小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本虚人列伝――立花隆(その2)

2017年05月30日 13時14分18秒 | 思想

        





 次に『脳死』(一九八六年)『脳死再論』(一九八八年)『脳死臨調批判』(一九九二年)。
 脳死に関する議論は、厚生省が八五年に脳死の判定基準〈竹内基準〉を公表してから、九九年に「法的脳死判定マニュアル」を発表するまでの一五年間にわたって続きました。このうち前半の八年間、立花氏は精力的にこの問題に精力的に取り組み、右の三冊を発表します。
 その主旨は、脳死を人の死と認めることに反対するというものですが、なぜ反対するのか、その理由に対して筆者は大きな疑問を持ちました。その理由とは、竹内基準(瞳孔散大と対光反射喪失、自発呼吸停止、心停止)は機能死を意味しており、これだけではまだ生き残っている可能性があるから、細胞の壊死、つまり器質死を確かめるもっと精密なテストを二つ追加すべきだというのです。
 立花氏はこれを訴えるために、四百字詰め原稿用紙にしてじつに二千枚を超える右の三作を著します。この膨大な枚数を費やして、反「脳死=人間死}論を展開するのですが、不思議なことに、二つのテストを追加せよという以外には、人間の死とは何かといった本質的な考察はどこにも見当たりません。しつこくしつこく二つのテストを追加せよと繰り返すのみです。
 それはちょうど、田中角栄を論ずるのに、その政治家としての力量や政策のよしあしにはまったく目を配らず、ひたすら派手な金の出入りだけを問題視するのによく似ています。
 筆者は、もともと「脳死=人間死」の議論に反対でした。ですから、医療のレベルでテストをより厳密にすることに異存はありません。しかし問題はその理由です。
 当時、脳死をめぐる議論の中心は、医学的に「死」と認められたからといって、それをもってただちに人間の死としてよいのかという高度に倫理学的・哲学的なレベルにありました。これはもちろん、臓器移植技術の発達によって、移植医からの要請が高まり、どういう形で人間の死を規定したらよいのかという、これまでなかった問題が発生したからです。ところが立花氏は、こうした問題に少しも興味を示していないのです。
 筆者の考えはこうでした。

 テストの厳密化はテクニカルなレベルでやるに越したことはないが、そこに議論の中心を持ってくるのはおかしい。人間の死とは、共同関係の崩壊あるいは変容であって、当人を取り巻く親密な共同性のメンバーの同意なくしてある個人を死んだものとみなすのは誤りである。だからこそ人は路傍の死体の身元引受人を探すのだし、家族や親族の間で誰かが死ねば、必ず手厚く葬るのである。葬送はその人の死によって共同性が変容しつつあることを遺族が承認する手続きとして不可欠であり、人倫の基本をなすものである。もし立花氏の主張するように、医学的テストの厳密化だけを議論の中心にすると、裏を返せば、そこだけ厳密化すればあとは家族・親族が認めようが認めまいがどうでもよいという論理を導きかねない。

 この違いを感じてから、ひょっとしてこの人(立花氏)は、人間というものをただの生物個体としてしかとらえていないのではないかと思うようになりました。もしそうだとすると、それは極めて通俗的・非哲学的な人間観の持ち主だということを意味します。
 やがてこの推測は的中します。
 立花氏は『脳死臨調批判』を刊行してからなぜかぷつりとこの問題について論じなくなり(議論はずっと続いていたのに)、臨死体験やインターネットや宇宙やオウム事件へとその関心を移していくのですが、臓器移植法が成立した九八年から一年後の九九年、何の迷いもなくドナーカードに署名します。脳死と判定された場合でも、心停止の場合でもすべての臓器を提供する意思がある、と。
 「え? 立花さん、それはおかしくないですか?」とだれもが思いました。しかし、よく考えてみるとこれはおかしくないのです。
 というのは、彼はこの疑問に答えて、ぼくはなぜドナーカードに署名したか」という論文を書き、その中で、「『脳死は人の死ではない』論の多くは、死の本質と死に付随して起こるアクシデンタルなできごと(状況)の混同の上に立論されている」と述べ、また、「生死の問題はその人自身の生死の問題でしかなく、他者の心の中にある私という存在は、私にとってはヴァーチャルな存在でしかない」とまことにあっさりと述べているからです。
 この捉え方は、哲学めかしていますが、要するに「あなたはあなた、私は私」という身体の個別性にもとづいた通俗的な個体主義にほかなりません。
 こうした個体主義は、わかりやすいので巷に蔓延していますが、少し哲学的に考えていくと、「どのようにして私は他者を私と同じ人間存在として認めるのか」とか、「別々の個体なのに、示し合わせもせずに感覚や感情において共感が成り立つのはなぜか」といった疑問に答えることができないことに気づきます。
 答えられなくても別に生きていくのに困りませんが、問題は、立花氏が「死の本質」などといかめしい言葉を使いながら、その素朴個体主義に何の懐疑も抱いていないことです。そこがまさに彼の哲学的センスのなさなのです。
 立花氏は、東大仏文科で唯心論者のメーヌ・ド・ビランについて卒論を欠き、卒業後文芸春秋に入社してから二年後に再び東大文学部哲学科に学士入学しているのですが、この哲学研究の経験はいったい何だったのでしょうか。

 ほどなくこの素朴個体主義にもとづく人間観、生命観は、もっと過激な形で現れます。彼は臓器移植問題に早々と見切りをつけ、ティッシュ・エンジニアリング(遺体をバラバラに解体し、組織断片を生きた人間の身体の欠損部に埋め込む再生医療技術)に異様な興味を抱きます。ロシアやアメリカの再生医療工場を見学して感動し、この新しい技術を手放しで礼讃するのです。
 理屈は、エコロジーから借りてきます。いまや人間も野生動物と同じ生命連鎖を人工的に作り出すことができるようになったのだ、と(『人体再生』二〇〇〇年)。
 これは立花氏が、人間身体のすべてをパーツの組み立てによって構成できるとする科学万能主義のイデオロギーに何の疑いもなくハマってしまったことを意味しています。この発想が優生思想と紙一重なのだということ、その脱倫理性に彼は気づいてもいません。
 やがてこの発想は、遺伝子組み換え食品に対する無条件な礼讃にもつながっていきます。これについては、先の『嘘八百』のなかで、粥川準二氏が、その誤りや危険性について周到に説いています)。まさに昨今問題となってきた、TPPや農協改革法などによるグローバリズムの国家侵略とかかわってきますね。
 科学技術の発展に対して何の疑いも抱かないこのナイーヴな受容は、彼の知性の質が基本的に普通の人以下の幼稚なものだということを示しています。
人間の身体も機械と同じように単なるパーツの組み合わせだというのは、デカルトを連想させますが、ではデカルトが悩んだような、そしてその説明に失敗したような、「こころ」「魂」「精神」と身体とのつながりはどうなっているのだという疑問に対しては、立花氏はどう考えたのでしょうか。これについては、『臨死体験』(一九九四年)が、その恰好の材料となるでしょう。

