小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源9

2013年11月11日 23時42分14秒 | 哲学

倫理の起源9



 さてソクラテスは、「恋の対象というものは、何らかの意味で『善きもの』でないかぎりは、半分でも全体でもない。」と言っている。この微妙な表現に注意しよう。「何らかの意味で『善きもの』」とは、もともと、多義的な言い回しである。なるほど、恋する人が目標とする対象は、その人にとって「よきもの」であるにちがいない。
 しかし「よい」あるいは「いい」という言葉は、時には快、時には利得、時には健康、時には幸福、時には優良、時には強さ、時には美、時には情趣の豊かさ、時には適切、時には上首尾、時には安定性、時には身分や家柄の高いことなど、いろいろな意味に使われる。日本語では、これに「善」という字を当てることではじめて道徳的な「よい」という意味に限定される。
 この「よい」あるいは「いい」という言葉の多義性をどのように整理し、それらの連関をどうとらえるべきかは、倫理学にとって非常に重要な問題なので、後に言及することにしよう。
 この「善きもの」という言葉について、古代ギリシア語での原語がどういうニュアンスをふくんだものであったのか、私はつまびらかにしないが、おそらく同じような多義性を含んでいたであろう。ソクラテス(プラトン)がここで「よい」という多義的な表現を用いつつ、その意味をあえて道徳的な「善」の概念に引きつけようとしていることは、やはり後の文脈から考えて容易に想定できるからである。
 さて次にソクラテス(プラトン)は、「恋のはたらきとは、肉体的にも精神的にも『美しいもののなかに出産すること』である」と述べ、ついで肉体的な身ごもりと出産、精神的な身ごもりと出産とをアナロジカルに対応させつつ、「魂において身ごもり、出産する人々は、うつしみの子どもによるつながりよりもはるかに偉大なつながりと、しっかりした愛情とを持つ。それは、より美しく、より不死なる子どもを共有するからである」と結論づける。これがプラトンの詐欺の第二ステップである。
 すでに「エロス神」は、自分に欠けたものを求めること一般として、彼の哲学的な言語世界のうちに籠絡されてある。そして、肉体よりも魂のほうが価値として優れていることは、当時の人びとにとって自明の認識であったから、魂において身ごもり、出産することのほうがより美しくより永遠的であるという結論には、文句のつけようがない。現世を超えた「知への愛」のほうが現世的な欲望を満たすことよりも価値あることなのだという「プラトニック」な図式がここに成立するのだ。
 詐欺の第三ステップは、もはや隠し立てもなくあらわである。恋の道には、正しく進むべき順序、道筋があるというのである。そこには、個別の対象への愛から始まり、美そのもの(美のイデア)を対象とする学問の愛にいたる四つの段階がはっきりと示されている。そしてこの最高段階にまで達する人(哲学者)のみが、真の徳を産み育てるにふさわしい人であるというのである。
 現代の常識的な感覚の持ち主ならば、「え、何だって? 恋の道を正しく進めていくと学問の道にいたるんだって? そりゃありませんぜ、プラトンさん」と笑い出したくなることだろう。だがプラトンは、こういう考え方を大まじめでソクラテスに語らせているのである。
 しかし、笑って済ませられる問題ではない。「エロス」問題を扱った『饗宴』という、人々の関心を誘惑するこの楽しくも愉快な作品設定の本来的な意図はどこにあるか。それは、恋愛感情のもつ狂気性、非日常性をそのまま受け入れながら、いかにしてそれ自体を、徳の支配、「善」の支配のもとに結びつけるかというところにある。このことが理解できたならば、私たちはそこに、プラトンの道徳説教家としての野望がどれほど大きいものであったかも同時に知るのである。
 この思想家の巧妙な手口は、厖大な作品群のうちたったひとつを調べてみただけでも歴然としている。たとえば彼は、この作品のはじめのほうで、エリュクシマコスがエロスを称える演説をしようと提案したとき、ソクラテスにこう語らせている――「エリュクシマコス、だれも、君に反対投票するものはあるまいよ。このぼくは、恋の道以外はまったくの無知であることを主張しているのだから、断わるわけはないし……」。
 また、後に扱う『パイドロス』においては、恋の狂気性に絡めて、やはりソクラテスをして「実際には、われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである」と言わせている。
 つまり、恋愛感情に見られる狂気性(霊感、インスピレーション)は、神々たち(エロスやムゥーサ)によって吹き込まれたもので、それは人間界の卑俗な知恵、分別、節制などの配慮などよりも、それ自体としてはずっと価値の高いものであるとプラトンは主張しているのである。そこでこの彼一流のロマンチシズムを、「イデアへの恋」(愛知)として実現することができれば、それこそが最も神に愛される姿なのだという結論が導き出されるからくりになっているわけだ。
 要するに恋の狂気性をそれ自体として肯定することを前提にして彼のイデア論はうち立てられている。問題はその恋の「対象」なのである。その対象が、感覚によってとらえられる地上的なものではなく、現世を超えた永遠の魂を求める性格のものであれば、いっそう価値高きものとなる。地上の恋に見られる狂気性そのものを何とか保存しながら、それを、感覚ではとらえられず哲学的思惟の前にのみ姿をあらわす神的対象への狂気的な愛、つまりイデアへの愛に橋渡しすることはできないものか――これが「エロス」という、人間くさい厄介なあり方に対するプラトンの問題意識だった。
 だが結論をいえば、これは無理なことである。その無理を道理として押し通すために、彼は、くだんの四段階説を唱えた。より上位の段階に達したものは、いままで自分が陥っていた段階を、より低いもの、つまらないものとしてさげすまなくてはならない。肉の愛への軽蔑を核心にもつ道徳。
 キリスト教道徳に直通するこのテーゼは、じつはプラトンの中ではじめから動かし難いものだった。しかし、それを、節制の徳などを対置することによって説くのではなしに、よりすぐれた恋のあり方への上昇過程として展開してみせること、それこそが、彼の巧妙な言論詐術の要である。
 もう一度整理しておこう。
 ここでのプラトンの詐術とは、同じ狂気性を秘めた恋心でありながら、対象がより一般的なもの、より感覚を超越したものであればあるほど、その階梯が高いところに位置するという論理である。この論理的な詐術を克服しようと思うなら、最低限、次の四つのことを果たさなくてはならない。

