倫理の起源9
さてソクラテスは、「恋の対象というものは、何らかの意味で『善きもの』でないかぎりは、半分でも全体でもない。」と言っている。この微妙な表現に注意しよう。「何らかの意味で『善きもの』」とは、もともと、多義的な言い回しである。なるほど、恋する人が目標とする対象は、その人にとって「よきもの」であるにちがいない。
しかし「よい」あるいは「いい」という言葉は、時には快、時には利得、時には健康、時には幸福、時には優良、時には強さ、時には美、時には情趣の豊かさ、時には適切、時には上首尾、時には安定性、時には身分や家柄の高いことなど、いろいろな意味に使われる。日本語では、これに「善」という字を当てることではじめて道徳的な「よい」という意味に限定される。
この「よい」あるいは「いい」という言葉の多義性をどのように整理し、それらの連関をどうとらえるべきかは、倫理学にとって非常に重要な問題なので、後に言及することにしよう。
この「善きもの」という言葉について、古代ギリシア語での原語がどういうニュアンスをふくんだものであったのか、私はつまびらかにしないが、おそらく同じような多義性を含んでいたであろう。ソクラテス(プラトン)がここで「よい」という多義的な表現を用いつつ、その意味をあえて道徳的な「善」の概念に引きつけようとしていることは、やはり後の文脈から考えて容易に想定できるからである。
さて次にソクラテス(プラトン)は、「恋のはたらきとは、肉体的にも精神的にも『美しいもののなかに出産すること』である」と述べ、ついで肉体的な身ごもりと出産、精神的な身ごもりと出産とをアナロジカルに対応させつつ、「魂において身ごもり、出産する人々は、うつしみの子どもによるつながりよりもはるかに偉大なつながりと、しっかりした愛情とを持つ。それは、より美しく、より不死なる子どもを共有するからである」と結論づける。これがプラトンの詐欺の第二ステップである。
すでに「エロス神」は、自分に欠けたものを求めること一般として、彼の哲学的な言語世界のうちに籠絡されてある。そして、肉体よりも魂のほうが価値として優れていることは、当時の人びとにとって自明の認識であったから、魂において身ごもり、出産することのほうがより美しくより永遠的であるという結論には、文句のつけようがない。現世を超えた「知への愛」のほうが現世的な欲望を満たすことよりも価値あることなのだという「プラトニック」な図式がここに成立するのだ。
詐欺の第三ステップは、もはや隠し立てもなくあらわである。恋の道には、正しく進むべき順序、道筋があるというのである。そこには、個別の対象への愛から始まり、美そのもの(美のイデア)を対象とする学問の愛にいたる四つの段階がはっきりと示されている。そしてこの最高段階にまで達する人(哲学者)のみが、真の徳を産み育てるにふさわしい人であるというのである。
現代の常識的な感覚の持ち主ならば、「え、何だって? 恋の道を正しく進めていくと学問の道にいたるんだって? そりゃありませんぜ、プラトンさん」と笑い出したくなることだろう。だがプラトンは、こういう考え方を大まじめでソクラテスに語らせているのである。
しかし、笑って済ませられる問題ではない。「エロス」問題を扱った『饗宴』という、人々の関心を誘惑するこの楽しくも愉快な作品設定の本来的な意図はどこにあるか。それは、恋愛感情のもつ狂気性、非日常性をそのまま受け入れながら、いかにしてそれ自体を、徳の支配、「善」の支配のもとに結びつけるかというところにある。このことが理解できたならば、私たちはそこに、プラトンの道徳説教家としての野望がどれほど大きいものであったかも同時に知るのである。
この思想家の巧妙な手口は、厖大な作品群のうちたったひとつを調べてみただけでも歴然としている。たとえば彼は、この作品のはじめのほうで、エリュクシマコスがエロスを称える演説をしようと提案したとき、ソクラテスにこう語らせている――「エリュクシマコス、だれも、君に反対投票するものはあるまいよ。このぼくは、恋の道以外はまったくの無知であることを主張しているのだから、断わるわけはないし……」。
また、後に扱う『パイドロス』においては、恋の狂気性に絡めて、やはりソクラテスをして「実際には、われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである」と言わせている。
つまり、恋愛感情に見られる狂気性(霊感、インスピレーション)は、神々たち(エロスやムゥーサ)によって吹き込まれたもので、それは人間界の卑俗な知恵、分別、節制などの配慮などよりも、それ自体としてはずっと価値の高いものであるとプラトンは主張しているのである。そこでこの彼一流のロマンチシズムを、「イデアへの恋」(愛知)として実現することができれば、それこそが最も神に愛される姿なのだという結論が導き出されるからくりになっているわけだ。