 そこで最後に『臨死体験』。
 この本は、死の間近まで行きながら蘇生してきた人たちが証言する「体験」の事例をおびただしく集め、それに解釈を加える研究者やニューエイジの信奉者などの発言を加えて、その「体験」の客観的真偽を確かめようとした本です。これまた九百ページ超。
 立花氏のこの領域への「浮気」は、明らかに当時の新々宗教ブームに関係があります。もともと素朴実在論者であるはずの彼が、周囲の文化的趨勢に押されて、よし、このスピリチュアルな領域も踏破してやると考えたのがおそらく本音でしょう。
 そもそも多くのインテリたちまでも巻き込んで、やがてオウム事件(一九九五年)という悲惨な結末へと至る新々宗教ブームはどうして起きたのか。
 筆者の考えでは、これは日本の豊かな近代化の完成と関係があります。バブル時代を経て一億総中流が唱えられましたが、それは同時に、人々を浮かれ騒ぎへと誘う「退屈な日常」を提供するものでもありました。
 日本人の長年の憧れであった豊かな近代都市社会。憧れが実現してそれが日常化してみると、それは強力な個人化の流れのなかを泳ぐことでもあり、自我意識の空虚と孤独感をかき立てる光景でもありました。
 こういう時、人々はきっちりと枠づけられた合理的な物質生活では得られない(と感じる)何か別の世界、スピリチュアル、霊的なもの、神秘的な経験といった、贅沢な境位を空しく求めます。この世界を超越したもっと「真実」な世界がどこかにあるのではないか?
 この時期、栗本慎一郎氏や中沢新一氏など、いささかエキセントリックなインテリたちが一様にこの文化的空気に巻き込まれ、また自らその空気をリードしたのでした。足元ではすでにバブルがはじけ、以後長く続く不景気の波が押し寄せていたのですが、とかく個々人の意識はマクロ経済に無頓着です。九〇年代は足元の危機とバブル期以来の超日常感覚の残存とのタイムラグが歴然と現れた十年でした。
 素朴実在論者であるはずの立花氏も例外ではありませんでした。彼もまた時代の空気には逆らえず、スピリチュアルな領域に関心を抱き、日ごろの信条を、臨死体験や超常現象の解明(?)という試練にかけようとしたのです。
 彼のこの領域への挿入武器は、たったひとつ、臨死体験は「現実体験」なのか、それとも夢や幻覚と同じ「脳内現象」なのかという二元論的な問いにこだわることでした。
 ただし立花氏の名誉のためにことわっておくと、この本では、膨大な告白例やインタビューの記載に対してけっして軽信に陥ってはいず、かなり慎重な態度を崩していません。それでも最終的に自ら立てたこの二元論的問いの枠組みを崩さず、結論として、自分としては「脳内現象」のほうに傾くが、「現実体験」である可能性も完全には否定しきれないというところに落ち着いています。
 さて筆者の私見ですが、この二元論的問いの立て方そのものが非哲学的であり、言葉の使い方からして不正確です。そもそも脳内現象とは、ある人の脳の内部を観察・観測している他者の視点にとってのみ把握可能なものです。それは、ニューロンとニューロンとの複雑な電気化学的やりとりのことであり、それ以上のものではありません。
 何かを知覚・認識している本人にとって、あるヴィジョンなり心的体験なりは、どんな形を取ろうと、それ自体としては「脳内現象」ではないのです。私たちはただ、視点を自分自身と他者とに二重化させることによってはじめて、「脳内現象」と「体験」とが並行現象であることを知ることができるだけです。
 ところで夢や幻覚は、脳内現象がどんな形を取っていようと、明瞭な「体験」なのであって、現実と異なるのは、それらが必ず「醒める」ものであり、またまれにいつまでも醒めない場合にはけっして他者に承認されないという本質的な特性を持っているという点です。
 現実は逆にけっして醒めることがなく、また必ず他者の承認を得られる可能性のうちにあります。これ以外に夢や幻覚と現実とをわけ隔てる条件はありません。翻って私たちが現実と呼んでいるものは、脳内現象を伴わなければ知覚不能であり、不能であれば現実として認識できないこともまた自明です。
 立花氏の二元論的な問題の立て方は、初めから間違っています。
 なぜ間違えたのか。それは、主観とは無縁に客観的現実なるものが厳然として存在し、それに適合しないものは「体験」とは呼べないという俗流唯物論に拘束されているからです。
 彼はただこう問うべきでした――臨死体験は人が限界状況に置かれたときのヴィジョンなのか、それとも彼岸の客観的存在を証拠立てる入り口なのか、と。そして答えはもちろん前者です。
 ここでは詳しく述べませんが、臨死体験のようなことは(いわゆる「幽体離脱」なども含めて)、特に何か別世界の存在を暗示するような神秘体験として扱うに値しない、十分に起こりうる自然な心的現象です。
 わが国では川や橋やお花畑や亡くなった近親者が出てくる例が多いようですが、これは、私たち一人ひとりが共同性を背負った歴史的存在だからです。一部の人々はそうした共同幻想への感応力が強く、生活環境と有機的に結びついた物語性に深く染められた生き方をしています。それは別に不思議なことではありません。
 
 立花氏はその後、「こちらの世界」に引き返したようで、今度は持ち前の「科学少年」的な情熱を、宇宙、現代物理学、遺伝子工学などに差し向けるのですが、もう深追いはしますまい。『嘘八百』には、立花氏は現代物理学の基礎もわかっていないという故佐藤進京都大学名誉教授の痛烈な指摘があります。
 かくして、立花隆という人を一言で言い括るなら、一つの問題意識に取りつかれると他のことはきれいに忘れてしまい、いっときそれにものすごいエネルギーを注ぐのですが、世の流行関心が移ると、何の脈絡もなくそちらに乗り換える、子どもっぽい多元オタク志向の持ち主だということになるでしょう。
 一見、社会現象や学問領域を広く扱って「総合知」を目指しているような体裁を取ってはいますが、自ら総合化して独自の思想にまで仕上げる力はないようです。もちろんまた、逆に何かの専門家になるわけでもありません。「知の巨人」ならぬ「知の風来坊」というのがふさわしい。
 しかしことは立花氏一個の問題ではありません。彼の活躍期は、七〇年代から九〇年代。立花氏はいわば、日本が一番元気だったころに言論ジャーナリズム界に咲いた仇花だったのです。
 そういう時期に、言論界が、スペシャリストでもジェネラリストでもない、好奇心だけは人一倍旺盛な、ヘンな物書きを、仇花としてしか咲かすことができなかったのだとすれば、これは日本という国がいまだに国際社会の中で文化後進国の位置しか占めていないという哀しい事態を象徴するものだとも言えます。ましてデフレ不況で元気をなくしている今の日本。この環境風土のなかで自立した思想家や哲学者が育つのだろうか、と心配するのは筆者だけでしょうか。

日本虚人列伝――立花隆(その1)

2017年05月29日 00時40分14秒 | 思想

      





以下2回にわたってに掲載するのは、『正論』2017年6月号に寄せた論考にほんの少しの修正を施したものです。

 立花隆? あんな人、もう終わってるよ――そう思われた人は多いのではないでしょうか。しかし仮にそうであるにしても、なぜ七〇年代から九〇年代にかけてあれほど日本の言論ジャーナリズムでもてはやされたのか、そこには当時の日本のどんな文化風土が背景としてあったのか、こうした歴史学的、文化人類学的関心を掘り起こしてみることは、いまの日本を理解する上で一つの導きの糸となるのではないでしょうか。
 じつは今から十五年前の二〇〇二年に『立花隆「嘘八百」の研究』(別冊宝島Real027・宝島社)というムックが出たことがあります。冒頭、編集部が書いたイントロダクションの一節を引きます。

 《「教養」や「知」を盾に取った立花隆の仕事ぶりをつぶさに検証していくと、浮かび上がるのは「シロウト騙し」の手練手管、知的欲求を満足させたい読者に向けて、事実歪曲、思い込み、デタラメ解釈といった不純物混じりの情報を横流しする「知のテキヤ」ぶり。立花隆は二〇世紀のマスコミが抱えてきた恥部、すなわち、いかがわしい情報(知)ブローカー体質を象徴的に体現した存在でもあるのだ。》

 かなり激しい決めつけ方がされています。
しかし立花隆という人は、引用文に書かれたような、意識的にシロウト読者を騙してやろうといった奸智に長けた人ではありません。もっと素朴でクソまじめ、物事をひねって考えることのできない人です。つまり、批評精神ゼロ、哲学的センスゼロ、だけど好奇心とエネルギーだけは並外れて大きい、言ってみれば猪突猛進型の突撃隊員のような人です。だからこそよけい困るのです。
 さて先の本では、政治、脳死、臨死体験、IT、宗教思想、公安問題、現代物理学、生命工学、エコロジー、精神医学、宇宙論等々、彼が扱ってきた驚くべき広汎な対象領域にまたがる「知的探究」なるものに対して、それぞれの書き手が個別に批判を繰り広げています(ちなみに筆者も、「脳死」の項を担当しました)。もっとも中には部分的にほめたたえている稿もあります。
そもそもたった一人の物書きを取り上げて、よってたかっていじめてやろうという企画がビジネスとして立派に成り立つということ自体が、この人物の図体のデカさを示しています(かなり売れたらしい)。その点だけは誰も否定できないでしょう。立花氏本人にとっては名誉なことかもしれません。

