小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

財務省VS総理官邸

2018年03月28日 00時07分47秒 | 政治


3月27日、森友学園への国有地払い下げにともなう財務省の有印公文書書き換え問題で、前理財局長・佐川宣寿氏の証人喚問が行われました。
筆者は、朝日新聞が書き換えの事実を公表した時点で、いかにも傲慢な一省庁の体質を象徴するミステイクで、重大ではあるものの、それ以上のものではないと思っていました。
しかしこれを反日野党やマスコミが大々的に取り上げて、安倍政権攻撃・打倒の恰好の材料とし、その支持率が急激に下がるに及んで、その背景などを自分なりに整理しておく必要を感じるようになりました。

ちなみに筆者は、森友学園問題そのものが発覚した少し後に、自分のブログで、これはひょっとすると、財務省の緊縮財政路線の前に立ちはだかる安倍首相つぶしのための陰謀の可能性もあるという憶測を述べています。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/f5b4219a93999f39267870a90b100ba4
これはあくまで憶測ですので、確証は何もありません。しかし、書き換えが明らかになった現時点でも(かえって現時点だからこそ)、この説が成り立つ余地があります。
理由は次の二つです。

①財務省と総理官邸との間には、長く続く暗闘があり、その熾烈さを国民はあまり知らされていません。
これについては、筆者は信頼のおける複数の筋から情報を得ています。
この暗闘は、上記のような、財務省の緊縮財政路線をめぐる確執だけではありません。
2014年5月に内閣官房に設置された内閣人事局が、事務次官、局長、審議官など役員クラス約600名の人事権を握ることになり、これまでの官僚主導の行政から、政治家主導の行政にシフトさせることがある程度可能となりました。
これが実効性を示すようになると、財務省としては、自分たちの力で財政を動かすことが難しくなります。
つまり財務省には総理官邸を恨むだけの十分な理由があるのです。

②財務省がこのたびの書き換えを行なった決済文書の書き換え前の部分には、貸付料について平沼元経済産業大臣や鳩山元総務大臣の秘書などから財務省などに対し「高額であり、なんとかならないか」などと相談があったこと、安倍総理夫人の昭恵氏が学園を訪問して講演したことなどが書かれていました。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/moritomo_kakikae/
ご存知のように、昭恵氏は、森友学園の名誉校長でした。
ここには、自民党政治家およびその周辺人物の関与をにおわせようという意図がありありと読み取れます。
決裁文書のなかで、交渉経過を記す部分(調書)に、なぜ自民党政治家およびその周辺人物を貶めるような(しかも昭恵氏の講演などは、価格交渉経過に何の関係もありません)記述をわざわざ入れる必要があるのでしょうか?
破格の安値で払い下げたことによって疑惑が生じた場合、その責任は、自分たちではなく、政治家およびその周辺人物にある、というこすっからい印象操作が感じられますね。
書き換え後は、これらはもちろん削除されています。
書き換える前にこの文書の存在は中央政界の一部に漏れていたのでしょう。
それが国会で問題視されると、自省の方針貫徹のためなら何でもするという財務省の陰謀的体質を突かれます。
そのことに配慮を巡らせた部内の何ものかが、あわてて書き換えを執行したと考えれば、つじつまが合うわけです。

これは、「安倍政権への忖度」などという「美しい」話とはとても思えず、単に、陰謀がばれることを恐れた組織防衛意識のわざではないかと推測されます。
以下の動画で、自民党の中では数少ない積極財政派である西田昌司参議院議員による、財務省攻撃の鋭さを見ると、これまで述べてきた財務省と、安倍首相自身を含む積極財政派との確執のありさまがよくわかると思います。
【西田昌司が財務省にブチ切れる】予算委員会にて『なんで報告しなかったんだよ!!!!』

https://www.youtube.com/watch?v=zajkdRLdh_I
口調だけを聞いても、西田議員と安倍首相との間には、財務省に対抗するための連携が成り立っている様子が感じられますね。

ところで、左派系野党は前々から安倍政権を倒すことだけを自己目的にしており、その後どうするかなど何も考えていません。
そこにめぐってきたこの書き換え問題を倒閣の絶好のチャンスと見て勢いづき、財務省攻撃ばかりでなく、昭恵氏の証人喚問を要求しています。
財務省問題を、政局の転換に結び付けたくて仕方がないのですね。
愚かとしか言いようがありません。
彼らが目先の問題にばかりとらわれて、日本国民のためなど少しも考えていないことは、次のように政局を見通すことで明らかとなります。