①どこに彼の論理のおかしさがあるかを、論理そのものから見破ること
②対象や質が異なると思える人間のいろいろな感情をどうして、「愛」や「恋」という言葉でひとくくりにできるように私たち自身が感じるのか、その理由を探ること
③私たちが普通に使っている「恋愛」とか「恋」とか呼ばれる言葉(概念)の本質が何であるかを、新しく展開してみせること
④プラトンがこういう説を唱えた、その動機がどこにあったのかを、当時の社会の要請のなかから読みとること

 まず①については、すでに述べてきたが、プラトンは、ここで一種の論理的な詐術を二つ用いている。ひとつは、いわゆる恋愛感情と知への愛とを、単なる対象の違いとして共通項で括り、結果的に両者を「同一視」していること、そしてもう一つは、いわゆる恋愛感情を、「美一般」を恋い慕う気持ちの一種であるとして「抽象化」していること、である。
 人の人に対する恋愛感情は、けっしてプラトンの考えたように、知への愛にアイデンティファイできない。なぜならそれは、あくまで一人の自我と身体をもつ存在を対象とし、その固有な特性そのものとの心身の合一と共鳴をめがける感情だからである。そこにあらわれるのは、確固たる自我の境界が危うくなり関係性の揺らぎのなかに融解していくような経験である。
 これに対して「知への愛」が正当に果たされるためには、むしろ逆に、揺るぎない理性的自我が「正しい知」を冷静に識別し、その姿を曇りなく「観ずる」という賢者の毅然たる態度が要求される。単なる事物の現象的な展開にふらふらと心を動揺させていたのでは、知の探求や学問は成り立たないのである。
 また、人に対する恋愛感情は、必ずしも「肉体の美しい人」や「心の美しい人」を求めるとは限らず、ましてや「美一般」を志向するなどというところに本質をもっていない。恋の経験を多少とも味わったことのあるものなら、すぐ納得するだろうが、「身体美」や「心の美」の持ち主が恋愛対象としていつも勝者になるかといえばそんなことはない。「蓼食う虫も好きずき」とか「破れ鍋に綴じ蓋」という言葉があるように、「身体美」は恋愛成立の絶対条件ではない。
 また、道徳的な「悪い男」や「悪女」にどうしようもなく惚れていく例が数多くあるように、「心の美」も恋愛の必須条件ではない。ここには、後に述べるように、「肉体の美」と「心の美」という二元的な対立論理のどちらかに加担したのではどうしてもはみ出してしまう、恋愛独特の価値感情があるのであって、それをきちんと言い当てる必要があるのだ。
 次に②であるが、それにもかかわらず、プラトンの説が一定の説得力を持ってきたのには、それなりの根拠がある。それは、私たちが、ある共通感情を「愛」という言葉で呼び慣わしていることにかかわっている。
 一般に「愛」とは、惹きつけられものに向かって自分の心身を投げ出そうとすることによって、その対象との同一化を願う感情のことである。それは行動に対する意識の先駆けであり、いわば前のめりになった内的な行動であるために、いかなる対象をめがけようと、そこには、せき止められている者に特有の昂揚感情が伴うのである。人類愛、親の子どもに対する愛、友愛、恋愛など、みなこの共通点をもっている。
 ソクラテス(プラトン)による「エロス」(「恋」、「愛」)概念の規定をいったん受け入れれば、たしかに金儲け、体育愛好、愛知なども、この概念に包摂されることになる。しかしソクラテス(プラトン)のここでの目論見は、すでに述べたように、愛にはその対象にしたがって、価値の優劣があるという論理を提出するためになされているのであるから、この論理を納得しがたいものと考えるかぎり、「愛」という言葉の持つ抽象性(概念が含む範囲の広さ)を頼りにするわけにはいかない。むしろ具体的な人格の持ち主としての個人への愛と、知への愛との決定的な相違点に着目せざるをえないのである。



危ないぞ安倍政権(2)

2013年11月11日 23時29分59秒 | 政治

危ないぞ、安倍政権(2)


②成長戦略としての設備投資減税
 このアイデアは、すでにアベノミクス第三の矢の一環として打ち上げられていました(もともと財務官僚が考えてきたことなのでしょうが)。その中身は、平成25年度の税制改正で、設備投資額を前年度比10%以上増やした企業に、3%の税額控除を2年間認めるというものです。
 たとえば、前年度設備投資額1000万円を今年度1100万円に増やした企業が、損益計算で1億円の黒字を出したとします。法人税率25%として、2500万円の税額を払う義務が生じますが、その3%、つまり75万円の控除が認められるということでしょう。いかにもちまちましていて、効果薄弱に見えますね。経営上設備投資を増やせなかったら、何のうまみもないわけだし、黒字にならなければ関係ありません。しかもたったの2年間だけです。事実、これによる利用者はほとんどあらわれなかったようです。
 そこで政府は、もっと企業の設備投資を喚起する対策を考え、今秋の目玉戦略の一つとして、企業が支払う法人税額から設備投資額の3%を控除する措置を講ずることにしたそうです(産経新聞8月24日付)。たとえば100億円の設備投資をすれば、直ちに法人税から3億円の控除が認められるということですね。
 設備投資について減税措置を講ずるということは、企業、特に製造業の生産意欲を刺激し、実体経済への好影響を生むはずですから、一般的には景気回復の方法のひとつとして推奨されるべきことに思えるでしょう。しかし、このからくりはなかなか複雑で、その背景も踏まえた全体像を見通してみると、ほとんど国内企業の投資意欲を喚起しないとしか私には思えません。
 まず、次の二点を押さえておかなくてはなりません。

 .国内企業は、税務処理上赤字企業が多いため、7割は法人税を支払っていません。
 .政府は、それらの企業への対応策として、設備投資の減価償却費(設備に応じて何年かに割り振って控除対象となる)を初年度に一括経費計上できる「特別償却」を検討しています。

