小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する10

2013年11月12日 16時46分25秒 | 哲学

日本語を哲学する10
(ヴィトゲンシュタイン批判つづき)



  三・三   命題のみが意味をもつ。(略)

 これも納得し難い言明である。ふつう、命題とは、「AはBである(ない)」とか、「もしAならばBである」とか、「AがBでないならばCはDではない」というように、「陳述」の形をとった言葉のことをいう。ヴィトゲンシュタインは、言葉の世界の核心を「命題」すなわち「明瞭な陳述」というところにのみ求めている。しかし、いうまでもなく言語表現の形式は陳述のみに限られない。それには、質問、命令、依頼、勧誘、忠告、叱責、謝罪、挨拶、感謝、追及、説明、教唆、語り、告白、宣言、口論、喧嘩、討議、感動表現、芸術表現、言語自身への自己言及その他、ありとあらゆる形式のものが含まれ、その多様な形式は、ちょうど私たちの行動と同じように、それら固有の「表情」をもつ。
 もちろん、この中には、陳述と解釈されうる形式がないではないし、陳述を内部に含むものもないではない。しかし、たとえば「死ね!」という言葉は、「あなたは死ぬべきである」という陳述とそのままイコールだろうか。「ありがとうございます」という言葉は、「私はいまあなたに感謝の意思を表明している」という陳述だろうか。「今日限りタバコをやめます」という決意表明は、「私は禁煙の決意をしている」という陳述だろうか。ヴィトゲンシュタインは、これらの言語行為の多様なありさまが、まさにそういう多様な表現スタイル(表情)をとる必然性にまったく配慮を届かせていない。
 ところで、それでは、これらの多様な表現スタイルが、「命題」ではないからという理由で「意味」をもたないのかといえば、だれもそうは思わないだろう。
 ヴィトゲンシュタインは、「意味」という言葉(おそらくドイツ語でSinn、これは英語のsenceに相当し、「意義」(釈義)と訳されるBedeutungやmeaningとは異なる)の本質を間違えているのである。あるいは、はなはだしく瘠せた範囲でしかこの言葉を把握していない。多様な表現スタイルが示すそれぞれ固有の表情は、私たちが特定の行為に意味を見出すように、それにふさわしい、他には替えがたい「意味」の探索へと私たちをいざなう力をはじめからもっているのである。たとえば「死ね!」という言葉は、その調子も含めてある情緒的な効果を聴き手に与える。私たちは常に、そうした効果も含めて「意味」という言葉を理解しているのである。
「意味」とは、ある生活文脈のなかである表現(現象)がもつ固有の表情をも含むところの「興趣」のことであり、「おもむき=面向き」のことである。それは表現主体または感受主体が、「どこに向かおうとしているか、どのように受け取っているか」というときの「どこに」「どのように」のことであり、そのような実存者の志向性のことである(「意味」についてのこの考え方は、ハイデガー『存在と時間』にもとづいている)。時枝の端的な定義によれば「意味とは、主体の把握作用である」ということになる。
 したがって「意味」という言葉の意味は、もともと言葉の形式的な本質を超えているのであり、単なる顔の表情も、沈黙でさえも「意味をもつ」と言いうるのである。「目は口ほどにものを言い」「重苦しい沈黙がその場を支配した」等々。むろん、歩いている人も寝ている人も、青空も逆巻く波も路傍の石ころも子犬も、それに向き合う人間主体にとって「意味をもつ」。

 
  四・〇〇二 (略)言語は思考を仮装させる。すなわち、ひとは衣装の外形からそれをまとう思考の形を推測することはできない。その衣装の外形は、肉体の形を知らしめる目的でデザインされたのでは決してないからだ。

 じつにバカなことを言っている。これぞまさしく私がこの節の②で問題にしている「言葉は、あらかじめ存在する世界の普遍的真理をあらわす」という命題に相当する。この断章は、一見そうではなく、言語が真理とは乖離してしまう限界をもっていることを述べているかのように見える。しかし、こういう言い方の背景にあるのは、やはり例のユダヤ=キリスト教的な命題なのである。
 なんとなれば、ここでヴィトゲンシュタインは、言語を衣装に、思考を肉体にたとえており、このように言語と思考とを外形と内的実質とにナイーヴにも分けて平然としている考え方こそ、言語表現以前に、それとはまったく別の形で「永遠の真理」なるものが存在するという理念を前提としているからである。しかし、言語以前に「真理」などは存在しない。「真理」とは、私たちの言語による思考実践によって作り出された創造物なのである。
 ここでヴィトゲンシュタインはみずから明記していないが、彼が拠っているのは「言語以前の思考」なるものが確乎として存在し、しかもそれを本体とみなす言語観である。そしてこれこそは、長い間西洋を縛ってきた言語観であり、それは先に批判した「言語=道具」観の誤りにも通じている。
 先に引いた「命題は実在の写像である」という断章は、彼のこれまでのユダヤ=キリスト教的「真理」観念を端的にまとめたもので、言語思想としては二重の意味でピントをはずしている。第一に、なぜ「実在」が素朴に信じられるのかについて彼は何も言及していない。それは「神」によって与えられているゆえに疑う必要がないからだ。第二に、仮に言語が「実在の写像」(神の似姿)であることを認めるとしても(認められないが)、すでに述べたように、「命題」という形式は、言語行為の中のほんの一部分にしか過ぎないものである。彼がこの書で説きたがっているような、命題こそが日常言語の夾雑物を取り除いた純粋無雑な言語の本質をなすものであるという言語観には、何の根拠もない。
 私なら、この断章を次のように言い換える。

