ふた月に一度くらいの割合で、仲間どうし集まって映画鑑賞会をやっています。題して「シネクラブ黄昏」。別に高齢者が多いからこの名をつけているわけではありません。ウィリアム・ワイラーの名作にちなんだのと、黄昏時に上映するという二つの理由からです。特定の一人が持ってきたDVDやVHSをみんなで鑑賞し、終わってからあれこれ語り合います。
この会には、規則というほどのことはありませんが、一応次のような取り決めがあります。
①上映担当者は事前に何を上映するかを知らせてはいけない。
メンバーは当日まで知らないので、見たことのある映画を見させられるかもしれませんが、昔見た映画をもう一度見ると、また違った感興を味わえるので、けっこういいものです。
②上映者は、なぜこの映画を持ってきたのか、その思いをみんなの前で語る。一分でも三十分でもOK。
③上映者には、次回の上映者を指名する権利が与えられる。
さて、前回たまたま私が上映者となり、リンゼイ・アンダースン監督、リリアン・ギッシュ、ベティ・デイヴィス主演の『八月の鯨』(1987年)を上映しました。この作品は、日本では昔岩波ホール創立20周年記念の時に公開され、異例のロングランを続けたそうです。私はずいぶん後になってからたまたまテレビで見て、すぐにVHSを買いました。
これまで何度か見ていますが、このたび改めて鑑賞し、その傑作ぶりを再確認しました。メンバーの中にも昔見て、いま見ると感慨がひとしおだと言ってくれた人がいました。
二人の主演女優は、ご存じのとおり、往年のハリウッド名女優です。作品ではリリアンが妹サラ、ベティが姉リビーを演じるのですが、ベティはこの時79歳、リリアンはなんと93歳です。14歳も年が違って、しかも姉妹関係が逆なのですね。無声映画時代からのスターだったリリアンの演じるサラは、なんと表情豊かでかわいいこと。そして悪女から女王、愛らしい女、つつましい女まで多彩な役柄でハリウッド女優界を席巻してきたベティが、この映画では、死におびえるいじけた老女を演じます。
じつはこの会を始めてからもう7、8年になるでしょうか。最初の会にも私が上映者だったのですが、その時、あの恐ろしい『何がジェーンに起こったか』を上映したのです。この映画でジェーンを演じたベティ(54歳)の残酷さに戦慄した人なら、『八月の鯨』でのその変貌ぶりに驚かされるでしょう。大女優というのはすごいものですね。
見ていない人のためにあらすじを紹介しておきます。この映画は、ネタバレしたからと言って、けっして観る価値が減るわけではありません。
希望にあふれた娘時代、メイン州の美しい海岸を臨む叔母の別荘に滞在したリビーとサラの姉妹は、友だちのティシャから沖合に鯨がやってきた知らせを受けて急いで近くの断崖にまで走り、夢中になって双眼鏡でそれを見ます。
ほどなく二人はそれぞれ結婚しますが、サラは第一次大戦で早くに夫を失い、リビー夫妻の下に15年間御厄介になります。やがてリビーの夫も亡くなりますが、彼女は娘とはウマが合わず、結局姉妹は二人で暮らすことになります。冬はフィラデルフィア、夏になると、今ではサラが所有者である別荘で過ごす生活が15年続いています。白内障ですでに失明しているリビーはサラに生活の面倒を見てもらっています。リビーは身辺が不如意なためわがままが高じてきて、このごろは死のことをしきりに口にするようになっており、サラの心にいっそう暗い影を落としています。
ガサツな音をたてて大きな声を出す修理工のヨシュアが、別荘からじかに美しい海岸が見られるようにと、大きな見晴らし窓を作るようにしきりに勧めるのですが、サラにはその気があるのに、リビーは首を縦に振りません。
近所の数少ない知り合いの中にロシアからの亡命貴族である高齢男性のミスター・マラノフがいます。彼はアメリカの市民権がないため人の家に居候しながら転々として暮らしています。つい先日、居候先の女性が亡くなったばかりです。サラは彼の釣った魚を料理してもらうことを条件にディナーに招きます。サラはこの紳士に好感を抱いていますが、リビーは、「ドブで釣った魚など食べたくない」と嫌味を言い、ディナーの時間が近づいてくるのになかなか着替えようとしません。
やがてマラノフが正装して訪れ、料理をしつらえます。サラは入念にお化粧し髪をアップに整え、とっておきのドレスをまとってマラノフの前に現れます。「どうかしら」と可愛いポーズを取るサラに対して、マラノフは「ラヴリー、ラヴリー! とても素敵ですよ」と褒めたたえます。リビーがようやく着替えを終えて部屋から出てきます。きれいな白いテーブルクロスの上に二本の燭台。料理が運ばれて食事が始まります。
マラノフが、亡命生活の話をいろいろと聞かせるのですが、話がつい先ごろ亡くなった居候先の女性のことに及んだ時、リビーが、自分たちのところに身を寄せようとしているマラノフの魂胆を見抜き、それは断るとはっきり言って、せっかくのディナーの雰囲気をぶち壊してしまいます。月が波間をキラキラと照らしているベランダで、サラとマラノフとがしばしの時を過ごした後、マラノフは寂しそうに去っていきます。
