小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

森友学園問題は財務省の陰謀?

2017年03月18日 13時25分35秒 | 政治

      




 北朝鮮の核ミサイル問題、韓国の親北政権誕生問題、中国の領土侵略問題、アメリカ通商省の対日FTA交渉問題と、国政全般に関わる喫緊の課題が山積しているにもかかわらず、日本国会村は、森友学園問題という矮小な村内スキャンダルで時間と税金を空費し続けています。
 これについて書くつもりはありませんでしたが、あまりのくだらなさを見ているうちに、ふとあることに思い至り、一度は触れておいたほうがよいと考えるに至りました。

 推測のかぎりを出ませんし、裏を取る力もありませんが、この問題は、次のように考えると、妙に符合します。
 籠池泰典理事長は、なぜ昭恵夫人をたらしこみ、さらにフリージャーナリストの菅野完氏に、安倍首相から数百万円(?)単位の寄付を受けたというようなことを言ったのか。
 国交省大阪航空局が地下埋設物撤去という籠池氏の言い分を聞いて、1億3000万円という破格の値段で国有地払い下げ契約を結んだのは2016年3月。しかしこの値段での売却を認可したのは近畿財務局でしょう。財務省がこの一件に大きく絡んでいることは確実です。
 さて財務省は、消費増税を安倍首相に2度延期されています。2度目は2016年6月。これ以前に財務省は安倍首相が再び延期する意志を固めていたことをキャッチしていたはず。これを何としても阻止するために、安倍落としを狙った。この時点で落とせなくても、安倍首相のイメージをダウンさせて首をすげ替えることに成功すれば、彼以外には増税を阻止できる首相候補は他にいないと考えた(これは実際そうでしょうね)。
 籠池氏ははっきり言って愚かな安倍信者であり、金さえつかませれば何とでもなると財務省は睨んだ。

 ここ数日の籠池氏の言動を見てみましょう。
・「財務省からしばらく身を隠すように言われた。10日間身を隠していた」と菅野氏を通してマスコミに発表(財務省はこれを否定)。
・塚本幼稚園での記者会見で息子を同席させ、もし開校が認可されなければたいへんな負債を抱えることになると言わせている(これも事実でしょうね)。
・その夜、籠池夫妻はうれしそうな顔をしながら帰宅したところをテレビカメラにキャッチされている。
・東京での記者会見をキャンセルしておきながら上京し、菅野氏と会い、その後菅野氏に、「現職閣僚から数百万円の金銭供与があった」旨を記者たちに語らせている。
・証人喚問を受けて立つと言い、「安倍首相から昭恵夫人を通じて2015年9月に百万円受け取った」と発表。

 この一連の言動の中には、思わず本音が出た部分と誰かから言わされている部分とが混在しているようです。
 さて誰かとはだれか。
 やはり財務省ではないか。
 籠池氏に、ある時点で相当のモノをつかませて口封じを試みたが、おっちょこちょいな籠池氏は、けっこうボロを出している・・・。
 つまりこの騒動の背景には、消費増税を何としてでも実現させたいという気〇いじみた財務省の執念と、これに精一杯の抵抗を試みている安倍首相との暗闘があるというのが、私の推理です。

 私は、周回遅れのグローバリズムの道を邁進する安倍政権の政策にはまったく賛成できませんが、財務省のウソまみれの緊縮財政路線圧力に抵抗している安倍首相の姿勢には賛同します。もしこの推測が当たっているなら、ここには財務官僚の救いようのない腐敗が現われています。
「将を射んと欲せばまず馬を射よ」。それにしても一連の報道が事実とすれば、昭恵夫人は少々軽率でしたね。

 好きではない陰謀論を試みました。好きではないのに、やらずにはいられない気持ちにさせる何かが私の中でうごめきます。

「新」国家改造法案

2017年03月14日 14時11分36秒 | 政治

      





