小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源37

2014年06月24日 22時54分14秒 | 哲学
倫理の起源37



 次に、一般に性愛関係は、それ自体としては、閉じられた二人の関係であるから、その世界の外側との関係で、どういう倫理性が要求されるかということを考えておかなくてはならない。
 すでに述べたように、人間の性愛意識は、多様に拡散しており、またいつでも発動できるポテンシャルを持っている。これを本質的な「乱脈性」と呼ぶことができる。この乱脈性は、人々が労働のために群れ集って社会集団をつくる場合、そこに必要とされる秩序とけっして相容れない。そこで、人類社会は、労働の共同性が実現される時と場所と、性的な共同性が実現される時と場所とを、厳密に区別する発想をもつに至った。したがって公開の場で、性愛意識や性愛行為を露出することは禁じ手であり、社会集団の側からすれば、「猥褻」とか「公序良俗に反する」とか「犯罪」とかとらえられることになる。
 ちなみにドイツ語では、面白いことに、「人倫」を表わすSittlichkeitという言葉にただの「不法行為」を表わすDeliktを結合させたSittlichkeitsdeliktという言葉、およびただの「犯罪」を表わすVerbrechenを結合させたSittlichkeitsverbrechenという言葉は、ともに単なる道徳破壊を意味するのではなく、いずれも直ちに「性犯罪」を意味する。
 労働の共同性をつかさどっている秩序は、公共性倫理の基礎を形作るが、これは直接の性的な共同性と端的に対立するので、性的な共同性が公共性倫理との間に接点を見出すためには、その関係の社会的な承認の手続きを踏まなくてはならない。すなわち、婚姻や家族形成という媒介が必要とされるのである。
 しかし労働の共同性と、性的な共同性とのこの区別は実際にはしばしば越境される。また、誰にとっても性愛は人生の重大事であり、大きな関心の的でもあるので、それについて語られるのを抑えることはできない。そこで、その話題は、ある程度心を許した者たちだけの間、あるいは特定の大人同士といった限定された空間のモードのなかで、秘密に、ひそかに、下ネタとして、笑いや羞恥心を伴って語られるのである。

 このようにして、性愛(エロス)倫理は、外側との関係では、その最も私的な部分、肉の交わりの部分をみだりに公開してはならないというかたちをとって現われる。越境は現にしばしば起こっているし、宗教的な戒律が緩んだ近代以降は、かなり寛容(悪く言えばいい加減)になってはいる。しかしこの基本原則が崩壊したわけではないし、これからも崩壊しないだろう。これが崩壊するときには、Sittlichkeitはおしまいである。
 ところで、先に男女関係や夫婦関係における人倫性についての和辻哲郎の説を紹介した折、一つの疑問を呈しておいた。彼はただこの関係が閉鎖的で私的であるゆえに隠されるべきものであると述べているだけであるが、これは一種の同義反復であり、なぜ性愛的な関係に限ってそのように厳重に秘匿されるのかという問いに答えていない、と。
 和辻の説では、ただ私的であるから隠されるとされているが、私的とは、もともと公的であることとの関係においてとらえられる概念である。したがって、なぜ性愛という私的なあり方に限ってこれほど明瞭な秘匿性が「人の道」として成立しているのかを説明するためには、他の人間関係のあり方や営みとの具体的で質的な相違を根拠にするのでなくてはならない。和辻は、指摘した箇所では残念ながらそれをなしえていないので、この領域の内部における人倫の、単なる「現象」の記述にとどまっているのである。
 私見によれば、この問いに対する回答は次のようになる。
 性愛の共同性は、それが単に閉鎖的で私的であるから公開に対するタブーが存在するのではない。これには性愛という営みに固有の理由が考えられる。
 すでに述べたように、生殖のサイクルからはみ出した人間の性的関心や行為はもともと「乱脈性」を本質としている。この点がまず、労働を基礎とする一般的な共同性の秩序に抵触する。
 さらに性愛行為の実態に即して次の事実を付け加えるべきだろう。
 言うまでもなく、古来、神話や歌謡や文学にもうかがえるように、性愛はじつは人間の最大の関心事である。それはなぜかといえば、同じ「人間」でありながら異なる性の体現者の個別身体、個別人格の全体を目がける意志と行為だからであり、その当事者のみの心身の激しい集中と感動(魂魄一体となったふるえ)を伴うからである。
 こうして人間の性愛は、その個別身体と個別人格が持ちうる時間の総体(一つひとつの人生)に大きな影響を与える。人は、ある個人が性愛的な時間帯のなかにいない時にも、彼がその時間帯のなかにいた時の「事件」の成り行きをことさら気にせずにはおれないのである。この事実が、それぞれの人をして、他の人間関係や生活の営みに比べて性愛関係を特別のものとして観念させる大きな要因としてはたらいている。
 本質的な乱脈性と個別的な魂魄のふるえ、この二つの点が、労働の協同を基礎とした一般的な共同性の秩序と相いれないのである。人々の入り混じる日常的な時間帯(象徴的に言えば昼の時間帯)のなかに、この乱脈性と個別的な魂魄のふるえを持ち込むことは許されない。それをやれば、たちまち一般的公共的な人倫の了解が破壊されるからである。
 ロシアの民謡「ステンカ・ラージン」では、反乱軍の首領ラージンが、美しいペルシアの姫との愛に酔っている時、手下たちの陰口を小耳にはさむ。「一夜でボスまですっかり女になっちまいやがって」……ラージンはやにわに姫を抱えて「ヴォルガよ、この贈り物を受け取れ」と大河に投げ捨てる。自分の性愛への熱中が、一般的な社会集団の秩序を乱していることを悟り、即座にその秩序を回復するほうを選ぶのである。
 象徴的に言えば、労働の営みは、静かに、淡々と、なるべく個人的な感動を伴わずに行われなくてはならない。それでなくてはその目的が果たせない。その場所では人々が入り混じるのだから、本来は、自我の動揺(情緒の波立ち)が不断に伴っているはずである。もちろん、事実それは伴っているが、なるべくそれを表に出さないようにしなくてはならない。これに対して、性愛の営みは、まったく逆に、感動を伴うことこそがその必須条件である。両者はそれぞれに固有の人倫性をそなえているのだが、その人倫性は互いに矛盾する。これを、多数者どうしの交わりと、特定の一者との交わりとが抱懐する矛盾ととらえてもよい。
 性愛は、当事者にとって胸躍らせる陶酔的な営みだが、同時に、非当事者である一般社会のまなざしからすれば、それが公開され露出された時には、いやらしく許すまじきものととらえられる。猥褻な行為自体というものがあるのではなく、この営みが公開・露出されようとするその接触面、境界面で初めて「猥褻」が成立するのである。労働の営みと性愛の営みの守られるべき使い分けがそのとき破られるからである。