 何はともあれ、彼の主要著作のいくつかについて、具体的に当たってみましょう。
 まず彼の出世作である『田中角栄研究 全記録』(一九七六年)。
 これは、田中角栄がいかに金の力によって自民党内最大派閥を形成し、総理大臣の地位を射止め、退陣後も隠然たる力を及ぼし続けたかを、ロッキード事件による田中逮捕に至るまで執拗に追いかけたドキュメンタリーです。
立花氏はリアルタイムで細大漏らさずそのプロセスを記録しました。金権政治とか田中金脈といった言葉はこの本がもとで流行したのです。庶民宰相とか今太閤とか呼ばれてもてはやされた田中角栄が二年五カ月という短期間で退陣に追い込まれたのも、この本によるところ大です。
 この本の功罪は、次のところにあります。
「功」は、これ以降、政治資金規正法がしだいに整備され、大掛かりな贈収賄事件があまり見られなくなったことです。
田中角栄の金集め、バラマキはたしかに露骨というにふさわしいものがありました。これ以後もリクルート事件、KSD事件などが起き、大きなスキャンダルになりましたが、金集めの手法、その金額、中央政治家が堂々と金で人を動かす姿勢などにおいて、いわゆる「田中金権政治」の比ではありません。
「罪」ですが、これは、著者・立花氏自身にもかかわることです。それは、この本によって、政治家というものはいつも利権のためにだけ行動するものだという印象が国民の間に植え付けられてしまったことです。
もちろん政治倫理は大切ですが、権力を握っている政治家のすべてが官僚や財界と癒着してその利権のうまみを目指して行動しているわけではありません。しかしいったんこうした印象が定着すると、国民は、行われている政治のよしあしの判断基準を、贈収賄や公金横領などの倫理的な問題にだけ置くようになり、ある政党の政策や政治家の政策実現能力などを見ないようになります。
 立花氏は、実際この固定観念から抜けられず、その後の汚職事件についての感想を求められると、判で押したように「田中金脈以来の日本政治の本質的な構造は改まっていない」と答えるようになります。
 実際にはそういう見方はもう古く、日本の政治は、さほど金の力で動くようなものではなくなっていました。最近では、むしろ国会が機能せず、タコツボに入って視野狭窄に陥った官僚や学者、一部の「民間議員」と称する内閣直属の会議の「議員」たちの間違った独裁がこの国の政治を悪い方へ、悪い方へと導いています。
 国民大衆の多くがいまだに「政治は金が動かしている」というわかりやすい図式で政治批判をする根底には、富裕層や権力者に対するルサンチマンがあります。ことに長引くデフレ不況で貧困層が増えれば増えるほど、この傾向は増していきます。
最近の例では、舛添元都知事のチンケな公金使い込みなどをこれでもかこれでもかと追及して、ついに辞任に追い込んだ例があります。国民のルサンチマンは、このようにして、現実政策の是非を判断することから目をそらさせるために常に利用されているのです。立花氏はこの本によってその先鞭をつけたと言えるでしょう。
これはこの本の「罪」というよりは、決定的な「欠落」というべきなのですが、上下巻九百ぺージ近くに及ぶこの大著で、田中角栄が議員時代、閣僚時代にどんな政策を実現させたかという、政治論として最も大事なことがらに言及した部分は、驚くべきことにほとんど一ページも見当たりません。
 少なくとも田中の政治家としての初期の活躍ぶりには目覚ましいものがあります。
 一九四九年、田中はインフラ整備と国土開発を主なテーマに活動。以後、五三年まで、三三本の議員立法に関わり、その間、建築士法、公営住宅法を成立させ、公営住宅法は後に日本住宅公団設立の基礎となります。
五二年には道路法改正法を成立させ、二級国道の制定により国費投入の範囲を広げます。また道路審議会を設置し、「陳情」の民意を反映させる方式を取りいれます。
五三年には、道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、ガソリン税相当分を道路特定財源とすることを可能にします。
五七年、岸内閣で郵政大臣に就任。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、現在の新聞社 - キー局 - ネット局体制の民間放送の原型を完成します。
 田中はマクロ経済に無知でしたから、首相時代には高度成長後のインフレ対策を大蔵省出身の福田に丸投げしましたが、それは裏を返せば、田中がいかに日本の経済成長に執念を燃やしていたかということの証左でもあります。
以上の記述からは、戦後の混乱がまだ収まらない中で、国民が何を一番望んでいるかに敏感で、ことの要を押さえつつ、辣腕を発揮しているさまが彷彿とします。
 これらの政策のよしあしの判断は読者にお任せしますが、立花氏が信じさせたがっているように、田中が権力欲や金銭欲だけのために巨額の金を動かしたのではないことは確かでしょう。状況に応じてどんな政策を取ったか、それは正しかったかという設問なしに「田中角栄研究」など成り立つはずがないのです。
これは、立花氏自身が政治音痴であることを明かすものであり、同時に、「大衆も政治家も金のことにしか興味がないのだ」という単純なテーゼによって、国民を煽り本来の政治から目をそらさせていることになります。

経済音痴が日本を滅ぼす

2017年05月24日 12時21分05秒 | 政治
        



以下は、5月13日付「日刊スパ!」デジタル版に掲載された、「自衛隊を守る会」顧問・梨恵華氏の記事の一部です。
https://nikkan-spa.jp/1329422
《ここでさらに防衛大綱で潜水艦の新造艦や延命措置によって大幅に増やされることとなり、人員を増やす計画がなされないまま潜水艦だけが増やされた形となっています。
 財務省としては、防衛予算を毎年、少しでも削減することが目標ですから、潜水艦が増えた分のコスト削減目標があります。何かを増やせば何かを削減しろというのが財務省です。潜水艦が増えたら、潜水艦に必要な乗組員を大幅に増やす予算を確保しなければならないはずなのに真逆の目標があるのです。
 毎年防衛省から発行される「防衛省の我が国の防衛と予算」には「自衛隊定数等の変更」という報告があり、必ずどれくらい定数を減らしたのかという削減マークが付けられています。モノが増え、船が増え、装備が大型化しても、予算削減のためにその運用するための人員は減らすといういびつな予算が潜水艦の過酷な労働を生む大きな原因です。潜水艦を増やすが人は増やさないとなると、方法は一つです。休みなしに長時間労働で補うしかないのです。また従順な潜水艦乗組員は不満を表にあらわさずちょうどいいのでしょう。》

 自衛隊員は、有事平時に限らず、労働基準法適用外です。人員が十分確保できないため、有給休暇などとることができず、長時間苛酷な任務に耐えなくてはなりません。
 特に潜水艦乘りは秘密厳守が必要なので、おいそれと停泊できず、狭く暗い環境の中で、休日、睡眠なしの長期勤務を強いられるのが常識となっています。これは容易に想像できることですね。
 おまけに医者を乗船させるだけの予算もなく、病気になっても十分な投薬もされないとのこと、そのためここ1、2年間で自殺や事故が多発しているそうですが、これも表ざたになっていません。

 梨恵華氏は、「これを改善する道はただ一つ、人員を大量に募集して二交代制にすることだ」と書いていますが、上記の引用でわかるように、財務省の予算削減の方針がこれを頑固に阻んでいます。
 当たり前のことが当たり前に行われていない。これで日本の安全保障が守られるはずがありません

 この記事に触れたすぐ後、今度は次のような記事に触れました。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS16H5U_W7A510C1PP8000/
《自民党税制調査会の野田毅最高顧問ら有志議員が16日、財政再建に向けた勉強会を発足させた。勉強会を通じて安倍晋三首相の経済政策「アベノミクス」に警鐘を鳴らすのが目的。野田氏が代表発起人を務め、中谷元・前防衛相や野田聖子元総務会長が呼びかけ人となった。野田毅氏は「財政破綻の足音が聞こえてきており、このまま放置するわけにはいかない。財源の裏付けがないまま、惰性に流されるのはあまりにも無責任だ」と語った。

 臍が茶を沸かすとはこのことです。ようよう、おバカ政治家・両野田氏、財務省にペーパーなど出してもらって何をお勉強するの。
 「国の借金1000兆円」「PB黒字化目標」「積極財政は国債の暴落(金利の暴騰)を招く」「財政再建待ったなし」――耳にタコができるほど聞かされたこれらの嘘八百を真実と勘違いして、進んで再確認しようというのですから、話になりません。一体どこから財政破綻の足音が聞こえてくるのか。