安倍政権になってから、というと、まるで安倍さんだけが悪いように聞こえたり、民主党政権時代のほうがましだった、といっているように聞こえますので、どこを節目にしたらよいのか困るのですが、ともかく、ここ数年、日本の政治はひたすら亡国の道を歩んでいるように思います。
どこを向いても状況はかなり絶望的です。
当ブログを読んできてくださった方々なら、きっとこの私の感想に同意してくださるでしょう。
この感想の論拠をいちいち述べていると長くなりますので、ここではとりあえず政策とそれがもたらした結果、または予想される結果だけを列挙するにとどめ、それについて少し違ったことを述べます。

◆経済政策
「国の借金1000兆円」のウソによる緊縮財政の正当化積極財政が抑制される。投資が減退する。デフレ不況の悪循環が続く。
消費増税実質賃金が低下し、個人消費が下落する。投資が減退し、貧困層が拡大する(エンゲル係数の急騰)。富裕層、公務員らへのルサンチマンが高まる。
外国人労働者(移民)拡大・外国人への規制緩和政策賃金低下競争が激化し、労働の質が低下する。中国人の経済侵略が進み、技術が流出する。文化摩擦が拡大し治安が悪化する。内部から安全保障が脅かされる。
公共投資の抑制交通インフラの整備の遅れにより東京一極集中が強まり、地方がますます疲弊する。各種インフラの劣化が放置される。大災害のリスクに対応できない。
電力固定価格買取制度(FIT)利益本位の未整備業者が続出する。電気料金の値上げ。再生可能エネルギー推進の困難がかえって露呈する。
農協改革株式会社や外資の自由参入を許す。土地利用の勝手な転換。遺伝子組み換え食品などにより食の安全が脅かされる。日本農家が壊滅的な打撃を受ける。
労働者派遣法改悪非正規社員比率が増大し、若者の生活難、結婚難が深まる
年金改革法高齢者の生活難深まる。現役世代の不安が増大する。
カジノ法案国会通過経済政策の失敗が糊塗される。外資が乱入する、低所得層の生活が乱れ、社会秩序が混乱する。
TPP批准アメリカの撤退によって無意味化し、対米二国間交渉がかえって難航する。アメリカの要求への屈従が強まる。
水道事業の民営化が閣議決定→水道料値上げ。リスク管理が不安定化する。

◆外交・安全保障政策
尖閣問題への無策中国の対日侵略意図が増長する。
慰安婦問題、南京事件問題への無策中韓の反日政策を助長する。有力国間で日本のイメージがダウンする。戦勝国包囲網による日本の孤立化の危険。
対プーチン外交四島返還の不可能が確定的となる。ロシアペースでの「経済協力」が推進される。
対トランプ外交相変わらずの対米依存姿勢が露出し、自主防衛能力のなさを印象づける。
南シナ海問題への無策日本の資源獲得の根幹が揺らぐ。日本に対する東南アジア諸国の信頼が失われる。
防衛予算不拡大中国との格差が拡大し、日本はますます軍事的脅威にさらされる。
不動産に対する外資規制の欠落中国による領土の現実的支配が進む(特に北海道)。

これらは、もうほとんど実際に結果として現れています。
しかもこれらは、はっきり言って、すべて国民を苦しめるだけの「悪政」であり、「バカ政」です。
数少ない心ある人たちは、もちろん日本が直面しているこの危機に気づいており、早くから政策の誤りや無策の落とし穴を指摘してきました。
政治がなぜこういう過ちを犯すのかについてもさまざまに説かれています。個別的には処方箋も出されています。
つまり警鐘はもう十分鳴らされてきたのです(もちろんこれからも鳴らし続ける必要がありますが)。
ところが、です。
事態はいっこうに変わる気配を見せません。
なぜなのでしょう。
いろいろと原因を挙げることができますが、あまり詳しい原因分析をしても仕方がありません。
要するに権力者が、物事を総合的に考える能力と、国民のために尽くす意志とを失っているのです。だから「悪政」や「バカ政」がはびこるのです。
それには理由があります。
主権者である国民を代表するはずの代議員による政治が行われておらず、真の権力者が別にいるからです。真の権力者とは、オタク化した官僚であり、御用学者であり、「民間議員」と称する内閣傘下の会議委員であり、アメリカの圧力であり、彼らの言うことをそのまま垂れ流しているマスコミです。