 命題は、世界の混沌を論理という言語の一様式にしたがって秩序づけた創造物である

 なるほど、この時期のヴィトゲンシュタインの頭の中は論理こそ言葉の本命という観念で一杯になっていて、論理以外の言語表現をすべて「ダメな写像、不完全な写像」として一蹴したかったのにちがいない。しかし、私にいわせれば、それこそは現実というものをわきまえない「子どもの論理」にほかならない。彼が哲学者たちを批判しながら、いかに言葉が背負っている現実をわきまえない哲学者特有の「子どもの論理」を弄しているか、その一例を挙げよう。

  四・四六一  同語反復命題と矛盾命題とは、それらが何ごとをも語らぬことを示す。
  四・四六二  同語反復命題と矛盾命題とは、実在の写像ではない。それは、いかなる可能な状況をも叙述しない。前者は可能な状況すべてをうけいれ、後者はすべてを拒否するゆえに。


 
 同語反復命題とは、「教師は教師だ」というようなもの、矛盾命題とは、「教師は生徒だ」というようなものを指す。
 ヴィトゲンシュタインは、同語反復命題や矛盾命題という言葉で、真の論理に値しないものをすべて葬り去りたかったにちがいない。
 その破壊性こそが彼の言語哲学の「魅力」をなしている。しかしこれが魅力であるように感じられるのは、それこそ言葉の遊戯にすぎないパラドックスを好んで取り上げて議論する「哲学者」たちの袋小路を、「哲学」言語の枠内で一見打ち破ってくれるように見えたからである。しかし、けっして本当に打ち破っているわけではない。
 ちなみに「哲学者」好みのパラドックスとは、たとえば「私はいま嘘をついている」「すべてのクレタ島人は嘘つきだとひとりのクレタ島人が言った」「私の命令に従うな」のような例である。これらを、それだけ取り出して論理としては真偽を決められない難問だなどと大真面目に論じるのは、ただのバカらしい遊戯である。
 このバカらしさについては、哲学者の竹田青嗣氏が『言語的思考へ』(径書房)のなかで、「現実言語」と「一般言語形式」という対概念を使って徹底的に論じている。前者がその言語が使用される状況や背景を考えた場合の言語観を象徴し、後者がただ論理形式としてのみ問題視するような抽象的な言語観を象徴する。「哲学者」好みのパラドックスは、後者の「一般言語形式」の範囲内でしか言葉の作用を受け取っていないのである。
 たとえば、「私はいま嘘をついている」という命題が「真」であるならば、現に「私」の言っていることは「嘘」であるということになるはずであるが、そうだとすると、この命題自身の反対、つまり「私は真実を語っている」という命題のほうが「真」だということになり、相反する命題がともに「真」であるという矛盾に逢着する。論理形式としてはそういうことになる。
 しかし、こういう言葉が現実に語られるときには、その前に言われた言葉が必ずあって、それを言ってはみたものの、すぐに「ああ、私は本当のことが言えていないな」という自己反省や、「あ、相手を傷つけてしまったかな」といった聴き手への配慮がはたらいている。この言葉は、そうした感慨の表現として、立派な意味を持つのである。
 また、「私の命令に従うな」という「命令」は、命令であるがゆえに、それを聞いたものの行動を不能にするかに見える。論理形式としては、この命令の内容に従うなら、命令に背くのが正しいことになり、そうだとすれば、この命令自体が無効と化すからである。「じゃあ、どうすればいいんですか」と反問したくなるだろう。
 しかし、これも現実状況の中で語られるときには、「いちいちロボットみたいに俺の命令を杓子定規に受け取らずに、自分の頭で考えろ」という含意があることは明らかである。
 これと同じように、ある状況、あるコンテキストのなかでは、「教師は教師だ」という同語反復命題は何ら無意味ではない。また、「教師は生徒だ」という矛盾命題も少しも無意味ではない。それどころか、彼の言葉を使えば、これらはいずれも「実在の写像」たりえており、ある「可能な状況を叙述」しえている。
 というのは、現実の言葉のやり取りの場面で前者のような言葉が発せられる場合、はじめの「教師」という言葉は、教師一般を指示する以外に格別の含意はないが、あとの「教師」という言葉は、「職業としての限界がある」とか、逆に「子どもを正しく導くために高い理想を持たなくてはならない」などの含意を込めた上で使われるからである。また、後者の場合、「生徒」ということばは、「生徒によって逆に教えられることがじつに多い」とか「教えることそのものが永遠の勉強なのだ」といった含意のもとに使われるからである。

