小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家・日本編シリーズその4の②

2016年12月22日 13時57分35秒 | 思想

      



親鸞②

 ここで、いささか余談めきますが、親鸞の妻帯について指摘しておくべきことがあります。
これも法然の項で当然の事実のように触れたのですが、そのいきさつは、佐々木正氏の『親鸞・封印された三つの真実』(洋泉社)という本に詳しく説かれています。
 まず親鸞の伝記についてですが、明治後期からの実証主義偏重史観によって、覚如(親鸞の曾孫)作の『親鸞伝絵』と、大正十年に発見された親鸞の妻(じつは後妻)・恵信尼が娘に宛てた『恵信尼消息』だけが決定的証拠と見なされてしまいました。
 しかし佐々木氏によると、それ以前は真宗高田派による『親鸞聖人正明伝』の記述がそのまま受け入れられていました。しかもこちらの方があらゆる面において親鸞の生涯を生き生きと伝えており、しかも『伝絵』では意図的に抹消されている親鸞の結婚の事情が『正明伝』には詳しく書かれているというのです。
『正明伝』によれば、親鸞はじつは二度結婚しており、最初の妻は権勢をふるった関白・九条兼実の娘・玉日姫でした。ちなみに山形大教授・松尾剛次氏も、仏光寺派の説話『親鸞聖人御因縁』等により、親鸞と玉日姫の結婚説を肯定しています。さらに『恵信尼消息』発見のわずか五年前に書かれた『出家とその弟子』にも玉日姫が親鸞の妻として出てきます。
 これはまことにありうべきことと思われます。親鸞二十九歳、六角堂への百日参籠の折、救世観音から受けた「女犯偈」の夢告によって妻帯を許された話は有名ですが、それ以前に親鸞は比叡山を降りて吉水の法然のもとに帰依しています(『恵信尼消息』では順序が逆)。ですから法然は、当然「女犯偈」の夢告について親鸞から聞いていたでしょう。
 私はこれらの説を正しいものとして、以下、論を進めます。

 さて兼実は失脚して後、法然に深く帰依し、凡夫こそ救われるという彼の説に強い探究心を示します。そこで、僧に妻帯が許されるというあなたの持論が本当なら、私の娘をあなたの弟子と結婚させてみてくれと、法然を一種の試練にかけます。法然はこれを承諾し、ただちに愛弟子の親鸞に白羽の矢を立てました。親鸞は、たとえ尊敬する師の命令とあってもそれはできないと拒否するのですが、そこで法然から「女犯偈」の話を持ち出され、悩んだ挙句これを受け入れるのです。
 当時、僧侶の妻帯はじつは公然の秘密でした。また遊女との関係も盛んだったに違いありません。親鸞の悩みは、単に不婬戒を破る罪を犯してもよいのかという倫理的な点にあったのではなく、位の高い貴族や高僧の並み居る「世間」を前にして、しかも最高位の貴族の娘と公式的に婚姻するなどということが許されるのかという点にあったと思われます。近現代人が想像するような、性に対する禁欲と恋愛感情との葛藤に悩んだというようなことではないのです。ですから、「女犯偈」は恵信尼との恋愛が成就したなどという話には結びつきません。
 たとえば五木寛之氏の大作『親鸞』は、こうした事情を無視しており、親鸞が不婬戒を破らなくてはならないところに追い込まれた時の苦悩を恵信尼との恋愛関係にそのまま結びつけています。おそらく『正明伝』の存在を知らなかったか、知っていてもあえてそれを斥け、それまでの定説を基礎に物語を仕立てたのと、ストーリーテラーとしての強いサービス精神とがそうさせたのでしょう。
 現代読者を相手とするエンタテイメントとしてはそれで一向にかまいません。しかし指摘しておきたいのは、親鸞の妻帯に絡む苦悩を、個別の男女の単なる恋愛の問題としてとらえることは、単に近代人のロマンをそこに投影する試みであり、その分だけ時代に対する想像力を欠いたものに他ならないということです。

 さて玉日姫との間には、長子・範意が生まれます。これは貴族・日野家(親鸞は日野家の系統)の系図に「母、兼実の女」とちゃんと書かれています。結婚から六年後、建永の法難によって法然は土佐(じつは讃岐)、親鸞は越後へ流罪と決まります。この後の親鸞の足跡については定説がないので自由に想像をめぐらせてみます。
 法難を契機に玉日姫とは離縁することになった。あるいは玉日姫は第二子の出産の際、産後の肥立ちが悪く死んでしまった。また再婚相手の恵信尼は、玉日姫に仕える女房であった可能性が高い。親鸞と恵信尼はその関係でつながりができた。恵信尼の故郷が越後だったという説も有力なので、付き添う女の出身地を流罪先として選ぶ配慮が上部ではたらいたと考えれば自然です。
 私の想像は飛躍します。
 東国での布教から帰京して何年もたったころ、親鸞のいないのをいいことに、関東に派遣された息子の善鸞が勝手な振る舞いに走ります。悪人正機説を歪曲して「悪いことをすればするほど救われる」という、いわゆる「造悪論」を流行らせるのですね。その折、善鸞は、恵信尼はじつは継母で自分は貴種の出なのだという説を主張し、自らの権威づけに利用します。
 東国の忠実な弟子からこの情報を受け取った親鸞は激怒して善鸞を義絶します。親鸞激怒の理由はいろいろ考えられます。真相を突かれてうろたえた、当時男子は身ごもりや出産・育児にはかかわらなかったので真相を知らなかった、など。しかし、この善鸞の主張は、あながち嘘八百とも思えません。というのは、善鸞は、範意と同一人物だった、または玉日姫との間の第二子だったという説もあるからです。前者なら法難に遭ってから親鸞と恵信尼が結婚した時、五歳くらいにはなっていたはずで、記憶が残っていた。こう考えると、話が妙に符合するのですね。

