小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源28

2014年03月27日 03時26分28秒 | 哲学
ちゃぽん倫理の起源28



 さて私は、道徳というものが、互いがみじめにならないように共同関係を維持しようと考えた人間が、仕方なしに編み出した方便であり世間知であり術策に他ならないことを認める。別にそれはプラトニズムの遺骨を引き取ったカントが信じたがっているように、崇高でア・プリオリな理性的精神を根拠にしているなどと思わない。しかし、そうであればこそ、かえってそうした方便や世間知や術策によって作られた「信頼」の原理が、長きにわたる生活慣習の蓄積の中で、現実により良い方向に作用するのである。どうしてそれでいけないことがあろうか。なぜ善意志は、カントが考えたように、崇高でア・プリオリでなくてはならないのか。またニーチェがこだわったように、なぜ、ある道徳原理が方便や知恵や術策にすぎないことそのもののうちに、腐臭や欺瞞や虚偽を嗅ぎつけて告発しなくてはいけないのか。
 繰り返し述べてきたように、「善」とは、何か常人にはよくなしえない特別な意志や行為を指すのではなく、この現実社会が相互の信頼関係を軸としてうまく循環しているということ、日常の中で暗黙のうちに人倫精神が共有されてお互いに快適な関係が築かれているということ、そのことである。そしてこの「信頼」の原理が現実に作用して効果を発揮するのは、人間が孤立した個人存在ではなく、互いに関係しあうことをその本質としているからこそである。
 この場合、主観的な意図としては自己利益だけを追求するつもりであっても、そこには互いに関係しあうことを通してそれを実現するということからくる力学的な必然がはたらく。したがって、物事がふつうに運ぶならば、その相互行為は相手の利益をおもんばからざるを得ない形でしか成り立たないのである。
 物事がふつうに運ぶとは、双方に信頼関係がある程度あり、どちらかが明白な悪意をもって相手をだましてやろうとか傷つけてやろうというようなことを考えない場合である。仮にそのような悪意を一方(Aとする)が抱いている場合には、相互行為の結果として考えられるパターンは、ほぼ次の四つに絞られるだろう。

①相手(Bとする)が完全にだまされて、そのことにいつまでも気づかず(あるいは殺されてしまい)、Aは「うまいことをした」と考えて、さらにそのやり口をほかにも適用し続けようとする。
②Bが気づかない場合でも、Aは信頼を裏切ったと反省して、Bに謝罪・補償をするか、Bには打ち明けなくても、今後B、C、D…に対してそういうことをしないように慎む。
③Bがだまされたことに気づき、Aに対するなんらかの処置をとる(返済要求、契約破棄、関係断絶、告発訴訟など)。
④Bがだまされたことに気づき、Aがそんなことをするなら、自分もやってやろうと考えて、Aに復讐したり、C、D…に対しても悪意(信頼の裏切り)をもってふるまうようになる。

 ①の場合、多数者の相互信頼で成り立っている共同態の構造に、Aは少数者として反逆するわけだから、そのまま最後まで「悪人」として生きおおせるか、どこかで「悪事」が露見して社会的制裁を受けるかどちらかだろう。
 前者の場合は、Aは、生涯たいへんな孤独を強いられることになる。それは、四六時中、剣を突きつけられている権力者ダモクレスや、不安を克服しようとするマクベスの心に似ている。孤立に耐える強い人間にしか可能でないことは確かだが、彼が生涯幸福感を維持できるかどうかは、かなり疑わしい。また後者の場合は、普通の犯罪者の例に一致するので、信頼に基づく共同態の構造そのものには致命的な傷がつかないことになる。
 ②の場合、Aは共同態の構造の軍門に下って、改めてそれを承認し直すことになるのだから、この場合も、信頼の構造に致命的な傷はつかない。
 ③の場合、Bは、「正義」として多数者に受け入れられている信頼の構造に依拠して、Aと戦うわけであるから、Bが勝つなら、信頼の構造は再確認される。Bが勝つ公算は十分高いだろう。反対にAが勝つ場合には、信頼の構造そのものが揺らいでいることが予想される(たとえば取り締まりや裁きに与かる権威筋が自己利益のためにAに加担してしまう、など)。
 ④の場合は、③の後者の場合よりも、さらに信頼の構造自体が破綻しつつあることを表わしている。これは、一人ひとりの精神が堕落したというよりも、現実の社会構造が、平和と秩序と繁栄を維持するための条件を失って、だれも社会を信用しなくなり、他人のことなどかまわずにエゴイズムを追求する以外生き延びる道はないと考えざるを得なくなった状態を意味している。一人ひとりの精神なぞは、現実の社会構造や歴史の蓄積しだいで気高くもなれば堕落もするのである。

 
 以上四つの場合、いずれも、共同態の平和と秩序、すなわち人倫を支えているものが相互信頼の構造であることを示しているだろう。ただし、後に和辻哲郎について述べるように、単に「信頼」という概念に無条件に依拠しただけでは、人倫精神の維持・必要を解明したことにはならない。
 とまれ、平和と秩序と繁栄とが日常的に保たれている状態こそは、「善」の実現なのである。いくら形而上学的なレベルで、理性的存在は最高善を目指すべきだとか、奴隷道徳の代わりに貴族道徳を置き換えよ、などと説いても、崇高な道徳が実現されるわけではない。
 功利主義的な原理をともに軽蔑したカントもニーチェも、どうしてもこのことがわからなかったようだ。前者は「善」と「快」を対立命題であると固執し、後者は「優」と「善」とを妥協不可能な二項選択命題と考えていたからである。
 ここには、一見、道徳への態度において反対であるかのようにみえる二人が、ある意味で頑固な共通点をもっていることがうかがわれる。それが、徹底性・原理性(極端と言い換えても同じだが)を追求せずにはいられないドイツ文化の特徴であること、そしてそれは、そのすさまじい迫力と同時に、大きな問題点もはらんでいることが、文化圏の異なるこちらからはよく見えるのである。

 倫理学的な観点からの、カントとニーチェの相違点と共通点とを簡単に確認しておこう。
 相違点は、カントが徳福二元論に固執したのに対し、ニーチェは貴賤二元論に固執したこと。カントは道徳的な善と個人の幸福や快楽とが絶対的に矛盾すると考え、この図式以外には、「よい」という概念を満たすものはないと考えた。彼の選択は当然、前者を優先すべしとはじめから決まっていたのである。しかしこれは、常識的な人間理解を著しく逸脱した捉え方である。
 そこにニーチェが、「よい」の本来の意義は「優」「強」ということであるという鋭いアンチテーゼを持ち込んだ。これを堂々と認めることは、あのカリクレスが果たしたように、この世の現実を曇りなく見つめるという強力な視線変更をもたらした。じっさい、「よい」という言葉の本来の意義のなかには、ニーチェの指摘するような要素が不可欠のものとして含まれていることは事実である。
 しかしニーチェはニーチェで、既成道徳を批判したいあまりに、貴賤二元論にこだわりすぎたと言えよう。というよりも、徳福二元論と貴賤二元論とが単純に反対命題であり、両者は互いに全く相いれないという論理に固執し続けたのだ。だから彼は、高貴な者、強い者は世俗的な道徳を気にしないし、生の苦悩を進んで引き受けるものだと考え、個人的な幸福やささやかな満足、またそれを支える大多数の「善人」に対してはあらわな軽蔑を示した。だが一方で彼は、人々を陶酔に誘う芸術の美的快楽、健康でおおらかに自分の力を現実の中に伸ばしていこうとする傾向を積極的に肯定しようともした。僧侶的、禁欲的な道徳理想の病理を覆すためにである。
 このように、ニーチェは、奴隷道徳への嫌悪から主人道徳の支配を求める一方で、弱者救済の手段としての「あの世における勝利と幸福」という宗教的な空手形や慰藉や麻酔剤を否定する。現世における生そのもの、そのもっとも高められた表現としての芸術、文化を丸ごと肯定したいという欲求を強く押し出すのである。現実にこの二つの願いを果たそうとすれば、どうしても自己分裂の危機を免れがたいことになる。
 というのは、芸術や文化の価値は、最終的には現世を生きる多数者、日常的な生を日々実践している多数者の感性によって承認されるのであり(より高い文化的価値も、その「高い」ということを承認するのは多数者である)、こちらを選ぶなら、その同じ多数者が従っている通俗道徳観を我慢して受け入れざるを得ないからである。通俗道徳を根底から否定しながら、同時に芸術が真に根付く土壌であるこの現世を肯定するというのは虫のいい話だ。
 また彼は、僧侶的な禁欲主義や同情・受苦・共感のポーズをせせら笑う一方で、人が引き受けない苦悩を積極的に背負うことを来るべき超人の条件としてヒロイックに追求した。こうした自己分裂を極度に誠実に生きたために、彼は、結局、現世否定の象徴として選ばれたたったひとりの「十字架に架けられし者」のほうに自らを重ね合わせざるを得なかったのである。
 つまりニーチェは、価値の問題を考える際に、道徳、芸術いずれの方面においても、徹底性、原理性を極端に強調せずにはいられない体質の持ち主だった。かくてその論述はいつも矛盾を内包する結果になったのだ。
 だがまさにこの徹底性、原理性への固執という点で、倫理問題に関しては、じつはカントのそれと意外にも共通しているのである。なぜなら、二人とも、道徳の原理をそのつどの功利、幸福、快の満足、普通の「善」や「徳」の実現など、俗世間的なものに求めることを激しく否定し、何かそれらを超えた最高の道徳的価値が存在するはずだという観念に頼りつつ、たとえばイギリス流功利主義(カントの場合はベンサム、ニーチェの場合はJ・S・ミル)を頭から軽蔑していたからである。

 ところで、『道徳の系譜』に、次のような気にかかる一節がある。

――「だが、なんだってまだあなたは、より高貴な理想のことなどを話すのです! われわれは事実に従おうではないですか。要するに民衆が勝ったのです、――これをあるいは〈奴隷〉がとでも、〈〉がとでも、〈畜群〉がとでも、その他どう呼ぼうとあなたの勝手ですが、――そしてこれがユダヤ人によって起こったことだとするなら、それもいいでしょう! ともあれ、彼ら以上に世界史的な使命(「ミッション」とルビあり)をもった民族というものはなかったのです。〈主人〉は片づけられてしまい、平民の道徳が勝ったのです。この勝利を同時に、血に毒を注いだものと見る人もいるでしょう(この勝利によって人種の混淆が起こったからです)、――私はこれを否認はしません。しかし、この毒の注入が成功したというのは疑いない事実なのです。人類の(つまりそれの〈主人〉からの)〈解放〉は、きわめて順調にいっています。すべては目に見えてユダヤ化し、キリスト教化し、あるいは化しつつあります(言葉などはどうでもよいのです!)この毒が人類の全身をすみずみまで侵してゆく成り行きは止めがたいものにみえるし、のみならずそのテンポと足取りは今後いよいよ緩やかに、こまやかに、ひそやかに、慎重になるものとおもわれます――時間はたっぷりあるわけですから・・・。(中略)教会がなかったとしたら、われわれの誰が自由精神などになるものでしょうか? われわれに胸くそ悪いのは教会であって、その毒ではありません・・・。教会を度外視すれば、われわれにしてもあの毒は好きなのです・・・。」――これが、私の話にたいし一人の〈自由精神〉がつけ加えたエピローグ、自らとくとその正体を示したとおりのれっきとした人物で、そのうえ民主主義者でもある一人の人物がつけ加えたエピローグであった。彼はそれまでの私の話に聞き入っていたが、私が黙ってしまったのを見て堪えられなくなったのである。それというのも、私には、ここで言わずに黙っているべきことが多々あったからなのだ――(第一論文第9節)

 この「一人の人物」としてイメージされているのは、キリスト教を母胎として生まれた近代精神の開花が、じっさいに多くの個人に現世的な幸福と解放の実感を与えたその成果をただ頭だけで否定しても意味がないではないか、という立場に立つ人たち、啓蒙主義者、社会改良家、自由主義者、進歩主義者、政治的民主主義者、自然科学者、さらには、無神論者、革命家などをも含む、近代精神の持ち主であろう。事実、この人の言うとおり、「この毒が人類の全身をすみずみまで侵してゆく成り行きは止めがたいものにみえる」し、近代精神は、いろいろな暗部を抱えながらも、おおむね伝統社会が解決できなかった問題を解決し勝利したのである。いまもその趨勢は引き継がれつつある。ニーチェの貴族趣味的な別の「毒」をいくら対置したところで、この流れを変えることはできない。ニーチェ自身の冷静な自覚がよく出ているくだりである。
 しかし気になるのは、それに対する「私」の述懐である。「私には、ここで言わずに黙っているべきことが多々あったからなのだ」とある。「言わずに黙っているべきことが多々あった」というときの「黙っているべきこと」とはいったい何だろうか。たいへん気をもたせる思わせぶりな言い方だが、期待してその後を読んでいっても、一向にそれに言及する気配が現われない。
 ニーチェの思想に従うなら、キリスト教を母胎としつつ、その鬼っ子として生まれてきた客観主義的な近代精神もまた、「力への意志」の一形態ということになるはずである。したがって、それが私たちの生活の合理的な面を現実的に支え、政治も学問も経済活動もそのスタイルを主流として進行するのであってみれば、この箇所で異議を唱えている「一人の〈自由精神〉」の言い分は、おおむね妥当なものとして認めざるを得ないだろう。
 ただし、私たちの生を全体として見渡すとき、たしかにこうした近代精神の勝利と支配をただ肯定するだけでは片づかない。
 ことを政治の領域に限ってみても、いわゆる民主主義(デモクラシー、民衆自身による民衆の統治)がイデオロギーとして過剰に走ると、観念的な平等主義、直接民主制などの空想的な理念、節度を忘れた過激な革命思想、そのあとにやってくる恐怖政治や悪しき独裁政治などに帰結しやすいことは、歴史が十分すぎるほど証明している。
 また、近代合理精神は、人間の実存を扱う文学の領域、人々を陶酔や躍動に誘う芸術美の領域などがもっている秘密の核心には、ほとんど介入できない。せいぜい、それらの領域における創造的営みや鑑賞者の共感などについて、その構造や由来を解釈できるだけである。
 しかし、それにもかかわらず、近代合理精神は、この現世を生老病死の輪廻として絶望的にとらえていた宗教的な世界観、現世の彼岸に救済の王国を空想するほかなかった世界観に半ば打ち克ったのであり、多くの人々の生を現実的に救い、彼らに力と希望を与えたのである。ニーチェのように、畜群のために選良があるのではなく選良のために畜群があるのだとか、人間は超えられるためにあるのだなどと言ってみても、そうではない仕方で「力への意志」が動いてきたのであれば、その流れをだれも否定することはできない。
 国際社会では、いまや遅れて出発したどの国々も、この近代化という目標に向かって建設の槌音を高々と響かせている。むろんそれは激しい競争の世界なので悲惨な衝突の条件をはじめから抱えている。しかし、それならそれで、ニーチェ自身の弱肉強食的な「力への意志」の宇宙原理にもかなうはずである。彼は、こうした事実に対して、もったいぶらずに誠実に応答すべきであったろう。