 しかしすでに述べたように、この使い分けは、実際にはそううまく行かず、人々の性に対する関心と欲望はしばしば労働を基礎とする日常的な時間帯のなかに侵入しようとする。この傾向に回路と居場所を与えるために、人々は、「祭り」という特別の非日常的な時間帯を考案した。祭りは、一般的な共同性の象徴としての聖なる存在の再確認と強調の機能を持つとともに、他方では、性愛という特殊な情動を公共的な場において発散することを(多くの場合擬似的、暗示的に)互いに許容、黙認する場でもある。どんな祭りも多かれ少なかれこの両側面をそなえている。聖なる存在そのものが、まさに自分が祭られるその厳粛な日に、歌舞音曲、饗宴などを伴いつつ、日常からの飛躍としての幻想と蠱惑の世界を開くのである。
 これは、世界中に散らばるさまざまな祭りの例を引くまでもなく、婚礼という、共同体にとって「厳粛な」はずの日が、同時に羽目を外した酔狂を許す日でもあるその両義性に注目するだけで明らかであろう。
 古代ギリシアの伝承として名高い次の話は、この間の事情をよくあらわしていて、たいへん含蓄が深い。
 人間はもともと男女一体であったが、その傲慢がゼウスの怒りに触れて引き裂かれてしまった。そのため互いに相方を求めることに明け暮れ、働くことも忘れて無為に過ごして死んでいくようになってしまった。そこでゼウスはこれを憐れんで、隠しどころを前に付け替え、時々は交わって子どもを産めるようにしてやった。これによって人間は、日々の秩序感覚を回復したというのである。
 この神話は、人間自身が、己れの性愛感情の破壊的な激しさに対する自覚に基いて、婚姻などの厳粛な秩序を考案することによって、一般的共同性との間にうまい妥協点を見いだしたことを象徴している。「子どもを産めるようにした」というのも、個体の有限時間を超えた共同体の連続性(異世代間の継承)をどのように確保するかという倫理的な問いに答えたものである。

ワールドカップやぶにらみ

2014年06月19日 20時51分11秒 | 社会評論
ワールドカップやぶにらみ




 ワールドカップたけなわです。日本は初戦敗北、第二戦引き分けと苦戦していますが、これ以降、悔いのない闘いをしてほしいと思います。
 ところで、今回のブラジル大会では、会期までに会場や選手村の準備が整わなかったとか、治安が不安定なので行かないほうがいいとか、反FIFAのデモが盛り上がって警察が鎮圧に躍起になっているとか、試合そのものの外側の事情がしきりに問題にされていますね。各国の選手団もこういう事情を知らないはずはなく、表には出さないものの、見えないストレスを相当ためこんでいると推測されます。また開催に反対するデモ参加者たちは、社会的インフラや医療や教育を充実させることを優先させるべきなのに、国が大量の税金を大会のためにつぎ込んでいることに対して、一様に不満を訴えています。
 試合の中身も気がかりですが、それとは別に、これはいったい何を意味しているのかということをきちんと考えておく必要があるでしょう。大会の見かけの華やかさに幻惑されてその問題が不問に付されるようなことがあってはなりません。
 ざっくり言ってこの事情は、スポーツの世界大会を開催するほどの余裕と実力のない国が、一種の「見え」を張って巨費を投じているところから起きてきたものとみなして間違いではないでしょう。
 じつはこのことは、四年前の南アフリカ大会でも当てはまることでした。次の新聞記事(一部)をお読みください。この記事は、産経新聞の「環球異見」という欄に掲載されたものです。この欄は、時の話題に応じて世界各国の有力紙の社説を要約して報告する欄で、偏りのないきわめて公平な姿勢を貫いています。ふだんは、ニューヨークタイムズやワシントンポスト、フィナンシャルタイムズや人民日報などが多いのですが、今回はワールドカップにちなんで、「プレトリア・ニュース」という南アフリカの新聞記事が採りあげられています。文中、「主張」とあるのは、プレトリア・ニュース社の主張という意味です。

 主張では、南アでのW杯開催が国民の福祉改善に役立っていない実態を指摘し、「社会的な改革が必要で、かつ、予算も限られた国家は、見えのためにW杯や五輪などの大プロジェクトに巨費を投じるべきではない」と訴えた。
 世界の注目を浴びた前回大会では、W杯開催が経済を底上げし、南アの将来にプラスの影響をもたらすとの見方が大勢を占めていた。
 しかし、主張は「チケットの天文学的値段は、大多数の国民を競技場から排除した。国民の団結につながったのかは大いに疑問がある」と強調し、「受益者は建設会社とセメントメーカーなどの関連産業、そして清涼飲料とハンバーガー製造会社くらい。約束されていた外国投資や雇用の増大にはつながらなかった。代わりに、物価だけが上昇した」と切り捨て、大会開催は失敗だったと結論づけた
。(6月11日付)

