理の起源4

2013年11月10日 13時33分55秒 | 哲学

倫理の起源4


 すでに述べたように、もともと良心は、ある特定の意志や行為が良心自身に悖るものでないかどうかという疑いや不安のかたちでしか個人の心理のなかに姿をあらわさない。「何か相手に悪いことをしている(した)のではないか」「自分の胸によく聞いてみよ」「自分のあの振る舞いはよい行いだったか」というのが、良心がおのれの姿をあらわす一般の形式であって、主体が何か特定の意志や行為をはたらかせる以前から私たちの積極的な人格の一要素として「良心」というものがあらかじめ存在しているわけではないのである。
 どうしてなのだろうか。
 それは、良心というものが、世代から世代へと受け継がれてきた世間知や生活慣習を体得することによって後天的に培われた「理性」にほかならないからである。道徳的理性(良心)は、自分の機能を発揮するために、おのれに先行する判断材料を必要とする。道徳的理性は、私たちの欲望や衝動や生の必要が意志のかたちをとったとき、それと世間知や生活慣習とをつきあわせて、その意志が妥当なものであるかどうかを勘案する。理性は、いつも欲望や衝動のあとからやってきてそれらを監視する見張り役にすぎない。
 良心は、何かその人の善意志の如何が問われる局面で、「逃げるな」とか「思いとどまれ」とささやきはするが、フロイトの「超自我」がそうでないのと同じように、欲望や衝動のないところでみずから「ああしろ」「こうすべし」という積極的な行為を指示しようとはしない。また人が何かの信念にもとづいて、いわゆる積極的な「善行」に踏み出すとき、良心の関所は、それをただ黙って通過させる。
 そういうことになるのは、私たちが、通常、人と相交わりながら滞りなくやり取りしているかぎりで、すでに「善」のシステムに支えられ、かつそれを支えているからであり、この日常的なやりとりの基盤としての共同性に軋みが入らないかぎり、「悪」は出現しないからである。「悪」の可能性が出現しないかぎり、「良心」もまた心理の内に登場しない。
 その「善」のシステムがいかなる原理のもとに根拠づけられるのかということを自覚的に取り出すのが、本書を貫く最大のテーマであるが、いまこの段階では、以下のことを確認しておくにとどめよう。すなわち、ある習俗のもとにおさまっている共同性の観念は、それが一定の安定性を確保していさえすれば、「善」を「かくかくのもの」として自覚的に打ち出すことをしないのが常である。したがって、それは、ある特定の意志や行動が、共同性自身の精神に背反し、逸脱していると感知される場合にのみ、そのことを「悪」として個別的に摘出するのである。
 このように言ったからといって、誤解しないでほしいのだが、私は、ある特定の共同体に遵奉することがそのままで「善」であると言っているのではない。私がここで論じているのは、道徳的な「悪」と呼ばれている物事が、いついかなるときにおいてもどのようなかたちでその姿をあらわすかという、いわば形式的な本質論であって、それは特定の具体的な意志や行為(たとえば殺人)を直接指し示しているわけではない。だから当然、それらは、特定の共同体がいただく道徳律に背くものという規定を、それがかくかくの意志や行為であるから(たとえば殺人であるから)という理由だけによってはじめから帯びているわけではない。
 殺人も推奨されることがあり得るし、許容されることもあり得る。さしあたり押さえておくべきなのは、いかなる意志や行為であれ、「悪」という現象は、それらの意志や行為に関して、必ず自分の属する共同性からの追放を予感させるような心理現象として私たちの内面にあらわれるという事実である。
 かくかくの行為(たとえば殺人)がそれ自体として問題なのではない。「悪」が必ず、それを意志したり行為した本人の良心の不安・動揺・疚しさといった心理的な現象をともなうか、そうでなければ、同じ共同体に属する他者のとがめをともなってあらわれるという事実こそが、「悪」とは何かを考えるにあたって重要なのである。
 良心の疚しさや他者のとがめがつきまとうということは、「悪」と呼ばれるものが、いつも共同性からの背反という本質をもっていることをあらわしている。というのも、良心の疚しさとは、共同性の精神が自我に送り込んだ見張り役が力を発揮した事態であり、他者のとがめとは、まさしく当人に対する共同体の愛想づかしだからである。
 こうして「悪」とは、共同存在としての人間的条件を剥奪される可能性を秘めた自己個別化の振る舞いなのであり、結局は、共同性からの愛を喪失して孤立することなのである。「悪」をなすから共同体から追放されるのではない。逆である。ある意志や行為が一定の社会条件下では、共同存在としての人間の本分を失うことに結びつくから、それらの意志や行為が「悪」と呼ばれるのである。
 このことは、殺人のような特異例ではなく、むしろ「会っても挨拶もせず横柄な態度をする」とか、「約束を守らないことが多い」とか、「金遣いが荒い」とか、「人の話を聞いていない」とか、「意地悪なことをする」といった、法的にはとがめを受けることのない、日常のちょっとした「悪」を念頭に置いて考えると、もっとわかりやすくなるだろう。これらが繰り返されると、その人は共同性からの愛を差し向けられなくなるのである。
 こう考えてくれば、道徳的な「悪」とは、彼が自分の存在の根拠を置いているところの共同性に反する意志や行為のことであるという定義で十分であることが察しられよう。
 繰り返しになるが、私は、ここでは、特定の共同体のあり方が絶対善であると主張しているのではなく、むしろ反対に、「悪」という概念の中身(どんな具体的な意志や行為が「悪」に値するか)は、特定の共同体のあり方との相対的な関係によって決まると言っているのである。これはさしあたり、道徳に対する相対主義的な立場である。しかし、相対主義に徹するかぎり、道徳を人間存在の普遍的なあり方から根拠づけるという本書の目論見は果たせないであろう。だがこれについては、もっと後で展開する。

 しかし、と別の反論者は言うかもしれない、「悪」とは、それを実現すれば共同性から孤立する危険のある意志や行為である、と定義づけただけでは不十分である。たとえば殺人や強盗や暴行のように、もっと法や道徳が禁じている具体的な内容を含んだものとしてとらえられるべきもののはずではないか。
 この反論に関しては次のように答えよう。
 それは残念ながらできない相談なのである。というのも、いま試みているのは、「悪」という概念の一般的な定義づけである。一般的な定義づけにおいては、その概念が包むすべての外延が本質直観のうちに包摂されていなくてはならない。もし殺人という行為が行為それ自体として「悪」であるなら、すべての戦闘行為は否定されなくてはならなくなるし、また合法化されている殺人、正当防衛や緊急避難、医師の手術による違法性阻却、死刑などは、みな「悪」だということになる。
 そもそもこうした反論が出て来やすいのには、それなりに理由がある。一般の殺人や強盗や暴行は、凶悪犯罪事件として日々私たちの耳目を刺激しているので、「悪」のイメージとの間に親近性があるからである。しかし、先ほど例に挙げたように、「悪」と呼ばれるにふさわしいものには、法に引っかからないものも無数にある。それらもまた「悪」と呼ばれるにふさわしいのであってみれば、それらをすべて含んで、なぜそれらが「悪」と呼ばれるための条件を備えているのかが一般的に解き明かされるのでなくてはならない。
 そこで、法よりも懐の深い「道徳」という概念の範疇で「悪」とは何かを考えるなら、方法は二つしかない。
 ひとつは、私たちの社会で「悪いこと」と思える意志や行為を個別的に片端から数え上げて、だれもが異論を差し挟めないようなかたちで網羅的な体系を示すことである。しかし、そんなことは不可能である。何しろ、殺人でさえ必ずしも「悪」とは呼べない場合があるのだし、また共同体の歴史的社会的な条件しだいで、かつて「悪」であった意志や行為が、かえって「善」であると見なされることもあり、その逆もまたあるのだから(たとえば、身分制の社会では、武士階級の他階級に対する「切り捨てご免」は「悪」ではなかったが、平等な民主主義社会では、一方的な人命の殺傷は許されないことである)。
 そこでもう一つの方法に頼るしかない。それはこれまで試みてきたように、どんな小悪も大悪も、歴史的社会的条件の差異を超えてもれなく「悪」の枠組みにおさまってしまうような、そうした一般的抽象的な「悪」の概念とは何か、それらが「悪」と呼ばれるための基礎的な条件とは何かを、本質的に言い当てることである。
 そして、そのつどその時々の共同性からの排除や孤立化を招くような、個別的な意志や行為こそがまさにそれにあたるのである。なぜなら、こうした個別的な意志や行為に踏み込もうとしたり、踏み込んでしまったときにのみ人は多かれ少なかれ「良心の疚しさ」を覚えるからである。「良心」とはもともと自分が生きてきた共同社会によって個人の内面に培われるものである。
「こんなことをしたらあの人に悪いのではないか」と感じるとき、その相手がたとえひとりであっても、私たちは、その相手の向こうに「世間」や「社会」といった共同性全体の影を見ている。その相手になされるべきでない「こんなこと」は、その相手にのみかかわることであっても、常に同時に「人間」一般に向かってなされるべきでないことという意味を帯びている。
 たとえば借りた金を期日を過ぎても返さないという場合、相手との関係が親密であればあるほど、うっかりしていて返すのを忘れていたというようなことはままある。しかしその場合でも、そのことに気づいたときには、良心の声は、容赦なく迫ってくる。それは、相手との関係の特殊性にかかわらず、「良心」というものが、ある関係行為の参加メンバー双方にとって、「人間」一般としてお互いを見なしあうことを共通の了解としたところに成り立つからである。

 しかし、と第三の反論者は言うであろう。自分が依拠している共同性が、たとえば盗賊団や暴力団、過酷な独裁国家のように、それ自体として「悪」である可能性も排除できないのだから、共同性に対して孤立を招くような意志や行動は、逆に「善」でもありうることになるのではないか。
 これについては、次のように答えよう。
 もちろん、ある共同体が全体として「悪」である可能性はある。しかし、そう判断するのは、次のいずれかの場合である。一つは、判断者が、その共同体の外部にいて別の共同体に依拠している個人群である場合。もう一つは、当の共同体に属しながら、内的な理念のかたちで「よりよい」共同性を思い描きつつ、そのことに依拠して自分の属する共同体に批判的である個人群である場合。
 前者の場合、共同性から孤立しているのではなく、かえってより強力に共同性に依拠しているのである。
 というのも、たとえば「盗賊団」や「暴力団」と外部から名指しされる共同性は、より大きな共同性によって、全体として「悪」と決めつけられているのであり、もしその内部のメンバーが、自分の属する共同性は「盗賊団」や「暴力団」であるという自覚を得た場合には、すでに彼はより大きな外部の共同性のほうに半身を置いていることになるからである。
 また後者の場合、そういうことが可能なのは、既存の共同体がすでにうまく統一的に運営されずに、反対派の存在や分裂・内乱の危機などをあらわにしている場合であって、それこそはその共同体の「善」の精神が解体しつつある状態を示している。しかもこの場合、当の共同体に属しながらそれに対して批判的な個人群は、そのことによって「悪」となされるのではなく、批判的であることを通して、思い描かれた「よりよい共同性」に属していることをあらわしている。
 この状況では、当の共同体の内部で善悪の価値観が多様に相対化され混乱しているのであるから、その共同体はすでに単純な共同体としての生命を失いかけているのであり、そこから背反しようとしている個人は、もはや「悪」のうちにあるのでもなければ、すでに「善」のうちにあるのでもない。彼は、古い共同体からは排除されて「悪」とされるかもしれないが、理念として思い描かれている新しい共同性の設計図の上では、「善」とされる可能性ももっている。彼は、共同性から孤立しているのではなく、反対に、個と共同性との関係を新しく結びつけ編み直す運動の渦中にあるのである。
 したがって、たとえある人がいまよりも「よりよい」共同社会の構想を根底から立てることで当該の共同社会から一時的に孤立させられるとしても、そのことは、彼が「悪」の道にはまっていることにはならないし、共同性一般からの背反を「悪」とする定義を変更する理由とはならない。彼はすでに、彼の思い描く「よりよい」共同社会の一員のうちに自己のアイデンティティを認めているからである。

 ところでまた、次のような反論があり得るかもしれない。
 人間が作り上げる共同態的な関係のありようやその時々の状況によって、何が「善」であり、何が「悪」であるかは変わるのであるから、ある特定の意志や行為自体をそのものとして取り出して、これは「悪」であると決めつけられないということはひとまずそのとおりであろう。しかし、古来、キリスト教におけるモーゼの十誡や、仏教における五戒に代表されるように、殺人、盗み、邪淫、虚言、貪欲などは、おおむねどの伝統的共同体でも「悪」としてきたという共通性が認められる。このことに依拠するなら、「悪」を、同じ共同体に属する他のメンバーの、生命、財産、人格、自由その他、当人が大切にしている価値を理由もなく剥奪しないこと、というように、具体的かつ普遍的に規定できるのではないか。
 この反論は強力に思える。
 なるほどたしかに、十誡や五戒に列挙された「悪」の項目のそれぞれを、私たちは自然に悪いこと、非難されるべきこと、良心のとがめを受けるべきことと感じる。そのかぎりで、これらは人類が共通に抱いてきた、「しないほうがよいこと」の範例を指し示しているといってよいだろう。また、こうした具体的な「悪」の規定は、近代法で「罪」と規定されている行為にもほぼそのまま重なり合っている。
 しかし、十誡や五戒に定められた「悪」の項目は、特にしてはならないこととして、目立つものから順にいわば帰納的に列挙したにすぎないもので、これらをひとつもしなかったからといって、その人が完全に「道徳的な人」になるわけではない。
 たとえば、怯懦、卑屈、冷淡、憎悪、虚勢、暴言、吝嗇、浪費、失礼、侮蔑、裏切り、欺瞞、強引、無責任、陰湿な意地悪、感情に走った激高、などはこの中に含まれていないが、これらもまた、私たちの道徳生活のなかでは、「悪」として位置づけられる。道徳的な感受性は、行為としてはっきりと他者への侵害におよぶようなものではないような、ちょっとした心情のあり方に対しても敏感に目を光らせているのである。
 十誡や五戒にあらわされた「悪」は、宗教的な戒め(ヤハウェ以外の神を信じること、仏法を侮辱することなど)から離れて近代社会の文脈に置き直すなら、法的な犯罪に匹敵するもの、またはそれを喚起するものに限られている。だが、道徳的に「悪」とされるものは、先にも述べたように、法的なそれよりもはるかに広い。つまり、具体的な行為として目立つものから帰納的に「悪」の範囲を限定しようという試みは、いったんそれをはじめるとその外延にかぎりがないことがわかるし、また状況や関係しだいでは、ある感情や意志や行為が「悪」と見なされないことも起こりうる。したがってこの方法では、「悪」の本質に到達することは不可能なのである。
 加えて、具体的に「悪」と思える感情や意志や行為を帰納的に枚挙していくというこの方法では、それらがなぜ「悪」と呼ばれるのか、その原理がはっきりしない。
 もし私が先に形式的に定義づけたように、「悪とは、自分の依拠する共同性に背反する個別的な意志や行為のことである」としておけば、この定義からは、(悪意ある)殺人からタバコのポイ捨てのようなちょっとした行為までが、良心の疚しさを呼び起こすに足る「悪」として輪郭づけられることが容易に理解できよう。



私の憲法草案(その2)

