小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

全体主義体制下で考えるべき事

2021年01月22日 12時10分36秒 | 思想

PCR検査を診断に用いてはならないと警告したキャリー・マリス博士

アメリカでは、すったもんだの挙句、バイデン政権が誕生してしまいました。「カナダ人ニュース」という動画を送り続けているカナダ在住の優秀な若者が、大統領就任式を「特別介護老人ホーム入所式」と皮肉っていました。言い得て妙です。
バイデン新大統領は、まるでロボットのように、矢継ぎ早に大統領令にサインしています。パリ協定復帰、WHO脱退中止、メキシコ国境の壁建設中止、100日間のマスク着用義務付け、テロ防止のための特定イスラム諸国からの入国制限を撤廃、カナダからメキシコ湾までの原油パイプライン建設中止・・・・・。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN20EPJ0Q1A120C2000000?unlock=1

すべて、トランプ政権時代の政策を急速にひっくり返すために行なわれています。
これら一つ一つについて言いたいことは山ほどありますが、あらかじめ宣言されている政策提言でバイデン政権の性格を如実に示すものとして、特に重要なのは、次の2つでしょう。
①米国在住の不法移民に市民権を与える。
②最低賃金を7.25ドルから一気に15ドルにまで上げる。


①の政策は、法秩序の無視という点で、けっして倫理的に許されるものではありません。しかしそれよりも問題なのは、この安易な理想主義的政策がどういう効果を引き起こすかです。
移民問題は、世界中で混乱を招いてきました。移民は安い賃金で我慢するので、国民の賃金の低下競争につながり、今まで家族を養えていた人びとが食べられなくなります。それだけではなく、さまざまな文化摩擦を生み、国民を分断させる大きな要因になります。治安は悪化し格差もいっそう開くでしょう。
不法移民を認めるという情報を聞いたホンジュラスの人たち(9000人?)が、「キャラバン」と称してグアテマラ経由でメキシコを通り、アメリカに押し寄せつつあります。これはトランプ政権時代にもありましたがメキシコ国境でグアテマラに押し返されました。しかし今回は、バイデンが不法移民を認めようというのですから、押し返すのは難しいでしょう。良好だった米墨関係も危ぶまれます。
法秩序を壊し経済を混乱させるこういう政策を新政権は平気で取ろうというのです。
この「キャラバン」については、誰が考えても、領導する勢力がいるに違いありません。

②は、一見労働者救済策のように見えますが、すでに極左勢力のメッカであるシアトルで実験済みです。物価が高騰し、給料を支払えなくなった中小企業の多くがつぶれ、失業者があふれました。
https://www.youtube.com/watch?v=BpKrF0KEOrU&feature=share&fbclid=IwAR2wYegU4KPRvNNKZuPGohzR0B1aAwu8vrsZmR867S66hhOPjlwDKl9r9xE
GDP成長率と雇用を劇的に改善したトランプ政権の政策を真っ向から壊そうというのです。

バイデン一族が習近平を始めとした中共上層部と、ずっと以前から親しい関係にあることはすでにいろいろな形で伝えられています。次の情報がその癒着ぶりを具体的に示すよい例です。
https://www.youtube.com/watch?v=MkU9I-FEepw&feature=share&fbclid=IwAR28e_igtwwjIj0Cn3pqWpJ7RUP6q1e5vSgVWVw3NGLa_aG1rErtJg58Tl0
前回のメルマガで、「自由を国是に掲げる最先進国・アメリカが中共全体主義によって中枢まで侵蝕され、民主主義体制が崩壊の危機に瀕している」と表現しましたが、もちろんこれは単なる政治的な危機ではなく、経済的な共産主義化をも意味します。
https://38news.jp/politics/17392
上記の二つの政策は、いずれも中間層を脱落させ、国民の貧困化を作りだす意図に基づいています。バイデン自身はボケ爺さんですから気づいていないでしょうが、その背景には、中共が時間をかけてアメリカ国家全体を共産主義体制にする周到な計画(アジェンダ)があるのです。今回の「目的のためには手段を選ばない」無法な選挙のやり口とその「成功」は、この計画の第何段落目かが成就したことを示しています。
国民の中間層が脱落し、大多数が貧困化すれば、毎日の生活に追われるのがやっとになり、社会的発言力は低下し、政治的な無関心が常態となり、さらに、人と人との紐帯、協力体制が解体します。またほとんどの人が情報弱者となりますから、一握りの支配層がいくらでも虚偽を垂れ流し、自分たちの都合のいいように法を作り替え、人権を無視して厳罰を与え、政府に少しでも批判的な言論はすべて封殺し、あらゆる自由を国民から奪うことが可能となります。つまり全体主義の完成です。

ところで、いま述べたような事態は、やや形が違うものの、わが日本ですでに起きていることです。その中にいると気づかないだけなのです。
安倍政権時代に緊縮財政と増税による国民の貧困化がなされ、各産業へのグローバリズムによる外資の侵略が進み、日本共同体が長きにわたって作り上げてきた雇用制度が有名無実化し、移民政策が公然と取られ、国土は中国に奪われ、民主主義制度が単なる政権正当化のアリバイと化し、実権は一部官僚と竹中平蔵のような「民間議員」が握るようになりました。
これを受け継いだ菅政権は、露骨にこの道を進んでいます。アトキンソンなる不良ガイジンに言われるがままに、生産性向上の名目で中小企業の整理を提唱し、「最低賃金」を掲げてさらに中小企業を苦しめ、種苗法改定を断行し、コロナ禍による休業補償はほとんど行わないままに緊急事態宣言を発動し、時間制限を守らない飲食業には罰則まで設け、ワクチン接種の情報をマイナンバーにひも付けし、コロナ患者の国籍情報を隠蔽して平気で中国人を入国させ、おまけに国民皆保険制度の見直しまで口走る始末。
これらのすでに施行された制度やこれから施行を企んでいる制度は、何ら国民の合意を得ないままに強行されつつあります。日本の民主主義もすでに死んでいるのです。これを全体主義と呼ばずして、何と呼べばいいのでしょうか。

コロナ話題に触れたので、この流行病が、緊急事態宣言などに値しないものであることをもう一度確認しておきましょう。
私はこれまでブログやメルマガ、フェイスブックなどを通じて一貫して、新型コロナ騒ぎが経済を委縮させ文化を荒廃させるだけのインチキであることを主張してきました。前回のブログでも拙稿のURLを紹介しましたが、もう一度ここにリンクを貼っておきます。ぜひ一度参照してください。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/effcc9c591be4f8689a563b585ae5639
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/a9a480d0a5a23d4e3cc49838e3566463
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/c3f0af074bf98a10a0e4428d535ec56e

以上の拙稿発表以後に得た知見もあるので、ここではそれも含めて、現時点で大事だと思える点だけをここに要約します。

①PCR検査は遺伝子の存在を確かめるだけの検査で、感染の診断には使えないと、この検査を開発してノーベル賞を受けたキャリー・マリス博士が明言している。
②厚労省は、コロナ以外の病気で亡くなった人の死因もコロナによるとしてカウントしている。
③PCR検査のCT値は、高く設定するほど、過敏な陽性反応を示しやすくなるが、専門的知見によれば、35サイクル程度が限界である。しかるに日本では45サイクルに設定されている。
④マスコミは、PCR検査で陽性反応を示した人をすべて感染者として発表し、しかも検査件数との割合(陽性率)を決して示さず、感染者が増えているかのように見せかけている。
⑤コロナによると称される重症者、死亡者はほとんどが基礎疾患のある高齢者に限られる。
⑥新型コロナは2級指定感染症に指定されているが、これはエボラ熱、SARSなどの、致死率の極めて高いランクに属していて、新型コロナの実態にまったく見合っていない。
⑦マスクは、健常者が着用しても、コロナの予防には役に立たず、特に子どもには心身に悪影響を及ぼす。

まだまだあるのですが、これくらいにしておきましょう。代わりに、私と同様の考えを発表して、コロナのインチキ性を提示しているブログが最近増えてきましたので、いくつか説得力のあるものをここに紹介しておきます。これらは希望の光です。

https://ameblo.jp/obasannneco/entry-12641199459.html?frm_src=favoritemail

https://ameblo.jp/yoshino0716/entry-12651367565.html?frm_src=favoritemail&fbclid=IwAR0pe3eJPPP9cV7JEobWvtqoZOYfaDObtNa1M6AJyO8BlEjIGNgaiZuPvq4
このブログでは、実にたくさんの専門家(医師)の、コロナで大騒ぎすることに対する反対意見が紹介されています。

https://ameblo.jp/djdjgira/entry-12650625899.html?fbclid=IwAR1dAD4Ewf1cqLJBzMb4Fdb6yPusQmMp1nxy_wi16AOni0JLUDXUu0r1ISg

なぜこれほどコロナのインチキ性を強調したかというと、ほとんどの人がマスコミ情報や政府、自治体の対応をそのまま鵜呑みにして、大方の医療機関さえ、それを疑うことなく唯々諾々と従っているからです。この空気の蔓延こそが、まさに全体主義なのです。
知らず知らずのうちに全体主義に巻き込まれているという意味で、コロナ騒ぎは典型的です。

さて、米大統領選話題から、コロナ話題に転換してしまいましたが、実は、両者は無関係に並立している問題ではありません。そこには確実に連関が見られるのです。
まずお断りしておきますが、私は陰謀論者ではありませんし、陰謀論を弄するだけの根拠の持ち合わせもありません。武漢ウイルスがどのように広がったのか、それについて確かなことはわかっていません。中共政府がこれを意図的に流したという証拠は今のところありませんし、その可能性も少ないだろうと思います。憶測ですが、武漢ウイルス研究所の管理がずさんだったために漏れてしまったというのが真相に近いのではないかと私は思っています。
その上で言えるのは、次のようなことです。
ウイルスが全世界に広がったのが、このウイルスの伝染性の猛烈さとグローバルな人的交流との結合によるものであるとして、いわゆる「パンデミック」と呼ばれるような事態になってからは、世界のDSたちが、自分たちの都合のためにこれを大いに利用してきたことは疑いないだろうと考えられます。その利用に関しては、意識的なものから無意識的なもの、悪意に満ちたものから善意でやっているものなど、いろいろあるのでしょう。しかし事実として、闇の支配者や公然たる支配者たちが、一般大衆の不安と恐怖(それは根拠がないのですが)に乗じて、自分たちの権力維持や利権のために、コロナの重大性を過剰に煽り、不必要にその引き延ばしを行ない、疫学的な真相を隠蔽してきたことは間違いありません。
この事情は中共政府にも、アメリカの民主党勢力やエスタブリッシュメントにも、欧州の支配者たちにも、それによって得をする大商人にも、そして日本政府、自治体、マスコミにも例外なく当てはまります。
そうして、こうした社会心理的な力学にこそ、全体主義の土壌があるのです。

ですから、米大統領選における中共やDSや民主党勢力が仕掛けた巨大な詐欺行為と、新型コロナの流行を「パンデミック」と名付けて民衆の感覚と経済とをこれほどまでに委縮させた行為とが時期的に一致したことは、単なる偶然とは言えないと私は思います。
「彼ら」――全体主義者たち――は、民衆を隔離し閉じ込め、貧困に追い込み、その言葉を封じ込み、自分たちの権力の伸長と維持を図ろうとしています。その圧力と欺瞞性に対して、ほとんどの民衆はそれが圧力と欺瞞によって成り立っていることにも気づかず、「お上」のお達しを黙って受容せざるを得ないところに追い込まれています。

私たちは何ができるでしょうか。

トランプさんとその忠実な支持者たちが闘ったように、いまも闘っているように、私たちもまた、秩序と平和を尊重しながら、理性的な言葉を用いて、粘り強く「彼ら」の虚偽を暴き、その傲慢を打ち砕いていくほかはないでしょう。

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東京愛と愛国心とナショナリズム

2020年09月16日 23時51分01秒 | 思想


先日、当方が主宰している映画鑑賞会「シネクラブ黄昏」で、上映作品が比較的早く終わったので、そのあとの談話に花が咲きました。映画の感想にとどまらず、話がいろいろな方面に広がったのです。
上映作品は、オムニバス映画『世にも怪奇な物語』のフェリーニが監督した部分、「悪魔の首飾り」でした(この会では、毎回上映者を変えて、その人が思い入れのあるDVDを持ってくることになっています)。
フェリーニのローマに対する執着は相当なものなので、談話の中で上映者が「ローマやパリなど、首都をテーマにした作品はたくさんあるが、東京をテーマにした映画はほとんどない。面白い町なのだから、だれか作ってほしい」という見解を述べました。
そう言えば確かにそうです。私は少し考えてから、次のような意味のことを述べました。

それは、結局、東京に住んでいる人たちが東京を愛していないからではないか。東京という町は、浅草、日本橋など、江戸のコアの部分から、近代化に伴ってどんどん無原則にスプロールしていった。東北地方からは東東京に住民がなだれ込み、西からは西東京に住民がなだれ込んだ。その結果、へそのないメガロポリスに発展した代わりに、その圏内に池袋、新宿、渋谷、品川、吉祥寺、北千住など、いくつかの「部分都市」が誕生した。これらの「部分都市」の住民は、それぞれの町に対する愛着を持っているだろうが、東京全体に対して愛着感情を抱いているとは思えない。かつての江戸住民は落語などに表現されているように、江戸の町に対する愛着を確実に持っていたが、急速な近代化の過程で江戸情緒的な雰囲気は次々に壊されてしまった……。

すると、上映者の方が私の言葉に呼応して、「そう言えば、外国人観光客が東京に来ても、東京の伝統的部分に感心するんじゃなくて、自動販売機がどこにもあるとか、高速道路が一般市街地の上をまたいで通っているとかを面白がってるんですよね」と。
また誰かが、「やっぱり石造りの建築は何百年の歴史を持つけど、木や紙でできている日本建築はすぐ建て替えられますよね。地震も多いし。その代わり、パリなんかでは、電気・ガス・水道などの近代的インフラを古いアパルトマンに整備したりメンテナンスするのがたいへんで、故障しても修理してくれないのが当たり前なんですね」と。

これに付け加えて後から考えたことですが、やっぱり、「都市」というものの成り立ちが、ヨーロッパと日本ではまるで違います。よく言われることですが、ヨーロッパの都市はもともと城壁で囲まれていたので、市民には農村との間に確固たる境界の意識がありました。いわゆる「ポリス」ですね。都市住民の結束と愛着が強いのも歴史的な由来があると言えるでしょう。
これに対して、日本の都市は、ニワトリかタマゴかみたいな関係で発展してきていて、市が立てばそこに人が集まってくる。お寺があればそこを中心に商業地ができる。海運に適していれば港を作る。城下町にしても、町に城壁があるわけではありません。何となくそこに社会資本が集積していったというのが実情です。
おまけにあらゆる情報や流通機能が集中する現在の東京のようなメガロポリスになってしまっては、まことに便利このうえないとは言えても、いまさらそこに愛着のような情緒的なものを育てようとしても無理ではないでしょうか。

話を少し広げてみましょう。
私は日本滅亡の危機を常に訴えているナショナリストですが、「愛国心」という言葉が好きではない。かなり嫌いなほうに属する言葉です。愛国心が必要だとか、愛国心教育を、などと書いたことは一度もありません。そういう主張に意味を認めないのです。
それはネトウヨと名指されることを避けているからではありませんし、サヨク的な心情に呪縛されているからでもありません。
倫理の起源』という本に詳しく書いたのですが、この言葉は、そもそも概念があいまいです。
「国を愛する」とは? 巨大な社会システムと化したこの「共同幻想」に対して、女を愛するように熱い私情を差し向ける? どのようにすればいいのでしょうか。
ふつう、この言葉を好んで使う人々は、深い考えもなしに、日本人として国を愛するのは当然だろうとか、身近な人々への愛や郷土愛からだんだんその気持ちを広げていって国への愛にまで到達すればよいなどと漠然と思っているようです。
しかし、日本のような巨大な近代国家は、残念ながらそういう私情を受け入れてくれるほど単純には出来ていません。私情と巨大な近代国家との間には、連続性が認められないと言い換えてもよい。

これは、次のような例を考えればすぐわかります。
国家がやむをえず戦争を始めてしまった。大量の兵士が必要です。兵士たちには愛する妻子がいる。長く住んできた郷土にも愛着を持っている。しかし、戦場に赴くには、人や土地と別離しなくてはなりません。戦争を遂行する国家を憎むわけではないし、「おくにのために」喜んで戦う決意も人後に落ちない。
しかし事実として、人や土地との別離は避けがたい。つまりそこには越えられない切断線があり、それが彼の身体を引き裂くのです。
要するに愛という私情は、国への忠誠と根源的に矛盾するのです。このことは平和時でも言えて、企業社会や公共体での活動に精を出せば出すほど、家族への愛や倫理を実践することが困難になります。古くて新しい問題です。

愛国心という言葉を安易に使わないようにすることにして、ではどのように考えればよいでしょうか。
これは、ナショナリズムというカタカナ語を、私たちの頭や心の中でどう処理すればいいかという問題にかかわっています。
ナショナリズムという用語は多義的です。『大辞林』を引いてみましょう。
一つの文化的共同体(国家・民族など)が自己の統一・発展、他からの独立をめざす思想または運動。国家・民族の置かれている歴史的位置を反映して、国家主義、民族主義、国民主義などと訳される。
他の辞書やウィキだと、「国粋主義」も入れているようですが、これはあからさまな排外主義のニュアンスが強いので、外した方がいいでしょう。
ここでは、三つ目の「国民主義」を採用します。国民生活の安寧、豊かさ、幸福を第一に考える――私も先にナショナリストだと名乗りましたが、こういう意味合いでナショナリズムという言葉を理解すべきと確信しています。
で、こう理解すれば、すべての国民の安寧や豊かさを目指すという理念がそこに含まれますから、ナショナリズムに反対する日本人は、いないはずです。もちろん反日サヨク、コスモポリタン的リベラリスト、国家によって人権が保障されていることを自覚しない人権真理教信者、グローバリスト、ネオリベ、リバタリアンなどがうようよいますから、現実には、この理念はなかなか実現できないわけですが。

さて国民主義としてのナショナリズムを少しでも発展させることにとっての必要条件とは何でしょうか。
それはもとより「愛国心」というような感情的な概念ではありません。こんなに複雑化して、どこにその実在性があるのかわからなくなった超抽象的な幻想の存在に対して、「愛」などを差し向けることは不可能です。大方の日本国民も、そういう実感を持っているだろうと思います。国家の実在性(政府の実在性ではありません)が希薄にしか感じられなくなったということは、逆に言えば、人々の生活が極度に個人化・バラバラ化してしまったということでもあります。そうした社会構造上の事情があるところで、愛国心が必要だと百万回叫んでも、それは、戦争をなくしましょうと百万回叫ぶのと同じで、何の効果も生みません。

では、ナショナリズムを少しでも活かす必要条件とは。
第一に、国家の危機は当然、国民生活の危機としてあらわれますから、その危機の本質とは何か、危機を作りだしている主犯格は誰かを冷厳に見極める認識力が必要とされます。
第二に、その認識の力を少しでも活用させようとする意志の力が必要です。
第三に、その意志を共有して運動に発展させるための実践力(政治力、組織力)が必要です。
第四に、こうした運動は理解されないのが常ですから、挫折を経験してもめげない持続力が必要です。
目下の対象である国家に対処するには、こうした理性的な姿勢があくまでも要求されます。