 このプレトリア・ニュースの指摘が事実とすれば、南アの実態をごまかさずに直視した、国内におけるなかなか辛辣な批評だと言えるでしょう。各国のスポーツジャーナリズムがサッカーの世界大会で浮き立っているまさにこの時期に、あえて冷水を浴びせるようなこういう主張を堂々と載せるその論調に、ある種痛快なものを感じるのは私だけでしょうか。
 思えば南アのW杯だけではなく、2008年の北京五輪は環境や開会式口パクなどいろいろな問題が指摘されていたし、2012年のロンドン五輪も経済効果はなかったと言われています。また今年のソチ冬季五輪は、反政府勢力のテロや暴動に対する厳戒態勢のうちに行われて、かなりの無理を感じさせました。さらに2018年に開催予定の平昌(ピョンチャン)冬季五輪も、韓国経済の現状を考えると、本当にできるのかね、という危惧をぬぐえません。
 これらを考えると、昨今やたら頻繁に行われるようになった世界スポーツ大会というのは、「スポーツは国境を超える」の美名と派手な演出のもと、国内外の深刻な政治問題、経済問題を隠蔽する機能を果たしているだけではないかという意地悪な見方をせざるを得ません。
 さて、上に挙げた各国のうち、イギリスを除くすべての国が、いわゆる「新興国」に属するという事実を見逃すわけにはいきません。ブラジル、ロシア、中国の三つは、リーマンショックまではいずれもBRICs諸国などと呼ばれて大いにもてはやされたものです。最後のsの字を南ア(South Africa)とする見方もあります。
 なお中国はGDP世界第2位を誇っていますが、中国の統計がまったくあてにならないことは周知の事実ですし、不動産バブルもはじけて成長率は一気に鈍化しつつあります。また韓国は一応先進国ということになっていますが、深刻なアジア通貨危機に見舞われ、国内的な底力がないため、いまや経済的な主権を完全にグローバル資本に握られていますから、見かけだけの先進国と呼んでもいいでしょう。
 したがって、ここ近年、世界的なスポーツ大会の開催国は、ほとんどがその余裕と実力を持たないのに、国威発揚と自国宣伝のためにあせって名乗り出て、結果としてかなりの無理を強いられることになったと言っても過言ではありません。泣きを見るのは、当の開催国の国民です。

 ところで重要なのは、単にそうした現象を確認するだけに終わらせるのではなく、なぜ近年の大会開催国が、揃いも揃ってこういう危なっかしい国ばかりになってしまうのかという理由を考えることです。
 私はこの問題について、次の三つの点を重視します。

 ①アメリカの覇権後退によって国際政治の力学が多極化したこと
 ②国連の理念に象徴されるような空想的な平等主義がまかり通っていること
 ③資本の過度な流動性によってあたかもある国が富んでいるかのような幻想が生みだされること


 ①について。
 現在の国際情勢をざっと見渡すと、日々の報道が明らかにしている通り、北アフリカ諸国、シリア、ウクライナ、イラクなどは内戦状態が続いており、エジプトやトルコも紛争が収束される気配が見えません。しかもこれらに対してかつての覇権国家アメリカは、口先だけでいろいろ言うものの、やる気のなさ見え見えです。中国は内陸では新疆ウイグル自治区などへの圧迫を押し進め、外に向かっては露骨な侵略的行為を繰り返しており、この強引なやり方に対して関係諸国は一様に反感を募らせています。メキシコは慢性的な財政危機状態、アルゼンチンは再び財政破綻の危機を迎えています。
 いま世界は、国家間紛争だけではなく、国内的にも政治経済の矛盾がふき出して、統一がままならないところだらけと言えますね。オバマ大統領は、「アメリカは世界の警察官ではない」と明言しましたし、お家の事情で手いっぱいです。モンロー主義に引きこもりつつあると言えるでしょう。だれも国際秩序の再確立に関して、アメリカに何かを期待することはできません。

 ②について。
 国際政治が、いまそういう「自然状態」に回帰しつつある状態であるにもかかわらず、この事実を隠蔽するかのように、また、安易に戦争や革命に訴えるわけにいかない日ごろのうっぷんのガス抜きの機能を果たすかのように、国際スポーツ大会の体裁は、参加国数が増え続け、そうして見かけの華やかさばかりが目立つようになりました。いわば「世界のカーニバル化」であり、リオ(ブラジル!)のカーニバルがそうであるように、「祭りのあと」のツケを支払わなければならないのは、普通の国民ということになるでしょう。ことにそのツケは見えっ張りの「新興国」の国民に一番多く回ってくることが予想されます。
 ここには、超大国から極小国まで、190以上を数える一国一国をまったく対等に遇するという国際連合(UNITED NATIONS)の理念が影響しています。もちろん国連には第二次大戦の戦勝国が意思決定の主力を握っているという組織構造がありますが、しかしその建前は、みんな平等に世界平和を実現する試みに参加しましょうということです。でも極小国や途上国には、はっきり言って、そんなこと考えてる余裕なんてないはずです。自国をどう防衛し維持発展させていくかだけが目下の関心ですから。
 オリンピックの開会式では、選手団の数こそ異なれ、各国の国旗がへんぽんと翻りますね。私はへそ曲がりですから、あれを見ていると、いつも欺瞞的だなあと感じてしまいます。日ごろの利害関係、政治的文化的摩擦、宗教紛争、大国の少数民族への圧迫などをしばらくは忘れ、地球市民が一堂に会して世界平和の夢に酔おうよということなのでしょうが、忘れろったって忘れるわけにいかないですね。今日もウクライナやイラクでは、死闘が繰り広げられているし、タイは深刻な対立を抱えているし、中国はヴェトナムやフィリピンや我が国に対して侵犯を繰り返しているのですから。
 超大国と極小国とを同じ一国とみなそうという「平等主義」は、一種の言葉のマジックですね。言語記号の上で同資格の「くに」として扱われていれば、なんだかすべての国が同一の実力や権能を持っているかのような幻想に誘われます。このマジックによって、紛争当事国の現実が隠蔽されるだけではなく、新興国、途上国、小国に、自分たちの一人前さを何が何でも世界に向かってプレゼンしなくてはならないという背伸びした強迫観念が植え付けられます。「身の程を知る、分をわきまえる、自分の足元を見る」という謙虚な精神が消滅するのです。みんなが夜郎自大ぶりを競うことになります。これを「見え張りナショナリズム」と呼びましょう。
 次はどの国に回そうかと考えるIOCやFIFAのような国際スポーツ機関もこの平等主義の制約から抜けられなくなっていますね。もちろん多方面にわたる審査はしていますが、ビジネス絡みの裏工作から無縁ではありませんし、人間のやることですから、順繰りのたらい回しという不文律から自由になることも難しいでしょう。想像するに、「アフリカで初めてやったから、今度はサッカーの本場ブラジルね、中小国でもバカにしないで大切にしましょうね。次は初めてだからロシア行きましょう」てな感じですね。

