小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する10

2013年11月12日 16時46分25秒 | 哲学

日本語を哲学する10
(ヴィトゲンシュタイン批判つづき)



  三・三   命題のみが意味をもつ。(略)

 これも納得し難い言明である。ふつう、命題とは、「AはBである(ない)」とか、「もしAならばBである」とか、「AがBでないならばCはDではない」というように、「陳述」の形をとった言葉のことをいう。ヴィトゲンシュタインは、言葉の世界の核心を「命題」すなわち「明瞭な陳述」というところにのみ求めている。しかし、いうまでもなく言語表現の形式は陳述のみに限られない。それには、質問、命令、依頼、勧誘、忠告、叱責、謝罪、挨拶、感謝、追及、説明、教唆、語り、告白、宣言、口論、喧嘩、討議、感動表現、芸術表現、言語自身への自己言及その他、ありとあらゆる形式のものが含まれ、その多様な形式は、ちょうど私たちの行動と同じように、それら固有の「表情」をもつ。
 もちろん、この中には、陳述と解釈されうる形式がないではないし、陳述を内部に含むものもないではない。しかし、たとえば「死ね!」という言葉は、「あなたは死ぬべきである」という陳述とそのままイコールだろうか。「ありがとうございます」という言葉は、「私はいまあなたに感謝の意思を表明している」という陳述だろうか。「今日限りタバコをやめます」という決意表明は、「私は禁煙の決意をしている」という陳述だろうか。ヴィトゲンシュタインは、これらの言語行為の多様なありさまが、まさにそういう多様な表現スタイル(表情)をとる必然性にまったく配慮を届かせていない。
 ところで、それでは、これらの多様な表現スタイルが、「命題」ではないからという理由で「意味」をもたないのかといえば、だれもそうは思わないだろう。
 ヴィトゲンシュタインは、「意味」という言葉(おそらくドイツ語でSinn、これは英語のsenceに相当し、「意義」(釈義)と訳されるBedeutungやmeaningとは異なる)の本質を間違えているのである。あるいは、はなはだしく瘠せた範囲でしかこの言葉を把握していない。多様な表現スタイルが示すそれぞれ固有の表情は、私たちが特定の行為に意味を見出すように、それにふさわしい、他には替えがたい「意味」の探索へと私たちをいざなう力をはじめからもっているのである。たとえば「死ね!」という言葉は、その調子も含めてある情緒的な効果を聴き手に与える。私たちは常に、そうした効果も含めて「意味」という言葉を理解しているのである。
「意味」とは、ある生活文脈のなかである表現(現象)がもつ固有の表情をも含むところの「興趣」のことであり、「おもむき=面向き」のことである。それは表現主体または感受主体が、「どこに向かおうとしているか、どのように受け取っているか」というときの「どこに」「どのように」のことであり、そのような実存者の志向性のことである(「意味」についてのこの考え方は、ハイデガー『存在と時間』にもとづいている)。時枝の端的な定義によれば「意味とは、主体の把握作用である」ということになる。
 したがって「意味」という言葉の意味は、もともと言葉の形式的な本質を超えているのであり、単なる顔の表情も、沈黙でさえも「意味をもつ」と言いうるのである。「目は口ほどにものを言い」「重苦しい沈黙がその場を支配した」等々。むろん、歩いている人も寝ている人も、青空も逆巻く波も路傍の石ころも子犬も、それに向き合う人間主体にとって「意味をもつ」。

 
  四・〇〇二 (略)言語は思考を仮装させる。すなわち、ひとは衣装の外形からそれをまとう思考の形を推測することはできない。その衣装の外形は、肉体の形を知らしめる目的でデザインされたのでは決してないからだ。