 この記事についてはすでに三橋貴明氏がご自身のブログで、「野田毅氏の幻聴」といううまい表現を使ってすでに触れていましたが、「財源の裏付け」なんて、財務省教祖様の「緊縮真理教」をいち早く棄教して、財政出動に打って出るだけでいくらでも確保できるではありませんか。
 政権与党である自民党の重鎮が、このようにマクロ経済のイロハも理解していないために、財務省お墨付きの「勉強会」とやらをやってますます騙されていくという構図です。
 これが日本の政治です。情けないとしか言いようがありません。
 笑って済ませられないのは、この中に防衛問題に強いはずの中谷元氏が含まれていることです。
 中谷氏は、いったい自衛隊のボロボロの現状をどれだけ知っているのか。前防衛大臣として自衛隊が可愛くはないのか。
 さらに笑って済ませられないのは(こちらの方が重要ですが)この勉強会なるもの、明確な政治的意図のもとに組織されているという事実です。
 言うまでもなく、ここには、今のうちに、2019年に予定されている消費増税への足固めをしておこうという魂胆がありありと見え透いています。
 ふつふつと怒りが沸き起こってくるのを抑えることができません。

 安倍政権は、2020年までのPB黒字化目標という方針を見直して、政府債務の対GDP比率を重視するという方針に転換しようとしています(これにはおそらく、内閣官房参与の藤井聡氏の懸命な努力が功を奏しているのでしょう)。野田氏らの「勉強会」なるものは、これに対する露骨な対抗措置と言えます。
 ここからは想像になりますが、その底にあるのは、党内の反安倍勢力による安倍降ろしという、ただのくだらない権力争いです。
 たぶんポスト安倍と目されている石破茂氏を担ぎ出そうとでもいうのでしょう。筆者は自民党内の派閥勢力図などよく知りませんが、石破氏もまた恐るべき経済音痴であることだけは知っております。
 筆者はまた、けっして安倍首相を支持しているわけではありませんし、彼がマクロ経済をよく理解しているとも思いません。しかし、せっかく彼がデフレ脱却に結びつく少しはマシな政策を取ろうとしている時に、無知な政治家たちが財務省のデマを政争の道具に利用して足を引っ張ろうとするのを許すわけにはいかないのです。
 まことに無知ほど恐ろしいものはありません。

 まだあります。
 これも三橋氏や藤井氏がすでに触れていますが、1~3月期のGDP実質成長率が年率換算でプラス2.2%と5四半期連続で伸びているという内閣府発表にもとづく最近のニュースです。
 いかにも景気が回復しているように見えます。
 じっさい少し前に、筆者は「景気が回復したので」といった経済記事の記述を見てびっくりしたおぼえがあります。
 しかしこれもペテンに引っかかっているのです。
 実質成長率は、それ自体は計算できず、「名目成長率-物価上昇率」という式で表されます。ですから、たとえ名目成長率がマイナスでも(実際そうなのですが)、物価上昇率がそれを上回ってマイナスなら(これも実際そうなのですが)、実質成長率はプラスとして表されることになります。
 名目成長率がマイナスで、物価上昇率が大きくマイナスに落ち込んでいるということは、言うまでもなく、日本が再デフレ化に突入しつつあることを意味します。名目成長率も物価上昇率もともにプラスになるのでなければ、景気が回復したとは言えません。
 にもかかわらず政府およびマスコミは、名目成長率にも物価上昇率にも触れず、実質成長率のプラス化だけを発表・報道し、あたかもデフレから脱却しつつあるかのような悪質な印象操作を行っているわけです。
 政府はこの四年間何ら有効な財政政策を打たなかったのに、数字をごまかすことによって国民を騙し、来たるべき消費増税を正当化しようとしているのです。私たちは、このウソを見破って、断固として国民窮乏化をもたらす動きに抵抗しなくてはなりません。
 冒頭に例示した自衛隊のような悲惨なありさまは、他の社会領域でもあちこちで起きています。大げさでなく、亡国への歩みは確実に進んでいるのです。



中野剛志著『富国と強兵』読書会のお知らせ

2017年05月22日 20時46分05秒 | お知らせ


読書会のお知らせです。

6月11日(日)、美津島明氏が主宰する「日本近代思想研究会」にて、中野剛志著『富国と強兵』の読書会が行なわれます。

当日は、中野氏ご自身が参席されます。

実施要領は以下のとおりです。どうぞふるってご参加ください。

ご予約申し込みは特に必要ありません。直にお越しください。

《実施要項》

日時:6月11日(日)午後3時~7時

会場:ルノアール新宿区役所横店6号室

アクセスhttps://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13116914/dtlmap/
(立ち上がった画面を少しスクロールしてください。地図が出てきます)
  新宿区 歌舞伎町 1-3-5 相模ビル1F 2F 03-3209-6175

テキスト:『富国と強兵 地政経済学序説』(中野剛志 東洋経済新報社 3600円+税)

レポーター:藤田貴也さん

参加費用は、人数によりますが、場所代・飲み物込みで一人当たり1500円前後(場所代・飲み物代)+1300円です。プラス1300円は、中野氏への謝礼に充当されます。ご理解のほど、お願いいたします。

また、中野氏が2次会に参加なさる場合、氏の分は、ほかの参加者で均等負担することになります。合わせて、ご理解のほどお願いいたします。

                                                 

サイコパスは生まれつきか

2017年05月19日 13時38分32秒 | 社会評論
      




*以下に掲げるのは、『Voice』2017年5月号に寄稿した記事にほんの少し訂正を施して転載したものです。


◆独り歩きして濫用される言葉

『言ってはいけない』(橘玲著・新潮新書)や『サイコパス』(中野信子著・文春新書)がよく売れているそうです。背景には、相模原障害者施設殺傷事件や小金井女子大生傷害事件の加害者がサイコパスではないかとの世間の判断があると思われます。森友学園問題の渦中の人もそういう悪口を叩かれました。一度ある言葉が流行ると、独り歩きして濫用されます。
「サイコパス」とは精神医学用語です。もともとは「精神病質」と訳されていましたが、その適用対象が時代とともに変遷し、現在では「反社会性人格障害」と訳されています。
 犯罪心理学者のロバート・D・ヘア氏はサイコパスを以下のように特徴づけています。

 ①良心が異常に欠如している 
 ②他者に冷淡で共感しない
 ③慢性的に平然と嘘をつく
 ④行動に対する責任が全く取れない
 ⑤罪悪感が皆無 
 ⑥自尊心が過大で自己中心的 
 ⑦口が達者で表面は魅力的

 こういう傾向をもった人は昔から一定割合でいましたし、また他の変人、異常性格者、精神病者と同じように程度問題で、グラデーションをなしています。サイコパスのすべてが犯罪者ではないし、逆に犯罪者のすべてがサイコパスであるわけでもありません。

◆進化心理学は疑似科学

 ところで、右に挙げた二著に共通しているのは、両者とも、多くの外国の研究を紹介しながら、このサイコパスが遺伝性によるものではないかという考えを提出している点です。つまり成育環境の影響によるよりも、生まれつき普通の人とは違った種族なのだという印象を読者に与える効果を醸し出しているのですね。
 もっとも、中野氏の著書のほうは、脳科学の専門家らしく、かなり慎重な記述を取っています。これに対して橘氏の著書のほうは、かなりその面を強調していて、その点、ある意味で刺激的であるとも言えます。
 ここでは、両著の批評を試みようというのではありません。
 ちなみに一言だけ感想を申し上げておくと、両著とも英米系で発達した進化心理学なる学問にかなり信頼を置いているようですが、私自身は、この学問の方法原理をあまり信用していません。それには二つの理由があります。
 一つは、自然界に見られる「種の形態的変異」の多様性を進化によって説明したダーウィンのオリジナルを、そのまま人類社会における「個体(個人)の心」の変異に適用することに無理を感じるからです。「人類社会」という、それ自体自然とかかわりつつ変異を重ねていく一つの「種」を、自然環境と同一視しているのです。
 もう一つは、進化心理学は、自分(この場合も「種」全体ではなく特定個体群です)の子孫の維持繁栄のための「戦略」という言葉を好んで用います。しかし戦略というからには、初めからある目的を意識して特定の手段を用いる「主体」を想定しなくてはなりません(心理学なのですから)。ところが進化心理学は、その主体があたかも遺伝子それ自体であるかのようなあいまいな擬人法を用います。それは「神のご意志」をDNAに置き換えただけのことです。DNA決定論と人間の自由意志との間の矛盾という哲学的難問を飛び越したまま、生物学的進化と人間心理とを強引につなげているのです。
 だから私はこの学問は、疑似科学だと思っています。膨大な資料を収集して得られた統計的事実は現象として尊重しますが、説明原理には納得できないのです。
 閑話休題。