ではどうすればこの「悪政」あるいは「バカ政」を少しでも修正できるのか。
二つの条件が必要です。
一つは、自ら権力を獲ること
もう一つは、権力に強い影響を与えること
とにかく権力に食い込めなければ、少数派は永遠の少数派であり、片隅で不平を唱えているだけの集団と見なされてしまいます。
一つ目は、たいへん難しい。社会の仕組みが複雑になっていて利害関心が個人化し、多くの同意を勝ち取ることが困難だからです。でも何かうまい手を考える必要があるでしょう。
二つ目は、言論を続けることも有力な手ですが、それだけでは不足です。みんながそれぞれの「信仰」に染まっていて、聞く耳を持たないからです。学者・知識人たちも自分を批判する議論から逃げていますね。テレビ討論などはみなその場限りです。これについても新手を考える必要があります。

これから、二つの条件を満たすために三つのアイデアを提示します。これらはさしあたり「夢物語」です。でも実力と気力ある賛同者が増えれば実現に向かって二歩も三歩も踏み出すことができます。

一つ目。超教育論
年少の青年子女を育成するのではありません。官僚の既定路線を変えるために、新しく官僚になった人たちを二年間くらい、庶民の生きている現場に出向させてそこで働いてもらうのです。財務省の役人は中小企業や商品市場に、経産省の役人は町工場に、国交省の役人は地方の過疎地域に、文科省の役人は小中学校に、というように。
一部で試みられているようですが、はなはだ不十分です。制度として徹底させる必要があるでしょう。これは、庶民の生活実態を肌で知ってもらい、そこで常に一般国民の幸せについて考える想像力、構想力を養ってもらうためです。

二つ目。超シンクタンク論
日本の民間シンクタンクは個別企業の利害に奉仕するだけか、公共政策に関与している場合でも、単発・シングルイシューで終わっているケースがほとんどで、権力との恒常的な連携があまり保たれていません。横の連携も脆弱で、活発な意見交換、議論も行われているように見えません。
経世済民の志をもった優れた人々が結束して日本の政治経済の総合的なヴィジョンを打ち出せるような統合組織が必要です。これは時の政権のアド・ホックなあり方を超越していなくてはなりません。そのためにはオーソリティとして認められる必要がありますね。
また、単に議論をしたり調査をしたり報告書を出したりするだけではなく、広く大衆に存在意義を知ってもらうために、映画などの文化事業と有機的に連携する必要があります。

三つ目。超選挙制度改革論
選挙制度改革というと、一票の格差がどうの、区割りがどうの、すべて比例代表制にしろだの、中選挙区制に戻せだのと、表面的・形式的な議論にとどまっていて、真に優れた政治家が選ばれるようにするにはどうしたらよいかという問いが欠落しています。
私のアイデアは、有権者と立候補者それぞれにテストを課して、参政権保持者をある程度まで絞るというものです。有権者には、健康な常識人ならまあだいたいが合格できるような易しいテストを課します。ただし、高得点者には複数投票権を与えるような「差別的」な選挙もあえて視野に入れるべきでしょう。また立候補者のテストは政治的見識を問う難しいものにします。ただしイデオロギー色があってはなりません。
これは、悪平等主義の弊害や組織ぐるみの半強制的な動員やポピュリズム政治を避けるためです。形の上だけの公正さは、真の公正さではありません。

そんなことができるわけがない、と思った方も多いでしょう。猫に鈴をつけるのは誰だ、金と力は誰が提供するのだ、どうやってコンセンサスを勝ち取るのだ、と。
なるほどこの提案自体が言論の無力を示していると考えることもできますね。日本には寄付文化もありませんからね。
でも、絶えず具体的な政権批判を繰り広げる一方で、これくらいのことを理念として掲げるのでななければ、今の日本の絶望的な政治実態に対するあきらめとニヒリズムが残るだけです。
何しろ、これだけ東アジアの安全保障が脅かされていながら、防衛予算の増加には75%が反対するお国柄です。政策レベルで安倍政権を対等に批判できる健全野党は存在せず、国会はやるべきことをやらず、くだらない足の引っ張り合いで時間と税金を空費しています。日本国民の大方は、GHQや財務省がかけたマインドコントロールにいまだに呪縛されている始末です。
 危機をしっかり見つめている覚めた人たちの結束を促すべく、また少しでも意気に感じてくれる有力者が現われることを願いつつこれを書きました。まだ生煮えです。ご意見、反論をお寄せください。