 益体もないことを書き連ねましたが、親鸞という人が、人間としてそれほど特異な個性ある人ではなく、ごく几帳面でまじめな日本人だったと言いたかったからです。
 もちろん卓越した資質と燃えるような向学心、教えに対する敬虔で一途な心根、そして情熱的な布教精神の持ち主であったことは確かでしょう。しかし伝えられる行跡から浮かび上がってくるのは、貴族社会から武家社会に移っていく時代の激流に不可避的に流されて生きたひとりのまっすぐな「凡夫」の姿です。だからこそ、東国から弟子たちが上洛した時も、「念仏を信じること以外にさして申し上げることはない」と何のてらいもなく答えたのでしょう(『歎異抄』二節)。
 また反抗息子には世の親と同じように怒りをあらわにしたところにも、その愚直なまでに忠実に教えを守る性格がよく表れているのではないでしょうか。じっさい善鸞に対する親鸞の怒りは尋常でなく、書簡の中で教えを曲げることは五逆の罪に値し、父殺しに等しいとまで言っています(「古写書簡」第三書簡ほか)。
 思想家の故吉本隆明氏は、親鸞関係の書物で、親鸞その人に「造悪論」を許すだけの根があったと頑なに主張していますが、書簡の文面にまったく合わない強引な説です。
 親鸞をことさら偉大な存在として神格扱いせず、その等身大の姿をよく見つめることこそ、彼自身の本意に叶うように思えるのです。


誤解された思想家・日本編シリーズその4の①

2016年12月20日 14時31分15秒 | 思想
      




親鸞(1173~1262)①

 親鸞については、すでにこのシリーズの一回目で法然を扱った際、親鸞人気の絶大さに比べて、彼の直接の師である法然の、思想家としての真価が正当な評価を受けていないと述べて、両者の比較検討を行いました。
そうして私個人としては、その宗教革命家としての偉大さにおいて、法然は親鸞に優るという結論に達しました。

 よく知られているように、親鸞の弟子・唯円は、親鸞の没後三十年ほどを経て、師の言葉を思い出しながら『歎異抄』という書物を著しました。この書の中に、師である親鸞の、人をハッとさせる逆説的な言葉がいくつも登場しています。
 近現代の大方の読者は、難しい教典や経典の注釈書(たとえば法然の『選択本願念仏集』や親鸞の『教行信証』)を通して彼らの思想を読み取るより、『歎異抄』に出てくるアフォリズムのような逆説的な言葉に魅せられて親鸞ファンになったのでしょう。かくいう私も例外ではありませんでした。
 私が最も印象づけられた親鸞の言葉は、『歎異抄』十三節の「わが心のよくて殺さぬにはあらず」でした。世の中のすべては「業縁」によるのであって、人を殺さないでいられるのも自分が善意志を持っているからではない、どんなに善意志を持っていても、ある「業縁」(現代なら「状況」というべきでしょう)に置かれれば千人でも万人でも殺してしまうことがある……。
 この思想は、人が道徳的であるためには何が必要かという倫理学的な問いそのものを相対化しています。個人の自由意志で「善」が実現できるわけではない。その意味で、たとえばカントの個人主義的な道徳論の枠組みなどに見られる近代人のさかしらをはるかに超えた深みを湛えている――私はそう感じて、永らく座右の銘としてきたのです。
 現在でも、親鸞の残した言葉のなかで、少なくともこの一句だけは名言中の名言と思っています。もちろん彼はこの言葉を阿弥陀仏への絶対的な帰依という宗教的な文脈の中で用いているので、その他力信仰をそのまま近代人の意識に適用することには無理が伴います。そこには中世という時代がもたらした一種の仏教的ペシミズムが濃厚に漂っています。ですから、近代がもたらした紛れもない光明――平和でさえあれば普通の人が簡単には死ななくなったこと――を経験した地点から見れば、苛酷な現実に対する諦念をただ合理化する説教と見えるかもしれません。しかし他方では、近代社会は複雑で巨大な暴力的システムと化しており、個人の無力や不安や煩悩を実感させる場面にも事欠きません。そのことに思い至るとき、親鸞のこの言葉が俄然現実味を帯びてきます。現代人の心の奥底でもこの言葉は鳴り響いており、その力はけっして衰えてはいないのです。

 けれども『歎異抄』成立のいきさつや、ここに書かれた親鸞自身の言葉とされるもの、また『歎異抄』全体の構成などによく目を配りますと、それらの言葉だけをよすがとして親鸞の思想に傾倒する前に、いくつかの留保をつけなくてはなりません。
 第一に、唯円のこの書は、老い先の短くなった(と自ら記しています)自分が、念仏宗徒たちの間に異説がはびこっている状態を憂え、将来を案じて三十年前の記憶を懸命に掘り起こし、親鸞上人の「お言葉」によってもう一度自ら信ずるところを権威づけようとしたものです。これは親鸞の書ではなく、何よりも老唯円の書なのです。
 老いぼれているから記憶が正確ではないなどと言いたいのではありません。そうではなく、登場する親鸞の言葉が唯円自身の切実な動機に大きく囲繞されている点を見逃してはならないと言いたいのです。そういう彼の一種の強烈な編集意図に思い及ばずに、ただ親鸞の言葉の断片だけを抽出してありがたがると、九十年も生きた親鸞の人となりが浮かび上がらず、彼の思想はただこれだけのアフォリズム的表現に凝縮されているという思い違いをしてしまいます。またここに盛られた唯円独特の思想をも読み落とすことになりかねません。
 事実この作品で、親鸞自身の「お言葉」が直接紹介されている部分は、全体の四分の一に及ばず、唯円の語りの中に出てくる親鸞の言葉を全てこれに加えても、全体の36%にすぎません。いま唯円の思想がどんな性格のものであるかについては割愛しますが、ご関心のある方は拙訳『歎異抄』(PHP研究所)の解説部分をお読みください。ともあれ、この一事をもってしても、『歎異抄』一篇の中に親鸞の思想や人間性をすべて読み取ったと考えることがいかに片手落ちであるかがわかるでしょう。

 留保の第二点目。
 その鋭いアフォリズム的表現のいくつかですが、これらの中には、前後の文脈との関係で読むと、自分の尺度や好みに合わせた近現代人の解釈が必ずしも適切ではないことに気づきます。宗教的言語以外に知の言葉を持たなかった当時の社会背景の下ではごく当然のことを言っているにすぎないものがけっこう多いのです。具体例を挙げましょう。