2013年11月10日 13時03分24秒 | 政治
私の憲法草案(その2)


日本国憲法各条項


第一章 国体

第一条(国体) 日本国は、天皇を元首とする立憲君主国である。

第二条(政体) 日本国の政体は、日本国民の代表によって構成される。
2  日本国民の要件は、法律で定める。

第三条(国家主権および国家の責務) 国は、その主権と独立を守り、公の秩序を維持し、かつ国民の生命、財産、その他諸権利を保障しなければならない。


第二章 天皇

第四条(皇位の継承) 皇位は、皇室典範の定めるところにより皇統に属する子孫が継承する。
2  皇室典範の改正は、皇室会議の議を必要とする。

第五条(天皇の国事行為) 天皇は、法律の定める国事行為を行う。

第六条(天皇の任命権) 天皇は、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命する。
2  天皇は、衆参両議院の指名に基づいて両院議長を任命する。
3  天皇は、内閣の指名に基づいて最高裁判所長官を任命する。

第七条(摂政) 摂政を置く時は、摂政は天皇の名で国事行為を行う。

第八条(皇室の財産) 皇室財産の管理運営は、世襲財産を除き国会の議決を必要とする。


第三章 国民の権利および義務

第九条(国民の権利) 国民は、この憲法が保障する自由および権利を有する。
2  国民の自由および権利は、公の秩序のために制限されることがある。
3  公務員の権利は、職務にかかわる法律によって制限されることがある。

第一〇条(外国人の権利) 外国人の権利は、在留制度に基づいて保障される。

第一一条(法の下の平等) 国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分によって差別されない。

第一二条(思想および信教の自由) 国民は、思想および信教の自由を有する。

第一三条(政教分離) 国および地方自治体は、特定宗教を利する活動を行ってはならない。

第一四条(学問の自由)国民は、学問の自由を有する。

第一五条(表現活動の自由)国民は、言論、報道、出版、集会、結社の自由を有する。

第一六条(居住、移転、職業選択の自由) 国民は、居住、移転、職業選択の自由を有する。

第一七条(財産権) 国民は、物的および知的財産権を有する。

第一八条(私生活の権利) 国民は、私生活を侵害されない権利を有する。

第一九条(情報公開の義務)国および地方自治体は、公共の利益に反しないかぎり、その保有する情報を公開する義務を負う。

第二〇条(生命および身体の自由) 国民は、法律の定める手続きによらなければ生命および身体の自由を奪われず、またその他の拘束を科せられない。

第二一条(裁判を受ける権利) 国民は、裁判所において公平な公開裁判を受ける権利を有する。

第二二条(拷問および残虐な刑罰の禁止) 国民は、公務員による拷問および残虐な刑罰を科せられない。

第二三条(一事不再理) 国民は、実行の時に適法であった行為またはすでに無罪とされた行為について、刑事上の責任を問われない。

第二四条(生存権) 国民は、健康で安定した生活を営む権利を有する。

第二五条(教育を受ける権利) 国民は、その能力に応じて教育を受ける権利を有する。

第二六条(勤労の権利) 国民は、勤労の権利を有する。

第二七条(参政権) 公務員の選挙は、成年者による普通選挙とする。
2  何人も、投票の秘密を侵してはならない。

第二八条(請願権) 国民は、国および地方自治体に対し、法律に基づいて請願する権利を有する。

第二九条(国民の義務) 国民は、この憲法および法令を遵守する義務を負う。
2  国民は、納税の義務を負う。
3  国民は、子女に教育を受けさせる義務を負う。


第四章 国会

第三〇条(立法権) 立法権は、国会に属する。
2  国会は、国権の最高機関である。

第三一条(両院制) 国会は、衆議院および参議院の両院で構成する。

第三二条(国会議員の条件) 両院は、国民によって選挙された議員で構成される。

第三三条(衆議院議員の任期) 衆議院議員の任期は、四年とする。ただし衆議院が解散された場合は、その時点で終了する。

第三四条(参議院議員の任期) 参議院議員の任期は、六年とし、三年ごとに議員の半数を改選する。

第三五条(衆議院の選挙) 衆議院は、直接選挙によって選出される議員で組織する。

第三六条(参議院の選挙) 参議院は、直接選挙および間接選挙によって選出される議員で組織する。

第三七条(議員の身分保障) 議員は、法律の定める場合を除き、国会の会期中、逮捕されない。
2  会期前に逮捕された議員は、議員の要求がある時は、会期中釈放される。
3  議員は、院内での演説、討論、表決について、院外で責任を問われない。

第三八条(国会の種類) 国会は、通常国会、臨時国会、特別国会とする。
2  通常国会は、年一回とする。
3  臨時国会は、必要に応じ召集される。
4  特別国会は、衆議院選挙後に召集される。

第三九条(緊急集会) 衆議院が解散された時は、参議院は閉会する。ただし緊急の必要がある時は、内閣が参議院の緊急集会を求めることができる。

第四〇条(定足数および表決) 両院は、総議員の三分の一以上の出席によって議事を開くことができる。
2  両院の議事は、この憲法に特別の定めがある場合を除き、出席議員の過半数で表決し、可否同数の時は議長が決定する。

第四一条(会議の公開、秘密会)両院の会議は公開とする。ただし出席議員の三分の二以上の賛成がある時は秘密会にすることができる。

第四二条(国会の業務) 国会は、次の業務を行う。
 ①法律の審議と議決 ②予算の審議と議決 ③条約の承認 ④重要な人事案件の同意 その他国政に必要とみなされる事項

第四三条(法律の議決) 法律案は、この憲法に特別の定めがある場合を除き、両院で可決した時、法律となる。
2  衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院の出席議員の過半数により再び可決した時は、法律となる。

第四四条(予算の議決) 予算案は、両院で可決した時、予算となる。
2  予算案は、先に衆議院に提出する。
3  予算案は、参議院の議決が衆議院と異なり、両院協議会によっても意見が一致しない時、または参議院が衆議院の可決後三〇日以内に議決しない時は、衆議院の先の議決をもって、予算となる。

第四五条(条約の承認) 条約の承認は、前条一項および三項の規定を準用する。

第四六条(人事案件の同意) 法律で定める公務員の就任は、国会の同意を必要とする。
2  前項の案件は、先に参議院に提出する。

第四七条(国政調査権) 両院は、国政に関する調査を行い、証人の出頭および記録の提出を求めることができる。

第四八条(裁判官の弾劾) 罷免の訴追を受けた裁判官を裁く時は、国会に弾劾裁判所を設ける。

 

第五章 内閣

第四九条(行政権) 行政権は、内閣に属する。

第五〇条(内閣の構成、国会に対する連帯責任) 内閣は、内閣総理大臣および国務大臣で構成する。
2  内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う。

第五一条(内閣総理大臣の指名) 内閣総理大臣は、国会議員の中から指名される。
2  衆議院と参議院が異なる指名をし、両院協議会によっても意見が一致しない時は、衆議院の指名を国会の指名とする。

第五二条(国務大臣の任免) 内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。その過半数は、国会議員の中から選ばれる。
2  内閣総理大臣は、国務大臣を罷免することができる。

第五三条(衆議院の解散権) 内閣総理大臣は、衆議院の解散を決定することができる。

第五四条(内閣の総辞職)内閣は、次の各場合には総辞職しなければならない。
①衆議院で不信任案が可決されるか、信任案が否決され、10日以内に衆議院が解散されない時。
②内閣総理大臣が欠けた時。
③衆議院選挙後に初めて国会の召集があった時。

第五五条(内閣総理大臣の職務) 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務および外交関係について国会に報告する。
2  内閣総理大臣は、行政各部を指揮監督する。

第五六条(軍との関係) 内閣総理大臣は、軍の最高指揮権を持つ。
2  内閣総理大臣は、現に軍籍にある者であってはならない。

第五七条(国務大臣の訴追) 国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ訴追されない。

第五八条(緊急事態) 緊急事態が発生した場合には、内閣総理大臣は、国会の事前または事後の承認のもとに、緊急事態を宣言することができる。
2  緊急事態の認証は、閣議により決定する。


第六章 裁判所

第五九条(司法権) 司法権は、最高裁判所および下級裁判所に属する。

第六〇条(司法権の独立) 何人も、司法権の独立を侵してはならない。

第六一条(裁判官の身分保障) 裁判官は、法律で定めた欠格事由に相当する場合、および弾劾裁判による罷免の場合を除き罷免されない。

第六二条(裁判官の指名、任命、任期) 最高裁判所長官は、内閣が指名し、その他の裁判官は、最高裁判所の指名に基づき内閣が任命する。
2  裁判官の任期は10年とし、再任することができる。

第六三条(終審裁判所) 最高裁判所は、一切の法律、条約、命令、規則、処分の憲法適合性を判断する終審裁判所である。

第六四条(裁判の公開、非公開) 裁判所の審理および判決は、公開の法定で行う。
2  裁判所が裁判官の全員一致で、公の秩序に重大な支障が生じる惧れがあると判断した場合には、審理を非公開とすることができる。


第七章 財政

第六五条(財政の運営) 国の財政は、国会の議決に基づいて運営される。

第六六条(租税法律主義) 新たな課税または現行の租税の変更は、法律によらなければならない。

第六七条(国費の支出および国の債務負担) 国費の支出および国の債務負担については、国会の議決を必要とする。

第六八条(会計検査) 国の収入支出の決算を検査する独立機関として、会計検査院を設置する。
2  会計検査院は、次の年度に検査報告書を国会に提出する。
3  会計検査官は、国会の同意を得て、内閣が任命する。この案件は先に参議院に提出しなければならない。


第八章 補則

第六九条(憲法の最高法規性) この憲法は、国の最高法規であり、これに反する法律、条約、命令、規則、処分は、効力を有しない。

第七〇条(憲法の改正) この憲法の改正は、各議院の総員の過半数の賛成により発議され、国民投票において、有効投票の六割の賛成によって成立する。
2  前項の成立の後、天皇は、直ちにこれを公布する。


   
                                        以上
コメント(4)
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2013/06/15 13:32

Commented by miyazatotatsush さん
 遅ればせのコメントで失礼いたします。
 実を言えば、私も現憲法の大上段からの改正に、最近、消極的になっております。
というのも、もう十数年来、世論調査では改憲派が多数を占めている筈だったのに、今回、その入り口に過ぎない改正事項緩和の96条の改正ですら、「橋本発言」などという、改憲問題とまったく関係ない、いわゆる「従軍慰安婦」問題絡みで、世論はナーバスとなり、改憲支持が少数となるのが現状だからです。このような状況を見ると、いったいいつになったら、現憲法の全面改正ができるのやらと、百年河清を待つ思いがします。
 それならば、もっと簡単な方法での「改憲」を考えたほうがよいのではと思えてきます。
 たとえば、国会議決などで、現憲法は日本国が主権を喪失している占領下に制定されたものであることを確認し、しかし、その条項の多くは国民の権利として、判例を通して定着している。とはいえ、十七条憲法以来の日本国の憲法典の伝統にそぐわない日本国憲法前文には積極的意味を見いださない。また、非常事態に国家主権を縛る条項は有効性を持たないと宣言し、代わりに十七条憲法以来、明治天皇の憲法発布の詔勅などなどを日本国憲法典の理念として掲げ、非常事態に備える戒厳法令を制定し、自衛隊法に代わる国防軍法などを制定する方式が良いのではと、素人考えですが最近は思います。
 このことと関連し、チャンネル桜の討論会で、佐瀬昌盛さんが強調していた「国民の憲法」という発想に、私はあまり積極的意味を感じません。佐瀬さんの識見には、いろいろ教わり、とても尊敬しているのですが、この場合、「国民」とはどうしても、現に存在する「民意」の多数派という俗論に結託すると思うからです。歴史の古い国は、一時的な「民意」では動かされない根本の精神があると考えます。
 とはいえ、今の憲法下では国家の体をなさないのは事実なので、これを変えてゆく工夫は必要だと思いますし、さまざまな憲法論議から今の日本の問題点を浮き彫りにしていくことは意義あることだと感じております。そういう視点から、この自分の感想は、我ながら少し消極的過ぎるかとも思い、コメントをためらい遅くなりました。
拙い感想にご容赦を願いあげます。


2013/06/15 16:01
【返信する】

Commented by kohamaitsuo さん
miyazatotatsushさんへ
詳しいコメント、ありがとうございます。
ごもっとも、と思います。一気に改正なんて、できるわけがないし、かといって、少しずつ徐々に、というのもまさに「百年河清を俟つ」ですね。
貴兄の言われる「国会議決」もなかなか難しいのでは?
いちばんプラクティカルに考えて、9条2項を削除するくらいなら可能なのではないか、と愚考します。それにしても96条の改正が必要になりますよね。だから、憲法より先に解釈の可能な限りで自衛隊法の改正に踏み込む方がいいのかもしれません。
佐瀬さんの発想に関する貴兄のご指摘、とても貴重に思います。そして、「一時的な『民意』では動かされない根本の精神」があるからこそ、逆にその精神の思想的な表現を「自主憲法」というかたちで示していく必要があると考えます。


2013/08/08 13:51

Commented by hasimoto214take さん
不躾な書き方で申し訳ないが,
この案では内閣総理大臣は国務大臣に含まれましょうか.

現憲法では総理大臣も国務大臣であるという解釈が
一般的であるという. しかし, それなら自分で自分を
任命するとも読めるのであって極めて曖昧だ.
この解釈の下, 脱税犯の首相が, 自分で自分の追訴を
認めなければ逮捕されないという, まことにルーピーな
状況にあった記憶がある.