要するに恋の狂気性をそれ自体として肯定することを前提にして彼のイデア論はうち立てられている。問題はその恋の「対象」なのである。その対象が、感覚によってとらえられる地上的なものではなく、現世を超えた永遠の魂を求める性格のものであれば、いっそう価値高きものとなる。地上の恋に見られる狂気性そのものを何とか保存しながら、それを、感覚ではとらえられず哲学的思惟の前にのみ姿をあらわす神的対象への狂気的な愛、つまりイデアへの愛に橋渡しすることはできないものか――これが「エロス」という、人間くさい厄介なあり方に対するプラトンの問題意識だった。
だが結論をいえば、これは無理なことである。その無理を道理として押し通すために、彼は、くだんの四段階説を唱えた。より上位の段階に達したものは、いままで自分が陥っていた段階を、より低いもの、つまらないものとしてさげすまなくてはならない。肉の愛への軽蔑を核心にもつ道徳。
キリスト教道徳に直通するこのテーゼは、じつはプラトンの中ではじめから動かし難いものだった。しかし、それを、節制の徳などを対置することによって説くのではなしに、よりすぐれた恋のあり方への上昇過程として展開してみせること、それこそが、彼の巧妙な言論詐術の要である。
もう一度整理しておこう。
ここでのプラトンの詐術とは、同じ狂気性を秘めた恋心でありながら、対象がより一般的なもの、より感覚を超越したものであればあるほど、その階梯が高いところに位置するという論理である。この論理的な詐術を克服しようと思うなら、最低限、次の四つのことを果たさなくてはならない。
①どこに彼の論理のおかしさがあるかを、論理そのものから見破ること
②対象や質が異なると思える人間のいろいろな感情をどうして、「愛」や「恋」という言葉でひとくくりにできるように私たち自身が感じるのか、その理由を探ること
③私たちが普通に使っている「恋愛」とか「恋」とか呼ばれる言葉(概念)の本質が何であるかを、新しく展開してみせること
④プラトンがこういう説を唱えた、その動機がどこにあったのかを、当時の社会の要請のなかから読みとること
まず①については、すでに述べてきたが、プラトンは、ここで一種の論理的な詐術を二つ用いている。ひとつは、いわゆる恋愛感情と知への愛とを、単なる対象の違いとして共通項で括り、結果的に両者を「同一視」していること、そしてもう一つは、いわゆる恋愛感情を、「美一般」を恋い慕う気持ちの一種であるとして「抽象化」していること、である。
人の人に対する恋愛感情は、けっしてプラトンの考えたように、知への愛にアイデンティファイできない。なぜならそれは、あくまで一人の自我と身体をもつ存在を対象とし、その固有な特性そのものとの心身の合一と共鳴をめがける感情だからである。そこにあらわれるのは、確固たる自我の境界が危うくなり関係性の揺らぎのなかに融解していくような経験である。
これに対して「知への愛」が正当に果たされるためには、むしろ逆に、揺るぎない理性的自我が「正しい知」を冷静に識別し、その姿を曇りなく「観ずる」という賢者の毅然たる態度が要求される。単なる事物の現象的な展開にふらふらと心を動揺させていたのでは、知の探求や学問は成り立たないのである。
また、人に対する恋愛感情は、必ずしも「肉体の美しい人」や「心の美しい人」を求めるとは限らず、ましてや「美一般」を志向するなどというところに本質をもっていない。恋の経験を多少とも味わったことのあるものなら、すぐ納得するだろうが、「身体美」や「心の美」の持ち主が恋愛対象としていつも勝者になるかといえばそんなことはない。「蓼食う虫も好きずき」とか「破れ鍋に綴じ蓋」という言葉があるように、「身体美」は恋愛成立の絶対条件ではない。
また、道徳的な「悪い男」や「悪女」にどうしようもなく惚れていく例が数多くあるように、「心の美」も恋愛の必須条件ではない。ここには、後に述べるように、「肉体の美」と「心の美」という二元的な対立論理のどちらかに加担したのではどうしてもはみ出してしまう、恋愛独特の価値感情があるのであって、それをきちんと言い当てる必要があるのだ。
次に②であるが、それにもかかわらず、プラトンの説が一定の説得力を持ってきたのには、それなりの根拠がある。それは、私たちが、ある共通感情を「愛」という言葉で呼び慣わしていることにかかわっている。
一般に「愛」とは、惹きつけられものに向かって自分の心身を投げ出そうとすることによって、その対象との同一化を願う感情のことである。それは行動に対する意識の先駆けであり、いわば前のめりになった内的な行動であるために、いかなる対象をめがけようと、そこには、せき止められている者に特有の昂揚感情が伴うのである。人類愛、親の子どもに対する愛、友愛、恋愛など、みなこの共通点をもっている。
ソクラテス(プラトン)による「エロス」(「恋」、「愛」)概念の規定をいったん受け入れれば、たしかに金儲け、体育愛好、愛知なども、この概念に包摂されることになる。しかしソクラテス(プラトン)のここでの目論見は、すでに述べたように、愛にはその対象にしたがって、価値の優劣があるという論理を提出するためになされているのであるから、この論理を納得しがたいものと考えるかぎり、「愛」という言葉の持つ抽象性(概念が含む範囲の広さ)を頼りにするわけにはいかない。むしろ具体的な人格の持ち主としての個人への愛と、知への愛との決定的な相違点に着目せざるをえないのである。