*次回よりJ・S・ミルを論じます。

倫理の起源27

2014年03月22日 01時42分37秒 | 哲学
倫理の起源27



 道徳に対して極度の反抗意識を持っていたニーチェは、「良心の疚しさ」や「負い目の意識」を、外に伸長すべき「力への意志」がより強い力に出会って挫折し、その攻撃性を自虐の方向に向けかえられたところに成立すると捉えた。これは「良心」そのものをたいへんネガティヴに見ていたことを意味する。たしかに、過度な疚しさや不必要な負い目を抱えることは、自己の生きる力そのものを殺ぐので、よいことではない。しかし、ニーチェの捉え方は必ずしも当たっていない。
古今東西を通して、「信頼」のないところに人間関係は存在せず、人間関係が存在しなければそもそも人間は存在することができない。そして、その「信頼」とは、個人における「良心」や「負い目の意識」という概念を、関係存在としての人間という把握から照らし出した概念である。両者は同じことの別様の表現に他ならない。ある人が良心や誠実さをもっているということは、すなわちその人がだれかを信頼しているということなのである。たとえその「だれか」が、彼にとって具体的なあれこれの人間を指すのではなく、さしあたり抽象的な他者一般という観念にすぎないとしても。
 ニーチェほどの孤絶者といえども、みずからの著作意図をわかってほしい(承認してほしい、信頼してほしい)と痛切に思っていた。そもそも著作を世に問うという行為自体、他者からの承認や信頼を期待している証拠である。彼は実際、ごく少数の友人との付き合いや理解者(信頼者)の出現を子どものように喜んでいたではないか。
 以上「信頼」について述べたのとほぼ重なることを、和辻哲郎が『倫理学』のなかでニーチェを批判してもっと詳細に書いている。以下、その一部を引いておこう。

 が、ニーチェの立場からはさらに次のごとく言い得るであろう。本来の価値秩序とは歴史的に原始の秩序であるという意味ではなく、宇宙の原理としての権力意志に基づく価値秩序なのである。権力意志の強弱がこの秩序を定める。歴史的にあらわれた道徳はこの本来の秩序に対する人間の解釈に他ならない。古代ギリシアの道徳は 階級による正しい解釈であり、ユダヤ人の道徳は反感による逆倒的解釈である。現代ヨーロッパを支配せる道徳は後者であるゆえに、特にこの道徳の系譜を洗い立てねばならなかった。要するところは権力意志に基づく本来の価値秩序を回復するにある。そうしてこの秩序は、信頼関係というごときものに関わることなく、一人格の意志の強さ、生の豊かさによって定まって来るであろう。(中略)
 この反駁は一応もっともなように見える。が、実は信頼関係の中で起こる評価を個人意識の視点から見ているに過ぎぬのである。権力意志の強弱は、あくまでも強弱であって善悪ではない。意志の堅固というごときことも、もし単に一人格についてのみ言われるとすれば、単に意志の堅固であって善ではない。(中略)
 冒険的態度のごときも、もしそれが信頼に答える意義を持たなければ、いわゆる暴虎馮河に過ぎぬ。勇気の意義は己れの持ち場を死守するところに存する。そうして持ち場は信頼の表現である。かく見れば、自己の意志の強さや生の豊かさのみから自己が尊敬すべきものとして感ぜられるという見方は当たらない。信頼に答えようとするものが意志の強さや生の豊かさによってこの応答をなしうる時、その意志の強さや生の豊かさが価値あるものになるのである。だからこれらのものが信頼への応答を妨げるときには、逆にそれらは捨離せられるべきものになる。
(第一章)

 和辻のこのニーチェ批判は、経験と照らし合わせるとき、まことに的確なものというべきである。人々がある人の行為を「勇気がある」と言って褒めたたえるとき、その賞賛は、単に常人がなしえないことをなしたということそれ自体に向けられているのではなく(それだけなら、人前で裸になって見せることも賞賛に値することになる)、すでに特定の状況文脈の中で、周囲の人々によって共同的に期待される行為であるという了解を前提としている。みんなを一様に侵害してくる相手に対して他に先駆けて立ち向かうというように。
 ニーチェは、道徳的な善悪の原理(gutとböseの関係)を自然秩序としての強弱や優劣の原理(gutとschlechtの関係)にそっくり置き換えようとしたが、いま見たとおり、これは論理的に破綻している。両原理は互いに対立しあうのではなく、もともとまったく質の異なる秩序原理であって、それゆえ、かえって両原理の一方が他方を相互に包み込む関係にある。道徳的な善として認められる意志や行為のなかに、勇敢さを示すことのように「強い、優れた」あり方が包含されるし、逆に、敵を見事に倒すこと、仲間・手下に寛大さを示すこと、けちけちせず豪勢にふるまうこと、鋭い理解力を開陳することなど、総じて強く優れた力を示すことのなかに、信頼を勝ち得て道徳的に善であるとみなされるあり方が包含されるのである。
 この点で問題にしてみるに値するのが、プラトンの『ゴルギアス』である。この作品は、はじめの方で、弁論術の大家・ゴルギアス(および弟子のポロス)が、人を説得することの価値を前面に押し出すのに対し、ソクラテスがそれを、真理の探究や本当によきことを求める営みと縁のない「おべっかの術」であると決めつけるという体裁をとっている。ソクラテスがゴルギアスをやりこめる論法は、例によって彼一流で、惑わされないように読んでいくと、至る所にゴルギアスやポロスの返答の仕方のまずさが現われていて、そんなふうに丸め込まれずに、ここはこう答えるべきだと茶々を入れたくなる部分がいくつもある。すでに検討した、プラトン得意の「言葉の抽象作用」、特に身体にかかわる事柄の、魂にかかわる事柄への比喩・転用を巧みに用いた詐術である。
 しかし、私たちがこの作品に大きな関心を引きよせられるのは、むしろ後半部分、カリクレスの登場によって、善(よきこと)や正義というテーマがいっそう重大で深刻な議題として再構成される部分である。ところがソクラテスの強敵として現われたカリクレスは、はじめは威勢がよかったのだが、やがてソクラテスの執拗な論及の前に疲れてしまい、しぶしぶその言い分に従うようになるという流れになっている。ここでも、カリクレスのふがいなさに対して、そんなふうに妥協すべきではない、ソクラテスの論理にも逆襲できるほころびがあるではないか、と言ってやりたい気がする。しかし作者プラトンにとって、ソクラテスの勝利(真理を追究する哲学者の価値)は絶対に勝ち取らなくてはならない第一要請だから、作品構成上、そうせざるを得なかったのだろう。ただ私としては、新たな読者はこういう詐術に丸め込まれませんようにと願うばかりである。
 いずれにしても、ここで重要なのは、ニーチェが提供した「強弱、優劣」の価値観に基づく主人道徳と奴隷道徳との決定的相違という問題が、早くもソクラテスに対するカリクレスの異議申し立てというかたちで鮮やかに先取りされていることである。その意味でプラトンはやはり偉大というべきだろう。
 カリクレスは言う。ソクラテスは実用に役立たない哲学的な屁理屈ばかりこねて相手をやり込めているが、実際にこの世で権力を掌握して民衆を統治しているのは、強者であり、優れた者たちである。それが自然本来の姿であり、法律習慣の世界では、「不正」と規定されるかもしれないが、自然の世界では、それこそが「正義」なのである。

 すなわち、すぐれた者は劣った者よりも、また有能な者は無能な者よりも、多くを持つことこそが正しいのだと。
 これがそのとおりだということを明示する事実は、いたるところにある。動物たちの世界においてもそうだし、人間たちのつくりなす全体としての国と国、種族と種族との関係においてもそうだ。いずれにおいても明らかなのは、正義とは常にそのようにして強者が弱者を支配し、強者は弱者よりも多くを持つという仕方で判定されてきたということである。


 しかしカリクレスは、道徳や法律の正しさなど追求せずに弱肉強食の現実をそのまま肯定しろと言っているわけではない。右の引用は、ともかくもそういう世の現実を事実として認めた上でなければ話にならないという文脈で言われている。また、彼も国家公共の仕事にかかわるひとりだから、統治が功を奏するために、統治者がどんなすぐれた資質を必要とされるかということに関しては、次のように、きわめてまともなことを言っている。

 いや、私のほうに関するかぎり、もうずっと前から言っているはずだ。まず、人よりもたちまさった人間とはどのような人たちかと言えば、それは、靴屋でもなければ肉屋でもなく(引用者注――これはソクラテスが理屈のためにしつこく例示したことへの苛立ちから言われている)、国家公共(「ポリス」とルビあり――引用者)のことがらに関して思慮をもち、いかにすれば一国をよく治めることができるかをわきまえた人たちのことだ。またさらに、ただ思慮においてすぐれているだけでなく勇気をもあわせそなえた人たち、自分の思いついた構想を何でも最後までなしとげるだけの実行力をもち、精神の柔弱さのために途中でくじけてしまうようなことのない、男らしい人たちのことだ。

 ここまでは、貴族主義者のプラトン自身も認めていたはずである。ところが、ソクラテスはここから論題を逸らし、「自分自身の魂への配慮をいかにすべきか」という問いを唐突に設定する。戸惑うカリクレスに対して、すぐれた者は欲望を抑えて節制の徳をわきまえる必要があるかと聞く。じつに巧みな誘導である。カリクレスは、「すぐれた支配者」はその有能さに応じて多くを取るのが当然であるという価値観を持っているから、そんな徳はけちくさい奴隷の徳であり、支配力のある人たちは、欲望にブレーキなどかけずに、放埓にふるまってかまわないのだと答えてしまう。その方が味方に多くを分けてやることができるではないか、と。
 ここがまさにソクラテス(=プラトン)の攻めどころである。支配者がいくらでも「多く取る」ことが許されるなら、それはまさに人民を搾取する「不正」に結びつく。つまり独裁権力の悪い面が大手を振ってまかり通ることをそのまま認めてしまうことになる。「有能な者は無能な者よりも、多くを持つことこそが正しい」とカリクレス自身が言っているではないか。
 ちなみに、プラトンは『国家』に明らかなように、すぐれた「哲人」が統治することを最もよしとしていたのだから、私たちの時代の多数者が正しいと認めているような「民主主義者」ではない。『ゴルギアス』でも、アテナイ民主制の普及者として名高いペリクレスを、国民に媚びる「おべっか政治家」(今のことばでいえばポピュリスト)として批判している。したがってここで彼がソクラテスに説かせようとしているのは、「すぐれた統治者」は、よく社会秩序を維持して国家の繁栄と国民の安寧を保障する使命と責任のために、自分自身に対して節制の徳を修めなくてはいけないということである。これはこれで納得できる話である。
 ところが、カリクレスがうっかり「放埓こそすぐれた者の正義にかなう」と答えてしまったことによって、形勢はソクラテスに断然有利になる。カリクレスは、こう答えるべきだったのだ――「もちろん、統治者個人の取り分に関しては適切な程度にしておくべきだろう。だが、そのことと、国家が繁栄するために自分の持てる力を大いに発揮したり、金を惜しまずに使うということとは、別問題だ」。こうすればソクラテスにつけ込まれることはなかったのである。
 プラトンは、「節制――放埓」という言葉の二項対立原理を、「だれにとっての」という具体的な条件づけ抜きに設定して、「何がより正しいことか」という抽象命題へと結びつけていく。彼はいつもそういう論理の運びにしたがって議論を進める。つまり私的問題と公的問題とを意識的に混同させるのである。そのことによって、「こういう場合にはそれは当てはまるが、それとは違った条件のもとでは必ずしも当てはまらない」という現実感覚を追放し、柔軟な思考の可能性を意識的に封じるのだ。イデア原理主義者であるゆえんである。
 一つだけソクラテスの屁理屈の例を挙げておこう。
 彼はカリクレスが「善=快」という図式によって思考しているのに対して、それをひっくり返すために、かくかくの理由で善と快とは同じではないという議論を持ち出す。この「弁論術」は、少し怜悧に頭をはたらかせればすぐにインチキを見破れるような代物である。
 ソクラテスの理屈はこうだ。
 快と不快とは、同時に進行する。それはたとえば疥癬病みが、かゆいという不快を感じつつ、常に掻きつづけることによってその不快を脱して快を得るような具合だ。これに対して、あることが善であると同時に悪でもあるというようなことはない。よって両者(善と快)とは同じではない、というのである。すでに述べた『パイドン』でさんざん駆使された偽の「証明」と同じような論法である。まことにソクラテスこそは、ゴルギアス以上に「弁論家」である。
 ある人にとっての快と不快とはじつは同時に進行しはしない。不快や欲望の高まりがあるからそこに克服の意志が生じ、その意志にふさわしいような処置がとられる。それによって快という状態に達する。どんなに短い時間内における快と不快の関係においても、こうしたプロセスが存在する。
 また逆に、あること(特定の意志や行為)が善であると同時に悪でもあるということはあり得る。すでに引いたカントのウソ論文の例のように、「ウソをつく」という「悪」は、同時に妻子や友人の命を救うという「善」につながることがあり得る。孔丘の『論語』では、同じようなテーマが、まったく逆の文脈で語られている。

