小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

いずこも同じ「絶望の党」

2017年09月27日 12時04分52秒 | 政治



衆議院が解散されます。
10月22日が投票日と決まりました。

安倍首相は、2019年10月の消費増税を実行することを約束し、
増税による増収分をすべて「国の借金返済」に充てるのではなく、
「より多くを」教育無償化などに充てるそうです。
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20170919/k00/00m/010/085000c

あ~あ、というしかありません。
いまさら言うまでもなく、PBの黒字化のために増税するというロジックには、何の根拠もありません。
そもそも日本には、財政問題など存在しないのですから。

増税によって税収が増すというロジックにも、何の根拠もありません。
増税によって消費が落ち込みデフレがいっそう進行すれば、GDPは下がり、税収はかえって減ります。
その可能性のほうがよほど高いでしょう。

このチンケな公約(?)に人気が得られないことを素早く見て取ったのか、
小池東京都知事は、「絶望の党」もとい「希望の党」代表に就任するや、
さっそく「消費増税凍結」を打ち出しました。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASFB25HKJ_V20C17A9L83000/?n_cid=NMAIL005

さすがは人気取りの得意な小池さん、あっぱれと言いたいところですが、
実現させる気のないインチキ公約であることは見え見えです。

というのは、「希望の党」の政策には、
一院制、ワイズスペンディング(賢い支出)、議員定数・議員報酬の削減、行政改革
などが掲げられていて、緊縮財政路線とぴったり一致するからです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%81%AE%E5%85%9A

つまり両者は、あちら立てればこちら立たずの関係にあるわけです。
それにこれらは、すでに誰かが提唱してきたことで、何の新味もありません。

でもそんな理屈はどうでもいい。
とにかく選挙、選挙、目玉がなきゃダメなのよ!」と、
小池サン、若狭クンを叱咤したかどうか知りませんが、
もし本当に増税凍結を考えているなら、財務官僚の鉄壁の緊縮路線や、バカなマスコミの国民洗脳にどうやって打ち勝つのか、その処方箋くらいは示してほしいものです。
徹底した情報公開」を政策に掲げている限りは。

期待しても無駄でしょうが。

ついでに言わせてもらいますと、失言居士・麻生副総理は、最近ご高齢で耄碌されているのか(失礼)、
今回の小池氏の「消費増税凍結」打ち出しに対して、
「東京で景気回復を実感できないというのは、感性がおかしい。地方で実感できないというならまだわかるが」
などと、とんでもないオトボケを言っています。
http://www.sankei.com/politics/news/170926/plt1709260048-n1.html?utm_source=browser&utm_medium=push_notification&utm_campaign=PushCrew_notification_1506368619&pushcrew_powered=1

問題は「実感できるかできないか」ではなく、景気が客観的に回復しているかどうかでしょう。
財務大臣を勤めながら、地方の疲弊、東京一極集中という格差が財務省の緊縮路線に起因していることも見えないらしい。
すっかり財務官僚の罠にはまってしまって、もはや官僚をコントロールする気概もないようです。

というわけで、いまの政局見渡せば、
花も紅葉もなかりけり。
いずこも同じ絶望の党

でも総選挙となると、国民はけっこう興奮するんですよね。
「今度こそ何かが変わるかもしれない」なあんてね。
しかし、それこそが盲点なのです。

選挙に関心が集まるということ、
結果に何かを期待するということ、
これは、「国権の最高機関」たる国会が国政の大筋を左右する、とみんなが信じていることを意味します。

ところが、いま実際に国政を左右しているのは、
財務省、経産省、国交省、外務省、厚労省などの有力官庁であり、
パソナ会長・竹中平蔵氏のようなグローバリズム「民間議員」です。
実際、彼らの意向によって、この間、多くの悪法が通ってきました。
安倍総理、麻生副総理などは、ほとんどこの勢力の傀儡にすぎません。

ちょっと、そこのオバサン、
仮に万が一、小池新総理が誕生したとしても、この実態は変わりませんよ。

すると、総選挙というのは、大騒ぎをして、そういう実態を国民に見えなくさせる
「お祭り」にすぎないことになります。

そう、民主主義など、もはやこの国では機能していないのです。

では、選挙、つまり代議政治にはまったく意味がないのか。
いまのままではそう言えるでしょうね。
しかし「本質的に意味がない」と言っちゃあ、おしめえよ。

前にもこのブログで書いたのですが、
https://38news.jp/politics/10204
国民の代表が少しでも民意を国政に反映させられるように、選挙制度を根本的に見直すのです。
内閣や官僚が国民のためにならない政治をやったら、まっとうな批判ができるような真に優れた政治家が選ばれる。
そういう仕組みを考えるのです。