教科書的な言い方になってしまいましたが、いまの日本国民には、さまざまな歴史的・社会的・民族的事情から、この四つがはなはだしく欠落しているように思えてなりません。
中央政府がどんなひどい過ちを犯していても、大多数の国民はそれを認識しようとしません。
また自分たちが政府からどんなに不当な仕打ちを受けていても、ほとんどの国民は、声をあげずに我慢しています。
もっとひどいことに、その政府を積極的に支持する国民がわんさかいます。
要するに、権力依存の習慣が染みついてしまっていて、主体的に考えよう、何かしようという気概をすっかりなくしているのです。

いまの日本はポンコツ車のようなものです。ポンコツ車を何とか修理してまともな状態に戻すには、何が必要でしょうか。
その車を愛してみても始まらないでしょう。むしろ、どういう高度な技術が要るのかという、機能的な対応こそが求められているのです。

初めに、東京都民は東京を愛していない、それが東京をテーマにした良い映画ができない理由だ、そしてそこには都市成立に関わるそれなりの歴史的事情があると述べました。日本全体に関しても同じことが言えます。
元気・やる気・公共精神を喪失した日本人。事態に悲憤慷慨する前に、なぜ日本人がそうなってしまったのか、そこに焦点を合わせて、多方面から考察することが先決です。
菅義偉という何もわかってない人が総理の座についたひどい政局劇の直後に、言っても無駄かもしれないと思いつつ、ごく基本的なことを書きました。


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コロナ全体主義をいつまで続ける気か

2020年07月09日 00時14分54秒 | 思想


去る6月25日、ダイヤモンド・オン・ラインに、窪田順生氏というノンフィクションライターの「コロナ禍でわかった、日本人が患う『管理されたい病』の重症度」という文章が載りました。
https://diamond.jp/articles/-/241302
この文章には、次のような3つのデータが紹介されています。
①《NHKの世論調査で、新型コロナなどの感染症の拡大を防ぐため、「政府や自治体が外出を禁止したり、休業を強制したりできるようにする法律の改正が必要だ」と考えている人が、62%もいることがわかった。「必要ではない」と答えた人は27%なので、ダブルスコア以上である。》
②《2013年、キーマンズネットがビジネスパーソン585人を対象に、プロジェクトを実行する際に「管理する側」と「管理される側」のどちらがいいかと質問をしたところ、「管理される側」が53%と上回った。》
③《2019年にパーソル総合研究所が、日本を含むアジア太平洋地域の14の国・地域における就業実態の調査をしたところ、日本で管理職になりたい人の割合は21.4%と、14の国・地域の中でダントツに低かった。》
窪田氏は、これらのデータを掲げた後、戦前・戦時中、普通の市民によって構成された膨大な「投書階級」なる存在が、いかに当時の「娯楽統制」に影響を与えたかについて、次のように述べています。
まず、言論統制される以前から、新聞やラジオというマスコミは自ら進んで戦争を煽っていた。軍の発表を盛りに盛って、「爆弾三勇士」などの戦争美談をふれ回った。「そうしろ」と命令されてわけではなく、愛国心を刺激するコンテンツが読者やリスナーに圧倒的にウケたからだ。そして、 この「愛国コンテンツ」を連日のように見せられた国民が、暴走を始める。「投書階級」のように、自分たちの価値観に合わないものを「社会にとって害だ」と排除し始める。たとえば、当時戦争に反対する「非国民」を一般市民が棍棒を持って追いかけ回して袋叩きにする、という事件が珍しくなかったが、それは軍部に命令されたわけではなく、市民たちが自発的に行ったことなのだ。
そのうえで窪田氏は、「令和の日本で木村花さんをSNSでネチネチとイジめた人々や、CMに不倫タレントが出ていると企業にクレームを入れるような人々とそれほど変わらないことを、80年以上前の日本人もやっていた」と語り、「これが、日本が全体主義へのめり込んでいったプロセスである。『陸軍のエリートが暴走した』『軍を抑えられなかった政治家が悪い』『マスコミが戦争を煽った』などといろいろ言われるが、やはり『全体』というだけあって、日本社会がおかしな方向に流れても誰も止められなかった最大の原因は『民意の暴走』にあるのだ」と結論づけています。

筆者はこの文章に触れて、わが意を得たりと思い、あるメディアに紹介しました。
それというのも、筆者はこの間ずっとコロナを巡る社会現象を、科学的データも含めて分析してきたのですが、少なくとも日本では、オーバーシュートだのロックダウンだのと大騒ぎするような実態はほとんど見られないにもかかわらず、日本国民全体がいっせいに過剰自粛に走り、陽性反応者などほとんど出ていない田舎町まで、ソーシャルディスタンスの名のもとに、マスク着用はおろか、アルコール消毒やフェイスシールドやビニールシートやアクリル板で溢れるようになった集団ヒステリー現象を、まさに全体主義の下地が露見した状態と指摘してきたからです。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/8b539fc184c8c79ea921ea0f03720352
(6月15日)
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/d9ba7e74cb9e3435b0dbc223bffb8103
(5月28日)
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/c4943a9102096047589a253502165ce5
(4月15日)
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/2d8d910dcbbed2b60866d6903d153874
(3月28日)

上に挙げた現象だけで済めばまだ微笑ましいとも言えますが、それよりもはるかに深刻なのが、飲食業やデパート、小売店の一斉休業、コンサート、スポーツイベントなど文化企画の一斉中止、一般企業のテレワークや時限通勤の非能率、中小企業の倒産、航空、鉄道、タクシーなど公共交通機関の乗客激減など、日本経済に致命的な打撃を与えた事実です。
疫病としてのコロナは、日本のみならず、すでに世界的にも終息の傾向にあるのに、空気としてのコロナ全体主義はいまなお続いており、これがいつ終わるのか、見当もつきません。
経済的ダメージに至っては、これから倒産、廃業、失業の全体像が明らかになるにつれて、第二次世界恐慌への突入が現実化していくので、これを克服するのに何年かかるかわかりません。

ところで、筆者が窪田氏の記事を紹介した時、いくつかの批判を受けました。
一つは(批判Aとしましょう)、日本の庶民は昔から自分で判断して行動しており、政府が緊急事態宣言を出すはるか前から自粛していたのだから、なぜ「管理されたい病」というのかわからないというものでした。
しかしまず窪田氏は、データ①で外出禁止や休業強制を法律化した方がよいと答えた日本人が圧倒的に多かった事実を挙げています。
このデータが示すものが、「管理されたい病」と呼べるかどうかについては後述しますが、危機が来た時には、不安を鎮めてもらうために、厳重かつ律義に規則で固めた方がよいと多くの日本人が考えていることはたしかです。
政府・自治体のゆるゆる規制は、補償から逃げようとする動機があったとはいえ、生活の自由という観点からは悪いことだったでしょうか?
それを一般国民が、わざわざ否定するような選択をしているのです。
また、データ②は、サンプル数の少ない一調査ですから、たしかにこれだけをもって日本人は「管理されたい病」に罹っていると結論づけることはできないかもしれません。
むしろここから何か結論を引き出すとすれば、責任を負いたくないという傾向を表しているというべきでしょう。
データ③も同様で、管理職につきたくないというのは、重責から逃れて気楽な立場で仕事をしたいという傾向の現われでしょう。
さて、以上をより厳密に考えるなら、日本人は、①のように、ある決まったルールがあればそれに従うことに安住していられるし、自粛をもっと徹底できたのにと考えている反面、自分でルール作りに参加したりその責任を負ったりするのは嫌だと感じていることになります。
要するに総論賛成、各論反対というわけで、これは昔から主体的参加や目立つことを嫌がる日本人の傾向をよく表していると思います。
さて批判Aは、日本の庶民は昔から自分で判断して行動しており、政府が緊急事態宣言を出すはるか前から自粛していたとしていますが、昔から自分で判断して行動していたというのは、かなり疑わしい。
参勤交代で大名が通る時にいっせいに土下座する態度を、「自分で判断した行動」と呼べるかどうか。
福沢諭吉が馬に乗った馬子に出会った時、馬子があわてて馬から降りた。
これを見て福沢が「これからは堂々と乗ったらよい」と諭した話は有名です。
また商人は身分の低さを自ら身体化していて、お武家さんの前でもみ手をしながらぺこぺこと卑屈な態度で接し、実利をちゃっかりとる気風を持っていたこともよく知られています。
この気風は今でも残っていて、営業マンが顧客を落とすために、やたら過剰な敬語を使ったりするところに現れています。
庶民は権力の視線の及ばない領域を狡猾に心得ていて、そういうところでは「自分で判断して行動していた」と言えるだけでしょう。
批判Aは、庶民の「自分で判断して行動する」態度を、今回のコロナ騒動に当てはめていて、情報を得てからいち早くマスク着用や外出自粛を取った行動を肯定的にとらえているようです。
しかしマスク着用や外出自粛が、自主的な判断や行動としてそんなに主体的な意志を要するるものかどうか。
「雨が強くなってきたから、今日は外出を控えよう」といった、誰でもそうする程度のことなのではないですか。

窪田氏の記事のタイトルが「管理されたい病」となっているので、誤解を招きやすいですが、上で引用したように、彼は、むしろ一般市民の自主的な行動が全体主義の生みの親だということを、戦前・戦中の例を出しながら繰り返し強調しているのです。
そしてこれは、責任意識の欠落と主体的に決断の意思を示さないような上述の傾向と矛盾しません。

ただし、政治的な全体主義はむしろヨーロッパやロシアがご本家ですから、一般市民の自主的な「暴走」を日本人特有の傾向とすることはできないでしょう。
いずれにしても、批判Aは、窪田氏の記事をきちんと読んでいないか、読んでもその要点を無視しているのでしょう。

もう一つの批判(批判Bとしましょう)は、あのように自主的に素早く自粛したからこそ、欧米に比べて奇跡的に感染者数や死者数を抑制できたのだというのがあります。
これはまったくの間違いです。
上に挙げたブログURLでも何度も指摘していますが、欧米とアジア(日本だけでなく)とでは、死者数が2ケタ、3ケタ違います
この極端な違いは、生活習慣の違いや自粛の徹底などで説明できるものではなく、山中伸弥教授が「ファクターX」と呼んでいるように、何らかの疫学上の人種的相違、あるいはウイルスと接触した細胞との関係の変容によるものでしょう。
そして自粛や外出規制が被害を少なくしたのではないことは窪田氏も指摘していますし、この事実はもはや常識となっています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/542fccde6866d9b910ccbb4ff4b94466c4930282?page=1
ただしこれは、今回の新型コロナウイルスの型については当てはまっても、それ以上のことは何も言えません。
今後の研究成果に期待するほかはありません。
批判Bは、今回のコロナの流行の世界的な傾向について、何も勉強していないのでしょう。

さらにもう一つの批判(批判Cとしましょう)は、やはり批判Aに通ずるもので、まだ政府・自治体が外出規制を出す4月前に、桜の花がほころぶころ、みんなの気が緩んで、感染者数が跳ね上がったという事実がある(つまり、外出自粛に効果があった証拠だと言いたいのでしょうか)というものです。
これも、きちんとデータを調べると、間違いであることがわかります(東洋経済新報社がPCR検査数、検査陽性者数、重症者数、死者数、退院者数、地域別感染者数、年齢別陽性者数など、多岐にわたって、コロナ関係の推移を追いかけている資料。いまも続けています)。
https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/?fbclid=IwAR1K46rf5-f7gEulYku9DhisT4y8M_eWseRRz3IujXUuvGNwyWC8t-SvWII
これを見ると、3月中旬から下旬にかけて感染者数はわずかに増えていますが、跳ね上がるというほどでもありません。
また重症者数、死者数はまったく増えていません。
それが、緊急事態宣言が発出される4月7日前後から急速に増えているのです。
そして宣言の延期(5月7日)前にはいずれもピークアウトしています。
つまりこのことは、自主的な外出規制も、政府の宣言も、どちらもこれらの動きに関係がないことを示しているのです。
批判Cは、感染者数の増減をもって判断の根拠としていますが、そもそもこの判断が間違っています
PCR検査は、日本では実施数も日によって違い、実施地域もバラバラです。ある地域(たとえば東京)で(政治的な理由も絡んで)特定地区に集中的に検査数を増やせば、陽性者数が増えるのは理の当然です(それでも思惑通りには増えていないようですが)。
しかもこの検査は打率7割という低さです。
陽性と診断された人が再検査で陰性となることもあれば、逆もあります。
つまり、マスコミが報道している「陽性者数」の増減というのは、まったく客観性が担保できない数字なのです。
批判Cはマスコミの報道を鵜呑みにしていて、より信頼のおける死者数に言及していません。

筆者は、このたびのマスコミ報道を見ていて、どうして感染者数ばかりを強調するのか、視聴者はどうしてこの報道姿勢に疑問を持たないのか、不思議でなりませんでした。
つまりは、この数字だけでこの疫病がたいへんな病気なのだという印象を植え付けるためだとしか思えなかったのです。
あるいは、頭がそこまで働かなくて、無意識にやっていたのでしょうか。
そうだとすれば、バカとしか言いようがありません。
窪田氏の記事で最大の要点は、こうした全体主義的空気を作り上げるのに、たとえ無意識にもせよ、マスコミと一般国民の大多数とが一役も二役も買っていたという事実なのです。

こういう批判(これを批判Dとしましょう)もあります。
窪田氏の記事には、「日本人はお上の言うことに従う」というステロタイプな思い込みがあって、それが鼻につくというのです。
批判Dも、これによって、彼の記事を最後まで読んでいないことがわかります。
たしかに「管理されたい病」などとレッテルを貼れば、そういう印象を抱くのも無理はないとは言えるでしょう。
しかし彼が言いたいのは、むしろ逆で、大衆はある普遍的な不安や危機的な情報に煽動されると、そこで作られた正義とされるイデオロギーを「自主的に」選択して、それに従わない者を「社会全体にとって害になる」とばかり、容赦なく排除する行動(時には「暴走」)に走るものだという指摘なのです。
そのことを読みえていない批判Dも、窪田氏の記事をきちんと読んでいないと言えます。

ところで窪田氏が言っていることは、思想的にもたいへん重要な指摘なのです。
いったん暴走のエネルギーを持った大衆の情念は、「お上」の規制など平気で乗り越えてしまい、次々に異端を火あぶりにしていきます。
そこには経済的なゆとりを失った人々が不満のガス抜きのために多数参加しているでしょう。
そうして、そこに生じた混乱を一気にまとめ上げるべく、単純なスローガンを掲げたヒーローが登場します。
あるいは、その下に多くの小ヒーローが参集し、弱気な者たちに「正義」を押し付けてマウントするのです。
こうして「全体主義」が完成することは、歴史がさんざんに証明しています。

筆者はこのたびのコロナ騒動に接して、こうした全体主義の影を、国民大衆の「自主的な」姿勢そのものの中に垣間見たのです。
それにほとんど近いことを窪田氏が説いているのを見て、賛意を禁じ得ませんでした。
いま思うことは、何かある言説がまことしやかに流れたら、本当かどうかよく調べること、世の動きの大勢に対してたえず違和を抱く感性を失うべきでないこと、そして、いまだこの国に残り続けているヘンな心理的コロナ後遺症から早く国民が脱却してほしいということです。


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マスクを捨てよ、町へ出よう

2020年06月15日 20時48分52秒 | 思想

以下の文章は、月刊誌『正論』8月号に掲載予定の文章です。これまでこのブログで述べてきたことと重なるところが多いですが、コロナ問題に関する現時点での筆者の考えのまとめとして、ここに掲げることにしました。

:ようやく会えたな。4か月ぶりか。元気だったか。
:ああ。俺はどうせふだんから在宅が多いから、どうってことなかったけどな。
:しかしコロナにはまいったな。仕事に出ようにもうっかり出られやしない。夜は飲みにも行けない。「見渡せば 店も呑み屋も なかりけり 栄えし街の 春の夕暮れ」ってな。
:ハハ……だけどあれは過剰自粛もいいとこだよ。2月に小中、高等学校の休校を安倍首相が突然言い出して、3月に五輪の中止が決まったら、今度は都知事がそれまで五輪、五輪で走りまくってたくせに、突然態度をがらりと変えて、さあ、これからはコロナとばかり、オーバーシュートだ、パンデミックだ、ロックダウンだ、ステイホームだ、クラスターだと横文字を連発して騒ぎ出した。いつもの煙に巻く選挙対策さ。
:しかし、そうはいっても、あの感染力の凄さから言ったら、自粛はやむを得なかったんじゃないか。
:俺も最初はちょっとそう思った。だけど、この流行病の性格と、自粛による経済の大ダメージを調べていくうちに、これは政府や自治体はとんでもない大間違いをやらかしたなと確信するようになったよ。4月の緊急事態宣言、5月の宣言の延長、どれもこれも必要なかった。
:え! そこまで言うか。いったいどうしてかね。
:マスコミは全国の感染者数とPCR検査件数と死者数だけしか発表してなかったろ。それで、来る日も来る日もトップニュースがコロナ、コロナだ。だけど、感染者数や検査数の発表は流行の広がりを煽るだけで、疫学的にも社会的にもまったく意味がないんだ。感染者がどれくらいかなんて正確に把握できるわけがないし、PCR検査を受けたか受けないかも意味がない。地域の事情によって検査体制がばらばらだし、そもそもこの検査は確率7割。マスコミは、この病気がどんな病気かってことを正確に報じなかった。だからワクチンができてなくて治療法もわからないんで、パニックが一気に広がっちゃった。だけどよくよく調べてみると、この新型コロナは、感染力はすごいけど、大部分が無症状か軽症、しかも重症になるのは60代以上で基礎疾患がある人がほとんどなんだ。そうそう、ここに東洋経済新報社が出してるこういうグラフがある。



ちょうど緊急事態宣言が延長された5月7日のものだけど、40代はほとんど重症者がいないし、30代以下は限りなくゼロだ。子どもはもちろん一人も重症になってない。休校なんて必要なかったのさ。
:なるほど、それは俺もうすうす聞いてはいたけど、しかし知らぬ間に感染しててお年寄りにうつしちゃったらまずいだろう。
:それはそうだけどね。この病気はウイルスが起こしてるから、無症状者、軽症者は感染によって免疫抗体ができる、そういうメリットもあるわけさ。しかもおおむね症状は軽くて治ってしまう。それにグラフの80代以上の死者ってのも、多くは90代だそうだ。90代になったら何病だってたいてい死ぬだろ。俺は自分が90代んなったら死んでもいいと思うよ。君もそう思わんか。
:そりや、まあ……。100歳まで生きようとは思わんな。
:それにね、これも東洋経済のデータに日付を入れてみたものだけど、毎日の全国死者数。最高が34だ。
                                         

