小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家・日本編シリーズその3

2016年11月23日 15時18分34秒 | 思想
      




慈円(1155~1225)


『愚管抄』は、神武期から起こして自らの晩年に当たる承久年間までを綴ったユニークな歴史書です。ユニークなというのは、この書を「歴史書」というジャンルに収めることに大きなためらいが残るからです。
 というのは、まずこの書には、単なる伝承や歴史事実が記述されているのではなく、摂関家を出自に持ちしかも天台宗座主という仏教界の最高位についたひとりの個人の、特別に選ばれた地位から見た貴族的歴史観が執拗に表現されているからです。その意味でむしろ歴史哲学書と呼んだ方がふさわしいでしょう。
 また保元の乱の一年前に生まれた彼は、崩れゆく貴族政治と勃興する武家政治との対照を目の当たりにしています。その乱世のありさまの描写に最も多くのページを割いているのですが、この場合も単に事実を客観的に記述するのではなく、あくまで自分が等身大の位置から見聞した多くのエピソードを中心に据えて書かれています。
 つまり作者は自分の主観的な視点をけっして崩していません。その意味では日記のようでもあり、天皇や上皇や公達のありさまを生き生きと綴った部分には、男性版『源氏物語』のような趣さえあります。そういう意味では、文学書としての側面も大いに持っているわけです。特定の人物や宗派に対する毀誉褒貶の評価もあからさまですから、社会評論といってもおかしくないでしょう。。
 さらに、最後の巻第七になると、終わりに近づくほど政治の現状を嘆く言葉がしきりと繰り返されるようになり、加えて、実際に深い関係にあった後鳥羽院の武家打倒の野心に対して、近臣として陰に陽に諌める調子が強くなっていきます。余命の少なくなったことを自覚した作者が、政治に対する自分の思想をあたかも遺言のごとく悲痛な思いで訴えているように見えます。その意味からは、この書は政治思想の書であるとも言えます。もちろんその政治思想は、後述するように、現代にも通ずるものをじゅうぶんに持っています。
 ちなみにこの書は承久の乱の一年前の一二二〇年(承久二年)に書かれ、乱後に修訂が加えられているというのが定説らしいですが、乱の様子や後鳥羽院以下、三上皇が配流された記述はまったく見られません。ですから、最後の部分は乱以前に書かれたものと見るのが自然でしょう。慈円は乱以後も四年生きていますが、この事実についてはあまりのことに筆を執る気も失せたのかもしれません。

 この書は、かくも重要な意義と価値を具えた古典であるにもかかわらず、読まれることがまれな書物として知られています。まさにその点こそが、「誤解された思想家」として第一に言挙げするに足ると私は思います。
ではなぜそんなに無視あるいは軽視されてきたのか。
 その理由は、なんといってもこの書のいわゆる「難解さ」にあるでしょう。私もできるだけ原文に当たろうと試みましたが、正直なところ外国語文献のようで、専門家(大隅和雄氏)の現代語訳にほとんど全面的に頼らざるを得ませんでした。
 このいわゆる「難解さ」はどこからやってくるのか。いくつか理由を考えてみました。

①現代人がカタカナ表記に慣れていないこと(後述)。
②個々の文章自体はそれほど難解ではありませんが、『源氏物語』と同じように複数の人間が錯綜して登場しながら、その主語がはっきりせず、また同一人物がいろいろな呼称で呼ばれるので、天皇家や摂関家の精密な系図を傍らに置きながら読まないと、誰のことを指しているのかわからなくなります。
③大隅氏が指摘していることですが、挿入句が次々に挟まれ、くねった文体になっていること。これに付け加えると、慈円の連想がときおり時間を超えてあっちこっちに飛んでいくので、よほど神代から当代までの流れを把握していないと、ついていくのがたいへんです。
④先に触れたように、書のスタイルが独特の多面性を持つので、近代人の分類感覚にうまく適合せず、「いったいこれは何を書こうとしたのか」という疑問を提起しやすいこと。
⑤最後に読者側の問題。これについては、松岡正剛氏が的確な指摘をしています。そのくだりを引用しましょう。
http://1000ya.isis.ne.jp/0624.html
日本人は、このような人物の歴史観に慣れていない。トップの座についたアリストクラシーの歴史観を受け止めない。聖徳太子や藤原冬継や北条泰時を軽視する。どちらかといえば西行や兼好法師や鴨長明の遁世の生き方に歴史観の襞をさぐったり、民衆の立場というのではないだろうが、『平家』や『太平記』にひそむ穢土と浄土のあいまに歴史を読むのがもっぱら好きだった。為政者に対しても、将門や義経や後醍醐のような挫折者や敗北者に関心を示して、天智や頼朝や尊氏のような勝利者がどのように歴史にかかわったかということには、体温をもって接しない。系統から落ちた者をかえって熱心に読む。(中略)けれども『愚管抄』は、そうした従来の判官贔屓の好みだけでは読めないのである。

