小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

米国通の人からのメール(2)

2021年07月22日 12時31分33秒 | エッセイ


以下に掲げるのは、ある米国通の知人からいただいたメールの一部です。管理人なりに、指摘が的確だと判断しましたので、ご本人の了解を得て、ここに転載させていただくことにしました。

小浜さま

もう一つコロナに関連して言い足りないことがありました。

最近、西村経済再生担当大臣が、酒の提供を続ける飲食店について、取引のある金融機関には「働きかけ」を要請したり、酒の卸業者には取引停止を要請するなどと、とんでもないことを言って、すぐ撤回しました。

私はこの発言を最初に聞いた時、「あ、来た来た」と思いました。何が来たかと言えば、アメリカで流行ってる手法が日本に上陸したということです。

これは大変な話だと思いましたが、すぐ撤回したので、日本はまだ健全だと思い胸をなでおろしました。

アメリカなら撤回などしません。撤回は負けですから、負けは認めません。アメリカ人ならこう言います。
「酒の提供を続けるのは公共の安全を脅かす、それに協力する周囲の者には皆責任を負わせるというのは当然でしょう?そうじゃなければどうやって違反を撲滅させるんですか?」

日本のように政治家が口で言っただけで圧力をかけることもありますが、すぐに法律を作って罰則を設けたりすることも頻繁に行われます。どこから援助を受けているのかわからない団体が、大声でものを言ったり、デモをやったり、嫌がらせに類する行為をしたりというのも頻繁にあります。

メディアを利用するなどしてターゲットを徹底的に悪魔化し、周りの人間を使ってターゲットを叩くというのは、非常に汚い陰湿なやり方で、これぞ社会の中の人々のあいだに憎しみを醸成し社会の崩壊につながる危険な手口です。DS(ディープステート)やイデオロギーに染まった勢力が使う常套手段ではないでしょうか。
こういう勢力はでっちあげやペテンを含むあらゆる機会を利用し、あらゆる人達を巻き込み、あらゆる手段で世の中を動かす実践力にたけていますから、怖いものです。
この傾向が近年アメリカでますます露骨になってきているので、そのうち日本にも来るのではないかと思っていた矢先の西村大臣の発言ですから、背筋に恐怖が走りました。

西村発言はただ事ではないのです。
非常に危険な思想を社会に種まこうとした言論で、たんなる失言ではすまされません。野党は徹底的に攻撃して辞任させなければいけないと思います。
コロナ対策の問題だけではないのです。社会の根幹を揺るがす大きなひび割れの始まりとなるほどの問題なのです。今回西村大臣が撤回しなかったら、周囲の者を使ってターゲットを叩くという手法が標準化してしまったかもしれないのです。

古今東西こういう行為はあったと思いますが、アメリカの動向をフォローしているとそれがますます頻繁に行われるようになってきているのが明白にわかります。
アメリカではトランプ支持者、関係者、さらには本人がトランプ支持者でなくてもトランプ支持者に関連する人達は徹底的に叩かれています。
例えば、トランプ支持者の枕の製造会社の社長が叩かれるだけでなく、その枕を置いているデパートや小売り店も叩かれるのです。広告を載せている新聞も叩かれます。従業員もその子供も嫌がらせを受けているのでしょう。評判の良い枕ですが、その枕を使っている人達もすやすやと眠れなくなるのです。

幸い日本では、「長年にわたり培ってきた顧客との信頼関係を毀損する引き金になり得る」と現場から声が上がったということですが、これ常識でしょう?
政治家はこんなことがわからないのでしょうか? 飲食店と取引のある卸業者や金融機関の困惑がわからないのでしょうか?
こういうところを見ると、お互いの信頼関係の中で真摯に働いている国民の社会からいかに政治家が疎い存在であるのかがわかります。
近年「国民に寄り添って」という言葉が政治家の間で流行っていますが、それが口だけというのはすぐわかります。世間を知らない人が政治家になることの恐ろしさを忘れてはいけません。

アメリカでは「信頼関係」など、重きを置かれないと考えた方が良いです。勝手にルールを作って、だめはだめ、というのが基本です。
われわれは日本社会の良さを守っていかなければなりません。
信頼関係が無い国は契約がやたら増えます。規範や道徳のしっかりしていない国はやたら法律が増えます。法律が増えると取り締まりが多くなります。そういう国では不公正な取り締まりが多いのです。日本はそんな国になってはいけませんよね。


米国通の人からのメール(1)

2021年07月20日 15時06分54秒 | エッセイ


以下に掲げるのは、ある米国通の知人からいただいたメールの一部です。管理人なりに、指摘が的確だと判断しましたので、ご本人の了解を得て、ここに転載させていただくことにしました。

小浜さま

デモやコロナの各国の情報ありがとうございました。

いろいろな国で国民は怒り心頭ですね。コロナ禍で大変な目にあっている人達は大勢いますから当然です。
少し前に、ある写真家の個展に言って話を聴きましたが、コロナの影響で活動できないダンサーを撮影した時の話をしてくれました。スポーツや芸術、特に体を動かす人達は体調と心のメンテナンスが大事なのに、これだけ長期にわたって終わりの見えない鬱屈した世の中では、もう失望を通りこしています。
直に話を聴くと、ぐっと現実感が体に染み通りました。正直言うと自分はコロナ禍前から家でリモートワークしてるのであまり生活に変化はなくコロナの影響を体感していなかったのがよくわかりました。唯一のハードシップは外国に住んでいる娘に会いに行けないことですが、これもスカイプ会話が、もう日常というかノーマルになってしまった感すらあります。もしかすると自分も失望を通り越しているのかもしれません。

小中高生の自殺が昨年は11年ぶりに増加して前年比140人増と急増したそうです。おそらくコロナがなかったら多数の将来ある子供たちは死ななくて済んだと思います。
厚生労働省の統計でも今年の上半期は、自殺者全体の話ですが対前年比で1,206人増、13%の増加です。世界のあちこちでも統計の増加が報道されています。

コロナでどこの国の政治家もまったく無能なのが良くわかりましたね。
日本もDS(ディープステート)からの直接の指令があるのかどうかわかりませんが、周りに合わせる、他国に合わせるということで動いているようです。何も言われなくてもそうしておけば、嫌がらせを受けることもないし、逆にいろいろ便宜をはかってもらえるのかもしれません。忖度しながら無言のコミュニケーションで動いているような気がしてなりません。
コロナ禍で失業したり減収になった人達とは違い、政治家はコロナ禍の影響を体感するわけではないのですから、国民第一の政治は期待できそうもありません。

周りに合わせると言えば、うちの会社はグローバル企業ですから、社内講演会でリベラルの人間を招き、1月6日の米国議会乱入がいかに民主主義を破壊する行為だったかと説かせ、コロナ禍でのオリンピック開催は励ますべきもの、脱炭素の最先端を走っていることをアピールし、自分の会社だけではなくサプライヤーにも脱炭素を要求すると言ってますし、その他もろもろのリベラルアジェンダの実践に励んでいます。
こういう職場では、トランプはいろいろ正しいことをやった、気候変動は議論の余地があるなどと言っても何の得にもならずかえって損するばかりという雰囲気はよくわかります。

どこの国でもこういう会社が多いのでそこにいる人は周囲にあわせてものを言うかしないのでしょう。ビジネス界ばかりではなく、マスコミ、官僚、公務員、教員、芸能界、エリート大学出身者などの集まりでも同じです。
日本は同調圧力が強いとよく言いますが、アメリカではこれは死活問題で保身のために同調するのが当然なのです。アメリカ人の賢いところは自分が同調圧力に負けて同調していると思われないように自分のポジションを論理的に聞こえるように堂々と胸を張って主張することです。
アメリカ人の同調傾向は、私が感じるには年々顕著になってきているような気がします。実はアメリカは日本化しているような気がするのです。もはや一匹オオカミのように独自の論陣をはる個性のある人間は減ってきているのではないでしょうか。「隠れトランプ支持者」という言葉が流行ったように、こっそり隠れるようになってきたのです。

デモに戻りますが、昔はこういうのを見て、もっとやれやれ、と意気込んだものでしたが、最近思うのは、DS側も適度にやらせてガス抜きさせ、適当なあたりで取り締まり、その後デモ参加者をいろいろな形で弾圧し見せしめにしたりして、より強力な取り締まり体制導入の口実としているのではないかと思うになりました。
デモを煽っている連中もさかのぼっていけば、実はDSにたどりつくのではないかなと勘ぐってしまいます。

DSは頭の良い連中なので戦闘状態を作りそれを適度にコントロールすることで社会を「維持」し、自分たちに矛先が向かないようにし、さらにこういう機会を体制強化や金儲けなどに悪用しているのではないかと疑ってしまいます。
米国議会乱入後にバイデン政権が取った諸々の行動をみているとよくわかります。バイデン政権は就任後すぐに「国内」テロリストの弾圧に力を入れましたが、この「国内」テロリストとは、トランプ支持者を念頭に入れています。
さらに最近、ワシントンの「首都」警察がトランプと結びつきの深いフロリダに彼を監視する「支所」を作り、ペロシのいるカリフォルニアには彼女を守る「支所」を作ったそうです。
こんなあからさまな越権行為がまかり通るアメリカですから開いた口が塞がりません。
これらをはじめとする諸々の施策のスターティングポイントは議会乱入事件で、FBIが関与したとの指摘があるにもかかわらず、大量にある議事堂の監視カメラの証拠ビデオは開示されていません。