◆ラベリングに潜む倫理性からの免除

 この論考で考えてみたいのは、「サイコパス」のようなラベリングによって、私たちを分節すること、いわゆる普通人と生まれつきの異常人とを区別することが、私たちの社会的関心にとって何を意味するのかという点です。
 これは言い換えれば、倫理的なテーマです。
 ここで倫理とは、やや難しい言い方になりますが、ある行為や判断に関して、人生時間の長さや人間関係の広がりを視野に入れながら、その意味を考える精神のことです。この場合で言えば、「サイコパスは遺伝的に決定されているという説がある。それはこれこれの理由で当たっている(いない)」と表明しただけでは、物事を倫理的に見たことになりません。そのような捉え方を提出することの社会的な意味を考えることが重要なのです。サイコパスは遺伝現象だという判断が、どういう既成の理解や「正しさ」の観念を背景として投げ出され、それがどういう社会心理的効果を生むのか、それを見極めること――それが倫理的な営みというものです。
 たとえば「病気」という概念があります。
 私たちは普通、この概念を、個体の心身の健全さが何らかの生物的・心理的原因によって内部で損なわれることと理解して疑いを持ちません。しかしそれだけでは不十分なのです。
 病気とは、そうした心身の損害によって日常生活上の倫理的つながりから「免除」されることです。病気とはもともと人間関係に関わる社会的な概念なのです。ある個体の内部の変容、腹痛がするとか迫害妄想に悩まされるとか、それだけを取り出して「病気」と名付けるのではありません。
 病気という概念は、周囲の人々がその人の変容に対してどういう態度(モード)で振る舞うかという関わり方までを含んでいます。つまりその人から、義務や責任や、普通に人と共に生きることまでも含めた倫理性を免除してやるという関わり方です。医師の診断書がないと会社が病気と認めてくれないなどということがよくありますね。周りに疎まれる振る舞いをやめない人のことを「あれは病気だから仕方がない」などと言ったりします。
 倫理性からの免除は同時に日常的な関係からの「追放」でもあります。ことにメンタルな面に関して「あいつは病気だ」という周囲の判断は、「あいつとはつきあわないようにしよう」とか「あいつには仕事をさせられない」という決断に容易につながります。
 要するに自分たちとその人との間に明確な一線を引くことで、仲間はずれにするわけですね。「病気」にかぎらず、一般に他者に対するすべてのカテゴライズ、ラベリングには、この「免除」と「追放」との両義性が絡んでいます。

◆過剰なPCに挑んだトランプ大統領

 ポリティカル・コレクトネス(PC)について考えてみましょう。
 PCとは、人権尊重や平等主義、反差別主義の立場から、こうしたカテゴライズやラベリングを印象づける表現を禁止することです。PCは、カテゴライズやラベリングを嫌います。これらが、共同性からの「追放」の側面を多かれ少なかれもつからです。
 しかし過剰なPCは、硬直したイデオロギーとなって、人々を息苦しくさせます。冒頭に掲げた二著、特に『言ってはいけない』は、過剰なPCに対する挑戦の意図を込めています。
 米国は、民主党政権下で過剰なPCの傾向が顕著でした。多民族国家の秩序維持という難しい課題を前にして、実態としては相互異族視、排外主義、差別などが逓減していないにもかかわらず(だからこそ?)、建前の上でヒステリックなほどにPCを看板として立てています。「メリー・クリスマス」はキリスト教のお祭りの言葉で異教徒の差別につながるから言ってはいけないとか、「天にましますわれらの父よ」は父権主義のあらわれで女性差別だからダメだとか。
 日本に比べて欧米では、PC問題はかなり深刻なようです。自由、平等、人権などの理念を強固に打ち出してきた歴史を抱えているため、それらの建前と実態との乖離がますます露出してきたからです。欧米は移民・難民問題を抱えており、この問題が生み出す異民族、異教徒間の緊張関係が深まれば深まるほど、建前の欺瞞性が明らかになってきました。EUの見せかけの寛容さの下で、シャルリー・エブド事件、難民たちによる数々の暴動、ホーム・グロウンによるテロ、本国人たちによる逆襲、難民受け入れ停止国の出現、移民排斥・移民制限を訴える政党の勢力伸長など、もはや収拾がつかないありさまです。
 トランプ大統領が登場したことによって、PCの硬直性に風穴を開けようという雰囲気が新たに生まれました。空疎な理想主義を追わずに、現実をよく見て、本音で大いに語ろうではないかという雰囲気ですね。
 しかし彼のやり方、特にアラブ七か国(のち六か国)からの移民・難民制限政策がやや急激であったため、それに対する感情的反動もものすごく、連邦地裁やいくつかの州の地裁で大統領令差し止めの仮処分がなされたほか、理念を前面に押し出す民主党陣営の反トランプ勢力も強く、トランプ氏は劣勢に立たされています。
 けれども難民受け入れ制限についてのトランプ氏の大統領令の中身をよく見ると、テロを防ぐという現実的な観点からは当然と言ってもよいもので、格別差別主義とか排外主義とか呼べるものではありません。ちなみにこの点については、拙ブログhttp://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/94b4c5947b93f47089cb026a2547125cをご参照ください。

◆刑法第39条は半ば形骸化している

 橘・中野両氏の本も、それほど強くタブーを破っているといった印象はありません。「サイコパスは遺伝が原因である可能性が濃厚だ。サイコパスが犯罪者の一定割合を占めることは明らかだ」という判断を、精しい統計資料を紹介しながら述べているだけです。現実をよく見て、あるべき社会政策を考えていこうと提言するにとどまっています。
 サイコパスという概念も、その言葉の発祥からして病気との関連性を失っているわけではありません。したがって、それとおぼしき人が凶悪犯罪の容疑者となった時には精神鑑定の対象となります。
 心神喪失や心神耗弱による減刑(刑法第39条)の要求は弁護側からよく出されますが、最近は、たとえ「サイコパス」などの鑑定がなされた場合でも、責任能力ありと判断される場合が多いようです。39条は半ば形骸化している感があります。
 これは、社会倫理の重点が、被告の人権尊重の観点から、社会秩序防衛の観点に少しずつ移ってきたということなのでしょう。被害者遺族の心情や犯罪が引き起こす一般市民の不安感情を考えれば、ある意味当然と言えます。日本の治安状態は、いまのところけっして悪化してはいないのですが、情報社会化の進展によって、国際テロの影響などもあり、国民の不安が増大しているのだと思います。
「サイコパスは、生まれつき決まっている蓋然性が高い」、さらに一歩深めて、「ある種の凶悪犯罪者はサイコパスであるから矯正困難だ」というような判断が力を得てくるのも、不安の増大の流れの中にあるでしょう。社会学的に見れば、一人世帯の急激な増加なども関係していると考えられます。
 しかしこうした判断は、何も今に始まったことではありません。19世紀後半から20世紀初頭に活躍した犯罪人類学の元祖と言われるチェーザレ・ロンブローゾは、「生来的犯罪人説」を唱えて一世を風靡しました。この時期が、第一次大戦前夜のヨーロッパで、社会不安がたいへん高まった時期であるのも、何やら暗示的です。