2013/08/10 17:04
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Commented by kohamaitsuo さん
hasimoto214takeさん
貴重なコメント、ありがとうございます。
確かに現行憲法66条では、「内閣総理大臣及びその他の国務大臣」とあり、総理大臣が国務大臣でもあるような、そうでもないような両様の解釈が成り立つ余地がありますね。私もそこまで気づかず、そのまま踏襲して自分の案を書きました。そこで私案の五〇条からあいまいさを除くために、「その他の」を削除することにいたします。




私の憲法草案(その1)

2013年11月10日 12時57分28秒 | 政治

私の憲法草案(その1)


いまだ書かれざる前文のための前文

 去る4月26日、産経新聞が「国民の憲法」要綱を発表しました。
憲法改正気運が一定の盛り上がりを見せている中で、私はこれにたいへん刺激を受けました。この起草に当たった方たちの熱意と努力には労いの気持ちを表するのにやぶさかではありません。しかしいっぽうでは、一素人のまことに生意気な言い分ですが、この要綱は、基本的なところで「憲法」あるいは「近代法」というものが何であるかがまるでわかっていないなあ、という感想を持ちました。
 折から、この要綱をもとにした、5月18日のチャンネル桜の番組「討論・倒論・闘論」で、起草者の方たちと法の専門家たちとの長時間にわたる議論を聴き、私の漠然とした感想が、まんざら間違ってもいないなという感を強くしました。
 出席者は以下の方々です。
  大塚拓(衆議院議員・自由民主党)
  倉山満(憲政史家)
  小堀桂一郎(東京大学名誉教授)
  佐瀬昌盛(防衛大学名誉教授)
  百地章(日本大学教授)
  八木秀次(高崎経済大学教授)
  山田宏(衆議院議員・日本維新の会)
  司会・水島総
http://chsakuramatome.seesaa.net/article/361845646.html

 このなかで、佐瀬さんと百地さんが起草者のメンバーです。これに対して小堀さん、倉山さんは、かなり対立的な立場から言論を張っていて、私はどちらかといえば後者のほうに共感を感じたのですが、起草する以上はなるべく現実的なものに仕上げようとする百地さんの配慮に敬服したのも事実です。
 しかしここでは、この番組の出席者についての細かい論評は差し控えます。代わりに、全体を通じて私が感じたことを、その前に思っていたことと合わせて簡単にまとめてみます。
①憲法(統治のための基本的なきまり)は、時代を下るごとに条文の数と文章量が増えて、やたら細かくなってきています。じっさいに条文の内容を見ると、モノによってはほとんど実定法の領域にまで踏み込んでしまっています。これは、時代の多様化した要請に押し流されているために憲法というものの本質を見失っている証拠ではないでしょうか。
 参考までに。十七条憲法は17条。御成敗式目は51条、武家諸法度および禁中ならびに公家諸法度は計36条、帝国憲法は76条、日本国憲法は103条、そして産経版「国民の憲法」は117条。
②産経版「国民の憲法」は、「独立自存の道義国家」という基本理念を打ち出していますが、人間の内面に踏み込んで方向づけを強いるような「道義」を主軸に置くことは、近代法の精神とまったく合いません。たとえば「家族の尊重」という項目を盛り込んでいますが、これは、いわば帝国憲法から見ても退歩であって、まして今の国民の普遍的な同意を得られるはずがありません。家族の解体を恐れる旧世代保守主義者たちの危機意識が露出したものでしょうが、もともとこういう問題は、必要と感じた者が日々のしつけや教育などを通じて保守していけばよい話です。
③チャンネル桜の番組での議論の「空気」は、現実主義と理想主義との対立という枠組みで進んでいました。つまり、佐瀬さんや百地さんのように、実際に起草にかかわった人たちは、理想はわかるが実用に耐えるものにするために、今の国民意識の平均的な部分をたえず気にかけなくてはならない、これはとりあえずの提案なので、自分たちもけっして完璧とは思っていないから、これから一歩一歩理想に近づけていけばよい、というのですね。 この③の論点がとても重要です。いかにも説得力のある主張のように思えますが、私は、これは違うと思います。理想と現実という対立項を、時間軸に転嫁して、「いつかは」と考えることは、まったくの幻想です。「一歩一歩」などという論理は永遠に実現しないでしょう。
 そもそも「憲法」の言葉を新しく紡ぎだそうという動機には、二つの側面があります。一つは、現行憲法が解釈による運用では限界に達しているので、少しでも時代に合わせるために「改正」しようという現実的な動機です。もう一つは、GHQによるあんな一時的な押しつけ憲法は、日本の伝統的な国民性とはまったく乖離しているので、思想言語、哲学言語としての自主憲法を編み出さなくてはならないという思想的な動機です。
 ところで、もし前者の動機にシフトしようと思うなら、産経版「国民の憲法」などを苦労して編み出す必要はほとんどないのです。いま一番問題になっているのは、主として日本の安全保障環境が危機状態にあるから何とかしなければという切迫感ですね。要するに9条です。
 自衛隊が正規軍隊として認められていないために、他国の侵害を受けてもきちんと安全保障を確保できない状態が現に存在している。軍をもたないなどという規定は国際的に見て非常識以外のなにものでもない。そのためにはまず憲法を改正して、という話になるのですが、私は、この実践的な問題をクリアーするためにわざわざ憲法の大改革を目論む必要などない、と思っています。時々の政治問題は、なるべく早く解決すべきなのですから、最小の努力で迅速に所期の成果が得られるように行動するのが良い。
 具体的に言うなら、9条2項(「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」)を削除するだけで済む話です。「国防」という新たな章を設けて「軍を保持する」などとわざわざ憲法で謳う必要はまったくありません。謳わないことによって、かえって軍の存在は自明なものとして承認されることになるわけです。また、これなら国民のコンセンサスを得やすいですし、同時に、自衛隊法の改正も根拠づけられます。別に憲法に根拠づけられなくても、実定法のレベルでどんどんやってしまえばいいのですが、まあ、「知らなうちに」とか騒ぎ出す連中がいますからね。一応、現憲法からの2項削除というかたちでのダメ押しは必要かな、と。
 ここで産経版について感じることを言いますと、こういうことを一生懸命やる人たちは、いま、こういう問題があるからそれに対してできるだけポジティヴに発言しなくてはならない、という過剰な切迫感に駆り立てられているような気がします。気持ちはよくわかります。けれども、発言は必要最小限にしておいて、「うまく黙る」という方がいいこともあるのです。「削除」も立派な言語行為です。「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」を削るだけで、自衛隊はちゃんと「軍」としての根拠を与えられるではありませんか。
 もし「国防」という章をわざわざ設けるなら、それと併行して「外交」とか「防災」とか「国民経済」とか「社会福祉」とか「教育」などという章も設けなくてはバランスを欠くでしょう。そうするとますます煩雑なものになっていきますね。
 さて、後者の思想的な動機ですが、これは、「一歩一歩踏み固めていって」あとに延ばすというような悠長な問題ではありません。やるならいま、まさに日本の言葉で、日本国のアイデンティティをしっかり固めるという確固とした動機にもとづいて構築すべきです。これは、とりあえずのプラグマティックな必要とは別で、さしあたり使えなくてもかまわないのです。福澤諭吉が説いていたように、「政事」は応急手当、「学問」は百年の計としての日頃の養生、両者はその守備領域がもともと異なるというわけです。思想言語としての自主憲法案づくりは、法的・思想的な言語技術に優れた人たちがぜひ使命感と熱意をもって挑んでいただきたい課題です。これをやっておかないと、あとあと相当なツケが回ってきそうな気がします。
 ですから、この二つの側面を同時に一つの言語で果たそうなどと欲張りなことを考えずに、政治的な対応としては、必要最小限の改正で済ませ、いっぽうで、思想言語としての「憲法」は、現行憲法とはまったく異なる新しい構成によるもの(帝国憲法の改正というかたちでもいいと思います)を、専門家、思想家がいま提示する。こうした同時進行が要請されているので、前者からだんだん後者へ、とか、後者をただちに実用可能なものとして構想するなどと考える必要はありません。
 私もできればお役にたちたいのですが、法的な言語の創造には相当の専門的な力量が必要とされるため、はっきり言ってビビッています。さしあたり私にできることを試みます。ゼロからやれ、と言われると、正直かなり厳しい。たまたま産経版があるので、失礼ながらこれを踏み台にしつつ、「私の憲法草案」を提示します。とりあえず産経版の文言で利用できるところはそのまま踏襲しながら、構成としてはズタズタにしたものです。
 産経版があることにはとても感謝しますが、これはしょせん現行憲法の「改正版」であり、妥協の産物です。そうではない仕方で、思想言語としての「憲法」を自分なりに示したいと思います。たった一晩で考えた代物ですので、いくらでもボロの可能性があります。まな板で存分にたたいていただければ本望です。
 なお、「前文」については、産経版ではダメだと思っていますが、代案はまだ出せません。これをしっかり考えようとするととても大変です。私は「前文」ってなくてはならないのかなあ、と迷いますし(まあ、草案を提示する以上はあったほうがいいのでしょうね)、そもそも憲法って、必要なのかなとさえ思っています。皇室がしっかりしていて、実定法が整っており、国民の間に基本的な人倫の習慣が根付いていれば、別に絶対必要と考えることもないのじゃないか。ご承知のように、イギリスには憲法がありません。でも何とかやっています。「よき慣習」の力でしょうね。
 さて、草案を提示する前に、「憲法」というものに対する私なりの基本的な考えを述べておきます。
①そもそも憲法とは何か。欧米語の「constitution」は、「構成」という意味ですが、この言葉にはまた、「体質」とか「気質」といったニュアンスがあります。この面から言えば、ある国の「国柄」を表現したものということになり、この点で産経版の基本の構えには同意します。
 また日本語の「憲法」という言葉には、「公平であること、公正であること」という意味があります。両者を合わせ考えると、「国家共同体の国柄を、イデオロギー的な偏りを排して公正に表現したもの」となりましょうか。
②すでに述べたように、憲法は実定法ではなく、実定法を整備していくにあたっての基本的な指針ですから、なるべく簡素を旨とすべし、です。先ほどのテレビ番組でも、十七条の三倍くらいでよい、という意見が出ていましたが、私も賛成です。細かいところに踏み込むことをあえて避け、抽象性を担保しておくことによって、かえって、あらゆる社会問題を包括でき、しかも条文をタテにとった悪用・濫用を避けることができます。世の中には、私的な争い、公権力への身勝手な異議申し立てなどに、すぐ憲法を葵の印籠のように持ち出す向きが後を絶たないようですが、そういうことは法律のレベルでやるべきことです。憲法はルール細目ではないのです。
 憲法が忙しく駆り出されることがないように、その条文は一定の抽象レベルを保つべきであって、またその方が時間に耐えるものができるはずです。細かく書き込めば書き込むほど、すぐに時代に合わなくなり、その権威が軽いものとなってしまいます。また、簡素にすることによって、重複や不整合を避けることができます。現行憲法は、特に権利規定の部分などにとても重複が多いですね。
③以上のことは、同時に、憲法起草に当たっての二つの禁じ手を要求することになります。ひとつは、多様な国民の諸欲望の実現のためにみだりに利用されてはならない。もう一つは、人間の内面を誘導するものとしての特定の「道徳」的な規範を盛り込んではならない。 ちなみに、産経版が「家族の尊重」を謳っているのと同じように、しかし逆の意味で、現行憲法が「個人の尊重」(13条)とか、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて」とか「両性の本質的平等」(いずれも24条)などと謳っているのも、人間の内面や私的生活への道徳的な介入であり、くだらない規定です。
④日本は立憲君主制国家ですが、この場合、「君主制」の部分は、歴史や伝統をいまに生かすもの、いま国民として生きている私たちの実存に過去からのつながりとしての自覚を与えるものです。しかし、近代社会はその構造を複雑多様に分化させており、残念ながら過去からのつながりを自覚しただけでは社会秩序そのものが立ちいきません。
 そこで「立憲制」が必要とされるのですが、いわば立憲制は、君主制(代々の王の人格や意志や行為を国柄の中心と考える)の限界を補完するものにほかなりません。いつも一人の名君によってうまく治まる保証はどこにもありませんし、それは実際無理なことです。多くの政治的にすぐれた人々による統治機構がどうしても必要になります。王はただ国家の権威の象徴として存在し、実権をもってはならない。立憲君主国においては、「君臨すれども統治せず」の原則が貫かれなければならないゆえんです。事実、日本は近代に限らず、長い歴史の中で、「憲法」のない時代でもほとんどずっとそうしてきましたね。
 ですから、「憲法をちゃんと決めなければならぬ!」という思いは、近代社会の複雑さ、多様さに対する国家の危機意識の表現なのであって、もし伝統的権威や慣習や、それにもとづく実定法に従うだけで国がやっていけるなら、それに越したことはないのです。それがそうもいかないので、補完物としての憲法が必要になる、ということでしょう。
⑤「憲法は国家権力への縛りである」という説がこれまでリベラリストを中心に幅を利かせてきましたが、この説は、憲法の一機能を説いたものにすぎません。これはマグナ・カルタに始まる西欧の憲政史上の事実を絶対視するところから出てきた説で、日本には日本独自の憲法観があってよいし、また欧米でさえ、こんな一方的な憲法観によって憲法が編まれているわけではありません。
 憲法とは、国民に福利と安寧をもたらすための国家統治の基本的な構えを謳ったものですから、公共精神がその根幹にあります。そうである以上、国民の権利を最大限認めつつ、同時に国民に一定の義務と責任を自覚させるためのものでもあります。それは、国家機構の仕組みを明らかにするとともに、自分たちはどういう国の民であるか、何ができ、何はできないかという疑問に対して、基本的なイメージを与える機能を持ちます。
⑥現在、憲法を考えるとき、「主権」をどこ(誰)に置くかという点が真っ先に取り上げられるのが習いです。もちろん、帝国憲法の主権者は天皇、戦後憲法の主権者は国民ということになっています。当然、どの改正案でも、主権者を「国民」とすることは、最重要な規定であり、しかも自明のこととして通用しているようです。
 しかし、私はこれを疑います。もともとこの「主権(sovereign)」という言葉は、ヨーロッパの国王が自らを統治者として正当づけるために用いた言葉で、それが近代になって王権の実質的な崩壊とともに、では誰が統治の主体なのかという問いが持ち上がり、とりあえず「国民」という茫洋たるフィクションにその役割を託したわけです。けれども国民が国民をみずから支配統治する、というのは、どう考えてもロジックとしておかしいですね。現実に平凡な国民の一人ひとりが国家体制の運営主体として自分たち自身を支配・統治するなどということがどこかで行われたためしがありますか。
 日本には、こんな概念はもともとありませんでした。いまの人たちはほとんど、日本は民主主義国家なのだから主権在民は当たり前だ、と思って何の疑いも抱かないようですが、外来のこの言葉が、近代日本の国家機構の仕組みを説明するために本当に不可欠かどうか、少し疑ってみてはどうでしょうか。こんな言葉を用いなくても、現在の国家体制(選挙によって選ばれたメンバーによる代議政治、三権分立の仕組み、国民の諸権利の保障など)を少しも変えずに合理的に説明することは可能です。
 第一、自民党案も産経版も、天皇を「元首」としながら、いっぽうで「主権は国民」と謳うのはおかしいではありませんか。「元首」もsovereignですよ。
「国民主権」を謳わないと、専制権力のほしいままを許すのではないかという過剰な恐れがあるようですが、そういう恐れを払拭するためにこんなアクロバティックな論理を用いる必要はまったくありません。二つのことを謳っておけば済む話です。
 ひとつは、現実の統治権は国民によって選ばれた代表者が握り、代表者は常に国民の福利と安寧のために尽くす義務と責任があるということ。もう一つは、国民にはこれこれの権利があり、それは侵されてはならないということ。
 よい国家とは、民に支持されたすぐれた統治者による、民のための政治が行われる国家であって、民はその恵沢を享受する権利があるのです。「国民」という抽象語に統治権、支配権を託すなどというわけのわからぬフィクションは、冗談としか思えません。
 そこで、以下に提示する草案では、国政にかかわるかぎりでの「主権」という言葉をいっさい用いませんでした。ただし、国際関係の場では、一国はあたかも社会のなかの「個人」のような位置にありますから、個人が自分の生を自己管理しなくてはならないのと同じように、他者(他国)との関係において、「国家主権」という概念を用いる必要があるのは当然です。
⑦「国体」という言葉は、まさにその国の国柄、国家体制のあり方を表わす言葉ですが、戦前の国家体制に対するアレルギーから、すっかり使われなくなってしまいました。しかし、アレルギーから自由になってよく冷静に考えてみましょう。この言葉は、憲法のなかで、日本がどういう国なのかということを端的に説明するために、まことに簡潔で便利、しかも格調のあるふさわしい言葉ではないか。
 これまで、「国柄」というソフトな言葉を用いてきましたが、じつはこの言葉は、外国の文化風習などについて話す時に「お国柄ですね」というように、気安く使われるところがあります。それだけ含むところが広すぎて概念として曖昧なので、憲法の用語としてはふさわしくないと思います。産経版でも反発を恐れて「国柄」としていますが、これは遠慮見え見えですね(まあ、それは仕方がないでしょう)。
 しかし、すぐに実用性を顧慮する必要のない思想言語としての憲法を考えるかぎり、堂々と「国体」という言葉を用いるべきだと私は考えます。日本国の国家体制は何であるかということを何よりも先んじて明瞭に規定する必要があるからです。constitutionが「体質」を意味するという点にも合致しますね。このことは、これから先、誰が新憲法を構想する場合においても変わらないでしょう。ヘンな連想ゲームはもうやめましょう。
 ちなみに、GHQ占領統治下の日本は、皇室は維持されたものの、実質的な統治権を喪失したのですから、国体はいったん壊れたのです。当時「国体は護持された」などと担ぎまわった人たちが権力の中枢部にいたようですが、負け惜しみであり、欺瞞です。
⑧産経版で新たに付け加えられた、衆議院に対する参議院の独自性、部分的な優越の規定は、とてもよいと思います。私案でもそのまま踏襲します。貴族院を復活させるわけにもいかず、さりとて今のままの参議院がいいとも言えず、一院制は衆愚政治への最短距離なのでとんでもない。これも頭の痛い問題なのですね。産経版は、そのあたりよく工夫されているようです。
 ただし、参議院に行政監視院を新設するというアイデアに関しては、国会議員の国政調査権や、会計検査院の業務と相当かぶることが予想され、役割分担の調整が困難です。いまのところペンディングとしたいと思います。
⑨現行憲法は、あわただしく作られたせいもあってか、叙述の順序がおかしかったり、この章に収めるべきだと思われる条項が他のところに入っていたりする混乱が目立ちます。産経版は、この点に対する配慮を施した形跡がありません。自主憲法ではなく、現行憲法の「改正」という枠にこだわりすぎたのでしょう。おまけに法律で書けばいいものをやたら書き込んで、混乱をいっそう助長している印象があります。たとえば、「第十一章 緊急事態」の規定は、一一四条の一部を除いて、他はすべて法律(緊急事態法)で謳えばよい話で、しかもこの一部は、一章を設けずに、「内閣」の章に組み入れれば十分です。
⑩現行憲法96条の改正が話題となっていますが、これを提起した自民党は、反発が強いとみるや、7月の参院選を考えて引っ込み思案になっているようです。政党としてのその気持ちもわかりますが、もしこれを争点として打ち出すなら(私は打ち出すべきだと思いますが)、たとえば発議要件としての「総議員の三分の二以上」を「過半数」に緩和するという提案はそのまま通し、改正要件としては「国民投票において六割以上の賛成を要する」としてはどうでしょうか。これなら通りやすいのではありませんか。ほかにもいろいろアイデアは考えられるでしょう。
⑪小さなことですが、現行憲法およびこのたびの産経版には、「何々は、法律でこれを定める」という条文が多すぎます。そんなことは当たり前なので、ほとんどの場合、要らぬ贅語です。憲法の最高法規性を謳っておけば、それ以外に何も言う必要はありません。