 最後に③について。
 そもそもBRICsという用語の由来は何でしょうか。次の解説をご覧ください。

 2003年秋にアメリカの証券会社ゴールドマン・サックス社が、投資家向けリポートの中で用いて以来、マスコミなどで取り上げられるようになった。このリポートでは、今のまま経済が発展した場合、2039年にはBRICs4カ国のGDP(国内総生産)の合計が、米日独仏英伊6カ国のGDP合計を抜き、2050年にはGDPの国別順位が、中国、アメリカ、インド、日本、ブラジル、ロシアの順になると予想している。 (ナビゲート ビジネス基本用語集 http://kotobank.jp/word/BRICsより)

 ずいぶんいい加減な予測を立てるもんですね。そんな先のことが分かるはずがない。でも「今のままで経済が発展した場合」という仮定がミソで、ちゃんと責任逃れの手は打ってある。
 ちなみに最新のデータ(2013年)では、BRICs4か国合計で15.4兆ドル(南アを含めると15.7兆ドル)、上記先進6か国合計で32.7兆ドルです。10年たった今でも、半分にも達していません。しかも中国の統計がまったくあてにならないことは先に述べました。付け加えれば、他の三国の統計もあまりあてにならないでしょう。
 しかしこの解説で、最も重要なポイントは、この用語と数字をアメリカの超大手証券会社が投資家向けリポートの中で用いたという点です。こういう予測を立てる目的は何か。慧眼(けいがん)な読者はお分かりですね。これは要するに、次の投資先(技術とか社会資本形成とか生産のための投資ではなく、もっぱら金融資本投資です)としてのねらい目はどこかという、投資家にとっての単なる金儲けのための予測です。白羽の矢を当てられた国々が実体経済を充実させて国富が豊かに蓄積され、国民の福祉に寄与するだろうという話とはまったく関係がないのです。
 ところが「権威筋」からこういう話が出ると、それが独り歩きして、何となくこれらの国々の経済が独自に発展するんだというイメージを持たされてしまうのですね。ある国の金回りがちょっとよさそうだと、その国が実力を蓄えてきたように輝いて見えます。でも事実は必ずしもそうではありません。一国を多くのお金が出たり入ったりする現象には、為替の動き、貿易や外交の関係、各国の経済政策、その時々の金融の動向、外資依存度など、さまざまな要因が絡んでいるので、一つの原因に帰することは極めて困難です。
 ゴールドマンサックスの予測が幻想であったことは、リーマンショック以降すでに明らかとなっていますが、それにしても、いったん植えつけられた幻想というのは、タイムラグがあって、なかなか人々の頭の中から抜けません。幻想が実態を覆い隠します。ブラジルの実態について言えば、先に述べたように、相変わらず生活水準が低く、インフラや医療や教育も整っていません。それがなんと2年後の夏季オリンピックもブラジルのリオで行われるのですね。今回のW杯で噴出した問題は、2年後にもそのまま受け継がれることはほぼ確実でしょう。
 現在グローバリズムが世界を駆け巡り、資本の移動の自由が極限まで進んでいます。その主役は言うまでもなく、一部の金融投資家たち(特にウォール街)です。この人(機関)たちはコンピュータに組み込まれた自動プログラムによって、瞬時に巨額の取引をしますから、何かの材料によって、ある国が「有望」と判断されれば、そこに一気に金が流れ込みますが、逆に「危ない」と判断されれば、潮が引くように一気に引き上げられてしまう可能性があります。
 いえ、ことはブラジルだけではありません。グローバル資本が幅を利かせている現在の国際社会では、国内産業が整っていない国はどこも危ないのです。逆に言えば、国政の関心を本気で国内産業の維持発展(内需の拡大、国内投資と雇用の促進)に向けるかどうかが国運を左右するということです。
 南米の熱き血よ。W杯や五輪に燃える気持ちはよくわかるけれど、見え張りナショナリズムは少し控えて、冷静に自分の足元を見つめることをお勧めします。失礼ながら6年後に五輪開催が決まっている私たちも他山の石とさせていただきます。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(17)

2014年06月12日 17時57分32秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(17)


 前回、ジャック・ルーシエを紹介して、ヨーロッパのジャズについてもう一回語ると予告してから、だいぶ間があいてしまいました。
 いろいろと忙しかったこともありますが、じつはそれは言い訳にすぎません。本当の理由は、自分の知っている範囲内で、モダンジャズについて語りたい重要なことはだいたい語ってしまったかなという気持ちになっていたからです。一種の脱力感ですね。
 それで、このシリーズを丁寧に追いかけてくれている友人に、あと2回で一応終わりにするつもりだと話したところ、「それは残念。もっと続けてくれないか」と言われました。そう言ってくれるのはとてもありがたいことなので、エンドレスでやっていこうと思い直しました。
 とはいえ、当初の心積もりを曲げて急旋回することもできませんから、あと2回で一段落つけ、それからもう一度態勢を建て直して取り組もうと考えています。どういう装いにするか、いま思案中です。