こんな状況ですから、最近出てきた選挙不正集計の明確な証拠について、議会もFBIも司法省もメディアもまったく無視です。
勇気を出して報道したフォックスのタッカーカールソンは米国国家安全保障局の監視対象となり、彼の発する通信が盗聴されているのが明らかになりました。
先の米国大統領選挙も、アメリカという国がどんな国なのかという全体像をつかまなければしっかり見て取れません。選挙だけ見ていてもわからないのです。

ワクチンについてもおかしなことが続いていますね。
イギリスでは成人の3分の2ぐらいがワクチンを受けているにもかかわらず、まだコロナの感染者は1日4万人以上。ワクチンは感染を予防するものではないので当たり前です。
では、ワクチンを受けた者はなぜ、いろいろな会場の出入りに優遇されるのか、隔離が免除されるのか、支離滅裂です。
他の国も同じことをやっています。国民はこれを聞いておかしいと思わないのでしょうか? これだけ教育が普及しても人間の知能は古今東西あまり進歩してないと最近つくづく思うようになりました。

デルタ株の脅威が煽られていますが、コロナ感染者のうちどの位がデルタなのか十分に検査したり統計を取ったりしているのでしょうか?
新規感染者のうちどのぐらいがワクチン接種者なのかについても統計があるのでしょうか?
政府がきちんと発表していないし、マスコミもきちんと分析してないので話になりません。
与えられたニュースに読まれてしまうのではなく、何が問題で何の情報がなければならないかと主体的にニュースを読んでいくことが大事だとつくづく思います。当然日本のニュースソースだけでは全く足りませんね。

とにかくメディアリテラシーを高めて自己防衛するのが第一歩ですね。YouTubeなどの各国情報や、自動翻訳などを使ってウェブで世界発の情報を集めることが必須の時代になってきました。
いろいろな情報ありがとうございました。


ホームレス・トラックという現実

2020年10月29日 16時23分37秒 | エッセイ


必要があって、27日の夜9時半から11時ごろ関越道を東京に向かって突っ走りました。
それまで夕食を食べていなかったので、さすがにここらで食った方がいいかと思い、レストランマークのある寄居(よりい)PAに寄ったのが10時少し前。ところがすでに土産物店も食事の場所もすべてCLOSED。
仕方がないので、その先の高坂(たかさか)なら規模が大きいから何か食えるだろうと踏んで、10時ちょっと過ぎに高坂SAに入りました。レストランは閉まっていましたが、オープンスペースで、何とかラーメンにありつくことができました。
客はほとんどいません。ひとり侘しく醤油ラーメンをすすりながら、これもコロナの影響かと思いつつ、その閑散とした風情に、この世のはかなさを味わったのでした。
これがバブル期だったら、けっしてそんなことはなかったでしょう。
あの頃は、都会の飲食店は終夜営業が多く、地下鉄やJR山手線、首都圏の私鉄さえ、終夜営業をすべきではないかという主張がかなり盛り上がったものです。鉄道のほうは実現しませんでしたが、でも明らかにそれをやってもペイするような気分の高揚がありました。
筆者は、深夜、高速道路のSAに立ち寄った経験はありませんでしたが、バブル期にはおそらく食事処の深夜営業もやっていたのではないでしょうか。でないと、トラックの運転手さんなど、困りますからね。

トラックといえば、SAでの売店が閉店になっていることにはさほど驚きませんでしたが、この時間帯、寄居も高坂も駐車スペースに何百台もの大型トラックでいっぱいになっていたことには衝撃を受けました。乗用車はまったくといっていいほど見当たりません。
売店がやっていないのに、広い駐車場がトラックで溢れている、これは運転手さんたちがここを仮眠のための場所にしているとしか考えられません。つまり、彼らが帰社してトラックを納め、帰宅してゆっくり休むだけの時間がほとんど与えられていないことを示しているでしょう。
つまり彼らは一つの仕事を終えると、ただちに別の仕事を命じられ、日本全国を休みなく走り回っているわけです。いわば「ホームレス・トラック」ともいうべき状態に置かれていることになります。

少し前にテレビで、トラック運転手さんたちの行動を、彼らに付き添ってルポする番組を見たことがあります。人手不足のため、荷揚げ、荷卸し作業も一人で行わなくてはならず、一つ納品が終わるとトンボ返りで別の荷主のところに向かう。これを休みなしに続けます。生活時間はめちゃくちゃになります。いつ寝るのかとの記者の質問に、「時々仮眠を取るしかないですね」と答えていました。少しでも納期に遅れると、荷主や届け先からクレームが来て、上司からも圧力がかかります。過酷極まる労働状態ですし、危険でもあります。
その事実は頭ではわかっていましたが、実際に壮観と言ってもいいあの光景に触れると、ああ、たいへんだな、とため息が出てきます。おそらくこれから起きて三々五々、深夜便に出発するのでしょう。彼らのほとんどは、食事もゆったりととる暇もなく、コンビニのおにぎりやハンバーガーショップのジャンクフードなどを車内で食べていると思われます。
トラック運転手の待遇は、以下の記事が参考になります。
https://toyokeizai.net/articles/-/365703?page=3

肝心なことは、この過酷さが、需要が多過ぎるために生まれているのではないという事実です。
この記事の前段にも出てきますが、90年の規制緩和で様相が一変し、競争市場になったため賃金低下が起き、過酷な条件に耐えられずやめていく人が多いので、結果的に慢性的な人手不足になっているということなのです。コロナで失職した人がこの業界に転身しても「3日ともたない」とも。

同じようなことは、看護師業界や介護士業界でも言えて、資格を持っているのに、労働条件の悪さのためにやめていく人が跡を絶ちません。その結果、常に人手不足に陥り、資格もなく言葉も満足に通じない移民労働者に頼るという悪循環に陥っています。ひどい場合には、福祉施設がホームレスを雇っていたなどという例さえあります。いつまでこんな悪循環が続くのでしょうか。

これは、特定の業界内の問題ではなく、政治問題です。
命や生活に直接かかわる大切な仕事に対して、政府が十分な財政的支援を行ってこなかったそのしわ寄せを、これらの現場労働者がもろに被っているのです。
政治家や官僚たちには、目先の利益追求や権力維持に汲々とするのではなく、もっと一般国民の生活実態について想像力を培ってもらいたい。そして誰の、どういう仕事によって自分たちの今が支えられているのかを、よくよく考えてもらわなくてはなりません。

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道徳過剰社会の弊害

2018年04月26日 14時07分33秒 | エッセイ


大学のゼミで、筆者自身が2006年に書いた短いエッセイ(『子ども問題』ポット出版所収)を配布して、その感想文を書いてもらいました。
書き手が筆者であることは最後まで伏せておきました。
以下にその全文を転載します。

 私は自宅近くのバス停に近づいた。バス停の後ろにベンチがあり、四年生くらいの可愛い小学生の男の子がひとり座っている。私が彼のとなりに腰掛けると、彼はちらと私のほうを気にする素振りを見せた。
 ほどなくバスがやってきた。彼と私とはほとんど同時に立ち上がり、バスの扉が開くのを待った。すると、男の子がふいに、はにかみを含んだ小さな声で「どうぞ、お先に」と言った。
 もちろん先に来ていたのは男の子である。順に乗り込むのが当然だから、私は一瞬、彼がなぜ譲るのかその真意がつかめず、思わず「え? どうして?」と優しく尋ねてみた。男の子は何も答えずかすかにもじもじしただけだった。
 扉はすでに開いている。私はそれ以上詮索するのもどうかと思い、黙って先に乗り込んだ。私は奥の方に座り、男の子は最前席に座った。
 私はそれから、バスを待つほんの短い間に男の子の心に何がよぎったのか考えてみた。そうして、あ、そうかと思い当たった。彼からすれば、私は相当の老人に見えたに違いない。
 私はまだ59歳だし、歳よりはいくらか若く見える方だと自認している。その日は体調も悪くなく、身なりもそれなりにぴしっとしていた。
 でもそういうことは男の子にとって関係ない。白髪で皮膚がそれなりにたるんでいれば、彼くらいの歳の子から見れば、みな「お年寄り」である。彼はおそらく、「お年寄りには席を譲りましょう」という日頃口やかましく叫ばれている「公衆道徳」の声を、自分なりに拡張して適用したのだと思われる。
 バスはもしかしたら混んでいるかもしれない、この「老人」を先に乗せてあげて、空席があるなら座らせてあげよう……ざっとこんな考えに男の子の小さな胸は支配されていたのだろう。
 以前にも一度、優先席に座っていた女子中学生に席を譲られて断ったことがあったが、少年少女の目には自分がもはや「老人」としか映らない事実に苦笑を誘われたものだった。
 しかしここではその種の私的感慨を述べたいのではない。
 私はひねくれ者なので、立派に振る舞おうとする子どもたちを「偉いねえ」と素直に受け入れる気になれないのである。といって彼ら自身を非難する気持ちは毛頭ない。むしろそのけなげさが、何だか不必要に繊細過敏で、痛々しく感じられるのだ。
 こうした「公衆道徳」という名のイデオロギーがいたいけな年少者の生活意識にまで浸透している社会というのは、はたして健全なのだろうか。いや、活気ある社会と言えるのだろうか。
 いまメディアを通じて、さまざまなかたちでモラル・ハザードのイメージが私たちの社会意識に植えつけられている。その危機意識を受けて、たとえば保守派の「教育改革」の声は、「国を愛する心」「心を重視する道徳教育」「家族の再興」などのスローガンで埋め尽くされている。
 でもこうした流れは、どうも的を外している気がして仕方がない。基本的な状況認識のレベルからその妥当性を検討する必要があろうし、「意識改革しなければならない」式の論理の強調が、いまの複雑化した社会に対する提言として有効とは思えず、時としてヒステリックにしか響かないからである。