 最後に感想として、現行憲法が、その思想、文体、煩雑さ、記述順序の混乱、同一内容の重複、不整合など、いかにお粗末な代物であるかということを再確認しました。正直なところ、今回この試みをやってみるまでは、その事実を実感していませんでした。私個人にとっては、一つの収穫だったと思っています。

 では次に、私の憲法草案を提示します。



日本語を哲学する4

2013年11月10日 12時49分28秒 | 哲学
日本語を哲学する4


 言葉の本源は音声であるという命題の第三の意味は、次のようなことである。
 空間と時間をへだてて言葉を伝えあうために、文字、印刷術、コンピュータなど、どんな高度な技術やスキルや視覚的な記号が発達しようと、音声によって「話す―聞く」というプロセスを前提することなしには、いかなる言語も言語として実現しない(ただし完全な手話によるコミュニケーションと先天的な聾者の書記言語理解を除く。これらについては後述)。
 いまあなたがスマートフォンの画面を見て、保留してあった彼女からのメッセージを呼び出し、それを無言のうちに読むとする。彼女のメッセージは文字や絵文字であるから、あなたがそれらの記号を理解するプロセスには、一見音声などを必要としていないように思える。しかし、これもそうではない。
 それらを読んで意味理解しているプロセスにおいてあなたは、じつは、自分のなかの〈他者〉の音声を、観念的に「聞いて」いるのである。この、自分のなかの〈他者〉は、自我の成立にとって不可欠な構造としてすでに組み込まれている。それは、話し手が目の前にいなくても、書かれた文字を観念的な音声として聞くことを可能にする、いわば関係存在としての人間の、基本的な構えの一つである。ゆえに、黙読とは人の話を観念的に聞くことであり、観念的に音読することであり、人の発話行為を自分に向かって再演することなのである。
 以上のことは「読む」という経験によく照らして考えてみれば、たちどころに納得されよう。
 絵文字、たとえば笑い顔やハートマークを見て、その意味を理解するのは、音声ではないのではないかと言われるかもしれない。しかし、笑い顔やハートマークは一般の文字による概念をいっそう凝縮させた、より高度な記号であるにすぎない。あなたはそれらを見て、一瞬のうちに「笑っている」とか「心を込めて」などの言語概念として理解し、そこから、彼女の言葉の「調子、雰囲気、こころばえ」といったものを受け取るのである。
 なおまた、文字を読む行為において、人は「自分のなかの〈他者〉の音声を、観念的に『聞いて』いるのである」と述べたが、これによってあなたは、「そう、私は彼女の声を聞いているのだ。だって彼女の顔がありありと浮かんでくるし、とても会いたくなるから」という実感にもとづく納得の仕方をするかもしれない。
 しかし、厳密に言えば、この「自分のなかの〈他者〉の音声」というのは、残念ながら、「彼女」という特定の〈他者〉の音声を意味しているわけではない。言語行為一般としての「読む」行為においては、そこで聞かれる〈他者〉とは、とりあえず、あくまで無人称の他者一般なのである。言い換えると言語行為の完成にとって不可欠の一過程をなす概念理解そのもの、つまり言語表現の「内部」自体には、特定の話者にかかわる像、思い出、連想、感情などを直接的に喚起する力はない。
 ではこの力はどこから生まれてくるかと言えば、それは、聞かれた言語そのものと、聞き手がこれまでの経験を通じて獲得してきた生活感覚(当の言葉の「外部」)との「関係」から生まれてくるのである。彼女からのメールにある文字や記号から彼女の像や「会いたい」という欲求が喚起されるのは、あなたが「彼女」とすでに交流しており、「彼女」という人間の身体像やキャラクターをすでに知っているからこそである。
 こうした区別・分節の仕方は、細部にこだわった教条主義的な見解と思われるかもしれない。しかし、この区別・分節をしておかないと、外的な現象としてはまったく同じ文字表現であっても(たとえば、「明日、7時にいつものところで会いましょう」)、受け手、時、状況などによってある具体的で大きな意味や価値を持つ場合(彼にとっての彼女からの発信の場合)と、ほとんど何の意味も価値も持たない場合(CMか何かで同じ文句を見た場合)との違いを説明できなくなる。なぜなら、形式としての文字表現自体に、像や感情などを喚起する力が備わっているなら、形式からどんな像や感情が引き出せるかは、一義的に決定づけられるはずだからである。だが事実はこれとまったく違っていて、像や感情の喚起は言葉の受けてによってまさに多様である。
 もっと言えば、まったく同じ文字表現であって(たとえば、「明日、7時にいつものところで会いましょう」)、その受け手が同じであっても、受け手と相手との関係がどうであるかによって、そこから喚起される像や感情などは著しく違ってくる。この同じ文字表現が、「彼女」からのものであるか、「友人」からのものであるかによって、受け手である彼の中に喚起される思いは、まったく別のものになり得るだろう。これは何を示しているかと言うと、形式的な言語表現そのもののなかには、それと一義的に結びつくような「像」や「感情」の喚起力が内在しているわけではないということである。逆に言えば、受け手の主体的な受け取り方いかんによって、言葉はいくらでも変容し、多様になり得るのであって、その受け取り方を決定づける条件には、言語の形式性をはるかに超えた、受け手主体の経験の歴史が関与せざるを得ないのである。
 また、純論理的・抽象的な言語命題、たとえば「1足す1は2である」といった命題そのもののなかに、もともと何らか具体的な像を喚起する力が直接宿っていると考える人はいないであろう。これを聴いてジャガイモの数を数える光景を思い出す人は、みずからの生活経験をそこに結びつけているのである。別の人は、おはじきを思い出すかもしれないし、自分の兄弟姉妹を思い出すかもしれない。
 数学者や哲学者は、こういう命題が具体的な経験とは別に、あるいは経験に先立つもの(ア・プリオリ)として存在すると思いたがるが、順序はあくまで逆なのである。具体的な生活経験上での「分けること」や「集めること」などがまずあり、それらを言語という抽象性の網に掬い取ることによって初めて「1足す1は2である」という「真理命題」を獲得するのである。「真理命題」ははじめからあったのではなく、諸経験の共通性に気づいた人間が(人間のみが「共通性」という把握をなしうる)、その気づきを音声として表出する行為を通じて、「真理」が発生するのである。
「真理」の対義語は「誤謬」だが、この区別は、言葉のなかにしかあり得ない。言葉をもつ人間のみがこの区別を好んでしたがるので、言葉をもたない動物にとっては、こんな区別は意味がない。

 さて「言葉の本源は音声である」という命題が含む意味の第四は、文字を読んでいるとき、読めない漢字などがあるといちじるしく理解が妨げられるという現象が、何を説明しているかにかかわっている。
 誰もが経験しているだろうが、読めない漢字、発音しにくいスペルなどに出会うと、私たちはたちまち壁に突き当たって、わからないことにイライラする。このことは、私たちの内面に語りかけてくる「書き手」の声(とりあえず抽象的・観念的な声)が聞えなくなったことと同じであり、時間に沿った一連の言語行為が頓挫することを意味している。
 読みがわかっても、その言葉を知らなければ意味がわからないのはたしかである。しかし、音声としてその言葉に出会い、意味を理解していて、自分でもその言葉を使った経験があれば、読み下しが可能になることで即座に正確な理解が得られるだろう。
 たとえば「読めない漢字などがあるといちじるしく理解が妨げられる」という文で、「妨げられる」という文字を「ふせげられる」と間違って読んだりすれば、まったく文意が通らなくなる。このことは、私たちがまさに日常の音声交流によって言語理解を実現させてきた歴史を物語るものである。人類史という面でみれば原始時代からそうであったし、個体発生史という面でみれば、幼少のころからそうであった。
 もし音声交流による意思疎通の歴史がなかったら、そもそもある共同体での言語の体系が成立しえない。ある共同体での言語の体系が成立していなければ、先天的な聾者も「手話」という、より高次の言語体系の助けを借りることが不可能であったろう。
 なおこの手話および聾者の書記言語理解の問題は、こう断定しただけでは誤解されやすく、また先述した思想と言語との関係というたいへん重要な問題に触れてくるので、後にもう一度詳しく言及したいと思う(4節)。

 最後に、「言葉の本源は音声である」という命題は、次のことを意味している。
 現実の音声交流において、発話者は前言語的な趣、意、情緒、世界把握の仕方といったものを、音声というなまなましい肉体的な表出(高低、強弱、長短、声調、抑揚、用語の選択、統辞の仕方などを含む)のうちにすべて込め、受け取るほうはそれらのすべてをなるべく発話者の表出どおりに受け取って状況を共有しようとする。この生きた「共有ゲーム」の現場こそが、言葉の本来のいのちが息づく場所なのである。


こんな無意味・有害なことやめろ(3)

2013年11月10日 12時45分40秒 | 社会評論

こんな無意味・有害なことやめろ(3)



公立高校での英語による英語授業



 今年度から、文科省の新学習指導要領にのっとり、公立高校での英語授業をオール・イングリッシュで行うことになったそうです。
 この問題は、すでに2008年くらいからその是非が論じられてきたようですが、議論生煮えのまま、ついに実施に踏み切ったというわけです。
 議論参加者たちの言い分をいくつか読んでみましたが、総じて、賛同派も反対派も慎重派も、それぞれにもっともな部分はあるものの、ことの本質がいまいち見えていないように思われます。もとより私はこんなアイデアに大反対なので、このアイデアの無意味・有害さがどこにあるかを「本質的に」指摘することになります。
 議論参加者は、英語教育に多少ともかかわりのある人が多い。そうすると、どうしても議論の基本の枠組みそのものが、これまでの日本の英語教育の「使い物にならなさ」をどうするかという方向に大きく規定されてしまいます。たしかに日本の英語公教育は、6年から8年やっても、国際舞台でほとんど使い物にならないという事実は、これまで何度も指摘されてきました。しかし、この問題を英語教育をどうすべきかという方法論的な方向性で考えることそのものが、本質を見えなくさせている元なのです。
 たとえばある人は、受験英語で文法知識などに偏った教育が行われてきたので、使い物にならなかった、だから日常的に使われる英語や英語文化に親しませることが重要なのだ、英語文化圏以外の諸外国でも、英語で授業をすることは今日当たり前になっていると言います。(1)
 別の人は、いやいや、きちんとした文法知識を身につけてこそ応用が利くのだから、いい加減な会話重視などに走って文法をおろそかにすることは、かえって本当の実力を身につけることにならないと言います。(2)
 また別の人は、こうした教育方法の二元論に対して、そもそも公立校のごく限られた時間数で英語を使いこなせるようになると考える方がどうかしているので、そんなことを期待すること自体が虚しいのだと言います。(3)
 またまた別の人は、いったい、いまの日本人英語教師の中で、英語によるコミュニケーションが自在にできる人がどれだけいるというのか、まして、日本語でさえ英語の文法規則やシンタックスを教えるのがむずかしいのに、それを英語で理解させようとしてもできるわけがないと言います。(4)
 またまたまた別の人は、英語が国際通用語になっている事実は認めざるを得ないが、何もその事実に踊らされて英語早期教育、会話教育などに軽薄にシフトする必要はない、その前に、しっかりと国語教育を施すことのほうがはるかに大事なのだ、と言います。(5)
 だいたいこれで議論は出尽くしたでしょうかね。私自身の感じからすると、この中で比較的説得力があるのは、まあ、(3)と(4)でしょうか。しかし、これらはいわば「あきらめ論」なので、じゃあ、どうすればいいのだという反問に答えなくてはなりません。それについては、私なりの答え方を用意していますが、それは、この問題に対する自分の基本姿勢を述べたあとにしたいと思います。ちょっとニヒリスティックに聞こえると思いますが、じつはきわめて現実主義的であって、建設的です。もったいぶっていてごめんなさい。
(3)と(4)にしても、先述のように、英語教育方法論の内部で話をしているので、公立校の英語教育現場実態の指摘としては当を得ていても、そこから先、いまの教育現場全体の実態に対する視野の広さと感受性、人間論的なものの見方が不足しています。そのために、ここで議論を終わらせずに、もう少しその先まで進める必要があるのです。
 