 葉公 孔子に語げて曰く、吾が党に直躬なる者有り。其の父、羊を盗みて、子 之を証せり、と。孔子 曰く、吾が党の直なる者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直は其の中に在り、と。(「子路」18)

 このように、「善」とか「悪」という概念は、特定の意志や行為のうちにその判断の適否を求めるなら、だれにとって、どういう条件下において、という但し書きをつけなければ、判断不可能である。だがカリクレスは、ソクラテスのこの屁理屈に反論できなかった。
 それでは、逆の意味で「善」と「快」とは違うと言えるではないか、という反論があり得よう。しかしそれに対しては、いや、「快」だって、ある人にとっては快適な行為であっても、それを受ける相手にとっては不快であることがあり得ると切り返すこともできるのである。言語のある抽象的な水準で論理の正しさを競っている限り、ことの決着はいつまでたってもつかない。どういう具体的な条件下でこちらの議論のほうがより適正と言えるのか、ということを常に問わなくてはならないのだ。
 ここで行われているやりとりには、そもそも「善」とか「快」とかいう言葉で、君はどういうことをイメージしているのか、という共通了解に達するための議論が不在である。だがプラトンは、これらの抽象語をイデアとして固定化しているために、そういう議論の必要を無視している。けれどもすでに述べたように、「快」を「幸福」という概念にまで拡張し、「善」とは、そこにかかわりあう人々にとってのお互いの幸福が実現している状態である、と表現し直すなら、両者(「善」と「快」)とは必ず一致するのである。
 だがプラトンについては、もうこれ以上あまり深追いしないことにしよう。
 ニーチェに話を戻すと、彼もまた、この時のカリクレスと同じように、禁欲とか節制とかけち臭さといったあり方を、生の欲望の展開や芸術文化の開花にとって抑圧的なものと考えたがゆえに、激しく否定しようとした。しかしお分かりのように、節制と放胆とではどちらが徳一般にかなうかというような抽象的な対立命題の土俵でこの問題に答えてはならないのである。彼が現代の大衆社会を批判するために、「奴隷道徳」に「主人道徳」を対置した気持ちはわからないではない。しかしニーチェは近代人なのだから、アルカイックな時代の哲学の論理構成にはまり込まずに、もっと冷静かつ柔軟にプラトン(ソクラテス)批判を展開すべきだったろう。それをさせなくさせていたものは、彼自身の激情的な体質であったにちがいない。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(14)

2014年03月21日 03時13分30秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(14)


 前回、エリック・ドルフィーブッカー・リトル(tp)とが、ジャズクラブ「ファイヴ・スポット」で共演したライヴ版のなかに、私がイチオシの曲があると書きました。それは3枚あるアルバムの2枚目に収められた「アグレッション」です。この曲はブッカーのオリジナルであり、題名どおり、たいへんアグレッシブで、戦闘的な意欲をかき立てる演奏です。この曲でドルフィーはベースクラリネットを吹いており、その独特の演奏スタイルも聴きものですが、ここでの主役はやはりブッカーでしょう。
 パーソネルは、二人のほかに、マル・ウォルドロン(p)、リチャード・デイヴィス(b)、エディ・ブラックウェル(ds)。

 まずテーマをブッカーが吹き、ドルフィーがそれに合わせます。そのままブッカーのソロに突入。彼のソロは、アップテンポに乗りながら、速い指の運びで吹きまくる部分と長く息を吐き出す部分との両方で構成されていますが、次のフレーズを繰り出す前に間をあけ、よく考えたうえで吹くという特徴があり、それが生演奏らしいたいへんメリハリのある効果を生んでいます。単に「攻撃的」なのではなく、息の長い部分ではトランペットという楽器がもともと持っている哀調が存分に発揮されています。何となく日本の軍歌を連想させるところがあります。
 これは61年の録音ですが、マイルスが新しいクインテットを組んで、速いパッセージのアドリブを好んで聴かせはじめたころの演奏に通ずるものが感じられます。マイルスの新しいクインテットは63年以後ですから、そう考えると、12歳も年下のブッカー・リトルのほうがマイルスに先駆けていたことになります。事実関係はよく知りませんが、マイルスは状況に鋭敏な人ですから、もしかするとこの若輩に強い影響を受けたかもしれません。そんなふうに想像すると、なんだか楽しくなりませんか。
 ブッカーの場合、大御所クリフォード・ブラウンの演奏から深く学んでいるところがあり、その意味では、この若き天才が、先達のすべてをみずみずしい感性によって吸収して発展させたと言えるでしょう。
「アグレッション」は17分に及ぶたいへん長い演奏ですが、冗長さをまったく感じさせません。ソロはブッカーからドルフィーに受け継がれ、マル、リチャードへと続き、ブッカー、ドルフィー、エディ三人の短いかけあいのあと、エディのドラムソロ、そしてテーマに戻って終わります。全体のバランスもよく、全編スリルに満ちており、生演奏としては比類ない逸品と言えるでしょう。
 ではどうぞ。

Eric Dolphy And Booker Little At The Five Spot Cafe- Aggression


 さて、ブッカー・リトルは、このファイヴ・スポットでの演奏の3カ月後になんと急死してしまいます。享年23歳。素晴らしい相棒を得たドルフィーの落胆はいかばかりだったでしょう。前にビル・エヴァンスの相棒スコット・ラファロが、ヴィレッジヴァンガードでのライブの数日後に、25歳の若さで交通事故死したことを書きましたが、天才って、夭折を運命づけられているのでしょうか。ちなみに、クリフォード・ブラウンも26歳で交通事故死しています。
 その後ドルフィーは、ヨーロッパに遠征し「イン・ヨーロッパ」というアルバムを3枚残しています。vol.1の中からフルートの演奏で、ベーシスト、チャック・イスラエルとのデュオ、「ハイ・フライ」をお聴きください。チャック・イスラエルは、スコット・ラファロ亡き後のビル・エヴァンス・トリオのベースも務めました。なんだか因縁が深いですね。
 この演奏、孤独感が深く、けんめいに息を吐き続けるドルフィーは、涙を必死でこらえているような趣があります。途中でふー、とため息のような声を漏らす部分が出てきますよ。

20140301 schuimfontijn Balans Middelburg ~ Hi-Fly ~ Eric Dolphy


 前にちょっと名前を出したことがありますが、名トランぺッターの一人にフレディ・ハバードがいます。彼は60年代のフリージャズ華やかなりしころに名を連ねていますが、その演奏はむしろオーソドックスで、破壊的なところは少しもありません。もともと抒情的でメロディアスなフレーズを吹く人で、いわゆるフリージャズには本質的な影響は受けなかったと言えるでしょう。
 フレディは、ブッカー・リトルと同年生まれで、仲良しでした。たぶんブッカーをかぎりなく尊敬していたのだと思います。彼がブッカーを偲んだ曲があります。「ハブ・トーンズ」から「ラメント・フォー・ブッカー」。パーソネルは、ジェームズ・スポールディング(fl)、ハービー・ハンコック(p)、レジー・ワークマン(b)、クリフォード・ジャーヴィス(ds)。
 今回はここでお別れしましょう。

FREDDIE HUBBARD, Lament For Booker

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(13)

2014年03月18日 23時48分47秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(13)


 コルトレーンマイルスと、二人の巨人を扱って、少々疲れたというのが本音です(笑)。この人たちはやはりハードですね。じつは骨休めのつもりで、ひそかにスタン・ゲッツジョアン・ジルベルトの「ゲッツ/ジルベルト」などを聴いておりました。
 モダンジャズの黄金時代である50年代末から60年代初頭は、ブラジル音楽の新しい流れであるボサノヴァが世界的に広まった時代でもあり、特にソフトなテナーを吹くスタン・ゲッツと、ギター、ヴォーカルのジョアン・ジルベルトとの共演になる「ゲッツ/ジルベルト」は、アメリカで爆発的な人気を呼びました。ジャズとブラジル音楽の新しい結合と言えるでしょう。もっともこのアルバムがあれほど人気を博したのは、多分に、ジョアンの妻、アストラッドが英語で歌った「イパネマの娘」が大ヒットしたことによるところが大きいようです。
 マイルスやコルトレーンなどのようなジャズ本道における芸術追求型の流れに対して、彼らの音楽は、けだるさと軽さとを備え、誰もが口ずさみたくなるような心地よい調子と旋律を備えています。バリ島か何かに旅行して、マッサージでも受けながらリラックスした気分に浸って聴く、そんな中流階級好みの雰囲気を持っています。
 では「コルコヴァード」を聴いてみましょう。

ゲッツ/ジルベルト   コルコヴァード


 おくつろぎいただけましたか? だいぶ肩もほぐれたことと思います。
 これまで紹介してきた曲とずいぶん雰囲気が違いますね。まあ、私などは、ことジャズに関しては、原理主義的な傾向が強いので、こういう曲もたまにはいいと思うものの、「これはジャズじゃない、ジャドゥだ!」と言いたいところもあります。
 そのこととは別に、ボサノヴァはアメリカでは、この後、かなり衰退してしまったそうです。そのわけは、ジャズの隆盛と、ビートルズやローリングストーンズなどの上陸によるロックの支配との間に挟まれて、束の間の息抜きのような位置づけになってしまったということらしい。日本ではいまでも人気がありますけれどね。一本気のアメリカ人と何でも吸収する日本人との差かもしれません。

 では眠気覚ましに、オーソドックスなジャズを一曲。
 以前、このシリーズを始めたころに、ソニー・ロリンズを紹介しましたが、そのとき、You Tubeでつかまえることができずに曲名のみ記したことがありました。素晴らしい演奏なのに悔しい思いをしました。今回うまくキャッチできたので、それを聴いてください。「ワーク・タイム」から「イッツ・オーライト・ウィズ・ミー」。パーソネルは、レイ・ブライアント(p)、ジョージ・モロウ(b)、マックス・ローチ(ds)。特に終盤のロリンズとローチの何ともスリリングなかけあいが聴きものです。

Sonny Rollins Quartet - It's Alright with Me


 さて、態勢を立て直して、再びハードな本格論へ(笑)。
 60年代初頭以降、ジャズの本流は規範をどんどん崩していく方向に進みます。先に紹介したマイルスのモード奏法はその先駆けですが、これをさらに崩してフリージャズへの先鞭をつけた一人がコルトレーンでした。
 しかし、じつをいえば、ほとんど同じ時期にそういう方向への歩みをすでに進めていた人たちがいます。エリック・ドルフィー(as,fl,bc)、オーネット・コールマン(as)、セシル・テイラー(p)、アルバート・アイラー(ts,ss)といった人たちです。
 ところで私は、ここに挙げた四人のなかで、エリック・ドルフィー以外の三人をあまり聴いてきませんでした。この三人には、初めから自分の心を揺さぶるものが感じられなかったからなのですが、いま少しばかり聴きなおしてみると、やっぱり興味が持てない点では変わりありません。自分なりに考えてみると、どうも次のように言えそうです。
 この三人の演奏に共通していえること。それは、はっきり言って一本調子で退屈だということです。規範や制約を思い切り壊して、自分ひとりの表現したいことだけを勝手に吹いたり弾いたりして蜿蜒とやっています。その異常な熱意はわかるものの、サービス精神というものがそもそもまったくなく、聴衆はちっとも楽しめません。長い曲のどの部分を拾ってみても、構成もへったくれもなく、ただ同じ調子しか聴こえてこないのです。
 音も意識的にダーティなところを狙っているし、調子のよさとか、リズミカルな乗りとか、しっとりくる情緒とか、間の味わいとか、物語的な展開といったものがおよそ感じられません。「フリー」であることがかえって音楽的な良さとして生きていないのだと思われます。つまり「マスターベーション」なのですね。「ただやりたいようにやる」というふうにしてしまうと、音楽はどうもマスターベーションになってしまうようです。
 まあ、三人のなかではオーネット・コールマンが一応形になっていて、かなりマシだと言えるでしょうか。しかし彼は、なんだってバイオリンやトランペットに手を出してヘンなことを始めたんだろうか。一種のクソマジメなんでしょうね。
 ここには例示したくもないので掲げませんが、私の感想が間違っていると思う方は、どうぞ上記三人の演奏を各自試聴してみてください。
 私の主張に、二つだけ傍証のようなものを付け加えておきます。
 一つ。彼らのとった方向が、その後、豊かな発展を見て、多くの聴衆や演奏家の間に根付いていった形跡は見られない。たとえば日本のジャズピアニスト・山下洋輔は、セシル・テイラーのピアノに大きく影響を受けたと言われていますが、山下さんのピアノは、その激しさの点では共通しているものの、はるかに調和的で、音楽の伝統を重んじており、音も美しく、劇的な展開の妙も心得ているし、曲としての完結性も備えています。むしろ彼はショパンなどのクラシック・ロマン派的な感性の持ち主だと思います。
 二つ。この三人の演奏は、他の楽器演奏者との共演によっていいものを作ろうという気がどうもないようで、ジャズの醍醐味である丁々発止のやりとりがほとんど考えられていない。なので、周りの演奏者は彼らにしかたなく付き合っているふうです。もちろんこういう音楽を追究しようという合意はあるのでしょうが、実際には、だいたいがただの伴奏者にすぎない。あるいは、共演する楽器には、もともと固有の特徴と性格があるために、無理に合わせたちぐはぐな印象だけが残ります(ただし、オーネット・コールマンに関しては、ポケット・トランペットのドン・チェリーと共演したものはよく息が合っています)。
 要するに、彼ら三人は、それぞれあまりに孤独なのですね。
 こういうことを言うと、フリージャズや前衛ジャズファンからは、「それはお前がわからないだけだ。彼らは音楽に対するお前のようなステロタイプな鑑賞の仕方をこそ打ち破ったのだ」などという声が上がるのでしょうが、しかし私はそれでかまわないと思っています。私はこの三人に代表されるフリージャズのファンの人たちにあえて言います――「王様は裸だ」と。
 ひとこと余計なことを付け加えると、一部で(ほんの一部で)フリージャズがもてはやされていたころ、ポストモダン紹介本を出してニュー・アカデミズムの旗手と騒がれたAA氏が、アルバート・アイラーをしきりに称揚していました。本気かね、と私は思いましたが、音楽に関してまんざら素人でもない氏の発言に、頭でっかちでエキセントリックなものを好む若者、ことに一部東大生などは、さぞ騙されたことでしょう。若い時はなかなか素直になれないものですが、音楽を聴くときは、素直な心になりましょうね(これは自戒の弁でもあります)。