 このシリーズの一応の落ち着きどころをヨーロッパのジャズにしようと決めたのには、わけがあります。
 まず、年を取ってきて、自然とそういうサウンドを求めるようになったという点です。たまたまレコード店で「澤野工房」というヨーロッパ・ジャズ専門の製作・販売会社を見つけ、そこから出ているアルバムを聴いたのがきっかけでした。
 この会社のアルバムは、独自のプロデュースを手掛けていて、CDのジャケットもオシャレな紙製、とても趣味がよく、流れ出る音とマッチしています。これは私の勝手な感想ですが、このレーベルは、日本人の「和」の感覚とヨーロッパ人の伝統とが見事に融合したところに生まれたものだろうと思います。
 エルヴェ・セランというフランスのピアニストの『ハッピー・ミーティング』から一曲、「アイ・シュッド・ケア」を紹介しようと思ったのですが、残念ながらつかまりません。高音部はウィントン・ケリーばりの溌剌とした展開、ハーモニー部分の処理はビル・エヴァンスによく似ています。これらの巨人たちのよい部分を素直に身体に沁みこませてきたのでしょう。
 一般にヨーロッパ人のジャズ演奏は、爆発的なエネルギーを感じさせない代わりに、とにかく音がきれいです。特にベースの音色が素晴らしい。さすがにクラシック音楽の故郷ですね。
 黒人ベーシストの巨人、レイ・ブラウンポール・チェンバースはそれぞれ屹立していますが、音はそれほどきれいではありません。特にポールは、アルコ(指ではじくのではなく弓で弾く)での演奏を得意としていましたが、その音はかなりダーティです(ちなみに私は彼のアルコ演奏はあまり好きではありません)。スコット・ラファロは白人ですが、表現への情熱がもろに出ていて、音そのものは「心地よい」とは言いかねます。
 これに対して、前に紹介したジョージ・ムラーツミロスラフ・ヴィトスは、とてもきれいな音を出します。彼らはアメリカが主たる活躍舞台でしたが、いずれもチェコ人です。ここには歴然とした違いが認められます。
 こうして私は、中年以降、心の休まるきれいな音をジャズに対しても求めるようになったらしい。人生に疲れてきた証拠かもしれません。

 それではここで、クラシックの名曲をジャズでアレンジしてかなりポピュラーになったヨーロピアン・ジャズ・トリオの演奏を二曲聴いていただきましょう。ヨーロピアン・ジャズ・トリオは、オランダのグループですが、かつて繁栄した海洋国家・オランダの、世界に開かれた感性の伝統を耳にする思いです。クラシック特有の繊細さと格調の高さを活かしつつ、しかも紛れもなくジャズのスイングするスピリットを自家薬籠中のものにしています。じつにいいセンスですね。
 一曲目は『マドンナの宝石』から、ポピュラーなところでショパンの「幻想即興曲嬰ハ短調」。この曲では、中間部の主題だけを取り出して、そこから自由に即興演奏を繰り広げています。パーソネルは、マーク・ヴァン・ローン(p)、フランス・ホーヴァン(b)、ロイ・ダッカス(ds)。なおピアノはトリオ結成期から途中でマークへと代わりましたが、マークに代わってからのほうがこのグループの持ち味が鮮明に出ているようです。

European Jazz Trio : Fantasie Impromptu


 二曲目。『天空のソナタ』から、同じくショパンの「前奏曲第15番」。有名な「雨だれ」です。この屈指の名曲をジャズでどう処理するか、とても興味深いですね。必ず共感してもらえると思いますが、期待にたがわぬ名演奏になっています。軽快なリズムセクションに乗って、あのシンプルで美しいメインテーマとそのヴァリエーションが繰り返し出ては消え、出ては消えしますが、うっとうしいこの季節にこれを聴いていると、雨に洗われた清々しい紫陽花を窓辺から眺めているようで、何ともさわやかで幸せな気分になります。「雨もまたよし」です。

European Jazz Trio-Chopin-Raindrop


ついでですから、原曲をマウリツィオ・ポリーニの演奏でお聴きください。こちらはやはり本格的。少し重たげですが、全曲を通して打ち続けられる左手のリズムが時の恒常的な流れを象徴しているようです。そうして中間部で、低音によるやや沈鬱な情熱がロマンティックに表現された後、再びテーマへ。終結部、一瞬時の流れが途絶える衝撃が走りますが、また元に戻って静かにフェイドアウトしてゆきます。その何とも言えない余韻。
 思わず本道から外れましたが、いやあ、ショパンってほんとにすごいですね。

M.Pollini - Chopin - Prelude Op. 28 No. 15 in D Flat. Sostenuto (Raindrop)


 もう一グループ、ベースがリーダーを務めるフランスのジャン・フィリップ・ヴィレ・トリオを紹介しましょう。このトリオは、おそらくリーダーの意向でしょうが、ひとりひとりがあまり出しゃばらずに、あくまで全体のアンサンブルに重きを置いているようです。その意味では、かつてのジャズメンのようにソロプレイヤーの個性を強く押し出すというよりは、やはりクラシックの室内合奏曲のような趣があります。しかし曲目はクラシック曲の変奏ではなく、ヴィレをはじめとしたメンバーのオリジナル曲がほとんどです。
 このトリオは、さほど著名ではないようですが、こういうサウンドを創造できるというのはやはりヨーロッパ人ならではのところがあり、ジャズの流れが行き着いた地点のひとつとして、貴重な存在と言えるでしょう。
 では『エタン・ドネ』から「デリーヴ」。パーソネルは、ヴィレのほかに、エドワール・フェルレ(p)、アントワーヌ・バンヴィル(ds)。ヴィレのアルコ演奏によるきれいなソロが楽しめます。

Jean-Philippe Viret Trio - D�・rives


 以上聴いていただいたように、ヨーロッパのジャズは、ジャック・ルーシエを別格として、比較的おとなしいオーソドクシーに還帰していく志向を示しています。そこには、残念ながら、あの輝かしいニューヨーク・ジャズメンたちの激しいエネルギーと気迫が感じられません。少し意地悪な見方をすると、これは、もはや盛りと成熟を過ぎて衰退しつつある現在のヨーロッパ文明全体を象徴していると言えるかもしれません。
 私自身の耳は、自分がとっくに盛りと成熟を過ぎているので、こういう「沈みゆく美しさ」もまたいいものだなあ、と感じているのですが。


