小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する20

2015年04月18日 18時43分01秒 | 哲学
日本語を哲学する20




 発語あるいは沈黙の直接的な条件を規定し終えたところで、本題に戻ろう。先の「⑧現実場面における発語の断念(選択による沈黙)」にはどんな様態が考えられ、そしてそれぞれにはどんな意味が込められているだろうか。

【例1】山田太一脚本のテレビドラマ『ハワイアン・ウェディング・ソング』より。
 これは、結婚紹介所で知り合った三十代の男女の対話場面である。「新婦」の母親のやや強引な提案により、ハワイで結婚式を挙げることになったが、鳶職である「新郎」は、まだよく知りもしない人とそういうハイカラなセンスの結婚式を挙げるのは、自分には似合わないのではないかという違和感を感じつづけていた。そのため彼は、直前になって挙式をぶち壊してしまう。翌日、今後どうするかをめぐって、ハレアカラ頂上で再び「新婦」と二人だけで向き合う。以下、台本より映像描写についてのト書きの部分を省略して引用する。

A子:自分でも変なんだけど――
B男:うん?
A:ほんとは、ウンと怒って当然のことされたんだけど
B:(うなずく)
A:昨夜もいったように、気持ち少しわかるし――
B:――
A:どういう人かなあ、と思っていたのが、へえ、結構、自分がある人なんだって納得したような感じもあって――
B:――
A:一昨日(おととい)までより、今日のほうが、好きになってるような気もする
B:――(A子を見る)
A:でもまた、非常識なことするんじゃないかと思うと、怖いような気もするし(とちょっとはなれる)
B:しねえと思うけど――
A:分んない?
B:分んねえよ
A:結婚て、困るよねえ
B:(うなずく)
A:よく分んない人と一緒になるんだものねえ
B:(うなずく)
A:迷っちゃうよ(切実である)
B:(うなずく)
A:一人も寂しいしねえ(切実にいう)
B:(うなずく)


 この例では、短い対話の間に「――」と「(うなずく)」とが、じつに計十二回も用いられている。そしてそのほとんどが的確で必要不可欠な挿入と感じられる(なお私はこのドラマを実見している)。人間心理に通暁した山田氏の、心遣いあふれた作劇術にただ脱帽する。
 結末は、この場面での会話があったおかげで、二人の間に心が通い始め、もう一度浜辺で挙式をやりなおすというハッピー・エンドなのだが、そのことは措くとして、ここで問題にしたいのは、これらの「間」すなわち「沈黙」の意味である。先の「直接的な条件」の三つの規定にしたがって乱暴に総括すると、次のようになると考えられる。
 まず「気分」としては、切実な問題に向き合っているという情緒状態を共有しているために、言葉を慎重に選ぶ態度を強いられているということになる。会話をリードしているのはA子のほうだが、それらは一気に表白されるのではなく、常にたどたどしく、一歩一歩確認しながら言葉を継いでゆく形をとっている。B男の方もその気分に完全に同調して、事の切実さに真剣に向き合っているふうである。二人はまったく同じ「気分」のうちにあるのだ。この気分の共有にとって「――」や「(うなずく)」はなくてはならないものである。
 次に「関係」としては、一対一である、まだ知り合って互いに相手のことをよく知らない、これから結婚するはずの相手と向き合っている、などが考えられる。これらのために、会話の進み方はどことなくぎこちなく遠慮し合っているが、反面、互いに市井の片隅で生きている名もなき市民であるために、権力関係のようなものはなく、かなり気さくな言葉づかいにもなっている。だから、ここでの沈黙は、どちらかがそれを強いているということはなく、発語の流れから自然につながっている印象である。
 さらに「話題」としては、なんといっても昨日のB男の非常識なふるまいという強烈な前提があり、彼はそれに対してある後ろめたさも抱えているので、自分からの積極的発言は控えられている。二人の間には、結婚という重大な話題に関してぎくしゃくしてしまっているという共通了解がある。それで、A子が「一昨日までより好きになってるような気がする」と発言すると、B男は意外性を感じ、「話題」が、ただの重苦しさから微かな希望の芽生えへと転換してゆく。

【例2】会議の席上。数時間の話し合いのあと、決着がつかずに膠着状態が続いている。

議長:それでは議論も出尽くしたようですし、時間の関係もありますから、これから採決に入りたいと思いますが、何か他にご意見はありませんか。
会議出席者たち:…………


 この沈黙者たちの例では、「気分」としては、長い議論が続いたのでもうこれ以上話し合っても仕方がないやという、疲れや倦怠の空気が広がっている。また、あえてこの段階で異論を出して和を乱すことに対する勇気の欠如、なども考えられる。
「関係」としては、会議であること、そこに必然的に伴う権力関係、参加メンバーの気安さの度合い、人数などが大きく関与していると言えよう。さらにこれが日本人どうしの会議であれば、空気に迎合しやすい国民性がかかわっているとも想像できる。
 また「話題」としては、仮に何が話されてきたかについての理解に関しては問題がないにしても(あるかもしれないが)、事の決定が後々重要な意味をもつので、それぞれの立場での責任の自覚が、かえって沈黙を呼び起こしているとも考えられる。この場合、それぞれの思惑はさまざまだが、議長提案に対して「無言の同意」を与えているという点では共通の「話題」了解が存在しているのである。