感想文の中には、このエッセイの論旨をきちんととらえた上で、それについて的確な感想を述べたものもありましたが、それはごくわずかでした。
大半は、こうした公衆道徳がいきわたることはたいへん良いことだとか、自分は以前、老人に席を譲ろうとしたら怒られたことがあったので、席を譲ることにためらいを覚えるとか、子どもには老人の年齢を見分けるのは難しいだろうとか、この子はまだ幼いのにとても偉いといったものでした。
そもそもこの文章は、「車内で席を譲る」問題について書いたものではありません。
また、後半を読めばわかるように、過剰な道徳的配慮がいきわたるような社会は、活力を失っているのではないかという問いかけをしたものです。
それが読み取れないのは、学生のレベルの問題もあるでしょうが、ここで言いたいのはそのことではありません。

学生たちもあるイデオロギーに馴致されきっているのです。

活気のある社会なら、男の子は元気よく真っ先にバスに乗り込んでいくでしょう。
数十年前だったら必ずそうしたはずです。
しかもここに書かれているのは席を譲る話ではなく、バスを待つ順番についてなのですから、男の子が先に乗る方がルールにかなっているわけです。

もう亡くなった医事評論家の永井明氏が『ぼくが医者をやめた理由』(角川文庫)という本のなかで、次のようなことを書いています。
休暇でウィーンに行った折、電車のなかでついウトウトして、ふと目を覚ましたら、周りの乗客たちが一斉に自分のことを怖い目でにらみつけている。
見れば目の前には老婆が立っている。
慌てて立って、次の駅で降り、心のなかで捨て台詞を吐いた――ウィーンはオペラもワインも素敵だったが、道徳心に金縛りになって元気者の足を引っ張るようなこんな街には二度と来てやるもんか、と。
筆者もこの永井氏が抱いた感慨に賛成です。
これは何十年も前の話ですが、ウィーンのように伝統だけをよりどころに成り立っているヨーロッパの街のいくつかは、すでに「老化」してしまっていたのですね。

公衆道徳を守ることはもちろん大切ですが、そういうことにばかり頭や心を費やすような国や都市は活気を喪失していて、他にやることがなくなっている証拠です。

さて、いまの日本もこうなりつつあるのではないでしょうか。

日本はいま、犯罪も交通事故も減り、若者は妙にお行儀がよくておとなしくなっています。
それはたいへんいいことですが、いいことは二つありません。
社会全体としての「老化」ということはやはりあるもので、おそらくそのためでしょう、マスコミも議会も政治家や官僚の道徳問題だけを議題にして大騒ぎし、国内経済の衰退や国際環境の変化に対する危機意識も持たず、隣国には侮られるばかりです。

ここでは、日本を衰亡に追い込んでいる政治的理由については書きません。

今年から小中学校で「道徳」が正式の教科となり、教科書までできました。
しかし、治安も公衆道徳もよく、礼儀正しい若者が多くなっているいま、なぜこんなことをする必要があるのでしょうか。
また、学齢に達した子どもたちは、果たして生活の基本事項について、やってよいことといけないこととの区別を知らないでしょうか。
こういうことは、幼児期の家庭でのしつけで、大多数は身につけているはずです。
もちろん中には逸脱行為に走る子もいますが、それは性格的な問題か、群衆心理によるもの、家庭環境が劣悪であるなどの理由があります。
彼らのほとんどは知っていながら、悪さや非行に走るのです。

学校に入ってから道徳心を養おうとしても、それは有効ではありません
問題生徒がいたら、個別に解決に当たるしかないのです。
これまでも「道徳」の時間はありましたが、学生たちに聞いてみると、何をやっていたのかさっぱり記憶にない、との声が大半でした。
予言しますが、正式な教科になっても、事態はけっして変わらないでしょう。

私たちは、道徳に過剰に配慮する社会が、じつはその裏面で活力を喪失しているのだということに気づくべきです。
その上で、活力を取り戻すためにはどうすればいいのかを考えることにしましょう。


技術文明との向き合い方

2018年02月12日 22時45分12秒 | エッセイ


何とこの年になるまで、回転寿司というものに入ったことがありませんでした。
別に寿司の通を気取っていたわけではありません。
チャップリンの『モダンタイムズ』みたいに、自分が流れ作業に従事している感じがして、何となく入る気がしなかったのです。安かろうまずかろうとも思っていました。せめてゆっくり食事する時ぐらいは静かにテーブルで、と。

しばらく前、近くのデパートのレストラン街に、金沢が本店の「もりもり寿司」ができてうまそうなので、このたび、入ってみました。
完全に食わず嫌いだったことがわかりました。

知っている人にとっては当たり前なのでしょうが、テーブル席にも適度な速さでコンベアが走っていて、そこから自由に取り出せるだけでなく、タッチパネルで注文すると、上部のコンベアをおもちゃの新幹線が走ってきて、ピタとテーブルの前で止まります。あがりも湯呑に抹茶を入れて自動給湯で思いのまま。
お会計は、テーブルに積み上げたお皿を店員がスキャナーでさっとひと撫で、たちまちレシートが出ます。相当食べて飲んで、お値段もリーズナブル。
店内は寿司屋らしい和風の雰囲気が保たれています。肝心のお味ですが、これがまた、なかなかうまいのです。
後で聞けば、こんなシステムはもう何年も前から整っているとのこと。でも何しろ初めてなので、小さい子どもみたいにちょっと感動してしまいました。

いろいろな人がいて、あんなのは邪道だと思っている向きもあるでしょう。分厚い檜一枚板のカウンターを挟んで板前さんと差し向かい、世間話に花を咲かせながら江戸前寿司を握ってもらう――これが「本来」なのかもしれません。
こういう伝統的な雰囲気を守ることももちろん大切でしょう。
しかし技術は需要(欲望)に見合って進展します。スマホがあっという間に普及し、いまなお技術革新の競争が止まないように、その背景には膨大な人々に共通した需要があるわけです。
進化した回転寿司のテーブル版は、家族連れ、数人規模のお客さんなどにはもってこいです。

新しい生活技術、生活文化が登場すると、決まって三種類の人が出てきます。
抵抗なくすぐに飛びつく人、拒否反応を起こす人、定着と改良を待って慎重に構える人。
すぐに飛びつく人がおっちょこちょいかというと、一概にそうでもなくて、早くからその技術に適応し、便利さや快適さを判断しつつ、性能をよく知った上で次の改良技術に軽快に乗り換えていくケースが多いようです。キャリアが長いほど、熟達度も増します。主として若者たちですね。

当たり前ですが、拒否反応を起こす人は、高齢者に多く、なかには、自分の拒否反応に理屈をつける人がけっこういます。
テレビが普及し始めた時に、一億総白痴化と評した評論家がいました。教育に与える悪影響が大真面目に論じられたものです。
モータリゼーションの波がやってきたときには、「走る凶器」などと呼ばれ、車廃絶運動が実際にそれ相応の力を持ちました。
漫画が流行した時に、大学生が漫画を読むとはなんと嘆かわしいことだと騒がれました。
携帯電話が普及した時には、「心蔵のペースメーカーをつけている人に悪影響を及ぼしますので」なんて、ヘンな車内放送が流れました(そんな人、めったにいねーだろ)。「偶数号車ではマナーモードで、奇数号車では電源をお切りください」なんてのもありましたね(いちいち車両番号確認して乗る人がいるわけねーだろ)。
もっとも、車内での通話は確かにうるさく感じる人が圧倒的に多かったので、これは迅速にマナーが徹底しましたが。
スマホに変わると、迷惑に感じる人はほとんどいなくなったので、今度は、テレビの時と同じように、みんなが車内でスマホを覗いている姿を見て、嘆かわしい時代になったなどとつぶやくご老人も現れました。
でもスマホは、実に多機能ですから、くだらない芸能ネタを追いかけている人もいれば、ゲームに熱中している人もいる反面、一生懸命調べ物をしている人もいれば、仕事にぜひ必要なメール交換を繰り返している人もいる。友達や恋人と楽しいコミュニケーションを交わしている人もいる。そういうことをくだんのご老人は考えてみようとしないのですね。
これは本当は、自分がついていけないことに対する負け惜しみなのですが、自分がついていけないだけなのだと素直に認めたくない感情があって、しかもそのことを自覚していないのです。
この種の人たちは、自分の限られた前半生の中で、じつはそれまでの技術文明の恩恵にさんざん浴してきたのに、その事実は脇に置いてしまいます。そして、こなしきれないものが現われると、たいてい道徳的なスタイルを取って世を嘆き、「昔はよかった」と過去を美化します。
その「昔」というのも、せいぜい自分の祖父母の代くらいまでしか想像力が及ばず、前近代がどんなたいへんな時代だったかなどを考えてみようとしないのですね。

こういうことは、文明が始まってから、ずっと続いてきたのです。でもいまでは一部の偏屈な人を除き、だれもが少し前に現れた文明の利器をまったく自然に使いこなしているので、そのありがたみを意識しないだけなのです。
人間なんて、大多数の愚民と少数の賢者がいるだけで、昔からそんなに変わっていないんですよ。