                 4/13      5/7     5/25     6/13

:あれ、4月13日以前と以後とで、まるで違うな。
:それは単にデータソースが変わっただけ。だから前半でも本当はもう少し死んでたのかもしれない。でも大した数じゃないだろうな。それはそうと、このグラフで大事な点は二つある。一つは、緊急事態宣言の延期の時点で、すでにピークアウトしていて、あとは、ご覧のようにどんどん死者が減っているってことだ。もう一つは、その数の少なさだよ、いま(6月15日)の時点で流行し出してから4か月半。一応公式発表を信じるとして、死者900人ちょっと。毎日7人くらい死ぬなんて、どんな病気だろうが事故だろうが当たり前だろ。ましてほとんどが持病持ちの高齢者だよ。政府、自治体、マスコミ、そろって他の病気や自殺や事故死と比べようともしないんだ。
:ほかの場合だとどれくらい死んでるのかね。
:まずインフルエンザ。2018年には3300人亡くなったから毎日9人死んでる。なのに、何の騒ぎにもならなかったろ。自殺者は毎年2万人超えてるから、毎日55人から60人。交通事故はずいぶん少なくなったけど、それでも4000人死んでるから、11人だな。それよりもね、これも大部分高齢者だろうけど、ふつうの肺炎で死ぬ人は、毎年12万人くらいいる。そうすると、新型コロナ肺炎の流行期間に毎日300人死んでる計算になる。さてどう思いますか。こんなにコロナ、コロナと大騒ぎする必要があったんだろうか。
:うーむ、なるほど。しかし、アメリカやヨーロッパの状況は相当ひどいだろう?
:そりゃね、あとでもう一つグラフ見てもらうけど、あれだけ死者が出れば、欧米でパニックになるのはある程度うなずける。でもね、そこにもあんなに規制を厳格にする必要があったのかっていう疑問が残る。ヨーロッパは中世のペストの記憶があるからな。そのせいで、パニックを起こしやすいんだろう。だけど、死亡者が圧倒的に低い日本まで、それに煽られることはなかったんだ。冷静に構えてりゃそのうちにはワクチンもできるだろう。それとさ、新型コロナウイルスは、研究用に培養しようとすると、8日間までは出来るけど9日以上は無理だそうだ。てことは、だいたい1週間くらいで感染力を失うんだよ。だから症状の改善した患者をいつまでも隔離したり自宅に謹慎させておくのは非合理で意味がないんだ。
:しかし、第2波がこれからくるっていうじゃないか。それに対する備えは……
:第2波、第2波って騒いでるけど、あれはどういう科学的根拠があって言ってるんだ?
:それは、たぶん100年前のスペイン風邪の時の経験からだろうな。あの時はたしか予想外で第2波(日本では第一回)が襲ってきて、死者が25万人出てる。その後の第3波でも13万人死んでるんだ。
:ふん。新聞やTVがしきりに煽ってるな。でもスペイン風邪と今回の新型コロナじゃ、ウイルスの型も違うし、当時の医療環境や衛生環境がいまとはまったく違うよ。スペイン風邪は若年成人の免疫システムを破壊するから、老人より若年成人の死者が圧倒的に多かったんだ。ちなみに2009年にスペイン風邪と同じ型のウイルスが来てるけど、ワクチンもできてるから、この年の死者はわずか600人だよ。つまりスペイン風邪は参考にならない。来る前からインフルエンザや新型ウイルスを過剰に恐れる必要はないんだよ。だいたい、これからも今回のコロナ以外に、違った型のウイルスが何度も襲ってくる可能性だってある。第2波だろうと第3波だろうとな。そのたびに緊急事態宣言出して経済をどん底に陥れるのか。
:しかし、何が来るかわからないんだったら、医療崩壊が起きないように、感染症対策や医療体制面だけは確実に整備しておく必要はあるんじゃないか。
:一般論としてはその通りさ、だから今回不備が露呈した部分を補填・拡充して教訓を活かせばいい。医療崩壊って言えばさ、今回のコロナで普通の医院、病院でも院内感染恐れて患者が来なくなっちゃって、がら空き、そっちの「医療崩壊」も深刻だったぞ。
:それは経済の話だな。その話はあとで聞くとして、さっき言ってた欧米のパニックを日本もまねる必要はなかったって話は?
:札幌医大で出してるこういう資料があるんだよ。世界各国100万人当たりのコロナ死者数の累計を毎日更新してるんだけど、これを見て気づくことがいくつかある(最終6月14日)。



:ああ、下にたくさん国名が書いてあるけど、これは1,2,3……15か国しかないね。
:うん。自由に選べるんだよ。全部入れるとごちゃごちゃになっちゃうから俺が勝手に大事だと思える国を選んだんだ。
:ははあ、もうだいたいが終息してきてるんだな。でも三つだけ上昇してるぞ。
:そう。ちょっとわかりにくいから、全部言っておこう。右端の上から順にベルギー、イタリア、フランス、スウェーデン、アメリカ、ブラジル、メキシコ、ドイツ、ロシア、フィリピン、インドネシア、日本、シンガポール、マレーシア、タイ。上昇してる三つは、ブラジル、メキシコ、ロシアだ。欧米とアジア諸国はほとんど水平になってるだろう。世界全体のもあるけど、これもほぼ水平に近づきつつある。
:アジアで中国や韓国やインドが抜かしてあるのはなぜ?
:それは、国情やカーブの仕方から見て、統計に信用が置けないから。インドは急上昇中だけど、ずいぶん後になってから突然登場してるんで、これもおかしい。日本も含めて他の国も疑う余地はあるけど、まあ、だいたい信用するしかないな。
:そうか。それでこの上昇中の三国はまずいんじゃないか。ここからまた世界に広がる可能性がある。
:さあ、どうだろうか。ロシアはもうすでにカーブが鈍ってきてるだろ。ブラジルとメキシコは、衛生環境の極めて悪い貧困地区で拡大してるんだよ。だからこれはコロナ問題に限定して考えるべきじゃなくて、貧困問題、政治問題としてとらえるべきだと思う。つまりそういう地区では、もともと食糧事情や居住環境や治安、麻薬禍など、解決すべき問題が山積してるはずなんだ。インドもたぶん同じだよ。
:なるほどね。ところで欧米と日本とでは死者数がまったく違うというのはいろいろなところで言われてたけど、それはなんでなんだろうな。やっぱり生活習慣の違いかな。
:その前に、このグラフの縦軸を見てくれないか。これは対数目盛なんだ。つまり、見た目よりもずっと差が大きいんだよ。具体的に言うと、最高はベルギーで約830、日本は約7、最低のタイは0.8という具合だ。2桁も3桁も違うことになる。大事なのは、欧米と日本だけに開きがあるんじゃなくて、東南アジア諸国も日本と同じか、それより低くなってる。これは生活習慣の違いなんかじゃ説明がつかない。結局、まだ定説はないけど、人種によって免疫学的な違いがあると考える以外ないんじゃないかな。
:うーん、そうか。そうすると、日本は、欧米に見習ってあわててオーバーシュートだのロックダウンだのと騒ぐ必要はなかったことになるな。
:そう。俺が言いたかったのはまさにそこさ。それに関連してもう一つ言いたかったのは、ヨーロッパじゃどの国も早くから厳しい隔離と外出規制を取っていただろ。それなのに、その時期には死者数はどこもうなぎ上りだ。ところがスウェーデン(上から4番目)だけは、高齢者以外にはそういう規制を敷かなかった。で、結果はご覧の通り、他国と同じカーブなんだよ。つまり、隔離や外出規制は意味がない証拠だ。だから、むしろ、外出規制なんかしない方がよかったんだ。マスクをして適切な距離を取っていれば飛沫が飛ぶなんてことはまず考えられないからな。
:日本じゃ8割おじさんてのが出てきてパッと8割外出規制が決まっちゃったな。
:あれも大いに問題があった。第一に8割という数字には論理的な根拠が乏しい。第二に、政府が自分たちでちゃんと調べないで、いわゆる「専門家」丸投げでさっさと政治決断してしまったこと、それから第三に、地域特性も無視して、一律8割というのはどう考えてもおかしい。
:そう言えば岩手県は最後まで感染者ゼロ、鹿児島、鳥取、徳島、秋田なんかはほとんどいなかったな。
:そう。大都市と農村と全然事情が違うのに一律はないだろう。それと言っておきたいのは、「専門家」依存のいいかげんな決定で、日本全国に絶大な力を及ぼしたんだから、その「専門家」はそれが経済にどういう影響を与えるかに関しても、自分たちなりの責任意識を持つべきだと思うんだ。同時に、政府のほうも、専門家会議の中に経済的悪影響のことをきちんと考えてる識者を初めから入れておくべきだったんだ。
:それはそれとして、俺が思ったのは、日本人てなんてまじめで従順なんだろうってことだな。君の言う通りだとすれば、これもちょっとまずいんじゃないの。もっと議論が起きてしかるべきだったろう。
:そうだな。それと臆病で神経質すぎるな。政府や都知事が問題にする前から、相当自粛が進んでたからな。お上の言うことそのまま信じないで、自分たちの頭でまずきちんと調べたり考えたりしてほしいよ。とにかく、経済の計り知れない損失のことを考えると、官民含めて今回の日本のコロナ対策は壮大な失敗だったよ。
:現状、経済的損失は、どれくらいに及んでるの。
:2020年1-3月期のGDPは前期比年率で3.4%減。個人消費や生産が急速に悪化してるね。だけど忘れちゃいけないのは、昨年10月の消費増税で7.1%減になった、そのうえでさらにこれだけ落ち込んだってことだよ。4-6月期は、コロナ禍で休業、倒産、廃業、解雇が続出してた時期にあたるから、この結果が出る8月には恐ろしい数字を見ることになるだろう。あと、このグラフを見てくれ。



4月の鉱工業生産指数は前月比で9.1%落ち込んで、これは東日本大震災の時よりも悪くなってる。また帝国データバンクによると、今年の倒産件数は一万件を超すそうだ。自主的な休廃業などは、二万五千件だって。6月からはこれまでより悪化するのは確実だからね。そうすると失業率も急上昇して、特に非正規労働者の生活はますます逼迫するだろう。ほとんど恐慌に突入だよ。第二次補正予算で何とか32兆円の真水にこぎつけたけど、こんなもんじゃとても足りないだろうね。TVなんかは飲食業や宿泊関連の落ち込みを強調してるけど、ふつうの企業や生産現場だって、みんな関連してるからね。政府や一部の新しがり屋はテレワークやオンラインの可能性とか、「新しい生活様式」とかV字回復とか白々しいことを言ってるけど、テレワークやオンラインで能率が上がるはずがない。子どもも友達に会えないし、勉強の遅れを取り戻さなくちゃならないし、かわいそうだよ。
:そういえば新幹線がガラガラだったってよく話題になったな。4月の時点でどの路線も9割近く利用客が減ってしまった。今日ここに来るときも、まだ電車はすいていて、ゆうゆう座れたぞ。
:そうそう。それも大問題だったな。首都圏の通勤路線も6割減だそうだ。鉄道会社も航空会社も、下手したら経営が危ない。「新しい生活様式」に変わることが大事なんじゃなくて、元の当たり前の日常生活にいかにして復帰するかが大切なことなんだ。もう一度言うけど、コロナ対策は壮大な失敗だった。マスクを捨てよ、街に出よう!


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緊急事態宣言は不要だった

2020年05月28日 19時46分45秒 | 思想


5月25日に首都圏でも緊急事態宣言が解除されました。
街には徐々に日常性が戻りつつあります。
心なしか、人々の表情には明るさが見られます。
本来、日本では、この「緊急事態宣言」なるものは必要のないものでした。
そんなことを言えば、「何を言ってるんだ、それがなかったら、コロナ感染がどこまで広がっていたかわからない。死者数も比較的少なくて済んだのは、この宣言の要請にみんなが従って自粛したからじゃないか。それに、まだ終息したわけじゃなく、第2波、第3波にも備える必要があるんだぞ」と猛烈なバッシングを食らいそうです。

しかし、この疫病の性格をよく考えてみると、どうもそういう認識は当てはまらないようです。
これからその理由を述べていきますが、その前に、この過剰自粛を促した宣言が、どれほどの経済的犠牲を国民に強いたかに思いを寄せなくてはなりません。
政府は「要請」というレトリックを用いて、休業補償から逃げ、大規模な財政出動からも逃げ、消費税の凍結からも逃げました。
これから日本は大変な経済恐慌に突入していくでしょう。

さて理由の第一は、この病が、感染力の猛烈さに比べて、重症者や死者のほとんどが60歳以上の高齢者と持病の持ち主に限られているということです。
下の図は、5月7日時点での年齢別の感染者数で、上から順に、80代以上、70代、60代、50代、40代、30代、20代、10代、10歳未満、不明となります。色分けは、左が死亡、中が重症、右が軽症・無症状・確認中です。


https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/?fbclid=IwAR2YWT90_yBeDd_-tFhAG6HdAJwoN7JF-Ej_2FwJ7n97c5MqmzAvw7gjUXw

理由の第二は、ここ7年間で、インフルエンザによる死者が平均2000人を超えているのに、その際、ロックダウンの可能性など一切問題にされなかったという事実です。
これに、ふつうの肺炎による死者が、年間11万人以上いることも付け加えておきましょう。
これは病死の原因の第4位を占めています。
もっとも、この場合も、高齢者がほとんどで多くは基礎疾患があった場合でしょう。その点では新型コロナと変わりません。
11万人といえば、毎月約1万人に及ぶので、このコロナ禍が騒がれた4か月間に、すでに4万人近くに達している計算になります。
しかし、これまで普通の肺炎による死者が多いからというので、緊急事態宣言などが発出されたことはありませんでした。
ちなみにコロナ死者は、5月27日現在で累計867人

理由の第三は、自粛徹底あるいは自粛要請が、果たして功を奏したのか、という疑問が残ることです。
政府や自治体は、国民の皆さんのご協力のおかげで感染者数、死亡者数も少なく抑えることができたと、その効果の宣伝に大いに努めることでしょう。
しかし、ヨーロッパでは、スウェーデンが外出規制や過剰自粛などを強制しなかったにもかかわらず、厳しい規制を強いたその他の諸国と、死亡者数の増加のカーヴに変化が見られません。(下図)
欧米諸国では現在、ほとんどの国が終息に向かいつつありますが、厳しい規制を課しているその最中にも、死亡者数はどんどん上昇していました。
無症状感染者、軽症感染者を増やすことによって、免疫力を獲得した人を増やすという戦略も十分にあり得たのです。
もちろんその場合でも、高齢者や持病の持ち主には、厳しい隔離政策を取ることが要求されますが。

理由の第四は、ウィルスというのは、生体に寄生して初めて活性化するので、その生体が死んでしまえば自分も不活性になってしまうという事実です。
現在、ブラジルなど一部の例外を除いて、世界的にコロナ死者が終息に向かっているのは、規制が功を奏したのではなく、一定の死亡者が出たために、ウィルスそのものが自然に不活性化しつつあるためではないかと考えられます。
これはペスト、コレラなどの伝染病を引き起こす細菌でも同じで、中世のペスト流行も、抗生物質などなかった時代にもかかわらず、多大な死者を出したのちに、生き残った者たちの間に自然に免疫が形成され、最終的には終息していきました。
原因は、生体に寄生して生きる宿命を持ったこれらの微生物が、生体の死と共に自分も死んでいったからだと考える以外、決定的な理由が見出せません。

理由の第五は、欧米とアジアとの死亡者数の極端な差にかかわります。
日本ではなぜ欧米に比べて重傷者、死亡者がこんなに少ないのかという現象は、多くの人がその理由を問題にしてきました。
欧米の握手、ハグなどの「濃厚接触」の習慣、マスクをしない習慣、日本人の「ウチ、ソト」をハッキリ分ける伝統、清潔好きの国民性、BCGをしたかしないかの違いなど、いろいろなことを言われましたが、どれもピンときません。
前にもこのメルマガで取り上げましたが、下の図は、人口100万人当たりの死亡者数の5月27日現在までの累計です。


https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/death.html

死亡者が多く出た欧米諸国、上昇中の国、死亡者の少ない国の三つがよくわかるように国を選んであります。
上から順に、ベルギー、スペイン、イタリア、イギリス、フランス、スウェーデン、アメリカ、ブラジル、ドイツ、メキシコ、ロシア、フィリピン、日本、インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイ。
なお、筆者の判断で、この国の統計は、そのカーヴの具合や国情から見て当てにならないと思える国は、省いてあります。
それは、中国、韓国、台湾、インドです。
疑問に思う方は、上記の原資料に当たってみてください。
しつこいようですが、このグラフの縦軸は、対数目盛です。
したがって、多い国と少ない国との差は、見た目よりもはるかに大きくなります。
最高のベルギーは805.38、日本は6.78、最低のタイは0.82といった具合です。

まずここで言いたいのは、欧米に比べて死亡者が少ないのはじつは日本だけではなく、アジア諸国が軒並み2桁から3桁低い数字を示しているという事実です。
これは、生活習慣その他で説明できる問題ではありません。
フィリピンやインドネシアが、日本のような清潔好きの国民性を持っているとは考えられないからです。
なぜアジア諸国がこんなに少ないのかについては、すぐ後で仮説を述べたいと思いますが、
ここで指摘しておきたいのは、第一に、日本人は先進国意識がぬけないために、国際比較をしようとすると、欧米社会しか思い浮かべない癖がついていることです。
そのため、死亡者数に2桁の違いがあるにもかかわらず、欧米で騒がれたことはその対策に関してもすぐ見習って大騒ぎしやすい。
西洋は、これもあとで述べますが、ある社会心理的、宗教的理由から、一種の集団ヒステリーに陥ったのだと思います。
さぞかしペストの歴史的な記憶も甦ったことでしょう。
日本は、足元のアジアの事情など関心の埒外で、この集団ヒステリーに煽られて、パンデミックだのロックダウンだのオーバーシュートだのクラスターだのソーシャルディスタンスだのといった、日常聞き慣れないカタカナ語の飛び回る大きな渦に巻き込まれてしまったわけです。
日本ははたしてロックダウンなど想定すべき状況だったでしょうか。
筆者の考えでは、答えは否です。

ではアジア諸国と西欧諸国とは、どうしてこんなに差がはなはだしいのでしょうか。
筆者は素人なので、推測の域を出ませんが、これには遺伝子的な相性の問題が関係しているのではないかと思われます。
調べてみますと、ヒト白血球抗体(HLA)の違いというのが、ウィルス性の伝染病に罹りやすいか罹りにくいかに大きく関係しているという研究があります。
この相性の問題は白血病や結核についても昔から研究されていますね。
新型コロナでも、今回のウィルスは、西欧人の体内のHLAと共存しやすい。
断定はできませんが、今のところ、この仮説が一番説得力がありそうです。
専門家の研究成果を待ちたいところです。
 
理由の第六。
次のような資料があります。
https://newstopics.jp/url/11218490
新型コロナ患者から取り出した検体からウイルス培養を試みた場合、発症から8日目までの検体からは培養できても、9日目以降の検体からは培養できないそうです。
培養できなくなるとは、ウイルスが増殖力を失ったか減退させたことを意味します。
増殖力がなければ感染も不可能です。
同じ資料にこれと符合する研究が紹介されています。
台湾で100例の確定患者とその濃厚接触者2761人を調べたものがあります。
後に発病したのは22人ですが、すべて確定者患者とは発症前もしくは発症後5日以内に接触した者で、発症6日以降に接触した者には発病者はゼロだったそうです。
これらの研究が正しければ、発病後1週間を経た患者にはもはや感染力はないことになる。
コロナ患者をいたずらに回避したり快復後も外出自粛を要求するのは、無意味で非合理といわざるを得ません。
つまり、新型コロナは、短期間の感染力は猛烈ですが、大した疫病ではなかったのです。

以上述べてきたことについて、次のような反論があろうかと思います。
そうは言っても、第2波、第3波は、必ずやってくる。これで終息に向かうなどとは言えないだろう、と。
もちろん、第2波だろうと第10波だろうと、こうした流行病のたぐいはこれからもやってくるときはやってくるでしょう。
何が起きるか、未来はわかりません。
これまでも、インフルエンザは何度も何度も、かたちを変えてやってきました。
でも問題は、これからそのたびに「そらパンデミックだ」と大騒ぎし、緊急事態宣言を出し、経済活動を停止させるのかということなのです。
一部の医療関係者を中心に、第2波、第3波が必ず来ると騒いでいる人たちは、どういう科学的根拠があってそんな予言めいたことを言っているのでしょうか。
それをきちんと聞きたいものです。
思うに、こうした不安を煽る(自分が不安に煽られている)人たちは、例のスペイン風邪の歴史的な記憶に基づいて騒いでいるだけなのではないか。

