5月25日に首都圏でも緊急事態宣言が解除されました。
街には徐々に日常性が戻りつつあります。
心なしか、人々の表情には明るさが見られます。
本来、日本では、この「緊急事態宣言」なるものは必要のないものでした。
そんなことを言えば、「何を言ってるんだ、それがなかったら、コロナ感染がどこまで広がっていたかわからない。死者数も比較的少なくて済んだのは、この宣言の要請にみんなが従って自粛したからじゃないか。それに、まだ終息したわけじゃなく、第2波、第3波にも備える必要があるんだぞ」と猛烈なバッシングを食らいそうです。
しかし、この疫病の性格をよく考えてみると、どうもそういう認識は当てはまらないようです。
これからその理由を述べていきますが、その前に、この過剰自粛を促した宣言が、どれほどの経済的犠牲を国民に強いたかに思いを寄せなくてはなりません。
政府は「要請」というレトリックを用いて、休業補償から逃げ、大規模な財政出動からも逃げ、消費税の凍結からも逃げました。
これから日本は大変な経済恐慌に突入していくでしょう。
さて理由の第一は、この病が、感染力の猛烈さに比べて、重症者や死者のほとんどが60歳以上の高齢者と持病の持ち主に限られているということです。
下の図は、5月7日時点での年齢別の感染者数で、上から順に、80代以上、70代、60代、50代、40代、30代、20代、10代、10歳未満、不明となります。色分けは、左が死亡、中が重症、右が軽症・無症状・確認中です。
https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/?fbclid=IwAR2YWT90_yBeDd_-tFhAG6HdAJwoN7JF-Ej_2FwJ7n97c5MqmzAvw7gjUXw
理由の第二は、ここ7年間で、インフルエンザによる死者が平均2000人を超えているのに、その際、ロックダウンの可能性など一切問題にされなかったという事実です。
これに、ふつうの肺炎による死者が、年間11万人以上いることも付け加えておきましょう。
これは病死の原因の第4位を占めています。
もっとも、この場合も、高齢者がほとんどで多くは基礎疾患があった場合でしょう。その点では新型コロナと変わりません。
11万人といえば、毎月約1万人に及ぶので、このコロナ禍が騒がれた4か月間に、すでに4万人近くに達している計算になります。
しかし、これまで普通の肺炎による死者が多いからというので、緊急事態宣言などが発出されたことはありませんでした。
ちなみにコロナ死者は、5月27日現在で累計867人。
理由の第三は、自粛徹底あるいは自粛要請が、果たして功を奏したのか、という疑問が残ることです。
政府や自治体は、国民の皆さんのご協力のおかげで感染者数、死亡者数も少なく抑えることができたと、その効果の宣伝に大いに努めることでしょう。
しかし、ヨーロッパでは、スウェーデンが外出規制や過剰自粛などを強制しなかったにもかかわらず、厳しい規制を強いたその他の諸国と、死亡者数の増加のカーヴに変化が見られません。(下図)
欧米諸国では現在、ほとんどの国が終息に向かいつつありますが、厳しい規制を課しているその最中にも、死亡者数はどんどん上昇していました。
無症状感染者、軽症感染者を増やすことによって、免疫力を獲得した人を増やすという戦略も十分にあり得たのです。
もちろんその場合でも、高齢者や持病の持ち主には、厳しい隔離政策を取ることが要求されますが。
理由の第四は、ウィルスというのは、生体に寄生して初めて活性化するので、その生体が死んでしまえば自分も不活性になってしまうという事実です。
現在、ブラジルなど一部の例外を除いて、世界的にコロナ死者が終息に向かっているのは、規制が功を奏したのではなく、一定の死亡者が出たために、ウィルスそのものが自然に不活性化しつつあるためではないかと考えられます。
これはペスト、コレラなどの伝染病を引き起こす細菌でも同じで、中世のペスト流行も、抗生物質などなかった時代にもかかわらず、多大な死者を出したのちに、生き残った者たちの間に自然に免疫が形成され、最終的には終息していきました。
原因は、生体に寄生して生きる宿命を持ったこれらの微生物が、生体の死と共に自分も死んでいったからだと考える以外、決定的な理由が見出せません。