 ところで、先にエリック・ドルフィーだけを脇にのけておきましたが、彼だけは、個性、技量、芸術性、迫力において抜群であり、そもそも「フリージャズ」といったカテゴリーに収まらないものを初めから持っていました。また他のプレイヤーたちとのアンサンブルの世界もきちんと創り出しています。堂々と一家をなしているという感じなのですね。現に彼の演奏は、いまでも敬意をもって聴かれることが多く、多くのジャズファンに伝説的な力を強く及ぼしています。
 彼はアルトサックスとフルート、それにベースクラリネットという、あまり使われない面白い楽器の三つを吹き分けるのですが、ことにベースクラリネットでの演奏は他の追随を許しません(というか、ジャズ・ミュージシャンで、ほかにやっている人を知りません)。
 彼のソロには、たしかに不協和音や極端に変化する音階、調子はずれのような奇矯なフレーズが多いので、初めて聴く人にはなかなかなじめないかもしれません。しかし、耳慣れてくると、この人の音楽は、モダンジャズの伝統を確実に引き継いでおり、しかもそのうえで独特の境地を切り開いているということがわかってくるはずです。モダンジャズの伝統を引き継いでいるということは、言い換えるとチャーリー・パーカーの嫡出だということです。けっしてただの「フリー」ではないのです。
 それでは、とっつきやすいところから、フルートの美しい演奏で「ファー・クライ」所収の「レフト・アローン」。この曲は、以前、マル・ウォルドロン(p)とジャッキー・マクリーン(as)のもので紹介しましたね。ビリー・ホリデイの伴奏者だったマルが、ビリーを偲んで作った曲です。浪花節という形容をしましたが、これをドルフィーがどう処理しているか、じっくりとお聴きください。パーソネルは、ジャッキ・バイヤード(p)、ロン・カーター(b)、ロイ・ヘインズ(ds)。

ERIC DOLPHY, Left Alone(+ 再生リスト)


 次に、同じく「ファー・クライ」から、ドルフィーのオリジナルで、「ミス・アン」。ここでドルフィーは一転して速いテンポでアルトを吹いていますが、彼はこの曲がお気に入りだったと見えて、何度も吹き込んでいます。事実、この曲には、彼らしさがとてもよく出ています。先に述べたように、一見奇矯に聞こえますが、それは奇をてらった実験的な試みなのではなく、ごく自然な表現欲求から出ているのです。そうして、聴いている方もいつしかこの雰囲気に釣り込まれ、何というか、一緒にお祭りで踊っているような気分にさせられるのですね。
 パーソネルには、若手天才トランぺッターのブッカー・リトルが加わります。彼についても、後ほど語りましょう。この演奏では、終盤でのドルフィーとのかけあいで、踊りながら会話をしているような絶妙な呼吸の合い方が聴かれます。

ERIC DOLPHY, Miss Ann


 もう一曲、アルトサックスでの演奏。「アット・ザ・ファイヴ・スポット1」から「ファイア・ワルツ」。ファイヴ・スポットというニューヨークのジャズクラブでのライブですが、これはドルフィーの曲のなかでは現在最もよく聴かれているようです。
 なお2週間続いたと言われるこのライブ演奏は、ドルフィーとブッカーの名を不朽のものにした歴史的な事件であり、現在3枚のアルバムに収められています。
「ファイア・ワルツ」は、マル・ウォルドロンのオリジナルですが、この演奏では、ドルフィーとブッカーのソロは、どちらも言葉を話しているような趣があります。ドルフィーのソロにはもともとそういう一種知性的なところがあり、純粋に美的な見地から言えば疑問符が付くのかもしれません。しかし、「それでさ、あのね」とか、「だからよう、こうなんだよ!」というように、いろいろな抑揚でしゃべっていると考えると、思想以前の「言いたいこと」(詩的表出)がこちらによく伝わってくるように思います。ここでのブッカーもそうしたドルフィーのプレイに多分に影響されているのでしょう。
 パーソネルは、二人のほかに、マル・ウォルドロン(p)、リチャード・デイヴィス(b)、エディ・ブラックウェル(ds)。
 生演奏なので、マルのソロなど、やや冗長な感じが無きにしも非ずですが、そこはひとつ、クラブでいままさにプレイしているという場面が持つ臨場感を、想像力で補ってみてください。

Eric Dolphy- Fire Waltz- @5 Spot 1961


 じつはこのファイヴ・スポットのシリーズでは、私自身が最も高く評価している曲があります。ですので、次回もドルフィーとブッカーについて語りたいと思います

倫理の起源26

2014年03月15日 02時02分56秒 | 哲学
倫理の起源26



 繰り返しを含むが、ニーチェの倫理思想で特筆すべき点を簡単にまとめておこう。この考え方は主として絶頂期に書かれた『善悪の彼岸』および『道徳の系譜』に顕著にあらわれている。
 彼によれば、古代で徳とされたものは、本質的に集団の保持のための戦闘者、貴族のためのものであり、勇敢、自尊心、率先して危険に立ち向かう意志、人を率いる指導力、自己犠牲をいとわない精神、苦難に不平を言わず堪える力、劣弱な存在を堂々と軽蔑する心といったものであり、逆に、同情、やさしさ、柔和、利他、憐れみ、隣人愛、平等、女性的な心遣い、万人に分配される自由といった道徳項目はあまり問題にされなかった。たとえば彼にしては比較的穏健な調子で書かれている次の二つの引用を見よう。

(前略)たとえ、そこにすでに思いやり、同情、公正、柔和、助け合いなどが些少ながら絶えず行なわれているとしても、また、こうした社会状態において、やがては〈徳〉という敬称をもって呼ばれ、ついには〈道徳性〉という概念とほとんど一致してしまうような衝動のすべてが、すでにもう活動しているとしても、こんな状態の時期ではそれらはまだぜんぜん道徳的価値評価の範囲には入らない、――それらはまだ道徳外のものである。たとえば同情的な行為は、ローマの最盛期においては善とも悪ともいわれなかったし、道徳的とも不道徳的ともいわれなかった。そういう行為が賞賛されることがあっても、ひとたびそれが社会全体の振興、〈国家公共のことがら〉に役立つ何らかの行為と比較されるやいなや、その賞賛には上々のときといえども一種の不満げな軽侮の念がまつわりついた。結局のところ〈隣人愛〉は、隣人に対する恐怖に比べれば常に何らか副次的なものであり、いくぶんか慣習的な、気ままな見せかけのものである。(『善悪の彼岸』二〇一)

  侵害、暴力、搾取を互いに抑制し、自己の意志と他者の意志とを同等に扱うこと、このことは、もしそのための条件が与えられてさえいるならば(すなわち、各人の力量や価値尺度が実際に似たりよったりで、しかも彼らが同一の団体のうちに共に属しているとすれば)、ある大ざっぱな意味において個人間の良俗となりうるであろう。だがこの原則を広くとって、できるならそのまま社会の根本原則とみなそうとするやいなや、ただちにそれは生否定への意志であり解体と頽落の原則であるというその正体を暴露するであろう。このことの理由についてわれわれは徹底的に考えすすめ、あらゆる感傷的な女々しさを寄せつけぬようにしなくてはならない。生そのものは本質において他者や弱者をわがものにすること、侵害すること、圧服することであり、抑圧すること、厳酷なることであり、おのれ自身の形式を他に押しつけること、摂取同化することであり、すくなくとも――ごく穏やかに言っても搾取することである。(中略)先に仮定されたように、その内部でも各個人が平等にふるまっている――これはすべての健全な貴族体制に見られるところだが――ような団体にしても、(中略)他の団体に対しては、おのが内部では各個人とも抑制しあっている一切のことを進んで行なわなければならない。その団体は権力への意志の化身であらねばならない。それは生長しようと欲し、周りのものへとつかみかかり、これをおのれの方へ引きよせ、圧服しようと欲するであろう。――これは何らかの道徳性や背徳性から出ることではなくて、それが生きているからこそであり、生こそは権力への意志だからである。(同二五九)