 さて議論を先に進めるには、次の二つの前提をぜひとも皆さんと共有しなくてはなりません。この前提を共有できない人は、先をお読みにならなくて結構です。
①人間にはもともとはなはだしい能力格差があり、ほぼ全員入学が果たされている現在の高校では、この能力格差が学校間格差として歴然と反映する。
②近代の成立・発展とともに浸透していった「学校」制度は、かつて出世・成功のための唯一の「聖なる物語」を提供してくれたが、この物語は、近代の完成とともに色あせ、現在では子どもに対して、そこに通うための内からのモチベーションを提供してくれない。 

 後者の点については、精神科医・滝川一廣氏の近著『学校へ行く意味・休む意味』(日本図書センター)、また、評論家・由紀草一氏のブログ「一読三陳」(http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011)がとても参考になります。
 ①についてですが、これは誰もが知っている当たり前の事実なのに、公式的にはけっして明示されたためしがありません。まあ、文科省や教育委員会や日教組がこういうことを露骨に言うわけにはいかないのはある程度まではわかります。公立教育はなんてったって「平等」がたてまえで、生徒の能力や学力に雲泥の差があることを公然と認めることは戦後教育のタブーになっていますからね。でもはっきり言ってバカみたい。
 ちなみにこのたび報道された自民党の教育再生実行本部の第2次提言案には、遠回しにではありますが、この当たり前の事実をきちんと踏まえようとした形跡が認められます。「飛び級、高校早期卒業、学び直し」という項目がそれです(産経新聞5月17日付)。明言すれば、これは、優秀な生徒にはどんどん英才教育を施し、できない生徒には昔で言う「落第」を甘受してもらうということです。「小・中の区切りを柔軟に決められる小中一貫校制度の創設」というのも、考え方によっては、同じ含みがあると言えます。四・四・四制(あるいは五・四・四制)の提唱も含めて、私はこの自民党案を支持します。とはいえ戦後教育論には「バカの壁」が幅を利かせていますので、実現はなかなか難しいでしょうな。
 それはともかく、むしろいちばん問題なのは、「英語の授業を英語で」という提案に対してその是非を論じる識者たちの議論がこの当たり前の事実に触れようとしない点です。彼らは公務員のように窮屈な枷をはめられているわけではなく、自由な言論を駆使できる立場にいるはずです。それなのに、この点に言い及ぼうとしないのは、そういう現実感覚をはじめから持っていないか、あるいは教育の「戦後レジーム」にマインドコントロールされているために、無意識のうちに自ら口に戸を立てているかどちらかなのでしょうね。
 思うに、そもそも英語教育のあるべき姿などを論じることができる論者たち自身がエリートに決まっているので、自分がこれまで社会から得てきた評価の中にすっかり取り込まれていて、そのために自分の身辺で問題にされている議論のあり方が一般的・普遍的な意味を持つと勘違いしてしまうのでしょう。エリート集団の中で活躍しているうち、いつしか、この世にはできない子がわんさかいるという実態に想像力が及ばなくなるのです。こういう論者には、一度でいいですから、底辺校や私塾に通ってくるできない子たちとの接触体験を持ってほしいものです。経験を笠に着るのは本意ではないですが、はばかりながら私は永年小さな塾を経営してきた経験があるので、浮き上がった議論に対しては、「おいおい、それは一般の子どもの生活実感と乖離しているよ」とすぐ言いたくなるのですね。
 先ごろ、大学のレベル低下、大学が就職の通過点としかみなされていない現状を憂えて、「大学に古典教育の復活を」などという議論が論壇の一部を賑わせたようですが、こういう議論がいまの大衆化した大学一般に当てはまると考えたら大間違い。いま大学は、ブランドさえ選ばなければ誰でもどこかに入学できて就学率が6割近くです。平均レベルが下がるのは当たり前で、平均的な学生諸君が、大学に行っておいた方が後々少しでも有利だろうし青春できるから楽しそうだし経済が許すならまあ通っておこうと考えるのも当然です。「学問の府」なんて、ほんの一握りでたくさんなんですよ。ですから、この種の議論がいくらかでも効力を持つのは、一部のエリート大学関係者の範囲内だけです。まずこの当たり前を認めて、どういう大学ならこの種の議論が適用できるのかを見定めたうえで論じてほしいものです。
 さてこうした大衆平等主義社会の現状を、いまの公立高校の教育現場の実態の中に探ってみると(わざわざ探るまでもないのですが)、いわゆる「高校教育」を受けるに値しない生徒がごろごろいます。ことに英語や数学に関してはこの事態は歴然としていて、中学校時代から授業についていけなくなったまま高校に上がるので、レベルの低い高校ではアルファベットや四則計算などの基礎からやり直し。最近ある底辺校の先生から聞いた話では、bとdの書き分けもできないそうです。公教育における英語の授業はどうあるべきか、などの純粋方法論に耽っている人たち、こういう生徒を教えなくてはならない先生の苦労がわかりますか?
 英語授業を英語でできる教師がいるかいないかも問題ですが、まずその前に、そんなことをしてついてこれる(ついてくる気のある)生徒がそもそもどれくらいいるのかが問題です。だって、教育は本質的に受け手がそれによって恩恵を感じられることを目指したサービス業ですよ。お金の使い方を知らない子にお金を与えたって喜ぶはずがないのと同じで、英語でコミュニケーションするためには、受け取る方が基礎英語を理解していなければサービスを享受できないでしょう。
 しかし、悲しいかな、公立校というのは、平等主義の建前に縛られていますから、「わかる子のいる学校に限って英語で授業」というような差別化をはっきり打ち出すわけにはいかないのですね。なのにグローバリゼーションの大波にさらされて、日本人の英語能力はダメだ、ダメだと周囲から脅迫されているので、文科省は血迷ったあげくにこんな珍策を思いついたという次第。
 ざっくり言って、偏差値50以下の高校で、こんな珍策が実行できるはずがないでしょうな。ですから実際には、売春防止法と同じで、「ザル指導要領」ということになるに決まっています。
 そこで先に述べた②「学校の聖性の終わり」という前提が絡んできます。
 近代学校制度は、徴兵制と同じく、中央集権的近代国家の国民としての意思統一をはかるために強力に推進されました。これは、我が国における産業資本主義の発展過程に見合っていました。国民全員に共通の教育を施して「読み書きそろばん」の能力獲得を徹底させる。時間はかかりましたが、この目標は、戦前においてほぼ達成されたと言えます。戦後、新制高校への進学率はうなぎのぼりに高まり、1970年代に9割を超えます。高校準義務教育化が達成されたというわけですね。
 さて皮肉なことに、このころからほどなくして、不登校、いじめ、校内暴力、細かすぎる校則、学級運営の困難などの現象が目立ってきます。最近ではモンスター・ペアレンツなども騒がれましたね。それぞれの問題にはそれぞれの要因があり、一概にひと括りにはできないのですが、こうした学校現象が目立ってくる根底には、近代学校の目標が達成され、豊かな社会が実現されたために、多くのふつうの子どもたちにとって「学ぶ意味」を体で納得することができなくなったという先進国共通の問題が横たわっています。インセンティヴの喪失ですね。
 英語教育も例外ではありません。現代社会の要求として、義務教育レベルの基礎的な英語能力を習得するという条件は、だれにとってもまあ満たすに越したことはないのですが、いくらグローバリゼーションが進んだからと言って、マジョリティの日本人にとって、それ以上の高度な英語能力が必要かと言えば、首をかしげざるを得ません。職業にかかわるかぎりで、また国際競争に負けない限りで、必要に応じて学んでいけばいい問題でしょう。何よりも、学ぶ気のない子どもたち、外国語などが苦手な子どもたち自身に、どうすればインセンティヴを植え付けたらよいのかが、最も重要なハードルなのです。「これからは英語ができなくちゃだめだ!」といくら尻を叩いても、子どもたちがその必要性を深く納得するのでなければ、効果は望めません。
 bとdが書き分けられない高校生(まあ、これは極端な例でしょうが)に、彼にとってどういう意味があるのかを納得させられないまま、英語を学べ、学べと尻を叩くことは、教える側にとっても教えられる側にとってもまさに「苦役」にほかなりません。
 一般的に言って、日本人が英語習得を苦手とするのには、この問題以外に二つの要因が考えられます。ひとつは、欧米語と日本語とでは、文法構造がまったく異なること(中国語のほうがはるかに欧米語に近いですね)、もう一つは、日本は島国のせいもあって、長い間、生活や文化面での固有の伝統を維持してきたため、きわめて内部的な同一性の高い国民であること。
 いまでも国内でふつうに暮らしていれば、英語を話す能力なんて、そんなに必需品にはなりませんよね。必要がある人、語学が好きな人、世界に羽ばたきたい人は大いに勉強すればよいので、民間にはその機会もふんだんに用意されているはずです。無理をしてまで馬に水を飲ませるのは、やめた方がいいでしょう。
 しかしそうは言っても、義務教育のシステムが実質的に高校レベルにまで高まってしまった今日、この「学ぶ機会の平等性」をひっくり返すわけにもいきません。英語を学ばせない子どもを強制的に作ることはできませんね。ではどうすればよいか。
 これについては、すでに私自身、15年も前に一つのアイデアを出したことがあります(『子どもは親が教育しろ!』草思社・現在でも入手可能)。

 ちなみに、自慢のように聞こえるかもしれませんが、四・四・四制(あるいは五・四・四制)も、「落第制」の復活(これはネガティヴな意味で、すごく勉強へのインセンティヴになりますよ)も、この本で提唱しています。
 要するにことは簡単で、成熟社会では、学ぶ意味の喪失感とそこから生じる倦怠とをできるだけ取り除くために、高校教育にもっと多様性を盛り込めばよいのです。みんなが年限を規定されて同じことを一斉に教わる普通高校に通うのではなく、基礎教育としての共通部分を残しつつ、何を重視した学校か、それぞれが旗印を鮮明に打ち出す。語学、福祉、IT、科学、文化芸術、商業、工業、農業、一般教養その他。中学生は親とじっくり相談しながら、自分が得意と思える分野を選ぶ。こうすれば、語学の得意な子はますますその能力を伸ばせるし、苦手な子は「苦役」を忍ばなくてすみます。
 まだ幼いですから、この年齢から教育を職業選択に結びつけるのは早すぎるという意見があるでしょうね。もっともです。そこで、選択を誤ったと思った場合のために、敗者復活の機会もじゅうぶん用意しておく。平均寿命も延びて先はまだまだ長い。急ぐ必要はありません。その意味でも高校三年は短すぎます。
 いかがでしょうか。横並び一斉競争の時代はとっくに終わっています。これからの親御さんは、自分の子どもは何に向いているのか、何には向いていないのかをよくよく見抜く必要があります。そうしてそれにふさわしい助言と支援をしていく必要があります。抽象的な学力競争に子どもを駆り立てるべきではありません。もちろん、学力優秀な子には競争させてかまわないのですが。

 また、教育行政は、こういう多様性を許容するようなシステムをきちんと整えるのでなくてはなりません。それにつけても、教育関係者が、子どもの能力・学力にはたいへんな格差がある、という事実をまず直視することが前提です。
 ご一考ください。





美津島明さんのブログ『直言の宴』に投稿しました。

2013年11月10日 12時41分35秒 | お知らせ
美津島明さんのブログ『直言の宴』に、「原子力規制委員会は日本のエネルギー行政のガン(その2)」を寄稿しました。関心のある方は、どうぞ。


http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3085333/
http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3085380/


なお、本ブログでのシリーズ「こんな無意味・有害なことやめろ(その3)」は、近いうちに(笑)掲載します。もうしばらくお待ちください。


美津島明さんのブログ『直言の宴』に投稿しました。

2013年11月10日 12時36分23秒 | お知らせ
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美津島明さんのブログ『直言の宴』に、「原子力規制委員会は日本のエネルギー行政のガン(その1)」を寄稿しました。関心のある方は、どうぞ。

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なお、本ブログでのシリーズ「こんな無意味・有害なことやめろ(3)」は、近いうちに(笑)掲載します。もうしばらくお待ちください。


こんな無意味・有害なことやめろ(2)

2013年11月10日 12時27分41秒 | 社会評論
こんな無意味・有害なことやめろ(2)


月曜振替休日

 いま日本では、祝日と日曜日が重なると、月曜日を振替休日にしますね。もちろん、偶然月曜日が祝日に当たっている場合もあるのですが、海の日などは、はじめから7月の第三月曜日と決まっています。

 2013年のカレンダーでは、日曜日以外の休日が19回、そのうち月曜が休日になる日が11回もあります。一年は約52週ですから、全月曜日のうち2割強が休日ということになります。

なんでこんなに公式的な月曜休日が多いのか。これはいろいろと弊害が多いのではないか、と私は以前から考えていました。その弊害についてこれから述べますが、その前に、諸外国(主要先進国)ではどうかということを調べてみました。(いずれも2013年 *1)



        全休日(日曜日以外)   うち月曜

アメリカ     10         6

イギリス     12         6

ドイツ      16         2

フランス     12         3

イタリア     9         1

スウェーデン   16         1

オランダ     8         2

カナダ      20         14

韓国       14         1



 以上挙げた中で、日本より多いのはカナダだけですね。あまり勤勉な国民性とは言えないイタリアのような国の公式休日が少ないのにびっくりされた方もいるのではないでしょうか。もっとも深刻な不況と高失業率で苦しんでいるスペインは、なんと36回公式休日があります。おいおい、そんなに休んでちゃ生産力落ちるぜ、と言ってやりたくなりますが、それでも月曜日は8回です。

 さて、月曜休日の弊害ですが、この曜日を本当に休みにしてしまうのは、官公庁、銀行、郵便局、公的教育機関、証券取引所、恵まれた一部の大企業、医療機関など、高い公共性が要求されるところに限られます。じっさいには、商店、デパート、コンビニ、新聞社、テレビ局、鉄道、観光業、流通業、運輸業など、多くの民間サービス業者は休んでいません。総労働人口のうち、どれくらいが実際に休んでおり、どれくらいが働いているのかはわかりませんが、第三次産業中心の社会では、相当多くの人が働いているものと考えられます。上に挙げた業種だけではなく、この不況下では、普通のサラリーマン、自営業者なども、さぞかし休日返上で働いているケースが多いでしょう。

 ですから、私がここで取り上げたいポイントは、休日を多くすると日本人の伝統的な勤勉さが衰えるといった道徳的な心配にあるのではありません。それはむしろ杞憂というべきです。

 問題の要点は、高度な公共性が要求される業種ほどしっかり休日をとっていて、民間業者の多くは休んでいない、このギャップをどう考えるかというところにあります。いろいろ弊害が思い浮かぶのですが、ここでは、次の四点に絞ってその弊害を述べましょう。



① 医療機関が休日を多くすると、緊急時の対応が遅れがちになる。

② 公的教育機関が月曜を休みにすると、カリキュラムの構成に支障をきたし、その分、しわ寄せが他の日に回ってくる。

③ 銀行や郵便局、証券取引所などが閉まっている日が多いと、大切な資金取引や通信業務に支障をきたし、結果的に経済の不活性化を惹き起こしやすい。

④ 官公庁や一部大企業など、地位も給料も安定している機関に対して、中小企業で喘いでいる人たちの不満が高まりやすい。



① については、多言を要しないでしょう。

もっとも、おそらく実態はさまざまで、看護師さんなど、過酷な環境下で休日出勤している人たちもさぞ多いことと思います。こうした人たちがゆったりと働けるように、多くの人材を確保し、しかも待遇面で優遇する施策が切に望まれます。