理由の第五は、欧米とアジアとの死亡者数の極端な差にかかわります。
日本ではなぜ欧米に比べて重傷者、死亡者がこんなに少ないのかという現象は、多くの人がその理由を問題にしてきました。
欧米の握手、ハグなどの「濃厚接触」の習慣、マスクをしない習慣、日本人の「ウチ、ソト」をハッキリ分ける伝統、清潔好きの国民性、BCGをしたかしないかの違いなど、いろいろなことを言われましたが、どれもピンときません。
前にもこのメルマガで取り上げましたが、下の図は、人口100万人当たりの死亡者数の5月27日現在までの累計です。
https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/death.html
死亡者が多く出た欧米諸国、上昇中の国、死亡者の少ない国の三つがよくわかるように国を選んであります。
上から順に、ベルギー、スペイン、イタリア、イギリス、フランス、スウェーデン、アメリカ、ブラジル、ドイツ、メキシコ、ロシア、フィリピン、日本、インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイ。
なお、筆者の判断で、この国の統計は、そのカーヴの具合や国情から見て当てにならないと思える国は、省いてあります。
それは、中国、韓国、台湾、インドです。
疑問に思う方は、上記の原資料に当たってみてください。
しつこいようですが、このグラフの縦軸は、対数目盛です。
したがって、多い国と少ない国との差は、見た目よりもはるかに大きくなります。
最高のベルギーは805.38、日本は6.78、最低のタイは0.82といった具合です。
まずここで言いたいのは、欧米に比べて死亡者が少ないのはじつは日本だけではなく、アジア諸国が軒並み2桁から3桁低い数字を示しているという事実です。
これは、生活習慣その他で説明できる問題ではありません。
フィリピンやインドネシアが、日本のような清潔好きの国民性を持っているとは考えられないからです。
なぜアジア諸国がこんなに少ないのかについては、すぐ後で仮説を述べたいと思いますが、
ここで指摘しておきたいのは、第一に、日本人は先進国意識がぬけないために、国際比較をしようとすると、欧米社会しか思い浮かべない癖がついていることです。
そのため、死亡者数に2桁の違いがあるにもかかわらず、欧米で騒がれたことはその対策に関してもすぐ見習って大騒ぎしやすい。
西洋は、これもあとで述べますが、ある社会心理的、宗教的理由から、一種の集団ヒステリーに陥ったのだと思います。
さぞかしペストの歴史的な記憶も甦ったことでしょう。
日本は、足元のアジアの事情など関心の埒外で、この集団ヒステリーに煽られて、パンデミックだのロックダウンだのオーバーシュートだのクラスターだのソーシャルディスタンスだのといった、日常聞き慣れないカタカナ語の飛び回る大きな渦に巻き込まれてしまったわけです。
日本ははたしてロックダウンなど想定すべき状況だったでしょうか。
筆者の考えでは、答えは否です。
ではアジア諸国と西欧諸国とは、どうしてこんなに差がはなはだしいのでしょうか。
筆者は素人なので、推測の域を出ませんが、これには遺伝子的な相性の問題が関係しているのではないかと思われます。
調べてみますと、ヒト白血球抗体(HLA)の違いというのが、ウィルス性の伝染病に罹りやすいか罹りにくいかに大きく関係しているという研究があります。
この相性の問題は白血病や結核についても昔から研究されていますね。
新型コロナでも、今回のウィルスは、西欧人の体内のHLAと共存しやすい。
断定はできませんが、今のところ、この仮説が一番説得力がありそうです。
専門家の研究成果を待ちたいところです。
理由の第六。
次のような資料があります。
https://newstopics.jp/url/11218490
新型コロナ患者から取り出した検体からウイルス培養を試みた場合、発症から8日目までの検体からは培養できても、9日目以降の検体からは培養できないそうです。
培養できなくなるとは、ウイルスが増殖力を失ったか減退させたことを意味します。
増殖力がなければ感染も不可能です。
同じ資料にこれと符合する研究が紹介されています。
台湾で100例の確定患者とその濃厚接触者2761人を調べたものがあります。