 の意味するところは明瞭ですね。7割の企業にとって、この減税措置は何の意味もないわけです。
 次にその事態に対する対応策のですが、これは先の減税措置との二者択一になっています。一見、経費計上(つまり課税所得の減額)に寄与するようですが、よく考えると、これはいずれは控除額に算入できるはずのお金を今すぐまとめて控除しますよというくすぐり策にすぎません。減税措置ではなく、民主党政権が得意とした一時の「バラマキ政策」と同じなのです。
 こんな対策に経営者は騙されますかね。あなたが事業主であるとして、あなたは、10年間均等割りの一定額を控除されるのと、今年限りで全額控除されるのとどちらを望みますか。人それぞれでしょうね。いずれにしても目玉戦略なんかにならないことは確かです。
 もう一つ言っておくべきことがあります。この設備投資減税案は、今年の3月5日に財務省によって策定された「税制改革大綱」http://www.mof.go.jp/tax_policy/tax_reform/outline/fy2013/25taikou_03.htm
に基づいています。この大綱では、「国内」設備投資という限定条件が付いていて、日本のデフレ脱却のための条件にかなっているので、その限りでは評価できます。つまり、グローバル企業が外国に工場を建てたとしても、それは控除対象から除外されるわけです。不況からの脱却にとって不可欠なのは、国内投資が伸びること、その結果、内需が拡大して国民の雇用が改善され、消費が活発化することですね。
 ただ問題なのは、この政策にかかわるマスコミの報道に、「国内」という言葉がついているかいないかの区別がなされていないことです。これがつくとつかないのとでは、デフレ脱却を期待させる効果の点で、雲泥の差があります。たとえばもし今秋の国会で「国内」という言葉がつかないままこれが法律として通ってしまったら(その可能性は日ごろの財界の圧力から見て十分ありえます)、グローバル企業が人件費の安い外国に工場を建てても、この減税の対象になってしまうでしょう。そうしたら、デフレ脱却の目的は骨抜きです。
 もっと悪いのは、この減税措置が、一般には法人税減税と誤解されているフシがあることです。デフレ期に法人税減税などをやれば、税収増につながらないだけではなく、企業は設備投資になど乗り出さずに、そのぶんだけ内部留保をため込むだけです。きちんと国民に理解させる義務があるマスコミ自身が、そのへんをぜんぜん理解していないようです。
 いずれにしても、こんなせこい減税措置は、じつは「目玉戦略」などにはなりえません。第三の矢の「成長戦略」なるものの柱が、本当は、小泉構造改革以来の規制緩和路線(それを忠実に引き継いでいる竹中路線)そのものにあることは明瞭です。そしてこの規制緩和路線こそは、価格競争の下方圧力として働き、デフレを一層助長させます。デフレ脱却を最優先課題として政権を獲得した安倍内閣にとって、これは自ら首を絞めることに他ならないのです。財務大臣の麻生太郎氏なども、いまやすっかりこの規制緩和路線にやられています。

③消費税増税
 これについては、産経新聞編集委員・田村秀男氏、イェール大学名誉教授・浜田宏一氏、日銀副総裁就任前の岩田規久男氏、経済評論家・三橋貴明氏、上念司氏らをはじめとして、多くの経済論客によって、デフレ期の増税策が経済学の常識から考えていかにとんでもない政策であるかが、繰り返し繰り返し理路を尽くして論じられてきました。しかしそれにもかかわらず、全体の流れは、これをそのまま容認する方向に動きつつあります。
 みなさんは、8月27日の新聞各紙をご覧になりましたか。これらの人たちの懸命な努力にもかかわらず、政府は「集中点検会合」なる機関を設定して、「幅広く意見を聞く」というアリバイの下、来年四月からの増税を正当化しようとしています。読んでみると、すべての理論的な抵抗の努力が水泡に帰するような目も当てられない内容です。
 この内容に踏み込む前に、なぜこの時期の消費税増税が類例のない大バカ政策であるかについて、手短にまとめておきましょう。

 .この政策の目的は、「国家財政の健全化」にあるが、そもそも財務省が流し続けた財政危機という情報は、デマ以外の何物でもない。GDPの2倍(1000兆円)の債務というのは、債務だけを強調しているので、政府が持っている資産については意識的に隠されている。だれでも自分の財産を考えるのに、借金だけを計算する人はいず、保有資産とのバランスシートをとるだろう。それによれば、政府の純債務は、GDP総額に達していない(500兆円未満)。また日本は、対外純資産では、世界一の債権国である。
 .GDPとの比較によってその国の財政危機状態を測ることにはさしたる根拠がない。過去においてイギリスはGDPをはるかに超える債務を抱えたことがあるが、破綻(デフォルト)しなかったし、逆にロシアやアルゼンチンは、債務額がそれほどでもなかったのに、外資依存率が高すぎたために破綻している(現在、韓国が限りなくこれに近い状態である)。
 .日本政府の債務は、裏返せば日本国民の資産である。国債の9割以上の保有者は日本国民であり、しかもすべて円建てであるため、為替変動の影響を受けない。日本国家に対する国民の信認がある限り、大暴落(金利の急騰)などということはあり得ない。また政府の借金というイメージをどうしても払拭したいならば、政府の下請け機関である日銀が通貨発行権を駆使して国債を市場から適切な量だけ買いとればよいだけの話である。この方策は、国内市場にお金が流れるので、デフレ対策としてもきわめて有効であり、現にアベノミクス第一の矢の戦略の中に組み込まれている。
 .したがって、「財政健全化」を目的として国民から新たに税を取り立てようとするのは、国民からの借金を踏み倒そうとするペテンにほかならない。
 .デフレ不況期に増税をすることは、さらに財布のひもを引き締めさせ(投資も消費も伸びず)、日本経済全体を冷え込ませる結果にしかならない。アベノミクス効果によってせっかく上向きかけている景気を、元の木阿弥に戻してしまう。
 .政府(特に財務省)は、増税によって税収増を皮算用しているが、経済の縮小による所得税、法人税の減収をきたすことは明らかであり、全体としては税収減を結果する。これはそもそも消費税増税の目的に反することであり、国民を苦しめるだけの結果に終わる。このことは、97年橋本政権時代の増税によって実証されている。
 .景気回復が、雇用の安定や給与の上昇など、国民生活にとって実感できるようになるためには一定の時間がかかる。アベノミクスが始まってまだ数か月しかたたない時点で、抽象的な数値指標に基づくわずかな景気回復の兆しによって増税の是非などを論議するのは早すぎるのである。