 さてその「アリストクラシー」の歴史観ですが、これは簡単に言うと、次の四つくらいにまとめられるでしょう。なおこの番号順は、抽象的な原理から次第に具体的な提言のレベルにまで降りてくるように配列されています。

①この世の出来事には、良いことにも悪いことにもすべて「道理」がはたらいている。その「道理」は世につれて移り変わっていく。
②この世は人の目に見えるもの(「顕」)だけで動いているのではなく、人の目には見えないもの(「冥」)によっても動かされている。「冥」は神仏のみがこれを知る。怨霊や天狗、狐なども「冥」の世界からの兆しである。
③王法と仏法とが車の両輪のように機能することによって、世の中はよくおさまる。
④天皇とそれを補佐する役割とがうまく噛み合った統治が行なわれる時、この世は秩序ある世界となる。

 慈円の言う「道理」とは一体何かについてはさまざまな議論があるようです。しかしこれは、たとえば孔子の言う「仁」やプラトンの言う「イデア」が何であるかをポジティブに定義しようとすると、必ずどこかはみ出す部分をもってしまうのと同じようなもので、それ自体はたいへん定義(他の言葉による言い換え)しにくいものです。「道理」といえば、「摂理」「理法」というのに近いでしょうが、それでは永遠に通用する法則のように聞こえて、彼が本当に言いたかったこととはずれてくるように思われます。「道理」という便利な言葉をあまりに多用させたせいかもしれません。これは自ら招いた第二の誤解でしょう。
 慈円は「世」とは「人」のことだと強調しています。そのことと「道理」は移り変わるものだという説とを重ね合わせて考えると、慈円の言う「道理」とは、要するに後から確認できる「運命」とほとんど同じことではないかと思われます。もちろん、こう決めつけてもやはりはみ出す部分はあるでしょうが、しかしこのように考えると、彼の思想の特色がよく浮かび上がってくるのです。
 彼は、当代を末法の世と考えていました。理屈としては、天皇の代数の限界は百代と言われており、あと十六代しか残っていないこと、また感情としては、あさましき乱世を目の当たりにしたのだから、これから時代は悪くなるばかりだという不安感を同時代人と共有していたことが挙げられます。ですからこの末法思想そのものは、とりわけて慈円の特徴というわけではありません。浄土思想の庶民への浸透と流行などもその一例と言えます。
 ちなみに慈円は、法然一派の専修念仏思想を悪魔の仕業とまで言って非難していました。いかにも僧侶の頂点に立った人らしく、そのプライドが許さなかったのでしょう。世俗の政争に明け暮れた兄の九条兼実が法然に帰依したのと比べると、興味深い違いですね。
 慈円の言う「道理」の特徴は、それが移り変わるものであり、たとえ上古にはことが滞りなく通ったとしても、堕落した今の世では、それをそのまま当てはめることはできず、その時代その時代に合った「道理」があるという点にあります。この考え方は、柔軟で現実的です。彼が歴史の流れを具体的にどう見ていたかに添って説明しましょう。

 神々の時代にはすべて明澄だったのだが、人の世になって「顕」と「冥」との分裂があらわれた。「冥」の世界は人間の手に負えなかった。そこで仏法が伝わり、聖徳太子の時代にこれが王法を支えてくれるようになった。しかしやがて天皇だけではこの世を治めきれなくなり、摂政関白との連携によって世俗世界を統治する必要が生まれた。ところが院政という節目を経て今度は武家の力が天皇家と摂関家を圧倒するようになり、これを無視するわけにはいかなくなった。武家はもともとは下賤の身分ではあるが、この趨勢には誰も勝てない。これも神仏が私たちに末法の世をいかに克服するかをお示しになっているのである。そこで、この危機を克服するには、武家を滅ぼすのではなく、実朝の死によって源氏の血統が途絶えたのを契機として、摂関家から将軍を出して摂関家と武家を一体化し、文武両面において、天皇家を援けるように再編成するのがよい。