回転寿司から話が広がりましたが、以上のように書くと、筆者が技術文明の発展を手放しで肯定しているかのように受け取られたかもしれません。
もちろん文明の利器には、それぞれに固有の欠陥があります。
テレビはいまでは、地上波メディアのコンテンツがすっかりマンネリ化しているのに、その洗脳力だけは強く残っていますから、ウソを平気で信じ込ませるための恰好の道具と化しています。
車は、性能が向上し、だいぶ事故が減りましたが、それでも年間交通事故死者数は4000人を超えています。
インターネットの普及は、質の高い出版文化の衰頽に大きな影響を及ぼしています。
また、だれでもロクに勉強せずにSNSなどで意思を発信できますので、間違った情報や悪意のある情報が乱れ飛ぶようになりました。
さらに、サイバーテロなどの新しい問題も起きています。

およそこれらのことは、技術文明の発達にはつきものです。
しかしいったん広がって私たちの生活に深く定着してしまった技術をなしにすることはできません。
あなたは車やスマホを棄てられますか。
ある技術文明の欠陥を克服するには、その全体を否定するのではなく、蓄積されてきた特定の技術領域の範囲内で工夫を重ね、より高度化した技術を開発して乗り越えるか、まったく新しい発想にもとづく技術を発明するか、それ以外に方法はないのです。
プロメテウスは人間に火を与えたことで、山頂に縛り付けられて鷲に肝臓をついばまれる罰を受けましたが、この罰は、人間自身が背負うことになった労苦とも考えられます。

筆者の頭の中では、エネルギーや環境や医療、食糧やAIなど、現代技術文明にかかわるさまざまな問題がぐるぐる回っていますが、それについて詳しく語ることはまたの機会に。
いまは、あの回転寿司がもっと技術的に改良を重ねて、より快適な「和」の空間で、より美味くより安い寿司が食べられるようになることを願うにとどめておきましょう。

【小浜逸郎からのお知らせ】
●『福沢諭吉と明治維新』(仮)を脱稿しました。出版社の都合により、刊行は5月になります。中身については自信を持っていますので(笑)、どうぞご期待ください。
●『表現者』連載「誤解された思想家たち第28回──吉田松陰」
●「同第29回──福沢諭吉」
●月刊誌『正論』2月号「日本メーカー不祥事は企業だけが悪いか」
●月刊誌『Voice』3月号「西部邁氏追悼」



紫陽花と生きる

2017年06月03日 13時22分48秒 | エッセイ


2年前に今の家に引っ越してきました。
築年数はだいぶたっていますが、庭がわりと広く、いろいろな木が植わっています。
キンモクセイ、ドウダン、サザンカ、ツツジ、ビワ……。

ずいぶん昔、テラスハウスに住んでいて、そのころガーデニングにちょっと凝ったことがあったのですが、その後はさっぱりでした。
今度の家の庭木も、勝手に花が咲くまま、実がなるままにして、格別何もしませんでした。

1年前、青アジサイと赤アジサイの鉢植えを買いました。
ある人からもう一鉢、青アジサイをいただきました。
アジサイがとても好きなのです。
花がしおれたのをそのまま捨ててしまうのはもったいない気がしたので、ホームセンターで土や肥料を買ってきて、三つを庭に植え替えました。

春が来て、裸の茎から若葉が出始めました。
日、一日、どんどん葉が増えていきます。
成長ぶりが毎日気になるようになりました。花がうまくついてくれるといいが……。
5月の初めころだったでしょうか。どの株にもつぼみが二つずつ付きました。
これも毎日のように大きく膨らんでいくのがわかります。
ますます目が離せなくなりました。

6月に入り、まだ一つだけですが、見事に開花しました。
もうすぐ残りのつぼみも開花します。とても楽しみです。
月並みな感慨ですが、自分が「かくあれ」と思って何かを施し、それが期待通りになった時のうれしさは格別です。

庭のアジサイの成長ぶりを眺めつつ、今年も鉢を二つ、青と白を買ってきました。青い方はそろそろしおれかけていますが、白い方はまだまだ元気いっぱいに咲き誇っています。この二つも植え替えようと思っていますが、これでうまく行けば、来年は青、赤、白と計五株のアジサイに出会えることになります。拙宅を「紫陽花苑」と名付けようか、などと勝手に悦に入っています。

私は今年古希を迎えましたが、まだまだしなくてはならない勉強や仕事が残っています。さいわい体はまあまあ健康です。少なくとも来年のこの季節までは元気で過ごし、少しでも期すべきところを果たそうと思っています。紫陽花の開花からは、達成することの大切さを改めて教わり、さらに元気をもらったような気がしています。

  紫陽花に 励まさるるか 古希の筆

 

江戸散歩その1

2015年08月26日 19時17分51秒 | エッセイ




 江戸時代に関心を持っています。数年前から落語にハマって月一くらいの割合で聴きに行っているのですが、このたび近松西鶴の作品に少しばかり触れる機会があり、これをきっかけとして、江戸時代とはどんな時代だったのか、自分なりのイメージをきちんと固めておきたいと思うようになりました。
 この私の関心には、この時期を単に前近代的な封建時代として明治以降の近代との間に区別の線を引くのではなく、資本主義の勃興期という意味も含めて、現代にいたるまでのいろいろな意味での歴史の連続性を確認したいという思惑もあります。もちろん、不連続を象徴する表通りの事件が山ほどあることは承知の上ですが。
 しかし一口に江戸時代といっても、何しろ二百七十年にわたっています。近松や西鶴は元禄文化の華とされていますが、それ以前の幕藩体制の確立期、元禄以降の享保期、田沼時代とその反動としての寛政期、文化文政時代の爛熟期、天保から幕末に至るまでの崩壊期など、その流れはじつに起伏に富んでいます。
 これらを歴史家のように、緻密にまんべんなく視野に収めることは私の手に余ります。そこでともかく連想の赴くままにあっちへ飛んだりこっちへ飛んだりして、文化面、政治面、経済面、生活風俗面など、いろいろな方面で観察できることをつまみ食いしながら、思うところを綴ってみたいと思います。この気まま勝手な旅にお付き合いいただければ幸いです。

 話の手始めに、比較文学者・小谷野敦氏の『江戸幻想批判――「江戸の性愛」礼讃論を撃つ』(1999年・新曜社)を取り上げてみたいと思います。
 この本は、主として、バブル期に盛り上がった江戸ブームの仕掛け人の役割を果たした佐伯順子氏や田中優子氏、また、フーコー的な文脈を援用して近代の抑圧性を強調するために、両者に便乗して「前近代」としての江戸期の性愛のあり方を礼讃したフェミニスト・上野千鶴子氏を鋭く批判した、たいへん興味深い本です。
 江戸期というと、この江戸ブーム以前は、幕藩体制と厳しい身分制度と苛酷な租税によって領民がひたすら苦しめられた時代という左翼的な史観が支配的でした。しかしバブル期の浮かれ気分にちょうどシンクロするように現れた佐伯氏や田中氏の著作は、イデオロギー的な意図とは無関係に、この左翼史観をひっくり返す効果をもちました。
 この効果は、結果的に保守層を喜ばせました。当時の江戸は人口百万人を誇る世界最大の都市であり、藩校や寺子屋が栄えて識字率もたいへん高く、民百姓も飢饉のとき以外はさほど不幸ではなく、藩政もうまく行っているところが多く、和算や測量術、職人技術の高さは世界的レベルに達していたといったことがしきりに喧伝されるようになりました。
 これらは間違いとは言えないものの、その部分ばかりを強調すると、背景に素朴なナショナリズム・イデオロギーが浮き立ってくることになります。そこには往々にして、あまりよくない意味での感情的な歴史修正主義が見られます。戦後の自虐史観に基礎づけられた左翼史観もよくないですが、その反動としての前近代礼讃もまた偏っているというべきでしょう。
 小谷野氏は左翼ではありませんから、彼の議論は、性愛という主題に添って、いわばこの行き過ぎを再修正した、たいへんバランスのあるものということができます。その趣旨がよくわかる部分を二、三引用してみましょう。

≪簡単にいうと、上野(千鶴子――引用者注)は、フーコー的な近代化論の方向から、日本文化に関して、近代が「性の抑圧」をもたらしたという説に傾いていき、結果としてあたかも近世に「性の自由」があったかのような語り方をするようになったのである。これは、階級的視点が欠けている点(中略)と、前近代における「性から(原文傍点)の自由」の欠落を見落としていたという点で、「江戸幻想」に結果として加担するものとなった。
 その結果、マスコミに出ることの多い上野、田中(優子――引用者注)、佐伯(順子――引用者注)らの文章や、これらに学んだ一知半解の「江戸論」が流布することによって、「近世は性の抑圧がなかった」というような俗説が広まったのである。それはあたかも、望みさえすれば好みの相手とセックスできたのが近世だったかのような、さらに歪んだ近世像へと変容していった。これが「江戸幻想」の行き着く果てである。≫

≪私の「江戸幻想批判」を一言でいうなら、「江戸幻想派」の言う「性の自由」とは、人身売買の末悲惨な短い生涯を終えた女郎たちや、セクハラの自由、強姦の自由、残酷な堕胎や里子制度などの子どもの人権の不在などに支えられているのだ、ということだ。≫