◆ラベリングは集団心理を落ち着かせる

 あるそれらしき一群に名前を付けてカテゴライズし、それを「自分たち普通人」と区別(差別)しようという衝動が高まることの背景には、世界秩序の大きな流動化という要因が作用しているでしょう。
 それは個人に対して帰属意識(アイデンティティ)の不安定化を呼び起こします。名前のついていない一群を前にすると、私たちはとても不安になります。ラベリングは、私たちの集団心理を落ち着かせるために行なわれるのです。
 それを巧みに利用したのがナチスです。古くからのユダヤ人差別意識を下地に、優生学的な判断を結びつけたナチスのような動きが吹き荒れたのも、世界恐慌後の混乱期を背景としていました。それで、優生学といえばいまわしいナチスを思い浮かべるのが、自由主義社会の住人の条件反射のようになっています。
 しかし実は私たちは、優生学的な判断に近いことを薄められた形で日々行なっているのです。私たちは、いのちは平等に尊いとはけっして考えていません。
 たとえば大勢の人が危難に遭った時、誰を優先的に救うべきかという判断において、老人よりも子どもを、縁の遠い人よりも身近な親しい人を、大したとりえのない人よりも重要人物を先に生かそうと考えるでしょう。英雄にあこがれるのも、能力の劣った人を軽視するのも、「気に食わない奴」をよってたかって排斥するのも、出生前診断で障害児の出産を避けるのも同じ感覚です。
 優生学的な考え方は、私たちが無意識に取っている、そういうごく当たり前な序列化の感覚を、強大な権力が民族や人種というわかりやすい集団的指標をよりどころに、世界の不安定に乗じて巧みに組織化したところに成り立ちます。優生学的発想は私たちの中にもともとあり、逃れることはできないということを深く自覚する必要があります。
 だから「サイコパスは遺伝的に決まっており、ある種の犯罪者はこれに属する」という捉え方を一概に斥けるわけにはいきません。
 こうした判断が科学的真実として正しいか間違っているかが問題ではないのです。大事なのは、そういう見方をしなくてはならない局面がある、ということなのです。たとえば小学生の首を切り落として校門の前に置いた「少年A」や、同級生を絞め殺して遺体の頭や手首を切断した佐世保の女子高校生などを「理解」しようとする時には、こういう判断に立たざるを得ないでしょう。

◆決定論に頼ろうとする態度は不安の表れ

 またある異常が先天的なものであるとか、これは「病気」であるとかラベリングされたときに、その当人がかえって安心して落ち着くという不思議な面を人間はもっています。それは、自分の努力とか責任の問題ではないという告知によって、アイデンティティ不安から逃れられるからです。諦めれば腰が据わって生きる方向が見えてくるのですね。
 だから、ある種の決めつけは、局面次第で仕方がないこともあれば、よい効果を生むこともあります。要は、決定論に陥らず、人間という生物の可塑性を担保しておくことが大切なのです。
 しかし可塑性を担保しておくといっても、一部の人が好んで取りたがるような、人間の生まれつきの差異を極小に見積もろうとする態度にも全面的に賛成するわけにはいきません。この種の態度を取る人たちは、遺伝的決定論に対抗して環境決定論を持ち出します。この子の失調(非行、学力不振、暴力的傾向その他)は幼い時にこれこれの育てられ方をしたからだ、といったように。
 遺伝決定論も環境決定論も、科学によって決着のつく議論ではなく、初めに結論ありきの一種のイデオロギーなのです。
 遺伝か環境かというのは、決着のつかない永遠の問いですが、そもそもこの二者択一的な問いの立て方がおかしい。それはちょうど、グラスに入っている水の形を決めているのは、水の粒子の集まりか、それともグラスかと問うのに似ています。
 遺伝的形質は特定の環境を通してのみ発現します。ですから両方だと答える以外ありません。もともと質の違った二つの概念を目の前に並べてどちらかを選べという論理に無理があるのです。
 人間の性格や能力や行動の傾向について、遺伝的要因が優勢か環境的要因が優勢かをいうことはできるでしょう。けれども決定論に頼ろうとする態度は、それ自体が、その人の不安をあらわしています。人間はいずれ不安から逃れるすべはないので、大事なことは、決定論に陥らないように両極端の均衡点に立つ不安に耐え続けることです。それがよい倫理的態度なのです。





プレミアム・フライデー狂想曲 働かなくてほんとにいいの?

2017年05月14日 19時50分57秒 | 社会評論
      





*以下に掲げるのは、『正論』2017年5月号に寄稿した記事にほんの少し訂正を施して転載したものです。


◆「早く帰った」は3・7%


 去る2月24日、私はある用事があって都心に赴きました。終わったのが四時半くらい。ラッシュアワーにはまだ早いのに、郊外に向かう帰りの電車が勤め人風の人でけっこう混んでいました。みなさん、何の日だったか憶えていますか。
 そう、初めてのプレミアム・フライデー(プレ金)だったんですね。なるほどと思ったものの、ぎゅうぎゅう詰めというほどではない。まあ、こんなものだろうという程度です。
「働き方改革」と消費の伸び悩み改善の一石二鳥という触れ込みのこのアイデア、いったい誰が言い出したのか、セコイというか、白けるというか、見当外れというか、まあ政府の考えることは、何ともバカバカしいとしか形容のしようがありません。
 後日の記事によると、首都圏在住の働く男女を対象にした民間調査では、実際に早く帰った人は、たったの3.7%だったそうです(産経ニュース・2017年3月3日付)。当たり前でしょう。
 このアイデアのどこがバカらしいか。いくつもありますが、一つ一つ行きましょう。
 まず前から言われていたことですが、早帰りできるのは、経営状態が良好で余裕のある大企業の正規社員だけだということ。
 日本の中小企業は99.7%を占めますが、このデフレ不況下で四苦八苦しているところがほとんどですから、そんなことが許されるはずがありません。ただでさえ残業、残業、休日出勤と、過酷な労働条件を強いられているのです。事前の聞き取りでも「プレ金? ウチは関係ねえよ」とほとんどの人が答えていたようです。
 後に紹介する「働き方改革」についての資料の中に、「厚労省が、所定外労働時間の削減や年次有給休暇の取得促進を諮る中小企業事業主に対して、その実施に要した費用の一部を助成する助成金制度を導入した」とありますが、そもそも現在のデフレ状況下で、そういうことが中小事業主に可能なのか、きちんと調査・検討した事実を寡聞にして知りません。
 いくら助成してくれるのか知らないけれど、おそらくは雀の涙。これは事業主の道徳心に期待したもので、そういう政治手法は効果薄弱なことが初めから見えています。
 プレ金についての前期記事によれば、余裕のある大企業でも以下のような有様です。

《実施・推奨している職場でも「早く帰るつもりだったが帰れなかった」という人が16.3%。理由には「仕事が終わらなかった」「後日仕事のしわ寄せが来る気がした」「職場の周囲の目が気になった」などがあがった。》

 初めの二つの理由は当然といえば当然ですね。でも最後の理由が、「働き方改革」全体の趣旨にとって意外にも大きな壁となっています。しかしそもそもこの趣旨自体がおかしいのですから、「壁」はじつは壁ではなく、配慮しなくてはならない重要なポイントなのです。これについては後述します。
 また、この種のアイデアが百害あって一利なしなのは、政府がデフレ脱却のために適切な対策を打っていないことから人々の目をそらす作用を持つからです。適切な対策とは、言うまでもなく、プライマリーバランス(基礎的財政収支)黒字化目標を破棄し、大胆な積極財政に打って出ることです(ちなみに積極財政の障害となっている「国の借金1000兆円。このままだと財政破綻する」という財務省発のウソは、いい加減に引っ込めてほしいし、国民もこのウソから目覚めてほしいものです)。

◆日本の休日はかなり多い

 こういう弊害もあります。日本の休日数(年次有給休暇日数)はいま世界の中でもかなり多い方に属するので、これ以上増やす必要はありません。しかし実際には休める人と休めない人との間には大きなギャップがあります。すると、賃金が低くきつい労働に耐えている人々の間にルサンチマンが貯めこまれます。公務員を削減しろなどというのがその典型ですね。
 また「早く帰宅させると消費が伸びる」などという論理は「風が吹けば桶屋が儲かる」と同じで、まったく論理が成り立ちません。というのは、時間当たりの労働生産性が変わらないと仮定すれば、長く労働した方がマクロレベルでは生産高が増え、それに応ずる需要がありさえすれば、その方が消費が増えるはずだからです。バブル期の時はみんな猛烈に働いていましたよ。仕事があったのです。つまり需要があったのです。
おまけに金曜日ですから、一週間精一杯仕事をした気分で夜の街に繰り出せば、それだけお店も繁盛するでしょう。その方が需要創出につながると思うんだけどな。先の記事では、退社した人で最も多かったのが「家で過ごした」(41.8%)だったそうです。あ~あ。