 お分かりのように、ここでは概略次のようなことが言われている。
 古典時代には、ある共同体の内部の統治者、支配者どうしの間では、互いに多少の自己抑制をはたらかせて、同情、公正、柔和、助け合いなどの感情や行動を示しはするが、それは特に「道徳」とはみなされず、それぞれが均衡を維持する必要からとられたやむを得ない手段にすぎなかった。彼らはじつは同情を軽蔑していた。ひとたび共同体の外部と相対するときには、または敵対者を倒すときには、それらはかなぐり捨てられて、本音がむき出しとなる。その本音とは生の本能的な拡張欲求であり、「力への意志」である。
 ここには一応、利他的な道徳心が発動する以前の人間の生に対する現実主義的な視線が生きてはいる。ニーチェは、自己拡張欲求を人間をも含む生命体本来のものとみており、利他的な道徳は、あくまで人間だけが作り出したものであり、しかもそれは弱者の自己保存欲求から編み出されたものであると考えた。彼は、荒々しく暴力的な生の本能を表わすのに、「獅子」とか「猛獣」とか「金毛獣」といった比喩を好んで用いる。そしてこの比喩はまた、この世に支配者として君臨してきた戦士階級、貴族階級の精神にも適用される。これに対して道徳によって馴致され惰弱化した人間どもは、「畜群」であり「羊」であり「奴隷」である。
 ニーチェにとって一番我慢がならなかったのは、世界が力と力のぶつかり合いであるという現実を、同情道徳や隣人愛道徳によって隠蔽しようとするその欺瞞性であろう。ちなみにこの道徳批判の意志は、ちょうど「お互いの思いやりや信頼」に過度に依存するわが日本の戦後社会、特に国際外交のだらしない姿勢に適用するとき、見事に当てはまると言える。まさしく現在の国際社会は、やくざ化した力と力のぶつかり合いにほかならないのに、お人好しの日本人の多くは、相変わらずそのことを実感しようとしないからである。こうした意味では、彼のこだわりとこの精神様式を援用する人たちには、一定の妥当性があると認めざるを得ない。
 すでに述べたように、ニーチェは、カントが「善と快、徳と福」の二項対立原理で倫理や道徳の問題を押さえようとしたのに対して、「優と劣、強と弱」の対立原理を対置した。この対置は、倫理学の発展史という観点からすれば、落とすことのできない重要な相対化の試みだった。キリスト教道徳に限らず、「よい」の概念を道徳的な「善」の概念にのみ限定して理想化することは、私たちの現世における自己充実と幸福感情と矜持、優れたものへの正しい評価やそれに向かっての実現の意欲といったものに対する抑圧に帰着するからである。
 しかし、ニーチェのこの考え方には、いくつかの論理的な欠陥がある。そしてそれらの欠陥は、彼の人間把握の仕方そのものに根本的な誤りがあることにもとづいている。結論を先回りして言うと、彼はカントの道徳主義を激しく批判しているが、その批判に見られる人間把握の仕方は、じつはカントとも共通する極度に個人主義的、個体主義的な方法なのである。
 右の引用で、彼は、一共同体の内部では、互いの間で同情や寛容や柔和や助け合いなどが一定の良俗として機能することを認めている。しかるに外部に向かうときには、「侵害すること、圧服すること、抑圧すること、厳酷なること、おのれ自身の形式を他に押しつけること、摂取同化すること」なる弱肉強食原理が露出するというのである。だが本当にそれだけだろうか。
 たしかに戦闘状態や弱者を征服しようとしているその時点では、敵や被征服者に対してこうした容赦ない攻撃性を示さなくてはならない局面があるだろう。しかし人間のかかわりは、たとえ戦闘状態や征服の最中であっても、いつも単純に、そうした一個体から他の一個体への、一集団から他の一集団への侵害や圧服や押しつけといった一方的な作用だけで成り立っているだろうか。私は、こういうものの捉え方は、二重の意味で間違っていると思う。
 第一に、他の個体や、異族に接する時、たとえ相手を力に任せてこちらの意のままにしてやろうと心の中で企んでいた場合でも、その目論みを目論みどおりにうまく実現するためにこそ、まずその他者や異族が何を望み、どんな性質の存在であるのかを理解しなくてはならない。そしてそのためには、最低限度の意志の疎通が必要となる。また、こちらの積極的な意思表示や行動が、相手の望みや性質にかなうものである、あるいは少なくとも我慢するのはやむを得ないと思わせる必要がある。人間と人間、集団と集団とのかかわりでは、むしろこういう心理的なさぐり合いと駆け引きと友好的な態度の表示が主要なはたらきを占めているのであって、いきなりの暴力的な侵害などは、むしろ例外的な事態に属する。長期にわたる賢明な征服者は、必ずこのことを心得ているものである。戦争の真っ最中である敵国どうしの首脳も、会談が成立すれば握手して抱擁するだろう。
 第二に、戦闘状態や征服の最中であっても、同じ共同体の成員どうしの間では、同情(共感や友情や同志愛)、公正、柔和、助け合いなどの徳が現に作用している。いや、ともに戦うためにこそ意志や感情の結束が求められるのであり、内部における相互の同情や助け合いや信頼の精神に亀裂が走れば、その共同体はたちまち崩壊の憂き目にあうだろう。内部の秩序維持から外部への攻撃に関心が移るとき、ただ「同情と助け合いと信頼」の道徳から、戦士の征服本能へと一方的な転換が起きるのではない。前者を内部でより強く維持しつつ、まさにその力を活用して外部に対する後者の共同意思を構成するのである。じっさいにこのようにしなければ、内紛の危機に見舞われ、異族の征服という対外的な戦略自体がうまく機能しない。こういう人間力学を緻密に考えようとしないニーチェは、道徳否定の感情を性急に表現したいがために論理的な破綻をきたしているというべきである。
 さてこれに続いてニーチェは『道徳の系譜』のなかで、この強弱、優劣の原理を軸にして、良心の疚しさや負い目の意識がどのようにして発生したかという「心理学」を語っている。要するに、本来は外に向かうべき力への意志が、現実世界で敗北し挫折したがゆえに(ユダヤ民族がその典型としてイメージされている)、その攻撃の矛先を自己自身の内部に向けたのが起源だというのである。
 この「心理学」は、フロイトにも大きな影響を与えたようである。フロイトの「心的外傷による神経症」という発想は、圧倒的な外力(主として子どものエロス発動に対する親の立ちはだかり)による自己抑圧という力動的な心の過程に焦点を合わせている。これは、ニーチェが、良心に過度にさいなまれる人々を「神経病者」「精神の肺病病み」と呼んだこととよく符合する。
 しかしこの考え方は人間をとらえる経路として適切だろうか。ここではフロイトには言及しない(私なりのフロイト批判は、『方法としての子ども』ちくま学芸文庫、『無意識はどこにあるのか』洋泉社などを参照していただければさいわいである)が、ニーチェの良心発生論は、人間の複雑な心の成り立ちを考えるにあたって、やはりある種の単純さ、粗雑さを免れていないように私には思える。というのは、彼の良心発生論は、ちょうど自然界にエネルギーの存在を仮定するのと同じように、「力への意志」の普遍的な先在をはじめから仮定しているため、その伸長のベクトルが抵抗や暴力に出会って折れ曲がるという物理的な比喩以上のものを出ていないからである。
 私たちが良心の疚しさとか負い目の意識を持つとかいうとき、それは、具体的な人間関係への配慮に支えられている。本稿のはじめの方で記したように、私たちのうちに道徳的な意識が根付く根拠は、個人的には、愛の喪失に対する不安や、共同体から追放される恐怖に求められる。これは誰もが共通に持つ根拠であるために、いわば相互規定的である。だれもが相手(複数が作っている雰囲気でもよい)の気持ちを配慮しながら「なるべく嫌われたくない。できれば仲良くしたいものだ」と案じつつ接する。そこには、うまくいけば、相手からの永続的な承認や愛が得られるかもしれないという未来への期待感情も常に含まれている。これは幼児が親と関係する場合でも同じである。
 つまり個の力(エネルギー)、生命力を伸長させていこうとする意志というような疑似実体的なものがはじめにあるのではなく、はじめにあるのは、どうやって関係づくりをしていこうかという不安なのだ。そしてこの不安ははじめにだけあるのではなく、よく親しんだ関係世界のただなかを生きていても、知り尽くした相手と日常的に接するときにも、新しい集団に参加しようとするときにも、自分が属している集団に異分子が加わってくるときにも、大なり小なり絶えず私たちにつきまとうのである。
 そして、このいわば存在論的な意識に私たちは常につきまとわれているために、実際の生活において、借りを作ってしまったとか、きちんと支払えるかどうかわからないという感覚をどこかに伴わせて生きている。もちろん、この「借り」とか「支払い」という言葉を、実際の借金や決済の意味にとってもかまわないし、純粋に心理的な関係の磁場にはたらく作用と考えてもかまわない。いずれにしても、そういう日常的な配慮(不安)がまずあって、それが「良心」という関係対応のパターン(心の姿勢)を形成させる基盤となるのである。しかしこのことは必要条件であって十分条件ではない。
「良心」や「負い目の意識」が確固たるものとして根付くために要請されるのは、これもすでに述べたことだが、私たちがやがてばらばらに別離していく存在であることを自覚しているという事実である。私たちは人と関係を取り結ぶことによって、喜びを得たり苦しみを味わったりするが、この喜びはやがて終わってしまうことを知っているし、この苦しみは完全に贖ってはもらえないこともどこかでわきまえている。なぜなら行きがかりによって永久に別れてしまうかもしれないし、やがてはどちらかが先に死んでしまうからである。
 つまり私たちは、少なくとも共生している間は、永遠に返済できないかもしれない借財をなるべく背負い込まないようにしようと互いに感じ合っているのである。この「死すべき存在」であることの自覚をまって、「良心」という心構えがようやく完成する。動物は自分がいつか必ず死ぬという自覚をもっていない。したがって動物には「良心」は存在しない。
 我が国には「世間体」という面白い観念がある。個人主義の立場から見れば、こういう観念を気にするのはくだらないこととして軽蔑に値するのかもしれない。しかし、「世間」とは人間が関係しあう世界を端的に抽象した言葉であって、「体」とは、それぞれの実存を規定する基本的な形式のことである。どうあがこうと自分もまた「世間」の一員なのであり、その基本的な形式としての「体」を身に帯びざるを得ない。関係への配慮と無縁な「自由な個人」など存在しないからである。よって、「世間体」とは、まさに「良心」の主体的なあり方を客体化した表現なのである。馬鹿にすべきではない。
 そして多くの人間づきあいを重ねていくうちに、この「良心」あるいは「負い目の意識」をだれもが抱えていることがほぼ確信できるようになったとき、そこに「信頼」という人倫の基本形式が生まれる。「良心」「負い目の意識」の遍在は、人間関係において「信頼」が成立していることの、個人的な表現なのである。

倫理の起源25

2014年03月13日 00時53分44秒 | 哲学
倫理の起源25



 次に「②ニーチェ思想には、生き方に悩む一人ひとりの個人を勇気づけ、生きる意欲を与えてくれるようにみえる要素があるため、彼の言葉が、誰にとっても当てはまる人生哲学であると受け取られやすいこと」について。
 現代日本のニーチェ論者・研究者・紹介者の一部には、こういう立場をとる人が多い。その要因として第一に考えられるのは、日本が豊かな先進社会になってから、多くの人が明日の食物の心配からとりあえず解放されたために、人々の関心が個人的な人間関係の問題に集中しがちになった点である。もともと繊細だった日本人の精神はさらに繊細化し、少しのことに傷つく人が増えている。精神科医やカウンセリングや人生相談が大はやりである。
 どうすれば落ち込みから回復できるのか。どうすれば他人とのかかわりで自信を持って生きられるのか。周りから自分の価値を認めてもらうにはどうすればいいのか。多少ともデリケートな人たちは、こういう問題で深刻に悩んでいる。
 そこでニーチェの役割である。彼は、自分よりも強い人にルサンチマンを抱かず、与えられた条件を恨まず、運命を引き受け、かつて一度でも幸福な瞬間があったのなら、この理不尽で無意味に感じられる生をあるがままに肯定して生きよ、と力強く説いている――ように見える。その現世肯定思想の極限形式が「永遠回帰」というキャッチフレーズである、というわけだ。
 しかし第一に、「永遠回帰」などという奇妙な着想が、本当に私たち近代人の普通の時間感覚にフィットするだろうか。ニーチェ自身がこの強引な着想に合理的な根拠を与えようと苦心しているが、それは成功しているようには思えない(中島義道『ニーチェ ニヒリズムを生きる』河出書房新社参照)。日本でも萩原朔太郎などが、あまり論理的な明晰さの持ち合わせがないのに、この思想の論理的な解釈の試みを行っているが、これも説得力がない。
 私も若いころニーチェにかなりかぶれたことがあり、この永遠回帰という奇妙な着想を何とか体感的に納得しようと苦しんだことがある。しかしそれは無駄だった。実感できない時間感覚を理解しろと言われても無理である。
 かくするうち、これはキリスト教救済思想を支えている終末論的な歴史感覚に対するアンチテーゼであろうと考えた。
 キリスト教の救済思想は、まず全能の神による天地創造を前提とする。その上で、現世において罪びとであるわれらが、その罪を一身に背負うために遣わされた神のひとり子をひたすら信じることによって、死後、終末において最後の審判を受けて救われるという直線的な歴史物語を提供する。こういう物語が成立するためには、時間が世界の始まりから直線的に流れてゆくという形式的な条件が必要である。ニーチェは、この救済思想の欺瞞性を根柢から指摘するために、直線的な時間意識そのものに抗わなくてはならないと考えた〈感じた〉のではないか。
 ニーチェは自分の文化環境を心から呪い、キリスト教文明に見られるユートピア主義を、あの世でなら必ず支払うという偽の借用証書ばかり振り出し続けるニヒリズムと規定した。またキリスト教道徳を、弱者がルサンチマン解消のために編み出した奴隷道徳であると生涯断罪し続けた思想家である。この反逆意志の文脈の中においてみるとき、「永遠回帰」という奇妙な着想は、かろうじて(ほとんどニーチェ自身の気違いじみた執着と情熱にとってのみ)意味を持つ何かである。
 なるほどキリスト教の救済思想をニヒリズムとして規定し、その道徳を畜群やのために用意された奴隷道徳として徹底的に否定するためには、個体の生命時間をはるかに超えた創造から救済(審判)へという直線的な時間進行の物語そのものにどこかでストップをかけなくてはならない。
 ちなみにこの着想に至ったニーチェの頭の中では、ショーペンハウアーなどによって触発された仏教的な世界観が(半ば否定的に)媒介されていると想像される。仏教では、煩悩から永遠に解脱できない生類の輪廻転生の考え方を基礎として、そこから仏の慈悲による救済思想を導き出すからである。この世界観のなかには、一部に、過去は未来であり未来は過去であって、世界ははじめも終わりもなく循環し、生類はその循環を永遠にさまよい続けるという発想がたしかに見受けられる。じっさいニーチェは、キリスト教に比べて仏教を「成熟した宗教」として一定程度評価していた。
 いずれにしても、ニーチェにとって「永遠回帰」は、キリスト教全体をニヒリズムと決めつけ、その道徳を道徳として頭ごなしに否定するためにぜひとも必要な道具立てだった。しかし彼は、この着想自体もまた、ニヒリズムの表現であり、むしろその徹底化であると自覚していた。これは納得がいく。生のすべては、空手形ばかり振り出す救済思想によってごまかされようと、ただ同じことが永遠に繰り返されるのが実相であろうと、いずれにしても無意味、無価値であることには変わりがないからだ。
 だが彼は、この事態を何とか独力で克服したいと無理なことを考えた。人類が骨の髄までやられているニヒリズムの病を一人で背負って治癒したいと気負ったのである。凡人の幸福に甘んじることはけち臭い。科学的な合理主義も解決にならない。政治や経済によってできるだけ多くの人に幸福や快楽を配ることも許せない。もし克服できるとすれば、唯一、天才や超人、すなわち特別に選ばれた者だけがそれを可能とするはずだ。ほかに出口はあり得ない。
 その実現(ニヒリズムの克服)のためには、凡庸な者、、出来損ないの者、畜群、奴隷などは、どんどん犠牲に供されてしかるべきである。そしてニーチェは自分もその選ばれし者の一員になりたい、その一員に違いないと思い込むようになった。ここまでくれば、彼の誇大妄想は完成する。だが世界の様相は絶望的で、ほとんど誰も自分の声に耳を貸そうとしない。かくして彼は狂ったのである。
 ニーチェは、貴族道徳と奴隷道徳との間に妥協不可能な境界線を引いた。これは一見、人間には「賎民」ばかりでなく、高貴な民もいるという実体的な差別を強調しているかに見える。しかし一方では彼は、「人間全体」を出来損ないとみなしていたフシが多分にある。彼のアフォリズムに「人間は神が創った失敗作なのか。それとも神が人間の創った失敗作なのか」というのがある。だからこそ彼は、「超人」というイメージを定着させようと必死になったのである。
 ちなみに炯眼な読者はすでにお気づきのことと思うが、ここまで来ると、彼のこの思考過程は、一見キリスト教を根柢から批判しているようにみえて、じつはメシアとしてのキリスト像を立てる救済物語とその構造において相似形であることが見えてくる。
 キリスト教はイエスだけを神のひとり子とし、人類の罪〈普遍的欠陥、どうしようもなさ〉を一人で身代わりとして背負って十字架にかけられた。この(私たち日本人にとっては)異様にしか見えない物語によってナザレのイエスというひとりの男は、唯一の至高存在(神人)として特権化された。
 十字架にかけた者たちはみな神を冒涜した自覚なきであり、そうであるゆえに彼らはイエスひとりを神の子としてあがめなくては救いようがない。みな、イエス・キリストの奴隷になりなさい。お前たちの命などは、神と神の子の前では、吹けば飛ぶような意味のないものにすぎない。せめてそのことを自覚しなさい。そうすれば神と神の子は、愛と憐れみによってお前たちを救ってくださるだろう。そこから絶対者への信仰がようやく始まるのだ……。この物語の原型を編み出したのは、もちろんイエスその人ではなく、使徒パウロである。
 ところでニーチェは、自分の生まれ育ったキリスト教文化環境を生涯呪いつづけたが、だからこそ自分は、その文化環境の住民である「」によって十字架にかけられる運命にあるのだ、と考えるようになった。あのナザレのイエスがユダヤのどもの手にかかって殺されたように。しかり、私はイエス・キリストの生まれ変わりなのだ
 昏倒前後の書簡二つ。