 以下は、佐伯順子氏の『遊女の文化史』(中公新書・1987年)に対する批判です。

≪たとえば佐伯は近世初期の『露殿物語』をもって遊女崇拝を証明しようとするが、これは中世的な恋物語の変形だし、「歌舞の菩薩」という言葉が近世の女郎に使われていたからといって、それが直ちに女郎が神聖なものであったことなど意味しはしない。(中略)
(『遊女の文化史』には――引用者注)「『色』が日本の男女関係を支配していた時代には、(中略)肉体的交わりを神聖な世界への入り口として、無邪気に信じることができた」などとあるが、近世の遊里で男女が「神聖」な行為だと思って性交していたなどということは全く論証されていないし、まず論証不可能である。(中略)どうも佐伯は明治期以前の日本文化が古代から連綿とそういう時代だったと考えているらしく、あまりに雑駁な歴史観といわざるを得ないのである。(中略)
佐伯が「色」と結び付けようとしているらしい「いき」という言葉に関して歴史的粗雑さはさらに顕著であって、安田武・多田道太郎の『『「いき」の構造』を読む』(朝日選書)では、「いき」という価値観は、文化文政期の深川藝者と客とのあいだに成立したものではないかと示唆されているのだが、そういう時代や土地の区分など佐伯の目には入らないのである。たとえば近松の心中浄瑠璃は、「いき」ではないはずだが、佐伯は膨大な量の情緒的な言葉を連ねていつしか近松を「色」の世界に組み込んでしまう。≫


 要するに小谷野氏の主張は、現代知識人の過剰にロマンティックな意識に基づく思い入れを避けて、なるべくその時代、その地域における現実を正確に見積もろうということだと思うのですが、私もこれに賛成です。同じ江戸時代でも前期、中期、後期では大きく変遷しているはずだという視点も大切ですね。
 彼はまたどこかで、「冬など四時を過ぎればもう真っ暗に近かったんですよー」と述べていましたが(記憶に頼っているので、正確ではありません)、たしかに、こうしたことを考えると、おおらかで自由な性などというイメージを江戸時代に当てはめるのは、どうも見当外れのようです。まして、江戸時代を一括して、素晴らしい時代だったなどとみなす向きに対しては、ちょっと待て、と言わなくてはならないでしょう。
 バブル期の江戸ブームは、戦後の自虐史観べったりに根本的な疑問をさしはさむことに対しては、期せずして大きく貢献したというべきでしょうが、一方では、「昔はよかった」の堕落史観を助長して、近代の肯定的な意義を見えなくしたという意味では、行き過ぎだったと言えます。どの時代にもいいところと悪いところがある。そう見なすのが健全な常識というものでしょう。
 時代、地域へのそういう想像力をなるべく大切にして、これから進みたいと思います。

「空気」の支配こそ全体主義への道(SSKシリーズ21)

2015年08月10日 18時04分33秒 | エッセイ



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2015年6月発表】
 かつて作家の石田衣良氏が、日本は政治もエンタメも右傾化して危険な世の中になっているとして「右傾エンタメ」というレッテルを貼りました。これに対して評論家の古谷経衡氏が、実例を詳しく挙げてそのレッテル貼りは当たらないとし、さらにずっと過去の「宇宙戦艦ヤマト」などの方が明らかに軍国主義的だが、そのような非難はされたことがないと指摘しています。

「要するに、アニメや漫画、映画やゲームといったカルチャー全般に疎い者が、このような雑然とした右傾エンタメ論を展開しているのがことの真相なのである。作品を観ない・触れないで、『なんとなく』のイメージのもとに語られるのが『右傾エンタメ』の真相だ。」(産経新聞6月5日付)

 私はアニメには詳しくありませんが、目からウロコの思いです。
 少し前に加藤典洋氏という文芸批評家が、百田尚樹氏の『永遠の0』を、彼が保守的発言をしているというだけの理由で、巧妙に仕組まれた右翼的作品と決めつけていました(『特攻体験と戦後』中公文庫解説。http://asread.info/archives/1423参照)。
 加藤氏の場合は、作品に触れた上で、小難しい理屈を作り上げてそうしているのだから、もっとタチが悪い。しかも彼は文芸批評の専門家のはずです。文学作品をその外側のイデオロギーによって裁断する。これは批評家がけっしてやってはいけないことです。
 石田氏にしろ加藤氏にしろ、文学畑の人は、えてしてこの種の軽はずみな政治的発言をするものですが(たとえば大江健三郎氏や村上春樹氏)、それは自分の本来の仕事に自信が持てなくなってきた証拠だと思います。
 また、古谷氏の指摘は、何もアニメやゲームに限ったことではありません。
 原発問題や集団的自衛権問題など、それらが国民生活にとって持つ総合的な意味をよく調べもせず考えもしないで、漠然とした印象だけで、ただ反対、反対と叫んでいる例があまりに多い。
 これらの「空気」による世論形成は昔からお馴染みですが、今日のような高度大衆社会になると、その傾向はますます助長されます。こうした「空気」の支配のほうが、いわゆる「右傾エンタメ」の流行などよりはるかに危険です。というのは、こうした怠惰な傾向が増していくと、いくら真実を訴えても聞く耳を持たない全体主義的な社会が生まれるからです。
 たとえば先ごろ橋下徹大阪市長が提唱した「大阪都構想」がそのよい例で、これに賛成した人たちは、その構想の意図や実態をよく調べもせずに、ただ地盤沈下に対する不満のはけ口を、何かやってくれそうな「改革」のイメージに求めただけなのです。これはたいへん危険な局面でした。
 また安保法制化の国会論戦での反対野党の態度は、この法案がどんな国際環境の変化に対応したものか、どういう具体的な局面での自衛隊の活動を規定したものかを丁寧に議論せず、ただ「戦争への道を許すな」という左翼的ムードを利用しただけの、お粗末でヒステリックなものでした。
 今日、必要な知識・情報はネットのおかげでいくらでも得られます。それは功罪相半ばなのですが、少なくとも何か発言する時には、観ない・触れない・調べないを決め込まずに、功の部分を大いに利用してからにしようではありませんか。







風営法改正を歓迎する。が……

2015年07月03日 16時30分34秒 | エッセイ




 改正風俗営業法が、2015年6月17日の参議院本会議で可決され、成立しました。今度の改正では、一定の条件を満たすことでナイトクラブの深夜営業が可能になるほか、ダンスホールやダンス教室を規制対象外とするそうです。
 ひとまずはこの改正を歓迎したいと思います。夜の活気がある程度甦って来ることで、経済の活性化がいくらかは期待できそうだからです。
 しかし、この期待を満たすためには、ナイトクラブやダンスホール、ダンス教室の規制を緩和するだけではあまりに不十分でしょう。高級飲食店であるナイトクラブの客は裕福な層に限られますし、ダンスホールやダンス教室は主として社交ダンスのための場所で、こうした施設に通う人は、ごく限定されていると思うからです。
 若者たちに圧倒的な人気のあるディスコは深夜営業が禁止されており、多くはこの禁止を逃れるために「クラブ」(アクセントが「ブ」にある)と呼び変えて、風営法認可申請をしていません。つまり脱法クラブであるわけです。
 ディスコが危険ドラッグの取引に利用されるという実態もたしかに一部にあるようですが、だからといって、音楽や踊りを楽しむことを目的として通ってくる大部分の健全な人たちを締め出してしまうのは、文化的な意味からも、経済効果的な意味からも、得策とは思えません。ドラッグの取り締まりは、それはそれで、ルートのさらなる解明などに力を注いで、別途行なうべきでしょう。
 文化は夜間や休日に花開くといっても過言ではありません。昼の仕事に疲れた人たちが食事や酒を楽しみながら談話したり歌ったり踊ったりする――こういう多くの人が求めている娯楽の空間に厳しい制限を課すのは、成熟した先進国にまったく似つかわしくないことです

 ディスコだけではありません。何よりも庶民の憩いと社交の場である「スナック」に対する規制の厳しさには、普通の生活感覚で考えてまことにバカげたものがあります。その細かさを見ると、この法律を作った人は、禁欲神経症ではないかと疑われます。
 念のため、この規制のあり方のややこしさを紹介しておきましょう。
「スナック」では、ママやホステスがカウンター越しに飲食物のサービスをすることが建前となっていますが、実際には、テーブルに客と同席して接待することも普通に行われています。誰でもこんなの経験してますよね。
 ところがこれをやると、法律上「風俗営業」となり、深夜0時以降の営業はできないとされています。それだけではありません。同じ同席でも、テーブルをはさんで向かい合わなくてはならず、横に座ってはいけません。酒を勧めてもいけない。また、ママやホステスは、客席側に出てきてカラオケを歌ってはいけません。ましてダンスなどもってのほか。まだまだありましたな。傑作なのが、「歓楽に誘うような振る舞い」を一切してはいけない おいおい、店に行って酒を飲むのは「歓楽」じゃなかったのかい。看板も出せないじゃないか。
 では午前0時以降、アルコール類を提供する場合は、どうすればよいのか。別途「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)」に基づき、公安委員会に「深夜酒類提供飲食店営業」の届出をしなければならないのです。ところが深夜酒類提供飲食店と風俗営業を兼ねることはできませんから、風営法で許された、客と同席する「接待」はできないことになります。
 簡単に言うと、普通のスナックで、二つの法律の認可を受けている場合、0時以前に風営法に則って接待していたママやホステスは、0時を過ぎたら今度は「風適法」に従ってそそくさとカウンター内に引っこまなくてはならないということです。そんなこと守れるか。小学校の学級規則じゃないんだ。
 もちろん守れるわけはないので、ほとんどの場合、ちょっとしたスピード違反と同じで、こんな細則は無視されているわけですが、私は以前、ちょくちょく通っていた小さなスナックに10人も捜査官が押しかけてきて、ママが摘発された例を知っています。弁護士を紹介したので、そのときに、風営法の細則を読む機会があり、その神経症ぶりに驚いたのです。ママは、相当の罰金を取られたようです。