誤解された思想家・日本編シリーズその6の③

2017年03月09日 00時44分13秒 | 思想
      




兼好法師③(1283?~1352?)

 翻って、初めの四つを世俗的な関心に由来するものと見てまとめれば、全体の六割近くを占めることになります。この書物の本領は、こうした世俗的、現世的な事柄について持ち前の批評精神をたくましく展開した点にあると言ってよいでしょう。明恵のように、堅苦しく純粋な僧の見本のような人をからかったとしか思えない段(一四四段)もあります。
 さてその批評精神の主潮は、現世で生き抜くことに開き直った一種の「明るいニヒリズム」と、それに裏打ちされた合理主義、現実主義ともいうべきものです。それは、先に挙げた石清水八幡宮の話や出雲大社の獅子・狛犬の話のように、いわれなき権威主義に対する抗いや皮肉の表現としても現れています。
 また、「心は必ず事に触れて来たる」と説いて、かりそめでもいいからまずは実践することが大事だという次の段などは、高尚ぶって空疎な観念に耽ることを否定したプラグマティズム、あるいは心理学的な行動主義といってもいいでしょう。

心さらに起らずとも、仏前にありて数珠を取り経を取らば、怠るうちにも、善業おのづから修せられ、散乱の心ながらも、縄床に座せば、覚えずして禅定成るべし。》(一五七段)

 また、牛が床に入り込んでしまったので人々が陰陽師に牛を渡して占ってもらおうと騒いでいるのを、徳大寺右大臣殿が「牛に分別などない。どこでも上がり込むさ」とさらりと片付け、「あやしみを見て、あらしまざる時は、あやしみかへりて破る」と言ってのけた記事(二〇六段)には、兼好の合理を尊ぶ面がよく出ています。さらにたとえば次の段などはどうでしょうか。

文・武・医の道、まことに欠けてはあるべからず。(中略)次に、食は人の天なり。よく味はひをととのへ知れる人、大きなる徳とすべし。次に、細工、よろづに要多し。
 この外の事ども、多能は君子の恥づるところなり。詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、漸くおろかなるに似たり。金はすぐれたれども、鉄の益多きにしかざるがごとし。
》(一二二段)

 ここであえて「明るいニヒリズム」と呼んだのは、世間に伝わることの多くは嘘っぱちだと喝破した七三段、この世の中で頼むに値するものなど何もないと言い切った二一一段などにそれをうかがい知ることができるからです。
 しかし何といっても、終わり近くに人間の心を鏡にたとえてそのうつろなさまを語った二三五段が、その思想の中核をなしています。これは厭世哲学ではなく、人はそのように現に生きているという事実をありのままに肯定する姿勢の表れでしょう。

虚空よく物をいる。われらが心に念々のほしきままに来たり浮ぶも、心といふものなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、若干のことは入り来たらざらまし

 しかしまた兼好には、貴族趣味的なロマンティシスト(美学的生き方)の傾向もふんだんにあって、有名な一三七段では、「花はさかりに、月はくまなきをのみ、見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情けふかし云々」とか、「逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅が原に昔をしのぶこそ、色好むとはいはめ。」などとあります。
 また見合い結婚の味気なさを指摘した二四〇段、妻帯や家族生活を否定した六段、一九〇段などにもそれがあらわれているでしょう。
 ちなみにこれらの段は、家族の恩愛の大切さを説いた一四二段と明瞭に矛盾しますが、おそらく兼好なら、自分の美意識に添った生き方の表明と、世の人倫がどうあるべきかを客観的に説いたくだりとはおのずから別だ、と答えたことでしょう。ここらに、当時の知識人の孤独を見る思いがします。