【例3】友人二人がコーヒー店で会話している。

A:どうしたの、顔色が悪いよ。何かあったの?
B:……
A:なんでも聞くから言ってごらん
B:……
A:黙ってちゃわからない。全然驚かないし、怒ったりしないから
B:……
A:ねえ、私はあなたの味方よ。誰にも口外しないって約束する
B:……じつは……
A:うん?……
B:……やっぱり、いい
A:水臭いわ。十年来の友達じゃないの
B:じつは……ちょっとまずいことしちゃったんだ


 この種のケースでも、沈黙者に「言語的」とも「非言語的」とも言えるようないくつもの配慮が折り重なっている。そしてこの沈黙それ自体は、一種の言語表現である。それを支える配慮とは、「まずいこと」に対する呵責感や告白しようかどうしようか迷っている「気分」である。その迷いのなかには、この相手に告白しても後々余計まずいことにならないだろうかという心配もあるだろう。そこに注目すると、その心配は、この友人「関係」そのものの信頼の深浅によって規定されていることになる。また単に抱えている問題の重さのゆえに、文字通り「気」が押しつぶされて発語する決断に達しないと考えてもよい。
 また「話題」に関しては次のようなことが言える。Aは、Bの顔色を見て、「何かある」と判断し、Bもそう見抜かれたことを感じ取ったからこそ沈黙で応え、そのあとも沈黙を続けることによって、結果的にAに問い詰める態度をとらせている。本当に何もなければ即座に「いや、べつに」と応えるだろう。それでもAは、Bが応えるその言語的、身体的な「調子」次第によって、いや、これはやっぱり何かあるなという確信を抱くかもしれない。つまり、こうした会話の展開それ自体を潜在的に支えているものの一つが、「話題(Bがこれから話そうとしている話の中身ではない)」なのである。
 それらに加えて、この出会いがどのようにして行われたのか(どこかでばったり出会った、とか、Bのほうから「ちょっと会いたいんだけど」とあらかじめ電話してきたとか)などの具体的なきっかけも、「話題」のかたちで発語や沈黙のあり方を規定する。たとえばもし後者の場合なら、Bのほうは、自分から呼びかけたのだから話さないわけにはいかないという切迫感が伴っていようし、Aのほうは、漠然と相手の悩み事を想定する構えになっている。

【例4】夫婦が婦人服売り場で会話している。

A:これ、買いたいんだけどダメかしら
B:……
A:ねえ、いいでしょう
B:……そんなに似合わないと思うけど……
A:……そうかしら
B:ちょっと高いし
A:……それもそうね
B:……
A:あなた、ホントはそっちが心配だったりして
B:……いや、そんなことは……
A:大丈夫。私が貯金から出すわ
B:それもなあ……


 この例における沈黙では、特にBの「思考」に強く条件づけられている。Bは、明らかに内言によって何か考えているのだ。そしてこの場合、この内面での思考が、二人の「気分」をしだいにはっきりしたものへと形成させている。同時に夫婦という「関係」が沈黙を支えているとも言える。というのは、もしAとBとが恋人関係で、ショッピングを楽しんでいるのだったら、たとえBが本当に「似合わない」と感じたとしても、「もう少し探してみようよ」とかなんとかはぐらかすだろうし、いいところを見せようとミエを張るだろうから、財布の心配などけっして口に出さないだろう。「似合わない」という無遠慮な言い訳ができるのも、財布の心配を口にできるのも、日常生活を深く共有していることによる一種の許しが存在するからに他ならない。それはまさに、気の置けない夫婦という「関係」が自然に醸し出す一般的な「気分」としてすでに会話以前から表出されている(漂っている)。
 また、ここでは買うか買わないかが問題になっているのだから、「話題」、つまり言語活動そのものの中身やそれに付随する互いの身体的なふるまい方などが、会話の展開を大きく規定している。