そのためには、民意そのものも優れたものにしなくてはなりません。

そこでアイデアですが、
有権者と立候補者それぞれにテストを課して、参政権保持者をある程度まで絞るのです。

それじゃあ、民主主義に反する、という反論があるかもしれません。
しかしよく考えてみてください。

世の中には、政治のことなどろくろく考えてもいず、判断能力のない人がいっぱいいます。
これから社会の高齢化が進むとますますそういう人が増えるでしょう。
いまの選挙制度は、そういう人たちにも、ふだんからよく考えている人と同じ一票を与える「形式的な民主主義」にもとづいています。
これで、いい世の中が生まれるとあなたは本当に思いますか。
実際、経済のことなど何にもわかっていない政治家が大きな顔をして、
「消費増税待ったなし、財政破綻の足音が聞こえてくる」
などと狂ったことをのたまっているではありませんか。

さてこのアイデアでは、
まず有権者には、健康な常識人なら、まあだいたいが合格できるような易しいテストを課します。
運転免許やパスポートと同じように、期間を決めて、期限が来たら更新が必要で、そのたびにテストを受けます。
高得点者には複数投票権を与えるような「差別選挙」も視野に入れるべきでしょう。
ちょうど株主総会の議決権のように。

また、立候補者のテストは、公共心をわきまえた政治的見識や、現実のマクロ経済の知識を問う難しいものにします。
ただし、大学などで講じられている政治学や経済学の知識ではありません。
またこのテスト問題には、イデオロギー色があってはなりません。

この場合は、期間を設けるのではなく、国政選挙のたびごとに実施することにします。

以上のアイデアは、悪平等主義の弊害や組織ぐるみの半強制的な動員、その場の人気だけに依存するポピュリズム政治などを避けるためです。
形の上だけの公正さは、真の公正さではありません。

このようにすれば、一般国民も忙しいなかを縫って少しは政治に関心を持つでしょうし、選挙に出たい人も必死で勉強するでしょう。
政治経済塾のようなビジネスが並び立つこともOKです。
こうして、民意全体の向上が期待できます。
「絶望の党」も少しは減るでしょう。

あとは、誰がこの制度を作り、誰が運用するのかという課題が残っているのですが。

竹田青嗣・小浜逸郎 公開対談のお知らせ

2017年09月15日 01時21分16秒 | お知らせ



以下の要領で、哲学者・竹田青嗣さんと私とで公開対談を行います。

●日時:11月12日(日) 14:00~18:30

●会場:ルノアール新宿区役所横店

●テーマ:グローバリズムとナショナリズムのはざまで

なお、これをきっかけに、ホームページ「思想塾・日曜会」を立ち上げました。

読書会、仲間たちによる講演会、映画鑑賞会など、さまざまなイベントを紹介していきます。


竹田・小浜公開対談の詳しい情報も、このホームページに掲載されています。

どうぞご一読いただき、ふるってご参加ください。
https://mdsdc568.wixsite.com/nichiyokai


政治の本質とは何か――山尾議員疑惑に寄せて

2017年09月12日 15時51分19秒 | 政治




報道によりますと、民進党は、8日、幹部会議で幹事長代行に辻元清美氏を選ぶことに決定しました。
この人選も問題ですが、山尾志桜里不倫疑惑問題の余震をなるべく早く終息させようとの思惑でしょう。まあ、勝手にやってくれというほかはありません。

山尾議員は不倫の事実を認めず、民進党を離党することになりました。
離党でなく議員辞職すべきだとの声もありますが、ここで論じたいのは、その種の議論ではありません。
解体しつつあるいまの民進党に何を期待しても無駄です。
壊れゆく運命にあるものは、自然の勢いに任せよ。

森友学園問題に始まり、加計学園問題、豊田議員暴言問題、稲田元防衛省失言問題、そして今回の山尾議員不倫疑惑問題と、ここのところ政局は、スキャンダルに翻弄されている感があります。
もちろん、ここにはワイドショーや週刊誌など、マスコミの興味本位によるすっぱ抜きや煽動が大いに関係しています。しかし、中央政局がそれらを大真面目に取り上げなければならない社会背景は何かということを見ておくことが大切です。

それは、ひとことで言えば、こうした「話題」にたちまち関心を集中させる国民大衆のどうしようもない空気です。
マスコミもビジネス、そこはちゃんと心得ていて、政治家のスキャンダルを取り上げ続ければ売れるという読みがあるのでしょう。
マスコミだけではなくネットもたちまち炎上します。ネットもビジネスですね。

民主政治では、国民が主権者であるという建前があるので、何となく、自分たち自身が国政とつながっているという幻想が膨らみます。
しかし実際には、国民の意思がよき国政に反映されるというふうにはなっていません。
そこで、なぜ国民はこの種の政治スキャンダルに飛びつくのかと言えば、要するに憂さ晴らしです。ルサンチマンのはけ口です。「パンとサーカス」です。
政府や政党も、この大衆社会のおそるべき動向を無視するわけにいかず、仕方なく「正義の政治、清い公党」を装って、ひたすら対応に追われるという按配。