また新型コロナにはS型とL型があって、日本にはS型が入ってきたが、ヨーロッパにはL型が入った、第2波ではL型がくるから、これには抵抗できない可能性が高いなどという人もいます。
筆者はSとLとがどう違うのか知りません。
たしかに西洋人は体が大きく、Lサイズが合うでしょうね。
しかし外国帰りの日本人や訪日外国人を通して、すでにL型は入ってきているのです。
それなのに、感染爆発など起きていませんね。

また、最近よく報道されているニュースに、ブラジルのコロナ禍が増大しているというのがあります。
たしかに上の図で確認される通り、ブラジルのコロナ死者数はついにドイツを追い越して、急速に上昇中です。
しかし、これは、疫病問題というよりは、貧困問題、政治問題でしょう。
なぜなら、メディアに映し出されるようなああいう貧困地区では、非衛生極まりなく、治安も悪いので、これまでも悲惨な事態が他にいくらでもあったにちがいないでしょうから。
メキシコもおそらく事情は同じ。
そこからコロナ問題だけを抽出すれば、いかにも今度は中南米から全世界に広がっていくようなイメージを与えられ、集団ヒステリーはまだまだ続くことになります。

それにしても、今回よりずっと死者が多かったほかの時には、日常生活や社会活動を壊すような騒ぎにはならなかったのに、今回のように政府、マスコミ、一般国民のほとんどすべてに至るまで、夜も日も開けずにコロナ、コロナと騒ぎ立てたのは、どうしてなのでしょうか。
まあ、ブームだと見れば、その非合理性に納得がいかないでもないですが、しかしブームはなぜ起きたのか。
これを考えることは、けっこう重要な文化的問題、もっといえば、思想的問題のように思えます。

いろいろ考えられるのですが、一つは、中国という「ならず者国家」がその発祥地だったという点がまずあるでしょう。
独裁政治を敷いて、言論の自由が許されず、国外からは何をやっているのか正確に把握できない。
国際社会のなかで、この大国は、いつも周囲に不気味な心理的威嚇を与えています。
心ある日本人は、この隣国が直接の脅威をもたらしていることを知っているので、その剣呑さをよくわきまえていますが、ヨーロッパ、特にドイツはこれまで中国と経済的に密接な関係を持っていたこともあって、この国の恐ろしさを甘く見ていたところがあります。
流行の先手を切っていたイタリアは、北部の多くの地区が中国人に占領されていました。
で、今回その中国に手ひどい目に遭った。
ようやくヨーロッパ諸国は、今度のことでこの国がいかに危険な要素を抱えているかに気づいたようです。

次に考えられるのは、新型コロナウィルスの到来が、これまでのものと違って、初体験で未知の要素が多かったということです。
疫学的な対処法が確定できず、ワクチンもできていない。
こうした未知との遭遇に、世界の人々の不安はいやがうえにも高まりました。

また、マスコミだけでなく、SNSなどの情報ツールが過剰に発達していて、不安が不安を呼び、憶測やフェイクニュースや陰謀論が乱れ飛んで、一種の自縄自縛の風評被害に遭ってしまったということも考えられます。
世の中には、いろいろなことが起きていて、個別の不幸や苦しみに出会い、そこで耐えられなくなって挫折したり、必死で耐えている人がたくさんいます。
世界大の出来事もあちこちでたくさん起きているはずです。
ところが、マスコミやネットニュースは、来る日も来る日もまずはコロナばかり。
まるで大事なことはそれしかないと言わんばかりの勢いでした(まだこの傾向は続いていますが)。
この一点集中は、悪循環を生んで、私たちの関心をますますそこに追いこみ、洗脳状態にしてしまいました。
これは一種の全体主義と呼ぶべき事態です。

全体主義といえば、ナチズムやスターリニズムのような、政治的・歴史的な大事件を思い浮かべるのが慣らいですが、筆者は、今回のコロナ騒動に遭遇して、ああ、全体主義ってこういうものなんだなあと、痛感しました。
全体主義とは、要するに、人々が普通の日常生活を普通の気分で送ることを許さない雰囲気の支配、ということです。
たとえば、今日は休みだから、ちょっとぶらっと床屋でも行って、いつものコロッケ屋のおばさんに冗談を言って、コロッケを買って家に帰る。夜は飲み屋で酒を飲み、いい機嫌になって大将と馬鹿話をする。
こういうことができるのが「自由」で、そうした普通の日常を壊すのが「全体主義」です。

今回の「全体主義」は、特定の独裁者が意図的にもたらしたものではありません。
むしろ、その真犯人は、大衆の社会不安につけ込んで心理を支配してしまった、たった一つの「情報」という妖怪です。
その意味では、全体主義が成立するためには、大衆の不安心理という非合理的なものの参加が不可欠です。
そして、この不安心理の背景にあるのは、情報のグローバリズムです。
遠いヨーロッパで起きていることとそっくり同じことがこの日本でも起きているかのような錯覚に陥らせる。
何しろ、リアルタイムで遠隔地の状況が知らされるのですから、明日は我が身、他人事とは思えないという焦りの気分が一気に醸成されます。
こうしてパニックはたちまちのうちに広がり、日本の為政者も国民も、それに何の抵抗もなく乗っかってしましました。

ところで、疫病としてのコロナは、もちろん中国が発祥地ですが、社会心理現象としてのコロナ全体主義は、むしろヨーロッパが発祥地です。
考えてみれば、あの政治的な全体主義も、もともとはその土壌をヨーロッパにもっています。
ヨーロッパの世界把握の仕方は、古くは神と悪魔の対立というスキームにはじまりました。
やがて合理の光の下に闇の部分を抑え込み、その旺盛な力によって、自然や異世界の征服に乗り出します。
あくなき科学的な探求、古い体制の転覆、そして強い意志に基づく大航海時代の遠征や後の植民地帝国主義。
これらは、真理は神(ゴッド)に宿るという一神教的な信念がなければかなわないことです。
しかし、合理主義の力(それはゴッドの近代版です)によって闇や異物を駆逐し、すべてを明るい光の下に照らし出そうとしてきたのですが、この光と闇、神と悪魔の二元論的なスキームにはもともと無理が伴っていました。
時折、闇や未知の異物が出現すると、たちまち不安と心理的恐慌が噴出します。
彼らは、現代の宗教である「科学」の力によって、何が何でも現代の「悪魔」を抑え込まなければならぬという焦燥に駆られます。
彼らは自然が人間を侵害してくる状況に接して、ひたすら自然を敵視し、強引に克服しようとします。
しかし、ウィルスは、果たして克服の対象なのでしょうか。むしろうまく共存すべき相手なのかもしれないのです。

明治以降、西欧化の道を歩んできた日本が、何もその世界把握方法をそのまま真似る必要はなかったのではないでしょうか。
もっとも、今回の場合、ヨーロッパほど厳格な規制を敷いたわけではなかったし、死者数を見ればその必要もなかったのですが、「お上」の言うことに率先して従って自主規制を徹底させた国民は、経済的に自ら首を絞める結果になりました。
この事態はむしろ、まことに日本的というべきかもしれません。

この問題を緻密に探究するには、広い文化論的な視野を必要とするので、一朝一夕には論じられませんから、機会を改めることにしましょう。

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コロナに関する素朴な疑問

2020年04月15日 10時16分56秒 | 思想

渋谷2020年2月1日


渋谷2020年3月28日

4月6日に緊急事態宣言が発出されてから10日経ちました。
テレビでは、相変わらず、人通りが途絶えシャッターを下した繁華街の光景を映し出しています。
そして、新たに発生した感染者数、累計感染者総数、死者数、退院者数を報告しています。

ここでまず素朴な疑問が生じます。
毎日報告される感染者数は、どれだけの検査件数に対するものなのか。
PCR検査件数全体に対してどれだけの割合で陽性反応が出ているのか、その割合がまったく分かりません。
つまり分母が提示されないままに、今日はこれだけ発生した、全体でこれだけ増加したという発表だけがなされているわけです。
3月24日に小池都知事がいきなり「非常事態」宣言をしてから、全国でも検査件数を増大させたと想定されますが、検査件数が増えれば、感染者数も増えるのが当然です。
韓国のような検査件数が多い国ほど致死率が低いと言った誤報に影響されたのではないかと推測されます。
https://www.gohongi-clinic.com/k_blog/4133/
ちなみに東京都における4月6日から8日間における検査実施件数は4,652件(一日平均582件)、うち陽性反応1204件となっており、その割合は、25.9%です(数字にやや不審な部分もあります)。
なお3月23日以前は、一日の検査実施件数が多い時で180件、少ない時で0件で、24日以降激増しているさまが読み取れます。
https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/

次に思うのは、各都道府県は、検査を全域にわたって均等に行なっているのか、それとも受診者がある地域に集中しているのか、その分布状況もわかりません。
また、感染者(陽性反応が出た人)のうち、世代別の分布、無症状者・軽症者・重症者の割合、職業別の割合など、知るべき情報が一般に知らされていません。
各自治体では出しているはずですから、これらは簡単に集計できるし、また発表しても差し支えないはずです。

これらの情報は、後述するように、新型コロナという流行病の特質と適正な対策を考えるうえで極めて重要な情報です。
それなのに、「感染者がついに8000人を超えました」といった視聴者を脅すような情報発信ばかりがなされています。
意識的な隠蔽とまでは思いませんが、こうした情報発信の方法が、視聴者の不安を煽り、結果的に自粛やむなしという方向にただ一方的に誘導する効果を持っていることは明らかです。
これは推測ですが、厚労省がだらしないためにこうした情報整理をやっていないのではないかと思います。

すでによく知られている新型コロナという流行病の特質を簡単に整理すれば、

①人から人への感染力がきわめて強い
②密室、密集、密接によって感染しやすい
③高齢者や基礎疾患のある人は重症化しやすい
④8割は軽症で回復している
⑤潜伏期が長い
⑥無症状感染者の数が多い(知人の医師によれば、報告されている数の15倍はいるだろうとのことでした)

これらの特質について、また別の知人の医師は次のように語っていました。
コレラやペストはいざしらず、新型コロナは、その8割は軽症で回復している病気です(連日報じられる死者数の陰に隠れがちですが)。潜伏期が長く、さらに感染しても発病しない不顕性感染者がたくさんいます。これが、どこに感染者(保菌者)が潜んでヴィールスをまき散らしているかわからないという強い不安や疑心暗鬼を生んでいます(だから、とにかく集まるなと規制)。しかし、裏返せば、それだけ発病力の低い、ほんらいは軽い感染症だという理解が可能です。感染力の強さと疾患としての重篤さとはちがいます。感染力が強いのは、現時点ではだれも免疫をもっていないことが大きいでしょうね。もちろん、条件次第で致死的な転帰を取り、医療状況によりますが平均すれば2~3%の死亡率を示していますから、決して甘く見てはなりませんけれど。感染力が強くていっぺんに大勢が罹るため、致死率は低くても死亡者数は多くなるのです。

さてこのコメントで一番気になるのが、「感染力が強いのは、現時点ではだれも免疫をもっていないことが大きい」という部分です。
この事実は、裏を返せば、免疫力をつけるためには、軽く感染して治癒する(または発症しない)なら、そのほうがむしろ望ましいという考え方も無視できないことになります。
天然痘に対する種痘にしても、結核に対するBCGにしても、抗体を作りだすためにごく軽微な感染状態にするという(ワクチンが手に入らない状態では)感染症対策としては伝統的に取られてきた方法です。

ここで、素朴な疑問の第二です。
現在取られているように、人と人との交流を限りなくゼロにすれば、やがてはウィルスは「封じ込められて」終息する、という「自粛要請」(欧米では「強制」)の方法は、果たして唯一の正しい方法なのか。
「封じ込める」という言葉についてですが、正確にはどういう意味なのでしょうか。

人と人との接触を排除する→ウィルスを「封じ込める」。

この論理はそれほど科学的根拠があるでしょうか。
よく知られているように、ウィルスは何かのきっかけであらぬ方向に変異していきます。
他の多様な感染経路(人→モノ→人、人→動植物→人)を見出さないかどうか、誰にも分りません。
仮に人同士の接触を断つことで一時的に減衰が見られたとしても、ネズミが増えてきたのを片端から殺鼠剤で殺していけばよいというふうに原始的な発想ではうまく行かないのが、このウィルスという不思議な存在の厄介なところです。
何か他の発想も必要なのではないでしょうか。

ジョンソン英首相は3月12日の記者会見では、休校や集会禁止、市民同士の接触を制限するなどの措置は取らないと明言し、手洗いの励行を呼び掛けるにとどまっていました。
多くの人が感染することで免疫をつけ、その人たちによって感染の急拡大を防ぐという「集団免疫」の戦略です。
しかし猛烈なバッシングを受けて、16日には一転、厳しい自粛政策を取るようになりました。
さてそれから1か月たったわけですが、この強制自粛の方針は、果たして功を奏しているでしょうか。
前回使用した100万人当たり累計死者数のグラフの現時点(4月14日)までの推移を見てみましょう。
https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/death.html



上から四番目のオレンジ色がイギリス、茶色が日本です。
念のため、このグラフの縦軸が対数目盛になっていることにご注意ください。
日本が1に達していないのに、イギリスは167で、しかもそのカーブはまだまだ右上がりで急上昇しています。
3月16日以前は0.2以下くらいしか上昇していなかったのが、4月に入ってからは、毎日平均10を超える単位で数値が上がっているのです。
1,2位のスペイン、イタリアが、すでにカーブが緩やかになってピークを過ぎたらしく見えるにもかかわらずです。

強制自粛路線が必ずしも効果を生んでいないことがこれでわかりますが、もう一つ、アイスランドの例を挙げておきましょう。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200409-00010000-clc_teleg-eurp&fbclid=IwAR333OSqifRMxdDtW7LZTX70yKJUeSWqyEeu_M-W3STM8JHdKrlYfiEheYg
アイスランドでは人口当たりの感染者が世界で最も多いのですが、これは検査件数の多さによるものです。
うち1364人が陽性反応を示し4人が死亡しました。
これは上の図に当てはめると、約11になります。韓国とドイツの間ということですね。
ただ、アイスランドでは、この検査結果を利用して統計学的に感染リスクが高い市民に対し積極的な隔離政策を進めることで、厳格な全国規模の都市封鎖を回避しています。
疫学者チームを率いるソロルフル・グドナソン氏の対策チームは警察官と医療従事者60人で構成され、感染が確認されるとそれぞれが個別に調査を行い、接触者を把握します。
こうして得た詳細なデータに基づいて、対人距離の確保について簡単なガイドラインを作り、これによってウイルスが急速に拡散する前に接触者を把握することができたため、都市封鎖や隔離を免れることができ、また、医療現場にかかる力を緩和できたと言います。
どうして可能だったのかはわかりませんが、アイスランドでは、去年の暮れの時点でパンデミックの可能性に気づいていたそうです。
その結果、医療体制や調査体制について周到な準備ができたというのです。
イタリアやスペインのように通りが静まり返っていたり、店が閉まっていたりする様子はなく、カフェやパブ、店は穏やかに営業を続け、学校は休校せず、移動制限もない。
観光客ですら、歓迎されているということです。

人口わずか36万5千人の小国だからそれだけの結束と素早い連係プレーが可能だったとは言えるでしょう。
しかし、参考にできる部分は大いにあります。
第一に、データの詳細な把握と共有です。
はじめに述べたように、感染者数と検査件数との割合、年代層、居住地域、症状の有無と程度、職業などについて、詳細なデータを(一般国民に全公開はしないまでも関係者の間で)共有することで、この病についての一定の医学的判断が成り立ちます。
第二に、これにもとづいて、どこに重点的に医療関係者や医療体制を配備すればよいかというおおまかな基準(ガイドライン)を作ることができるでしょう。
これは現在問題となっている医療崩壊の危機に対して、均衡ある配分を達成することに寄与するかもしれません。
第三に、このような効率的な対応をすることで、何も一律8割の自粛を要請するなどという杓子定規な判断をしなくても済みます
たとえば、何人以下、どんな空間、どれくらいの時間なら要請に従わなくてもよいとか、60歳以上の人は極力家を出ないようにする、テレワークのできない会社員でも、この場合は出勤して大丈夫、小中学校は休校にしなくてもよい、といったより具体的な指針を示すことができます。

政府や都は、職業について細かな規制を敷いていますが(しかも両者で食い違っていますが)、この判断はきわめて恣意的です。
同じ職種であっても、複数の条件をインプットすることで、営業してもよい場合と自粛した方がよい場合との区別も可能となるはずです。
そういうきめ細かな指示を与えることは公共機関の責任でもあるでしょう。
政府は、大した理論的根拠もなく自粛7割から8割だ、などと断案を下していますが、経済の恐るべき凋落を考えたら、こんな粗雑な断案で片付く話ではありません。
8割おじさんこと西浦博氏が「専門家」としての力を示していますが、あまり理論的根拠を感じませんし、一律にしなくてはならない理由も明らかではありません。
地域や感染状況によって事情がまったく異なるはずだからです。
それに、仮に医療の立場から説得性があったとしても、一国の経済的運命を握る一大事なのですから、医師といえども政策決定に関与している限りは、この二律背反をどう解決するかについて、「政治判断は専門外だから」では済まされず、少なくとも真剣に悩むべきだと思います。

いずれにしても、この二律背反を克服するために必要なのは、疫病克服としてのコロナ対策と経済崩壊防止のための対策とをどう両立させるかの「さじ加減」です。
しかしいまの安倍政権にはその力はありません。
なにしろ消費税には一指も触れず、休業補償はしないと平然とのたまい、赤字国債はわずか16.8兆円、これでは国民殺しの政権と呼ばれても仕方ないでしょう。
すべてこれ、財務省がPB黒字化目標を崩さないところから出ている政策です。
実を言えば、コロナ危機は、財務省の緊縮路線を崩して、消費税を廃止し、100兆円規模の財政出動に踏み切る絶好のチャンスなのです。
これができれば、安倍首相はヒーローになれるでしょう。
ところが肝心の彼氏、星野源さんと並んでお部屋でワンちゃんと遊んでおります。
やる気のない安倍政権に見切りをつけて、私たち自身で国家存亡の危機に向き合っていきましょう。



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コロナについてのある精神科医の見解

2020年04月02日 20時37分20秒 | 思想


以下に掲げるのは、長年懇意にしている筆者と同世代の精神科医の方からいただいたメールの一部です。
拙著新刊をお送りしたところ、その感想をいただきました。
一読、コロナ問題に対する医者としての優れた専門的な知見と、人間味あふれるその良識に深く共感しましたので、ご本人の了解を得て、ここに掲載させていただく次第です。
メールは2通ありますが、2通目は、筆者が調子に乗って、お返事の代わりに前回の拙ブログをお送りした、そのまたお返事です。


【第1信】
『まだMMTを知らない貧困大国日本』、さっそく拝読いたしました。
 日本社会が経済的にはもとより知的、文化的にも凋落の一途であること、様々なデータからわかってはいたものの、あらためて暗澹といたします。

 学生時代、国鉄の赤字が取り塵沙汰されていた頃、友人とこんな問答したことを思い出しました。下宿を訪ねて畳にごろ寝してテレビを眺めながら好き勝手な雑談にふける間柄でしたが、そんなときのやりとりでした。たぶん、たまたまテレビが国鉄赤字のニュースかなにかやっていたのでしょう。