 だいたいこんなところでしょうか。
 さて、ことここに及んでも、増税派は、自説を通すためにさまざまな詐術を用いて政権に圧力をかけています。その詐術のうち、最たるものは二つあります。
 一つは、先ごろのG20などで、欧米諸国やIMFが日本の財政再建を望んで増税を促したから、これはもはや国際公約だという理屈です。
 しかし欧米が日本に増税を促すのは、自分たちの国が経済的な困難を抱えているので、このままアベノミクスや円安が進んで日本に一人勝ちされては困るからです。彼らは、自国の利益のためにいちゃもんをつけているにすぎません。
 またIMFという機関は、それぞれの国の事情を具体的に見ず、国際経済全体のバランスだけを抽象的に塩梅して、とかく財政健全化=緊縮政策を促す傾向があります。日本の財政はもともと「不健全」ではないのですから、そんな言い分を「国際公約」などと過剰に重んじる必要は全くありません。ここにも、(その1)で述べたと同じような、言われなき欧米追随の奴隷根性が見られますね。
 もう一つは、これが最も悪質な詐術なのですが、消費税増税は三党合意でもう決まったことなのだから、とにかくやるべきだという強引きわまる理屈です。こういうことを言う人たち(自民党の中にもたくさんいます)は、消費税増税法に附則18条があることを意図的に隠しています。彼らは、「引き上げ率を変更したり、増税時期を先送りしたりするためには、10月の臨時国会で消費税増税法の改正案を成立させる必要があるが、それはもう間に合わない」などと盗人猛々しいセリフを並べ立てています。
 附則18条とは何か。わかりにくい文章ですが、ここでは第一項だけを掲げておきましょう。

 消費税率の引上げに当たっては、経済状況を好転させることを条件として実施するため、物価が持続的に下落する状況からの脱却及び経済の活性化に向けて、平成23年度から平成32年度までの平均において名目の経済成長率で3パーセント程度かつ実質の経済成長率で2パーセント程度を目指した望ましい経済成長の在り方に早期に近づけるための総合的な施策の実施その他の必要な措置を講ずる。


 要するに、今後10年間に、実質GDPで年平均2%の伸び率が確実だという見通しが立つことが、消費税増税を行うための条件だと言っているわけです。
 これはれっきとした法律ですから、この条項が条項通りに実現されていない見通しが成り立つ場合には増税は行わない、すなわちしばらく凍結するというのが唯一合法的な手立てであって、それ以外にこの附則の解釈は考えられません。だからこそ安倍首相は、9月に明らかになる4月―6月の景気指標を判断材料として、10月にこの最重要政策の是非を決めると再三表明しているのです(もちろん、先述のように、それでは早すぎるのですが)。
 行政の長が、既定の法律に従って決断を下すのは当然です。それなのに、「10月の臨時国会で消費税増税法の改正案を成立させる必要がある」などと言っている人は、法治国家の原則を踏みにじる犯罪的な言動をしているとしか思えません。法律や政治や経済の専門家たちのくせに、よくもまあ、こんな嘘八百を平然と吐けるものです。しかも、ほとんどのマスコミが、こういう不当な言い分を疑いもせず、そのまま「有力意見」として掲載しているのです。民のための政治という大義をすっかり忘却した腐敗状況というほかはありません。
 ちなみに、景況次第では増税の凍結が可能というこの附則を土壇場で入れさせたのは、民主党の馬淵澄夫氏だそうです。民主党にもちゃんとこういう立派な人がいるのですね。
 現在、この消費税増税論議は、引き上げ率を年1%ずつに細分化しようとか、もう少し引き上げの時期を延ばそうとかいう細かい話になっています。異次元緩和を成し遂げたあの黒田日銀総裁までが、「消費税増税をしてもいい」などと職分を超えた余計なことを言い出す始末です。これらの論議では、財政再建のためにいつか近いうちに消費税を増税しなければならないということがすべての論者の暗黙の前提とされています。
 しかし、いま日本政府に財政危機などないし、デフレからの脱却こそが課題なのですから、その前提自体がおかしいのです。本当に論議されるべきは、第二の矢、すなわち、機動的な財政出動(積極的な公共投資)によっていかに劣化したインフラを建て直し、新しい需要を作り出し、そうして国民に建設的な機運を取り戻させるかにあります。
 大胆な金融緩和(第一の矢)と、第二の矢とは、連動して初めて意味を持ちます。第一の矢が、企業にお金を借りたい気持ちにさせ、第二の矢が、それを実際に使おうという意志を発動させるわけです。こうして国内市場に潤沢なお金の流れが出現します。第三の矢は、デフレ期には百害あって一利なしです。
 ことは意外に単純に思えるのに、いま政治の世界は、財界、官僚、学界、マスコミなどの多様な思惑に拘束されて、あっちこっちに引っ張られ、何を選ぶべきかが見えなくなっているようです。安倍政権がもし本当に国民のための政権として安定を望むなら、その課題は、アメリカ渡来のグローバリズムの大波に対していかに強靭な防潮堤を築くか、財務省由来の「財政健全化」という葵の印籠のウソを見抜き、いかにしてインフレ・アレルギー、公共投資アレルギーを克服するかという二点に集約されます。この二つの課題を果たさない限り、安倍政権は短命に終わる可能性が大です。しかしそれに代わる有力勢力は、与党内にも野党にもない、それこそが問題なのです。
 私は憲法問題、安全保障問題、国土強靭化問題、原発問題などに関して安倍政権の姿勢を支持しており、決して短命で終わってほしくないと思っています。これらの課題をきちんと解決に導くには、いまの政権のような安定性が必要だからです。しかしだからこそ、このままではまずいのではないかという警鐘をこの時点で打ち鳴らすことにした次第です。

危ないぞ安倍政権(1)

2013年11月11日 23時17分11秒 | 政治

危ないぞ、安倍政権(1


 ここ数日の報道を見ていて、現在の政府が取ろうとしている経済政策の方向性について、これはどうも国益(国民の福利)の観点から見て賛成できないと思えて仕方がないので、その点について書いてみます。
 論点は三つあります。

 ①TPP交渉参加
 ②成長戦略としての設備投資減税
 ③消費税増税


 上記3点に関して、私はいずれも反対ですが、安倍政権は、③については未決であるものの、①と②については、どんどん押し進めつつあります。これは下手をすれば安倍政権の安定維持を自ら崩す結果につながるのではないか。
 もとより私は、経済問題に関しては一介の素人です。現時点の知見の及ぶ範囲で一生懸命書いてみますが、見当違いを犯しているかもしれません。その節は遠慮なくご指摘ください。