 兼好の思想をあえてひとことでまとめよとならば、要するに、愚かな跳ね上がりを排して、寂かに伝統と向き合う健全な常識に還れということに尽きるでしょう。しかしそれを説くことの思わぬ難しさに気づいていた彼は、多くの矛盾をも顧ず、具体的なあの場面、この場面を持ち出しては、それにあくまでも即しつつ鋭い批判、批評を加えたのだと思います。
 最後に一言。彼がこの作品を書くにあたって、『枕草子』を強く意識していたことは、そのズバズバと切っていくいさぎよい価値判断のスタイルからして明白です。しかし、清少納言がもっぱら女性的な美意識とセンスの良さを価値判断の基軸に置いていたのに対して、兼好の場合はそれだけではなく、人間の生き方全体を対象とした思考の道筋を切り開いて見せたところに特色があります。小林秀雄が「空前の批評家の魂が出現した」と評した所以でもありましょう。


(この項了)

誤解された思想家・日本編シリーズその6の②

2017年03月06日 17時15分27秒 | 思想

      






兼好法師②(1283?~1352?)

 この作品の思想性をうまくつかまえるために、私は自分なりのやり方で、各段が何を主題にしているかを類別し、どこに何段入るかを数えてみました。もとよりこれは単なる便宜にすぎず、分類に迷うものも多くあります。なお序段と最後の二四三段は除きます。
①世間的・世俗的な知恵、世界観と思われるもの。略号「」と記す。以下同じ。
②「をかし」「あはれ」「おくゆかし」など、風雅な興趣あるさまを語ったもの。「」。
③人間関係のマナーについての美意識、センスを語ったもの。これは『枕草子』のように、女性的なきめ細やかさを示す。「」。
④奇譚、エピソード、滑稽譚に類するもの。「
⑤仏教的な無常観の表現。「」。
⑥有職故実について語っているもの。「

結果は以下の通り。
 五一――初めにはほとんどなく、中間部から後半に多い。
 三三――初めの方に集中しているが、後半にも散見。
 二〇――初めと終わり近くに分かれる。
 三六――中間部よりあらわれ、終わりに近づくと少なくなる。
 三五――初めにやや集中し、中間部から後半にも散見される。
 六七――初めにはなく、中間部からあらわれ、後半に集中する。一か所にまとまって出てくるケースが多い。

 もし段の順序と書かれた順序が同じだと仮定すると(定説ではほぼそのようです)、若い時には、求道の心、美を愛する心、人付き合いにおいて上品であろうとする心などがせめぎ合って現れ、中年では、世間知や人生上のエピソードなどに関心が移り、老いてからは、職業意識や倫理意識が支配的となるということが言えそうです。
 なお、兼好が出家したのは三十歳以前と考えられており、同じ「仏」でも、初めの方と後半とでは、ニュアンスの違いが感じられます。端的に言えば、前半は出家の強い志を自分に言い聞かせているふうで、後半は他人に説教しているような調子が強い。
 いずれにしても、「仏」は全体として約15%を占めるにすぎないので(文字数としてはもっと多くなりますが)、このことからも『徒然草』を仏教的な無常観を説いた書と見るのは不適切であることがわかるでしょう。
 先に述べたように、この時代には、知的な階層にとって、できるだけ俗事に紛れず死の事実を直視する心構えを日ごろから養っておくというのは、共通の大前提でした。鎌倉末期から南北朝時代という乱世にあって、百姓でも荒武者でも高貴な身分でもなく、知性だけは優れていた人にとって、出家することは、それ以外には道のない当然の生き方でした。
 兼好が早々に出家したのは、彼もまた己れの運命に自覚的だっただけだと言えます。その上で、生き延びるためには実質的に還俗ともおぼしき道を選ばざるを得なかったのだと思われます。
 こうした前提に立って該当箇所について述べるなら、たしかに四九段、一〇八段、一一二段のように、いつ死が襲ってくるかわからないといった妙に切迫した語り口も見えますが、これと似たようなことは隋唐時代の高僧でも既に言っている常套句の部類に入ります。一方では、次のように、偉い坊さんの寛容で人間味のあるさまをほめたたえている段もあるのです。