 「国鉄って公共事業だよね。それがなぜ赤字でいけないんだ? 民間営利事業じゃないのに」
 「それを言えば警察庁も消防庁もみんな赤字だよね」
 「自衛隊も大赤字部門。採算性を求められて、あちこちに攻め込んで領地や資源をぶんどってこないと許されなくなったりして(笑)」。
 「なまじ運賃なんか取るから赤字だの黒字だの収支をとやかく言われるんだよ。運賃ゼロ、国鉄無料化すれば、赤字問題は一気に解消(笑)」

 その場かぎりの気楽な放言で、すっかり忘れていましたが、貴著を読んでいて蘇ってきました(もう少し膨らませれば八つぁん熊さんの落語にできそうです)。彼とはずっと親友でしたが、2年前、逝去しました。

 国民国家とは最大の公共事業体のはずです。黒字に固執する財務官僚や政治家たちは、君主国家の王様や廷臣が王家の財産を後生大事にするのと同じ心性に陥っているのでしょうか。公共事業体の担い手に公共的な意識に乏しいのは、「私的個人主義」の浸透によって現代日本人一般に公共意識が薄らいでいることに連動しているのでしょうか。

 わたしが医学生だった頃は、近代医学は「感染症」を克服して、コレラやペストは昔話、もはや疫病など医学のメインテーマではないという空気でしたが、グローバリズムは奥地で無害に眠っていたヴィールスを人間社会に引っ張りだし、張り巡らされた流通網によって世界に蔓延させます。恐ろしきはヴィールスよりも、あくなきグローバリズムかもしれませんね。反省の契機になればよいのですが・・・。

 各国に広まる外出禁止や都市封鎖は大昔からの疫病対策の定石で、『デカメロン』やカミュの『ペスト』の世界さながら。西欧では、最初は甘くみていた反動とペストの歴史体験が大きいかもしれません。ほかに手立てがないとしても、うーん、どうなのでしょうね。

わたしはヴィールス学の専門家でも感染症予防のプロでもない一精神科医に過ぎませんが、こんなふうに愚考いたします。

 コレラやペストはいざしらず、新型コロナは、その8割は軽症で回復している病気です(連日報じられる死者数の陰に隠れがちですが)。潜伏期が長く、さらに感染しても発病しない不顕性感染者がたくさんいます。これが、どこに感染者(保菌者)が潜んでヴィールスをまき散らしているかわからないという強い不安や疑心暗鬼を生んでいます(だから、とにかく集まるなと規制)。しかし、裏返せば、それだけ発病力の低い、ほんらいは軽い感染症だという理解が可能です。感染力の強さと疾患としての重篤さとはちがいます。感染力が強いのは、現時点ではだれも免疫をもっていないことが大きいでしょうね。もちろん、条件次第で致死的な転帰を取り、医療状況によりますが平均すれば2~3%の死亡率を示していますから、決して甘く見てはなりませんけれど。感染力が強くていっぺんに大勢が罹るため、致死率は低くても死亡者数は多くなるのです。

 現代の社会構造において感染機会(人的交流)を封じ切るなんて土台無理な相談でしょう。真に警戒して防止に力を注ぐべきなのは、「感染」ではなく、感染したあとの「重症化」です。重症化しなければ「感染」に過度に怯える必要はありません。どんな病気であれ悪化を防ぐ最善の道は「早期発見・早期ケア」なのは、だれもが知る常識でしょう。

早期発見に不可欠なのは、発見と診断のためのいち早くの臨床検査ですね。少しでも心配があれば検査して感染の有無を調べる。検査で陽性であれば、すぐに養生をする。まだ発病に至っていない段階やごく軽症の段階であれば、①保温と保湿、②滋養を十分とる、③しっかり休息する(疲労をさける)の三つの養生で、発病回避や自然治癒がかなりのところまで見込めるはずです。その間は他人に感染させない配慮(こういうときこそマスク着用や外出自粛)をすればよいのです。

養生だけでは及ばず発病に至るケース、悪化してしまうケースもむろん一定割合で出てきますから、それらはすぐに入院治療等の医療につなげる体制を作っておきます。もし、早めにこうした二段構えのシステムを用意できていたら、状況はかなり変わり得たかもしれません。

でも、厚労省や政府は、なぜかPCR検査に消極的で、口ではともかく現実にはなんのかんのと実施を制限し、早期発見と早期ケアの方策をまるで考えようとしなかった(むしろ妨げてきた)ですね。ほんとうにだめだなあと思います。小浜さんの御本のとおりです。これだけ人々が経済不安と経済危機に晒されているのに消費税減税する気はまるでないですし・・・

【第2信】
さっそくブログ拝読いたしました。新型コロナへの恐怖のあおり、自粛ムードの蔓延が、結局なにを失わせるかを述べておられますね。人々の暮らしから生き生きしたものを奪って社会がうまくいった試しがありません。江戸時代「緊縮」による改革が一度たりとも成功せず、昭和時代「欲しがりません勝つまでは」の戦争に勝ち目がなかった例で明らかですね。(ヴィールスをまき散らされては困るから)人々(とりわけ若者)を浮かれさせてはなるまいぞ! みたいな雰囲気をわたしは好きになれません。ついこの間までは「オリンピックの経済効果」だの「賭博場で一儲け」などと浮かれていた癖してね。
 新型コロナ感染の完全食い止めは不可能で、多大な感染者(と一部の死者)が出ざるをえません。現に出ているように。しかし、結果として免疫力(感染なしに免疫はできない)が人々に獲得されていき、やがて現在のインフルエンザのごとく、流行期ごとに多数の死者を出しながら誰もパニックにならないはやり病いのひとつに収まっていくのではないかと思います。早晩ワクチンや治療薬もでてくるでしょう。小浜さんのおっしゃるとおり、いずれは「あの騒ぎはなんだった」となっているでしょうね。問題はそこに落ちつくまでの間の避けられない「被害」(生命的被害だけでなく社会的被害)を、いかにして最小限に食い止めるかでしょうね。
 でも、そうした大局的な戦略を立てる力が、わが政府にはなさそうです。「政治家二流、行政一流」と言われた時代もありましたが、行政のベンチはチームオーナーたる首相たちのプロとは思えぬ下らぬエラーのバックアップに忙しく、フィールドの実動選手たちは人員削減の結果、ピンチに対して手や知恵をまわせる余力がなく、ただ目の前の業務に手一杯で疲れ果てています。「新型コロナとの戦い」などと勇ましいことを言っても、この試合の勝ち目はどこにあるのでしょうか。


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国家官僚になったら、まず世間を学んで来い

2020年02月28日 23時29分07秒 | 思想


昔、教育論を手掛けていたころ、オーストラリアの大学進学について読んだことがありました。
日本では、大学に進学するほとんどの高校生が、ただちに入学試験に挑戦します。
ところがオーストラリアでは必ずしもそうではなく、1,2年はモラトリアム期間として自由に社会経験を積むケースが多いというのです。
何かの仕事に就くのもよし、諸国を漫遊するのもよし、自分のやりたい自由な研究や創作活動などに打ち込むのもよし……。
親もそのことを許容する雰囲気があるそうです。
筆者はこれを知った時、それはうらやましい! と思いました。

先日、オーストラリア経験が長い日本の知人にこれについて話してみたら、それは日本の教育にない、いいところだと言っていました。
この年齢は、活力にあふれ、さまざまな興味関心に目覚め、世間を味わってみたいと願い、異性関係を充実させたいと思う年齢です。
窮屈な受験勉強などに押し込めるのは、あまりよいことではありません。
筆者がこの稿で本当に言いたいことはその先にあるのですが、いずれにせよ、かけがえのない青春期、子どもたちに、それぞれの関心に見合った自由で多様な経験をさせることはとても大切なことと思われます。

日本では、義務教育と高校教育を終えると、なぜ一直線に進学→卒業→就職というコースをたどる青少年が大部分を占めるのでしょうか。
これは制度上の問題ではありません
やろうと思えば高卒後、しばらく社会経験を積んで、やはり大学を出ておこうと思い立った時点で、勉強に精を出せばできるはずですから。
半世紀も前、筆者の知人で、現にそういうふうにして自分のやりたいことを見つけ、芸大に進んだ人がいました。
最近でも、大学で哲学を学んでから某一流メーカーに二、三年就職し、やはりもう一度哲学を学び直そうと大学院に進んだ人がいました。
若いときは、事情の許す限り、あれこれ選び、いろんなことに手を出して、あちこちふらふらしたくなるのが当然です。
そういうことは、もうずっと前から制度的には可能なのです。

ところで、小さいころから秀才の誉れ高く、有名進学校を出て東大に入り、好成績を修め、国家公務員試験に合格して、そのまま財務省などの官庁に務めて出世していく、あるいは、経済学、法学など、人文系の専門学を学び、アメリカの一流大学に留学し、帰国して学者の道を目指す。
こういうコースを一直線に選んだ人たち(誰とはあえて言いませんが)の中には、世間一般の常識とか、庶民の心とか、貧しい人たちの生活実態といったものに対する想像力が著しく欠けている人がしばしば見受けられます。
彼ら「エリート」は、何やら難しい理論(時としてまるで現実と合わない間違った理論)を身につけているかもしれませんが、私たち国民の普通の暮らしを豊かにしたり、安寧を保証するにはどうすればいいか、という発想がまったくないようです。
それこそが、そもそもエリートたる者の本来の役割であるにもかかわらず。

しかし、本当に公共心の持ち合わせがあれば、多少自分とは違った世界に住む人たちに対して想像力を馳せることはできるはずです。
ところが、日本の「直線コース」志向の圧力はものすごく、そういう想像力を働かせる余地そのものも奪ってしまうようです。
いまの日本の経済状態、国民の貧困状態、若者の将来不安がどんなにひどいことになっているか、ちょっと数字を見ただけで誰でもわかるのに、彼らはひどい視野狭窄に陥っていて、そういうところに目が向かないようです。

なぜこういうことになるのか。
これには、明治以来の後進近代国家の悲しい後遺症がいまだに響いているように思います。
「末は博士か大臣か」
「ねえねえ、ハーバード大学出たんだって。すごくない?」
「お偉いさんたちが言ったりやったりしてるんだから、何か考えがあってのことだろう」
こんなふうな空気がまだ支配しているようでは、日本はほんとうの意味で近代民主主義国家とは言えません。
日本は欧米並みの近代国家になることを急いだために(それ自体は必要なことでしたが)、文系学問の各部門が縦割りで発展して、それぞれの間に有機的な連係プレーが成立していません。
分業体制は作ったものの、協業体制ができていないのですね。
だから、どの分野にも専門家がそろってはいるのですが、それらの知見を総合して、全体としてそれらが何を意味するかを考えるジェネラリストが非常に少ないのです。
個々の部品は優秀でも、それを組み立てて優れた自動車を作ることができないようなものです。
部品は車が走る現実の複雑な状況など知りませんから。
いまの日本では、そういう貧弱な状態に乗じて、声のデカい連中が知ったかぶりや権力行使をほしいままにしています。
そしてその結果、こんな貧困大国になってしまいました。

空気の支配と言いました。
そう、これは、言われなく「上」を仰ごうとする空気の支配なのです。
この空気は、大多数の人々の周辺に漂っています。
高校を終了したら、間髪を入れず、できるだけいい大学へ、大学を卒業したら、すぐにもできるだけいい就職先へ……こうした直線コースを当然のこととして疑わない人々がほとんどです。
このゆとりのない人生イメージに最も囚われている人々は誰でしょう。
ほかならぬ子どもたちの親であります。

ちなみに筆者自身も、自分の子どもたちを大学に入れるまでは、そういう直線コースにあまり疑いを持っていませんでした。
日本的な枠組み通りに、普通に進んでくれればいいと思っていたのです。
ところが大学入学後は、子どもたちが勝手に紆余曲折の道をたどるので、もう、勝手にせい、となってしまったわけです。

さて、一部のエリート官僚や学者の想像力の欠落の再生産に一役も二役も買っている日本の「直線コース」志向の圧力を少しでも減圧するにはどうすればいいでしょうか。
親が子どもに託す上昇志向欲そのものは、まずなくならないでしょう。
またそれ自体は一概に悪いと決めつけるわけにもいきません。
自分の子どもが立派になってほしいと願うのが人情というもので、その人情を自分の属する文化圏や時代のなかで満たしていくほかに方法がないからです。

問題は、外見は立派なキャリアを経てきながら、かえってそのことのためにとんでもなく間違った認識や行動を平気で取る「エリート愚民」たちを、どうすれば増産しないで済むか、ということです。
だいぶ以前、どこかに書いたことなのですが、一つ提案をしたいと思います。
これは、ことにエリート官僚候補生について適用すべき提案です。
国家公務員試験に合格して、省庁への採用が決まった時点で、すぐに入省させずに、二年から三年、社会経験の期間を義務付けるのです。
一種のインターン制度ですね。
この社会経験は、一流企業への出向といったたぐいのものではなく、たとえば町工場の作業員、ファミレスやコンビニ店員、小売店員、零細企業の事務職員、電気ガス水道工事屋、看護助手、介護施設職員、保育所職員、建設現場の作業員、レジャーランドの職員、掃除夫(婦)、大型免許や二種免許を持っているならトラックやタクシーの運転手、その他、さまざまなNPO職員等々。
要するに、この社会で縁の下の力持ちを果たしているような職業に就かせて、そこでの仕事のきつさや人間関係の厳しさを学ばせます。
もちろん一つに限ることはないので、期間中にいくつかの職に就くことを選ばせてもいいでしょう。
ただし、あまり自由選択肢を増やさず、いくつかに限定します。
彼らは20代で活力にあふれ、壮健な体と柔軟な頭脳とみずみずしい適応力とを具えています。
この早い時期に、脚光を浴びることのないこれらの職業に就くことを通じて、庶民の心、世間常識、下積みの人々がどういう生活意識で生きているかを骨身に沁み込ませることができると思います。

筆者は思うのですが、このインターン期間を終えた上で、本務である官僚の仕事に就かせれば、必ず経験が活きてくるでしょう。
省庁内部での自由な発言も増すでしょうし、これまでの路線に唯々諾々と従うだけでなく、発想も豊かになる可能性があります。
旧態依然たる組織形態や体質を、内部からもっと開かれたものに改善してゆく原動力にもなるでしょう。

この提案は、上司に対しても厳しさが求められる提案です。
上司は、これまでの既定路線をひとまず脇において、若き官僚候補生の言葉や雰囲気を寛容に受け止め、狭いセクト主義を克服しなくてはなりません。
机上で「PBを黒字化しなければ!」などとカルト的教義にいつまでも固執して国民殺しを続けている現在の財務省も、少しは変わるのではないでしょうか。


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国境の重要性を再認識せよ

2020年02月05日 18時23分11秒 | 思想

決められた車しか通行できない武漢中心部

勤務している大学で、ごく短い時間、「国家とは何か」について講義します。
そこでは、概略次のような話をします。

初めに、君たちはどういう時に国家というものを意識するかと質問します。
あまりパッと答えられる学生がいないのですが、外国に行った時、オリンピックのような世界的なスポーツ大会の時などの答えが徐々に出てきます。
紛争が起きた時、戦争する時などと答える学生はまずいません。
この答えは、出てきて当然なのですが、そういう国と国との対立という観念が今の日本の若者の頭にはさっぱり浮かんでこないようです。
戦後の平和ボケ日本の弊害ですね。

それはまあ仕方ないとして、こちらからは、まず、主権、国民、領土を国家の三要素と言うという当たり前の話をします。
次に、主権について説明します。
近代民主主義国家においては、主権者が国民とされていること。
しかし、対外的な主権の存在を忘れてはならないこと。
つまり国際関係において、ちょうど個人の人権と同じように、一国が他の諸国に対して侵し得ない独立の権利を持つこと。
それは国家が自ら国民の生命や身体や財産を外部の圧力から守ることによって初めて満たされること

次に、国家というものは、国会議事堂とか総理大臣といった実体ではなくて、「私たちは○○国という国家の一員である」という共有された観念なのだという話をします。
観念というとぼんやりしているように聞こえますが、そういう観念を一国のメンバーみんなが抱いていることこそが国家を国家たらしめている唯一の条件なのですね。
国家は国会や内閣や裁判所などの権力システムだけがあってもその要件は満たされない。
それらの権力システムが有効に機能するためには、「私は何国人だ」という観念をみんなが抱いていなくてはならない。
私は前者の権力システムを「機構としての国家」、後者の観念の共同性を「心情としての国家」と呼んでいます。
機構としての国家は、心情としての国家の存在によって初めて意義を持つのです。

では心情としての国家がきちんと統一性を保つためにはどういう条件が必要か。
まず目に見えるもの、つまり統合の象徴が必要です。
それは国王や元首(日本の場合は天皇)、国旗、国歌、心情のよりどころとなる宗教的な建造物などによってあらわされます。
また、生活慣習の共通性、長きにわたる文化伝統、言語の統一性などが重要な条件となります。

以上のような話をした後に、国家権力のもつ両面性について説明します。

国家権力は、二つの意味で、なくてはならない大切さを持っています。
一つは、社会秩序や個人の人権(生命、身体、財産その他)を守ること
このことはふだんあまり意識されませんが、世界の紛争地帯のように、権力が空白になるとそれらがたちまち侵されることからして明らかです。
つまり個人の人権とは、国家と対立するものではなくて、国家の存在によってこそ支えられるのです。
もう一つは、グローバリズムに対する防壁の意味を持つこと
これはことに経済の面において明らかです。

余談ですが、今の日本の学生の多くは、人、モノ、カネの自由な移動、つまりグローバリゼーションをひたすらよいことだと思っています。
困ったものです。
私は自分の講義の別項で、グローバリゼーションがいかに危険性をはらんでいるかについても説明しています。

いっぽう国家権力は、危うい側面も持っています。
一つは、国家というものが必ず外部との関係によって成り立つので、そのまとまりそのものが国家間紛争の種を作りだすことです。
国家利害の衝突が解決不能に陥った時、大戦争にまで発展することは、歴史がさんざん教えていますね。
もう一つは、国家権力はひとりひとりの国民の生活領域をはるかに超えた強大な力を持つので、その用い方ひとつで、国民のためにならないことをいくらでも行える可能性を持っています
したがって私たち「主権者」は、国家権力(政府)が国民に不利益を押し付けないかどうか、絶えず監視する必要があります。

以上のようなことを講義するのですが、まあ、これらは良識ある大人にとっては当たり前といってもよいようなことがらです。
しかし大人でも私生活に紛れて忘れてしまいがちなので、常に意識化、自覚化、明示化しておくことが大切です。

ただ、今回、中国の武漢で新型肺炎が発生し、世界中に流行する気配を見せていることで、私も改めてグローバリゼーションが持つ危険性と、国家の重要な役割を認識させられました。
これまでうかつにも疫病の世界的蔓延という事実には思いいたらなかったのです。
顧みれば、今日のように医学が発達していなかった時代には、ペスト、コレラ、チフス、天然痘など、恐ろしい伝染病が世界を席巻した事実を、歴史が教えています。
いや、今でもインフルエンザ、エイズ、エボラ熱、SARSなど、死に至る病が猛威を奮う事実はいくらでも確認できます。
こういう時、国家が確実な検疫体制を敷くことによって、水際で被害を最小限に食い止めるのでなければ、いったい他のどんな共同体組織がそれをなしうるのでしょうか。
国境は要らないだの、世界人類だの、地球人だの、天賦の人権だのと、安全地帯でノーテンキなことを吹きまわっている輩は、この問いに答えることができますまい。
この際、国境こそが人権(生命、身体、財産)の安全保障を徹底できるという事実を改めて認識することが必要不可欠です。