 今から見れば貴族政治を何とか保守するための調子のよい合理化のようにも思えますが、慈円にしてみれば懸命に知恵を絞って編み出した歴史哲学・政治学であり、当代に思いを馳せれば、なかなかよくできた緻密な論理だと思います。慈円は、けっして天皇を絶対化しないし、その限界もよく見ています。後に扱う北畠親房の『神皇正統記』は、これより百年以上後に書かれていますが、後醍醐天皇側につき天皇親政の論理を編み出そうとした親房は、論理としては空想的で、その点、慈円のほうがはるかに現実を広くよく見ていたと言えるでしょう。これは『神皇正統記』が熱い情熱をたぎらせた「闘いの書」「実践の書」であるのに対して、『愚管抄』があくまでも冷静な智慧を重んじるという違いから来ているのかもしれません。
 丸山眞男は二つを比べて、やはり『愚管抄』のほうが優れているという評価を下しているそうですが、彼はまた晩年、古代研究に打ち込み、日本人の国民性を「歴史に対するオプティミズム」と規定しました。そして滅びかけてもまた蘇生するその連続性を、植物のように「次々と成り行くいきほひ」と形容しています。これはなかなか的を射た指摘で、災害と恵みとをもたらす自然の両面性に早くから向き合ってきた日本人の精神風土と深く関連しているでしょう。また、千数百年もの間一つの王朝を守り抜いてきた世界に類例のないこの国の性格を言い当ててもいます。
 ところで『愚管抄』がまさにこの「歴史に対するオプティミズム」「次々と成り行くいきほひ」を体現した書なのです。というのは、第一に、中国では国王の器量ひとつで国が栄えたり滅んだりする習わしになっているが、日本はそうではないとして次のように述べているからです。

コノ日本国ハ初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノママニテイカナル事イデクレドモケフマデタガハズ。≫〈巻第七)

 また最後の問答部分で、「すでに世は落ちぶれ果てたというのにどうして容易に立ち直るなどというのか」と問われて「ある程度ならば容易なのだ」と答えると、「ではどうやって立ち直らせるのか」と再び問われ次のように答えます。

≪(前略)不中用ノ物ヲマコトシクステハテテ目ヲダニミセラレズハ、メデタメデタトシテナヲランズル也(後略)≫

要するに、あまりに繁多になってしまった官位の部類を整理して優れたものだけを残せばよいということです。では捨てられた人々が反乱を起こしたらどうするのかと問われて、だからこそ武士を側につけておく必要があるのだと答えます。さらに、誰が優れた人々を選ぶのかと問われて、そういうことをできる人が四、五人は必ずいる。その四、五人が選んだなら天皇は反対を唱えてはいけないと答えています。
 これは、国会議員や官僚がひどく劣化している今の衆愚政治の時代に大いに参考になる考え方です。私は国会議員の数を減らすのには反対ですが、有権者にも被選挙権者にもそれぞれ難易度の違うテストを課すべきだと考えています。また視野狭窄のタコツボ官僚を排するには、ハーバード大学を出なくてもいいですから、何年かに一度庶民の勤労現場に出向させるべきだと思います。

 慈円はまた、カタカナ表記を選んだことにきわめて自覚的で、こういうおかしな方法をとるのは、漢文では今の時代に読める人が少なく、できるだけたくさんの人に自分の考えを知ってもらいたいからだと述べています。当時、公式文書はすべて漢文で、和歌、日記、随筆などは女文字である平仮名と漢字が混用されていました。慈円は読者がある程度位の高い男性であることを想定して、その中間を狙ったのでしょう。これも効果はどうだったかはともかくとして、新しい試みでした。類例を挙げるなら、ルターが聖書をラテン語からドイツ語に翻訳したのに似ています。もっとも、その方法は、現代人が読むにはかえって裏目に出てしまったわけですが。

『愚管抄』は。いまから見れば私的なアングルに偏した書物なので、実証史的価値はさほどないかもしれません。しかし日本史の大きな変わり目をたまたま生きる羽目になった最高の知性が政治問題をどのように考えたかを知るには、超一級の資料だと言えましょう。日本における政治学の嚆矢といっても過言ではありません。
 それは彼が、この世に通底している原理を見破ってやろうという強い問題意識をもって、統治が行なわれる現場のすぐ近くで鋭い観察に徹したからこそできたことで、今日の政治を考えるのに、マスメディアの形式化した政局報道などに頼っていても、ことの本質が何も見えてこないのと似ています。私たちがマスメディアの流すウソ(たとえば「国の借金1000兆円」や「ヒラリー優勢」や「TPPは日本にとってぜひ必要」など)を見抜くために、信頼できる情報を選択し、それらを自分の頭で処理することが必要であるように、慈円は、よく見え、よく聞こえる情報だけを頼りに、自らの優れた、そしてややひねくれた哲学的知性を存分に駆使したのでした。