ある人、法然上人に、「念仏の時、睡りにをかされて行を怠り侍ること、いかがしてこの障りをやめ侍らん」と申しければ、「目の覚めたらんほど念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。また、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。また、「疑ひながらも念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。》(三九段)

法顕三蔵の、天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひけることを聞きて、「さばかりの人の、無下にこそ心弱きけしきを人の国にて見え給ひけれ」と人の言ひしに、孔融僧都、「優に情けありける三蔵かな」と言ひたりしこそ、法師のやうにあらず、心にくく覚えしか。》(八四段)

 つまりは、兼好のような資質の人間の人生にとって、自分が出家僧であることは、それほど重い意味を持たなかったと言えます。


(以下次号)

誤解された思想家・日本編シリーズその6

2017年03月05日 01時00分11秒 | 思想
      






兼好法師①(1283?~1352?)

 今回は『徒然草』を取り上げますが、作者名を「吉田兼好」とせずに「兼好法師」としたのには理由があります。
 長い間この名随筆の作者は、神祇にたずさわる卜部氏の系統で京都吉田社の祠官・吉田家に生まれ、五位に叙されて左兵衛佐に任じたとされてきました。これは『尊卑文脈』にもとづく風巻景次郎の推定により、60年以上も定説とされていたのです。
 ところが、二〇一四年の三月、小川剛生氏が発表した論文「卜部兼好伝批判―『兼好法師』から『吉田兼好』へ」によって、この出自・経歴が戦国時代の吉田家当主・吉田兼倶の捏造であることが実証されました。
 小川説が正しいとすると、兼好の生国・出自・経歴はまったく不明だということになりますが、兼好の約百年後に生まれ、『徒然草』の発掘者とも言われる僧・正徹の記載によれば、兼好は「滝口」(禁中警衛の武士)であったとあります。警衛の武士ではなくとも、同じように天皇のお側に仕える所衆(掃除などの雑用係)か出納(文書などの出し入れ係。皇室の図書館司書のようなもの)の役回りであった可能性が高いと小川氏は推定しています。そして勅撰集に入集された彼の歌の扱われ方から見ても、六位以上には上らなかったとも(『新版・徒然草』角川ソフィア文庫)。
 これに私の想像を付け加えるなら、おそらく出納だったというのが、一番真相に近いように思われます。小川氏は研究者の誠実さから、そこまで言い切ることに禁欲的ですが、ここではあえてそう言ってみたい。
 この推定には『徒然草』を読む素人読者にとっても、説得力があると思います。
その理由としては、第一に、作品からはこの作者がたいへんな古典教養の持ち主であり、しかも有職故実の記述が随所に見られ、それらが単なる無用のメモ書きではなく発表することで実用に役立てたフシがみられることです(二三八段の七つの自慢話には有職故実にかかわる事項が四つまで含まれています)。
 第二に、こういう立場であればこそ、やんごとなき人たちの行状が手に取るように見え、しかも重職にはできない自由な立場からそれを観察しひそかに批評眼を養うことが可能となりますが、『徒然草』は、まさにそのような立場にいないと書けないような辛辣な調子が躍如としていることです。
 第三に、古風を尊び、大衆のバカ騒ぎや分不相応な振る舞いを嫌い、奥ゆかしく繊細な態度をしきりに推奨するその筆致は、出納のような職に就く人の性格にまことにふさわしいことです。
 最後に、作品中に出家遁世を勧めて仏道の尊さを説くくだりは数多く出てきますが、神道について真面目に言及した記述はほとんどまったく見られないこと(石清水八幡宮の話〈五二段〉、出雲大社の獅子・狛犬の話〈二三六段〉は、いずれも滑稽譚です)です。
 