② について、少し説明します。

まず小中学校では、土、日、月と三連休が多いと、年間授業時数をこなすために、その他の曜日にたくさんの時間を割り当てなくてはならなくなります。ことに現在は、ゆとり教育の失敗を挽回するために、学力向上が至上命題となっています。そうすると、先生は少ない曜日でたくさんの業務をこなさなくてはならず、そのジレンマに悩むことになります。

また、子どもも、ウィークデーの生活時間の大半を学校で過ごすことになります。いまの子どもたちは神経が繊細になっていて、固定集団で一日長い時間を過ごすことにうまく適応できない子がたくさんいます。つまり、不登校やいじめなどの間接的な要因になりやすいのです。週休2日くらいを上限として、各曜日、薄く広く時間配分をするのがちょうどいいバランスだと思います。

大学の場合は別の切実な問題があります。大学は講義ごとに教師が異なりますね。あらかじめ何先生の授業は何曜日の何時限と決めておかなくてはなりません。そうして一コマについて一学期何時限までこなすということも決められていますから、月曜日に当たった先生は、講義回数を十分確保することができず、土曜日などに補講をたくさん設定しなくてはなりません。ところが、補講って、学生が集まらないんですね。

③ については、三つの問題が考えられます。はじめの二

点に関しては、どこまで妥当か、あまり自信がないので

間違っていたらどなたか指摘してください。

一つは、国際金融市場での取引に関して、各国で休日が異なるために、必要な取引が遅滞しやすいのではないかということです。

もう一つは、資金繰りに苦労している経営者が、貸し借りや返済などでチャンスを逸してしまうと、不渡りを出すなど、致命的な失敗に陥りやすいのではないか。それを避けるために、町金、闇金などについ頼ってしまい、ますます泥沼にはまりやすいのではないか。これを考えると、銀行、郵便局などは、もっと公的な責任を自覚して、開かれた時間を多くする必要があると思います。

 三つ目。これは日常サービスに関する身近な不満ですが、手紙や振り込み、郵便振替などの必要があって、早くこうした懸案事項を済ませたいと思っている時に窓口が閉まっていると、何でもっと開いていてくれないのかと感じることが多いのですね。コンビニやスーパー、デパートなどはほとんど休まないので、その便利さがふつうだと感じているために、余計、こうした公的機関、準公的機関の不便さが際立ちます。ちなみにコンビニのATMでは、振り込み業務は扱っていませんね。

 以上の機能不全は、全体として経済的な不活性化を招きやすく、それは結局、当の営業者自身の不利につながってくると思うのですが、いかがでしょうか。

④ について。

これは、いちばん深刻な問題のように思われます。

私は、必ずしも官公庁や一部の大企業に勤めている人たちが楽をして高給を取っているとは思いませんが、外から見ると、どうしてもそう見えてしまうところがあります。経営に苦しんでいる中小企業の経営者や、低賃金で過酷な労働に耐えている人たちは、相当にストレスをためているものと思われます。

そういう感情的な下地があると、「あいつら、いい思いしやがって」というルサンチマンにつながりやすい。それが人情というものです。不満のはけ口を外に向けるというのは、まさに某隣国政府が悪用している政策ですね。それと同じように、ルサンチマンのため込みが思わぬ秩序攪乱、治安の悪化を呼び起こすかもしれません。そうならないためには、景気回復が何よりも大事なのですが、公的機関、準公的機関、一部の大企業などは、腹の太いところを見せて、せめて公休日を少し減らすべきではないでしょうか。

さてこの項、最後に、いまの日本はなぜこんなにやたら祝日や振り替え休日を増やすようになったのかについて考えてみましょう。

これについては、年配の方々はすぐ思いあたるでしょうが、高度成長期以後、日本人の働きすぎということがしきりと問題にされた時期があります。他の先進諸国に比べて、労働時間がこんなに多い。これは長年の貧乏性、余裕のなさで、恥ずかしいというわけですね。当時の労働省などがドイツは何時間、それに比べて日本はこんなに多いなどと統計を駆使して喧伝したのです。過労死も多いし、うまく余暇を楽しむことを知らない、等々。労働組合の活動がまだ活発だった頃でもあります。

そういう判断が、実態の正確な把握をせずにずっと残り続けて、いまに至っています。だから公式的に休日を増やせばいいという安易で観念的な解決策を取ってきてしまったのだと思います。公式的に休日を増やしたって、休めない人は休めないんだよ。

では、日本人の労働時間は、国際的に見てどのように推移してきたのか。この点について資料(*2)に当たってみましたが、各国の状況が一目でわかるものの、統計上の理由から、特定年次の比較には適さないと、わざわざ断り書きがあります。ただ、一応、1988年の労働基準法改正を契機に日本人の平均労働時間数は、かなり減ってきたことがわかります。

とはいえ、じつをいえば、私はこの資料をあまり信用していません。というのは、第一に、基礎データをどういう方法で抽出して算出しているのか、近年問題とされている派遣やバイト、残業などの実情がきちんと反映されているのか、そのへんが疑わしいのと、第二に、これはあくまで「平均」であって、格差の問題が考慮されていないからです。

そこで、この問題に関しては、次のように考えるのが妥当だと思います。

労働時間が増えたか減ったかというような抽象的な指標だけで、休日が多いことの正当性いかんを判断することには、根本的な限界があります。くどいようですが、この不況下、実際には統計にカウントされないところで人々、特に若者は休日返上で必死にはたらいている可能性があり、もしそうだとすると、ただ休日を増やすのが上策だなどとはとても言えないからです。形式的に休日を増やすことによって、第三次産業中心の社会では、特にあまり良い目を見ていない階層でかえってつらい労働が増えているのかもしれません。

少なくとも、不況から脱却しなければ、日本の月曜日振替休日がいろいろな意味で有害無益だということだけは言えそうです。国際的に見てもかなり異常なこの制度的措置が、別に少しも寿ぐべきことではない、ということを知っておく必要があると思います。みんながそこそこ豊かになり、心置きなく休日や余暇を楽しむことができるようになってこそ、休日が多い国の真のメリットが生きるのではないでしょうか。



参考資料

*1:http://www.startoption.com/holidays/

*2:http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3100.html

日本語を哲学する3

2013年11月10日 02時56分19秒 | 哲学

日本語を哲学する3




 ここで、ニーチェの言うアポロ的、ディオニソス的という区別を、視覚の特性、聴覚の特性という先に述べた区別に結びつけたとしても、それほど的外れではないと思う。
 視覚は、それを感じる主体と対象との距離を前提として成り立つ。視覚は眼前の空間を区画づけるはたらきであり、その区画づけにおいて、主体の意識はこちら側にあり、よほどのことがない限りその安定が保たれている。個体性としての〈自我〉はこの知覚によってさほど動揺することがない。つまり、この知覚のあり方は、そもそも、「対象」という概念の生みの親なのであり、デカルトが置いたような、主観と客観という認識論上の二項対立原理も、この視覚特性のあり方によって支えられているのである。
 これに対して、聴覚、すなわち音響の知覚はそうではない。すでに述べたように、それは、時間の流れそのものを通して実現されるので、意識の持続に常に寄り添い、不安な内面を呼び起こし、かつ、そのつどの情緒のあり方を直接に・具体的に決定づける。そこには主体に向き合う「対象」なるものは存在しない。「個」としての主体の安定性は必然的に脅かされる。言い換えると、それは自他の区別をどうでもよいものとし、身体を内部から揺さぶり、ハメルンの笛吹きのように、感情という、もともと共同的にしか成立しない境地のほうへ私たちを誘惑する。かくて主観と客観という対立図式は、この時意味を失う。ニーチェが音楽について言った「個体性を破壊するものとしての意志の理念」という解釈は、こうして、少し用語を変え、別のヴァリアントを考えれば、じつは音響一般に当てはまるのである。
 そこで、いままで述べてきたことをもっと端的に表現し直しておく。すなわち、音響は、いま、ここにある単なる物理的な身体から私たちを時間的に超越させ、そのことによって私たちに共通の「内面」そのものの形成にあずかる。 
 ここで「内面」という言葉を、孤立した個人の疎通不可能な心のあり方、というように捉えないでほしい。意識がある内容で満たされ、心が活動している時、それがさしあたり他人に通じなくても、そのはたらきはそもそも構造として共同的な営みであり、響き合いなのである。この点については後述する。
 また、私たちはまず確固たる内面をもち、しかるのちその内面にやってくる音をとらえるのではない。「内面」なる観念の保持は、直接的・感性的には「音響」(と、その否定態としての静寂)によって、またより人間的な意味では、他者や自分の「音声」(と、その否定態としての沈黙)によって、そしてさらに、より社会的な意味では、「音声言語」(と、その否定態としての無言)によって、そのつどさまざまな仕方で支えられるのである。
 現代の生活シーンで以上のことをよく示す例を挙げよう。
 電話が鳴る。それだけで私たちは多少とも意識を動揺させられる。また時間帯によっては、日常生活の規範を脅かされ、迷惑で非常識だという判断がはたらく。
次に、しかたなく出てみると、相手は自分のことばかりしゃべる苦手な人だが、間柄上、むげに短く切り上げるわけにもいかない。まあ、久しぶりの電話だし、非常識な時間ではなし、差し迫った用事があるわけではなし、ということでともかく話を聞くことにする。
 たとえばこんな場合でも、相手がこちらの状況や気持ちを思いやってくれずに長々と話し続けていて、しかもその話題がこちらに関心のないことであれば、やっぱりだんだんいらいらしてくるだろう。これは相手の話し声とその中身に意識を集中して寄り添わせなくてはならないからで、途中で自分の関心が他に移りかけていたとしても受話器から離れるわけにいかない。このことの心理的なストレス、じれったい感じは、音響のあり方がそれを聴く人の内面を深く拘束・規定しているところから来る。
 これに対して、メールならどうだろうか。音響によって意識が決まった時間、拘束され規定されるわけではないので、いくらくだらないことがだらだらと長く書いてあっても、それによって直接にいらいら感が募るということはないだろう。読むのが面倒ならまたあとで読み直せばよいわけだし、返事もいますぐしなくてよい。
かつて電車の中で声を出して通話している人を迷惑がる風潮があり、この風潮の是非についても議論があったが、いまではメールで処理できるので、通話する人自体をほとんど見かけなくなった。わずかな期間のうちに技術が知恵をはたらかせて、問題そのものをたちまち解消してしまったのだ。
 この技術が人口に膾炙したのは、単にすぐ思いを伝えることができて便利だからだけではない。電話に比べて、お互いに「音による迷惑感」を感じないで済むので、人間関係がスムーズに進むというメリットを私たちが歓迎したからである。
 一般に、騒音はどんな種類のものであれ、聞きたくなくても聞こえてしまうので心を騒がせて迷惑だが、視覚像は内面を直接に侵襲する可能性が低く、かなりグロテスクな像でも距離さえあれば比較的冷静に見ていられるし、見たくなければ見なければよいという回避の道がいつも残されている。視覚像は明らかに身体に向き合う「対象」だが、聴覚印象は、それを「対象」として「内面」からもぎ話すことができないのである。
 音響が私たちの意識の流れそのものを支配している例として、次のような場合を考えることもできる。この例は、音響から音声言語への枝分かれの意味を認識する点で、非常に重要である。
 レストランや呑み屋では、必ずと言ってよいほどBGMが流れている。しかしその音量は、会話の邪魔にならないようにごく低い程度に抑えられている。逆に、コンサート会場で話し声を立てることは、最大のマナー違反である。二つの質の異なる音響が、同時に同じ程度に主体の聴覚を占めることはできない。私の友人でも音楽好きの人と、音楽よりも会話のほうが好きな人とがいて、前者のタイプの人は、会話の途中でも、ある音楽が聞こえてくると、会話を中断して、「あ、この曲、いいですね」などと言う。逆に後者のタイプの人は、私がある音楽を聴いてもらいたいと思ってCDをかけても、すぐに我慢がならずに話し始めて、音楽を自分からBGMにしてしまう。
 そこで考えるべきなのは、同じ音響でも、音楽や騒音のように、言葉ではない音と、言葉としての音(音声言語)とは、いったい何が違っているのかという問題である。
 だがこの問題は難問ではない。音声言語は、音響でありつつ、「指示的な意味」を必ず伴っているので、私たちの主要な関心はそちらの方に惹きつけられ、その純粋に音響的な側面は、背景に退いてしまうのである。背景に退きはするが、しかしまったくなくなってしまうわけではない。話し手の身体性は、声の調子、強弱、美醜などとしてたえず現前しているので、じつは私たちは話されている言葉の「指示的な意味」に注意を集中させつつ、一方では、音楽や騒音のように、言葉の音響的部分を体で受け止めてもいるのだ。
 サルトルはたしか、この言葉のもつ「指示的な意味性」のことを「透明性」と呼んでいた。なるほど言葉は、それが発せられることによって、それ自身によって相手の精神の視界を塞ぐのではなく、むしろ自分自身を透明人間のようにしながらその向こう側のなにものかを指し示そうとする。しかし、音楽や騒音はそうではない。それは、快にせよ不快にせよ、直ちに聞くものの気分を左右するので、それ自体が「不透明」(モノと同じように、しかしそれとは違った仕方で立ちはだかる「存在性」そのもの)だということができる。だから、意味のまったく分からない外国語は、まるで音楽か騒音のように聞こえるのである。
 事務的な言語は、「透明性」が高い。しかし言葉の芸術家である詩人や歌人は、言葉の創造的な駆使によって、この「透明性」つまりただの「指示的な意味性」からできるだけ逃れようとする。彼が目指しているのは、言葉を音楽のような不透明なものにできるだけ近づけようとすることである。完全に音楽にしてしまうことは絶望的である。また、そうなってしまったら、詩歌とは言えない。指示的な意味性を保ちつつ、それと音楽性との融合を目指すところに、現実の詩歌が成立する。
 詩人、歌人たちは、この融合の試みに自らを託すのである。だから限りなく音楽的な詩歌というものが明らかに存在する。たとえば、百人一首に蝉丸の次の歌がある。

 これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき

 この歌は、指示的な意味としては、さほどの名歌とは言えない。もちろん、大坂の関という空間的な場での足しげき人々の行き交いと、出会っては別離してゆく人の世のはかなさという時間的な含みが懸けられているところに独特の技巧を感じさせはする。しかし、エロス的な意味で深い情趣が込められているとは言えまい。ところが幼い子どもが百人一首に接する時、ほとんど例外なくこの歌を意味も分からずにいち早く覚えて面白がる。それは、詳しく分析するまでもなく、この歌には、子どもにとって意味の分からない語彙がほとんどなく、しかも音韻の連なり具合が、たんへんいい調子だからである。



こんな無意味・有害なことやめろ(1)

2013年11月10日 02時50分35秒 | 社会評論
こんな無意味・有害なことやめろ(1)