「失われた二十年」のために、地方のシャッター街は相変わらず増え続けていますし、大都会でも、街の灯ははやばやと消えていきます。飲み屋も客が来ないので10時くらいに店じまいする所が多いようです。もちろん、風営法の規制を緩めたからといって、すぐに夜の景気が回復するわけではありません。根本的には、政府が緊縮財政の方針を打ち出している限り、デフレ脱却は望めないでしょう。
 仁徳天皇は民の竈の寂しいさまを見て租税の徴収を控え、煙の立ち昇るのを見て満足したと伝えられます。現代では、竈の煙に当たるものが夜更けの街のにぎやかな灯だと言ってもよいと思います。
 しかし、景気は気からとも言います。不夜城の復活とまではいわないまでも、せめて、私たちの夜の活気を殺ぐような、過度な禁欲主義的規則の適用だけは慎んでほしいものです。取り締まりにあたる警察官だって、街の灯が一つまた一つと消えていく光景には寂しいものを感じるのではありませんか。

書き言葉表現の基礎訓練を(SSKシリーズ20)

2015年05月29日 23時43分53秒 | エッセイ
書き言葉表現の基礎訓練を



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2015年3月発表】

 日ごろ、いまの日本の初等から中等にかけての国語教育には欠陥があると思っています。それは思考を書き言葉で表現する訓練の不足です。要するに適切な作文教育をやっていないということなのですが、この言い方のなかには、私なりの根本的な注文が含まれています。
 どんな表現行為・制作行為にも、それが他人の目に触れてそれなりの評価を得るためには、一定の基礎訓練過程が必要とされます。たとえばクラシックピアノが弾けるようになるためには、バイエルやツェルニーなどの基礎課程をくぐらなくてはなりません。この課程を克服してようやく、個性的な表現をするための出発点につくわけです。表現における個性など初めから具わっているわけではありません。
 ところがここに一つだけ不思議な例外があります。書き言葉表現です。
 書き言葉をまともに使いこなすためには、ほかの分野と同じような基礎訓練過程がぜひとも必要なはずなのに、そういう訓練を本格的に授けるためのメソッドが確立されているでしょうか。せいぜい、小中高の限られた国語の時間のほんの一部を使って作文指導をするくらいです。その指導なるものも、テーマを与えて、「自分の思った通りに自由に書きなさい」と指示するだけでしょう。おそらく忙しい公教育の教師には、生徒一人一人の表現のつたなさをテニヲハの段階から具体的に指摘して添削指導を繰り返し、まともな日本語に仕上げさせるための指導を行うだけの力と余裕などとてもないでしょう。
 そもそも「思った通りに自由に書いた」文章が人々の厳しい評価に耐えるためには、その前に、ごく基礎的な日本語表現作法が身についていなくてはなりません。その教育と指導をおろそかにして、人にきちんと思想や感情や論理を伝えることなどできるはずがないし、相手の問いが何を要求しているのかを正確に把握できるはずがないのです。
 このおろそかさがはびこってしまったのには、次の二つの理由が考えられます。

①戦後教育が「自由と個性」なる謳い文句を過度に尊重してきた。
②多くの人が、言葉は思想を伝えるための単なるツールであるという思い違いをしている。


 ②の考えがはびこると(現にはびこっているのですが)、人はだれでも思想としては成熟したものを持っているがただツールが未熟なためにそれを表現できないのだという幻想に支配されます。これは倒錯です。
 思考は手を動かさなければけっして生きたものとはなりません。比喩的に言えば、人は頭と手の間で思考するのです。だからこそ評価に耐えるだけの思考力を鍛えるためには、初歩から順に段階を踏んで「書く」という行為を絶えず試みなければならないのです。
 私は何も「よい文章」とか「名文」の書き方を覚える必要があるなどと高級なことを言っているのではありません。できるだけ多くの日本人が普通に通用する文章を書けるようになり、人が書いている文章の趣旨を正確に冷静に受け止めるようになってほしいのです。僭越ながら私は、そういう訓練を行うための年少者対象の塾でも開こうかと妄想している最中です。

教育ドラマの風評被害

2015年05月10日 22時26分19秒 | エッセイ
教育ドラマの風評被害(SSKシリーズ19)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2013年9月発表】
 私はほとんどテレビを見ないので知らなかったのですが、少し前に「35歳の高校生」というドラマがあって、けっこう視聴率が高かったそうですね。大学のゼミ学生から聞きました。このドラマの中に、高校教師がビルの屋上から飛び降り自殺し、「現代の高校は教育現場などではない。敗者になった者には人権すら認められない。今の高校は地獄そのものだ」という遺書を残した場面があったとか。前後の文脈がわからないので確実なことは言えませんが、こういうセリフを安易に書き込む脚本家って、「教育現場」なるものをどれくらい調べたのでしょう。
 これと前後した時期に朝日新聞の意識調査があり、「高校生活が楽しい」と答えた生徒が9割近くいたそうです。9割ってほとんど全員ということですよ。しかもこの割合は過去最高とか。
 私はドラマの表現に疑問を感じたので、ゼミ学生たちに、君たち、高校生活どうだった? と聞いてみたところ、大半が楽しかったと答えました。「今の高校は地獄そのもの」という表現となんと乖離していることでしょう。
 ある特定の現場状況の中で、必死で努力したのに報われず、絶望して自殺する熱血教師が出てきたとしても、それ自体は個別現象ですから、別に不思議はないでしょう(まれでしょうが)。まあ、ドラマは誇張しないとドラマにならないのでその点については寛容になるとしても、しかし「地獄そのもの」はあんまりなんじゃないの。皮肉をかませるなら、その教師の教育に対する過剰な思い入れが自ら悲劇を招きよせたのかもしれませんね。大人の対応ができなかったのかも。
 私は、意識調査結果をそのまま鵜呑みにして、今の高校には問題はないなどと言いたいのではありません。「楽しい」と言ったって悩みがなかったことにはならないし、嫌なこともいっぱいあったに決まっているし、「楽しさ」が高校教育の「正しさ」を証明するわけでもありません。また意識調査も個別事情を捨象したメディア表現なのでそんなに信用できないという見方も可能です。
 でもなんでしょうね。この極端な差。一般的に教師の「人権」は他業種に比べて相当保障されているし、生徒は大人社会の厳しさから免除されているので、適当に学校生活を過ごしていれば平均的には「楽しい」はずです。しかも特定の子どもが「敗者」のレッテルを張られることに対して戦後教育は過敏なほどに神経を使ってきました。
 この種のドラマの致命的な欠陥は、その扱う世界がいま大体どんなふうかということをきちんと感性的にとらえずに、初めから学校全体を「社会問題」として頭でとらえて、そこにもっぱら否定的なバイアスをかけて見ている点です。いじめ自殺などが大騒ぎになったので、テレビ局もこれは受けると踏んだのでしょうね。
 メディアが大騒ぎのもとを作り、その大騒ぎをまたメディアが利用して、教育に対する単純な反体制理念をお茶の間に流す。お茶の間の視聴者はドラマ表現を見て「これが教育の現実」と思い込むクセがあります。そこにつけ込む脚本家、テレビ局はたいへん質が悪くレベルが低い。これを風評被害と言います。

大相撲モンゴル場所を提案する(半分冗談、半分本気)

2015年03月23日 23時47分17秒 | エッセイ
大相撲モンゴル場所を提案する(半分冗談、半分本気)




 大相撲春場所が終わりました。今年は鶴竜をはじめ休場力士が多く、三大関の成績も前半からふるわず、また白鵬の独走に終わるのか、すごいけどつまらないなあと思っていましたが、関脇・照ノ富士が何と白鵬を破って千秋楽まで優勝圏内に残り、大いに観客を沸かせました。しかも新関脇で13勝2敗という素晴らしい成績。先場所関脇に躍進してさすがに負け越した新鋭・逸ノ城も、今場所は、西前頭筆頭で9勝6敗の好成績を残しましたから、来場所は三役復帰が確実でしょう。
 ところで今場所も例によって白鵬をはじめとしてモンゴル出身力士が席巻し、対して日本人上位力士のふがいなさといったらありません。若乃花引退以来15年間日本人横綱が誕生していないことを嘆く関係者の声がしきりです。しかし私は、以前にもこのブログで取り上げましたが(http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/3b4a77e2426361a58000939ff4bc3559)、そのことをまったく気にしていません。むしろモンゴル力士の活躍を大いに応援したい気分です。その理由は、国際スポーツ大会などと違って、あの遊牧の小国からはるばる出てきた彼らがほとんど日本人になりきって、国技である相撲に命をかけているさまが、何とも気持ち良いからです。ことに、3年前の夏場所、モンゴル関取第1号の旭天鵬が、苦節20年を経たのち、なんと37歳で平幕優勝を遂げた時には、思わず涙ぐんでしまいました。豊かな大国になってしまった日本からは、もうこうしたハングリー精神の発露は望めないのではないでしょうか。
 現に今場所も日本人三大関の成績は振るわず、稀勢の里9勝6敗、琴奨菊と豪栄道はいずれも8勝7敗という情けなさです。この三人が横綱になることは、その相撲内容から見てもまず考えられず、やがては照ノ富士や逸ノ城に先を越されることは確実に思われます。
 いま、全幕内力士42名のうち、外国出身力士は17名、そのうちなんと10名がモンゴルです。また蒼国来は中国出身となっていますが、モンゴル自治区(内モンゴル)出身ですから、実質的にはモンゴル人です。ちなみに幕内現役モンゴル力士11人の四股名と番付をすべて書き出しておきましょう。