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談合否定という過てる思想

2020年01月22日 22時01分46秒 | 思想


あるフェイスブック友だちAさんが、今から5年半前の2014年7月にYou Tubeにアップされた藤井聡氏の「土木を語る 第7回」という動画を再現してくれました。
https://www.youtube.com/watch?v=Q_I5fQJOwbA&fbclid=IwAR1NKNS0t1Zsmh-Y6wbbvFYVLkAvoKhGHTb30cP0-ur8Jx1px15-s8NhZGA
第二次安倍内閣官房参与に任命されてまだ1年半ほど経った頃のものです(いまよりだいぶお若いですね・笑)
30分ほどの短い動画ですが、ここで藤井氏はじつに為になる話を語っています。
さっそく筆者もシェアしたのですが、このブログの読者で未見の方がいたらぜひ見てもらいたいと思って本稿で取り上げました。
ここで語られているのは、明治以降の建設業界が、公共調達についての談合や入札を巡って二転三転してきた複雑な歴史の流れです。
Aさんが概要を手際よくまとめているので、それをちょっと無断拝借して補足します。。

明治政府の公共調達が始まる(業者を随意契約によって直接指名)。
このころ役所には土木建設に詳しく設計ができる技術者が直接勤務していたので、それが可能だった。

会計法ができて、一番安く建設する業者を指定すべしと決められる。

民間業者が増えたので、指名競争入札が始まる。

ダンピングが横行し、粗悪な業者の受注が増える。

最低価格制度ができる(インフラの特殊性にかんがみ、勅令で、杓子定規な会計法の例外を認める)。

談合が始まる。数社で順繰りに受注するルール。

談合の際に際限のない受注額つり上げを防止するために、政府は発注額の見積もりを自前で作ってそれを大幅に超えた入札結果については発注しないことを法で定める。
政府部内に優秀な技術者がいたから、それが可能だった。

談合に裏切者が現れて共謀して約束を破る(X社が100万円で受注できる約束だったのに、Y社、Z社……などが、99万円や98万円で入札)。

談合屋(反社会勢力)が企業に雇われ、他社を脅迫し、一時的に談合の秩序が保たれる。

談合屋が調子に乗って超高額の手数料を要求。
100万円で受注した公共調達が、実質50万円の建設費しか投資できず、粗悪なインフラしかできなくなる。

政府の監査付きの業界組合が出来て反社会的勢力を締め出す。
同時に、サービスの品格・雇用安定の仕組みが出来る。
つまり政府と組合との間の協同のおかげで、価格の上限と下限についての適切な幅が決められる。

大東亜戦争に敗北。

GHQ「談合なんて古臭い仕組みあかん! ちゃんと一般競争入札やるのが公正なんや!」。
独禁法が制定され、公取委発足(1947年)。

明治初期に逆戻り。

明治初期からと概ね同じサイクルにのり、今度は談合屋の代わりに政治家・族議員が談合を仕切る。

「いい談合」と「悪い談合」の区別を政府のガイドラインによって決める(1984年)。
これは、独禁法の内部に「いい談合OK」としてちゃんと位置付けられていた。

ところが90年ごろからアメリカの圧力が強まり、日米構造協議で独禁法が強化され、会計法に従った一般競争入札を強いられる。

またダンピングが横行し、弱い業者はどんどん潰れていく。
地方の中堅業者も受注できなくなり、大手ゼネコンの寡占状態に。

そこへ、東日本大震災で、供給不足が一気に露呈。

以上が明治以来、国情に合わせて苦労して作り上げた日本のインフラ整備のシステムが、アメリカン・グローバリズムによって二度も壊されていく過程です。
藤井氏は、いまの日本のインフラ未整備、劣化修復の困難の原因は、財務省の公共事業削減ももちろん重要だが、見落としてはならないのは談合を単純に悪と決めつけるアメリカ式の考え方が大きいと説いています。

筆者は昔から、なぜ談合はいけないのかという疑問を持っていました。
そこには、日本的な話し合いや共存や相互扶助の原理がうまく働いているのではないか、と。
このたび、藤井氏の話を聞いて、「いい談合」であればまったく問題ないことが確信できました。

もう一つ疑問に思っていたのは、東日本大震災の復旧、復興がなぜこんなに時間がかかるのかという点でした。
技術力も資金力も今よりはるかに劣っていたはずの関東大震災のほうが、復旧・復興が早かったのではないか。
ある知識人の集まる会合でこの疑問を口にしたら、誰も明快に答えられなかったのを覚えています。

今回この動画を見て、事情をよく知った地元の中堅業者が「談合禁止」という新自由主義的な圧力のために、分業と協力の体制を作り上げることが難しかったのではないかという感想を持ちました。
もし「談合禁止」の圧力がここまで高まっていなかったら、地元の業者はそれぞれの得意技を分け持ちながら、すり合わせを繰り返すことで、迅速に協力体制の達成に至ったのではないか。

得意技といえば、2017年のリニア新幹線談合事件で、大手四社が東京地検特捜部に摘発されました。
しかしこれだけのビッグプロジェクトで、それぞれの企業が自分の得意技を活かす必要から、受注調整のための相談をするのは当然でしょう。
しかもリニア新幹線プロジェクトの事業主体は、国から財政投融資を受けているとはいえ、JRという民間企業です。
違法性は限りなくゼロに近いというべきです。
東京地検特捜部には当然公取委が肩入れしているでしょうし、そのバックにはアメリカの自由競争至上主義が何らかの形でかかわっていると推定されます。
もちろん証拠をつかんでいるわけではないので、アメリカが日本の最先端技術を牽制するために、意識的に関与したとまでは言いません。
ただ、思想的なレベルで、戦後ずっとアメリカが押し付けてきた「談合否定」の考え方に、公取委や東京地検特捜部が洗脳されていたとまでは言えるでしょう。

藤井氏の話は応用が可能です。
終身雇用の否定、非正規社員の増加、シェアエコ、ギグエコ、ひとり親方などに見られる、企業組織から個人事業へという近年の傾向は、まさに圧倒的多数をバラバラな個人へと解体して窮乏と不安定に追い込み、元締めである少数の勝ち組だけを利する流れになっています。
談合否定という考え方は、この新自由主義的な流れと軌を一にするものでしょう。

「自由」を倫理的価値として絶対視し、長い慣習によって培われてきた「まとまり」の感覚を否定するこの流れは、その美名のもとに、じつは日本独特の資本主義的発展のあり方を阻害する以外の何ものでもありません。
始末に悪いのは、こうした組織解体の流れが、主観的には、「自由な個人選択」によるものだという幻想に支配されていることです。
多くの若者が、近年の雇用形態の変質を、経済主権を握った少数者による社会構造の変質と見ずに、「自由でよい」ものだと思っています。月収15万円しか稼げないのに。

アメリカの現実事情は地域や民族によって複雑で、よくわからないところがありますが、企業はそんなに自由競争を至上のものとするイデオロギーに毒されているのでしょうか。
一般競争入札がそんなに徹底されているのでしょうか。
もしそうだとすれば、アメリカの超格差社会は、このイデオロギーによってこそ作りだされているという論理が成り立ちそうに思えます。
私たちは、もういいかげんにいわゆるアメリカ的なものの考え方、個の自由を至上のものとする極端な考え方から脱却し、まだ残されている日本的な価値観を見直すべきではないでしょうか。


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和親条約も修好通商条約も不平等条約ではなかった――中級官僚の粘りと努力――

2019年12月15日 01時03分08秒 | 思想



仕事の関係で、幕末の外交史を調べる機会がありました。
従来の通説では、このときの日米条約が不平等条約だったという理解がまかり通っています。
どの教科書も、領事裁判権(治外法権)を認めたこと、関税自主権がなかったことの二点を挙げて、その不平等性を説明しています。

しかし条約締結時には、領事裁判権は押し付けられたのではなく、むしろ幕府のほうで望んだのです。
なぜなら、外国人の犯罪を当時の幕府の法で裁くことにすると、列強がその法そのものに強力に介入し、彼らの思うがままに変更されてしまう恐れがあったからです。
また、領事裁判権を規定した条文では、同時に、日本人が外国人に対して犯罪を犯した場合には、日本の法律によって裁くとされています。
つまり開国を認める以上は領事を置くことを認めなくてはなりませんから、それを承認した上での条文の規定としては、公平で対等の考えに立っているわけです。

関税自主権については、当時の幕府にはそもそもそういう概念がありませんでした。
修好通商条約では、ハリスとの交渉の結果、輸入税20%、輸出税(国内品の輸出の際、こちらが価格を上積みできる)5%と決まりました。
清とイギリスとの条約では、輸入税5%ですから、これと比べると、いかに有利な関税率を獲得していたかがわかります。
しかも日本の場合は従価税、中国は従量税です。
従量税では、国内がインフレになった時、適切な対応ができません。
もちろん、アヘン輸入禁止の条項も明記されています。

後にこの二つを不平等であるとして、陸奥宗光や小村寿太郎がたいへんな努力を重ねて改正交渉に当たったのは事実です。
しかしそれは、日本がしだいに国力をつけるに及んで、欧米における国際慣行の知識を取り入れ、列強に伍するために「不平等の解消」という目的意識を定めるようになったからなのです。

そのほか、両条約をよく読んでみると、ごく一部を除き、公正な条項に満ちていることがわかります。
ごく一部とは、片務的最恵国待遇を認めたこと、通貨の交換レートを同質同量によって決めるとされてしまったことの二つです(後者については後述)。
いま条文のそれぞれについて詳しい言及は避けますが、特筆すべきなのは、列強の脅威に取り巻かれる中でよくもこれだけ対等な条約を結ぶことができたな、という点です。

そこには、最初の交渉相手が新興国のアメリカであったこと、当時の覇権国イギリスが、アロー戦争やセポイの反乱で日本を攻略する余裕がなかったことなどの外的な要因が働いていたでしょう。
しかし見逃してはならないのは、直接の応接に当たった幕府の中級官僚たちの高度な国防意識と交渉能力、不当な要求に対しては一歩も引かないという強い気概です。
林復斎、水野忠徳、岩瀬忠震(ただなり)、川路聖謨(としあきら)、永井尚志(なおゆき)と言った人たちです。

ここでは、ペリーとの交渉の全権を務めた林復斎の毅然たる態度と、通商条約調印のわずか10日余り前に外国奉行に着任した水野忠徳の、通貨交換レートについての必死の努力について述べましょう。

林復斎とぺりーの交渉は、すったもんだの末、横浜村に決まりました。
林は、薪水食糧、石炭の供与、漂流民救助は了承しましたが、交易は拒否しました。
ペリーがモリソン号事件を引き合いに出し、また漂流民に対する日本の非人道的振舞いを非難したのに対し、林は、「日本が三百年にわたって平和を守ってきたのは人命尊重の証拠である、大洋で救助できなかったのは大船が建造できないためであり、近海での難船は救助してきた、また漂流民は長崎に送り丁重に扱って本国に送還している」と反論します。
*ちなみに、日本の漂流民を乗せたモリソン号を追い払ったのは、文政年間に定められた「外国船打払い令」が効力を持っていた時代のことで、その後、アヘン戦争によって危機感を募らせた幕府は、天保薪水給与令を出して、外国船への態度を寛容なものに戻します。
さて、ペリーが交易の利を説き、貴国はなぜ交易に応じないかと迫ったのに対して、林は、「我が国は、交易をせずとも自国の産品で事足りている、貴官の目的は人命の尊重と難船の救助であろう、交易はこの目的と関係ない」とやり返します。
これで、ペリーは交易の件を引っ込めるのです。
また、林が儒者たる倫理観を見せて、漂流民の救助、扶養に要した費用は弁済する必要はないと説くと、
今度はぺりーのほうから、「お礼をしないわけにはいかない」と申し出ます。
林は「お礼なら受け取る」と答え、金銀の形をとることになります。
当時は、商品の授受のほうが、交易に結びつきやすいと考えられたようです。
またペリーの「お礼」の申し出も、それをきっかけに通商の道を開こうとしたのではないかと想定されます。
「お礼」が金銀の形で決着したので、通貨の交換レートを決める必要が生じるのですが、ペリーが同質同量を主張したのに対し、林らはこれを拒否します。
ペリーはなぜ拒否するのかわからなかったようで、後に派遣する使節と話し合ってもらいたいと答え、この件はペンディングとなります。
なおペリーはここで「使節」と言っているので、「領事」とは言っていません。
また、ペリーが役人(領事)を一人置きたいと要求すると、林は「応じかねる」と答えています。
さらに、条約書の交換に際して、林は「外国語のいかなる文書にも署名しない」ときっぱり宣言します。
最後に、ペリーが、「1年後、自分が来られるとは限らないので、下田で細目を決めたい」と言い、林が50日後に下田に赴くと答えます。
するとペリーは、「その間に箱館を視察したい」と言って、横浜での会合は終わります。

漂流民についても双務性が貫かれています。
アメリカ草案では、「アメリカ人漂流民救助の経費はアメリカが支払う」とだけなっていたのですが、「アメリカ人及び日本人が、いずれの国の海岸に漂着した場合でも救助され、これに要する経費は互いに支払わなくてよい」ことになりました。
これも、対等性を日本が強調した証拠でしょう。また通商(自由貿易)につながることを警戒したとも考えられます。

横浜での交渉で、下田におけるアメリカ人の遊歩距離は7里以内と決められました。
下田に帰ったペリーに、応接係は、7里よりも狭い範囲に関門が設けられており、また外出には付添人をつけると説明します。
ペリーが条約違反だと抗議すると、関門は自由に通過してよいし、付添人は監視ではなく、アメリカ人を護衛するためだと答えます。
監視の意味もあったと思いますが、このあたり、なかなか巧妙なやり取りですね。
ペリーはしぶしぶ了解します。

さてここからが面白いのです。
ペリーは箱館に「視察だけしてくる」と言ったのに、じつは松前藩と細かく交渉しており、遊歩距離10里あるいは7里(下田なみ)で納得させていました。
林らはこのペリーのウソを見破ります。
松前藩ではペリーとの交渉記録「箱館対話書」が書かれており、それがペリーの下田帰還よりも前に下田に届いていたのです。
ペリーは狼狽を隠せず、こんな短期間にどうしてわかったのかと聞きます。
林らは、飛脚の仕組みを説明しペリーを驚かせます。
林は、「1里程度の範囲なら、この場の交渉で決めてもよい」と畳みかけます。
結局、箱館は5里で決着しました。
この遊歩距離の取り決めは、蝦夷地への侵入を阻止するとともに、後の通商条約で、外国人の進出を阻み国内市場を防衛したという、大きな意味を持ったのです。

次に、ハリスとの交渉における、金銀の交換比率についての水野忠徳の必死の努力について。
先に述べたようにペリーもこれについて「同質同量」を主張しましたが、ハリスも同じことを、もっと強く主張しました。
彼らにとって、それは当然のことと思われたのです。
しかし水野らはこれと違う主張を繰り返します。
結果的にこれは成功せず、ハリスの剣幕に押し切られてしまうのですが、水野らの主張のほうが正しかったことが後に判明します。
これについて述べる前に、締結されてしまった修好通商条約の5条を掲げておきましょう。

条約5条:外国通貨と日本通貨は同種・同量での通用とする。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。ただし、日本人が外国通貨になれていないため、開港後1年の間は原則として日本の通貨で取引を行う。(従って両替を認める)

問題の本質はどこにあったのでしょうか。
当時日本の通貨は金と銀。その名目上のレートは一分銀4枚で一両小判。
しかし寛政以降、1分銀は幕府の財政を補うために改鋳を重ねて質を落とし、幕末に流通していた天保一分銀は、銀の含有量が三分の一に減らされていました(出目)。
つまり銀とは言っても、実際には紙幣と同じように一種の「管理通貨」だったのです。
これは幕府と国民との信用関係によって成り立っていました。
そこで水野は、日本は金本位制であると断り、一分銀は名目上の価値しか持っていないことを説いたうえで、1分=1ドルのレートを主張しました。これなら、1メキシコドル4枚=1分銀4枚の交換となり、それを一両小判と兌換すればよいので、公正さが維持できるはずです。
ところがハリスはこれをまったく受け入れず、金銀の交換比率を同質同量にもとづくことをあくまで主張し、通商条約第5条にそれが盛り込まれてしまいました。
同質同量とすると、銀地金に等しい1メキシコドル銀貨は、天保一分銀3枚の重さに相当します。
したがって、ハリスにとっては、交換レートは1メキシコドル=3分ということになり、それ以外の公正な取引は考えられなかったのです。
しかし、もしたとえば1000円と書かれた紙幣と10ドル銀貨(などというものはありませんが、仮にあるとして)とを同じ重さで交換するとすれば、1000円札を何枚積み上げなくてはならないでしょうか。
同じように、純銀の3分の1しか銀を含んでいない一分銀を同量のメキシコドル1枚と交換するために3枚の1分銀を手渡すことは、日本側にとっては不当以外の何ものでもありません。
正確な意味での同質同量ではなく、3枚合わせて1メキシコドルの3分の1しか銀を含んでいないいからです。
しかしハリスや後に着任するイギリス公使オールコックは、1分銀が国内では名目価値しか持たないことを理解しませんでした。これは、金属主義の弊害と言えるでしょう。

ところでアメリカ人(またはイギリス人)Aが通商条約に従って4枚のメキシコドル(=4ドル)を一分銀と交換すれば、彼は4×3=12枚の一分銀を手にします。
そこで、Aがそれを日本国内の金銀両替所にもっていけば、4分=1両ですから、3枚の一両小判を手にすることになります。
一両小判の地金としての価値は4ドルに相当します。
したがって、これを海外に持ち出し、金地金に変えて売却すれば、3×4=12ドルを得ることになります。つまり、ほとんど労せずして、原価の3倍の売り上げを得ることになります。



これを繰り返せば、もうけは莫大となるでしょう。
利にさとい外国商人がこのからくりを知ったため、連日両替所に長蛇の列ができました。
このため金貨が大量に流出したのです。
しかし経験的に「もうかる」と知っていることと、「名目価値と実質価値の違い」を理解することとはまた別です。
実際、ハリス自身もこのからくりを利用して、ひそかに小判をため込み利殖に走っていました。

水野忠徳は、長崎奉行時代にオランダ人との取引を見て、天保一分銀が名目だけでしか通用していないこと(1分銀=1ドル)を知りました。
彼はハリスの同質同量交換説に対して、執拗に反論します。
しかしハリスは聞く耳を持ちませんでした。
そのため、安政二朱銀の発行を献策し、開港した地域に限って通用させて金の流失を防ごうとしました。(一朱の名目価値は4枚で一分)
安政二朱銀は、銀の実質的な量目(重さ)が1ドル銀貨の約半分で、これ2枚で一分銀1枚に相当します。
したがってこれ8枚とメキシコドル4枚とが両替可能となれば、一分銀4枚と同等になり、1ドル=1分という思惑通りのレートが実現することになります。
これは、量目においてメキシコドルと釣り合っているのですから、正当な交換です。
ただ1分銀の名目的価値だけが今までどおり国内で通用するという違いがあるだけです。
しかしこの試みは、諸外国の外交官から条約違反だと猛抗議を受け、わずか22日間で通用を停止させられます。