その日は奇しくもサラの結婚記念日だったのでした。マラノフが去った後、サラは夫の遺影を前にしながら、ワイングラスを二つ置いて、ひとりだけの結婚記念日を祝い、短かった結婚生活を偲びます。でもリビーのことがどうしても気がかりです。
そのときリビーが悪夢にうなされ、部屋から出てきて「私たちには死神がついている」と言って彼女に縋りつきます。サラはうんざりです。
翌朝になり、リビーは昨日のことを謝りますが、二人のこじれた仲はほぐれず、別居の話になります。サラは冬もここに残ると言い、リビーは娘のところに身を寄せると。
しばらくしてティシャが親切のつもりで不動産屋を連れてきます。勝手に別荘の値踏みをさせるのですが、サラはここを売る気はないときっぱりと断ります。ティシャと不動産屋が帰った後、リビーが部屋から出てきて、いまのは誰かと聞くと、サラは一部始終を話します。リビーの心が次第にほぐれてくるのがわかります。修理工のヨシュアが道具を忘れたと言って訪ねてきた時、リビーが突然、見晴らし窓は今からなら二週間後の労働者祭までにできるかと聞きます。びっくりするサラ。ヨシュアがいぶかしそうな顔で「できることはできるけど、作らないと言っていたじゃないですか」と聞くと、リビーは、二人で相談して決めたのだと答えます。サラは黙ってうれしそうに微笑みます。
やがて二人は、仲良くあの鯨が見えるかもしれない岬まで散歩にでかけます。断崖から海を臨みながら、リビーが「あれは来るかしらね」と聞くと、サラが「もうみんな行ってしまったわよ」と答えます。リビーは「それを言ってはダメよ、わからないわよ(You can never tell it.)」と繰り返します。鯨が姉妹にとってずっと生きる希望のメタファーだったことを観客に悟らせて静かに作品の幕が閉じられます。
この映画では、カメラはほとんどが別荘のリビングに固定され、上で述べた二人の数十年のいきさつは、すべて語りの中で行われます。話はわずか一夜をはさんだ二日間の淡々とした流れを追いかけているだけなのですが、非常に緻密で繊細な心のドラマが展開されていることがわかります。英語も大変わかりやすく、一つ一つのセリフが詩句のように綴られています。最後のリビーの決めゼリフによって、全体が締めくくられ、観たものの心に文学的・哲学的感動が深く沁みとおってくる仕組みになっています。死におびえていたリビーは、サラとの仲直りによって心穏やかとなり、二人でこれからも生きつづけていくことにかすかな希望を見いだすのですね。短い映画ですが、ここには平凡な人生のすべてが折りたたまれているという感じがしみじみと伝わってきます。
筆者がこの映画を見て印象に残るーンはいくつもあるのですが、一つだけここで紹介します。それは、あの三人で食事を始める場面です。白いテーブルクロスとろうそくの光。正面にミスター・マラノフ、右にリビー、左にサラ。同じ日の朝、サラはマラノフに会っており、気安く会話したにもかかわらず、ディナーの時間には三人はきちんと正装して食事に臨むのですね。これを見て、古き良き欧米社会には、フォーマルなパーティーを通して男女が出会う機会を作る文化伝統があったのだなあと強く思いました。華やかな舞踏会から、小人数の社交パーティまで。
『八月の鯨』に描かれたような、こんなささやかなディナーでもその伝統が活かされていることが読み取れます。筆者は「ではのかみ」が嫌いですが、こういう所にはとても羨ましさを感じました。
これに対して、日本では、男文化と女文化が分断されているように思えます。居酒屋でおだを挙げて日ごろの憂さを晴らす男たちと、レストランでランチしながら子どもの教育談議に花を咲かせる女たち。お互いに元気なうちはそれでもかまいませんが、居酒屋仲間がいなくなり、子どもが育ってしまえば、この分断文化の弱点が露出するのではないでしょうか。日本では、男女の何かの集まりには、読書会だの歴史散歩だの山登りだのといった何らかの口実が必要ですね。合コンがあるじゃないかという反論があるかもしれませんが、あれは若い人たち専用で、お見合い文化が廃れた代償として発生したものです。歴史も浅く、文化とはとても言えません。
もし男と女をつなぐ(ほとんどそれだけを目的とした)文化が命脈を保っていれば、たとえどんなに老いても、そういう機会を自然に設けることができます。そうすればいま日本ではやりの孤独死(ほとんどが高齢独身男性で大都市に多い)も、少しは避けられるのではないでしょうか。高齢者の経済の安定や健康維持も大切な課題ですが、この高齢社会では、日常にときおり華やぎをもたらすような「男女縁結び文化」を新たに創り上げることがぜひ必要に思えるのです。
八月の鯨
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