 じつにバカなことを言っている。これぞまさしく私がこの節の②で問題にしている「言葉は、あらかじめ存在する世界の普遍的真理をあらわす」という命題に相当する。この断章は、一見そうではなく、言語が真理とは乖離してしまう限界をもっていることを述べているかのように見える。しかし、こういう言い方の背景にあるのは、やはり例のユダヤ=キリスト教的な命題なのである。
 なんとなれば、ここでヴィトゲンシュタインは、言語を衣装に、思考を肉体にたとえており、このように言語と思考とを外形と内的実質とにナイーヴにも分けて平然としている考え方こそ、言語表現以前に、それとはまったく別の形で「永遠の真理」なるものが存在するという理念を前提としているからである。しかし、言語以前に「真理」などは存在しない。「真理」とは、私たちの言語による思考実践によって作り出された創造物なのである。
 ここでヴィトゲンシュタインはみずから明記していないが、彼が拠っているのは「言語以前の思考」なるものが確乎として存在し、しかもそれを本体とみなす言語観である。そしてこれこそは、長い間西洋を縛ってきた言語観であり、それは先に批判した「言語=道具」観の誤りにも通じている。
 先に引いた「命題は実在の写像である」という断章は、彼のこれまでのユダヤ=キリスト教的「真理」観念を端的にまとめたもので、言語思想としては二重の意味でピントをはずしている。第一に、なぜ「実在」が素朴に信じられるのかについて彼は何も言及していない。それは「神」によって与えられているゆえに疑う必要がないからだ。第二に、仮に言語が「実在の写像」(神の似姿)であることを認めるとしても(認められないが)、すでに述べたように、「命題」という形式は、言語行為の中のほんの一部分にしか過ぎないものである。彼がこの書で説きたがっているような、命題こそが日常言語の夾雑物を取り除いた純粋無雑な言語の本質をなすものであるという言語観には、何の根拠もない。
 私なら、この断章を次のように言い換える。

 命題は、世界の混沌を論理という言語の一様式にしたがって秩序づけた創造物である

 なるほど、この時期のヴィトゲンシュタインの頭の中は論理こそ言葉の本命という観念で一杯になっていて、論理以外の言語表現をすべて「ダメな写像、不完全な写像」として一蹴したかったのにちがいない。しかし、私にいわせれば、それこそは現実というものをわきまえない「子どもの論理」にほかならない。彼が哲学者たちを批判しながら、いかに言葉が背負っている現実をわきまえない哲学者特有の「子どもの論理」を弄しているか、その一例を挙げよう。

  四・四六一  同語反復命題と矛盾命題とは、それらが何ごとをも語らぬことを示す。
  四・四六二  同語反復命題と矛盾命題とは、実在の写像ではない。それは、いかなる可能な状況をも叙述しない。前者は可能な状況すべてをうけいれ、後者はすべてを拒否するゆえに。


 
 同語反復命題とは、「教師は教師だ」というようなもの、矛盾命題とは、「教師は生徒だ」というようなものを指す。
 ヴィトゲンシュタインは、同語反復命題や矛盾命題という言葉で、真の論理に値しないものをすべて葬り去りたかったにちがいない。
 その破壊性こそが彼の言語哲学の「魅力」をなしている。しかしこれが魅力であるように感じられるのは、それこそ言葉の遊戯にすぎないパラドックスを好んで取り上げて議論する「哲学者」たちの袋小路を、「哲学」言語の枠内で一見打ち破ってくれるように見えたからである。しかし、けっして本当に打ち破っているわけではない。
 ちなみに「哲学者」好みのパラドックスとは、たとえば「私はいま嘘をついている」「すべてのクレタ島人は嘘つきだとひとりのクレタ島人が言った」「私の命令に従うな」のような例である。これらを、それだけ取り出して論理としては真偽を決められない難問だなどと大真面目に論じるのは、ただのバカらしい遊戯である。
 このバカらしさについては、哲学者の竹田青嗣氏が『言語的思考へ』(径書房)のなかで、「現実言語」と「一般言語形式」という対概念を使って徹底的に論じている。前者がその言語が使用される状況や背景を考えた場合の言語観を象徴し、後者がただ論理形式としてのみ問題視するような抽象的な言語観を象徴する。「哲学者」好みのパラドックスは、後者の「一般言語形式」の範囲内でしか言葉の作用を受け取っていないのである。
 たとえば、「私はいま嘘をついている」という命題が「真」であるならば、現に「私」の言っていることは「嘘」であるということになるはずであるが、そうだとすると、この命題自身の反対、つまり「私は真実を語っている」という命題のほうが「真」だということになり、相反する命題がともに「真」であるという矛盾に逢着する。論理形式としてはそういうことになる。
 しかし、こういう言葉が現実に語られるときには、その前に言われた言葉が必ずあって、それを言ってはみたものの、すぐに「ああ、私は本当のことが言えていないな」という自己反省や、「あ、相手を傷つけてしまったかな」といった聴き手への配慮がはたらいている。この言葉は、そうした感慨の表現として、立派な意味を持つのである。
 また、「私の命令に従うな」という「命令」は、命令であるがゆえに、それを聞いたものの行動を不能にするかに見える。論理形式としては、この命令の内容に従うなら、命令に背くのが正しいことになり、そうだとすれば、この命令自体が無効と化すからである。「じゃあ、どうすればいいんですか」と反問したくなるだろう。
 しかし、これも現実状況の中で語られるときには、「いちいちロボットみたいに俺の命令を杓子定規に受け取らずに、自分の頭で考えろ」という含意があることは明らかである。
 これと同じように、ある状況、あるコンテキストのなかでは、「教師は教師だ」という同語反復命題は何ら無意味ではない。また、「教師は生徒だ」という矛盾命題も少しも無意味ではない。それどころか、彼の言葉を使えば、これらはいずれも「実在の写像」たりえており、ある「可能な状況を叙述」しえている。
 というのは、現実の言葉のやり取りの場面で前者のような言葉が発せられる場合、はじめの「教師」という言葉は、教師一般を指示する以外に格別の含意はないが、あとの「教師」という言葉は、「職業としての限界がある」とか、逆に「子どもを正しく導くために高い理想を持たなくてはならない」などの含意を込めた上で使われるからである。また、後者の場合、「生徒」ということばは、「生徒によって逆に教えられることがじつに多い」とか「教えることそのものが永遠の勉強なのだ」といった含意のもとに使われるからである。