 日ごろ、こういうのは、無意味だし時には有害でさえあると思っているいくつかのモノ、コトについて述べます。

Ⅰ. コンビニでアルコールを買った時のタッチパネル 
 これ、だれでも感じますよね。「未成年者」にアルコールを売るのはよくないし、売りたくないと本当に思っているのだったら、店員が「あなたの年齢を証明するものを見せてください」といちいち問えばよいはず。しかし、そんな面倒なことできるわけないし、客だって証明書など持っていることなどまずないでしょう。
 明らかに子どもが買おうとしていたら、君はまだ子どもだから売れないよ、と言えばいいんでしょうが、これもコンビニのバイト店員に義務づけるわけにいかないでしょうな。売り上げにも影響するし、子ども客のほうが「頼まれたんです」と言えば、おしまい。だからしょうがなくてああいうものを置いているのだろうけれど、どう考えても無駄なコストをかけていますね。ある若い店員が「一応押してください。でもこんなの無意味ですよね」と自分で言ってました。そう言ってくれるだけで同志を得た思い。この店員君、エライ!
 高校時代の修学旅行で京都に宿を取った時、友だちと酒を飲もうとして酒屋に行ったのですが、私はガキっぽく見えたので、売ってくれませんでした。そこで、いちばん老けタイプの奴に代わってもらったら、見事に買ってきました。これくらいのゆるい(人間的な)倫理感覚が行き渡っているのがいいと思うのですが、いまの時代では無理ですね。「酒は二十歳になってから」なんていたるところに書いてありますが、あれもなんて無意味なんでしょう。だれも気にしていませんね。こんな文句を書きつけることに効果があるなんて思わないで、大人一人ひとりが自分とかかわりの深い「未成年者」に、状況に応じてタガをはめればよいのです。

Ⅱ. ゴミの過剰分別 
 私は横浜市に住んでいますが、横浜の家庭ゴミ分別は、異常にうるさいのです(知人にこの話をしたら、横須賀はもっとうるさいとのこと)。
 プラゴミと生ゴミとビン、缶、ペットボトルはそれぞれ峻別、新聞、チラシ、雑誌類は、特定の日にひもで縛って出すこと、スプレーや電池も、それぞれ特定の日だけ。粗大ゴミはもちろん事前連絡して、かなり高いお金を取られます。金属類、粗大ゴミでないような電化製品、ガラス製品などは、どうするんだったっけ。とにかくとてもつきあいきれないような細則のオンパレードです。
 まあ、慣れれば大したことはないし、よく処理のわからないものは、新聞紙にでも包んで出してしまえばいいわけですから、細かさそのものに目くじらを立てることもないのですが、腹立たしく思うのは、こういう分別の負担を住民に強いることに論理的な根拠が見いだせないことです。どこが論理的でないのか、すぐ書きます。
 ある時、プラゴミと生ゴミを混合させて出したら、環境事業局の調査員に見つかって、「指導に行くから、都合の良い日を連絡してください」とのチラシがポストに。どうやらゴミの中に私の住所氏名がわかる手紙の類が入っていたらしい。
 私は、ある人の書いた環境問題の本を読んで、その主張をまことに妥当だと思っていたので、横浜市のゴミ分別の不条理さに以前から静かな怒りを抱いていました。「指導」しに来るとは望むところ、こっちにも言い分がある、というわけで調査員との会合が成立しました。私が主張したのは、次の諸点です。
①「ビン、缶、ペットボトル」をなぜ一緒にするのか。ビンと缶は不燃ゴミだが、ペットボトルはよく燃えるし、含水率の高い生ゴミの燃焼を助けるのにたいへん都合がよい。
②私は別の地区の分別を知っているが、そこでは、不燃ゴミ、可燃ゴミという明快な二大別しかしていない。それで十分間に合っている。
③ペットボトルはリサイクルに回すと言われているが、あなたがた市の職員は、リサイクル業者に金を払って引き渡した後、現実にどれくらいの割合でリサイクルされているか事後調査をしているか(じつはこの割合はとても少なく、多くは最終的に焼却や投棄に回されています)。業者に払う金は住民から徴収した税金であろう。
④プラゴミと生ゴミとを分けるのも納得がいかない。現在のプラゴミはほとんどが容器包装だが、これらの材質は、たいへん焼却に適している。
⑤横浜市の焼却炉の能力は極めて高く、しかもNOxやSOxの処理も行き届いていると聞いている。プラゴミも焼却をメインにすればいいではないか。助燃材としての重油もいらなくなる。
⑥私は負担が大きいことに不満を持っているのではない。問題の要点は、市が、住民にこれほどの細かい分別の負担を強いながら、分別された後の廃棄、再利用などの処理の過程を把握していないことである。「このように分別されたゴミは、その分別にふさわしく、それぞれこのように処理されています」と、住民にきちんと説明責任を果たすのが、公正な行政サービスのあり方ではないか。
 懇切に話し合うこと2時間、言うまでもなく、調査員はこれらの主張に一つもまともな答えを返すことができません。そりゃそうですよね。まあ、調査員を問い詰めても仕方がないことははじめからわかっていました。私はいじめ趣味などは持たず、モンスター・クレーマーではないので、最後は「和やかな物別れ」で終止符を打ちました。
 それにしても、何とかしてほしいものです。

Ⅲ. 車内での携帯禁止放送 
 いまだにこれやってますね。「携帯での通話はお客様のご迷惑になりますので、普通席ではマナーモードに切り替え、優先席付近では電源をお切りください。」
 この放送って、携帯メールが普及し、ほとんどの人がスマホを使っている現在、何の意味もないのでは? 私はこの2、3年、電車の中で大声で通話している人を見かけた覚えがありません。技術革新がこの問題を解決してしまったのですね。マナーもいつの間にか徹底して、たまに車内でガラケーの発信音が鳴っても、受信した人は、小声で「ごめん、いま電車の中だから」と断ってすぐに切るのがふつうです。知り合い同士で大声でしゃべっている連中(特に中高生くらいのガキども)のほうがよっぽど迷惑です。
 この放送はかつて、何とか理屈をつけるためにじつに滑稽な説明をしていたのをみなさんは覚えておいでですか。
①「心臓ペースメーカーをつけている方に害を及ぼす恐れがありますので……」
 そんな人がどれくらいの割合でいるって言うんだ! 仮にいたにしたって、携帯使用の微弱な電波が心臓ペースメーカーに害を及ぼすっていう説がそんなにきちんと証明されたのか! ちなみに私のこの言い分に疑問を持たれた方は、以下のURLへどうぞ。

getnews.jp/archives/49911

②「偶数車両では電源をお切りになり、奇数車両ではマナーモードに切り替えて……」
 爆笑ですね。ラッシュアワーでどうっと乗客が出入りして揉まれている時に、自分の乗った車両が偶数車両か奇数車両かなんて、調べてる暇があっか! いったい鉄道会社の誰が、守れるはずのないこんなみょうちきりんで非常識なルールを考え出したのか。
 まあ、過ぎた話なのでいいですが、こういうときは、次のように明快に放送すべきだったでしょう。
「車内では、携帯で大きな声で話されると迷惑に感じられるお客様が多いので、通話はご遠慮ください」
 要するに、物事を遠回しにしか言おうとしない日本人の悪い傾向が出ているのですね。もちろん、この傾向は、よい面も持っていることをおことわりしておきます。

Ⅳ. 駅ホームでの下りエスカレーター専用時間帯 
 私の経験では、東京メトロ東西線、日本橋駅でこれを続けています。おそらく全国の都市駅でこれを実行しているところはたくさんあるでしょう。
 私は、基本的にエスカレーターというのは、上り優先で考えるべきだと思っています。下りは、あればあるに越したことはないですが、あるホームのある箇所に一つしかないエスカレーターを下り専用にするというのは、どうしても納得がいきません。
 私は日本橋駅でこれを見つけたので、使う人がいるかどうか、5分ほど観察していました。空いている時間帯だったためもあるのか、一人もいませんでした。そこで、改札口付近に腰かけている案内役の若い駅員に、あれ、おかしくないですか、とクレームをつけました。
駅員「上りにしている時間帯もあるのです」
私「知っています。でも今見ていたら、だれも利用しませんでしたよ」
駅員「もう一つのほうは上りにしています」
私「それも知っています。しかし、だれだって、電車から降りたら、いちばん近いところから上って行きたいのではないですか」
駅員「階段を上っていただくより仕方がありません」
私「高齢社会で、杖をついているお年寄りも増えています。特にこの時間帯だったら、そういう人のほうが多いんじゃないですか。あなたはそういう人たちにも、向こうのエスカレーターへまわれとか、階段を使えとか言えますか」
駅員「ですから時間帯によって区別しています」
 そもそも時間帯によって区別するという発想がおかしいですね。それなら、ある時間帯には上りを、別の時間帯には下りを利用する人が多いというような調査をちゃんとしたのか。
 らちが明かないと見た私は、「あなたにこれ以上言っても無駄ですから、私の言い分を上司に伝えてください。時間がないので、今日はこれだけにします」と言って立ち去りました。この方式の責任がこの駅員にあるわけではありませんが、とにかく、公共施設の職員や店員には、この種のヘンな杓子定規を機械的に守る若い人が多いですね。「いまの若者は」というセリフは、私にとって禁句ですが、この駅員はまるでコンピュータのようでした。先のコンビニの店員がいっそう輝いて見えます。話が横道にそれるので、ここでは紹介しませんが、信じられないほどマニュアルに忠実で、人間味のない対応をする若者に私は何度か出会っています。仕事はつらいだろうけれど、みんなもっとハートを持とうよ。

Ⅴ. 車内英語放送の駅名「ガイジン」発音 
 もう一つ、電車の話題。
 この話はほかでも書いたことがあるのですが、車内に英語放送が流れますね。これは外国人にとても親切な対応スタイルで、たいへん結構なことです。ところがどうも気になるのは、駅名を言うときに、「シブウヤ」「ヨコハァマ」というように、ネイティヴ・アメリカンの発音を流している線があることです。
 私の経験した範囲では、JR山手線(少し変わったか)、横浜市営地下鉄ブルーラインの二つ。新幹線もまだ残っているようです。東京メトロと東急線各線はちゃんと日本語発音になっています。
 なぜこれがよくないか。地名というのは、人名と同じで、固有名ですね。その土地に住む人たちにとってのなじみ、親しみの感情を最も尊重すべきなのです。アメリカへ行って、「ペンスヴェイニァ」と発音せずに「ペンシルバニア」と発音することが正しいと主張できますか。
 よく英語を話している日本人で、自分の名前まで「イツゥオ・コハァマ」などと調子に乗って発音している人がいますが、非常に不愉快です。アメリカ人と話す機会がたまにあるのですが、私は必ず「コハマ・イツオ」と発音することにしています。これはべつに私がナショナリストだからではありません。とにかく、相手が欧米人だろうと宇宙人だろうと、個人として対等に接するべきであって、欧米人に対するいわれなきコンプレックスを露出するべきではないと考えているからです。
 この話はいろいろな人にしているのですが、ある人が、ああいう発音をしてやらないと、英米人には聞き取れないらしい、という説を唱えました。とんでもない説です。この説自体が事実として間違っていると思いますが、考え方としておかしい。ここは日本です。「郷に入っては郷に従え」。そんな余計な親切を示してやる必要がどこにあるのでしょう。観光にせよビジネスにせよ、日本に来た外国人は、日本語を使うときには日本語の発音をきちんと勉強すればいいだけの話じゃないですか。
 私は横浜市の教育委員をしていた時期に、教育委員というささやかな権威を笠に着ることができるのをこれさいわいと(笑)、同じ市の交通局に出かけて行って、市営地下鉄ブルーラインのあの方式はおかしい、教育上もよろしくない、と抗議したことがあります。すると、ブルーラインよりも後にできたグリーンラインでは、ちゃんと日本語発音にしているというのですね。だったらどうしてブルーラインも直さないのですかと聞くと、「予算の問題とかいろいろありまして」とお茶をにごします。予算の問題じゃない、決断の問題でしょうと言いたかったのですが、まあ、お役所というのはそういうところがありますね。私は「とにかくご検討願います」とだけ言って帰ってきました。
 この話は、みんなが面白がって聞いてくれるのですが、そもそも、みなさん、ふだんからあまりこんなことを気にしていないのですね。私のこだわりが偏屈だということになるのでしょう。でも、これを読んだ方は、ちょっとだけ考えてみてくださいね。大げさに言えば、安倍総理の「日本を取り戻す」という政治的なテーマにもつながってくる問題です。
 なお、今回書いたことは、哲学者の中島義道さんの影響を受けています。中島さんは主として、無意味な音、放送、醜悪な垂れ幕などに対して闘い続けていますが、私はある時期から彼のこの姿勢に感化されて、自分もおかしいとか不快と感じたことは、きちんと冷静に論理的に表明しようと心がけるようになりました。中島さんに感謝。(この項続く)