 東正横綱・白鵬  西正横綱・日馬富士  東張出横綱・鶴竜  東関脇・照ノ富士  東小結・玉鷲  西前頭筆頭・逸ノ城  同8枚目・時天空  東前頭10枚目・旭秀鵬  西前頭11枚目・旭天鵬  同13枚目・蒼国来  同14枚目・荒鷲      

 これだけ揃っているのですから、いっそ6つの本場所のうち一回くらいは、モンゴルのウランバートルで開いたらどうでしょうか。もちろん費用はこっち持ちです。もしこれが実現したら、人口わずか240万人、GDPでは日本の約450分の1しかないモンゴルは、国を挙げて湧きかえるでしょう。経済効果もあるかもしれません。モンゴル人の対日感情はすこぶる良く、2004年11月に在モンゴル日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、「最も親しくすべき国」として第1位になったそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD#.E5.AF.BE.E6.97.A5.E9.96.A2.E4.BF.82
 この親日感情の由来は、第一には、隣国中国の進出野心に対する根深い悪感情の裏返しが考えられます。また、日本がODAで多額の支援をしてきたこと、それからもちろん、まさに相撲を通して国内にヒーローを何人も作り出したことが関係しているでしょう。いま政治的・歴史的なことは詳しく述べませんが、ソ連と中国という大国の思惑にたえず翻弄されてきたこの国は、近年ようやく自主独立の気概を持ったナショナリズムが育ちつつあるようです。資料を見ると、こうした勢力を「極右」と書いているけれど、自由主義諸国圏のメディア情報は、その国のもつ複雑な内情をよく想像せずに、すぐ「極右」などと決めつけるんですよね。それは、ヨーロッパの反EU政党の勃興を「極右」と呼び続けているのと同じです。
 わが国は、韓国などを過剰に気にするより、周囲との微妙な関係に置かれたこういう親日的な小国との親善関係を大切にするほうが、これからの外交に役立つかもしれません。
 とはいえ、万一モンゴル場所が実現するとなると、どこか一場所は休止しなくてはなりませんね。これ以上お相撲さんに苛酷な労働を強いるのは無理だからです。さてどの場所がいいでしょうか。私は7月の名古屋場所をモンゴル場所に当てたらよいのではないかと思います。名古屋圏のみなさん、怒らないでね。といっても怒るよね。「勝手に決めるな、この野郎!」……。
 東京を一回削ればいいというアイデアもあるでしょうが、やっぱり本場国技館で、年3回はやってほしい。
 昔タモリが「名古屋人差別」なるギャグをやったことがありますが、私は別にそれを踏襲しようというのではありません。名古屋は京・大坂に近く、行こうと思えば大して時間がかからないでしょう。新幹線でなら1時間ちょっと。それと7月の東海地方は暑くてお相撲さんがたいへんです。調子を崩す力士が多い。涼しいモンゴル(7月平均気温20℃以下)のほうがずっといいと思うんだけどなあ……。大多数の国民はテレビで観戦できるんだし。

 ところで、ここからはあまり愉快でない話題を取り上げなくてはなりません。先に述べた旭天鵬優勝の折、パレードの車に白鵬が同乗して旗手を務めたのを覚えておいでですか。美談として称えられましたが、当時のある週刊誌(週刊ポスト)によると、あれには舞台裏があったのだそうです。旭天鵬の属する大島部屋の親方が定年退職するので、同じ立浪一門のどこかの部屋との合併が必要になり、それを機会に白鵬が同じ一門に属する宮城野部屋(自分の部屋)との合併を画策していたというんですね。将来、旭天鵬が引退したら親方になってもらってモンゴル力士を集めて”モンゴル部屋”を作ることを計画していたとか。相撲協会はそれを許さず、結果的に旭天鵬は他の立浪一門である友綱部屋に属することになったそうです。これは相撲協会の一幹部が漏らした話として書かれています。
http://www.news-postseven.com/archives/20120528_111157.html
 それ以来、白鵬と協会との間には確執がある――そういうことになります。最近でも白鵬が稀勢の里との一番で勝負審判の判定(取直し)に公然と不服を漏らしたことがあって、問題になりましたね。私はこの一番を見ましたが、不服を漏らすことの是非はともかくとして、勝負は明らかに白鵬の言うとおり、彼の勝ちです。
 でもこの週刊誌の「陰謀」話、私は額面通りには受け取れません。個人的には、力士としての白鵬をあまり好きではありませんが、外国人であった彼のこれまでの角界での超人的な努力と業績の数々を考えれば、そこには想像を絶する日本への同化の意志が感じ取れます。震災の折、東北の海を前にして数度にわたり神様への祈念を込めて鎮撫の土俵入りを試みたこと、前人未到の優勝回数達成を果たしたとき、優勝インタビューで、明治時代の相撲廃止の動きを大久保利通(伊藤博文という説もあり)と明治天皇とが尽力して止めさせたという、私たち日本人も知らなかった話を披露し、天皇陛下に感謝すると語ったこと、などを素直に受け取るなら、彼がモンゴル部屋を作ろうと画策していたなどという話のほうがよほどマユツバものです。
 しかし、それにもかかわらず、白鵬のなかに、現在の協会のあり方に対するある不満がくすぶっているのはどうも確からしい。最近の荒っぽい相撲のとり方にも、そのイライラがやや表れているように思います。その元にあるのは何かといえば、これだけやっても協会は、「外国人力士」という半ば無意識のレッテル貼りによって自分たちを差別しようとするのかという悔しさではないでしょうか。
 私は彼の悔しさの感情を支持したいと思います。そうして、この協会側の無意識のレッテル貼りの底にあるのは、偏狭な排外主義と、外国人実力者に土俵を乗っ取られたことに対する嫉妬です。
 くだんの週刊誌記事の記者も、協会幹部が抱いている陰湿な排斥感情に加担している様子がありありです。いくらこれほど偉大な業績を残しつつある白鵬でも、厳しい身分秩序を残しながら(それ自体は悪いことではありませんが)大相撲の興行を差配している協会幹部にひとりで戦いを挑むわけにはいかないでしょう。
 記者は立浪一門のある親方が吐いたセリフとしてこう書いています。

 外国人力士が増えたことが人気低迷の原因として、協会は外国人の入門規制を敷いている。それに不満を持っていた白鵬は、頻繁に会合を開いてモンゴル人の結束を高めていた。合併話が拒否されたことにも怒り心頭だった。

 ある親方が本当にこう言ったのだとすれば、ふざけた話です。外国人力士が増えたことが人気低迷の原因とはよくも言ったり。一時期の人気低迷は、八百長疑惑やしごきによる不祥事など、要するに協会自身の監督不行き届きが原因であることは、ファンの誰もが知っています。その何よりの証拠に、モンゴル力士を中心とした外国人の活躍によってここ1、2年の相撲人気は見事に復活し、先場所(平成27年初場所)などは、15日間すべて満員御礼だったではないですか。ファンのほうがよっぽど正直です。不人気の原因を外国人になすりつけ、それにもとづいて入門規制を敷いているなんて、相撲協会とはなんとアンフェアでけち臭い体質を温存しているところなのでしょう。たかが相撲と思うなかれ、こういう差別感覚はどこの社会にもあることです。
 もうひとつ例を挙げておきましょう。今場所の白鵬の優勝インタビューと、場所での取り口について論評した産経新聞記者の隠微な調子の文章です。

 土俵下で行われたテレビの優勝インタビュー。これまで多くを語らなかった白鵬が口を開いた。『初場所に(優勝回数の)新記録を達成して、それにふさわしい優勝。1つ、2つ上にいったような相撲内容だった」。大鵬に並ぶ2度目の6連覇で34度目の優勝をつかみ、自賛した。(中略)貪欲に勝利を追い求めた結果でもある。以前、33度優勝を達成後は立ち合いの極意『後の先(ごのせん)』に取り組みたい考えを明かしていたが、今場所は一度も披露せず、先場所の審判部批判につながった因縁の稀勢の里戦では、右変化の注文相撲、受けて立つどころか、格調の低い取り口で目先の白星を求めた。(以下略・3月22日付)

 相撲の世界では、格上の者ほど、下に対して堂々と胸を貸す態度を示すことが人格的に良しとされることは知っていますが、何も大記録をさらに伸ばして見事に優勝したその日 ( この日の対日馬富士戦では堂々と戦っています )の論評で、わざわざこんな意地の悪い書き方をしなくてもいいでしょう。素直に栄誉を称えればよいではありませんか。記者自身の格調を疑います。
 外国出身の力士がいかに活躍したからといって、国技としての様式が崩されたわけでも何でもなく、ことにモンゴルの人たちは相撲を通して日本という国を知り、そうして多くのモンゴル国民は今なお(おそらく)憧れの目をもって豊かな大国・日本を見つめているのでしょうから、そのせっかくの気持ちを温かく受け入れる寛容で余裕のある心を、相撲協会自身が率先して持ち続けなくてはならないと思うのです。
 好きな相撲について軽いノリで書くつもりが、調べながら書いているうちに、いろいろなことに気づいてきて、つい真面目くさった批評文になってしまいました。申し訳ありません。