①TPP交渉
 先日、ブルネイでの交渉開始直前に、米通商代表部ののフロマン代表が急遽来日し、TPPの年内妥結は可能だという意味のメッセージを残していきました。不思議なのは、日本国内には、農業団体のみならず、TPPに反対の勢力が多くあるにもかかわらず、交渉関係者の間で、だれも「なぜそんなに妥結を急ぐのか」と正面切って反論した人がいなかったという事実です。
 ウォールストリート・ジャーナルによれば、「日本政府は対象農産品に関する関税の保持を公約しているが、フロマン氏は、センシティビティ(重要品目)は『交渉によって解決されるべき』とし、米国の目標を『関税撤廃を含む高水準で野心的かつ包括的な合意』とした」http://newsphere.jp/world-report/20130820-2/
 これは、はっきり言って情けない。アメリカ交渉団は、日本の要求を飲む気が初めからないのです。日本の交渉団の人たち、急げ急げとけしかけているこの居丈高なアメリカに対して本気で対決する気がありますか。
 またファイナンシャル・タイムズの伝えるところによれば、アメリカが妥結を急ぐのは、EUとの貿易交渉を終わらせるために来年、連邦議会の承認が必要なためです(ソース同前)。それはアメリカの一部勢力のお家事情。何も日本がそれに同調する必要などまったくありません。またもや日本の経済外交筋は、アメリカのしたたかなテコ入れ政策に完全に押し切られているではありませんか。
 そもそもTPPにアメリカが途中から参入してきた最大の理由は、この協定が、一部グローバル企業及びその株主の利益にかなうからです。このことは、この協定書の作成がウォール街の一部勢力を中心に、徹底した秘密主義の下に進められてきたことだけから見ても明らかです。公開すれば、世界各国の国益を損なうものとしてごうごうたる非難を浴びるに決まっているからです。
 この協定の主たる内容を見ればそのことはもっとはっきりします。関税の撤廃だけではなく、保険事業や混合診療や新薬規制の自由化、遺伝子組み換え食品の非表示、企業が他国を訴えられるISD条項、雇用の自由化など、非関税「障壁」の撤廃がふんだんに盛り込まれていて(特に、最後の2つは重要です)、どれをとっても、特定のグローバル企業が他国の経済に勝手気ままに侵入するのを許すものばかりです。
 日本の保険事業はすでにアフラックに蚕食されつつありますね。混合診療の自由化は、富裕層ほどいい医療を受けられる結果になりますから、当然貧困層への医療は後回しとなり、苦労して作り上げた日本の素晴らしい皆保険制度を壊していく第一歩となります。遺伝子組み換え食品の非表示は、消費者の選択の自由を奪います。
 ISD条項は、グローバル企業が一国の規制によってその国への参入を阻まれていると感じた場合には、自分たちに都合のいい弁護団を大量に駆使して勝手にその国に対して訴訟を起こすことができる国家主権破壊条項です。
 雇用の自由化は、日本の良き雇用慣習を壊し、使い捨ての非正規雇用や日本の繊細な文化・技術を知らない外国人単純労働者を大量に増やすことにつながるでしょう。すでにそうなりつつあります。
 そのくせ、知的財産権(特許など)の保持・期間延長に関しては、アメリカ交渉団は最も強硬に保護主義的な姿勢を守ろうとしています。それが彼らの既得権だからです。交渉に参加している新興国からしてみれば、それでは困るので、反対の態度を鮮明に打ち出しています。
「自由は普遍的価値だ」というバカバカしくも抽象的な理念を信奉することから目覚めましょう。こと経済に関しては、こんな理念は成り立ちません。あなたは信頼関係が確立していない他人に、「ドアはいつでも開けておくからいつでも入ってきていいよ。その代り、あなたの家にも自由に入るからね」などと言いますか。
 一つ一つの協定条項が具体的に何を意味するかをよく見ましょう。甘利担当相はじめ日本の交渉団は、これらのほとんどが日本の国家主権と国益を損なうことを認識せず、またしてもアメリカの一部勢力のお先棒担ぎをやっているのです。これは乱暴に言えば、経済版GHQなのです。
 しかしここで重要なことは、けっしてアメリカ国民が一枚岩的にこの協定に賛成しているわけではないということです。戦後日本人は、とかく自意識(対他者意識)過剰気味のところがあり、国際舞台で、対米、対中というように相手国を一つのまとまりとして見なしがちです。反米、親米、嫌中、媚中、これらのわかりやすい感情的な枠組みにはまっている人たちは、その点では共通しています。
 しかしTPPに関して言えば、アメリカの製造業者は、デトロイトの惨状を見てもわかるとおり、関税撤廃に大反対ですし(ちなみに自動車では、アメリカは日本に2.5%の関税をかけていますが、日本はアメリカに対して無税です)、多くのアメリカ国民は、自国の産業の衰微と生活の逼迫を懸念してこの協定に反対の声をあげています。この反対にはそれなりのリアリティがあります。
 もともとアメリカの社会保障はほとんど機能していません。経済評論家・三橋貴明氏の「月刊三橋」8月号によれば、いまアメリカの経済格差ははなはだしく、富裕層と貧困層の平均年収の比は500:1だそうです。貧困層の平均年収が200万円とすれば、富裕層は10億円ということになりますね。保有資産価値ではありません。年収ですよ。
 アメリカ国内は、高額の自由診療が当たり前なので、貧困層はまともな医療を受けることができず、たいへん深刻な事態に陥っています。こういうことになるのも、アメリカが長年の間、「小さな政府」などと言って、自由競争原理主義を経済活動の基本としてきたからです。
 オバマ政権は、さすがにこの惨状を改善しようと社会保障制度の改革を試みたのですが、どうも一部ロビイストたちの活動によって骨抜きにされてしまったようです。
 それでは、TPP協定が通ることによってニンマリ笑うのは誰なのか。それはすでに述べたように、アメリカ政府でもアメリカ一般国民でもなく、新自由主義的な経済思想に支えられてたんまり儲けられる一部グローバル企業とその大株主(金融機関その他)だけなのです。彼らには、アメリカ国家や自国民の利益を守ろうなどという公共精神の持ち合わせが全くありません。日本のYさんやWさんと同じですね。それは私人である企業家としては当然のこととも言えます。
 しかしこんな人々の跋扈(ばっこ)によって、一国の政治が動かされるような状態を続けていると、やがては国民経済(経世済民)という概念自体が崩壊し、世界はそれこそ弱肉強食、間違いなく「万人の万人に対する闘争」という自然状態に帰結するでしょう。
 オバマ政権は、こういう新自由主義的な経済思想の危険性を十分把握したうえでTPP協定早期妥結という政策を打ち出しているのでしょうか。どうもそのようには見えません。というか、おそらく周辺の取り巻き勢力に内堀まで固められて籠絡されてしまったのでしょう。どこかの国のように。
 私が日本のTPP交渉参加を、「経済版GHQ」とあえて呼ぶのは、この協定をめぐる日本政府の態度に何ら国益を守るための独自の経済思想が認められず、初めからアメリカ様の「自由競争原理主義」理念のちょうちん持ちをやっているとしか思えないからです。これは「敗戦」の繰り返しなのです。
 しかもGHQよりさらに悪いのは、政治的信念を失った今のアメリカ政権が、自由競争原理主義で得をするごく一部の勢力の主張をそのまま通して政策として掲げ、それを世界に押し付けようとしている点です。そうして、そのことが見抜けない日本政府の相変わらずのダメさ、主体性のなさ。
 安倍政権は、財界、官僚、御用学者、御用マスコミに取り囲まれて、身動きが取れず、やむを得ず交渉に参加する羽目に陥ったのではないでしょうか。少なくとも、TPP参加を煽りつづけてきた新自由主義者の申し子である竹中平蔵氏一派と手を切らない限り、アベノミクスが真に国民のためになることなど望むべくもないでしょう。
 私には、「聖域なき関税撤廃には断固反対、これが通らなければ撤退も辞さない」という自民党の公約が、本当に貫徹されるとは到底思えません。ずるずるとアメリカ主導に従って要求を飲まされ、ほんのちょっとしたおこぼれにあずかるといったところが関の山でしょう。そもそも関税撤廃だけが問題ではないのは、上に述べたとおりです。
 ところで日本の大手マスコミのほとんどは、TPP問題の主要論点が、コメ、麦、乳製品などの農産品の関税撤廃だけにしかないような論調を張ってきました。これは意図的にしてきたのか、把握能力がなくてそうしてきたのかわかりませんが、結果的に一般国民からこの協定が持っている重要な問題点を隠蔽する作用を果たしてきたことは事実です。
 農業従事者は5%以下ですから、一般の都市住民の感覚からすれば、なんとなく食料は輸入に頼るしかないんじゃないのと思わされてしまいます。価格競争が起きてもっと安い品が手に入るならいいじゃん。自由貿易、国際化、うん、これからはそれしかないんだろうな……。
 しかし日本は政治的にも経済的にも、もはやぎりぎりのところまで「国際化」され切っています。国益を毀損してまでこれ以上「国際化」「自由化」する必要なんてどこにもないのです。下品なたとえで恐縮ですが、どこの世界に「タダで、だれでも私と寝ていいわよ」などと大股開きをする女性がいるでしょうか。
 繰り返しますが、TPP問題で重要な点は、農業問題だけではなく、むしろ国家主権が脅かされること、都市サラリーマンであるあなたが明日解雇されるかもしれないこと、病気になった時に十分な医療を受けられなくなる可能性が大きいこと、これらの点にこそあります。マスコミは問題点を農産品にだけ特化して、この協定が持つ全体的な危険性をこれまで前面に打ち出してきませんでした。その責任はとても大きいと思います。
 大手マスコミの中ではマシなほうである産経新聞が、ブルネイからの現地報告として次のように書いています(8月24日付)。