◆休日に働いている人は多い

 ここまでは、いわゆる「サラリーマン」をイメージして論じてきましたが、ここからは、人々があまり気づいていない事実を指摘して「プレ金」の無意味さを述べましょう。この視点は、言われてみれば当たり前なのですが、私たちの先入観を取り払うという意味で、意外に重要だと思います。
 その事実とは、休日というと、オフィスに勤務するホワイトカラーにとっての休日をつい思い浮かべがちですが、じつは休日やオフの時間帯こそ稼ぎ時だという人や、平日が休日になっていたり不定期に休みを取っていたりする人がたくさんいるということです。
「NAVERまとめ」の「職業別・男女別就業者人口の割合」という統計資料(https://matome.naver.jp/odai/2146752095773010701)によって、一般事務、会計事務、営業職業その他、平日オフィスに勤務しているだろうと思われる人の割合を推定してみると(厳密に仕分けすることは困難ですが)、わずか二七%から多くても三二%程度にとどまるのです。
 政府の「働き方改革」なるものも、こうした職業の人が「働く人」のすべてであるかのような錯覚にもとづいて構想されており、仕事に従事する人の正しい実態をとらえていません。レストラン、ホテルなどのサービス業関係者、医療福祉関係者、教育関係者、交通機関関係者、各種小売商、不動産業者、土木建設作業員、出版、テレビなどメディア関係者、農業従事者、漁業従事者、各種自由業者等々、政府はこういう人たちのことを考慮に入れているでしょうか。

◆働く人は減っているが…

 さて問題の「働き方改革」ですが、ニッセイ基礎研究所の金明中氏によると、政府がこの政策を進めている理由は次の三つです。
(1)日本の人口、特に労働力人口が継続して減少していること
(2)日本の長時間労働がなかなか改善されていないこと
(3)政府が奨励しているダイバーシティー(多様性)マネジメントや生産性向上が働き方改革と直接的に繋がっていること
http://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=53852&pno=3?site=nli
(1)は、正しくは、少子高齢化によって、人口減少カーブと労働力人口減少カーブとの間にはなはだしいギャップがあると捉えるべきです。この現象は、各分野での人手不足を生んでいます。人手不足は、長い目で見れば供給が需要に追い付かない事態を意味しますから、賃金上昇をもたらすはずです。超低金利と相まって、デフレ脱却の絶好のチャンスと言ってもよいのです。
 ただし経済評論家の三橋貴明氏が常々指摘しているように、人手不足解消の応急措置のために外国人移民を受け入れるのではなく、政府が技術開発投資やインフラ投資を率先して行うことで生産性を高めるのでなくてはなりません。しかるに安倍政権は、移民政策を推し進めようとしています。移民政策がどんな結果をもたらしつつあるかは、ヨーロッパの現状を見れば明らかでしょう。

◆単に目的は人手不足解消と低賃金なら…

 そもそも常識的に考えて労働力人口の減少がなぜ、働き「方」の改革に、それも長時間労働の削減を良しとする発想に結びつくのか理解できません。これはおそらく、電通若手女性社員の過労自殺やブラック企業問題などが世間を騒がせたので、あわてて木で鼻を括るように問題項目だけをそろえてみせたのでしょう。
 もっとも、長時間労働を減らしてワーク・ライフ・バランスを回復させると、かえって生産性が上がるという一応の理屈が付いてはいます。先のニッセイ基礎研究所の資料によれば、OECD諸国の統計で、一人当たりの平均年間労働時間と、労働生産性との間には逆相関が認められるというのです。つまり労働時間が長い国ほど労働生産性が低いというのですね。たしかにこの資料にはそれを示すグラフが付されていて、それらしき傾向が読み取れます。
 しかし相関関係は、因果関係ではありません。各国には各国の労働事情があり、安易に比較することはできないのです。労働生産性は、国によって産業構造がどう違うか、どんな社会環境下に置かれているか、設備や技術の普及度はどうか、労働の組織形態はどうか、働くことについての国民の意識はどうかなど、さまざまな条件に左右されますから、逆相関がみられるからといって、労働時間を減らせばいいなどという単純な結論は得られません。
 次です。先に挙げた「働き方改革」を進める理由の(3)に出てくる聞きなれない言葉「ダイバーシティー・マネジメント」ですが、これはいったい何でしょう。政府は、本音を見透かされないようにごまかすときは、たいていこういう聞きなれないカタカナ語を使います。最近聞かなくなったけどホワイトカラーエグゼンプションとかね。
ダイバーシティ・マネージメントとは、多様性を許す経営ということらしいですが、ちょっと聞くと、働き方の多様化、たとえば在宅勤務を条件付きで容認するとか、勤務時間の自由化(フレックスタイム)とか、ワークシェアリングを充実させるとかいったことをイメージさせます。ところが、読んでみるとそうではなく、女性、高齢者、外国人といった「多様な」人材を対象にするというだけのことなんですね。何のことはない、単なる人手不足解消策と、低賃金での人材確保策という財界の要望を反映させたものにすぎません。これでは企業のブラック化は少しも変わらないでしょう。

◆デフレで働かなければ貧しくなる

 現在のブラック企業問題や過労死問題の解決策を模索するには、労働行政の枠内にだけ視線を集中していたのではダメなのです。まず何よりも、なぜそういうことが発生する風潮が当たり前になっているのか、その根本原因はどこにあるのかを考えるのでなくてはなりません。
 根本原因は、誰でもわかることで、デフレ不況がもたらした経営困難や生活困難であり、それを作り出している政府の誤った経済政策(無策)です。電通の女性社員は生活困難ではなかったでしょうし、自殺の直接原因が過労であったとは必ずしも特定できませんが、長く続くデフレ下で醸成された企業のヒステリックな空気を毎日呼吸していたとは言えるでしょう。
 日銀の金融緩和だけではまったくデフレから脱却できないことが判明した現在、取るべき政策は国債(赤字国債と建設国債)の発行による大胆な財政出動以外にないのです。これは先ごろ来日したノーベル経済学賞受賞者のスティグリッツ教授も言っています。ここでは、なぜかを詳しく論じませんが、この方向性が財政危機・財政破綻を招くなどということは百パーセントあり得ません。
 要するに、まずデフレを解消して一般国民が豊かさとゆとりを回復するにはどうしたらよいかに言及せずに、働き「方」の問題だけ抽象して「長時間労働を減らしてワーク・ライフ・バランスを」などとのんきなことを言っているのは大いなる欺瞞なのです。中小企業主やその従業員の人たちがこれをまともに聞いたら怒りだすのではないでしょうか。「そんなお節介しなくていいから、そういうことが自分たちでできるように、まず働いた分に見合うだけの報酬が払える(得られる)ような景気対策を早く打ち出してくれよ」と。
 政府がデフレ対策を打ち、積極的にインフラ投資や技術開発投資をし、企業が設備投資をしたくなるような空気を作り出さなければ、単なる働き「方」の改革を抽象的に論じても、労働者にゆとりなど生まれるはずがないのです。
縦割り行政の弊害でしょうが、この改革理念の中に、物理的に労働者にゆとりを与えるためのAI技術(ロボットなど)の導入の話などがまったく入ってこないのも不思議です。デフレ期にただ長時間労働を減らせなどというのは、貧しい生活に甘んじろと言うのと同じではないですか。
 いま進められている「働き方改革」なる政策は、非現実的な観念の遊びの枠組みの中に、人件費を削れという経済界のいつもながらの陳腐な要求を忍びこませた「まがいもの」にほかなりません。

◆周りを気にして帰らない…は日本人の長所では?