 *コージマ・ヴァーグナー宛:私が人間であるということは、一つの偏見です。……私はまた十字架にかかってしまったのだ……
 *ペーター・ガスト宛:わが巨匠ピエトロに。わがために新しき歌をうたえ。――世は明るく輝けり、天はこぞりて悦べり。十字架にかけられし者。


 ミイラ取りがミイラになってしまった。いや、文化としての「キリスト」を殺そうとした者が、自ら「神の子」を演じてしまった!
 さてこう見てくると、ニーチェ思想を、「生き方に悩む一人ひとりの個人を勇気づけ、生きる意欲を与えてくれる人生哲学」などと安易に受け取るわけにはいかないことが呑み込めるだろう。少なくとも、彼は「誰にとっても当てはまる」ことなど言ってはいないのであり、逆に、「特別に選ばれた者たち」を設定し、彼らのためにだけ語ろうとしたのだ。『ツァラトゥストラ』の冒頭には、「万人に与える書、何人にも与えぬ書」という謎めいた有名な一句がある。あえて解読すれば、万人とは人間すべてである。この書は、人間すべてが神の子を殺してしまう「賎民」であると宣告しており、したがって私の言わんとすることはだれにも伝わるはずはないのだ……。
 だから、普通の人間世界のあり方に対して怨念と毒をまき散らしつづけたこの落魄と敗残の「貴族」が、現代日本の大衆社会を生きる、悩める「ひとりのあなた」のためになぞ語りかけてくれるはずがないのである。そこで私は、この種のニーチェ解釈がまかり通っている日本の哲学研究・哲学紹介とは、いったい何なのだ、とあえて問いかけたい。私たち普通の日本人に、この異様な思想家の内部にとぐろを巻いていたどす黒い情念に気安く共感を示すことなどできるはずがないのである。
 ニーチェの思想は、キリスト教文明という強烈な背景を抜きにしては、その性格をいささかでも感知することすらできない。彼は、キリスト教をニヒリズムと規定したが、彼自身はニヒリズムの克服者であったのではなく、その事実の忠実な告知者、被害報告者であったにすぎない。それ以上のことを彼はなしえていない。彼にとっては、啓蒙的理性主義、科学的合理主義、道徳原理としての功利主義、民主主義、社会主義、自由平等主義など、すべてがキリスト教的ニヒリズムの延長であり、よって主観的には、すべてが敵であった。しかし敵を呪い敵と戦い敵を克服しようとする言葉を延々と吐き出し続けながら、彼が実際に(思想として)なしえたことは、これらすべてが畜群思想の産物であり、あるべき価値を抹殺するものだという一つのきわめて興味深い反措定を提出したことだけである。
 そこで、倫理問題を扱っている本書において、この怪物とどのようにつきあうのかという問いを、私たち自身にまず突きつけよう。
 第一に、少なくとも私はこの局面では、ツァラトゥストラのサルになるわけにはいかない。もちろん私は平等主義的道徳やイデオロギーとしての民主主義に対して大いに批判的だが、いっぽうでは、生活の中で普通の民衆(といっても色々だが)と対等に会話したり酒を飲んだりするのがとても身に合っている。そしておおむね相手からも好意を持って迎えられる。ニーチェほど孤高を気取って大衆社会風潮を頭ごなしに罵倒する気にはなれないのである。民衆を集団として括ってそれが醸す空気や風潮やイデオロギーに異を唱えることと、一人ひとりの民衆の存在を尊重して対等に接することとは、論理的には矛盾しているかもしれないが、私はその両面を矛盾のままに抱えて現に生きている。欺瞞的なイデオロギーと闘う気は十分にあるが、この共同社会から見放されること、人から嫌われることを心底恐れてもいる。そういう自分であってみれば、彼の猿真似をすることはできない。
 ちなみに発狂直前のニーチェの自伝『この人を見よ』のなかに、散歩中に出会う八百屋のおばさんと仲良くなった経験談が出てくる。ニーチェは、「哲学者になるためにはこれくらいでなくては駄目だ」などという自慢の文句を付け加えているが、こんな文句はまことに滑稽である。彼は付近の子どもたちにあの偏屈オヤジをからかってやろうと石をぶつけられているからだ。
 八百屋のおばさんとの会話は、哲学者としての自慢に値するのではない。もしそういう話をしたければ、めったに民衆との気さくな会話などできず、女にももてなかった彼自身が、はげしい孤独感を慰められた一エピソードとして、その時のうれしさを素直に表出すべきなのだ。
 だから私はこんな時のニーチェに言ってやりたい――おいおい君、何もそんなに意地を張ってエキセントリックにならなくてもいいじゃないか。八百屋のおばさんと話ができてよかったじゃないか。君もひとりの寂しい人間だね、君はふだんから字面の上では同情や共感の徳をあんなに否定していながら、その赤子のような人恋しげな目つきは何なのだ? と。
 第二に、では彼のエキセントリックなところに蓋をして、彼の教説が、普通の現代人の生き方にまつわる個人的な苦しみや悩みや問いに答えてくれるような力づけの効用を持っていると私自身がみなせるかと言えば、それもとんだお門違いである。彼の思想は、そういう普遍的・一般的な「活用」が可能なようにはできていない。なぜなら普通の現代人はほとんどすべて、彼によって、骨の髄まで救いようのない奴隷根性の持ち主であり、畜群道徳の体現者であるとされているからだ。
 したがって、彼の思想的情念の核心であるこの一般世間嫌悪の呪いと毒とを水で薄めて解毒した上で、「あなたも読んでごらん。生きることに肯定感が持てるよ」などとおススメするような、日本的生ぬるさによる欺瞞的解釈に加担するわけにもいかないのである。ニーチェの文体と思想はある特殊な人、とりわけ孤独で知的プライドの高い人、選ばれた存在(と同時にはじかれた存在)としての自意識の強い人に対してのみ昂揚感を与えるので、一般読者には適合しない。特に女性読者には勧められない。事実、女性でニーチェに心底から共感を示す人に私は出会ったことがない。
 こういったからと言って、私は何も、この特異な思想家を特権的な領域に囲い込んで神棚に祭り上げ、とりあえず敬遠しておこうというわけではない。逆に、そういう特異性をごまかさずに見極めたうえで、この人が倫理思想として何を言い、それが通俗的な道徳意識にどういうショックを与えたかを応分に評価したいと思うのである。
 それだけではない。その先が重要である。私は彼の倫理思想に全面的に同調するわけにはいかないが、かといって、彼が自分の反対物と考えていた畜群道徳の新たな代表者を買って出ようというわけでもない。彼に対する違和をきちんと整理して批判にまで鍛え上げ、これまで書いてきたことを踏まえて、こういうふうに考えたほうがいいのではないかという対案を提示したいのである。
 つまり、いささか口幅ったい話だが、ニーチェの人間把握と自分のそれとを突き合わせてまっとうに対決したいのである。それをやらないと、彼のよって立つ貴族道徳と、現代の大衆民主主義社会における「思いやりとやさしさと憐れみ」道徳(ニーチェの言う奴隷道徳)とが、永遠に平行線のままに終わるだろう。一方はただ相手を畜群、出来損ないとののしりつづけ、他方はそんな偏屈哲学者など目にもくれない。ナイーヴな「民主主義」信奉者は、衆を恃んだ善意という名の「力への意志」による同情主義を押し広げてゆくだけだろう。あとは、それぞれの生き方の問題、才能や感受性の違いの問題、体質の問題に還元されておしまいである。倫理思想は発展しない。

倫理の起源24

2014年03月10日 20時13分27秒 | 哲学
倫理の起源24



 カントの倫理学を批判したあとでは、どうしてもニーチェ思想を批判的に検討しなくてはならない。
 まず言っておきたいこと。ニーチェはひとりでたくさんである。こんな矯激で誇大妄想的で狂人に近い思想家は、あとにも先にも存在しない。事実彼は発狂したのだが、処女作『悲劇の誕生』およびその前後の論稿から、すでにその兆候はうかがい知れる。皮肉なタイトルである。この著作はまさに彼の人生にとって「悲劇の誕生」であった。1889年1月3日の路上での昏倒前後、コジマ・ワーグナー夫人はじめ何人かに送った書簡は、不意の精神錯乱の証拠として有名だが、逆に私はそう思わない。そこには、彼の年来の類を絶したこだわりが、ある連続性のもとに刻印されており、ここで突然おかしくなったなどとは言えないのである。
 いまそれを追うことはしばらく措くが、ここで言いたいのは、以下の三点である。
 第一。この思想家の悲劇が、彼の育った精神風土、文化的背景、彼の生きた時代に深く結びついたものであるということ、
 そこで第二。その精神風土や文化的背景や時代の特殊性に想像力を馳せずに、ある抽象レベルで(たとえば「哲学」という名のターミノロジーによって)切り取られた彼の言葉群だけをとらえて合理的な解釈の枠組みの中に安置しようとするような試みは、この思想家の体質がもともとはらんでいた獅子身中の虫(自分や周囲を苛む猛毒)に目を塞ぐ以外のなにものでもないこと。
 したがって第三。ニーチェ思想とできるだけ公正につきあうには、彼自身の独特の体臭、踊るようなその文体、大仰で極端な言葉の所作、矛盾も顧みずにやたら繰り出される語彙の驚くべき量とスピード感といったもの、要するに彼固有の思想体質そのものを常に感じとりながら、それに対してお前はどう思うのかとたえず自問するのでなくてはならないこと。
 ちなみに右の第二点目に関して一言しておきたい。
 一般に、ニーチェは、カントによって暗々裏に用意された認識論上の押さえをさらに一歩進めた哲学者として位置づけられている。カントによれば、世界はもともと現象の多様であり、それをとらえる感性的直観、カテゴリーによる悟性的な把握、さらに進んで純粋理性の統覚によって統合されることで初めて一定の仕方で認識されうる――カントはこの考え方をみずからコペルニクス的転回と呼んだ――が、「物自体」はけっして認識されえない。
 これは理性の限界を画定する彼の試みの一つで、これによって人間理性は絶対的な真理そのものには到達しえず、ただそれに向かっての要請のみをもつという立場であるから、一種の相対主義を呼び込むものである。彼自身は人間の認識作用の基礎づけを行なったのだから、もちろん相対主義者ではない。人間の理論理性の限界設定を施したということは、それを超えるものの存在(神あるいは物自体)は実践理性によって承認するほかないと宣告したことでもあり、この承認の絶対感情はカント自身のなかでは、疑い得ないものだった。だがそれでも、このような思考様式が、相対主義を忍び込ませる木戸口を開いていたことは否めない。神や自然や道徳に対する敬虔感情の希薄化がその忍び込みを呼び起こすだろう。
 ニーチェは、この相対主義的把握をもっと徹底化して、世界についての客観的真理なるものはそもそも存在せず、それぞれの主体、種族のもつ「遠近法」によるさまざまな解釈が存在するだけだと強調した。「真理」とは捏造でありでっち上げであり虚妄であるという表現は、彼が書き散らした断片のいたるところに散見される。
 この相対主義的把握はやがてポストモダン哲学に継承されるのだが、ニーチェ自身は自分のこの相対主義的な把握に満足していたわけではなかった。それはあくまでも、絶えざる非合理的な創造として世界をとらえるための前提にすぎない。彼は、この前提に基いて、世界の究極原理としての「力への意志」というアイデアを何とか普遍化させようとしたのである。しかしこの概念は、現代の洗練された哲学的感性から見れば、ショーペンハウアーの「意志」概念をそれほど超え出ているわけではない。ニーチェはショーペンハウアーの仏教風「意志否定」の傾向には強く批判的だったが、それにしても、一種の「古き良き」形而上学臭を免れていない点では共通しているように思われる。