①「とても地獄は一定すみかぞかし」【二節】。
 この前後には、自分は師である法然の言葉を正しいと固く信じているので、たとえ法然上人の専修念仏の教えを信じたために地獄に落ちたとしても騙されたとは思わないし、後悔もしないと書かれています。
 つまりこれは、ごく単純に念仏信仰の揺るぎなさを強調した言葉であって、自分の罪深さの自覚や末法の世のありさまを表現したものではありません。デスペレートなニュアンスは少しもないのです。

②「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」【五節】。
 これは一見、個人主義的な信仰心を述べているようですがまったく違います。生きとし生けるものはみな生死を離れられず互いに父母兄弟となってきたのであって、往生して仏になってこそ、まだ仏になりきらない人を救うことができる。だからこの世にある間に父母を救おうと念仏を唱えても、それは自力のはからいにすぎず、他力浄土門の教えからすれば不可能なことなのだという理法を語っているのです。
 この言葉は、まだ世俗との妥協に至っていない新しい宗派というものがもつ一種の普遍的性格を物語っています。そもそもどんな宗教も、その勃興期には世俗道徳や惰性化した社会慣習に叛逆する要素を不可欠としています。仏教の場合には、眷属の絆をまずいったんは断ち切って、同じ教えのもとに結ばれた師弟関係を何よりも尊重します。
 釈迦も王族の身分を捨てることによって初めて自分の信念を貫き、その教えを広めることができました。法然に始まる念仏宗も、親鸞が生きた時代にはまだ新興宗教でした。ですから親鸞のこの言葉は、堕落した日本仏教界を見直して、もう一度釈迦の教えの本源に帰れという一つのメッセージの意味を持つのです。

③「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」【六節】
 これは、人はそれぞれだから各人信ずるがままに行くがよいと言っているように聞こえますが、前後を読むと、弟子の取り合いをするような争い事を、専修念仏の教えに背くものとしてきつく戒めていることがわかります。つまり弥陀のはからいによってこそ念仏を唱えることができるので、自分の弟子として囲い込んで念仏行を指導するなどという態度こそは、自力を恃んだ傲慢だというわけですね。これも他力の教えに忠実な言葉と言えます。

④「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」【後序】
 これも信仰は一人ひとりの心の中にあるものという個人主義的な態度の表明のように見えます。しかしそうではなく、自分を含めた誰もが煩悩具足の凡夫であって、阿弥陀様はそういう人にこそ目をかけてくれるのだという第十八願の真実を象徴的に語っているのです。つまり自分自身を前世からの業がかくも深い凡夫の一人であると見立てて、その自覚を告白したものだと解釈できます。

 以上を要するに、これらの言葉は何か新しい「思想」を開示したものではなく、むしろ他力浄土門の教えを、親鸞一流の端的な表現でそのまま踏襲したものなのです。その意味で法然のそれを一歩も出るものではありません。親鸞自身が甦ったら必ずそのとおりと言うでしょう。

 留保の第三点目。
『歎異抄』の中で「悪人正機説」として最も有名な「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」【三節】という逆説表現ですが、法然を論じた時に言及したように、これは親鸞の独創ではありません。くどいようですが、ここでもう一度、法然の『一期物語』から引きましょう。

≪われ浄土宗を立つる意趣は、凡夫の往生を示さんがためなり。……善人なお生る。いわんや悪人をや。……この宗は悪人を手本となし、善人まで摂するなり。≫

 悪人(=煩悩を抱えているために積善をまっとうしえない人、凡夫)がまず手本(弥陀の救済の第一の対象)であって、そのうえで善人も摂取してくれる――この鮮やかな思想的転回は、すでに法然が完全に成し遂げているのです。
 悪人正機説を親鸞の独創と誤解している人は、次の二つの歴史的経緯に無意識に影響されているのです。
 一つは「浄土真宗」中興の祖である蓮如によって、親鸞の開祖としての盛名が定着したこと。同時代から室町時代にかけて、親鸞の名はほとんどまったく知られていませんでした。
 二つ目は、大正五年に発表された倉田百三の『出家とその弟子』が大ヒットしたために、それ以降、短くて読みやすい『歎異抄』への関心が一気に高まったこと。
 ここには歴史の皮肉ともいうべき事態とともに、「宗教」ではなく「思想」好きの近代人の、片思い的な深読みの現象が見られます。
 こう言ったからといって、私は親鸞を貶めようという意図を持っているわけではまったくありません。ただ、文献とそれが生まれた歴史的背景とを誠実にたどる限り、法然をさしおいて親鸞だけを特別の宗教改革者(革命的思想家)とみなす理由は何もないということを強調したいだけです。

 人間的魅力としてはどうか、という問いが持ち上がるでしょう。親鸞はたしかに法然と違って公然と肉食妻帯に踏み切りました。ところがじつは後述のように、彼は妻帯に主体的に踏み切ったのではないのです。
 また越後流罪以降、東国で精力的に布教につとめたという、法然にはない行跡があります。つまり実践的宗教改革者としての側面ですね。東国は荒々しい「もののふ」たちが跋扈し、賎しい身分の者たちがその日その日を暮らす社会です。そうした地域でこそ、「非僧非俗」に自ら身をやつした親鸞の本領が発揮されたに違いない――この見立ては、おそらく正しいでしょう。
『歎異抄』にも、親鸞の言葉として、漁師や猟師や商人や農民など、みな同じで、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」【十三節】というくだりが出てきます。これは殺生戒の空しさを突いた言葉ですが、いかにも庶民の中に入って生きたのでなければ出てこない具体性が感じられます。
 そこがほとんど貴族や高僧たちの取り巻く「世間」の中で一生を過ごした法然との違いといえばいえます。しかし法然の説法を聴きに集まった人々には多くの一般庶民が含まれていましたし、晩年の土佐流罪(じつは讃岐)の際には、じかに民衆に念仏宗を説いてもいます。(つづく)

老人運転は危険か――高齢者ドライバーの事故激増のウソを暴く(その2)