*次回は、これまで書いてきたことのまとめとして、花火のように短くも激しかったモダンジャズの最盛期を総括し、一応の区切りとしたいと思います。

「ガリレイの会」について(SSKシリーズその2)

2014年06月08日 23時39分45秒 | エッセイ
「ガリレイの会」について(SSKシリーズその2)



(2014年4月発表)

 親しい仲間を語らって「ガリレイの会」というのを始めることにしました。何をするかというと、いい年のオヤジが(できればオバサンも)、中学から高校までで学んだはずの物理化学生物地学など、要するに理科の基礎を勉強しなおそうというのです。先生を呼ぶわけではなく、自分たちで「昔取った杵柄」を納屋のなかから持ち出してきて、相互にレクチャーするという試みです。
 いったいなんのためにそんな物好きなことをするのか。本誌の主な読者である塾の先生方は、子どもを教えるためにしっかりした実力を固めておくつもりだろうとお思いになるかもしれません。しかし主たる目的はそこにはありません。
 日本の近代教育は、中等教育(中学・高校)から高等教育(大学・専門学校)に至る段階で、理系、文系と分岐して、どちらかに投げ入れられた学生たちは、その路線をひたすら歩み続け、気づいてみると、人格までも理系人間、文系人間などと分類されて評価されるありさまです。別にIT理論やSTAP細胞を研究したからといってその人が豊かな人間性を失うわけではないし、文学や社会思想にのめりこんだからといって、その人が科学的思考を喪失することはないはずです。
 ところが現状をざっと見渡すと、どうもこの分裂状況が当たり前のようになっている。試みに、誰でもいいですが、人文系の著名な知識人や政治家やマスコミ人を引っ張ってきて「パスカルの原理って知ってる?」とか「核分裂反応って何なの?」とか聞いてみてごらんなさい。ほとんどの人が正確に答えられないのではないでしょうか。そういうごく当たり前の基礎知識を忘れてしまっているのに、「ゲンパツハンタイ」などと、人々の恐怖感情に便乗してただの良心主義を表明するのってまずくないですか。
 この奇形的な二極分化は、日本特有だそうです。明治初期に西洋文明がどっと押し寄せてきて、とにかく早く消化しなくてはならない。みんなが総合知を目指していたのではとても近代化に間に合わないのでとりあえず二つに分けることにした。それが習慣として根付いて、150年近くたってもそのまま残ってしまったということらしい。これを一概に非難できませんが、日本の近代学問は互いに他方にお任せしてしまう専門分化に安住してきたことは確かです。逆説的ですが、だからこそ根拠のない科学信仰がはびこるのです。こういう状態を続けていて、思想が力を持つとは思えません。ちなみにヨーロッパでは長い間、「諸学」はすべてscienceと呼ばれてきました。
 で、「ガリレイの会」で何を目指すのか。文系的な知と理系的な知との融合を図る、などと大風呂敷を広げるつもりはありません。しかし世の物事について多少とも真剣に考えようと思うなら、自然法則のイロハくらいはわきまえておくべきでしょう。この問題意識を、志を同じくする人たちの間で最低限共有しようと考えたわけです。
 以前、この欄で「三日月が見る間に天頂に上った」などというでたらめなエッセイを書いている作家を批判したことがあります。自然に対する無知は、自然に対する鈍感をも養うのです。


*次回「ガリレイの会」は、以下の要領で行います。参加自由です。
●6月15日(日) 午後4時30分~8時30分
●ルノアール四谷店 マイスペース4F
●アクセス:http://standard.navitime.biz/renoir/Spot.act?dnvSpt=S0107.85
●講義内容:力学の基礎(力、摩擦、圧力、加速度、運動量、仕事、エネルギー、
慣性の法則って何? その他) 
詳しくお知りになりたい方は、以下のメールアドレスへどうぞ。
i.kohama@pep.ne.jp


倫理の起源36

2014年06月05日 01時37分20秒 | 哲学
倫理の起源36



 それでは、それぞれの基本モードのもつ倫理的な意義と、相互の連関について述べていくことにしよう。

1.性愛(エロス)

 一人の男と一人の女とが愛し合って心身が結ばれる場合、そこにはどんな倫理性もはたらいていないように見える。たしかに、性愛や恋愛を、単なる生理学的な抽象としての「性的欲望」の発現現象とみなすなら、そのこと自体に人倫の関与する余地はないと言えるかもしれない。
 しかし、人間においては、異性を好きになるということには、種族保存に行き着くとか、よい子孫を残すことに行き着くといった生殖の過程からははみ出してしまう要因がもともと含まれている。人間の性愛は、けっしてただの「本能」(生得的・自然的な力の発揮)ではない。それは、当事者の心的な過程(情の交換、関係の持続、妄想の発展、相互の自己演出、葛藤、嫉妬、過剰な盛り上がり、一人よがり、幻滅、憎悪など)を必然的にはらむのである。論理的に言えば、まさにこのこと、人間の性愛や恋愛がただの「本能」ではないということ、つまりそれが反自然であるということそのものが、内在的な人倫性を要求するのである。では、それはどういうかたちであらわれるだろうか。
 このことを明らかにするために、まず人間の性愛感情、性愛行動の特質を列挙してみよう。
 第一に、人間は発情期を喪失している。同じことの裏側として、成熟した人間個体は、潜在的にはいつでもどこでも性行動が可能である。なぜそうなったのかはよくわからないが、おそらく自己意識の異常な発達に原因があるのだろう。あるいはこの因果関係は逆かもしれない。いずれにしても、人間は関係の状況の中で自分自身がたえずどのような位置を占めているか、どのような評価を受けているかということを気にする存在であるから、このことの裏返しとして、エロス的な欲望(満たされなさの感覚)をポテンシャルとして常に抱えるようになったと言い得るのではないか。
 第二に、人間個体の性的な成熟には、他の動物に比べて異常に時間がかかる(約12~15年)。犬は1年、馬は3年ほどで生殖可能な年齢になる。象の平均寿命は人間に近く約70年だが、それでも性成熟は10年ほどと言われている。これはたぶん、人間が未熟児として生まれてくることに関係があるだろう。
 ところが人間はすでに複雑な社会関係(文化)を張り巡らしている。そのただなかに生まれてきた子どもは、早くからこの社会関係のなかに投げ込まれて、肉体的な成熟以前に、人と人とのかかわり方を学習する過程を強いられる。このため、「エロス的なかかわりの心」というべきものが、異様なほどに発達する。生殖が可能な年齢になっていないのに、「初恋は5歳の時」などというのはよく聞かれる話である。つまり、人間はみな多かれ少なかれ「耳年増」なのである。
 このことは、人間の性愛のあり方を、まさに感情に彩られたものとして作り上げることに貢献する。簡単にいえば、動物に比べて「好き嫌い」の心をはるかに繊細に育てているのである。
 第三に、以上二つから導かれるのだが、人間の性愛感情や性愛行動は、基本的に「妄想的」なあり方をしている。妄想的という意味は、二つあって、一つは、欲望の「対象」が多様に拡散していること、もう一つは、欲望の対象が同じでもその充足の「方法」がいろいろあること。
 前者は、通常の異性愛以外に、同性愛、少年少女愛、フェティシズム、ペットの愛玩、獣姦、死体愛好癖、スカトロジーその他。後者は、サディズム、マゾヒズム、露出症、窃視症、近親姦、痴漢、自慰その他。
 これらのことは、いずれも、人間の性愛感情、性愛行動が、自然の生殖のサイクルから、大きくはみ出していることを示している。こんな「性的」な動物はほかにいないと言ってもよい。