 先に、プレ金を推奨している職場でも帰れなかった人がかなりおり、その理由の一つに「職場の周囲の目が気になった」というのがあったことを紹介しました。ニッセイ基礎研究所の資料にも、年次有給休暇の取得にためらいを感じると答えた人が68.3%に上るというデータが載っており、その内訳の上位一位と三位を見ると、複数回答で「みんなに迷惑がかかると感じる」74.2%、「職場の雰囲気で取得しづらい」30.7%となっています。
 この資料ではこういう結果を「働き方改革」を阻む障壁と見ていますが(この種の政策関係資料はだいたいそうですが)、私は無視してはならない尊重すべき点だと思います。ここに多くの人は日本的組織の特徴を見出すでしょう。私も日本人らしいとは思いますが、それを組織にとって必ずしも悪いこととは思いません。
 この周りを気にする意識は、「仕事」というものに対する日本人のとらえ方をよく表しています。つまり日本人にとって仕事とは一人でやるものではなく、仲間と一緒にやるものなのです。近代個人主義の立場からは、これは克服すべきだということになるでしょう。しかしよく考えてみると、初めから終わりまでたった一人で完成させる仕事というものは存在しません。周囲の人とのかかわりを大切にする日本人は、そのことを本能的にわきまえていて、いつも配慮を忘れないのです。
 このいわゆる「集団主義」的な精神、優れたチームワークが、かつて高度成長を生み、世界から驚嘆され、称賛を浴びたのではなかったでしょうか。
 もちろん長所は同時に欠点でもあり、過度な集団主義は個性をつぶします。それが独創的なアイデアの産出を阻んだり、間違った既定路線をいつまでもずるずると続けさせたりします(財務官僚の緊縮財政路線のように)。またお節介な上司との粘着的な関係が私生活の自由を阻害することもあるでしょう。
 しかし、どんな時にも「はい、五時になりました。帰らせていただきます」とさっさと席を立つようなドライな人は、関係を大切にせず、その結果、仕事を自分たちのものとして大切にしない人でしょう。責任を負わない人だと評価され、本当に結束しなければならない時に仲間から信用されないでしょう。
「働き方改革」を口にして、その中に「長時間労働一般の弊害の克服」や「年次有給休暇の取得促進」を絶対条件として繰り入れる人は、現実の「仕事」というものが初めから孕んでいる共同性感覚、情緒の共有の大切さを軽視しているのだと私は思います。
 しかし共同性感覚とか情緒の共有といった人間論的なテーマは、もともと抽象的な網によって問題を整理しようとする政策課題になじまないところがあるのは確かです。またもちろん、劣悪な処遇に対する法的な措置や緻密な管理・監督は大切です。しかしことが悪化するのも現場、悪化を正確にチェックできるのも現場ですから、「働き方改革」を真剣に考えるなら、個々の現場レベルでの数値化できない問題を、あえて問題として可視化する姿勢が問われるでしょう。ほんとにやる気があるなら、膨大な現場事例を集めて問題点を多角的に検討するところから始めてはどうでしょうか。
 プレ金はそれ自身のうちに、労働に関して一般化できないことを一般化しようとする無理解を含んでいます。早いうちに消えるでしょう。

「教育、教育」と騒ぐなら金を使え

2017年05月09日 01時41分47秒 | 社会評論
      




5月1日付の産経新聞「産経抄」によりますと、日本の小、中学校の先生の労働時間は世界でも突出して長く、小学校教諭の33%、中学校教諭の57%が残業時間80時間を超えており、「過労死ライン」を上回っているそうです。
先生の多忙というと、平教員の忙しさをイメージしがちですが(それももちろんあるのですが)、なかでも多忙を極めるのは、副校長、教頭で、調査報告書の作成、休んだ教諭のフォロー、会計業務などあまりの激務に疲れ果て、教諭への降格を願い出るケースが跡を絶たないのだとか。

小中学校教師の忙しさは今に始まったことではなく、昔から部活の顧問として土日・夏休み返上で駆り出されるとか、テストの採点は家に持って帰って深夜までとか、年間いくつもある学校行事の指導とか、たいして意味のない研修会への参加強制とか、問題生徒の管理監督やいじめ防止への配慮とか、モンスターペアレンツへの対応などなど、とにかく息つく暇もないとの訴えはよく聞かされてきたものです。
ところが、世間の視線は意外とこうした実態に対して冷ややかで無関心です。それはなぜでしょうか。

第一に、教師は公務員で、給与もそこそこ高く安定しているという点が挙げられます。
世の中にはもっと貧しい人やきつい仕事に耐えている人がいる、贅沢な悩みだといったルサンチマンに根差すまなざしを受けやすいのですね。ことにデフレ不況下の今日では、こうした声が高まっていると思われます。
しかしある職業が所得面や雇用面で安定しているという事実と、その職に固有のきつさがあるという問題とは別です。教師のきつさとは、授業をしっかりこなすという本業のほかに、やたらと生活指導や文書作成などの一般事務や部活動顧問など、本来の職務ではない仕事で埋め尽くされることからくるストレスなのです。いわば多種の肉体労働と神経労働がどっと重なってきて、それを毎日捌かなくてはならないところに、このストレスの原因があります。

第二に、土曜も隔週で休みだし、夏休みもあるので優雅なものじゃないかといった先入観があります。
しかしこれは、上に述べたように、実態とは著しく異なる偏見です。学校という特殊な現場の日常をよく知らない人は、こうした先入観でものを判断すべきではありません。

第三に、教師という職業に対する世間の期待過剰があります。
「教師は聖職者」という観念がいまだに残っているようです。
どの親にとってもかけがえのない子どもの教育と生活をあずかるのですから、大切な仕事には違いありません。しかし教師も能力や包容力に限界のあるただの人間です。
何もかも教師に背負わせて、ちょっと学校で問題が起きると、担任の責任、校長の責任と大げさに騒ぎ立てる風潮を改めなくてはなりません。
大事なことは、今の学校に何ができて何ができないか、一人の教師の職分と管轄範囲はどれくらいかということをはっきりさせて、その認識をみんなができるだけ共有することです。

ちなみに、教員志望者は年々減少の一途をたどっています。また教員志望者の中でも、こんなに忙しい日本の教員にはなりたくないと思う人が6割を超えているというデータもあります。
http://benesse.jp/kyouiku/201603/20160317-1.html
http://diamond.jp/articles/-/57792

ではどうして日本の小中学校教師はこんなに忙しいのでしょうか。
上に記したように、本来の職務でないことを背負わせられているという困った「文化伝統」の問題もありますが、これらのうちの無駄な部分を削ることができたとしても、ある重大な理由から、教師の多忙さはさほど減らないだろうと思われます。
その重大な理由とは、国が教育にお金をかけていないという事実です。
日本の公教育支出は、GDPの3.5%で、OECD諸国の中で、何と6年連続で最低なのです。
http://editor.fem.jp/blog/?p=1347

日本人の多くは、教育が大事だ、教育が大事だと口癖のように言います。歴史認識、理科離れ、平和憲法、公共心、グローバリズムにエネルギー、何でもいいですが政治問題や社会問題を話していて、現実がなかなか変わらない嘆きに達して行き詰まると、たいていの人が言うのです――「最終的には教育の問題だよね」。
これは要するにただの陳腐な「オチ」であって、教育をどうするのか、何かヴィジョンがあるわけではなく、あきらめや逃げの言葉をつぶやいているにすぎません。教育のことなど誰も本気で考えてはいないのです。

もし本当に教育が大事だと考えているなら、まずはこの恐ろしく貧困な教育投資の実態を何とかしなければなりません。
そして投資をどこに差し向けるか。もちろん、まずは人材投資です。
教師の数を増やすだけではなく、前述のような教師本来の仕事ではない部分を担える人材を雇用して、先生が余裕をもって本業に専念できるような環境を整備すること。

環境と言いましたが、物理的な意味での環境整備も非常に大切です。
これは一例にすぎませんが、いま日本の公立小中学校で、エアコンがどれくらい整備されているかみなさんはご存知ですか。
何とわずか三割です。
それも地域間格差が激しく、首都東京は八割ですが、暑いはずの九州は二割に満たないところもあります。
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かわいそうな九州の子どもたち。これで、子どもを大切にしている国と言えるのでしょうか。

文科省は二流官庁ですから、予算が十分に取れない苦しさもあるでしょう。
財務官僚はきっと日本の将来を担う世代のことなどに関心がなく、文科省の管轄事項を、それが喫緊の課題ではないという理由で、無意識に蔑んでいるのだと思います。
いま公立の小中学校教育に投資するとしたらどこにお金を使うべきか。小3から英語教育を、とか、道徳教育を正課に、など、百害あって一利なしの施策にではありません。基礎学力を徹底させるために、ゆとりのある人的物的環境を整えることに投資すべきなのです。これは教育界におけるソフト面、ハード面のインフラ拡充と言えましょう。
文科省は、グローバリズム迎合やヘンな精神主義を捨てて、具体的な窮状を訴え、改良策を引っ提げて財務省に予算要求を迫るとよいでしょう。「子どもや先生がかわいそうなんです」――これなら血も涙もある(と思いたいですが)財務官僚も、少しは耳を傾けてくれるかもしれません。