 この日の共同会見でも冒頭から、開催国ブルネイの閣僚ではなく、フロマン代表が共同声明をみ、米国主導を印象付けた。
 日本にとっても、TPPは「成長戦略の柱だ」(甘利氏)。交渉の時間がほしいにもかかわらず、協議の加速で米国に同調するのもこのためだ。
 ただ、米国は自国の都合で日本との関税交渉を後回しにし、新興国の間でも「主張を強硬に通そうとする米国主導の交渉に懸念を示す国は多い」(交渉筋)。実際、この日の共同会見では、米国が圧力を強める国有企業の扱いをめぐる現行案について、マレーシアのジャヤシリ首席交渉官が「懸念している」と反対を表明した。


 おいおい、今ごろそんなことを言うなら、なんでもっと早く、アメリカの強引さとそれに同調してきた日本の拙速ぶりを報じてこなかったんだい。日本の交渉関係者も、新興国マレーシアと同じように明確に「懸念」を示すべきじゃなかったのか。少なくとも、フロマン代表の来日時、「私たちは遅れて交渉参加して時間がなかったのだから、あなた方の都合にそのまま合わせるわけにはいかない」となぜ堂々と言えなかったのか。
 日本は立派な大国なのに、戦後からの対米従属意識(奴隷根性)は今も変わっていないのですね。この事態は、対等な同盟関係を大切にするということとは全く別の話です。こんな精神構造がこのまま続くようでは、「戦後レジームからの脱却」はまことにおぼつかないと言うほかはないでしょう。安倍さん、きついでしょうけれど、どうかしっかりしてください。

日本語を哲学する9

2013年11月11日 23時00分11秒 | 哲学
日本語を哲学する9


 次に「②言葉は世界の普遍的真理をあらわす」という命題について。
 言葉は、前節「言葉は世界を虚構する」の部分でやや詳しく論じたように、もともとウソ(「真理」ではなく「真実」の対義語)である可能性を必然的に具えているのだから、この命題を、もはや言葉の本質を言い切っているものとしてそのまま受け入れるわけに行かないことは納得してもらえるだろう。
 ただこの命題がある強い説得力を持っているという事実も否定しがたい。たとえば数学や科学の言葉に関しては文句なくうなずけるような印象を私たちは抱いているだろう。だが言葉総体に対する私自身の直観によれば、こういう捉え方はある文化の特性から来る非常に偏った捉え方(信憑)である。そこでなぜそのような信憑が成立するのか、その信憑の成立する有効範囲は、全言語世界のうちどの部分に限定されるのか、ということをきちんと整理しておく必要がある。そのために考えておくべき前提は以下のとおりである。