鬼才ファジル・サイの魅力

2016年11月19日 00時43分02秒 | 音楽
      




 久々にクラシックコンサートに行ってきました。ファジル・サイ ピアノ・リサイタル。 なんとオール・モーツァルト・プログラムです。

11月17日(木) 19時開演 紀尾井ホール
【プログラム】
ピアノ・ソナタ第10番 ハ長調 K.330
ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
 休憩をはさんで
ピアノ・ソナタ第12番 ヘ長調 K.332
ピアノ・ソナタ第13番 変ロ長調 K.333
幻想曲 ハ短調 K.475

 数年前、私の実家の近くの神奈川県立音楽堂で、音楽に詳しい友人のOさんと一緒に初めてファジル・サイの音楽に触れました。曲名は忘れましたが、最後に彼自身が作曲した曲が演奏されました。これがじつに独創的で面白く、しかもそこに出身国トルコのトルコらしさといったものが感じられたので、とても楽しい演奏会でした。私も含めて、観客は興奮し、万雷の拍手とともにスタンディングオベーションで終わりました。
 トルコらしさと書きましたが、別にトルコ文化に詳しいわけではありませんし、行ったこともありません。ただ思うのは、この国が古来、ヨーロッパ、アラビア、中央アジア、ロシアなどが出会う地点に位置していて、民族的にも宗教的にも政治的にもさまざまな要素が混淆した複雑な歴史を閲してきたという事情についてです。この事情からして、そこに独特の文化的特性があるに違いないと想像するわけです。それはひとことでまとめるなら、フュージョンそのものが国民性の根底をなしていると言ったらよいでしょうか。
 じっさい、あの時の自作自演の曲は、何とも言えない不思議な世界を開いていて、西洋的とかオリエンタルとかアラビア風とか、一定の様式やジャンルといったものに分類できないところが印象的だったのです。これには彼が現代人としてグローバル世界に住んでいて、さまざまな音楽のスタイルからインスピレーションを得ているといったことも関係しているでしょう。
 あのファジル・サイが、彼自身尊敬してやまないモーツァルトを弾くという。どんなふうに弾くか、とても興味深かったのです。
 今回のリサイタルですが、私の席は2階バルコニーの右側、つまり彼の顔を真正面から見下ろせる位置でした。チケットを取った時にはあまりいい席ではないなと思ったのですが、座席につくやいなや、こんなにいい席はないと気づきました。何しろ表情や手ぶり身振りがすぐ近くで見られるのです。
 さて演奏が始まりました。その演奏ぶりは期待に違わず、いや、期待以上に独創的で迫力に満ちたものでした。緩急、強弱、曲想の変わり目での変幻自在さ、低音部の力強さ、カデンツァの即興性、激しい音の奔流。聴いていて、これは本当にモーツァルトか? と疑いたくなるほど、それはファジル・サイの音楽になりきっているのです。言い換えると、モーツァルトという素材を借りて、ファジル・サイがいま、ここで自らの表現を心ゆくまでほとばしらせているのでした。ところどころミスタッチかな? と思える時がありましたが、そんなことは全然問題ではありません。
 しかも、表情、身振り手振りを見ていると、彼がいかに自分の音楽に没入しているかが如実にわかります。右手だけのパートでは、自分に向かって指揮するように左手を振ります。緩徐楽章では自ら酔うように体を鍵盤から引き離して瞑目します。その時々の曲想に合わせて顔をゆがめたり、上下左右に体をゆすったり、うっとりとした恍惚感を表情に出したりします。そうして何人かのジャズメンたちのように、弾きながらたえずかすかに口ずさんでいます。それがまったく邪魔にならない。つまり彼の音楽は、全身で表現し、その場で創造する音楽なのです。それは「唄」そのものであり「舞踏」であると言ってもよいでしょう。
 一方彼は聴衆に対しては笑顔などのサービス心をあまり表さず、挨拶も簡単でその態度はそっけないといってもよい。また概して楽章と楽章との間にほとんど間を空けません。あの「コホン、コホン」という咳払いの暇がないのです。いわば自分自身の「ノリ」にあくまでも忠実に弾くのです。
 これは好き好きというもので、感情過多であるとか、ひとりよがりだといった批判の余地があるかもしれません。型にはまった謹厳実直な演奏を好むクラシックファンからは、「不良」の烙印を押されるかもしれません。しかし私自身は、彼の「ノリ」にすっかり惹きつけられ、小さなライブハウスでジャズを聴いているときのような一体感を味わいました。興奮し、感動しました。その「不良」性を丸ごと肯定したいと思いました。
「これは本当にモーツァルトか?」と書きましたが、演奏後に余韻を反芻するうち、逆に、やはりこれこそが本当に「モーツァルト」なのだと思うようになりました。というのは、モーツァルトは、古典派後期に属するために、その記された楽譜の面ではたしかに古典的な秩序を大きく逸脱してはいませんが、おそらく実演の場では、即興性の妙味が大きな価値を持っていたと考えられるからです。当時は一回的な生演奏が記録されて後世に残ることを誰も予想していませんから、それだけ、はかなく消えてゆく「このいまの素晴らしいひととき」が限りなく尊重されたと思うのです。
 事実、ファジル・サイ自身が次のように語っています。
http://globe.asahi.com/meetsjapan/090608/01_01.html