 なおまた、ヴィトゲンシュタインは、「同語反復命題」という概念で次のようなことを言いたかったと考えられる。
 陳述における主語と述語との関係で、述語の表現が見かけ上主語とは違っていても、その主語の概念の中に述語で言い表されている内容がもともと含まれている場合には、それは同語反復とみなして差支えない。よってこの場合にも、「何ごとjも語」ってはいず、「実在の写像」たりえない、と。
 たとえば、「ひとは二足歩行動物である」という命題で、「ひと」という概念の中にはすでに「二足歩行する動物」という条件が含まれているので、こう言っただけでは、同語反復であり、何か論理的なことを言ったことにはならないというように。
 たしかに言いたいことはわかる気がする。しかし、この種の命題が「何ごとをも語っていない」のかと言えば、そんなことはないだろう。もしヴィトゲンシュタインがそういうことを言いたいのだとすれば、「三角形の内角の和は二直角である」とか、「ライターは火をつける道具である」といった命題も、すべて同語反復で、「何ごとをも語っていない」ということになろう。
 けれども、これも彼が言葉というものをわかっていないことをかえって証明している。
 ある言葉はある形態をもち、別の言葉は別の形態をもつ。そうして「主語―述語」関係による陳述は、まさに互いに別々の形態を同一のものとして結びつけるところに成立する。するとこの種の陳述は、じっさいの生活の中でどういう効果を持つだろうか。
「ひと」という言葉は幼い子どもも知っており、広くいろいろな意味で使われている。しかし「二足歩行動物」という言葉は、生物学という固有領域における特別な概念であり、そのかぎりで、「ひと」という概念をある特殊な仕方で限定しているのである。したがって、これを初めて聞いた人にとっては、「ひと」を生物一般というカテゴリーでとらえればそういう把握が可能なのかという新鮮な感銘が訪れてくるはずである。「ライター」という言葉が何を指しているのか知らない人には、「火をつける道具」という規定は、より明確な理解を提供する。また「火をつける道具」はほかにもあるので、マッチやガスレンジの点火装置と同類のものなのか、というように、個物をカテゴリーとしてくくる認識が成立する。さらに、「ライターはすぐに火をつけることができるので、小さな子どもに持たせては危険である」という文脈の中でこの命題を強調することには十分な意味があるだろう。
 このようにして、ちがう形態どうしを結びつける言語行為そのものが、それを聞いた者に、「あ、そうか」という一種の動揺をもたらすのであって、それは、共同社会への参加へと人々を促すのである。
 ある語彙あるいは語彙群のもつ概念は、いつも、だれにとってもその内包や外延が自明のものとして把握されているとは限らない。 ある語彙あるいは語彙群のもつ概念のすべてを理解している人にとってのみ、「形態がちがっても概念は同じだからそれは同語反復で当たり前のこと」で、よって「何ごとをも語っていない」という退屈な感じがやってくる。しかし、そのほかの人の生活にとっては、形態の異なる語彙と語彙との結びつけによる同語反復的な命題が新鮮な意味をもちうるし、またその使用の繰り返しが、前後の文脈しだいで共同生活の維持のために大きな役割を演ずることもあるのだ。「政治家の役割は、人々の多様な意思をまとめることだ」というように。