自民党が与党であり続けることが当面変わらないのだとすれば(変わるはずがありませんが)、もし安倍政権が倒れると、代わって立つ自民党の首班候補は、ほとんど財務省に尻尾を振るやからばかりです。
岸田氏、石破氏、野田毅氏、野田聖子氏、小泉氏、石原氏、二階氏など、自民党有力議員を思い浮かべてみても、財務省に対抗して、デフレ脱却を果たせるような力量と経済知識を持ち合わせる人が一人としていません。
これでは財務省の思うつぼです。
国民の貧困化は一層進むでしょう。

書き換え問題は、財務省オンリーの責任問題であり、政権全体にも、ましてや国民生活にも何の関係もないことです。
国民生活に関係のないことで連日国会審議の貴重な時間と金を空費している暇があったら、生活に直結する消費増税問題やPB黒字化問題や移民受け入れ問題について(いずれも経済の悪化に結びつきます)、なぜ国会で問題にしないのでしょうか。
与野党議員たちの志の低さが際立ちます。

むしろ書き換え問題は、財務省がこれまでまき散らしてきた悪をもっぱら象徴している問題であり、私たちは、ここを突破口として、財務官僚の横暴を打ち砕くべきなのです。
財務省と暗闘を繰り広げてきた官邸側にとっては、禍を転じて福と為すチャンスです。
国民は、何よりも、安倍政権打倒で勢いづいている野党やマスコミの口車に乗せられて、財務省と政権全体とを一体化して考えるという発想を捨てなくてはなりません。
国民は、選挙などになると何党が何人当選したなどと興奮しますが、本当に日本の政治を動かしているのがどんな勢力なのかということを、もっときちんと認識すべきです。

このたびの問題が意味しているのは、「民主主義の危機」などではなく(そんな危機ならとっくに続いています)、ただ財務省という腐った官僚組織の危機なのです。
この事件を安倍政権がうまく利用して、財務省がこれまで取ってきた「デカい面」を、コントロールできるように舵取りを行なう必要があります。
これが成功すれば、6月に控えた「骨太の方針」の閣議決定で、これまで財務省主導で採用されてきたPB黒字化という最悪の政策を破棄することも不可能ではありません。

それにしても、財務省の書き換えを朝日新聞にリークしたのは誰なのか。
まったく推測の域を出ませんが、これは二つ考えられます。

一つは、検察です。
この場合、検察は野党と同じように、その後のことなどまったく考えていず、硬直した正義感で行ったのでしょう。
あるいは、アジアの反日国家が検察内部に手を伸ばしているのかもしれません。

もう一つは、官邸自らがリークしたという推測も成り立たないわけではありません。
政権基盤を脅かすリスクを冒してまで、そんなことをするはずがないだろうと、ふつうは考えますね。
ごもっともですが、これまで述べてきたように、中央政権内部に財務省VS総理官邸という暗闘が存在する事実、そしてどちらに軍配が上がるかという成り行きこそ、日本のこれからを決定づける非常に重要なポイントなのです。
陰謀には陰謀を。
もし官邸側に、そうした「肉を切らせて骨を切る」だけの覚悟と気概があったとしたら、ちょっと希望が持てるではありませんか。


デカルトとバークリ、あなたはどっち派?

2018年03月19日 00時40分00秒 | 哲学



ちょっとややこしい哲学の話です。
みなさんはこういうことをどう思われますか。

近代哲学の祖といわれるデカルトは、この世界を「思惟する実体」(精神)と「延長を持つ実体」(モノ)とに二分しました。
次にデカルトは、感覚で「延長体」をとらえると誤ることが多いとして、精神によってとらえられる条件だけにその資格を与えます。
では精神によってとらえられる延長体の資格とは何か。
彼は形、大きさ、運動状態の三つを選び、色、音、味、匂い、肌触り、熱などを主観的な状況次第で変わるものとして排除します。後者は「心」に属する、と。
なるほど色は光の当たり具合によって違って見えますし、味も匂いも肌触りも熱もそれを知覚した人によってさまざまな現われ方をするでしょう。
しかし形や大きさや運動状態は、観測位置を一定にしておけば、だれが計測しても客観的な数値で表すことができます。

この厳密な(?)区別に対して、猛然と反論したのが、アイルランドの哲学者・バークリです。
あらゆるモノは、これらすべての知覚印象を持って現れる。
自分には、色や肌触りを持たない形や大きさだけの物体とか、形や大きさを持たないただの色とか肌触りだけの物体などは、およそ想像することさえできない。モノの存在とは、すなわち知覚の総合なのである、と。

一見どちらも正しいように受け取れます。
そこで二つのことを指摘しておきます。
まずデカルトが延長体の資格として、形、大きさ、運動状態を選んだのには、明確な目的意識があったからです。
それは、モノの多様な現われから、あえて三つを抽象することで、物質世界を数学的・物理学的に秩序づけようという意図です。
これらはいずれも計測可能ですから、さまざまなモノの相互関係を探究することによって、そこから自然界の法則を導き出すことが可能になります。
その際、この時代にはまだ化学も波動学も熱力学も発達していませんし、まして量子力学など先の先の話ですから、色、音、匂い、肌触り、熱……が捨てられるのは当然でした。
事実ニュートンは、デカルトのこの「延長実体」の原理にもとづいて、力学の体系を生み出したのです。