 クラシック音楽の演奏から個性がなくなっている。最近では、本来、即興的に独奏される協奏曲のカデンツァも、演奏全体の解釈も、他人まかせになっている。これは間違っている。クラシックのピアニストがいくら技巧的に演奏しても、それだけではまったく興味を感じない。

 ベートーベンやモーツァルトでさえも、即興的な作曲家だった。シューマンは、毎日のように即興演奏を自分の生徒に聴かせていた。彼らは当時(自分の曲を)キース・ジャレットのように演奏したはずだ。

 ピアノに向かって、5歳のときから作曲してきた自分にとって、作曲するとは「構想すること」であるとともに「即興演奏の延長」でもある。いい曲は書き残さなくても、演奏すれば、覚えてしまうものだ。

 かなり挑発的で過激な発言のように見えます。しかしこの発言は、彼の演奏そのものの的確な自己批評になっています。発言と演奏との間に浮ついた隙がないのです。同時に、これこそが、もしかすると「音を楽しむ」ことの原点を表わしているのかもしれないと思いました。特に若いころからジャズ(モダンジャズ)に親しんできた私にはよく納得のいく発言です。そしておそらく、モーツァルトがこの発言を聞き、ファジル・サイの演奏を聴いたら、「そうだ、そうだ!」と共感を示すのではないでしょうか。
 歯医者などでBGMとして小さな音量で流れるいわゆる「モーツァルト」は、人の心を和らげる優しい優雅な音楽としてだけ機能しています。もちろんその機能を否定はしません。でも一日、「ナマなモーツァルト」に接した瞬間を私は決して忘れないでしょう。それはあのいわゆる「モーツァルト」とはまったく別の何かでした。
 アンコールでは彼の変奏によるトルコ行進曲をあっさり弾いて、さっさと引き上げていきました。演奏してほしかった「《キラキラ星》の主題による変奏曲 ハ長調 K.265」をここに掲げておきましょう。
Fazıl Say -Mozart- Ah vous dirai-je maman (Twinkle twinkle little star)


 蛇足を一つ。最初の曲、K.330の第一楽章は、私の娘が小学校5年の頃、ピアノ発表会で弾いたことがあり、それをレコードにしてもらったのですが、いつの間にかどこかに消え失せてしまいました。ファジル・サイの最初の音を聴いた途端、当時を思い出して懐かしい気持ちが込み上げてきました。言うも愚かなことですが、ファジル・サイの演奏と娘のそれとはそもそも比較するにも及びません。でも今回のリサイタルの始まりが、私的なあの思い出と重なったことによって、これだけ記録技術、複製技術が発達した今日でさえ、「音楽とは消え失せていくもの。だからこそそれに永遠の憧れを抱く値打ちがある」という真実の再認識につながったこともまた偽らざる事実なのです。私の好きなジャズマンの一人、エリック・ドルフィーが、あるアルバムの中で、こうつぶやいています。
"When you hear music, it's gone in the air. You can never capture it again."