 ところで私は、こういうニーチェの考え方それ自体を認識論哲学史上の「一大事件」として位置づけることに特段の意味を認めない。というのは、ニーチェがこういう問題意識に哲学的にとらわれていたのは、彼の生きた十九世紀ヨーロッパの知的風土を考えれば、別にそれほど珍しいことではないからである。十九世紀ヨーロッパは、ダーウィンの登場に象徴されるように、前世紀から続く自然科学の大きな成果を踏まえて、生物や生命の不思議な展開の仕方、その力の秘密という問題に強い関心が寄せられた時代である。たとえばスペンサーの社会進化論などは、明らかに有機体の生命力の秘密は何かというこの時代の関心を直接に社会構造の解明に適用しようとした産物である。
 ニーチェも例外ではない。彼はよく最新の自然科学を勉強していたし、その影響を強く受けていた。その枠内では、彼は、生命論的、生気論的な唯物主義者の一員であったといっても過言ではない。客観的・絶対的な真理というようなものはなく、世界は、それぞれの個体、種族、民族、人類、生命体などの「力への意志」の伸長のために、それぞれのかたちでそのつど解釈されるものにすぎない――現にこの考え方は、生物学という枠内では、後に生物学者のユクスキュルの篤実な研究によって「実証」されることになる。ユクスキュルは、生物種によって、この世界の見え方、感じ取られ方がいかに違うか、それがその生物の行動パターン(生きる必要)といかに密接な関係を持っているかを指し示したのであった。
 ニーチェの場合には、そこに生命体の生き抜く力による世界解釈の変更という力動論的な要因が付け加えられる。さまざまな力の作用によって解釈そのものが変更されてゆく。力のより強いものの解釈がより弱い者の解釈を踏み潰し圧服してゆくのである。すぐ連想されるように、これはダーウィニズムの「適者生存」の考え方にきわめて近い。ニーチェはその方法論を人間世界に援用したのだ。
 こうして彼はいわば、当時のヨーロッパの学問的流行現象の一つであったダイナミックな生命力理論を、自分の思想的動機の表明のために利用したにすぎないのである。その動機とは何か。
 これまでのキリスト教的、プラトニズム的な道徳主義の歴史は、生、肉体、欲望、エロス、芸術といった、この地上において創造的な展開をしてゆく運動を否定し、軽蔑し、抑圧する感覚の上に成り立ってきた。ニーチェは、この事態に我慢がならず、それを根底から覆そうとしたのである。
 自分は、いわくありげに高尚ぶったキリスト教のこの道徳的権威主義の最大の犠牲者であるという自意識に彼は終生縛られていた。彼がしばしば、キリスト教道徳や学者たちの青ざめた禁欲主義を、単なる生理的、心理的な、治癒不能の「病気」としてしつこく論難しているのはそのゆえである。
 じつはこの点が一番大事なのだ。だから彼の言葉を、抽象的に整理された認識論哲学史の棚のなかに画期的な転回点として収めることは、彼の思想の核心を理解することにとってさほど意味がない、と私は思う。それよりもなぜ彼が、ヨーロッパはプラトニズムやキリスト教によって二千年もの長い間ペテンにかけられていたとあれほど激しく告発し続けたか、という生々しい声を聞き取ることの方が重要である。そして、この生々しさは、じつは私たち日本人にとっては、さほど文化的・心理的なリアリティを感じられないはずのものである。
 ところがおかしなことに、哲学好きの日本人読者、特に戦後の読者の間では、ニーチェは一番人気である。大いなる皮肉を込めて言いたいのだが、私には長い間、なぜこんな微温的で「民主主義」的で「八百万の神々」に親しみ「和」の精神を尊ぶこの国で、しかも敗戦によってかつてなく戦闘精神を去勢された時代に、それと全く反対と言っても過言ではないこの思想家に人気が集まるのか、さっぱり理解できなかった。想像するに、それには次の二つの理由が考えられる。だが第一のものは、ニーチェ思想に対する半端な理解であり、第二のものはほとんどニーチェ誤解である。

①日本型世間のムラ社会的な精神構造に同調できない不適応者、孤独者、インテリたちにとって、ニーチェの極端な個人主義、貴族主義精神による同時代嫌悪の感覚表出が、自分を代弁してくれるように感じられること。つまり日本でのニーチェ人気は、一部のインテリ読者たちが自分の生きている社会の空気に対して抱く被抑圧感の反動形成によって支えられていること。
②ニーチェ思想には、生き方に悩む一人ひとりの個人を勇気づけ、生きる意欲を与えてくれるようにみえる要素があるため、彼の言葉が、誰にとっても当てはまる人生哲学であると受け取られやすいこと。


 なぜ①のような形で彼の思想が支持されるのか。それは次のような事情にもとづいている。
 この日本社会のだらけた空気、蔓延の度を深める大衆社会(ミーハー社会)の支配、目先の私利私欲の追求や権威への卑屈な媚びへつらいにだけ走って、物事をきちんと考えて勇敢に行動しようとしない百姓根性。こうした傾向に対して我慢がならない感性や知性の持ち主が、ニーチェというとびきり反時代的な思想を貫いた哲人の権威を借りることによって、自分の社会批判の主張が正当性をもつように感じられ、結果的にアイデンティティがかろうじて自分のなかで保証されることになるからである。
 しかし、こういう「利用」の仕方は、すでにニーチェ自身の遠近法によって「力への意志」の一形態として相対化されているし、また『ツァラトゥストラ』のなかで、「ツァラトゥストラ」のサルとして戯画化されている。
 ニーチェはキリスト教奴隷道徳がもたらしたルサンチマンの正当化としての民主主義的風潮の支配をただ批判しただけではなく、それを乗り越えるための新しい価値観をいかに創造するかという問題意識に異常な熱意を持って終生こだわり続けた。資質のすぐれた人間をえりすぐって訓育と鍛錬を施すという教育的課題にしばしば言及しているのはその証である。
 彼は、ソクラテス登場以前の古代ギリシア人の芸術精神と古代ローマ人の戦闘精神こそがそのお手本であり、あとの文化はすべて堕落である(ルネサンスだけは少々別)と決めつけ、古代ギリシアや古代ローマにその夢を託した。しかし結局それは見果てぬ夢に終わった。その点では、ルソーやD・H・ロレンスにもつながる。
 彼は自分の孤独な性癖や貴族趣味から、同情や憐みや相互扶助の徳にとびきりの嫌悪を示したが、事実、常識的に考えて、こんな極端な自己投影がそのまま受け入れられるはずはない。ヨーロッパ古代社会の支配層においても、同情や憐みや相互扶助の徳が生きていたに違いないのである。ちなみにこの点では、人間には「憐れみの感情」が自然に備わっているとしたルソーとは異なる。
 しかしいずれにしても、近代ヨーロッパの知識人たちにとって、古代社会があこがれの的であり、自分たちはそこから堕落の一歩をたどってきたという自己否定的な受け止めはわりあい共通しており、だからこそニーチェのような思想も受け入れられる素地があった。たとえば現代人の退屈な一日をそのまま綴ったことで有名なジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』は、ホーマーの雄大な叙事詩『オデュッセイア』の冒険物語のパロディであり、卑小になってしまった現代人の自己批評、自己風刺にほかならない。ユリシーズとは、この叙事詩の主人公オデュッセウス(ウリクセス)の英語読みである。
 近代ヨーロッパ知識人のこの自己否定的な心理を文化的な素地として、ニーチェ独特の大衆蔑視感覚と過激な通俗道徳批判、その底にある彼自身の根深いルサンチマンとを継ぎ足せば、彼の思想の骨格は概略その出所が明らかとなる。こうした歴史的文化的な背景を深く考えずに、現代日本の大衆社会になじめない感性・知性の持ち主が、彼の言葉そのものを自分の自己保存にとって有効な道具として利用する態度は、浅薄のそしりを免れない。再び言うが、ニーチェはひとりでたくさんである。ツァラトゥストラのサルは要らない。


*しばらくニーチェ論を続けます。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(12)

2014年03月08日 18時40分55秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(12)




 マイルス特集、2回目です。
 例によって私の独断と偏見ですが、この回では、後半、彼のその後の激しい変貌ぶりを少しばかり紹介することを通して、ジャズという芸術様式が頂点を極めた時期の短さ、はかなさを嘆く結果になりそうです。でも慰められるのは、絶頂期に確立された様式がちゃんと今も残っていて、後の世代の多くのミュージシャンがその基本的なスタイルを継承しながら、さらに洗練された音楽を作り出していることです。これについてはまたのちに語りましょう。

 さて黄金のクインテットは2度と蘇えりませんでしたが、マイルス自身は、少しずつメンバーを入れ替えながら、傑作を発表し続けます。
 レコード会社との契約の関係から、アルトサックスのキャノンボール・アダレイをリーダーとして立てた「サムシン・エルス」(58年)は、あまりに有名です。その中から、いまも一番人気の一つに数えられる「枯葉」。パーソネルは、二人のほかに、ハンク・ジョーンズ(p)、サム・ジョーンズ(b)、アート・ブレイキー(ds)。

Cannonball Adderley - Autumn Leaves


 この曲の魅力はいろいろありますが、一つに、「ラウンド・ミドナイト」の時にも書いたように、その構成の妙が挙げられるでしょう。印象的なイントロからテーマに移るときの何とも言えない雰囲気は、一度聴いたら忘れられません。
 またキャノンボール・アダレイは仮のリーダーとされていますが、彼のソロも全体の曲想に忠実でありながら、かつ、なかなか野心的な演奏です。キャノンボールとは、「大砲の弾丸」という意味で、彼のあだ名です。ファーストネームは、ジュリアン。あだ名の通り巨躯にものを言わせた豪快な吹きっぷりで有名で、コルネットを吹く弟のナット・アダレイとの共演があります。親しみやすい「ワーク・ソング」がお勧めです。「サムシン・エルス」では、マイルスとのアンサンブルに極力意を用いているようです。
 さらに、ハンク・ジョーンズのピアノも、いぶし銀のようにしぶいサウンドを響かせています。もともと地味なタイプで、彼のトリオのアルバムは、さすがに味わいは深いものの、さほど特筆すべきとも思えません。やはり、このアンサンブルのなかでこそ引き立つので、これもマイルスの功績と言えるでしょうか。
 次の傑作が、59年の「カインド・オブ・ブルー」ですが、これについては、すでに紹介しました。モード奏法を完成させたとして名高いアルバムです。ちなみにモード奏法(旋法)とは、テーマのコード進行に沿って演奏されていたそれまでのアドリブパートの拘束を取り払って、テーマに使われている音列ならば何を用いてもよいという奏法のことだそうです。それだけ奏者の自由度が増したということなのでしょうが、私には詳しいことはわかりません。
 一言余計なことを付け加えると、このアルバムは、メンバーが混成部隊で、キャノンボールが出ていたりいなかったり、ピアノがビル・エヴァンスだったりウィントン・ケリーだったりというわけで、アルバムとしてはやや統一性に欠けるうらみがあります。またエヴァンスは、マイルスとの共演では、脇役に徹している感があって、彼自身のトリオでの演奏ほど、その個性が目立ちません。

 さらに、ぜひ挙げなくてはならないのが、61年発表の「いつか王子様が」です。このアルバムでは、マイルスのたっての望みで、すでに独立して独自な音楽的境地を開いていたジョン・コルトレーンをわざわざ呼び寄せてゲスト出演させています。目論見は大当たりで、すでに自信満々のコルトレーンのソロが楽しめます。では、タイトルテューンの「いつか王子様が」。パーソネルは、二人のほかに、ハンク・モブリー(ts)、ウィントン・ケリー(p)、ポール・チェンバース(b)、ジミー・コブ(ds)。
 おわかりのように、この曲では、テナーサックスが二人登場します。コルトレーンに比べるとハンク・モブリーの演奏が聴き劣りすることは明らかですが、これは、マイルスが彼に飽き足りなさを感じていてわざと二人を突き合わせたのかもしれません。そうだとするとマイルスは悪いやつですね(笑)。でも私自身は、ハンクの演奏も、コールマン・ホーキンスなどの古いタイプを継承していて、なかなか味のあるソロだと思います。
 さてこの曲はジミー・コブの精妙なワルツ・テンポに乗って、まずウィントン・ケリーのイントロから始まります。マイルスのテーマに続いてそのまま彼の溌剌としたソロ、ハンク・モブリーのしぶいソロへと続きます。そうしてケリーのあのキラキラと輝く、弾むようなピアノ、もう一度マイルスがテーマを吹いてからコルトレーンのソロ、この堂々たる登場の仕方にご注目ください。やがてみたびマイルスのテーマが流れ、ケリーがしばらくリズミカルな音を奏でます。途中でフェイドアウトすると見せかけて、また回帰するかのようにちょっと戻ってきた後、深い余韻を響かせて終わります。

Miles Davis: Someday My Prince Will Come


 告白すると、数あるジャズの名曲のなかで、あえて一曲を選ぶとすれば何かと問われたら、私はためらうことなくこの曲を選びます。複雑な構成を持ちながら、しかも曲想が完全に統一されていて比類なくシンプルな美しさを感じさせるのです。願わくば、私の惚れ込みに共感してくださる方がいらっしゃることを!
 思わず入れ込んでしまいました。ちょっと恥ずかしい(笑)。

 さて、これ以後のマイルスの歩みをたどることになりますが、私はじつはそんなに知らないのです。なぜかというと、彼の変貌ぶりについていけなくなったからです。
 まず、この後、彼はメンバーの編成に苦しんだようで、テナーのウェイン・ショーター、ピアノのハービー・ハンコック、ベースのロン・カーター、若き天才ドラマーのトニー・ウィリアムスなどを抱え、ヨーロッパや日本への遠征を試みますが、この段階では、これまでの名演をアップテンポにして変化を添えるといったケースが多く、また、オリジナル曲にもかつてのような物語的な情緒性があまり感じられません。
 マイルスの演奏そのものは、かつてとは一変してたいへんスリリングで情熱的になっており、この時期にマイルスに出会った人は、これぞジャズの魅力、と感じたかもしれません。人気も世界的になっていましたし、マイルス自身も後年、この時期を自分の黄金期ととらえているようです。それは十分に理解できますが、彼の主観的な追想はともかく、こちらからは、どういう新しい境地を開くかに悩んでいた印象が残ります。
 生産量は多く、「E.S.P.」、「フォア・アンド・モア」、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」「ネフェルティティ」などのアルバムが、この時期の代表作です。この時期を「第二の黄金クインテット」と呼ぶ向きもあるようですが、何か乾いた砂漠を懸命に走っているような感じで、私には、往年の魅力を凌駕するには至っていないように思われます。一曲お聴きください。
「E.S.P.」から、「E.S.P.」。