.「真実」と「真理」はどこが違うのか
.この命題はどういう歴史的・社会的・文化的な必然から生れてきたか
.それはなぜ偏った捉え方であるといえるのか

 まず、「真実」という言葉は、漢語として古くから日本で使用されていて、管見の及ぶかぎりでは遅くとも中世の仏教文献の書き下し文には頻出している。中国でも古くから使われていた言葉なのであろう。しかし「真理」という言葉はこの時期には見当たらない。これは憶測ということになるが、おそらくこの言葉は、近代以降、欧米語が輸入されてから訳語として作られたのではないかと思う。
 ちなみに「真実」の英語はfact,sincerity,truth、ドイツ語はWirklichkeitだが、「真理」は英語ではtruthのみ、ドイツ語ではWahrheitである。factやWirklichkeitには、事実、現実といったニュアンスが強く、またsincerityには、日本語の「信実」という言葉にも対応する「こころのまこと」とか「誠実さ」といったニュアンスが含まれる。憶測に憶測を重ねることになるが、江戸末期から明治の翻訳家・哲学研究者たちは、WirklichkeitとWahrheitとのふたつの類義語をもつドイツ語に象徴されるようなこの二概念を訳し分ける必要を感じて後者に「真理」という訳語を当てたのではないかと思う。
 ところで日本語におけるこのふたつの言葉の使用例の違いを考えてみよう。
たとえば「事件の真実が判明した」とは言うが「事件の真理が判明した」とはけっして言わない。逆に、「学問は真理探究を目的とする」とは言うが「学問は真実探求を目的とする」と言うとどうも的を外している感じがする。この違いによってわかるように、「真実」という言葉はドイツ語Wirklichkeitおよび英語factと同じように、事実、現実、そのつどの本当のこと、いままでわかっていなかったが新しく知らされたこと、という含意を持っている。また「真理」のほうは、私たち人間に現在知られていようがいまいが、時間や空間に耐える永遠普遍の本当のこと、という理念的な意味合いが強い。
 日本語の「しんじつ」という音声(もっともこれは漢音であるが)が「真実」にも「信実」にも当てられることから考えて、この言葉は人の心にとって本当だと感じられ信じられること、という含意があり、「まこと(真事=真言=誠)」という和語の概念にぴたりと重なり合う。
したがってこの言葉の重点は、客観的論理的に解き明かされた「本当」にあるよりも、むしろ主体的につかみとられた「本当」のほうにあり、だからこそ同時に倫理的な「正しさ」の概念も包摂しているのである。それは、ある具体的な事実や心の状態との間にいつも接点を保持している。「しんじつ」には「私の確信」が必ず関与している。だから「しんじつ」が構成されるために、自然と融けあって現にここにある「こころ」が、少なくとも可能性としては、いつもその条件となることができるのである。
 これに対して比較的近い時代に日本語になったと思われる「真理」のほうは、その基本概念からして、もともと客観的であることをその成立条件としており、「私にとっての真理」というようなものはありえない。そこには自他の間に差異があってはならないのである。と同時に、そもそも有限な人間の「こころ」が真理の構成条件になるなどということは考えられもしない。「真理」はまったく超越的、絶対的、究極的、永遠的にしか存在しえず、人間はただその一分の隙もない完璧な姿に触れ、その仕組みを理解し、記述することができるだけである。
 すでに何を言いたいかおわかりと思うが、「真理」とは、ユダヤ=キリスト教的文化圏からやってきた言葉である。それは、ユダヤ=キリスト教的な「神」(以下、ユダヤ=キリスト教の奉ずる神をかぎかっこつきで表記する)が、そして唯一、この絶対的に超越した「神」だけがみずから創り、その創造の「ことわり=理」について知り尽くしているところの、世界全体の合理的かつ道徳的なすがたそのものをあらわしている。それは一度創られたからには人間の手によって改変することはできず、すでに不動の形で与えられており、しかもこれからも永遠に続くのである。
 このまことに強い理念、理想観念のあり方が「真理」という言葉にはもともと込められている。したがって、新約聖書・ヨハネ伝冒頭の「はじめに言葉(ロゴス)ありき。言葉(ロゴス)は神とともにあり。言葉(ロゴス)は神なりき」という有名な一節から容易に想定できるように、西洋の論理学や言語哲学の手つきが、「ことば」総体の持つ全体像のうち、いかに「ロゴス」の面にだけその関心を集中させているか、その理由が了解されよう。
 そもそも論理、論理学(ロジック)とは、すでに「神」が創りたもうたこの世界の普遍的なありさまを、言葉と言葉のロジカルな関係の解明によって再び描き出そうとする試みである。言葉がこの試みのうちに追い込まれるとき、その学の方法は、「神」それ自身がもつ絶対的な合理性をそのまま映し出すことに一致する。それはそのまま、人間の言葉による「神」の似姿である。そこでは、「真理」という名のあらかじめある世界の完璧な姿が、はじめから前提されている。
 西洋由来の自然科学や近代哲学、論理学、言語哲学は、一見、宗教とはかかわりのないもの、または対立するもの、宗教のもつローカリズムを克服した普遍的なものと見られがちだが、けっしてそうではない。これらの学の発展に寄与した才能溢れる膨大な西洋人たちの発想の根本にあるのは、ユダヤ=キリスト教の神の唯一性、絶対性、完全性に対する信仰にほかならない。「神」が普遍的であるという信仰が彼らのなかに深く埋め込まれていればこそ、彼らはそのすさまじい学問的情熱を近代合理主義的な方法に注ぎ込むことができたのである。近代の学問は、いわばユダヤ=キリスト教の鬼っ子なのだ。こちらから見ていると、それが彼ら自身よりもよく見えるのである。
 この点につき、いくつか例示して解説を加えたいところだが、あまりにテーマから外れるのでそれは控えよう。その代わり、話を論理学、言語哲学に限定しよう。

 あらかじめ「神」によって与えられている「真理」をそのまま映し出すことが哲学や論理学の使命であると考えて、言葉の問題にそれを適用し、言語総体の哲学的な把握としては痛ましくも失敗している好例がヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』である。