いっぽう、当時の日本の金銀比価は約5:1、欧米では約15:1だったので、ハリスは、国際基準に合わせて小判の価値を3倍にすることを提案します。
しかしそんなことをすれば、物価が3倍に跳ね上がるとして、今度は水野らが猛反対します。
一般に国内で通用している銀貨の価値が相対的に三分の一に下がってしまいますから。
しかし幕閣もハリスも、マクロ経済に暗く、結局勢いに押されてハリスの提案を受け入れます。
そのため実際に国内物価は3倍以上に高騰してしまいました。

水野はワシントンでの条約批准(1860年・万延元年)の際には、閑職に左遷されていたので、使節の一人、小栗忠順(ただまさ)に交換レートの件を託します。
しかし小栗は国務長官に相手にされませんでした。
ただしその後訪ねた造幣局では、金の秤量についての正しさを認めてもらったのです。
しかし時すでに遅し。
また、イギリス公使オールコックも本国に帰ってから、大蔵省の役人の説明により、水野の主張の正しさを認めます。
執筆中だった『大君の都』の最終章に、前段との矛盾を顧みず、その事実をきちんと記しているそうです。
経験的にではありましたが、水野のほうが、ハリスやオールコックよりも、通貨の本質を理解していたのです。
つまり、政府と国民との間で信用さえ成り立っていれば、それが不純な銀だろうが紙幣だろうが、何でも構わないのだ、という本質を。
列強の威力と幕府上層部の経済的な無知に負けてしまった水野は、さぞ悔し涙を飲んだことでしょう。

ところで、最後に本稿のテーマとは直接関係のない疑問を一つ。
安政期の金の流出について、どの歴史教科書にも次のように書いてあります。

当時、金の銀に対する交換比率は、日本では1:5、外国では1:15であったため、外国人は銀貨を日本に持ち込み、金貨(小判)に換えて持ち出した。その結果、大量の金が流出した。

この論理は、それだけとしては、理解できます。
日本では、5グラムの銀が1グラムの金に相当し、外国では15グラムの銀が1グラムの金に相当します。
そこで、15グラムの銀を日本で金と両替すれば、外国の3倍、つまり3グラムの金が手に入ります。
だから外国商人たちは、大量の銀を日本に持ち込んで金に換え、それを持ち帰って原価の3倍の売り上げを手にできたというのですね。

しかしこの話は、先ほど長々と説明してきた、条約による「同質同量の交換」に基づく「1メキシコドル銀貨=1分銀3枚」という話とは直接つながりませんね。
一方は金と銀との交換比率の内外での違いの問題、他方は銀と銀との交換レートの問題。
教科書には、後者の問題が記述されていません。

もし両方とも正しいのだとすれば、筆者の考えでは、両者を組み合わせることで、驚くべきことになります。
というか、金の流出は、想像をはるかに超えたものだったという話になるはずなのです。
いま、簡単のために、1ドル銀貨1枚が1グラムだったとしましょう。
すると、銀貨4枚は4グラムですね。
これを条約に従って日本で金貨(小判)と両替すれば、3枚の小判(金貨)を得ます(上図参照)。
3枚分の金貨は、外国での金と銀の交換比率に従えば、1グラムの金を15グラムの銀と交換できます。
そうすると、3×15=45枚の銀貨、すなわち45グラムの銀を得ます。
つまり、4グラムの銀が、45グラムの銀に化けたことになります。
言い換えると、4ドル⇒45ドルとなります。
何と3倍に化けるのではなく、45÷4=11.25倍になる理屈ではないでしょうか。

こんなオイシイ話はない。
もちろん、運送などの必要経費、小判を金地金に変える時に伴う目減り、金から小判自体を鋳造する時の含有比率や歩留まりなどはあるでしょう。
それにしても、大量の銀貨を持ち込めば持ち込むほど、そうしたコストの割合は少なくなります。

正直なところ、筆者はこの考えが正しいのか間違っているのか、自信がありません。
どなたか、専門的な方のご教示を仰げれば幸いです。

*参考文献
加藤祐三『幕末外交と開国』
井上勝生『幕末・維新』
佐藤雅美『大君の通貨』


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「エリート愚民」を駆除せよ

2019年12月10日 16時49分43秒 | 思想



●以下の文章は、近々出版予定の拙著の序文からの抜粋です。

日本は、この20年間ですごく衰えました。
そのことに気づいている人はたくさんいるでしょう。
しかし多くは面倒なので、気づいていないことにしている。
気づいていないということにする――このことが、日本の衰えをよけい加速しています。

これは、経済力だけではありません。
政治力、知的判断力、技術力、生産力、外国との交渉力、説得力、気力、コミュニケーション力など、すべてにわたって言えることです。
要するに日本人は、やる気がなくなっています。
これを放っておくと、日本は間違いなく滅びます
日本が滅ぶというのは、私たち日本国民の生活や精神が完全に自立性を失うこと。

それはどんな形で表れているでしょうか。
国際的な面では、アメリカや中国などの大国の動向に常に翻弄されています。
彼らの顔色をうかがわなくては、国がもたなくなっている。
国内的な面では、政治が求心力を欠き、為政者だけでなく、みんながバラバラに行動して、国としてのまとまりが取れなくなっています。
しかもそれを自由の実現と勘違いしています。
そしてこれらのことをきちんと問題にするために必要とされる総合的な視野を失って、思考停止に陥っています。

たとえば、次のようなバカなことを言う人がいます。
2040年ごろには「高齢者世代の生活保護率は4倍増で1割を超える」から、これに対処するために「消費税率を13%にする必要がある」というのです。

この記事を書いた人は誰でも知っている有名な経済学者で、東大教授を務めたこともあります。
この記事の他の部分も二重、三重の意味で間違っているひどい記事なのですが、そこまで突っ込む必要もありません。
小学生でも気づく間違いがあります。
消費税率をあげて一番苦しむのは、低所得の高齢者世代ですから、そんなことをすれば生活保護に頼らなくてはならない高齢者がますます増えることになります。
これはほとんど落語です。
こういうバカなことを一流(?)と見なされている経済学者が平気で言うのです。
しかも誰も反論しません。
日本は知性を失った、そういう国になり下がったのです。

いったいどうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
とりあえず、いちばん大きな社会的枠組みで考えてみましょう。

二つ考えられます。

一つは、75年前の敗戦によってアメリカに魂を抜かれてしまい、その状態がいまだに続いていること。
もう一つは、いったん近代の豊かさを知ってしまったために、だれもが、もうこれでいい」「このまま安眠を妨げないでほしいとどこかで思っていること。

でも本当は、アメリカの洗脳や日本近代が達成した豊かさは、実際には、いずれも過去に起きたことの記憶のなかにしかありません。
ところがその記憶がいつまでも惰性として残っているのです。
アメリカには相変わらず奴隷のように依存しています。
政治的にも経済的にも、属国の位置に甘んじています。

また前回のブログで示した通り、日本はもう豊かではなく貧困国に転落しつつあります。
それなのに、一度経験した豊かさが邪魔をして、そうした現実を現実として見る目を曇らせているのですね。
感覚の麻痺です。

どうすればよいのか。
みんなが学問に目覚めることです。

え? いまさら? とあなたは耳を疑ったかもしれません。
学問なら十分に確立し、発達している、とあなたは思うでしょうか。
たしかに全国には大学が800もあり、さまざまな研究機関は腐るほどあります。
ノーベル賞受賞者は毎年のように出ています。

でも私の言う「学問」は、アカデミズムが提供する難しい専門的な知識や、大学など教育機関で行われている研究のことではありません。
ここで言う「学問」とは、特に、現実に立ち向かう一つの「態度」であり、思考力を作動させる「構え」のことを指しています。
いっときの情報に惑わされず、あることが何を意味しているのかについて、徹底的に脳細胞を駆使して考えることです。
そしてある結論に到達したら、それを公表し、他の人たちの考えと突き合わせて、理性的な議論を積み重ねることです。
これは広い意味で、「思想」と言い換えても同じでしょう。

福沢諭吉が『学問のすゝめ』を書いたころには、まだ思想という言葉はありませんでした。
それで学問という言葉を使ったのでしょう。
でも筆者は、彼が学問という言葉に込めた思いは、いまなら「思想」と呼ぶべき概念にぴったり合っていると確信しています。

もちろん、この態度や構えが実際に生きるために、一定の知識や情報はぜひ必要です。
しかしそれらは思考力をはたらかせるためのツールに過ぎません。
私たち自身がこれらのツールを活用しなかったら、それらは死物に過ぎません。
これは言ってみれば当たり前のことです。
ところが私たち日本人は、いつしか、この「当たり前」を放棄してしまいました。
毎日洪水のように押し寄せる知識・情報を無気力に受け入れ、それを疑うことをやめてしまいました。
あるいは、SNSなどの手軽さをよいことに、感情的、衝動的な反応を返すのみです。
誰もが自分の考えを持っているつもりになっていますが、ほとんどの場合、それはどこかで得た情報を受け売りしているだけです。
情報選択能力とそれについての判断能力を失ってしまったのです。
それらに疑いを持って自分なりの考えを固め、その考えについて人と真剣に議論する習慣を私たちは棄てたのです。
この習慣を取り戻さない限り、日本に未来はないでしょう。

今から約140年前に、福沢諭吉は『学問のすゝめ』を書きました。
西洋文明の圧倒的な襲来を前にして、彼は、それを排斥するのでもなく、盲信するのでもないという態度を貫きました。
その文明や制度の優れた点をいち早く自家(じか)薬(やく)籠中(ろうちゅう)のものとすることによって、西洋の政治・外交の圧力に対抗するという戦略を彼は徹底させたのです。
敵に立ち向かうには何よりもまず敵をよく知ること、孫氏の兵法にもある、よく言われる言い習わしですね。
そうしなければ、日本を独立国家として立国することができず、早晩、西洋の植民地主義に飲み込まれてしまったでしょう。
他のアジア諸国がそうであったように。

福沢諭吉と聞くと、誰もが思い浮かべるのが、「天は人の上に人を造らす、人の下に人を造らず」というセリフですね。
近代的な平等精神を日本で初めてはっきり宣言したものとして知られています。
彼の故郷・中津にある福沢記念館にも、この言葉が大きく掲げられています。
でも福沢はそんなことを言っていません

え? 何だって。『学問のすゝめ』の冒頭にそう書いてあるじゃないか、とあなたは思ったかもしれません。
しかしよく読み直してみてください。
正しくは、「天は人の上に人を造らす、人の下に人を造らずと言えり」なのです。
この「言えり」をほとんどの人が見逃しています。
「言えり」とは「世間ではそう言われている」という意味です。
世間ではそう言われているが、世の実態はそうなっていない。
それはなぜか。
それは日本の牢固たる身分制度、門閥制度が幅を利かせて、一人一人の自主独立の精神を阻んでいるからだ。
この自主独立の精神を養うことこそが、いま求められている。
つまりまず知識・情報を蓄積し、次にその知識・情報を活用して現実に起きていることを正しく認識すること、そうして得た広い視野を、社会をよりよくするために役立てること、それが彼の言う「学問」だったのです。

もちろん彼は、それが当時のすべての民衆に可能だとは考えていませんでした。
彼はこの書や他の書の随所で、一般民衆を「愚民」と呼んでいます。
無原則な平等主義者ではなかったのです。
しかしまた、彼は愚民が愚民のままでよいとも考えていませんでした。
なるべく日本の一般民衆が自主独立の精神を学んで、愚民でなくなってほしい。
それが彼の願いでした。
一身独立し、一国独立す」という有名な言葉は、その彼の願いを端的に表しています。
福沢の時代に差し迫った課題は、欧米列強の進出に対していかに日本の独立を守るかということでした。
そのためには、「愚民」がこれまで身につけてしまった卑屈さからできるだけ脱し、自立した気概と精神を身につけることが不可欠だ――そう彼は考え、その実現を目指して「学問」の必要を説いたのです。

ではいまの日本の課題は何でしょうか。
筆者は、福沢の時代と同じだと思います。
言い換えると、現代日本は彼の時代から140年経った現代でも、「一身独立し、一国独立す」が果たせていないのです。
いまグローバリズムの大波が日本に押し寄せています。
欧米ではすでにグローバリズムに対する反省が沸き起こっているのに、日本のいまの政権は、愚かにもこの大波を積極的に受け入れています。
これは政権ばかりではありません。
学者や政治家や財界の大物やジャーナリズムが率先してそのお先棒担ぎをやっているのです。
その態度は、グローバリズムへの批判意識を持たずにただ追随しているという意味で、まさに「卑屈」そのものという他はありません。

こうして現代の「愚民」は、一般民衆であるよりは、むしろエリートたちだと言えるでしょう。
しかも始末に悪いことに、彼らは世俗の権威を手にしているので、その権威を傘に着て、自分たちの誤った信念を一般民衆に押し付けています。
日本のエリートたちの多くは、国策にかかわる部分で、この誤った信念に固執しています。
それで、国民はその被害をさんざんにこうむってきました。
ですから、いまの日本にとって最重要な課題は、むしろこうした「エリート愚民」の精神の腐敗をいかに駆除するかという点にあります。
この課題を果たせずに、グローバリズムの浸食から国民生活を守ることはできません。
じつを言えば、これはもう手遅れなほどに、深く浸食されてしまっているのです。
時間はもうあまり許されていません。
まずなすべきこと――自ら考える力を取り戻し、日本にはびこる害虫「エリート愚民」を見つけ出して、即刻駆除せよ!


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マクロ経済はなぜ関心を持たれないのか

2019年11月17日 15時24分18秒 | 思想


日本が凋落の一途をたどっている今日、これを食い止めるには、どんな考え方が必要でしょうか。
凋落の原因が財務省の緊縮路線竹中平蔵氏らの規制緩和路線にあることは、心ある人々の間では、すでに明らかになっています。
しかし心ある人々がいくらこれらの路線を批判したり、関係者(官僚、政治家、財界人、学者、マスコミ)に働きかけたりしても、彼らは一向に聞く耳を持とうとしません。
それぞれのポジションで、頭がかちんかちんになっているのですね。

そこで筆者は、せめても、と思って、次のようなことを考えました。
これは、日本人の知性が劣化して、ごく広い意味での「学問」が受け入れられなくなっている事態だ、と。

しかし、社会科学系に限って言うなら、学問には、やはり「よい学問」と「悪い学問」があります。
「よい学問」とは何か。
これはきわめて明瞭です。
ふつうの生活者の安寧(あんねい)と仕合せを保証してくれる考え方を提供するのが、「よい学問」です。
ふつうの人々が、物質的・精神的な豊かさとゆとりを維持するにはどうすればよいかを教えてくれる考え方と言い換えてもよい。
そうした考え方に直結しなくても、ある専門知をそこにつなげられる道筋をつけてみせることができるなら、それは「よい学問」です。

「よい学問」の定義は簡単ですが、「悪い学問」の定義は難しい。
なぜなら、「悪い学問」には、まさに学問を悪くしてしまうさまざまな個人的・組織的な感情や動機がからんでいるからです。
それらは、学問という体裁のために、その悪い要素が見えにくくなっているのです。
一般に、次のような人たちが学問をしている場合、それは悪い学問です。

・自分(たち)だけの利益のために都合よく屁理屈を用いる者
・自説が間違っていたことが明らかなのに、いつまでもそれを認めようとしない者
・自説に固執して、他人の意見を聞き入れようとしない者
・肩書などの権威主義に居直る者
・権威主義に額づく者
・金銭目当てに自説を立てる者
・現実をよく見ずに整合性や純粋性にこだわり、現実と乖離(かいり)してしまう者
・清廉潔白なだけの思想を学問と勘違いしている者
・いたずらに難解さを気取ってそれ自体が価値であるかのごとく思い込む者
・公共性への配慮がまったくなく、ただのオタク趣味に耽る者

どうでしょう。
いまの日本の「学問」で、これらのどれかに的中するものがいっぱいあるのではありませんか。
では、「よい学問」がそのよさを保つためには、どんな条件が必要でしょうか。
以下に列挙してみましょう。

①現実の危機を深く自覚する
②既成の権威に阿(おもね)らない
③右顧左眄(うこさべん)せず、自分の考えをしっかり固める
④間違った考えを徹底的に糺(ただ)す
⑤自分が間違った時には率直に認め、自説やそれに基づく言動を改める
⑥流布されている「常識」を疑う
⑦自分の考えをわかりやすく公表し、その拡張に絶えず努める
⑧批判者、反論者を恐れず、彼らと堂々と議論する
⑨危機克服のための処方をデザインし、できればそれを自ら実践に移す


これほど日本が衰退の一途をたどっている以上、いまこそ上記のような条件を満たす新しい「学問」の構えが必要です。
「家貧しくして孝子顕(あら)わる」と言います。
これをもじって言うなら、「国貧しくして賢者顕わる」ということができます。
実際、いま日本は、戦後最大の危機にあります。
この局面にあって、いま、上記のような条件を満たす「よい学問」が切に求められています。
ところが、MMTのように、せっかくよい学問が紹介されて、根付きそうな気配があるのに、ほとんどの人は、これをまともに相手にしようとしません。
これはいったいなぜでしょうか。

それは、「経済」という領域が持っている特性にかかわっているのではないか。
エコノミーの語源はオイコノミアです。
これは「家政」を意味する古代ギリシャ語です。
古代ギリシャでは哲学、幾何学、自然学、天文学など、多彩な「学問」が花開きました。
それらは、もっぱら自由市民男子によって担われました。
しかし「家政」は学問の対象になりませんでした。
それが女や奴隷の手に任されていたからです。
そもそもオイコノミアがきちんとしていなければ、学問など「暇なこと(スコラ)」に手を出せないはずなのです。
にもかかわらず、担い手が女や奴隷だというだけで、それは軽侮のまなざしで見られていました。
オイコノミアは私的な領域の問題であり、公共性にかかわらないと考えられていたのです。

近代になって、人々の私生活上の動きが全体としては、重要な公共的意味を持つことに気づかれました。
それにもかかわらず、オイコノミアに対するこの軽侮の念はいまだに残されています。
人々は一般に、経済について考えることに対する軽侮、ではないまでも、ある種の敬遠の意識を抱いています。
これに比べて、一見経済とは自立した政治問題(ポリティカ)に関しては、昔から多くの人が関心を持ち、時には興奮した感情をあらわにして意見を述べたりします。
いまでもそうですね。
たとえば韓国が反日感情をむき出しにした振舞いに及んだとか、アメリカがISの指導者を死に追いやったとか、安倍内閣の閣僚の失言と辞任が相次いだとか。

いっぽう、人々は、金儲けにからむミクロ経済には強い関心を示します。
それなのに、公共性にからむマクロ経済にはあまり関心を示しません。
こうしたみんなの無関心が、間違った「経済学」を平気で呼び込んでしまうような気がします。
その無関心のうちには、歴史的に培われてきたオイコノミアに対する軽侮・敬遠の念が無意識に作用していないでしょうか。
近代以降は、ポリティクスのなかに不可避的にマクロ・エコノミーが組み込まれているのですが、それでも相変わらず、それは人々の関心から遠ざけられる傾向のうちにあるようです。

次のようなことも考えられます。
政治現象は見えやすく、毎日のニュース報道として直接耳目を刺激します。
これに対して、経済現象、特にマクロ経済は、「誰それが何々をした」というような物語としては現れません
それは、力も意志も異なる世界の膨大な人々の複雑な思惑や活動の乱反射状態としてしか現れません。
つまり眼前にはっきり像を結ばないのです。
それは画然とした物語性を持たず、いわば無人称・無人格の水面下の蠢(うごめ)きとしてしかとらえられません。
だから、マクロ経済のからくりを視野に収めようと思ったら、いったん身辺の関心事を離れる必要があります。
そのうえで、直線的な因果関係論理(「こうであればこうなる」)だけを武器にして、人々の活動の乱反射状態の中に突入していかなくてはなりません。
生活を根底のところで規定しているのが経済であることは疑い得ない事実です。
にもかかわらず、その全体のからくりについて考えることから手を引いてしまいがちなのは、そうした像の結びにくさをまるごと引き受けて論理的に把握しなくてはならない手続き上の面倒くささに原因の一端があるでしょう。