 さて、そういう事態を背景として、性愛における倫理というものがどういうかたちで成り立ちうるかを考えてみよう。
 基本的な条件はこうである。快楽の追求が、相手の人格を無視したかたちでは充足されないと当事者が感じること。言い換えれば、相手もまたこちらの存在と意志と行動によって快(歓び)を感じているにちがいない、とこちらが実感できること。そしてそうでなければ、自分の快楽も満たされないと思えること。相手の快や幸福が、自分のそれと重なっていると感じられること。
 この条件が満たされるとき、そこに性愛に内在的な人倫性が成立する。
 性愛において、人は特定の一者を選び他を排除する。その選択の行為のなかに、その人だけを特に大切にし、その人との関係だけを媒介として幸福を実現させようという意志がすでに含まれている。
 一人の排他的な相手の運命(人格、生命、身体、生活)を丸ごと引き受けて、大切にしようと思うこと、自分自身の運命をそこに一致させたいと熱望すること、相手の不在や相手との別れを哀しい事実として真剣に捉え、それを克服しようとすること、これらがその人倫性の内容である。
 これはふつう、「愛」という言葉が真に肯定的な文脈で使われている時に実現している事態である。相手が自分を本気で好きになってくれていると感じるのでなければ、また逆に自分が相手のことを本気で好きになっていることを表現できるのでなければ、すべての恋は中絶する。現実的には、関係を維持するためにいくらでも妥協の余地がありうるが、それが妥協であることは、相手にも自分にもすぐに感知される。
 だからこの場合に人倫性の成立に抵触し背反する状態・行為とは、強引な接触に及ぼうとすること、そりが合わないために一方または両方の熱が冷めること、浮気や不倫のように、他の相手に関心を移すこと、などであろう。
 一般の性愛関係においては、相思相愛であることが互いに確認できるなら、そこにはすでに人倫性が存在する。相手を選ばれたひとりとして互いに尊重する心が不可避的に伴うからである。その心が欠落している場合には相思相愛は成り立たない。相思相愛が真に成り立つ場合、カントがこだわったような自愛、他愛の区別、自分のためか相手のためかといった言葉による境界づけや選択の意義は消滅している。言い換えれば、相手のためがすなわち自分のためであり、自分のためがすなわち相手のためなのである。
 また片想いである場合には、強引な接触をせずに、相手の気を引くための手練手管をきちんと磨き、相手が喜んでくれるような手続きを踏むこと(ジェントルマンシップ)、そこに人倫性が認められる。気を引くための手練手管などといえば、いかにも狡猾に相手を籠絡するように聴こえるが、これは、たとえばオペラにおける口説きの歌に込められた情熱を見てもわかるように、一種の涙ぐましい努力なのである。そうしてその努力の意味は、相手の人格や意向を無視して欲望を満たそうとする道をけっして選ばす、あくまでも相手が心から自分の方を向いてくれることを目指しているところに求められる。それは、十分に人倫にかなったことである。
 もう一つ考えるべきなのは、性愛行為において、男は女を孕ませる可能性をもち、女は妊娠する可能性をもつというほとんど絶対的な性差の問題である。もし性愛関係を結ぶことになった者同士が、お互いを大切に思う心を人倫の基本として納得するなら、男は女に負担をかけるこの片務性に大いに配慮すべきだろう。彼女が「この人の子どもがほしい」と心底望んでおり、経済的にも余裕がある場合ならさほど問題ないが、必ずしもそうではないことが多いからである。
 また売買春は、性愛の人倫性が最低限に抑えられた状態と言えるが、まったく人倫性が認められないわけではない。売買春は一方が他方に金銭を支払うという経済行為としての共通了解のもとに成立する。最もドライで情が絡まないその場限りの共通了解が成立しているように見える。しかし、まさに合意による経済行為が存在するというそのこと自体が、買われる人格と身体に対する一定の尊重の精神のはたらきを示しているのである。
 このように言えば、一部の人は顔をしかめて、「愛がお金で買えるわけがない」とか、「売春を肯定したいための男の勝手な理屈だ」とか、「娼婦が賎業として軽蔑される事実をどう考えるのか」などの非難をさしむけてくるかもしれない。しかし私は、売春や買春は道徳的な行為であると言っているのではない。大部分の売買春が、当事者の社会人としての合意によって成立するという事実、それが一方から他方への暴力的な(強姦のような)行為ではなく対価を支払うという事実のうちに、人間が文化的動物であることの本性が象徴されていると言っているのである。これはよいか悪いかの問題ではない。
 もちろん、合意とは言っても、買われる側には「半ば強いられてやむを得ず」とか「生きていくためにしかたなく」とか「手っ取り早くお金を貯めるために」などの事情が背景にあることは否めない。また、買う側には、欲望の過剰を生理的に処理したいという一方的な理由が存在することもたしかである。そこには明らかに男女のセクシュアリティの非対称性が関与している(逆パターンもあるが、それは「例外」であり、この非対称性に対する反証にはなりえない)。
 さらに言えば、かつては管理売春が当たり前のシステムとして生きており、まだ幼い本人が知らないうちに身売りされていたなどの例にも事欠かなかった。「苦界」とか「地獄」などと呼ばれたゆえんである(現在、このようなシステムが少なくとも法的には公認されなくなったということは、明らかに人類史の進歩なのである)。
 しかしそれにもかかわらず、「春を売る」という行為の継続のうちに、まったく主体性が認められないかといえば、そうとは言えない。それは言わば、あるようなないようなものである。一般に売買はその目標が人格にかかわるサービスであろうとなかろうと(じつはあらゆる売買行為は多少とも人格にかかわっている)、一つの関係を実現する行為なのであり、それは何かを得るために「代わりのもの」を提供するという、人間にしか可能でない行為である。買う人がいるから売るのであり、売る人がいるから買うのである。
 ところで人間の性愛関係は、刹那刹那の生物的快楽の充足ではなく、必ずそこに互いのこれからの成り行きに対する「心」の交錯がいくぶんかは含まれている。一夜の売春の場合ですらそういうものが発酵しうる基盤を持っている。「公衆便所」などという蔑視に満ちたネガティヴな言葉が生まれるのも、人々が、この「心」の交錯が成立する可能性について理解しているからこそである。それは人々の期待と理想を逆説的に表現しており、つまりは人々は、時間に耐える「心」のありかたをいつも求めているのである。その求めこそ、「人倫」と称すべきなのだ。
 さらに、遊郭のような世界の発達は、性関係を核としながら、その周辺にこの「心」の交錯が多様に展開する様を示してあまりある。遊郭は文字通り遊びの文化だが、ただの刹那的な遊びではなく、まさに時間に耐える文化であることにおいて、義理人情、しきたり、黙契、格付け、タブー、遊女のプライドや階層意識など、人倫にかかわるテーマが必然的に入り込んでくるのである。