しかし一方、バークリの言い分にも注目すべき点が十分に含まれています。
デカルトの延長実体の条件はすべて視覚に関わっています。
視覚は対象と一定の距離を取って初めて可能となります。それはいわば観測主体を神に近い立場に置くことと等しいのです。
これに対して、音や匂いは空気中に発散するのでモノとは見なせないし、味、肌触りなどは接触によってしか知覚できません。
物理学を可能とするためにこれらが切り捨てられると、モノが私たちに醸し出すその全体的な印象は減殺されてしまいます。
デカルトは知覚世界を主観と客観とに明瞭に分け、同時に数学的・物理学的なモノの見方を基礎づけました。

しかしバークリは神に仕える僧侶でした。
彼にとっては、「実体」とは知覚する精神(心)と、神のみであると考えられたのです。ですからそもそも延長体そのものを「実体」とすることなど、我慢のならないことでした。

いま、私たちの立場からこの両者の対立の意味を考えてみましょう。

デカルトのように、知覚の全体性から形、大きさ、運動だけを抽出すると、自然が喚起してくる生き生きとした接触感覚が失われてしまいます。
その代わり、自然界を計量可能なものとして把握できるので、物理学や数学などが創出できます。

バークリのように、心に訪れる知覚印象の総体が作る観念の束こそ実体なのだと考えると、自然が送り届けてくれる生き生きとした実感は保存されます。花の香りや美味しい食べ物などを存分に玩味できるわけです。
その代わり、物体そのものとか、物質そのものといった考えを棄てなくてはならないので、学問的対象としてモノに分け入っていくことが難しくなります。

二人の立場は、要するに、科学的自然観と情緒的自然観とをそれぞれ象徴していると思うのです。
今の時代は、科学万能信仰がまかり通っており、その中には、科学に名を借りたかなりいいかげんな知識もはびこっています。
科学的にものを考えるとはどういうことか。それを知るためには、これまで蓄積されてきた科学の中にある程度分け入ってみなくてはなりません。
それを棄ててしまうと、かえっていいかげんな知識を科学だと勘違いすることになります。
しかしまた、科学的自然観は、自然や私たちの身体を死んだ物体とみなす部分を持っていることも確かです。
目医者さんは、患者であるあなたの目を見るのに、心と心を通わせるような仕方で生き生きと「目を見る」なんてことをしていたら、診断も治療もできませんね。
いっぽう、生き生きと心を通わせ合うには、お互いの身体を、デカルトのように形と大きさと運動状態としてだけ把握するのではなく、バークリのように、知覚を総体として動員して把握するのでなくてはなりません。
両方とも大切だと思うのですが、いかがでしょうか。


国家的事業か法的正義か

2018年03月13日 18時45分02秒 | 社会評論


 「これが談合といわれるなら、もうリニアには手を出しづらくなる。大成と鹿島が徹底抗戦したくなる気持ちは分かる」。リニア工事を受注した準大手のゼネコン関係者は、戸惑いを隠せない様子で語る。別のゼネコン関係者は「JR東海は積算や設計をゼネコンに手伝わせていた。工法の研究対象が重ならないよう情報交換をしてもいけないのか」と嘆いた。(中略)
 一方、検察幹部の一人は立件の意義をこう強調した。「9兆円の国家事業でなれ合いをしていたことが信じられない。こんなことをしていたら社会が腐り、日本企業の競争力が損なわれてしまう」

(以上、産経ニュース2018.3.2)

両者は完全に対立しています。
談合(話し合い)はなぜいけないのでしょうか。
しかも記事によれば、この場合は受注業者決定のための談合ではなく、工法の研究対象が重ならないための情報交換を月に一度行っていたというにすぎません。

3月3日付のヤフーニュースによれば、容疑を否認している大成建設は、ガサ入れの前に技術関連資料を移動させており、これが検察の目に証拠隠滅と映ったようです。
再捜査を受けた時に、大成側は、秘匿義務のある技術資料だったと弁明しています。
一方、検察は役職員を社長室に呼び出したうえ「ふざけるな!」と怒鳴りつけたそうです。
またある検察幹部は、「われわれが技術資料を漏らすわけがなく、証拠を移す理由にはならない」と決めつけたそうです。
しかし先の検察の言い分のうち、「社会が腐り」というのは抽象的で意味不明です。
すると、言い分の根拠は、「企業の競争力が損なわれる」という一点にあるようです。
完全な競争至上主義ですね。