日本はトランプ新大統領を歓迎すべきである

2016年11月02日 02時08分00秒 | 政治
      





 アメリカ大統領選もあと一週間に迫りました。ヒラリー氏かトランプ氏か、世界中が注目しています。
 今回の大統領選は、いろいろな意味で、史上まれに見るセンセーショナルな選挙だと言えるでしょう。どういう意味でそういえるのか、以下思いつくままに列挙してみます。

①政治の素人で泡沫候補だったトランプ氏が、あれよあれよという間に16人もの共和党候補を出し抜いて大統領候補に昇りつめた。
②一年前には民主党員ですらなかった自称社会主義者・バーニー・サンダース候補が予備選で46%の票を取るという大健闘を示した。
③ヒラリー氏のパーキンソン氏病が疑われている。一説に余命一年。
④トランプ氏が「メキシコとの国境に万里の長城を築く」「イスラム教徒の入国を制限する」「日本は米軍の基地費用を全額支払うべきだ」「日本や韓国は核武装してもかまわない」など、いわゆる「暴言」を発していると報道された。
⑤ヒラリー氏が私用メールで公的問題をやり取りし、FBIが捜査したが7月時点でいったん打ち切られた。しかし投票日10日前になって捜査を再開すると発表した。
⑥両者への不支持率が、これまでになく高い。
⑦有力共和党員の中に、トランプ氏を支持しないと宣言する議員が何人も現れ、民主、共和両党のエスタブリッシュメントが、こぞってトランプつぶしに走っている。
⑧ヒラリー氏が国際金融資本家や投機筋から驚くべき巨額の選挙資金を得ていることが取りざたされている。クリントン財団にはチャイナ・マネーを含む膨大な裏金が流れ込んでいるとも言われている。
⑨トランプ氏の過去の女性蔑視的な発言やセクハラ疑惑がヒラリー陣営によって暴露され、彼は発言のほうは認めて謝罪したがセクハラ疑惑は否定した。
⑩マスメディアのほとんどが民主党寄りであり、トランプ氏自身もテレビ討論におけるその偏りを指摘している。
⑪トランプ氏は結果が出る前から「この選挙は不正選挙の疑いがある。自分が落選した場合には投票やり直しを申し立てる」と広言している。独自のテレビ局を創設するという噂もある。

 まだありますが、このくらいで。
 さてこれらの情報の向こう側に何が見えてくるでしょうか。

 ①と②について、どうしてこういう現象が起きたのか、日本のマスコミはほとんど論じませんが、理由は明らかです。すでに6月の時点でこのブログにも書きましたが、
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/a4185972e8dadf6f0151dc4b0a24fb67
これまでエスタブリッシュメント(ほとんどが白人エリート層)の統治によって成り立ってきた民主・共和の二大政党制秩序が、あまりにひどい格差社会(いわゆる「1%対99%」問題)の出現と中間層の脱落によって、崩壊の危機にさらされているのです。国際政治・米国金融アナリストの伊藤貫氏によれば、米国民の五割は百万円以下の金融資産しか持たず、65歳以上の引退者の三分の一は貯蓄ゼロの状態、一方ヘッジファンド業者トップの年収は時には五千億円に達するといいます。

 ③のヒラリー重病説は確たる証拠があるわけではありませんが、それを疑わせるに足る多くの動画が流れており、また事実9月には「肺炎」と称して入院しました。数年前には脳梗塞で倒れています。
 この重病説が事実なら、ヒラリー氏は、すでに大統領の任務をこなす能力を喪失しているのに、彼女の支持基盤の一つである金融資本家層によって無理に立てられた傀儡だということになります。私はその公算が高いと思います。米国で初めての「黒人」大統領の次は、初めての「女性」大統領。この看板が、実態とは裏腹に、人権やポリティカル・コレクトネスをことさら前面に押し出すアメリカという国の国民性にマッチすることは疑いがありませんから。

 ④のトランプ氏のいわゆる「暴言」ですが、これも先のブログ記事に書きました。「万里の長城」は、南米やメキシコからの不法移民がいかに多いかを物語っています(一説に現在二千万人超)。いくら国境警備員が努力しても水の泡だそうです。ちなみにトランプ氏は、不法移民を規制せよ、テロリストへの警戒を強めよと言っているのであって、合法的に合衆国国民になった移民やイスラム教徒を排斥しろと言っているのではありません。民主党の人道的理想主義の甘さと失敗を批判しているわけです。
 なお日本との安全保障問題に関するトランプ発言については後述。

 ⑤のメール捜査再開問題ですが、ヒラリー氏とトランプ氏の支持率にはこれまで水があいていたのに、これによってトランプ氏がヒラリー氏に肉迫したと公式メディアは伝えています。しかし、アメリカのマスコミは、日本以上にリベラル左派の傾向が強く、もともと水があいていたという報道自体、当てになりません。第一回討論会後のWEBによる百万人規模を対象とした世論調査では、トランプ氏が大差をつけたというデータもあります。第二回討論会後は、さらに圧勝だったそうです。
 ちなみにこのメール問題は、国家機密を私用メールで漏らしたのですから、明らかに重大な違法行為です。⑨のセクハラ疑惑などの比ではありません。