『徒然草』を思想書と見立てて論じようとする拙論の冒頭に、なぜこんなに彼の出自・経歴にこだわったのかというと、この作品が一見するところあまりに多面性を持ち、ある一つのアングルから光を当てようとしても、しょせんは読者・批評者の我田引水に終わるのではないかという謎めいた印象を与えるからです。
 随筆とはもともとそうしたものだ、本人も「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば」と初めにことわっているではないかという反論があるかもしれません。しかし、この冒頭の一句は、必ずしも本文の内容と一致せず、本文には、全体としてやはりこの人ならではの確固たる思想性というべきものが感じられるのです。
 とはいえ、たしかに記述する対象や方法があまりに多様に散乱しているので、その思想性を短い言葉でつかまえるのは至難の業です。そうなると、そのよってきたるところを少しでも探り当てようと思い、どうしても彼の出自・経歴を一つの補助線として問い尋ねてみたくなります。こいつはどういうやつだったんだろうというわけですね。
 で、先述のとおり、高僧のような当代一流の知識人でもなく、権勢を手にしているわけでもなく、しかし古典教養、有職故実の知識はふんだんに持ち、しかも宮中の側用人として上から下まで人間の生き様を自由に鋭く観察できる立場にいるという条件が、この稀有な書物の誕生にかなり貢献していると考えると、いかにも人と作品とがぴたりと一致して鮮明なイメージを結ぶと思うのです。
 小林秀雄がこの書について、「空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件」と書き、兼好には物や人間が見え過ぎていると評しています(『無常といふ事』)が、たしかにそういうところがあって、それが可能になったのは、上記のような条件が関与していると考えれば、得心がいくのではないでしょうか。

 ところでこの作品が広く普及したのはようやく江戸時代になってからのようですが、その享受のされ方にはまた、時代時代に応じた変遷があったそうです。
 一番初めの正徹の場合には、歌詠みのための指南書としての要素が強かったらしく、それは風雅や物のあわれとは何かという問いに明晰に答えてくれている面があるからでしょう。
 また江戸時代の町人文化のなかでこの書が受けたのは、処世訓的な部分で読者にピンとくるところが多かったせいだと思われます。日常生活に根差した滑稽譚の部類から読み取れる教訓も、さぞかし庶民に人気を博したことでしょう。
 近代になると、ことさら仏教的な無常観を強調した部分が好まれるようになり、現在に至っています。しかし『徒然草』をこの見地だけから特別に評価するのは、「近代日本知識人」という、特殊な存在形態の特殊な志向に適合したからだと考えられます。その特殊性とは、ダイナミックな現実社会からはじかれた存在のゆえに、その精神的なよりどころを現実に対する観念的な批判に求めざるを得なかったという点です。
 後述するように、仏教的な無常観や出家遁世の志を示しているのは、平安貴族以来、室町時代に至るまでの知的階層の伝統的メンタリティと言ってよく、何も兼好に限ったことではありません。『往生要集』にも『源氏物語』にも『古今和歌集』にも『方丈記』にも、このメンタリティは通底しています。ですから私は、『徒然草』にことさら無常思想を読み取るような近代知識人の、郷愁による片思い的な評価にあまり賛成できません。
 これら時代時代に応じた多様な享受のあり方は、要するに「群盲、象を撫でる」のたぐいと言ってよいでしょう。


(この項、3回続けます。)

「聖徳太子」を「厩戸王」に!?

2017年03月01日 15時06分10秒 | 思想

      




 文科省が今回の小中学校指導要領改訂で、「聖徳太子」の名を「厩戸王」と改めようとしていることは、みなさんご存知ですか。理由は、聖徳太子の名は一世紀ほど後でつけられたものだからだそうです。まったく釈然としません。
 ただし、文科省では、2000字以内でパブリックコメントを求めています。締め切りは3月15日まで。窓口フォームは、
https://search.e-gov.go.jp/servlet/Opinion
 私もコメントを送りました。以下、それに若干アレンジを加えて思うところを述べます。

 このたび学習指導要領改訂にともない、歴史的分野において、「聖徳太子」の名を「厩戸王」に変更するとの提案がなされていますが、断固反対します。聖徳太子が後世の呼称だからというのはまったく理由になりません。歴代天皇の名も多く諡名(おくりな)が使われています。