 矛盾命題については、次のようなことが言える。
 言語が現実に使用される状況しだいでは、「丸い三角形がある」とか、「一足す一は三である」というような端的な矛盾命題・誤謬命題ですら意味をもつことがありうるのである。というのは、前者の場合は、描かれた二つの三角形を比較して、いっぽうが角張っており、もう一つが丸みを帯びているので、あとのほうを指し示すための表現と解されることがあるからである。また後者の場合は、この世の中は何でも合理的に割り切れるものではないということを言いたいために使えるからである。人生を知らない人を「あいつは何でも一足す一は二だ式の考え方をする奴だからな」と軽侮を込めて批評することも可能であろう。


(次回もヴィトゲンシュタイン批判を続けます)



これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(3)

2013年11月12日 16時31分06秒 | ジャズ

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(3)


 時計の針を大学入学前に戻します。
 渋谷のジャズ喫茶に通っていたころ、よくかかっていたのは、楽器別に言うと、次の通りです。もちろんそれぞれのプレイヤーが共演しあっている場合が多いのですが、アルバムによって、だれをフィーチャーしているかということがほぼ決まっており、その人の名前が前面に出ているわけです。
 ピアノ: ホレス・シルヴァー、バド・パウエル、ソニー・クラーク、ウィントン・ケリー、オスカー・ピーターソン、セロニアス・モンク、マル・ウォルドロン、マッコイ・タイナー、ハービー・ハンコック、デイヴ・ブルーベック、そしてビル・エヴァンス。
 トランペット: ディジー・ガレスピー、ドナルド・バード、アート・ファーマー、ケニー・ドーハム、リー・モーガン、フレディ・ハバード、そしてマイルス・デイヴィス。
 テナーサックス:  コールマン・ホーキンス、ソニー・ロリンズ、デクスター・ゴードン、ウェイン・ショーター、スタン・ゲッツ、チャールス・ロイド、そしてジョン・コルトレーン(彼はソプラノサックスも吹きます)。
 アルトサックス: ジャッキー・マクリーン、アート・ペッパー、リー・コニッツ、ポール・デスモンド(と、なぜかこの楽器、白人が多い。柔らかい音質だからか)、キャノンボール・アダレイ(黒人)、そしてエリック・ドルフィー(黒人)。彼はバスクラリネットとフルートも吹きます。チャーリー・パーカーの嫡出と言えるでしょう。
 いま挙げた中で、それぞれの楽器の最後に置いた人たちはみな巨匠なので、いずれゆっくりと語りたいと思います。
 その他、脇役的な立場で共演していながら目を見張る出演者がたくさんいるのですが、きりがないのでこのくらいにしておきましょう。
 さて、大学受験も押し迫った高3の11月、文化祭の折に、友人K君(先のK君とは別人)と語らって校内でジャズ喫茶をやろうという話になり、私はそれまでに小遣いをはたいて買い集めたLP10枚ほどを持ち込んで、店内に好き勝手に流しました。これはなかなか好評で、そのころコルトレーンのソプラノサックスにいかれていた級友のT君が、私のささやかなコレクションを見て、「小浜、それはすごい財産だな」と言ってくれました。得意満面。しかしこういうことにうつつを抜かしていたせいか、第一志望には見事に不合格。
 ここで、当時爆発的にヒットしていたデイヴ・ブルーベック・カルテットによる「テイク・ファイヴ」を聴いてください。このメロディ、きっとどこかで聞いたことがあるでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=vmDDOFXSgAs

 軽くソフトでいいノリですね。白人らしい洗練されたセンスです。スコッチやブランデーなどをかたむけながら聴くとゴキゲンかも(ちょっとクサいか)。
 でも正直な話、当時、私はこの曲の大流行があまり面白くありませんでした。エラそうに言うと、ジャズに対する自分の感受性はもっと激しいものを求めている! と感じるところがあったのです。
 この曲が有名になったのには、テーマが親しみやすいことのほかにもう一つの理由があります。ジャズはふつう四拍子ですが、これは四分の五拍子という変則リズムなのです。ツダッツダッ、ンダッ、ツダッツダッ、ンダッ、とブルーベックのピアノがそのリズムを打ち続け、それに乗せられてポール・デスモンド(as)が軽快にソロを奏でます。それが何ともオシャレな雰囲気を醸し出しているのですね。一種の知的な操作の勝利でしょうか。
 しかしこの楽団は、ほとんどこれ一曲しかヒットがなく、やがてジャズのメイン・ストリートから消えていきます。「一節太郎」というヤツですね。お聴きになってわかるとおり、リーダーのブルーベックは、何にもソロ・パートを弾いていません。一説によると、彼は魅力的なアドリブができないのだとか。ジーン・ライトのドラムソロも、どうってことのないつまらないものです。まあ、いまでもよく聴かれているようなのでいいですけど。
 悪口を叩きましたが、これって、ジャズ鑑賞における私自身の「白人差別」かも。でも、同じく白人のビル・エヴァンスについては、最高級の評価をしていますので。