2016年12月13日 00時38分09秒 | 社会評論
      






:まずこういう資料が出てくる。内閣府のデータ(*注3)だが、交通事故の「死者数」はここ13年間減少の一途で、平成25年では4373人、うち65歳以上の死者は2303人で、やはり減少気味だが、他の世代のほうの減少カーブのほうが圧倒的に急なので、交通事故死者全体の中で占める割合としては増加していることになる。でもこれは被害者のほうだからね。歩いている老人がはねられるというケースが多いんだろう。このことは別の資料(*注4)に当たってみると確かめられる。歩行中が1050人くらいで、約半数。自動車乗車中は600人から700人の間を推移していて横ばいだ。「乗車中」ということだから「運転中」はもっと少ないことになるよね。いずれにしても、「高齢者は交通事故に遭いやすい」ことは当然で、それは高齢者ドライバーが他人を殺める割合が高いかどうかとは直接の関係がない。でも世間では「高齢者は危ない」というイメージを抱いていて、そのことと、「高齢者ドライバーは事故を起こしやすい」という先入観とを混同しているんじゃないかな。だから報道の関心がそちらのほうに集中して、そういう事件を好んで取り上げるようになる。どうもそう思えるんだけどね。
:先入観か事実かどうか、まさにそこを調べるわけだろ。
:その通り。その前に、君が初めに挙げた五つの事故の死亡者は、全部合わせると6人になる。約一か月間の間に6人という数字は年間に換算すると72人。亡くなった方には不謹慎な言い方になって申し訳ないが、この数字は、現在の年間交通事故死者総数約4300人という数字に比べて多いと言えるだろうか。割合にするとわずか1.7%にしかならないよ。
:だけど、報道されてないのもあるかもしれないぞ。
:それはまずないだろう。いま言ったように、マスメディアはニュースヴァリューのある事件が一つでもあれば、一定期間、連鎖反応的にそれっとばかりそういう事件ばかり集中的に探し当てる。これまでいつもそうだったじゃないか。
:ふむ。まあそれは認めるとしよう。だけど、老人の免許保有者が実際にどれくらい運転しているかはわからない。身分証明書代わりに更新している割合が多いんじゃないか。
:それは確かにそうだな。しかしより若い世代だってペーパードライバーはけっこういるからな。その世代差がどれくらいかは、よほど精密な意識調査でもやらない限り割り出せないだろう。だから一応、免許保有者は実際に運転をしているという仮定のもとに考えていくしかない。で、いまのところ、我々が得ている資料から、もう少し厳密に計算してみよう。同じ年の警察庁の資料によると(*注5)、運転免許保有者の総数は約8200万人。高齢ドライバーは年々増えていて、80歳以上は平成25年時点でなんと165万人を超えている。そこで、全体と80歳以上とで、死亡事故を起こしたドライバーの割合を比較してみるよ。さっき言った通り、80歳以上で死亡事故を起こしたドライバーを年間72人と仮定する。交通事故死亡者総数は4300万人台。そうすると、次の計算式が成り立つだろう。

 交通事故死亡者の、免許保有者総数に対する割合
  4300÷8200万×100≒0.0052(%)
 80歳以上の人が起こした事故での死亡者の、免許保有者数に対する割合
  72÷165万×100≒0.0044(%)。

どうかね。80歳以上のドライバーが他の世代に比べて死亡事故を起こす割合が高いわけではないことがわかるだろう。
:うーむ。仮定が入っているからそんなに厳密とは言えないな。それに死亡事故だけでは、不十分じゃないか。負傷者がたくさんいるかもしれないからな。もう少しびしっと結論づけられる資料はないのかね。
:君もなかなかしぶといな。まあいい。じゃあ、もう少し探してみよう。……あった、あった。これも同じ平成25年のものだけど、ちょっと決定的だぞ(*注6)。ていねいに読んでみてくれ。(一部語句、改行など変更)

 平成24年の65歳以上のドライバーの交通事故件数は、10万2997件。10年前の平成14年は8万3058件だから、比較すれば約1.2倍に増えている。これだけを見れば確かに「高齢者の事故は増えている」と思ってしまうだろう。しかし、65歳以上の免許保有者は平成14年に826万人だったのが、平成24年には1421万人と約1.7倍となっている。高齢者ドライバーの増加率ほど事故の件数は増えていないのだ。
 また、免許保有者のうち65歳以上の高齢者が占める割合は17%。しかし、全体の事故件数に占める高齢者ドライバーの割合は16%で、20代の21%(保有者割合は14%)、30代の19%(同20%)に比べても低いことがわかる。
 年齢層ごとの事故発生率でも比較してみよう。平成24年の統計によれば、16~24歳の事故率は1.54%であるのに対し、65歳以上は0.72%。若者より高齢者のほうが事故を起こす割合ははるかに低い。この数値は30代、40代、50代と比較して突出して高いわけでもない。
 また、事故の“種類”も重要だ。年齢別免許保有者10万人当たりの死亡事故件数を見ると、16~24歳が最も高く(8.52人)、65歳以上はそれより低い件数(6.31人)となっている。


:うーむ……。
:つまり、これから推定できることは、認知症の人は別として、高齢者は概して自分の心身の衰えをよく自覚していて、また経験も豊富なので、慎重な運転を心がけているということになる。だから、マスメディアの流すイメージを鵜呑みにして、「高齢者の免許証を取り上げろ!」などと乱暴なことを言う人が多いけど、それはナンセンスだな。俺のドライバー歴は約30年だけど、俺も若い頃のほうが事故を起こしていたよ。ここのところけっこう車を使っているが、10年ばかり無事故だ。でもたしかに自信過剰は禁物だね。また一口に高齢者といっても、65歳と75歳と85歳とでは衰え具合が全然違うだろう。そのへんのきめ細かな分析視点も大事だと思うよ。
:うーむ。マスメディアの流す情報に踊らされてはダメだということだな。俺も免許証返上や規制強化論については、少し考え直すことにしようか。

 *注1:小浜逸郎『デタラメが世界を動かしている』(PHP研究所)
 *注2:http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo
 *注3:http://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h26kou_haku/gaiyo/genkyo/h1b1s1.html
 *注4:http://www.garbagenews.net/archives/2047698.html
 *注5:https://www.npa.go.jp/toukei/menkyo/pdf/h25_main.pdf
 *注6:">http://www.news-postseven.com/archives/20131010_215628.html


老人運転は危険か――高齢者ドライバーの事故激増のウソを暴く(その1)

