以下の原稿は、6月6日の産経新聞に掲載された記事に、少し手を加えたものです。
「ジェンダー平等」という声がよく聞かれるようになった。でもこれは別に新しい概念ではない。ジェンダーとは人類史を通して作られてきた社会的・文化的性差のこと。そこに偏見や、雇用・賃金などの不平等が見られるなら、できるだけそれをなくしていこうというのが、ジェンダー平等である。昔からフェミニストたちによって唱えられてきた「男女平等」と変わらない。
しかし昨今は、しばしばこの平等原理で男女関係の問題をすべて割り切ってしまおうという、行き過ぎた傾向が目立つ。アメリカなどでは都市部で男女共用トイレが一般化するなど、治安上もあまり褒められない施設が広がっているし、「アーメン」は「メン」(男性)だけで差別的だから「ウーメン」も加えて、「アーメン、アンド、アーウーメン」と唱えるべきだなどという提案が下院議会で大真面目になされている――(アーメンはヘブライ語で「かくあれかし」の意で、もちろん「男性」の意味ではない)。
日本でも、親愛の情を示すつもりで女性に言葉をかけると「セクハラ」と受け取られることを恐れて、若い男性がコミュニケーションをためらう傾向が目立ち、恋愛関係が容易に成立しにくいという。少子化の一因かもしれない。
女性差別とか偏見とか簡単に言っても、どういう処遇や振る舞いがそれに当たるのか、はっきりした線引きができるわけではない。経済的な条件の場合は比較的はっきりしているが、それ以外の場合は、「女性がそう感じたら」というのがとりあえずの基準になっている。しかし多様な個人の感覚を基準にするところには混乱が生まれやすい。混乱を避けるために無理に定式化しようとすれば、究極的には性差そのものを否定するのが良いことだという思想に行き着く。そしてこれに「感覚的に」反発する人たちとの間で、議論にならない分断が生まれるだけである。悪循環だ。
この問題は、次のように整理すべきである。
まず、ジェンダーが根付いてきた根底には、やはり生理的な性差(セックス)がある。ジェンダーは、生理的な性差を根拠としつつ、人間自身が男女共同で歴史的に積み上げてきた性差観念の結果なのである。
その性差観念のスタイルが、政治的、権力的に見て歪んだ非対称なかたち(差別、抑圧)を取ることがある。それは現にあったし、今もあるだろう。
しかし男女の非対称性は、反面、共同生活の役割分担と考えることも可能であって、私的な領域(たとえば家庭)では、はっきりとは明示されない形で男性に対する女性の「実権」の存在をいくらでも確認することができる(女房の尻に敷かれる、財布はかあちゃんが握っている、惚れた女を女神のように崇める等々)。
また、男女の性差があるからこそ、それぞれの性にとっての幸福の可能性も生まれてくる。もし性差が打ち消されて限りなく平等で抽象的な「人間」しか存在しなくなってしまったら、私たちは、心身の合一や感情の交歓のうちに意味や喜びを見いだすことができるだろうか。
もちろん不幸もそこから生まれてくるとも言える。しかし異なる性のあり方を、互いの直接的な交流を通じて深く理解し合うところに、その克服の道も生まれてくるのではないか。「深い川」が間になければ克服の道もない。川は「希望」ではないだろうか。
議論を混乱させないために次の押さえが必要となる。
男と女の関係のあり方を、平等・不平等という概念だけで把握できると考えないこと。
抽象的な「人間」の集合である一般社会の領域は、労働(戦争、政治なども含む)とそれによって生ずる富の分配がその基本的な形成原理となっている。この領域では、明らかに平等・不平等という把握が可能である。男女の問題にこの把握をそのまま適用すれば、そこでは、男が長らく女を支配してきたとか、女は一般社会から排除されて「人間」扱いされてこなかったといった言い方がたしかに成り立つ。
しかし、個別の男女が渡り合う領域、すなわちエロスの領域では、この把握は必ずしも成り立たない。それは労働の領域ではなく、個別の男女が身体や情緒を直接に取り交わすことを本質とする領域だからである。
あなたは、甘い恋のやりとりが行なわれている現場を、男と女の「権力関係」と見なすことができるだろうか。夫婦が食事しながら話している現場を、「対立関係」と見なすことができるだろうか。権力関係や対立関係でないなら、そこに平等・不平等を当てはめることはできないのである。
また一般社会の領域でも、より男性向きの職業、より女性向きの職業といったものもおのずと存在する。前者の代表として兵士や建設業者やトラック運転手、後者の代表として看護師や洋品店主や保育士など。それぞれの職業が男女のいずれかに固定されるべきだというのではない。放っておくと自然と男女のいずれかが多くなる職業が現実に存在するということだ。
無論、能力が低いのに地位や給料が高く仕事をしない男性と、能力が高いのに地位も給料も低く、きつい仕事に耐えている女性。そういう現実もある。私自身、そうした仕事の現場を何度か見たことがある。こうした社会状態は明らかに存在して、しかもこの格差の構造を企業社会は自社利益のためにあえて温存しようとする。これは解消されるべき差別である。
ただ一方、公的な職業への女性の進出度の高低、たとえば国会議員や政治家に女性が何割いるかによってその社会の進歩の度合いを測るといった考え方がある。これは欧米由来の粗雑なイデオロギーであって、けっして正しい見方とは言えない。なぜなら、ある仕事にどちらの性がどれくらい配分されるのがよいかという問題は、その仕事が要求する適性と能力とによって決定されるべきだからである。
女性が国会議員に向いているかどうかはわからない。向いている人もいれば向いていない人もいるだろう。また女性が国会議員や政治家に多ければ女性一般の声がより反映するといった単純論理は成り立たない。これは、実際の国会議員や政治家を思い浮かべてみればわかるだろう。
繰り返すが、男と女の関係は、平等・不平等では測れない部分を大きく抱えている。法的な用語としての「平等・不平等」が適用できるのは、まさに人間を法的人格として把握できる領域でだけなのだが、人々の全生活領域は、それよりもずっと広い。そしてこのことは、常識的な男女なら、だれでも感覚でわきまえていることである。
問題は、その常識的な感覚に基づく議論が息を潜め、それと正反対の議論だけが政治やマスコミの場で賑わっていることだ。しかしだれもが社会的発言を駆使できるわけではない。
たとえばあなたが、「これからは男らしさ、女らしさなどの古い思い込みを捨てて、一人の人間としての自由や人権を大切に」といった言葉に出会ったとしよう。仮にあなたが「こんなの、なんだかピンとこないわ」と感じたとしても、それにうまく反論できるとは限らない。実際にはそのままスルーしてしまうことが多いだろう。するとこの理屈が表通りでまかり通ってしまうことになる。
でもちょっと立ち止まって考えてほしい。男らしさ、女らしさを捨てなければ自由や人権を守れないだろうか。そういうことを言う人たちは、変に浮き上がった考え方をしているのではないか。男らしさや女らしさを日常生活の中でうまく活かすことこそ、自由や人権を本当に守ることにつながるのではないか。
なぜなら、あなたは、男または女という条件を生きることを通して、自由や人権の問題に具体的に出会うのだから。
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