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幸福の科学大学不認可問題(SSKシリーズ18)

2015年02月11日 18時38分15秒 | エッセイ
幸福の科学大学不認可問題



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

2015年1月発表
 私のもとに「ザ・リバティ」という月刊誌が送り届けられます。版元は幸福の科学出版。以前一度だけインタビューに応じたことがあるからでしょう。この雑誌、言うまでもなく宗教団体が発行しているものですが、「霊言」とか「誰それの守護霊」といったキーワードにウサン臭さを感じなければ、けっこう知的水準が高く、現代の国際情勢、政治経済問題などに関してなかなか的確な分析と判断が書かれていることが確認されます。
 ところで2014年10月、文部科学省は2015年4月開学を目指して設置申請していた幸福の科学大学に対して不認可の決定を下しました。校舎も8割以上出来上がっており、入学希望者も相当数いたそうです。
 不認可の理由は二つ。一つは大川隆法氏の著作に霊言を科学的根拠のあるものとして扱う記述があり、これを「創立者の精神」として必修科目で扱うことは、科学的方法の基本である実証可能性や反証可能性に抵触する疑いがある。もう一つは、認可の判断に当たって幸福の科学学園側が下村文科相の守護霊の霊言の要約を送付するなど、心的な圧力をかけた事実がある。
 後者については、事実関係がわからないので、ここでは述べません。前者ですが、この理由付けは憲法で保障された信教の自由、学問の自由に抵触します。もちろん公共性を毀損する活動の自由は許されていませんが、これまで幸福の科学が特段そのような活動を行なった形跡はなく、またこれから大学設置基準に則って宗教教育を穏やかに行うことがそれに値するとも思えません。
 私はけっして特定の宗教団体を擁護する意図からこんなことを言っているのではありません。ただ一般的に、法治国家のルールを遵守して宗教教育を行おうとする試みを国家が阻止するという行為は許されないと思うのです。
 また、実証可能性は自然科学に要求される条件であって、反証可能性のほうは、自然科学の必要条件としては疑問の余地が大きい。逆に人文系の学問では反証可能性こそが学問の自由を保障するといってもよく、幸福の科学大学内で教えられた「霊言」などの教義は、自由主義国家では、やろうと思えばいくらでも反証できるはずです。文科省の不認可理由は、自然科学と科学一般とを混同する誤りに陥っています。ましてや宗教がもともと非合理な本質を持つことを、文科省がまさか知らないわけではありますまい。
 新興宗教である天理教も創価学会も大学経営を公認されています。私は詳しく知りませんが、これらの学内では、それぞれの教義が、単に実証科学的に相対化されて捉えられるのではなく、信仰を深めさせるために「無条件に正しいもの」として教えられていることでしょう。より新しい宗教という点を除けば、幸福の科学だけを特別視する理由は見当たりません。
思うに、オウム事件以来、新宗教を新宗教であるというだけの理由で忌避・排斥する空気が濃厚なために、文科省は、もし当大学の教育が社会秩序を脅かす事態を起こしたら、という恐れと責任逃れの意識に支配されているのでしょう。気持ちはわかりますが、やはり法治国家の原則を曲げるべきではないでしょう。

テレビメディアは情報選択の原理を見直せ(SSKシリーズ17)

2014年12月27日 13時00分49秒 | エッセイ
テレビメディアは情報選択の原理を見直せ(SSKシリーズ17)




 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。


2010年5月発表】                 
 私はあまのじゃくなので、誤解を受けそうなことを書くのが好きである。といっても、あえてひねくれたことを書いてやろうという魂胆を持っているわけではない。ふと感じたことで、自分では正しいと思えるのに、世間常識からすると正しくないか、またはその是非についての自覚がないように思える物事について、これは書いておいたほうがいいと判断したとき、そういう物事を取り上げて読者の注意を喚起するのが好きなのである。
 今回指摘したいのは、日本のテレビメディアが、ニュース番組でどういうニュースをどれくらいの長さで報道するかという問題についてである。事例はやや古いが、少し前に三つの事件報道がなされた。私は、この三つの事件報道の流され方には、どのテレビ局にも、ある共通した認識と判断が反映されていると感じたので、それに関して批判的に述べることにする。
 三つの事件報道とは、

①冤罪の裁定が出て釈放された足利事件の元服役囚・菅谷さんにかかわる報道。
②くも膜下出血で亡くなった元巨人軍コーチ・木村拓也さんにかかわる報道。
③タイの暴動に巻き込まれて銃弾に倒れた村本カメラマンにかかわる報道。

 これらの事件は、ほぼ同じころに普通のニュース特集番組でいずれも大きく取り上げられたが、そのこと自体に異論はない。問題は、それぞれの事件にかかわる報道を、「また同じニュースか。いつまでやってるんだ」と感じさせるほど長期にわたって流していたことである。総報道時間を測ってみたわけではないが、私の印象では、一個別事件に対するいささか過剰な熱の入れようで、他の重要な報道案件(と私が感ずるもの)に比べて、バランスを失しているとしか思えなかった。
 冤罪の問題や慕われていた有名スポーツマンの死や危険地域での日本人の巻き添えによる死が重大でないというのか、という非難の声が聞こえてきそうである。しかし、言うまでもなくニュース特番の時間は極めて限られている。番組担当者は、国内外からの膨大な情報を前にしてどれにどの程度の優先権を与えるかを決めて番組を組むのであろう。そのとき彼らをして右に挙げたような三件を「今日もこれを取り上げよう」「今日ももう少しこれで」というように未練がましく選ばせた心意とは、いったいなんだろうか。
 一言で言えば、日本という閉ざされた圏域に住む大衆の、きわめて情緒的な関心へのポピュリズム的な迎合の意識と、それと裏腹の関係にある、理性的な公平感覚の欠如である。
これらの報道に過大な時間を費やしている間にも、世界はいうに及ばず、日本国内でも、それらに負けず劣らず重大な案件がわんさかと犇いている。政治、経済、科学技術、安全保障、海外事情その他。ひとつの事件の情緒的価値のみを重んじて必要以上に長い時間をそれに振り当てることは、そのぶんだけ他の情報を伝えないことを意味する。
 ちなみにほんの時折CNNなどを覗いてみると、日本の報道機関が伝えていない情報がいかに多いかに気づかされる。番組担当者は、ポピュリズム的・情緒的な情報選択の基準を根本から見直してほしい。これは思想の根幹にかかわる問題である。

頓馬なマスコミに誑かされるな(SSKシリーズ15)

2014年12月01日 22時23分35秒 | エッセイ
頓馬なマスコミに誑かされるな(SSKシリーズ15)




 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

                                  
【2013年3月発表】

 2013年2月19日付の朝日新聞「社説」に次のようなことが書かれている。

 ≪朝日新聞の世論調査で、原発の今後について尋ねたところ、「やめる」と答えた人が計7割にのぼった。「すぐにやめる」「2030年より前にやめる」「30年代にやめる」「30年代より後にやめる」「やめない」という五つの選択肢から選んでもらった。全体の6割は30年代までに国内で原子力による発電がなくなることを望んでおり、「やめない」は18%にとどまる。政権交代を経ても、原発への国民の意識は変わっていないことが確認されたといえよう。≫

 マスコミが自分たちに都合がいいように世論操作をするのは今に始まったことではない。ことに朝日新聞はこれが得意。
 昔この新聞は、夫婦別姓問題についての調査結果からとんでもなく間違った結論を公表した前科がある。だがその時はだましのテクニックがなかなか巧妙だった。しかし今回のこのアンケート項目の設定のずさんさはどうだろう。なんと五項目のうち四項目までが「やめる」になっている。
 原発が危険を抱えていることは福島事故で思い知らされたから、誰でも、もっと安全で安定供給できコストも安い発電方法があるならそれに越したことはないと考えるのが人情だ。だから「やめる」項目八割のアンケートを突きつけられたら「やめない」をきっぱり選ぶ人が少なくなるのは当然で、回答者は初めからまんまと誘導されているのだ。何の根拠があるのか、30年代などという設定も恣意的そのものである。
 こういう科学的客観性を担保したかのような装いのもとにあらかじめ決まっている結論を導き出すのは、じつにたちの悪い煽動である。もともと世論調査というのは、いろいろな意味でその信頼性に問題があるのだが、そのことを踏まえつつ、もしできるだけ公平を期すならせめて次のように選択肢を設定すべきだろう。

 原発を
 ①やめるべきだ 
 ②どちらかと言えばやめる方向で 
 ③迷う 
 ④どちらかと言えば再稼働の方向で 
 ⑤再稼働すべきだ

 これなら③や④を選ぶ人がかなりに上ることが予想される。「『やめる』と答えた人が計7割にのぼった」なんてことにはならないだろう。言うまでもなくマスコミには事実をなるべく正確に伝える重い責任があるのだから、こんなボロ丸出しの調査などやってはいけないのである。
 しかしそもそも脱原発か再稼働かという問いは、原子力発電そのものについての高度な専門知や、これからのエネルギー政策、外交政策などを総合的にとらえる広い見識が要求されるきわめて選択困難な課題である。ふだんよく考えてもいない(考える必要もない)圧倒的多数の国民に安直に二者択一させて済むような問題ではない。こういう大衆迎合主義が無反省にまかり通るようでは世も末である。読者諸兄は頓馬なマスコミに誑かされないようによくよくご注意。