2016年12月10日 23時28分35秒 | 社会評論
      





:久しぶり。この前会った時よりだいぶ老けたな。
:何しろもうすぐ古希だからな。そういうおぬしも人のことは言えんぞ。
:そりゃそうだ。ところで君はまだ運転やってるのか。
:何だやぶからぼうに。やってるよ。仕事で必要だしドライブは好きだからな。
:いや、最近、ほら高齢者ドライバーが起こす事故が連続して起きているだろう。ここに新聞を持って来たんだが、11月12日、立川市で乗用車が歩道に乗り上げ2人死亡。10日には栃木県で乗用車がバス停に突っ込み3人死傷。10月28日には横浜市で軽トラックが小学生の列に突っ込み7人死傷。13日にも小金井市と千葉県で交通死亡事故。運転していたのはいずれも80歳以上の高齢者とある。こう続くと俺も運転するのが怖くなってくる。
:たしかに年を取ると、自分ではちゃんとしているつもりでも判断能力や運動神経がどんどん鈍ってくるからな。俺も気をつけるようにしてはいるけどね。
:しかしこの横浜の事件では、認知症の疑いがあったそうだ。認知症だったら「気をつける」なんて次元の問題じゃないだろう。
:その人はいくつだったの。
:87歳。
:87歳かあ。そんなに高齢じゃ、認知症を疑われるのも無理はないな。家族がちゃんと監視して運転をやめさせるべきだな。
:いや、一人住まいだったのかもしれない。孤独な老人が増えてるからな。それに、認知症でなければいいのかというとそうも言いきれないだろう。あと数年で俺たち団塊も75歳だぞ。こういう事件がどんどん増えるんじゃないか。
:でも地方の過疎地域なんかでは車がないと買い物にも医者にも行けない人が多いんだろう。簡単に免許返納というわけにもいかんじゃないか。
:自動運転車の早期実用化や地域の協力体制が求められるな。でもそれを待っている間にも事故は起きるだろうしな。だからどうしても規制強化が必要だと思う。
:今の道交法では、高齢者の免許に対する規制はどうなっているんだっけ。
:75歳以上の免許更新時に認知機能検査をやって、「認知症の恐れがある」とされても、交通違反がなければ免許の取り消しとはならないんだそうだ。これははなはだ不十分だな。で、一応2017年3月の改正道交法では、「恐れがある」場合には医師の診断が義務づけられて、認知症と診断されると免停か取り消しになることになってる。俺はこれでも甘いと思うよ。さっき言ったように、認知症でなくたって危ないからな。
:そうすると、君の考えでは、免許返納を制度面で強化することと……。
:うん。高齢者の自覚を促すキャンペーンをさかんにして、家族もこれに協力して自主的な免許返納のインセンティブを高める必要があると思う。俺ももうそろそろ免許証を返上しようかと思ってるよ。君も考えたほうがよさそうだぞ。自信過剰は最大の敵だ。
:なるほど。我々は都会に住んでるから、車がなくてもなんとかやって行けるしな。でも俺の場合は今のところどうしても必要だから、できるだけ慎重な運転を心がけて、もうちょっと続けることにするよ。ところでこれはけっして自信過剰で言っているんじゃなくて、免許返納制度の強化というのにはちょっと異論があるな。
:どうして? 免許を更新するときにもっと厳しいテストを課せばいいじゃないか。
:それは口で言うのは簡単だけど、膨大な免許保有者に対していちいち時間のかかる厳しいテストを課すことが今の警察の限られた交通安全対策施設や人員で可能だろうか。
:それは、ITをフルに活かした最新鋭の診断システムを導入するとか、早急に増員を考えるとかすればいいだろう。
:それだって相当時間がかかるぞ。君がさっき言っていたとおり、そういうシステムが整うのを待っている間にも事故は起こるだろう。しかも一律規制を厳しくして、テストに引っかかった過疎地の人はどうするのかね。
:……。
:じつは俺の異論というのは、今話したような問題点だけじゃなくて、もっと根本的な疑問にかかわっているんだ。昔と違って今の時代は、ふつう想像している以上に元気な高齢者がわんさかいる。また最近は車の性能がすごく進化しているから、歩いたり走ったりするのが困難な人でも精神さえしっかりしていればむしろ運転のほうが容易な場合が多い。そういう人たちの意志や行動の自由を拘束するのはあまりよくないと思う。身体障害者に対しては、条件さえ整えば健常者と同等に免許が取れるように制度が整備されてきたよね。精神はたしかだけど体にガタが来ている高齢者って、一種の身体障害者だと思うんだ。そうすると単に高齢者だからという理由で規制を厳しくするのは矛盾してないか。
:そうはいっても、その意志や行動の自由が、生命を奪うことになりかねないんだぜ。これは「個人の自由」を尊重するか、「生命の大切さ」を尊重するかという問題で、俺は無条件に「生命の大切さ」を選ぶね。だって、当の高齢者ドライバー自身の命もかかってるんだし、たとえドライバーが命も失わず怪我を負わないにしても、人を殺めてしまったら、加害者やその家族のほうも計り知れない有形無形の苦痛を背負うだろう。
:まてまて。いま君の議論を聞いていて気づいたんだが、「個人の自由」か「生命の大切さ」かというような抽象的な二項選択問題に持っていく前に、もっと冷静に考えておくべきことがある。いままで俺たちは、高齢者ドライバーの引き起こす事故が増えていることを前提に議論してきたよな。でもそれって本当なのかね。
:だって、現にこんな短期間に80歳以上のドライバーが次々に事故を起こしている事実が報道されているじゃないか。まさか君はそれを認めないわけじゃないだろう。
:個々の事故報道を疑っているわけじゃないよ。だけど、「超高齢社会・日本」というイメージが我々ほとんどの日本人の中に刷り込まれていて、それに絡んだ問題点を無意識のうちに拡大してとらえてしまう傾向が、もしかしたらありゃしないだろうか。昔からよく言うよな、「ニュースは作られる」って。これはニュースの発信者と受信者が同じ空気を醸成していて、いわばその意味では、両者は共犯者なわけだ。発信者は「87歳の高齢者ドライバーによる死亡事故がありました」と報道する。聞く方も、「えっ、それはたいへんだ。そんな高齢者に運転させるのは間違いだ」と即座に感情的に反応してしまう。そこから「規制をもっと強化しろ」という結論までは簡単な一歩だ。
:しかしごく自然に考えて、年を取れば取るほど生理的に衰えてくるから、運転の危険度も増すことは否定できないだろう。君だってそれは認めていたじゃないか。
:もちろん認めたよ。でもそれを認めることと、高齢者への運転規制を強化しろという結論を認める事との間には、まだ考える余地があると言っているんだ。俺が何でこんなことにこだわるかというと、俺たちはマスメディアの流すウソ情報にさんざん騙されてきたからだ。たとえば旧帝国軍隊は韓国女性を「従軍慰安婦」として強制連行しただとか、三十万人に上る「南京大虐殺」があっただとか、アメリカは自由・平等・民主主義という「普遍的価値」のために戦ってきただとか、ヨーロッパを一つにするEUの理想は素晴らしいだとか、自由貿易を促進するTPPは参加国の経済を飛躍的に発展させるだとか、「国の借金」が国民一人当たり八百万円だから、財政を健全化させるために消費増税はやむを得ないだとか、トランプ候補はとんでもない差別主義者で暴言王だとか……。だけどこれらはよく調べてみると全部デタラメだということがいまでははっきりしている。
:わかった、わかった。そう興奮するな。それが君の持論だということは俺も君の本(*注1)やブログ(*注2)を読んだから認めるよ。だけど高齢者ドライバーがもたらす危険性については、事実が証明しているんじゃないか。少し疑り深くなりすぎてやしないか。
:そうかもしれない。じゃ、ちょうどパソコンの前に座っているから、果たして高齢者ドライバーが起こす事故が、他の世代に比べて多いかどうか調べてみようじゃないか。
:もとより異存はないよ。(以下次号)