 その頃さかんにもてはやされて、いまはあまり聴かれなくなってしまったピアニストに、セロニアス・モンクがいます。「真夏の世のジャズ」という有名な映画に出演して世界的に人気を博しました。ちなみにこの映画には、ゴスペルのマヘリア・ジャクソン、ジャズ・ヴォーカルのアニタ・オデイらが出演しています。この二人は、それぞれ素敵です。マヘリア・ジャクソンは、のちのホイットニー・ヒューストンなどに大きな影響を与えた大歌手です。
 脱線しました。
 モンクのピアノは、極端に訥弁型でイレギュラーな不協和音を意識的に使うので、それが何やら神秘的、哲学的に感じ取られたようです。本国ではいざ知らず、日本ではエキセントリックな若者に妙に受けていました。しかしじつを言えば、私は当初からこの人の何がいいのか、よくわかりませんでした。でもほら、若い時って、自分の感性に自信がない分、なんだかわかったふりをしたがるところがありますよね。私は、「モンクはいい」と積極的に人に説いた覚えはありませんが、なんとなく周りの雰囲気に押されて、これっていいのかなあ、みんなが言うからいいんだろうなあ、くらいに思っていました。
 いまの時点で遠慮なく言わせていただくと、この人は歌えない人だし、聴衆を乗せない人だし、他のプレイヤーとのスリリングなインタープレイができない。でも、ひとりで弾いている「ソロ・モンク」というアルバムはちょっといいし、何を訴えたいのかがなんとなくわかります。
 要するに他のプレイヤーと共演することに向いていないなあ、と思います。マイルスとの共演がうまくいかなくて喧嘩別れしたという話もあります。この喧嘩別れでは、私はマイルスに断然軍配。同時代のピアニストなら、バド・パウエルのほうがずっと天才的で個性的です。シャブ中のためか、最盛期は短命に終わりましたが、彼についてはまたのちに紹介しましょう。
 モンクの才能は、むしろ作曲に活かされています。「ラウンド・アバウト・ミドナイト」「ストレイト・ノー・チェイサー」など、ジャズスタンダードナンバーとして有名な曲は、彼の手になるものです。
 
 当時よくかかっていた曲に、マル・ウォルドロン(p)の「レフト・アローン」、リー・モーガン(tp)の「ザ・サイドワインダー」があります。
 前者は、黒人女性歌手、ビリー・ホリデイの伴奏者だったマルが、亡きビリーを偲んで作った曲。ジャッキー・マクリーンの悲哀のこもったアルトサックスが妙に肉声に近く、日本人にはとても人気があります。ジャズで哀悼を表現した曲というのはあまりないので、貴重といえるかもしれません。素朴な心で聴いて、きっと泣けると思います。よい意味での「浪花節」ですね。浪花節は大切です。
 では「レフト・アローン」。
http://www.youtube.com/watch?v=E7lIffL3xaQ
 後者、リー・モーガンは、前にご紹介したアート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズでも花形スターでしたが、オリジナルアルバム「ザ・サイドワインダー」で一躍、一般のポップス界でも人気を勝ち得ました。この人は、ちょっと不良っぽい風貌ですが、早い時期から才能をきらめかせ、若々しく華やかなラッパを吹きます。