*売買春に関する以上の記述に関しては、拙著『なぜ人を殺してはいけないのか』(7月3日PHP文庫として刊行予定)の「売春(買春)は悪か」の章を参考にしていただければ幸いです。

倫理の起源35

2014年06月03日 18時54分08秒 | 哲学
倫理の起源35



 こうして、人倫精神を、具体的な共同体の現象形態に結びつける和辻の方法は、いくつかの難点をはらんでいる。そこで私は、この難点を少しでも克服するために、別の方法を提示したいと思う。
 まず人倫を形成している関係の基本モードをいくつかに分類し、それらの特性を述べる。その特性の記述とは、それぞれがどういう関係の原理にもとづいているかをあかすことである。和辻の言葉を援用するなら、「実践的行為的連関」の、その中身をひとつひとつ検討する試みである。
 次に、それら「基本モード」のそれぞれに抵触する関係は何であるかを述べる。さらに、それぞれのモードの連関の仕方についても論じる。
 以上の方法によって、人倫精神の複雑な絡み具合のさまが、広い視野のもとに見渡せるようになるはずである。またこれがうまく行けば、私たちの生が、何を守り、どこへ向かっていけばよいのかという方向性を示すヒントを提供できることにもなる。
 ちなみに、こうした方法を取るほうが、具体的な「共同体」のあり方のなかに人倫精神を見出す方法よりは永続的である。というのも、たとえば、和辻の説いている「親族共同体」や「地縁共同体(村落)」の人倫性は、彼の生きていた時代には現実性をもっていたかもしれないが、都市化や個人化が進んだ現代では、法的・儀式的な拘束力を持ちはするものの、生活上のリアリティを到底形成しえないからである。
 人倫性はそれだけとして自立的に成り立つのではなく、個人の実存がそれぞれの共同性にどれくらい規定されているかという度合いによって、その重みが測られる。それゆえある共同性が歴史の推移に従って解体あるいは衰弱すれば、それはもはやかつて示したような力を示しえないことになる。この事態を単に悲しんでノスタルジーに浸ったり、頭の中で復権を願ったりすることは、倫理学の新たな確立にとってほとんど意味を持たない。 
 さて、以上を踏まえて、より永続性のある人倫精神を形作る人間関係の基本モードは何かと問うてみる。これにはさしあたり、次の六つが考えられる。これ以外にも別項を立てることは可能かもしれないが、いたずらに項目を増やすことは煩瑣な論述を免れないので、ぎりぎりここまでに限定しておく。

1.性愛(エロス)
2.友情(同志愛)
3.家族
4.職業
5.個体生命
6.公共性


 なお、これらすべては、繰り返すが、みずからが属する共同性からの離反、すなわち互いに別離して裸の個人にされることの恐怖と不安からの防衛をその根底の動機としている。たとえば人がある「職業」に就くという現象も、単に個人としての生き方の選択の問題や得意技の活用や生計を立てる手段といった概念の内部だけで理解されるのではない。職業の本来的な意義は、共同性からその職に携わる人の人格を具体的に承認されるというところに求められるのである。
 またこれらは、人の生きる道筋において、それぞれ並列的・個別的に求められるのではないし、より低次の段階からより高次の段階へと発展的に進むにしたがって先のものが後のものによって振り捨てられるのでもない。番号を付して並べたのは、この順序で倫理性が高まるとか、人倫感覚がこの順序で育っていくということを意味するものではなく、単なる記述上の便宜に過ぎない。じっさいには、これらすべてが個人のうちに絡み合い連関し、時には矛盾対立しながら現われてくる。そのこと自体が大きな倫理的問題なのである。