日弁連「死刑廃止宣言」の横暴――死刑存廃論議を根底から考える(その2)

2016年12月04日 17時53分43秒 | 社会評論
      





 では死刑の意義とは何か。
 普通言われるのは、国家が被害者に代わって加害者を罰して罪を償わせることという考え方です。しかしこれは完全な間違いとまでは言いませんが、不適切な捉え方です。死刑は国家による復讐の代行ではありません
 そもそも国家は共同体全体の秩序と国民の安寧を維持することをその使命とします。犯罪はこの秩序と安寧の毀損です。たとえ個別の小さな事件でも全体が毀損されたという象徴的な意味を持ちます。だからこそその回復のために国家が登場するのです。
 この秩序と安寧を維持する意志を仮に「正義」と呼ぶとすれば、死刑は、国家が、極刑という「正義」の執行によらなければかくかくのひどい毀損に対しては秩序と安寧が修復できないと判断したところに成り立ちます
 その場合、被害者およびその遺族という私的な人格の被害感情、悲しみ、憤りなどの問題は、この国家正義を執行するための最も重要な「素材」の一つにほかなりません。だからこそこれらの私的な感情的負荷が、ときには国家の判断に対して満たされないという事態(たとえば一人殺しただけでは死刑にならないなど)も起こりうるのです。
 もちろんその場合には私人は、法が許す限りで国家の判断を不当として変更を迫ることができます。そのことによって、国家正義のあり方自体が少しずつ動くことはあり得ますが、近代法治国家の大原則が揺らぐことはありません。
 つまり死刑とは、国家が自らの存続のために行なう公共精神の表現の一形態なのです。繰り返しますが、国家は被害者の感情を慰撫するため、復讐心を満足させるために死刑を行うのではない。むしろ逆に復讐の連鎖を抑止するためにこそ行うのです。極刑によってこのどうにもならない私的な絡まりの物語を一気に終わらせようとするわけです。そこにまさに近代精神(理性)の要があります。

 ところで筆者は、この公共精神の表現の一形態たる「死刑」という刑罰が存置されることを肯定します。なぜなら、人間はどんな冷酷なこと、残虐なことも、大きな規模でなしうる動物だからです。これだけのひどい秩序と安寧の毀損は、死をもって贖うしかないという理性的な判断の余地を葬ってはなりません。
 抽象的な「人権」、絶対的な「生命尊重」の感覚のみに寄りかかった現代ヨーロッパ社会(および国連)の法意識はけっして「進んでいる」のではなく、むしろ近代精神を衰弱させているというべきです。日弁連幹部の廃止論はこの衰弱した近代精神にもっぱら依存しています。
 さて日弁連の先の「宣言」では、明確な死刑廃止宣言をしていながら、それに代わる刑として「仮釈放のない終身刑を検討する」としており、その場合でも、社会復帰の可能性をなくさないために仮釈放の余地も残すべきだとしています。
 そうすると廃止をした後に「検討する」わけですから、死刑に代えるに終身刑をもってするのではなく、終身刑の規定すら採用されない可能性が大いにあります。もし終身刑の規定が採用されなければ、最高刑は「仮釈放のある無期懲役」ということになります。また終身刑でも「仮釈放の余地も残す」のでは、極刑の概念を完全に抹消することになります。
 筆者は到底これを受け入れるわけにはいきません。なぜなら、人間は神と悪魔の間の膨大な幅を生きるのであってみれば、極刑の概念を残しておくべきであるし、また懲罰の選択肢は多ければ多いほど良いからです。
 たとえばこれは筆者の個人的なアイデアにすぎませんが、死刑、仮釈放のない終身刑、仮釈放の余地を残した終身刑、無期懲役、有期最高刑懲役五十年(現行三十年)等々――刑法を、複雑多様化した現代、寿命の延びた現代に合わせて改革するなら、こういう方向で模索すべきでしょう。
 もちろん、極刑を課さなくても済むような社会づくりに向かってみんなが努力すべきであることは言うを俟ちませんが。


日弁連「死刑廃止宣言」の横暴――死刑存廃論議を根底から考える(その1)