後に発病したのは22人ですが、すべて確定者患者とは発症前もしくは発症後5日以内に接触した者で、発症6日以降に接触した者には発病者はゼロだったそうです。
これらの研究が正しければ、発病後1週間を経た患者にはもはや感染力はないことになる。
コロナ患者をいたずらに回避したり快復後も外出自粛を要求するのは、無意味で非合理といわざるを得ません。
つまり、新型コロナは、短期間の感染力は猛烈ですが、大した疫病ではなかったのです。
以上述べてきたことについて、次のような反論があろうかと思います。
そうは言っても、第2波、第3波は、必ずやってくる。これで終息に向かうなどとは言えないだろう、と。
もちろん、第2波だろうと第10波だろうと、こうした流行病のたぐいはこれからもやってくるときはやってくるでしょう。
何が起きるか、未来はわかりません。
これまでも、インフルエンザは何度も何度も、かたちを変えてやってきました。
でも問題は、これからそのたびに「そらパンデミックだ」と大騒ぎし、緊急事態宣言を出し、経済活動を停止させるのかということなのです。
一部の医療関係者を中心に、第2波、第3波が必ず来ると騒いでいる人たちは、どういう科学的根拠があってそんな予言めいたことを言っているのでしょうか。
それをきちんと聞きたいものです。
思うに、こうした不安を煽る(自分が不安に煽られている)人たちは、例のスペイン風邪の歴史的な記憶に基づいて騒いでいるだけなのではないか。
また新型コロナにはS型とL型があって、日本にはS型が入ってきたが、ヨーロッパにはL型が入った、第2波ではL型がくるから、これには抵抗できない可能性が高いなどという人もいます。
筆者はSとLとがどう違うのか知りません。
たしかに西洋人は体が大きく、Lサイズが合うでしょうね。
しかし外国帰りの日本人や訪日外国人を通して、すでにL型は入ってきているのです。
それなのに、感染爆発など起きていませんね。
また、最近よく報道されているニュースに、ブラジルのコロナ禍が増大しているというのがあります。
たしかに上の図で確認される通り、ブラジルのコロナ死者数はついにドイツを追い越して、急速に上昇中です。
しかし、これは、疫病問題というよりは、貧困問題、政治問題でしょう。
なぜなら、メディアに映し出されるようなああいう貧困地区では、非衛生極まりなく、治安も悪いので、これまでも悲惨な事態が他にいくらでもあったにちがいないでしょうから。
メキシコもおそらく事情は同じ。
そこからコロナ問題だけを抽出すれば、いかにも今度は中南米から全世界に広がっていくようなイメージを与えられ、集団ヒステリーはまだまだ続くことになります。
それにしても、今回よりずっと死者が多かったほかの時には、日常生活や社会活動を壊すような騒ぎにはならなかったのに、今回のように政府、マスコミ、一般国民のほとんどすべてに至るまで、夜も日も開けずにコロナ、コロナと騒ぎ立てたのは、どうしてなのでしょうか。
まあ、ブームだと見れば、その非合理性に納得がいかないでもないですが、しかしブームはなぜ起きたのか。
これを考えることは、けっこう重要な文化的問題、もっといえば、思想的問題のように思えます。
いろいろ考えられるのですが、一つは、中国という「ならず者国家」がその発祥地だったという点がまずあるでしょう。
独裁政治を敷いて、言論の自由が許されず、国外からは何をやっているのか正確に把握できない。
国際社会のなかで、この大国は、いつも周囲に不気味な心理的威嚇を与えています。
心ある日本人は、この隣国が直接の脅威をもたらしていることを知っているので、その剣呑さをよくわきまえていますが、ヨーロッパ、特にドイツはこれまで中国と経済的に密接な関係を持っていたこともあって、この国の恐ろしさを甘く見ていたところがあります。
流行の先手を切っていたイタリアは、北部の多くの地区が中国人に占領されていました。
で、今回その中国に手ひどい目に遭った。
ようやくヨーロッパ諸国は、今度のことでこの国がいかに危険な要素を抱えているかに気づいたようです。
次に考えられるのは、新型コロナウィルスの到来が、これまでのものと違って、初体験で未知の要素が多かったということです。
疫学的な対処法が確定できず、ワクチンもできていない。
こうした未知との遭遇に、世界の人々の不安はいやがうえにも高まりました。