 そもそも歴史とは単なる一回的な事実ではなく、それを共有する共同体のメンバーにとって、今とこれからを生きていくために、受け継ぎ伝えていかなくてはならない必要不可欠な物語、history(英)、histoire(仏)、Geschichte(独)です。だからこそ神話と歴史とのあいだにも精神の連続性が存在するのです。
 聖徳太子の名は、わが国の精神的・社会的秩序の礎を築いた人として、永らくすべての国民の間に浸透し、親しまれ、紙幣の肖像にも使われてきました。この名を変更することは、日本の歴史の重要な部分を抹消するにも等しい愚挙と考えます。

 科学の時代となり、人文系の学問にもその方法をそのまま適用すべく、実証主義的歴史学が主流となっています。事跡をなるべく正確に定めるためにこの方法を駆使することを認めるのにやぶさかではありません。しかし何事も過ぎたるは及ばざるにしかず。個々の些末な「事実」に過度にこだわると、その学問固有の基本特性を毀損しかねません。歴史学は時間的連続性の概念を基軸として一定の事象を総合することによって初めて成り立つ学問ですから、個々の要素に分断してとらえてしまうと、学問としての意味がなくなります。個物をあれこれ抽出して研究する自然科学的な分析とはそこが違うのです。
 今回のような提案をする現代日本の歴史学者たちは、このことがまるで分っていないようです。過度な実証主義は学問のオタク化を招きます。

 また、ことさら聖徳太子を選んで、それにかかわる当代の断片的事実のみに固執し、その後の人々のとらえ方を無視するような変更を提案する今回の試みのうちには、このオタク化した現在の実証主義的傾向を利用して、天皇家の歴史をなきものにしていこうとする歪んだ政治的意図が感じられます。
 将来の日本人のために特に公正中立を期すべき文科省が、このような提案を大真面目に取り上げる試みそのものをたいへん残念に思います。

 ついでに申し添えますが、いつのころからか「士農工商」が小中学校の教科書から消えました。私は大学で「江戸時代の身分制度を表す四字熟語は?」と質問したら、ほとんどだれも答えられず、びっくりしたことがあり、それでその事実を知ったのです。
 これもまったく納得できません。
 この言葉が消えた理由は、当時の厳しい身分制度や序列を表す公式の用語ではなかったというところにあるようです。それはおそらくそのとおりでしょう。しかし、言葉自体は人口に膾炙して存在したのですし、実際にこの言葉を用いる当時の人々の意識の中で、身分(アイデンティティ)感覚が自覚されていたことは疑いないところです。
 およそかつてあった言葉を抹殺することは、歴史に思いをいたすことにとって大きな障害になります。キーワード的な言葉がないと想像力のはたらきようがないからです。

 今回の指導要領改訂案では、「鎖国」の表記も消すことになっています。たしかに中国やオランダを通して外国と通商していたのですから、完全に国を閉ざしたのではありません。けれどもそれに近い状態であったこともまた事実です。
 この言葉はオランダ語の訳語だそうですから、他国から日本を見た時の否定的な形容なのでしょうが、おそらく明治近代以降に、日本人自身が過去を否定的に振り返ることによって日本語として定着していったのでしょう。否定的に見ること自体には確かに問題があります。しかしこの言葉は、幕末に西洋文明に触れた衝撃の大きさをきっかけとして、日本の近代化が急速に成し遂げられた過程を理解するのに象徴的な意味を持っています。

 士農工商にしろ鎖国にしろ、たとえそれらの言葉がどれほどネガティブなニュアンスを連想させようと、人々の間でそれらがごく普通に用いられたという事実は消えません。要は、いつごろ、どのような仕方で使われたのかということも合わせて学ぶようにすればよいのだと思います。
 現在の時点から見たいわゆる「史実」と異なるからといって、かつて人々の生活史の中で深い意義をもっていた言葉を抹殺してしまうというような現在の歴史学界の傾向には、とうてい賛成できません。
 文科省には猛省を促したいと思います。当ブログ読者の皆さんも、パブリックコメントを送ってみてはいかがでしょうか。