日本語を哲学する19

2015年04月07日 13時45分50秒 | 哲学
日本語を哲学する19



 言語表現や沈黙表現の直接的な条件を以上のように分類整理すると、当然次のような疑問が生ずる。
 これらの整理は、発語や沈黙の混沌たる実態の記述としては、かえって「分断」になってしまって、どれかの頂点に属するはずのものが他の頂点に属するとも考えられるような場合がいくらでもあり得るのではないか。分析それ自体が混乱を惹き起こしはしないか。
 まったく妥当な疑問である。だが、一般に分析とはそもそも何のために行われるのだろうか。それは混沌たる事態を言葉によってとりあえず整理するためなのだが、じつはその「とりあえずの整理」は、再び綜合するという目的に向かっての手段なのである。手段が有効であるか否かは、いったん分析された各エレメントが、どのように再統合されるかにかかっている。私たちは、事柄のより深い理解に達するために、この「分析-綜合」のダイナミクスをいかにうまく成し遂げるかという試みを模索する以外に、さしあたり有効な方法をもたない。

 この場合に即して簡単に解説を施しておこう。

 三者の関係は、じつは相互規定的である。第一に「気分」と「関係」とは切っても切り離せない。たとえば、ある悲しみや怒りや不満の表出が、どのような形でなされるかは、それがどういう関係において行われるかによって大いに異なってくる。部下は上司〔という関係)の前では理不尽と感じられる指令に対して黙って従おうという意志をもたざるを得ないかもしれないが、家に帰って、その不満を妻(という関係)に対した時には「愚痴」という言語表現によってぶちまけるかもしれない。また逆に、ある「気分」は、「関係」そのものを規定する。上司に対する不満が鬱積していて、あるきっかけでついに爆発すれば、彼は「辞職します」ときっぱり言明することによって、上司-部下という関係を破壊するかもしれない。
 第二に「気分」と「話題」も、分かちがたく結びついて互いが互いを規定し合う関係にある。たとえば、疲れている時に難しい本を理解しようと挑戦しても、ただ眠くなるだけである。このように、ある「気分」は「話題」を規定する。逆に、誰かがうれしい知らせをもたらしてくれたという「話題」が成立すると、それまでの鬱屈した「気分」が一気に吹き飛んでしまうかもしれない。
 そして第三に、「関係」と「話題」についても同じである。お葬式で弔辞を述べるという「関係」のモードでは、どんな言葉を選択すべきかはおのずから限定されるので、そこではすでにある「話題」了解の仕方が成立していると考えられる。まさか「生前、私はあの人をずっと軽蔑していました」とは言うまい。逆に、何やら楽しそうに会話している人々が目の前にいるという「話題」了解があるとき、そこに自分も加わりたいと思えば、それが可能かどうかをめぐってその人々と自分との「関係」がどのようなものであるかを測定・判断せずにはいられない。赤の他人ならほおっておく(沈黙を守る)だろうし、親しい友人たちなら介入して話題を共有したいと思うだろう。
 これらの場合、「関係」についての判断のほうが「話題」了解よりも先立つと考えることもできるが、具体的な実態を微細に眺めるなら、測定や判断がもっと曖昧であるために「話題」了解よりも「関係」についての判断が後になるケースの方が意外に多いことに気づく。
 たとえば呑み屋で十人くらいの人数で歓談している時、話題はしばしばひとまとまりにならずに分裂する。そしてある瞬間、ある人が孤立するというようなことがよくある。隣の数人が盛り上がっている。さて彼がそれに加わろうかと思う時、ふと切れ切れに聞こえてくる話題からして、これは自分が加わってもいい「関係」かそうでないかという判断が訪れてくる。つまり、互いによく知り合った十人で飲んでいるという大枠の「関係」スタイルはもちろん既に成立しているのだが、もっと小さな枠組みの「関係」スタイルがそこで成立していることに気づくのは、漠然たる「話題」了解を経た後のことである。
 家族関係の内側での両親と子どもの関係、タイトルに惹かれて買ってきた本を読みはじめたら、これは自分の読むような本ではないと感じたとき(いうまでもなく、読むことは対話することである)、などにおいても、同様に、「話題」了解のほうが「関係」判断に先立っているのである。前者の場合には、親の会話に割って入ろうと思った子どもが、話されている言葉群やその調子の漠然たる察知に基づいて、大人と子どもとの断絶(という関係)をそのとき意識するのだし、また後者の場合には、タイトルから想像される「話題」のイメージがまずあり、それにもとづいて中身に入り込むことによって、著者と読者との「関係」の断絶を経験するのである。
 以上のように、三者は互いに絡み合いつつ総合的にはたらくことによって、私たちの発語や沈黙のあり方を規定する。
 なおまた、次のことも付言しておく必要がある。図の正四面体頂上の「沈黙」あるいは「発語」は、ただ周囲の「条件」によって受動的に規定されるのみではなく、ある沈黙や発語が、「条件」そのものを能動的に変容させてゆくという逆の側面も見逃してはならない。要するに、底面の三角形の各頂点と頂上の言語活動それ自体との関係にも、相互規定的なダイナミクスがあると考えておくことが大切である。