 ⑥の両者の不支持率の高さは、二人のキャラに対する感情的反発が大きいでしょうが、ヒラリー氏の場合は、きれいごとを言っていても⑧のような事情が一部の国民に見抜かれていることが関係しているでしょうし、トランプ氏の場合は、成り上がり物の品格のなさや、人種差別的ととられかねない発言からくるものでしょう。大衆社会では、イメージで決まってしまう部分が大きいですから。いずれにしても、この不支持率の高さは、今回の大統領選における、特に民主党サイドでのかつてない腐敗ぶりを物語っています。トランプ氏はタブーにひるむことなくその欺瞞性を突いたので、現状維持派から嫌われた面もあると思います。現状維持派とは、アメリカが打ち出してきた「普遍的価値」としての自由、人権などの息苦しい建前をまだ信じている人たちのことです。
 
 ⑦の共和党上層部によるトランプつぶしこそは、アメリカ社会がどういう状況にあるかを象徴しています。すでに語ったように、いまのアメリカは世界に類を見ない超格差社会です。共和党の政治エリートもまた、ウォール街の金融資本家やエスタブリッシュメントと密着しているので、その現実を突きつけられるのはたいへん都合が悪い。そこで反ホワイトハウスの代表として登場したトランプ氏の告発を躍起になってつぶそうとしたわけです。
 いったん代表として選ばれた候補者を引きずりおろそうというのは、結束の乱れを周知させてしまう利敵行為であり、はなはだみっともない。でもなりふり構わずそれをしてしまうほどにいまのアメリカは、二極体制ではもたなくなっているのでしょう。資本主義・自由主義のあり方という地点から、根本的に体制を見直さなくてはなりません。
 ちなみにトランプ氏は、プアホワイトにだけ支持されているというようなことを言う人がいますが、不正確です。中間層から脱落してしまった白人か、脱落の不安を抱いている白人から強力に支持されているのです。またたしかに黒人への浸透はいまいちであるものの、ヒスパニックからはけっこう支持されています。
 黒人貧困層はオバマ氏への期待をヒラリー氏にそのままつないでいるのでしょうが、その期待は現実には裏切られており、この八年間に黒人の平均的生活水準はまったく改善されていないどころか、さらに悪化しています。自由平等、人権尊重、マイノリティ擁護のイデオロギーに騙されているのです。
 またヒスパニックは、新たに侵入して来ようとするヒスパニックが同一人種のコミュニティで賃金低下競争を招き、治安も悪化させる可能性が濃厚なので、それを恐れています。だからそれを防いでくれる人を望んでいるのです。

 ⑩⑪の偏向や不正は相当のものらしい。マスメディアは民主党を陰で操る富裕層に牛耳られています。民主党政権は不法移民にも免許証を交付しますから有権者登録ができます。またアメリカではそもそも本人確認がきわめて難しく、二つの州にまたがって二回投票することも可能です。さらに、タッチパネル投票なのでUSBメモリーを使って登録された投票を大幅に変えてしまう不正もできるそうです。
 投票前に不正を指摘する候補者というのは前代未聞ですが、そんなことをするのは戦術的に不利であることをトランプ氏が知らないはずはありません(事実、オバマ氏に痛烈に揶揄されましたね)。それでも、あえてやるというのは、選挙戦術に長けたヒラリー陣営のやり口がよほど狡猾なのを感知してのことなのだろうと私は想像します。もっとも不正申し立ては、自分が勝てばやらないとちゃっかり言ってはいましたが。