2016年12月01日 16時20分14秒 | 社会評論
      




以下の記事は、月刊誌『正論』2017年1月号に掲載された拙稿に若干の訂正を施したものです。

 去る二〇一六年十月七日、日弁連が福井市で人権擁護大会を開き、「二〇二〇年までに死刑制度の廃止を目指す」とする宣言案を賛成多数で採択しました。採決は大会に出席した弁護士で行われ、賛成五四六、反対九六、棄権一四四という結果でした。当日は犯罪被害者を支援する弁護士たちの反対論が渦巻き、採決が一時間も延長されたそうです。
 また同月九日、朝日新聞がこの日弁連の宣言を「大きな一歩を踏み出した」と全面評価する社説を載せ、これに対して同月十九日、「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」が「誤った知識と偏った正義感にもとづく一方的な主張」として、公開質問状を送付しました。同フォーラムは二週間以内の回答を求めており、回答も公開するとしています(以上、産経新聞記事より)。
 まず日弁連について。
 この団体は強制加入であり、全国に加盟弁護士は三七〇〇〇人超いますが、今大会に集まったのは七八六人(わずか2%。賛成者だけだとわずか1.4%)です。しかも委任状による議決権の代理行使は認められていません。こういうシステムで死刑廃止のような重要な宣言を採択してよいのでしょうか。団体の常識を疑います。
 次に朝日新聞の社説について。
 これはフォーラムの公開質問状が批判しているとおり、「死刑廃止ありきとの前提で書かれている」ひどいものです。論理がまったく通っていない箇所を引用します。

《宣言は個々の弁護士の思想や行動をしばるものではない。存続を訴える活動は当然あっていい。
 そのうえで望みたいのは、宣言をただ批判するのではなく、被害者に寄り添い歩んできた経験をふまえ、いまの支援策に何が欠けているのか、死刑廃止をめざすのであれば、どんな手当てが必要なのかを提起し、議論を深める力になることだ。》

 日弁連の総意として宣言が出された以上、弁護士の思想や行動は当然しばられます。これを著しく非民主的な手続きでごく一部の執行部が打ち出したということは、明らかな独裁です。
 また、あたかも被害者支援弁護士たちが「ただ批判」しているかのように書き、実態も調べずに「支援策が欠けている」と決めつけています。
 極めつけは「死刑廃止をめざすのであれば」というくだりです。被害者やその遺族に寄り添って死刑存続を望んでいる人たちが、いつの間に「死刑廃止をめざし」ている人に化けさせられたのでしょう。毎度おなじみ朝日論説委員の頭の悪さよ。作文の練習からやり直してください。
 さて朝日新聞は十一月二日付でフォーラムの質問状に回答しましたが、これについて記者会見を行った高橋正人弁護士は「聞きたかったのは、なぜ朝日は死刑存続を望むわれわれも死刑廃止に向けた議論に協力しなければならないと主張したのか、という点だったが、答えていない。残念だ」と話し、今後、再質問も検討するそうです。さもありなむ。
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/sankei-afr1611080041.html

 ところで問題の日弁連の「宣言」の中身について検討してみましょう。正式名称は、「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2016/2016_3.html
 結論から言うと、これまた「罪を犯した人の人権」にだけ配慮した一方的なもので、被害者および遺族の支援については申し訳程度にしか言及されていません。以下、この宣言における死刑廃止論の根拠を箇条書きでまとめます。

 ①平安時代には死刑がなかった。死刑は日本の不易の伝統ではない。
 ②国連の自由権規約委員会、拷問禁止委員会等から、再三勧告を受けている。
 ③誤判、冤罪であった場合、取り返しがつかない。
 ④法律上、事実上で死刑を廃止している国は一四〇か国あり世界の三分の二を占める。
 ⑤OECD加盟国のうち死刑を存続させているのはアメリカ、韓国、日本の三つであるが、アメリカは州によっては廃止しており、韓国は十八年以上死刑を執行していないので。OECD三四か国のうち、国家として統一的に存続させているのは日本だけである。
 ⑥死刑には犯罪抑止効果があるという説は、実証されていない。
 ⑦内閣府の最近の意識調査では「死刑もやむを得ない」という回答が八割を超えるが、死刑についての十分な情報が与えられれば、世論も変化する。
 ⑧そもそも死刑廃止は世論だけで決めるべき問題ではない。
 ⑨日本の殺人認知件数は年々減少しているのだから、死刑の必要性には疑問がもたれる。
 ⑩死刑は国家による最大かつ深刻な人権侵害であり、生命というすべての利益の帰属主体そのものの滅却であるから、他の刑罰とは本質的に異なる。