また、マスコミだけでなく、SNSなどの情報ツールが過剰に発達していて、不安が不安を呼び、憶測やフェイクニュースや陰謀論が乱れ飛んで、一種の自縄自縛の風評被害に遭ってしまったということも考えられます。
世の中には、いろいろなことが起きていて、個別の不幸や苦しみに出会い、そこで耐えられなくなって挫折したり、必死で耐えている人がたくさんいます。
世界大の出来事もあちこちでたくさん起きているはずです。
ところが、マスコミやネットニュースは、来る日も来る日もまずはコロナばかり。
まるで大事なことはそれしかないと言わんばかりの勢いでした(まだこの傾向は続いていますが)。
この一点集中は、悪循環を生んで、私たちの関心をますますそこに追いこみ、洗脳状態にしてしまいました。
これは一種の全体主義と呼ぶべき事態です。
全体主義といえば、ナチズムやスターリニズムのような、政治的・歴史的な大事件を思い浮かべるのが慣らいですが、筆者は、今回のコロナ騒動に遭遇して、ああ、全体主義ってこういうものなんだなあと、痛感しました。
全体主義とは、要するに、人々が普通の日常生活を普通の気分で送ることを許さない雰囲気の支配、ということです。
たとえば、今日は休みだから、ちょっとぶらっと床屋でも行って、いつものコロッケ屋のおばさんに冗談を言って、コロッケを買って家に帰る。夜は飲み屋で酒を飲み、いい機嫌になって大将と馬鹿話をする。
こういうことができるのが「自由」で、そうした普通の日常を壊すのが「全体主義」です。
今回の「全体主義」は、特定の独裁者が意図的にもたらしたものではありません。
むしろ、その真犯人は、大衆の社会不安につけ込んで心理を支配してしまった、たった一つの「情報」という妖怪です。
その意味では、全体主義が成立するためには、大衆の不安心理という非合理的なものの参加が不可欠です。
そして、この不安心理の背景にあるのは、情報のグローバリズムです。
遠いヨーロッパで起きていることとそっくり同じことがこの日本でも起きているかのような錯覚に陥らせる。
何しろ、リアルタイムで遠隔地の状況が知らされるのですから、明日は我が身、他人事とは思えないという焦りの気分が一気に醸成されます。
こうしてパニックはたちまちのうちに広がり、日本の為政者も国民も、それに何の抵抗もなく乗っかってしましました。
ところで、疫病としてのコロナは、もちろん中国が発祥地ですが、社会心理現象としてのコロナ全体主義は、むしろヨーロッパが発祥地です。
考えてみれば、あの政治的な全体主義も、もともとはその土壌をヨーロッパにもっています。
ヨーロッパの世界把握の仕方は、古くは神と悪魔の対立というスキームにはじまりました。
やがて合理の光の下に闇の部分を抑え込み、その旺盛な力によって、自然や異世界の征服に乗り出します。
あくなき科学的な探求、古い体制の転覆、そして強い意志に基づく大航海時代の遠征や後の植民地帝国主義。
これらは、真理は神(ゴッド)に宿るという一神教的な信念がなければかなわないことです。
しかし、合理主義の力(それはゴッドの近代版です)によって闇や異物を駆逐し、すべてを明るい光の下に照らし出そうとしてきたのですが、この光と闇、神と悪魔の二元論的なスキームにはもともと無理が伴っていました。
時折、闇や未知の異物が出現すると、たちまち不安と心理的恐慌が噴出します。
彼らは、現代の宗教である「科学」の力によって、何が何でも現代の「悪魔」を抑え込まなければならぬという焦燥に駆られます。
彼らは自然が人間を侵害してくる状況に接して、ひたすら自然を敵視し、強引に克服しようとします。
しかし、ウィルスは、果たして克服の対象なのでしょうか。むしろうまく共存すべき相手なのかもしれないのです。
明治以降、西欧化の道を歩んできた日本が、何もその世界把握方法をそのまま真似る必要はなかったのではないでしょうか。
もっとも、今回の場合、ヨーロッパほど厳格な規制を敷いたわけではなかったし、死者数を見ればその必要もなかったのですが、「お上」の言うことに率先して従って自主規制を徹底させた国民は、経済的に自ら首を絞める結果になりました。
この事態はむしろ、まことに日本的というべきかもしれません。
この問題を緻密に探究するには、広い文化論的な視野を必要とするので、一朝一夕には論じられませんから、機会を改めることにしましょう。
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