 以上述べてきたことは、要約すれば、アメリカの民主主義は瀕死の状態にあること、それをトランプ氏が身命をかけて告発しようとしていることを意味します。アメリカは、すでに民主主義国ではなく、ごく少数の強者とその番犬どもが君臨する帝国です。
 私は、この間の選挙戦の経過を遠くからうかがい、信頼のおける情報を知るに及んで、もし自分がアメリカ人だったら、トランプ氏を支持したいと思うようになりました。
 たとえば彼は、金融資本の過度の移動の自由のために極端な格差を生んでしまった今のグローバル資本主義体制に批判的で、銀行業務を制限するグラス・スティーガル法の復活を唱えています。また死に体と化している国内製造業を復活させるためにTPPにも明確に反対の立場を取っています。スローガンの「アメリカ・ファースト」とは、孤立主義の標榜ではありません。イラク戦争以来、多くのアメリカ国民の命を犠牲にし、膨大な戦費を費やしてきたのに、アラブや北アフリカの「民主化」に失敗し、ただ混乱をもたらしただけに終わった過去を反省し、まず国内の立て直しを最優先にするというごく当然の宣言にほかなりません。
 この彼の政治的スタンスは、好悪の念を超えてアメリカの一般庶民の深層心理に届くはずですから、私はトランプ氏が勝つと思います。またたとえ敗れたとしても、いったん開いたパンドラの匣は元に戻りません。彼は強力な問題提起者としてその名を遺すはずです。
 もちろん、彼が大統領になったとしても、この腐敗した帝国の毒気に当てられて、同じ穴の狢になってしまうかもしれない。あるいは、彼の気骨がそれを許さないとすれば、あの野蛮と文明の同居した恐ろしい国では、ひょっとして暗殺の憂き目に遭うかもしれないとまで思います。

 同盟国である日本にとって、もしトランプ氏が大統領になったらどうなるのかという問題が残っていますね。
 先に述べたように、彼は安保条約の片務性を批判して、日本に応分の人的物的負担を求めています。これはアメリカからすれば当然の話で、日本が真に同盟関係を大切にするなら、この提言にきちんと付きあうべきです。そうして、その方が日本にとってもよいのです。なぜなら、対米従属と対米依存から少しでも脱却して、自分の国は自分で守るという世界常識を身につけるよい機会だからです。
 中国の脅威からわが国を守るためにはもちろんアメリカの協力が必要です。しかし協力を正々堂々と要請できるためには、まずこちらが自立した構えをきちんと見せなくてはなりません。平和ボケした日本人の多くは、何となく現状にずるずる甘えて、ヒラリー氏が大統領になってくれればこのままの状態が維持できると考えているようですが、はかない希望的観測というものです。彼女は、よく知られているように、名うての親中派です。日本のために中国と闘う気など毛頭ありません。
 私たちはこのことをよく肝に銘じて、トランプ氏が大統領になったほうがよほど「戦後レジーム」の脱却に寄与すると自覚すべきなのです。脅されて突き放されて、初めて目覚める――これが日本人のパターンです。自主防衛の機運を高め、法的にも物量的にもその準備を急ぐことができます。

 トランプ氏はまた、TPPに反対しています。これも日本にとって幸いするでしょう。なぜならTPPは、アメリカのグローバル企業にとってのみ都合のよい条約で、これを呑めば、皆保険制度をはじめとした日本のさまざまなよき制度慣行が破壊されるからです。安倍政権は、率先してこれを批准するというバカなことをやっていますが、自ら墓穴を掘っているのです。経済条約が日米軍事同盟の強化につながるわけではないということがわからないのですね。てんやわんやのアメリカの実態もよく観ず、自由主義イデオロギーという「普遍」幻想に酔っているのです。
 ヒラリー氏もTPPに反対しているではないかという人がいるかもしれません。誤解している人が多いのですが、ヒラリー氏の反対は、トランプ氏のそれとは違って、今の条約規定よりももっと自分たちに都合よくなるように再交渉しようという考えです。具体的には、大きなシェアを占める製薬会社の利益拡大を図って、これと癒着している自分たちの利益につなげようというグローバリズムそのものの魂胆に発しているのです。

 日本人はお人好しで消極的、情緒的で戦略思考が苦手です。でもいざとなると敢然と立ちあがる気概がないわけではありません。トランプ新大統領というショック療法を正面から受け入れ、歓迎する覚悟を速やかに固めましょう
 

【参考資料】
1.http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E6%B0%8F%E5%84%AA%E4%BD%8D%E3%81%AB%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%82%82%EF%BC%9D%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E5%86%8D%E9%96%8B%E3%80%81%E6%8A%95%E7%A5%A8%E5%89%8D%E3%81%AB%E6%BF%80%E9%9C%87%E2%80%95%E7%B1%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E9%81%B8/ar-AAjyjTN?ocid=sf#page=2
2.http://www.mag2.com/p/money/25640?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000204_tue&utm_campaign=mag_9999_1101&l=bcw1560714
3.http://www.mag2.com/p/money/25621?l=bcw1560714
4.「Liberty」2016年12月号
5.「CFR FAX NEWS」2016年10月16日号
6.「正論」2016年12月号
7.「マスコミが報じないトランプ台頭の秘密」江碕道朗(青林堂)
8.産経新聞2016年10月30日付