ところで、じつは多くの人が、こうした成り行きを「くだらない」「何やってんだ」と感じているでしょう。それでも劣情を刺激されてつい視聴者になってしまう。
問題はこの「くだらなさ」の源がどこにあるかです。
民衆とはもともとそういうものだと言ってしまえば、身もフタもありません。
もう少し事の本質をよく見極めてみましょう。

上に挙げた政治スキャンダルには、一つの共通点があります。
それは、「政治に従事する者は道徳的に正しくあらねばならぬ」という金科玉条をタテにして騒ぎを起こしているという事実です。
この金科玉条は、日本の政治では、疑われたことがありません。それどころか、日本の国民のほとんどが、この命題を政治家非難や政治批判のために最優先させるべき武器だと考えているようです。

ここ近年、政治家が引きずりおろされた、または引きずりおろされかけた例を思い起こしてみても、国民大衆のほとんどがこういう発想をとっていることがわかります。
猪瀬直樹元東京都知事、舛添要一前東京都知事、宮崎謙介元衆議院議員、今井絵理子衆議院議員、そして上に挙げた人たち。
非難や批判の内容は、汚職、公金流用、不倫とさまざまですが、一様にこれらを「道徳的な悪」として糾弾し、それをもって「政治家失格」の烙印を押しつけています。

この発想は正しいか。

筆者はこう考えます。
ここには、政治家としての力量、業績、能力によってその適性を評価するという基準がほとんど見られません
政治家としての力量、業績、能力とは、案件を広い視野と公共精神をもって考え、知識と経験を活用して適切な政策を立案し、巧みな実行力を駆使してその政策を実現に導くことです。
そしてその実現された政策が、実際に国民の福利の増進に貢献したかどうかが絶えずチェックされなければなりません。

断っておきますが、筆者は、上に挙げた人たちが、政治家にふさわしいそういう資質の持ち主だったなどと言っているのではありません。
そこそこ能力を持った人もいれば、全然ダメな人もいます。芳しからぬ政策を取った人もいます。
憂うべきは、そういう判断が、該当する政治家たちの評価基準として採用されず、ただ清廉潔白であったかどうかという基準のみによって去就を決定させられてしまうという、おかしな風潮が蔓延してしまっていることなのです。

日本人のほとんどは、近代国家における政治というものの本質がわかっていないのです。
考えてみれば、これは日本の伝統と言ってもよい。
儒教道徳が流布した江戸時代から、孝悌忠信、至誠、質素倹約などばかり尊ばれ、こうした徳義に従わない者は人であるかのようなまなざしを受けてきました。政治家も例外ではありません。
江戸時代に沁み込まされた徳治政治こそ良しとする伝統が、いまなお続いていて、国民性の大きな部分を形づくっています。

ちなみにこういう国民性を戦後になって助長させた「大物」がいます。立花隆氏です。
彼は、田中金脈問題を執拗に追跡し、その名をとどろかせましたが、その膨大な仕事の中で、田中角栄の優れた政治的手腕(特に通産大臣時代の)に触れたことは、ただの一度もありませんでした。

しかしもはや近代百五十年、至誠や清廉潔白などを政治家評価の中心に置くような時代ではありません。複雑多様化したこの先進社会を維持発展させていくために、幅広い知識情報にもとづく的確な処理能力と優れた政治手腕とを結集させることこそが問われているのです。
また修羅場である国際社会に向けては、マキャヴェッリ的な巧智がぜひとも必要とされます。

もちろん、道徳は大切ですし、ことに一般人に比べて公人にはそれが厳しく求められることは論を俟ちません。
しかしそれは、あくまでも政治家としての資格要件の一つであって、政治家という職能の本質要件ではありません。
政治家の職能の本質は、錯綜した社会問題をいかに調整し、国民最大多数の最大幸福をいかに実現するかに求められます。

日本人の多くがこのことに気づかず、いつまでも道徳的判断だけをよりどころにスキャンダル合戦を繰り広げ、政治家降ろしにうつつを抜かしていると、わが国は内憂外患の増大によって確実に亡びの道を歩むでしょう。

言うまでもなく、日本はいま、北朝鮮の核保有問題や中国の不当な圧力の問題など、安全保障にかかわる喫緊の課題を抱えています。しかし日本独自の積極的な国防策は動き出す気配がありません。
また、この数年間、安倍政権の下で、消費増税、電力自由化、労働者派遣法改悪、農協法改悪、TPP批准、無原則な移民受け入れ、みなし残業手当廃止、種子法廃止など、国民のためにならない悪政が、大した議論もなく次々と押し進められてきました。
デフレ脱却のための有効策はちゃんとあるのに、財務省の「緊縮真理教」がこれをずっと阻み続けています。
「パンとサーカス」を求める大衆のどさくさにまぎれて、これらの悪政や政治的不作為が現にまかり通っているのです。

かつて福沢諭吉は繰り返し言いました。愚かな政府は愚民によって支えられると。
私たちが世界から愚民国家の住人と嘲笑されないためにも、政治の王道を外したくだらない「政治家降ろしの風潮」から一刻も早く脱却しましょう。