 だいたい以上ですが、ひとつひとつ検討します。
 ①ですが、たしかに不易の伝統ではないでしょう。しかし平安時代の法と近代法を単純に比較するわけにはいきません。なぜなら古代や中世においては、支配階層と一般民衆とは截然と分かれており、高い身分の者が低い身分の者に対して今なら考えられないほど理不尽で残酷なことをしても平気で許されていたに違いないからです。いくら法的に死刑がなくても、私的な刑としての殺害はいくらでも行われていたでしょう。
 ②ですが、ここには国連を、国家を超越した権威を持つ機関として疑わない戦後日本人の弊害がもろに出ています。国連の勧告は七つありますが、そこには日本の法律や受刑者への対処に対する無知と、その裏返しとしての「人権真理教」が躍如としています。ここでは主なものだけ取り上げます。
 第一に「死刑執行の手続き、方法についての情報が公開されていない」と指摘していますがそんなことはありません。手続きは確定後、法務大臣の署名捺印によって執行され、その氏名も公開されます。また方法は誰でも知っているとおり絞首刑です。
 第二に「死刑に直面している者に対し、被疑者、被告人段階、再審請求段階、執行段階のいずれにおいても十分な弁護権、防御権が保障されていない」とありますが、これもウソです。日本の司法手続きは重大犯罪においてきわめて慎重であり、前三者については確実に保障されています。
 もっとも裁判員裁判のもとでは、しばしば求刑越えの判決が出されることがありますが、これはむしろ裁判員制度自体の問題点です。裁判員制度は、英米系の陪審員制度をより進んだ制度と勘違いした弁護士たちが日本にもそれに類する制度の導入を強引に進めた結果できた制度です。いまその問題点については論じませんが、ご本家の陪審員制度こそ被告人段階での十分な弁護権、防御権が保障されていない欠陥を表わしているのです。この点については拙著『「死刑」が「無期」かをあなたが決める 裁判員制度を拒否せよ!』参照。
 また最後の執行段階については、死刑制度が存在する以上、確定者に執行段階で弁護権や防御権を保障することは論理矛盾であり、法そのものの権威を失墜させます。さらに日本の実態として、死刑が確定しても執行までの期間に高齢に達していたり心身の健康を損なっていたりすれば延引されるのが普通です。
 第三に「心身喪失の者の死刑執行が行われないことを確実にする制度がなく」とありますが、これもデタラメです。刑法39条には「心身喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」とあって、入念な精神鑑定が行われることが保障されています。国連は日本の刑法を読みもしないでこういう断定を下しているのです。
 第四に国連勧告では「死刑執行の告知が当日の朝になされること」がけしからんという趣旨になっていますが、もっと前に告知すべきだとでもいうのでしょうか。心の準備期間が長い方が人道的だと言いたいのでしょうが、さてここにはキリスト教文化圏と日本との価値観の違いが出ています。
 日本では死刑囚の多くが「いつ告知されてもおかしくない」という覚悟を早くから決めて「お迎えの日」を静かに待っています。考え方によりますが、あらかじめ執行日を知らされていれば、むしろ多くの日本人はかえって動揺と不安の日々を過ごさなくてはならないでしょう。この国連の勧告には、キリスト教文化圏の価値観を普遍的なものとして押しつけている傲慢さがあらわです。
 何よりも問題なのは、日弁連幹部が、法律の専門家でありながら、この勧告の明らかな誤りを認めず、そのまま自分たちの主張に利用している事実です。
 ③の誤判、冤罪の可能性は廃止論者が必ず持ち出す論拠です。しかし誤判や冤罪を防げるかどうかは、法理上、死刑制度の存在とは直接のかかわりをもちません。日弁連は判断形式を誤っています。それはちょうど交通事故の可能性がゼロではないから車を廃止しろという議論が間違っているのと同じです。
 冤罪をいかに防ぐかは、捜査から判決までの全刑事過程における手続きをいかに厳正・慎重に行うかというテクニカルな問題であって、国家が死刑制度を持つことが是か非かという本質的な問題とは別です。冤罪をゼロにするためにどういう司法手続きがさらに必要かと問うのが正しい判断形式なのです。再審制度があるのもそのためで、これが不十分だというならそれを改めていけばいいのです。
 ④⑤の世界情勢は死刑廃止に向かっているという議論もよく聞かされます。しかしこれまた欧米が全部正しいという価値観を押しつけるもので、単なる情勢論におもねています。
 日弁連のこの宣言では、⑧で「そもそも死刑制度は世論だけで決める問題ではない」と正しい指摘をしています。ところが世界の多くの国が廃止しているから日本もそれに倣えというのは広い意味の世論に従えといっているのと同じで、論理が破綻しています。日本では「死刑もやむを得ない」という世論は直近で八割を超えていますが、この数字が必ずしも存置論者の論拠にならないのと同断です。両陣営は水掛け論をやっているのです。
 また廃止論者は国の数や「先進性」というあいまいな基準を傘に着ていますが、これは多様な文化を尊重するリベラルなインテリのスタンスと矛盾しています。
 しかもそれを言うなら、廃止または凍結した国が数では多数派でも、中国、インド、インドネシア、パキスタン、バングラデシュなど、人口の多い国では存置しており、超大国かつ先進国であるアメリカの三十三州でも存置されていることを考慮に入れるべきでしょう。そこでいま、少なく見積もってアメリカの全人口の半数が存置側の州に住んでいるとすると、その人口は一・五億人になります。
 以上を勘案した上で、四捨五入して人口一千万人以上になる国で、存置国:廃止国(事実上の停止も含む)の人口を集計してみると、約五十二億人:約十七億人となり、人口比では圧倒的に存置国のほうが多いことがわかります。
http://www.geocities.jp/aphros67/090100.htm
http://ecodb.net/ranking/imf_lp.html
 もう一つ重要なことは、たとえ法的には廃止されていても、欧米諸国では、凶悪犯やテロリストを逮捕前の犯行現場で警察が殺害してしまうことが非常に多いという点です。またフィリピンや南米諸国のように法的には廃止の建前を取っていても、麻薬所持や取引だけで超法規的に殺してしまうような国もあります。
 警察による殺害は審理抜きの死刑と同じです。このほうがよっぽどひどい「人権侵害」に当たるはずですから、国連および日弁連幹部はこれらをきちんとカウントして、それに対して強く非難の目を向けるべきでしょう。「人権真理教」の弁護士たちは、著しく公正を欠くと言わなければなりますまい。
 ⑥の「死刑に犯罪抑止効果があるかどうかは実証されていない」というのは、正しい指摘です。本当に実証するためには、少なくとも人口、政治形態、経済規模、文化的特性、治安状態、国民性などが非常に似通った複数の国を選び出し(そんな国はまずありませんが)、一方は廃止、他方は存置して、数十年にわたって実験結果を比較してみなければならないでしょう。しかしそんなことは不可能です。ですから、ここでも廃止論者と存置論者は決着のつかない水掛け論をやっているのです。
 ⑦「十分な情報によって世論が変化する」は、日弁連も大いに世論を気にしている証拠で、先述の通り⑧と矛盾します。「十分な情報」という言葉で何を言おうとしているのかよくわかりませんが、もしこれが正しいなら、むごたらしい犯行現場や被害者遺族の心情について「十分な情報」が与えられれば、世論はさらに存置側に傾く可能性もあるでしょう。日弁連幹部の論理はそういう事情を公平に見ずに、もっぱら「初めに廃止論ありき」で、そのための政治的な闘争をやっているのだということを自己暴露したものと言えます。
 ⑨「殺人数が減っているから死刑は必要ない」というのはまったくの没論理です。いくら減っていても冷酷な動機と残虐な手段で何人も殺す殺人犯は現にいますし、これからの情勢次第で凶悪殺人は増えるかもしれません。
 以上、「死刑廃止宣言」の論拠を検討してきましたが、総じてこれらは、表層の情勢論に終始していて、そもそも死刑とは何か、それが行なわれるとすればその意義はどこにあるのかという本質的な問いに対する考察が欠落しています。
 唯一⑩がその本質論に触れていますが、それもただ「国家が生命を奪う最大の人権侵害」という犯罪者個人の被害の面が押し出されているだけで、被害者の側の悲しみや憤りについてはまったく思料されていません。これでは被害者の立場に立つ人たちが怒るのも当然と言えるでしょう。(以下次号)