経済現象を学問的に解明しようとする人たちは、この像の結びにくさを十分わきまえずに、人間活動に対するある仮説を立て、自然科学が見出したのと同じようにこの現象のうちに普遍法則を発見しようとします。
しかしその初めの仮説が幼稚なものであったり間違ったものであれば、元も子もありません。
ここでは詳しく述べませんが、いわゆる主流派経済学は、この部類に属する学問です。
それは、どの人間も利益最大化を目指して生きているという仮説に依拠しています。
また、どの人間も同時刻に等しい経済情報を手にしているという仮説にも依拠しています。
この幼稚な人間仮説への固執が主流派経済学を生んだようです。
その固執を捨てないことにおいて、主流派経済学は「悪い学問」です。

そこでまず、経済について考えることに対する敬遠の意識を拭い去ることにしましょう。
また主流派経済学が植え付けた間違った仮説から自由になりましょう。
そして経済についての「よい学問」(よい思想の構え)を貫くことにしましょう。


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社会主義はそんなに悪いか

2019年10月31日 13時16分48秒 | 思想


*この論考は、1年前掲載した記事を改稿して再録したものです。

「社会主義」といっても、中共やかつてのソ連を肯定しようなどという話ではありません。

一部で悪評判の高い新自由主義イデオロギーは、以下の諸項目を教義としています。

(1)小さな政府
(2)自由貿易主義
(3)規制緩和
(4)自己責任
(5)ヒト、モノ、カネの移動の自由(グローバリズム)
(6)なんでも民営化
(7)競争至上主義


これらは互いに絡み合い、影響を与え合ってある一つの潮流へと収斂していきます。
その潮流とは、巨額のカネをうまく動かす者、国際ルールを無視する者、国家秩序を破壊する者が勝利するという露骨な潮流です。
(1)の「小さな政府」論者は、(3)の「規制緩和」を無条件にいいことと考え、(6)の「なんでも民営化」を推進し、(7)の競争至上主義を肯定します。
その結果、過当競争が高まり、世界は優勝劣敗の状態となります。
敗者はすべて(4)の「自己責任」ということになり、誰も救済の手を差し伸べません。
また、(2)の「自由貿易主義」は、経済力の拮抗している国どうしであれば、激しい駆け引きの場となります。
しかしふつうは強弱がだいたい決まっているので、強国の「自由」が弱小国の「不自由」として現れます。
こうして(5)のグローバリズムが猛威を奮い、資本移動の自由が金融資本を肥大化させ、実体経済は、国境を超えた金融取引に奉仕するようになります。
中間層は脱落し、労働者の賃金は抑制され、貧富の格差は拡大の一途をたどり、産業資本家は絶えず金融投資家(大株主など)の顔色を窺うようになります。
ケインズが、産業資本家階級と、金主である投資家階級とを同一視しなかった理由もここにあります。

ところで、社会主義国家を標榜していたソ連が崩壊してからというもの、社会主義とか共産主義と聞けば、大失敗の実験であったかのような感覚が世界中に広まりました。
その反動として「自由」を至上の経済理念とする気風が支配的となり、反対に社会主義思想はすべてダメだといった「社会主義アレルギー」が当たり前のように定着してしまいました。
この感覚が、経済における新自由主義の諸悪の延命に一役買っています。

次々に批判勢力を「粛清」して全体主義国家を成立させたのはスターリンであり、その基礎となるロシア革命を起こしたのはレーニンであり、そのレーニンはマルクスの思想にもとづいて社会主義政権を樹立した、だから、スターリン→レーニン→マルクスと連想をはたらかせて、諸悪の根源はマルクスの社会主義思想にこそある、という話になってしまいました。
しかし社会主義を経済理念として見た場合、本当にダメなのでしょうか。
こういう連想ゲームで物事を判断するのは、歴史の実相を見ようとしない、あまりにナイーブな思考回路ではないでしょうか。

筆者は、恐ろしく変転する世界史を、個人と個人をつなぐ連想ゲーム的な思考で解釈する方法には、大きな誤解がある、と長年考えてきました。
ソ連は、なぜ崩壊したのか。
最も大きな理由は、「共産主義」というイデオロギーを掲げた官僚制独裁権力が中枢に居座り、人々の経済活動への意欲を喪失させたからです。
1956年、フルシチョフがスターリン批判を行なったにもかかわらず、彼の失脚後、この官僚的硬直はかえって深まりました。
つまりこの歴史の動きは、創始者の経済思想の誤りにその根源を持つというよりは、ある特定のイデオロギーを「神の柱」とした政治権力の体質にこそあるとみるのが妥当なのです。

筆者は、特にマルクスを聖別するわけではありません。
彼の思想と行動の中には、十九世紀的な(いまは通用しない)過激な理想が確かにありました。
その大きなものは二つあります。
国家の廃絶私有財産制の否定です。
その人性をわきまえない政治革命至上主義をとうてい肯定するわけにはいきません。
しかし、社会主義勢力の現実的な系譜をたどってみるといくつもの飛躍があることがわかります。
それを踏まえずに、創始者がどんな現実認識と基本構想を持っていたかに目隠しをすることは、思想的には許されません。

マルクスは、主たる活動の舞台を、当時日の出の勢いで覇権国家としての地位を確立しつつあったイギリスの首都・ロンドンに置いていました。
そこで彼が見たものは、年少の子どもたちまでも過酷な労働に追いやる政治経済体制のいびつな姿であり、同時に大量生産によって驚くべき生産力を実現させる資本主義の力でした。
マルクスの頭を占めていたのは、前者の過酷な事態を何とかしなければならないというテーマでしたが、他方では、後者の巨大な生産力を否定することでこの課題を解決すべきだとはけっして考えませんでした。
この巨大な生産力の秘密である資本主義の成長の構造を否定することは、原始生活への回帰か、せいぜいが牧歌的な中世への逆戻りを意味します。
彼はこう考えました。
資本主義の生産力は人類が作り上げた富の遺産であり、これをさらに発展させて、生産手段を一握りの資本家に占有させず、より多くの人々に分配することこそが、問題の解決に結びつく、と。
マルクスは、資本主義を否定したのではなく、資本主義が生んだ大きな
遺産を万人にとってのものにするにはどうすればよいかに頭を悩ませたのです。
そして労働者階級が生み出した価値を資本家階級が搾取する構造を解明しました。
生産手段を労働者主体の手に。
つまり我々一人一人を経済的な主権者に。
その構想を実現するための政治的手段として、無産者階級の団結と、欺瞞的なブルジョア国家の止揚を呼びかけたわけです。
この構想が熟するためには、彼が、ロンドンという当時の世界経済の最先端で、その明暗の両面を観察するという条件が必要でした。

さて世界初の「社会主義革命」を実現させたとされるロシアは、当時どのような状態に置かれていたでしょうか。
ツァーリの圧制のもとに、大多数の無学な農奴たちが社会意識に目覚めることもなく、ただ貧困のうちに眠り込んでいたのです。
産業はほとんど発展していず、マルクスが革命の必須条件と考えていた資本主義的な生産様式はほとんど実現していませんでした。
マルクスは、ロシアを遅れた国として軽蔑していましたし、その国で彼の構想する社会主義革命が起きるなどとは夢にも思っていませんでした。

遅れて登場したレーニンは、まれに見るインテリでしたし、ロシアの現状をとびきり憂えていました。
この国を少しでも良くするには、組織的な暴力革命を起こすしかない、と彼は考えました。
その時彼の目に、これこそ使えると映ったのが、マルクスの社会主義理論でした。
しかしロシアの現状は相変わらずで、マルクスが社会主義実現の必須条件としていた資本主義の高度な発展という段階には至っていなかったのです。
レーニンは、その社会条件のギャップを無視しました。
気づいていなかったはずはなかったと思われますが、政治的動機の衝迫が、そのギャップについての認識を抑え込んでしまったのでしょう。

つまりロシア革命とは、資本主義がまだ熟していなかったロシアという風土における特殊な革命、というよりはクーデターと言ってもよいものです。
世界のインテリたちは、このクーデターに衝撃を受け、支配層は深刻な動揺に陥りました。
労働者階級はここに大きな希望を見出し、資本家階級は大きな狼狽を隠せませんでした。
彼らは当時のロシアの実態をきちんと分析せず、一様に、世界初の社会主義革命が実現した、と錯覚したのです。
その証拠に、眠りこけた農民たちは、革命後もなんだかわからないままに、交替した新しい権力に服従しただけです。
またレーニンの死後、権力を握ったスターリンは、一国社会主義を掲げ、西欧の資本主義諸国に一刻も早く追いつこうと、全体主義的な政治体制の下に、次々に強引な産業計画を進めていきます。
反対者の大量の粛清、強制労働、強制収容所などの汚点は、こうして生まれたのです。
結局、ロシア革命とは、遅れた社会体制を打ち壊して、近代資本主義国家を建設するためのものだったので、マルクスの構想とははっきり区別されるべきものなのです。
これを「ロシア・マルクス主義」という特殊な名で呼びます。

さてこう考えてくると、長く続いた米ソ対立が、その見かけとは違って、自由主義VS社会主義というイデオロギー対立ではなく、また経済体制の違いをめぐる抗争でもなく、むしろ、両大戦間に覇権国となったアメリカと、独裁政治によって急速に力を伸ばした新興資本主義国ソ連との、単なる政治的な覇権競争であるという実態が見えてくるでしょう。

これは何かに似ていませんか。
そう、現代の米中覇権戦争ですね。

いま問題となっている米中貿易戦争も、資本主義国家どうしの力と力の激突に過ぎないと見なす必要があります。
鄧小平が中国に市場経済を取り入れて以来、この国は、建前だけは社会主義を掲げながら、政治的には中華王朝時代と同じ独裁体制を採りつつ、経済的には最先端と言ってもよい資本主義体制を採っています。
レーニンが打ち倒す対象と考えた「国家独占資本主義」をまさに地で行っているわけです。

では、冒頭に掲げた新自由主義の諸悪は、どうすれば抑えられるのでしょうか。
それには、二つの方法が考えられます。

一つは、有力国家群が協議して、野放図な経済的「自由」を規制するルールを作ることです。
資本主義を否定するのではなく、市場の自由や知財の移動や為替についての共通ルールをもっと厳格にするのです。
しかしこれは、多極化している国際社会の現状や、グローバリズムに乗っかって帝国主義を強引に進めている中国のことを考えると、合意を得るのが極めて難しいでしょう。
すると当面、もう一つの方法に頼らざるを得ません。
それは、それぞれの国家が、自国の経済の能力と限界をよく分析し、各自それに見合った形で、野放図な経済的「自由」の侵略に対する防波堤となることです。

かつて日本は冗談半分に「一種の社会主義国だ」と言われていました。
それは、必要に応じて、政府が適切な関与をし、また基幹産業は国有企業(公社)だったからです。
いまの政権がそれをほとんどなくしつつある状態は、国家としての自殺行為と言えるでしょう。
経済がこれほど衰退し、国全体の凋落が歴然としているいま、さまざまな分野での公共投資を積極的に増やす必要がありますし、政府がバランスあるコントロールをとっていく必要があります。
そのために貧困や失業をなくし格差を是正するという、社会主義がもともと持っていた基本動機のいいところを見直す必要があるのではないでしょうか。
これは、最近話題のMMTにもかなうものだと筆者は確信しています。

*参考:拙著『13人の誤解された思想家』


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マスコミはなぜ懲りないのか

2019年10月19日 00時24分15秒 | 思想


台風19号が残した水害の惨禍が広がっています。
10月17日午後11時現在、死者77名、堤防決壊箇所は、全国68河川で128か所に及んでいます。
まさにそのさなか、日本経済新聞の久保田啓介という編集委員が書いた10月14日付の記事があまりにひどいので、一部で批判の的になっています。
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO50958710T11C19A0MM8000/

とにかくまず、久保田某の論説の一部をここに書き出してみましょう(太字は引用者)。

2011年の東日本大震災は津波で多数の死傷者を出し、防潮堤などハードに頼る対策の限界を見せつけた。
堤防の増強が議論になるだろうが、公共工事の安易な積み増しは慎むべきだ。台風の強大化や豪雨の頻発は地球温暖化との関連が疑われ、堤防をかさ上げしても水害を防げる保証はない人口減少が続くなか、費用対効果の面でも疑問が多い
西日本豪雨を受け、中央防災会議の有識者会議がまとめた報告は、行政主導の対策はハード・ソフト両面で限界があるとし、「自らの命は自ら守る意識を持つべきだ」と発想の転換を促した


遅まきながら筆者も、この久保田某をやっつけておきましょう。
これは何が言いたいかというと、要するに、防災のために公共事業費を費やしても無駄だから、それに頼るのは諦めて、自分で命を守る工夫をしろと言っているわけです。
ハードに頼る対策の限界」「公共工事の安易な積み増しは慎むべきだ」というところに端的にそれが出ていますね。
この提言が、財務省の緊縮財政路線べったりであることは、火を見るよりも明らかです。
国民の命よりも「健全財政」のほうが大事だ、国はあんたの命など守ってあげるために国土を強靭化するお金の余裕はないよと、平然と言ってのけているのですね。
「安易な」と形容詞をつけることでソフトに見せかけたつもりでしょうが、長年にわたって公共事業削減を続けてきた歴代政権の失政を認めずに、ひたすらヨイショしていることは見え見えです(公共事業費は。現在97年ピーク時の5分の2。安倍政権になってからも全然増えていません)。

堤防をかさ上げしても水害を防げる保証はない」とは何たる恐ろしいレトリックか。
少しでもかさ上げできれば、それだけ人命を救う可能性が増すにきまってるでしょう。
幼稚園児でもわかりますよね。
この一文を、今回の堤防決壊の実態に当てはめてみてください。
お前が決壊した水に浸かって一番先に死ねよ、と言いたくなりませんか。
ちなみにこのたび、堤防決壊とは別に、ダムの放流が何か所かで予告されましたが、竹村公太郎氏が常々説いている通り、ダムのかさ上げ工事をしておけば、わずかな高さでこれまでよりも圧倒的に多くの水量をキープできたのです。
しかも単純なコンクリート工事ですから、コストはそんなにかかりません。
これをやっておけば、今回のように、下流の住民を危険と不安にさらす必要はなかったのです。

人口減少が続くなか、」――最近、何かというと社会問題(たとえば少子高齢化問題)を論ずる論客が「人口減少」を合言葉みたいに持ち出して、危機を煽ったり言い訳に使ったりします。
人口減少そのものは、推計を信じるとしても、たいへんゆるいカーブであり、差し迫った危機ではありません。少子高齢化問題の要は、人口減少カーブと生産年齢人口減少カーブとのギャップにこそあります。
それよりなにより、国土強靭化の費用をケチるために、なんで人口減少を持ち出すのか。
何の関係もないではありませんか。
自然的な人口減少よりも、この災害大国で、久保田某のような公共事業悪玉論の横行のために失われる命のほうが多いかもしれないのですよ。
費用対効果の面でも疑問が多い」とエラそうにのたまっていますが、彼は、これだけの費用をこういう事業にかけたらこれだけの効果があるという試算でもしてみたのか。
自分でできないなら、専門家の考えを聞くのでもいい。
おそらくこの種のことなど、一度もしたことがないのでしょう。
無責任極まる発言というべきです。

行政主導の対策はハード・ソフト両面で限界があるとし、『自らの命は自ら守る意識を持つべきだ』と発想の転換を促した」――これはウソです。
「令和ピボットニュース」がこのウソを見事に暴いています。
この(中央防災会議の)報告は、西日本豪雨の際に、行政からの情報提供にもかかわらず危機意識が不足していて逃げ遅れた人が多く存在したことを受けて、「住民が『自らの命は自らが守る』意識を持って自らの判断で避難行動をとり、行政はそれを全力で支援する」ことが必要だと訴えるもので、堤防への投資が不要などという話とは全く関係ないのです。
https://reiwapivot.jp/libraries/pivotnews_20191016/

さて、こうしたマスコミの盗人猛々しい論調は、うち続く災害の中にあっても、なぜ変わらないのでしょうか。
こうしたひどさに対しては、「相手にもできない」「頭がおかしい」「バカ丸出し」「狂気の沙汰」など、いろいろな罵倒の言葉を投げかけることができるでしょう。
しかし一方、ただ罵倒で終わらせずに、次のように考える必要もあります。
日経や朝日など大方の大マスコミの劣悪さは、「今に始まったことじゃないさ」と突き放すことができるでしょう。
もともと新聞という媒体は、その発祥からして「社会の公器」ではなく、好奇心を掻き立てる見聞(噂話)を広く知らせて儲けるビジネスでした。
江戸時代の瓦版など、さぞかしガセネタが多かったことでしょう。
19世紀アメリカではイエロージャーナリズムが一気に部数を伸ばしましたし、日本の明治時代にも、このたぐいが大流行りでした。
また、特に公正性などを持ち合わせているわけでもなく、社是としての私的な主張をもっともらしく「公論」として見せかける術にたけているだけです。
そしていつのころからか、彼らが勝手に「公器」を自称するようになったのです。
ですから、国民は、新聞の言っていることなど、まともに信じてはなりません
以前、藤井聡氏がFBにアップしていましたが、主要先進国の国民が、新聞・雑誌をどれくらい信頼しているかを比較したデータがありました(2005年。単位%)。
https://honkawa2.sakura.ne.jp/3963.html
それによりますと、イギリス13.4(!)、アメリカ23.1、イタリア24.7、ドイツ28.7、フランス38.5、
そして日本72.5(!)。

もちろん、いまの大新聞は、さすがに事実報道という面では、頼りになる面があります。
始末に悪いのは、社説とか、その社が発する論説といったたぐいの文章です。
これは久保田某や、朝日新聞の原真人など、編集委員、論説委員と呼ばれる「エラくなった人」が書きます。
彼らは細かい現場事情に触れる必要がなく、具体性の乏しい抽象的な文章を書くことが許されています。
言葉が抽象的であること自体は、必ずしも悪いことばかりとは言えませんが、庶民感覚、現場感覚をきちんと包み込むことが困難になることはたしかでしょう。
そういう危うさを抱えたところに、頑迷な「社是」や「理念」が取りつくと、現実から遊離した文章が出現するわけです。
社是や理念があらかじめ決まっているので、何か書くのに、いちいちエビデンスを取る必要もありません。
だから、乱暴に言えば、新聞社では、エラくなればなるほど、アホな文章が出やすくなります。
彼らは高給を取って、高い社内的地位に甘んじて、それに見合わない見当違いの文章を平気で書くことができます。
高級な考えを書いているという自己満足感と共に。
これは言ってみれば、「権威主義」という組織構造的な問題でもあります。
社内に開かれた議論の空間が確保されていて、それをボトムアップできるシステムがあればいいのですが、いまの新聞社にそれを期待することは無理でしょうね。
政界、学界の構造とも似ているでしょう。

私たちは、こうした事実をよくよく踏まえ、批判精神を大切にして、お人好し的国民性から脱しなくてはなりません。
イギリス13.4%というのがちょっと羨ましいですね。


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