最近の傾向として、公取委や検察は、以前まで定着していた指名競争入札さえも違法視するようになってきました。
一般競争入札という単なる形式的な純粋性を守ろうとして、それに抵触するものは、何でも切り捨てようとする硬直した思想。
ここには、取り締まる官庁の融通性のなさと、ヨーイドンの競争こそ最高善だとするアメリカ式新自由主義のイデオロギーとが重なり合っています。

指名競争入札には、ある特定の事業に対して経験豊富で投資力も十分な企業に参加者を絞ることで、公共事業を迅速かつ円滑に進められるという大きなメリットがあるのです。
もちろんデメリットが皆無とは言いませんが。

また上記産経記事では、検察幹部が「「9兆円の国家事業でなれ合いをしていたことが信じられない」などと子どもみたいなことを言っていますが、リニア新幹線のような巨大な事業であればあるほど、受注企業間の緊密な連絡や話し合いの機会が必要になってくるはず。
日本列島全体の経済成長に結びつくこの事業に、せっかく大手ゼネコンが協力し合って取り組んでいるさなか、幼稚な正義感をタテに口ばしをはさんで協力関係を分断する。
このほうがよっぽど信じられません。
検察は、現場の具体的な事情をどこまで知った上でこうした挙に出ているのでしょうか。

2017年4月、公取委は、東日本大震災後の農地復旧工事を舞台にした談合疑惑で、工事を発注した農水省東北農政局と、ゼネコン約二十社を立ち入り検査しました。
これも信じられない摘発です。
災害で荒廃してしまった農地は、被害に遭った農家の方々のために一刻も早く復旧させなくてはなりません。
工事を少しでも遅らせることは絶対禁物。
早く的確に着工にこぎつけるために、談合によって現地事情に詳しい適切な業者を絞り込む必要があります。
そういう「話し合い」解決がただ法律の文言に多少抵触するからといって、どうして「法の正義」を振りかざす必要があるのか
この場合も、現地の事情を何も考えない取り締まり官庁のリゴリスティックな競争至上主義が見事に露呈しています。

2017年12月、スパコン開発の第一人者、齋藤元章さんが逮捕されました。
逮捕容疑は、技術開発助成金を得るのに、報告書を他の研究目的に書き換えて四億円程度の水増し請求をしたというもの。
この件はこのブログでも一度取り上げました。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/4f822dc62138f6d7e46b7d39cbfd7ca8
政府はとかく技術開発投資をケチります。
ですから、助成金を得るために、報告書を他の研究目的に書き換える程度のことは日常茶飯事なのです。
取り組んでいる仕事の重要性に鑑みれば、注意勧告して書き直させれば済む話でしょう。
第一、まだ請求の段階で、どうして検察が水増しであることを知ることができたのか
齋藤さんはアクの強い方のようですから、内部に「敵」がいてチクられたのかもしれません。

このように一連の流れを見てきますと、最近の取り締まり官庁は、国家や国民生活にとって重大な意味を持つ事業に次々に水を差して、純粋正義派お坊ちゃま君を演じているという按配です。
物事の優先順位を完全にはき違えているのです。
ここには、日本国民のために仕事をするという、公共精神のかけらも見当たりません
また、摘発するにも、現場の事情を斟酌するさじ加減というものがあることをまるでわきまえていません。
秀才の大きな欠陥と言うべきです。
この純粋お坊ちゃまの振る舞いが、ただの正義派を演じているだけならば、まだしも許せる部分がないではない。
しかしその背後には、こうした正義派ぶりを利用して、日本の高度な技術を盗んで国力を貶めようと企んでいる某勢力(複数)の影がちらつきます。
よく指摘されるように、日本はスパイ天国です。
こう考えると、先の検察幹部の「われわれが技術資料を漏らすわけがない」という言葉も信用がおけなくなってくるのです。

このぶんでは、世界で唯一の建設候補地として北上山地に指定されている国際リニアコライダー(高速線型加速器を内蔵した研究施設)も、予算がどうのと言ってまごまごしているうちに、さまざまな邪魔が入っておぼつかない状態となり、中国あたりに取られてしまうかもしれません。
日本の内部崩壊の危機を何とかしなければなりません。
課題は山積しています。


【小浜逸郎からのお知らせ】
●『福沢諭吉 しなやかな日本精神』(仮)を脱稿しました。
出版社の都合により、刊行は5月になります。
中身については自信を持っていますので(笑)、どうぞご期待ください。
●『表現者』75号「誤解された思想家たち第28回──吉田松陰」
●『表現者』76号「同第29回──福沢諭吉」
●月刊誌『正論』2月号「日本メーカー不祥事は企業だけが悪いか」
●月刊誌『Voice』3月号「西部邁氏追悼」
●『表現者クライテリオン』第2号「『非行』としての保守――西部邁氏追悼」
(4月16日発売予定)