 なおまた、ヴィトゲンシュタインは、「同語反復命題」という概念で次のようなことを言いたかったと考えられる。
 陳述における主語と述語との関係で、述語の表現が見かけ上主語とは違っていても、その主語の概念の中に述語で言い表されている内容がもともと含まれている場合には、それは同語反復とみなして差支えない。よってこの場合にも、「何ごとjも語」ってはいず、「実在の写像」たりえない、と。
 たとえば、「ひとは二足歩行動物である」という命題で、「ひと」という概念の中にはすでに「二足歩行する動物」という条件が含まれているので、こう言っただけでは、同語反復であり、何か論理的なことを言ったことにはならないというように。
 たしかに言いたいことはわかる気がする。しかし、この種の命題が「何ごとをも語っていない」のかと言えば、そんなことはないだろう。もしヴィトゲンシュタインがそういうことを言いたいのだとすれば、「三角形の内角の和は二直角である」とか、「ライターは火をつける道具である」といった命題も、すべて同語反復で、「何ごとをも語っていない」ということになろう。
 けれども、これも彼が言葉というものをわかっていないことをかえって証明している。
 ある言葉はある形態をもち、別の言葉は別の形態をもつ。そうして「主語―述語」関係による陳述は、まさに互いに別々の形態を同一のものとして結びつけるところに成立する。するとこの種の陳述は、じっさいの生活の中でどういう効果を持つだろうか。
「ひと」という言葉は幼い子どもも知っており、広くいろいろな意味で使われている。しかし「二足歩行動物」という言葉は、生物学という固有領域における特別な概念であり、そのかぎりで、「ひと」という概念をある特殊な仕方で限定しているのである。したがって、これを初めて聞いた人にとっては、「ひと」を生物一般というカテゴリーでとらえればそういう把握が可能なのかという新鮮な感銘が訪れてくるはずである。「ライター」という言葉が何を指しているのか知らない人には、「火をつける道具」という規定は、より明確な理解を提供する。また「火をつける道具」はほかにもあるので、マッチやガスレンジの点火装置と同類のものなのか、というように、個物をカテゴリーとしてくくる認識が成立する。さらに、「ライターはすぐに火をつけることができるので、小さな子どもに持たせては危険である」という文脈の中でこの命題を強調することには十分な意味があるだろう。
 このようにして、ちがう形態どうしを結びつける言語行為そのものが、それを聞いた者に、「あ、そうか」という一種の動揺をもたらすのであって、それは、共同社会への参加へと人々を促すのである。
 ある語彙あるいは語彙群のもつ概念は、いつも、だれにとってもその内包や外延が自明のものとして把握されているとは限らない。 ある語彙あるいは語彙群のもつ概念のすべてを理解している人にとってのみ、「形態がちがっても概念は同じだからそれは同語反復で当たり前のこと」で、よって「何ごとをも語っていない」という退屈な感じがやってくる。しかし、そのほかの人の生活にとっては、形態の異なる語彙と語彙との結びつけによる同語反復的な命題が新鮮な意味をもちうるし、またその使用の繰り返しが、前後の文脈しだいで共同生活の維持のために大きな役割を演ずることもあるのだ。「政治家の役割は、人々の多様な意思をまとめることだ」というように。

 矛盾命題については、次のようなことが言える。
 言語が現実に使用される状況しだいでは、「丸い三角形がある」とか、「一足す一は三である」というような端的な矛盾命題・誤謬命題ですら意味をもつことがありうるのである。というのは、前者の場合は、描かれた二つの三角形を比較して、いっぽうが角張っており、もう一つが丸みを帯びているので、あとのほうを指し示すための表現と解されることがあるからである。また後者の場合は、この世の中は何でも合理的に割り切れるものではないということを言いたいために使えるからである。人生を知らない人を「あいつは何でも一足す一は二だ式の考え方をする奴だからな」と軽侮を込めて批評することも可能であろう。


(次回もヴィトゲンシュタイン批判を続けます)



最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (あああ)
2020-11-26 23:23:27
いやカントの感性と悟性で説明できるから実在について言及してないだけでしょうが、大体カントで説明つく話を論理的空間は神だ!みたいな暴論は如何なものか
んで、語り得ぬことについては沈黙するべきである。に繋がる
返信する

コメントを投稿