「ザ・サイドワインダー」は、ジャズとロックの中間のようなリズムで、とてもポップなイメージです。これなら、ジャズに興味がなかった人も、思わず体を動かしたくなるでしょう。私の友人、K君もA君も当時これを聴いて、ノリまくっていました。
http://www.youtube.com/watch?v=T5jFPrx51Dc
 このノリのよすぎる明るい曲は、ジャズを静かに聴く、という立場からは、少し邪道に感じられるかもしれません。事実、本格派を気取っていた私自身は、こういう方向にジャズが開かれていくことに、多少の不満を抱いたものです。
 しかしリー・モーガンは、一見やんちゃで派手に見えますが、ジャズが持つリリシズム(抒情性)や即興演奏での緻密な構成力をきちんと表現できる人です。オーソドックスなジャズ曲の中での彼の演奏を聴きたい人には、ジョン・コルトレーンの「ブルー・トレイン」がお勧めです。
 この曲でリー・モーガンは、初めから終わりまで、起承転結のある完璧なソロを吹いています。もちろんコルトレーンも大したものですが、彼については、言いたいことが山ほどあるので後回しにし、ひとまずこの曲では、リー・モーガンの演奏をお楽しみください。二人以外のパーソネルは、カーティス・フラー(tb)、ケニー・ドリュー(p)、ポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)。フィリー・ジョー以外のすべてのメンバーがソロパートを受け持っています。

http://www.youtube.com/watch?v=S1GrP6thz-k
 アトランダムにいろいろ紹介してきましたが、ほかの世界と同じように、ジャズの世界はたいへん奥が深く、とてもとてもこんなものでは本道にたどり着いたとは言えません。次回は、モダンジャズの栄枯盛衰ということについて私なりの考えを語ってみたいと思います。ただし気ままな旅なので、ここで予告したことは、その通りになるとは限りません。もしみなさんがまだ飽きていらっしゃらなければ、どうぞもう少しお付き合いください。


コメント(2)

2013/09/08 01:39
Commented by ogawayutaka さん
60年代のジャズシーン、私には懐かしい名前ばかりでしたが、懐かしいというだけでなく、挙げられている音楽家の独自性は、普遍性を持つと思います。次の世代に人にもぜひ、イントロデュースをお願いします。
ところで、そもそも、世間での評価以上に評論家という存在の役割はとても大きいと思います。ジャズ評論家もしかり。評論家は、芸術家と受け手の媒介をしてくれます。評論家と言っても、その名を職業としている人とはかぎりません。ときには、編集者、教師、それに音楽の場合、レコード会社や放送局の人、オーケストラの音楽監督と言われる人もそうでしょう。ジャズ喫茶のおやじもそこに入ります。
こういう人たちは聴き巧者であるとともに、多く場合、言語表現の達人です。この人たちが、音楽を「発見し」、大衆に伝えてくれます。偉大な芸術家は最初は、なかなか理解されないのですが、こういう人たちが熱心に説得するおかげで、人々は聴いてみようかなと気を起こします。または、放送局に働きかけて初めて多くの人の耳に達するということもあります。バッハは、メンデルスゾーンが広報活動をしなければ、発見がずいぶん遅れたでしょう。その間に多くの楽譜も失われてしまったかもしれません。
ついでに、個々のプレイヤーについてですが、たしかにブルーベックはつまらないです。しかし、数年前に大統領も出席して誕生日が祝われ、昨年亡くなったときは「偉大な芸術家」としてみなされたようです。芸術家を褒めるのは大切ですが、これで若い人へのメッセージなるのかどうか、疑問に思いました。
ところで、ポールデスモンドは、世間ではイージーリスニングとみなされがちですが、私は天才だと思います。


2013/09/08 14:35
【返信する】
Commented by kohamaitsuo さん
To ogawayutakaさん
たびたびコメントを寄せていただき、ありがとうございます。
おっしゃる通り、芸術・文化にとって紹介者・媒介者の役割はとても重要ですね。バッハが人口に膾炙するのにメンデルスゾーンが大きな役割を果たしていたとは、不覚にして初めて知りました。
編集者、教師、音楽関係者、ジャズ喫茶のおやじなどの広報活動や意見が貴重というお考えに賛成です。
評論家と言っても、当時「スウィングジャーナル」誌で活躍していた人たちの中には、名前は挙げませんが、あまり共感できない人も何人かいました。あるジャンルに心から惚れ込んでいること、趣味にあまりぶれがなく日和見主義に陥らないことが何よりも重要かと思います。油井正一さんがよかったですね。彼はジャズ評論界の淀川長治です。
私もこういう試みで、少しでもよき紹介者の末席に連なることができればと、少々身の引き締まる思いでおります。
デスモンドが超名プレイヤーだということは、もちろん認めます。彼がいなかったら「テイク・ファイヴ」もあれだけヒットするはずがないですよね。
今後ともよろしくお願いいたします。