Miles Davis - E.S.P.(+ 再生リスト)


 やがて69年、「ビッチェズ・ブルー」という大作を発表して、世間を驚かせます。これは、要するに、アメリカ音楽の主流がジャズからロックに移った時期に、状況に敏感なマイルスが一種のフュージョンを試みた野心作なのですが、私自身はまったく感動できません。とはいえ、そういって切り捨てては身もふたもないので、ここに一応、その一部を紹介しておきます。自分の耳が固まっているだけかもしれませんから。

Miles Davis - Bitches Brew (1/3)


 さらにマイルスは、その後もシンセサイザーなどを導入したさまざまな試みに挑戦していきますが、私は関心を失ってしまいました。
 死の五年前(86年)に発表した「TUTU」では、一部に往年のマイルスらしい懐かしい側面をのぞかせている部分もありますが、何というか、オーケストラ風のバックに支えてもらったり、ミュートを用いながらも、その演奏自体は、こういう音楽をやるのに、別にマイルスでなくてもいいよなあ、と感じさせる部分が多かったりで、やっぱり新鮮な驚きのようなものはない、というのが私の率直な感想です。でも一曲、これはなかなかいいんじゃないというのを紹介しておきましょう。「Portia」。

Miles Davis, Portia


 結論。マイルスはジャズ界のピカソだと思います。ピカソは青の時代、ローズの時代と呼ばれる若年の時期に数々の傑作を残し、セザンヌなどに強く影響されながらキュビズム的な表現を創造し、さらに、フォビズム、シュル・レアリズム、アフリカ芸術などの影響下に次々と自由な世界を切り開いていきます。こんなに激しく変貌した画家はちょっと珍しいですね。最後は漫画みたいな絵ばかり描いていました(誤解なきよう。漫画をバカにしているわけではありません)。
 ある時私が、「ゲルニカ」なんて何がいいのかわからないと言ったら、ある人から「いや、そういうけど、目の前で本物を見るとやっぱりあれはすごい迫力なんだ」と言われて、それはそうだろうなあ、と黙るほかありませんでした。もちろん私に賛成してくれる人もいます。
 それはともかく、マイルスもピカソと同じように、時代の変化にとても鋭敏で、過去にこだわることを嫌い、常に新しいものを求めざるを得なかった芸術家だという印象があります。でも、結果的にそのことは、あまりいいものを残すことにつながらなかったという気がして仕方がないのです。「帝王」の晩期は、自分の芸術家魂にシンクロしてくれるパートナーたちにあまり恵まれず、いろいろなことをやってはみたものの、けっこう孤独を抱えていたのではないか。
 しかしこれは、変貌以後に初めてマイルスに出会った若い世代の思いとはまた別でしょうから、そういう人たちの感想を聞いてみたく思います。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(11)

2014年03月06日 20時27分14秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(11)




 さて「帝王」マイルス・デイヴィスです。

 少し前、近くのスナックで、好感の持てるある寡黙な若い男性と話していたら、その人がビル・エヴァンスが好きだと言うので、おお、いいセンスしてるなと思い、「マイルスはどう?」と聞いてみました。すると、「マイルスはピーピー言ってるだけだ」とぶっきらぼうな答え。まさかそんな返事が返ってくるとは思ってもいなかったので、私は唖然としてそれ以上話す気がなくなりました。いったいマイルスの何を聴いてきたのか知りませんが、こんなことを言っているようでは、ジャズのスピリットなどまるでわかっていないのと同じです。ビル・エヴァンス好きというのも怪しいものです。

 この種のことって時々あるんですね。
 以前、あるうら若い女性が「デクスター・ゴードンが好きなんです」と言うので、デクスター・ゴードンの名前が出てくる以上は、ジャズについて多少は聴きこんできたのかと思ったのですが、話していると、どうもそれ以外には誰も知らないらしい。
 また、別の女性と話していて、「僕、最近、落語に少しハマりかけているんですよ」と言ったら、「落語、私も大好き!」と反応してきたので、「誰がいいですか」と聞いてみました。するとある落語家の名前を挙げました。私はその人の名前だけ知っていてまだ聴いたことがなかったので、機会があったらぜひ聴きに行こうと決めました。さてその他の噺家や有名なお題について会話を進めてみると、彼女、きょとんとしていて全然乗ってきません。どうやら前に一回か二回、誰かに誘われてその落語家を聴きに行っただけらしい。なんでその程度で「落語が大好き!」なんて言えるんでしょうね。
 憎まれ口を叩きましたが、私はけっして、この人たちが、ある文化ジャンルについての知識を持っていないことを軽蔑しているのではないのです。私だってジャズ鑑賞という趣味の領域で、知識量という点では、多くの熱心なファンから比べたらほんの少ししか知らない。でも、多少は年季を積んできたせいで、この曲はいいと感じるけれど、この曲はあまりいいとは思えないという感覚だけははっきりしています。心に響いてくる曲は何度も何度も聴きますが、一、二度聴いてピンと来なかった曲はたいていすぐ見捨ててしまいます。自然とそうなってしまうので、だから知識も増えないんでしょうね。
 私が言いたいのは、「あるものが好き」と心から言えるためには、そのものが属している世界全体のさまざまなありように多少ともなじむことがどうしても必要だろうということです。最近の人たちは、すぐ「何々が好き」と、あたかも多くの中から選択したかのように言いますが、ほんとうに自分の感性に自信をもって言っているのでしょうか。この情報洪水の時代のなかで、たまたま触れたものにちょっと興味を抱いた程度のことを「好き」と称している場合が圧倒的に多いのでは。
 それにしても気にかかるのは、あまりに多くのものが五感に飛び込んでくるこんな時代では、自分の趣味、自分なりの価値判断を養うための道筋のようなもの(教育などとエラそうなことは言いますまい)が失われているのではないかということです。
 趣味について言葉で議論することは、なかなかうまくかみ合わなくて空しさを感じることが多いですが、それでも、人それぞれとあきらめず、この作品のこういうところに感動した、とか、これはちっともいいと思わなかったとか、ともかく言ってみることが必要ではないでしょうか。
 いきなり脱線してしまいましたが、いま話題にしているマイルスに関連させますと、たとえば彼よりもずっと後の世代でウィントン・マルサリスというジャズ・トランぺッターがいます。とてもきれいな伸びのある音を出して、テクニックもたいへん優れています。その点ではマイルスより上と言ってもいいでしょう。しかし私はまったくいいと思わないので、何枚か買ったCDはそのままほこりをかぶっています。だれかこの人がいいと思う方がいたら、どうぞご意見をお聞かせください。

 さて再び、「帝王」マイルス・デイヴィス。
 彼は、1950年代前半までは、そんなに目立つ存在ではありませんでした。1926年生まれですから、30歳前まではということです。同時代の先輩トランぺッターには、ディジー・ガレスピーがおり、同輩にはクリフォード・ブラウンがいて、テクニックの凄さや情熱的、華やかさという点では、彼らのほうがはるかに優っていたと言ってよいでしょう。
 この頃のマイルスの吹き方は、何となく羞じらっているような、「これでいいのかな」と一生懸命自分に問いかけているような雰囲気があって、音もややくぐもっており、声で言えば沈んだハスキーボイスのような趣です。それが個性的といえばいえるのですが。
 ではまず1954年のヒット作「ウォーキン」から、「ウォーキン」。パーソネルは、ジェイ・ジェイ・ジョンソン(tb)、ラッキー・トンプソン(ts)、ホレス・シルヴァー(p)、パーシー・ヒース(b)、ケニー・クラーク(ds)。

Miles Davis - Walkin'


 以前にも書きましたが、この演奏はオープン・トランペットです。マイルスの本領であるミュート・トランペットの魅力を知ってしまっている私たちとしては、どうしても少し物足りないものを感じます。ただ、こういうくぐもった吹き方のうちに、やがてミュート・トランペットによって水を得た魚のごとく開花する彼の芸術性の萌芽が確実に感じられることは確かでしょう。
 では次に、そのミュート・トランペットの魅力を存分に発揮したスローテンポの一曲、「クッキン」から「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」。パーソネルは、レッド・ガーランド(p)、ポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)。原曲の哀しみを保存しながら、マイルスがそのまま情緒あふれるソロをゆっくりと吹き、中間部、倍テンポでレッド・ガーランドがシングルトーンのおしゃれな音色を響かせます。再び元のテンポに戻ってマイルスへ。

Miles Davis - My Funny Valentine


 これが吹き込まれたのは1956年ですが、この年はマイルスにとって、またモダンジャズ界全体にとって、まさに画期的な年です。マイルスは、上記のメンバーにジョン・コルトレーンを加えたクインテットを組み、「クッキン」「ワーキン」「リラクシン」「スティーミン」の四部作、そして「ラウンド・アバウト・ミドナイト」などのアルバムを矢継ぎ早に世に出していきます(「ラウンド・アバウト・ミドナイト」の発売は57年)。
 このクインテットは、モダンジャズ史上、不世出のクインテットで、こんなすごいメンバーがニューヨークの片隅のスタジオで一堂に会して素晴らしい音楽を創造したとは、まさに奇跡としか言いようがありません。私としては、何曲も紹介したくなる欲望を抑えるのがやっとです。
 それでは、「リラクシン」のなかから、以前、トミー・フラナガン・トリオの演奏で紹介したのと同じ曲、「オレオ」。すべてのプレイヤーの呼吸がぴったり合ったインタープレイの超スリリングな演奏をお楽しみください。

Miles Davis - Oleo


「ラウンド・アバウト・ミドナイト」から2曲。
 まず「ラウンド・ミドナイト」。これはセロニアス・モンクの作曲ですが、同じ曲でもこれほど魂を揺さぶる演奏はまずほかに考えられないでしょう。かすれ声で深く語りかけてくるマイルスの孤独な内面の告白が続き、中間部で突然転調して、やや速いテンポで、武骨だけれど力強いコルトレーンの声が応じます。再びマイルスの静かな受け答えがあり、最後に承認しあった者どうしの友情の表現のように、二人して歩んでいく短い印象的な二重奏で曲を閉じます。見事な構成というほかありません。

Miles Davis Quintet - 'Round Midnight


 次に、「バイ・バイ・ブラックバード」。この曲は古い名曲ですが、マイルスが採りあげてから、前回紹介したサラ・ヴォーンヘレン・メリルも歌うようになりました。しかしやはりマイルスを中心としたこのクインテットの演奏は独特で、彼らにしかこういう世界は創り出せなかったと思います。よく知られた曲でも、マイルスが吹くと、それがまったく初めから彼の持ち歌であったかのように聴こえてくるから不思議です。
 レッド・ガーランドの印象深いイントロとフィリー・ジョーの控え目なブラッシュワークに乗って、マイルスがおもむろにテーマを吹き、調子がぐっと上がったところでソロパートに移ります。このソロは完璧な美しさをそなえていると言ってよいでしょう。続いて不器用ながらテナーと格闘するコルトレーンの好感度抜群の演奏、そして、レッドのあの趣味のよさを存分に表現したピアノソロが全体を締めくくって、テーマに戻ります。

Miles Davis - Bye Bye Blackbird


 この黄金のクインテットは、58年には早くも崩れます。現実上のいろいろな事情があるのでしょうが、それ以上に、こういう絶妙のコンビネーションというものは、もともとやれることをやりきってしまうようにできていて、その後はそれぞれのメンバーが新しい自分なりの道を切り開いていくほかはなくなる宿命を持っているのかもしれません。

 私は、マイルスがミュートを頻繁に用いるようになった事情をつまびらかにしませんが、いずれにしても、このサウンドが切り開いた新しい境地が、ジャズというものの精神と容貌を一変させることになったのは確実です。その変貌を何といったらいいのか。
 華やかさや軽薄さからクールで重厚なものに、というのともちょっと違うし、新しい抒情性を獲得したというのもちょっと違う。また、これまでの規範の窮屈さから脱して各メンバーたちのより個性的で自由な演奏を前面に打ち出したと言っただけでは足りないものがあります(ちなみにそういう傾向はこの時点でも明らかにうかがえますが、これがモード奏法の完成によってより鮮明になるのは、59年の名盤として名高い「カインド・オブ・ブルー」からです。このシリーズでもすでに紹介しましたね――「ソー・ホワット」と「オール・ブルース」)。
 マイルスがここで切り開いた地平をひとことで言うなら、演じる方も聴く方も集団で味わうことを前提とした音楽であったジャズを、ひとりひとりが演奏し、ひとりひとりがその趣を深く味わう芸術にまで高めた、ということになるでしょうか。たとえが適切かどうかわかりませんが、ちょうど万葉の時代に歌垣で喝采しあうような雰囲気のもとに詠まれていた和歌が、新古今に至って西行や実朝のような個人の内面的境地を表現するものに大きく変容したというのに似ているかもしれません。あるいは俳諧からの芭蕉の登場にも。
 もちろんマイルスだけがこの変貌に貢献したわけではなく、そこには天才たち(たとえばビル・エヴァンス)どうしの相互影響があり、またジャズ界をめぐる時代の雰囲気がしだいにそういう成熟したものにせりあがっていったという背景があります。98度くらいまで熱していたのを、100度で沸騰させたのがマイルスだったのでしょう。

 次回もマイルス・デイヴィスについて書きます。この後も彼の最盛期が続くので、引き続きそのことを書くつもりですが、行き着くところまで行ってから、どのように変貌していったかに関しても触れたいと思います。