倫理の起源2

2013年11月10日 02時45分54秒 | 哲学

倫理の起源2





 以上、個体の発達過程に即して語ってきたことは、おそらく人類史の過程で、良心の疚しさの意識、つまり道徳意識が現在のようなかたちに育ってきた道筋にもそのまま当てはまると考えてよい。
 はじめにあったものは、共同体の権威と、それに逆らうことから生じる離反の恐怖であった。この権威は、時代をさかのぼるほど、宗教的な聖性と絶対性を帯びていた。共同体の集合的な意識と、これに属する個人の意識とは、現在の私たちに比べれば、はるかにその隔たりが少なく、両者はレヴィ・ブリュルが『未開社会の思惟』(岩波文庫)で言うような「融即」の原理にもとづいていた。
 また自分たちと自然との関係も、現在の私たちが認めているような主体と客体的対象との関係ではなく、主客未分離の一体的な関係としてとらえられていた。おそらく共同体は、この自他、主客未分離の「融即」的なあり方を基盤としながら、そのような関係全体の秩序の源泉として、「聖なる権威」を表象していたと考えられる。
 だから共同体の精神的な支柱である聖なる観念(神やトーテム)を、何らかのかたちで汚す行為や出来事は、それだけで大きな罪に値した。この場合、「罪」と呼ばれる観念は、共同体にとっての神聖なるものが汚されることと同義であり、したがってあるタブーを個人が破った場合、ただ単にその行為の主体である個人だけが罰を加えられれば済むのではなく、共同体がいただく聖性が回復されるために、言い換えると、共同体のどの個別メンバーにとっても「汚れ」と感じられる状態を取り除くために、祓い清めや禊ぎが行われなくてはならなかった。
 そもそも「罪」という観念自体が、個人がタブーを犯すという意味と、自然の災厄などが共同体の秩序を壊乱するという意味との両義性をはらんでいた。わが国の『祝詞』に記された「罪」概念はそのことをよくあらわしている。たとえば同じ「罪」でも、畔放ち(あはなち)、溝埋み(みぞうみ)、屎戸(くそへ)などは、実質的には暴風の災害を意味していたらしく、頻蒔き(しきまき)、串刺し(くしざし)、逆剥ぎ(さかはぎ)などは人の犯す過ちを意味していたらしい(この区別には諸説あるようだが)。
 こうした世界像のなかでは、個人がタブーを破ったために感じられる「良心の疚しさ」つまり道徳心と、自然災害などによって共同体全体が抱く「神から見放された感じ」とは、集合心理として未分化であるほかはなかった。
 ということは何をあらわしているか。自分たちと自然との融即の関係として成立している共同体が、自然自身の手によるにせよ、人の手によるにせよ、何らかのまがまがしい状態に陥った場合、それは、神やトーテムからの「愛の喪失」を意味するということである。
 おそらく古代人にとっては、この「愛の喪失」状態をどう雪ぐかということのほうが、その状態をもたらしたものが自然なのか人為なのか、過失なのか故意なのかということよりも重要な問題だった。それは彼らが、個人に対して寛大であったという意味ではない。むしろ原因が個人であることがはっきりしていれば、災厄が大きかろうが小さかろうが、簡単に当人を犠牲に供することで禊ぎの一端は果たされたということでもある。
 こうした感受の仕方は、幼児のそれと似ている。
 私の幼いころ、仲間同士で「えんがちょ」という、遊びとも儀式ともつかないやりとりが流行った。犬のフンなどの汚いものに触れた子どもがいると、周りから「えんがちょ、えんがちょ」とはやし立てられた。「えんがちょ」にされた子どもの体に触れると自分も「えんがちょ」になってしまうので、私たちはその子に近寄らないようにしながら、両手の親指と人差し指を組み合わせて鎖を作る。
 しかしいつまでもそうしているわけにはいかないので、鎖を作っている仲間同士で、「てーんのかみさま、ゆびきった」と唱えながら、お互いの鎖を切り合う。そうすると、自分たちの身は浄化されて、「えんがちょ」の子どもとは無縁の存在となれるのである。しかし「えんがちょ」の子どもはいつまでも屈辱感に見舞われて、いわれなき「良心の疚しさ」を抱き続けなくてはならない。
 このやりとりには、未開の共同体の住民が、自分たちの神やトーテムを汚されたと感じたときに陥る原始的な心性がよく保存されている。
 未開社会の場合にも、自分たちの共同性を作っている秩序感覚と安寧とが、何らかの「まがまがしきわざ」によって脅かされたと感じたときに、その恐怖と不安をこれ以上感じないで済むような何らかの儀式を行って、共同性の呪力を回復しようとする。たまたまか、あるいは理由があってその呪力の敵対的な標的とされた者は、共同性から追放されるほかない。
 この原始的な心性の遺制をよく示すものに、被差別感情がある。被差別者は、同じ共同社会の住人であるという素朴な了解の下に人とかかわるが、あるとき差別的な言動に出会うと、自己意識の範囲内には心当たりが見当たらないにもかかわらず、その言動を、何かしら自分の存在自体が「悪いもの」「恥ずべきもの」であると指摘されたように受け取ってしまう。彼は多かれ少なかれ、いわれなき「良心の呵責」に悩むはずである。
 こうして、人類社会全体においても、個体の発達過程にみられるのと同様に、「良心の疚しさ」すなわち道徳心は、合理的な納得によって個人のなかに根づいたのではない。はじめにあったものは、共同体からの追放の恐怖と不安であり、いいかえれば共同体の神の愛を喪失するかもしれないという危機意識なのである。
 自然宗教社会から法社会に移ってくるにしたがい、この危機意識は、ちょうど個人がその発達過程において、一般的他者を自我のうちに内在化しつつ「やってよいことと悪いこと」との分別を身につけていくように、しだいに「正義と悪」との区別の問題に移される。
 そもそも自然宗教に代わって、法的な感覚や道徳的な感覚が社会を秩序づける権威としての場所を獲得するということは、何を意味しているだろうか。
 それは、ひとことで言えば、自然と人為との、また偶然性と故意との、明瞭な分節の意識の確立過程をあらわしている。いいかえるとそれは、この社会は、単に神によって与えられたものなのではなく、人間自身の意志や行為の複合によって作られたものなのだという自覚が深まったことを示している。あるものは自然の「せい」であるが、別のものは現に生の営みを行っている個人や特定の人間集団の意志や行為の「せい」であるという、選り分けの意識の発達である。
 この過程を通じて、人間は、自分たちの意志や行為をそれとして切り取り、その交錯が生み出すトラブルを、文字として書き記された「法」のかたちで自己制御するようになる。そのとき、法というものがまさにだれにとっても自分たちの外側に書き記されておかれているという事情からして、必然的に次のようなことが起きる。
 外側に書き記されたものとしての法は、個々の生活者にとって、「他者一般」の関係に立つ。それはちょうど個体発達において、養育者からの愛の喪失に対する危機意識として不合理なかたちで「良心の疚しさ」の萌芽が芽生え、やがてその危機意識が「他者一般」「共同性一般」に対する「疚しさ」へと発展することで道徳意識にまで高まっていったのと同じである。
 法の存在は、あらゆる個人の外側に書き記されたものとして超越的な権威をあらわすから、各個人のうちのだれがそれを犯し、だれはきちんと守ったかの区別の観念を発達させるであろう。そしてこのような区別の観念の発達は、同時に、各人の意識を、自分の意志や行為が自分の外側にある法に照らしてまちがったものであるかどうかという関心にいつも駆り立てるであろう。この関心は、各人のうちに内面的なものとしての道徳心、つまり「良心の疚しさ」をいっそう育てることに貢献する。道徳的なものがまさに道徳的なものとして自立しはじめる。
 道徳的なものが自立するということは、法からという意味と共同体のもつ宗教的なものからという二重の意味を帯びている。
 共同体の宗教は、法的なものと道徳的なものとの両方を未分化なままに包摂しており、各メンバーの帰依の感情にその根拠をもっている。これに対して、禁止項目を外側に書き記した法は、帰依の感情という内面的なものとは別の位相からその存在の権威を示すので、そこに共同性への即自的な愛の感情を託すことは出来ない。私たちは、あくまでも法に対して、客観的対象として「向き合い」つつ、それとの外的な関係によって自分の意志や行為の妥当性を推し量るほかはない。
 ところが一方、人間の生活上に起きるもめごとや摩擦や秩序の攪乱の実相は、言語という抽象作用によって書き記された法のもつ有限性をいつもはるかに超えている。そこで私たちは、ある個別の状況のなかで生じた意志や行為が、書き記された法を犯していないかどうかとは別の場所、別の尺度で、絶えずその妥当性を自他に向かって問うていなくてはならない。その吟味の尺度となるものが道徳である。
 法が、ある限定された意志や行為の妥当性の外的な尺度となるのに対して、道徳は、あらゆる意志や行為の妥当性の内的な尺度となる。ゆえに道徳は、理性的であると同時に、感情的でもある。それは、書き記された外的なものとしての法が担いきれない内面感情の領域で、その大きな力を振るうのである。
 このように、法と道徳とは、共同体の宗教として渾然一体となっていた規範が、社会の複雑化と個人意識の発達にともなって二つに枝分かれしたところに生じた、いわば車の両輪である。両者は、外面と内面というそれぞれに固有の領域で、社会秩序を守るために分業するのである。
 といっても、両者はまったく相互に関連のない役割を担うというわけではない。法が作られるとき、その内的な根拠をなすものは道徳であるし、法が特定の事案に運用されるとき、具体的にどのように運用されるべきかを決済する力は、原則として道徳にゆだねられている(ここで「原則として」とことわったのは、個別の判決や裁定は、裁判官の人格の偏りや、世論の動きなどに実際上左右されることが大きいからである)。また逆に法の存在は、各個人に対して、守られるべき道徳の一定のモデルを指し示していることも疑いようがない。
 近代社会は、その建前上、宗教によって治められるのではないから、この社会の住人は、誰しも法と道徳との分裂を身をもって味わっている。しかしこのことによって、私たちは、自分の生が共同性によって支えられていることを忘れたわけではない。法の侵犯が発覚すれば、私たちの生はただちに危機に追いやられるし、生活上で非道徳的な振る舞い(たとえばウソをつくことや、友人を裏切ることや、家族を養う責任を放棄すること)を重ねれば、周囲の者からの愛を失うことを知っている。
 こうして、悪をなすことから私たちを遠ざけているものは、それをあえてなしてしまうことによって招来する共同性からの孤立であり、共同性からの追放の予感である。共同性が現実化したものとしての「社会」は、ある個人がその社会の秩序を乱すことが、いかにその当人を、共同性の剥奪された裸の個人に追いやるか、そしてそれがその当人にとっていかに恐ろしいことであるかをよくわきまえているのだ。



村上春樹さんのこと

2013年11月10日 02時38分48秒 | 文学

村上春樹さんのこと


 村上春樹さんの新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が、18日、累計100万部突破、文芸作品では最速だそうです。村上さん、まことに慶賀の至りです。
 しかしここでは、この作品についてあれこれ言おうというのではありません。第一、私はこの新作を読んでおりませんし、当面、ほかのことに関心が行っているので、おそらくこれからも読まないだろうと思います。
 村上さんの本は『海辺のカフカ』まではわりとていねいに追いかけていました。しかしこれを読んだとき、なんだかヤングアダルトの感性に無理に媚びた作品のように感じたのと、ゲームやマンガなどのポップカルチャーから「物語の型」をパクってきただけのように思われて少々うんざりし、それ以来、彼のものを読むのをやめました。印象批評ですみません。
 じつは上のニュースを知るとほとんど同時に、私のもとに、来年度から高校で使用される国語教科書『現代文B』(桐原書店)の見本が届けられました。拙文が評論コーナーに収められているからです。ありがたいことです。
 それはともかく、この教科書の巻頭に村上さんのエッセイが載っているのですね。一読してなかなかいい文章だと思いました。タイトルは、「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」。2011年刊『村上春樹雑文集』から採録されているそうです。
 このエッセイは、私なりの理解によれば、小説の世界が私たちの中で生き生きと動いていくためには、発信者側の構えと受信者側(読者)の構えとの間にどのような運動がはたらくからなのかというテーマを追いかけたものです。自分が研いだ鑿の切れ味を繊細な手つきで何度も確かめているような言葉の選び方をしており、さすがに一級の小説職人にふさわしい出来栄えです。
 彼はまず言います、「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。
 なぜわずかしか判断を下さないのかと言えば、判断は一定の結論を導きやすいが、小説は結論を述べるものではなく、仮説を丹念に積み重ねて読者に提示するものだから、というのですね。私などは、小説家の作業を「仮説」という言い方で括ることにさえ少々引っ掛かりを感じるのですが、それはまあ論理的な作業に託した一種の比喩と考えられますからいいでしょう。
 さて読者は、その「仮説の積み上げ」を、自分なりのオーダーにしたがって並べなおし、精神の組成パターンを組み替えるサンプリング作業を行います。この作業を通じて人生のダイナミズムをわがことのようにリアルに「体験」することになる、というわけです。
「仮説の行方を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる。」
 この「作者―読者」論がたいへん優れていると私が感じるゆえんは、もともと言葉というものが、それを受け取った側の再構成の過程を経て初めてその運動を完結させるという、言語一般の本質に的中していると思うからです。ですから、ことは小説家とその読者の関係の問題にだけ限定されません。何気ない身振り・表情から論理的に明快な文章までも含めて、あらゆるコミュニケーションが、村上さんの指摘するような「風と風に揺らされるもの」という関係におかれている、と私は思います。
 さらに面白いのは、ある読者から、「就職試験を受けたら原稿用紙四枚以内で自分自身について説明しろという問題が出たけれど、ぼくにはそんなこととてもできない。村上さんだったらどうしますか」という質問を受けたときの村上さんの回答です。以下、一部を引用してみましょう。

 こんにちは。原稿用紙四枚以内で自分自身を説明するのはほとんど不可能に近いですね。おっしゃるとおりです。それはどちらかというと意味のない設問のようにぼくには思えます。ただ自分自身について書くのは不可能であっても、たとえば牡蠣フライについて原稿用紙四枚以内で書くことは可能ですよね。だったら牡蠣フライについて書かれてみてはいかがでしょう。あなたが牡蠣フライについて書くことで、そこにはあなたと牡蠣フライとの間の相関関係や距離感が、自動的に表現されることになります。それはすなわち、突き詰めていけば、あなた自身について書くことでもあります。(中略)もちろん、牡蠣フライじゃなくてもいいんです。メンチカツでも、海老コロッケでもかまいません。青山通りでもレオナルド・ディカブリオでも、何でもいいんです。とりあえず、僕が牡蠣フライが好きなので、そうしただけです。健闘を祈ります。 

これはじつにうまい答え方ですね。自分自身について書くのではなく、自分が関心を持っているなにかについて書いてみる。そうすると、その書かれたもののうちに、おのずと自分自身があらわれる。「文は人なり」というやつですね。
 私は教育にかかわった経験があり、現在も少しばかりかかわっていますので、この考え方をついつい作文教育などに応用したくなります。
 しかしよく考えてみると、村上さんのようにうまくはありませんが、私もまた、これまで若い人たちに同じような接触の仕方をしてきたことに気づきます。大学のゼミで映画を見せたり本を読ませたりして何度も感想文を書かせるのですが、ときどき、映画を見なかったのに感想文を書く時間に出席してくる学生がいます。そういう時、どうすればいいかと学生が聴くので、「君がいま一番気になっていること、関心を持っていることについて書きなさい」と指示します。
 この問題も、単に「書くこと」のみにかかわっているのではなく、「生き方」一般にかかわっているといえます。自分が本当は何がしたいのか、自分はどう生きていけばいいのか、など、若い人たちは堂々巡りの問いに悩まされることが多いと思いますが、こういう問いに答えが出なくても、牡蠣フライを食べてみること、牡蠣フライを作ってみること、だれかと一緒にいろんな店の牡蠣フライについて批評し合うことは可能ですね。そういう「モノ」や「他者」への具体的なはたらきかけを続けているうちに、おのずと自分はどういう存在なのかということが見えてくるはずです。
 なんだか説教臭くなりましたが、私自身も、自分がいま関心を持っていることについて、できるだけ具体的に書いていこうと思っています。それで、牡蠣フライにもメンチカツにも海老コロッケにもあまり関心はありませんが、いくつかの関心のうち、今日は村上春樹さんに対する自分のちょっとした関心を書いてみました。
 数か月前にも村上さんに関心を持ちました。それは、尖閣問題で北京政府が反日をいちばん煽っていたころ、彼が、中国の書店から自分の本が消えたことに関して、中国の一部に見られた「焚書坑儒」的ふるまいを何ら批判することなく、逆に日本の読者に向かって「復讐心を燃やしてはいけない」などという見当違いの自虐的なメッセージを発したからです。それで、それについて友人の運営するブログに投稿いたしました。
 なお、このことに関心をお持ちの方は、以下のURLにアクセスしてみてください。
「美津島明さんのページ」
mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2914454/ 
mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2914455/ 

 また、月刊誌『正論』2013年1月号に、上の論稿を圧縮改稿された記事が掲載されています。

 閑話休題。村上さんは、牡蠣フライについてはいくらでも素敵な文章が書けるのでしょう。それはとてもすばらしいことです。しかし尖閣問題については、全然勉強もしていないバカな文章しか書けないようです。いくら多少の関心を持ったとしても、よく知らないことを「村上春樹」の世界ブランドでまき散らされては困りますね。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の100万人の読者のみなさん、ぜひ、そこのところをはき違えず、これからも吹いてくるかもしれないヘンな風にたやすく靡かないように、私からお願いしておきます。
 なお蛇足ですが、今日のこの文章は、かつて村上さんを厳しく批判したので、やりすぎを反省してバランスを取ったものではまったくありません。牡蠣フライや恋の悩みについて書かれたすばらしい小説を褒めたたえることと、同じ書き手が尖閣問題や北京独裁政府についてバカなことを書いたのを批判することとは、けっして矛盾しません。有名な文学者がいると、彼に群がるメディアは、立派な文学者だからその政治的・社会的発言もさぞ立派だろうと勘違いするのか、あるいはこれはビジネスになると踏むのか、とにかく、こういう間違った風潮から早く脱却しようではありませんか。