 もちろん、彼自身はこの著述で「神」という言葉をひとことも使っていない。また、私にはよくわからないのだが、彼のこの著述が、のちの記号論理学やITを生み出した現代情報理論に大きな影響を与えた業績は否定できないのだろう。
 さらに彼が、後年、長い生の彷徨を経てから著した『哲学探究』において、前著の方法的立場を自己批判して、言葉の問題を日常生活における「使用」という観点から編みなおしたことは有名である。私はこの帰結のほうを多とするものだが、それにしても『論理哲学論考』の時点における言語観が、じつは無意識のうちにユダヤ=キリスト教的な絶対神の観念に金縛りになった人のものである事実は否定し難い。それ自体は別にかまわないのだが、日本のヴィトゲンシュタイン・ファンにはそのことをよく自覚してほしいし、また、彼のような方法に追随することが、言葉の普遍的な本質をつかむことにとっては、ただの偏向以外の何ものでもないことを知ってほしいのである。ひとことで言うなら、『論理哲学論考』における彼の言語論は、言語主体不在の「死んだ客観主義」にほかならない。
 では、問題の書から、彼の発想と展開のよくわかる重要項目を書き出してみよう。周知のようにこの著作は、全体として短い断章の集積のような形をとっており、各断章には番号が付されて、大項目から小項目にいたるまで最高六段階までの系列化がなされている。ここでは、なるべく大項目(番号数の少ないもの)に着目し、彼が言葉に対してどういうイメージを描いていたか、そしてそれがどんな欠陥をもっているかという点に絞って摘出したいと思う。途中に私自身がいろいろと介入することになる。
 なお、テキストは坂井秀寿訳(法政大学出版会・叢書・ウニベルシタス6)を用いるが、この訳に見られる「映像」という訳語は、視覚的な印象を表していると感じられやすい。ここでは前後の文脈からして集合論や関数論で用いる「写像」(原事物からマッピングされたもの)という用語を当てるのが適切に思えるので、すべて「写像」に置き換える。

 一・一三  論理的空間の中にある事実が世界である。
 二・一   われわれは事実の写像をこしらえる。
 二・一二  写像は実在のひな型である。
 二・一三  写像のなかでは、写像の要素が、対象に対応している。
 二・一八二 すべての写像は、同時に論理的写像でもある。(略)
 二・二   写像は描写の論理的世界を被写体と共有する。
 二・二一  写像は実在と一致するか、しないかのいずれかである。写像は正しいか誤りか、真か偽かのいずれかである。
 三     事実の論理的写像が思考である。
 四・〇一  命題は実在の写像である。


 ここまでですでに、ヴィトゲンシュタインが、世界を、また世界と言葉との関係をどう見ているかが鮮明にあらわれている。世界は「論理的空間の中にある事実」なのであり、これは動かしがたいものとして前提されている。だが、私たちはこういう断定にまずもって激しい違和感を抱かないだろうか。
 この規定では、「論理的空間」なる概念がまず世界そのものに(論理的に)先行しており、その「中にある」事実が世界なのだとされる。こういう前提をそのまま呑むには、あのヨハネ伝の「ロゴスは神である」ということを認めなくてはならない。つまり、「神」であるところのロゴスが全世界をあらかじめ構成しているのだという理屈に、感性的なレベルで納得しなくてはならない。
 これは私たち日本人にとって不可能であるばかりでなく、より普遍的なレベルでの人間感情からしても受け入れ難いと思えるのだがどうだろうか。世界は、それ自体としては秩序づけられない混沌であり分節なき連続体である(少なくとも日本の神話では、そういう世界観が保存されている)という感じ方のほうが一般性があるし、「論理」以外のもの(朱子学風に「気」と呼んでもよいし、古代哲学風に「土、水、火、風」と呼んでもよい)がこの世界には満ちあふれているというのがふつうの捉え方ではないだろうか。
 次に、「写像」という言葉は、この論考では単なる比喩ではない。ヴィトゲンシュタインはこの用語を、世界と言葉(言葉が世界の写像である)との関係を表すキーワードとして厳密に用いているので、見逃すことのできない非常に重要な意味を持っている。その心は、論理そのものであるところの「神」が創った実在世界がまず厳然と存在し、私たちの言葉(思考)はその実在世界の「ひな型」であるのだから、それが正しくあるためには、実在世界の論理構造と精密に一致しなくてはならないというのである。要するに、言葉はこの世界の論理構造をそのまま映し出す「神の奴隷」であるといっているのと等しい。
 もちろん、引用箇所に「言葉」とか「言語」とかいう言葉はひとことも出てこない。しかし論考全体が言語についての哲学であることは明瞭であるし、右の三では「事実の論理的写像が思考である」と言っている。したがって、思考が言語によってなされるものと考えるかぎり、彼は、言葉とは「神」の論理的産物である「世界」の写しに過ぎないと言い切っていることにならざるを得ない。
 二・二一の「写像は実在と一致するか、しないかのいずれかである。写像は正しいか誤りか、真か偽かのいずれかである」に至っては、四・〇一との関係から見て「写像」という言葉が言語を意味しているのは明らかであるし、しかもそれが「命題」のみを指していることも明白である。
 すぐあとに批判するように、そもそも写像⇒言語⇒命題と限定していく方法自体が著しく偏ったものの見方であるし、百歩譲って写像⇒言語という図式を認めたとしても、それが真か偽かいずれかであるという考え方は、まったく認められない。私たちは、言葉を現実に使用するとき、それが真理を伝えるためであるという目的に準じて使うわけではない場合のほうが圧倒的に多いからである。
 実際には、ある言葉を出そうとするとき何らかの顧慮がはたらくとすれば、それが真か偽かということよりも、状況(場面)に応じた適切なものであるかどうかということのほうがはるかに重要なのである。その意味では、ヴィトゲンシュタインよりも後に登場したイギリスの言語哲学者・オースティン以下、日常言語学派の立場のほうがずっと的を射ている。
『十二人の怒れる男』という名作映画に次のような場面がある。「殺してやる!」という少年の声を聞いた証言者の証言が、少年を犯人と見立てる証拠としていかに当てにならないかを、ヘンリー・フォンダ演じる8号陪審員が証明してみせる。そのあと、少年を犯人と信じて疑わない他の頑固な陪審員をわざと怒らせて「殺してやる!」と叫ばせ、すぐに「本当に殺すつもりじゃなかったんでしょ」とやりこめる。
 この場合、陪審員の言葉に含まれる「私はあなたを殺すつもりである」という命題は、真偽問題として捉えれば明らかに偽であるが、しかし「殺してやる!」という言葉は、相手に怒りをかきたてられて感情的になった気持ちを表現したという意味では、状況にふさわしい適切な言葉である。
 次のような反論があるかもしれない。
『論理哲学論考』はもともと話を「論理」という問題だけに限って展開されているのであって、何も言葉全体を論じているわけではない。したがって、言葉の機能に他の部分があることを別に排除していないので、それはそれで別途追究すればよい。あなたは、ヴィトゲンシュタインが、言葉総体について論じられるべきことをすべて「論理」の中に押し込めてしまっていると言って非難しているが、それはないものねだりというべきである……。
 私はこの反論にまったく説得されない。
 なぜなら、すでに述べたように、ヴィトゲンシュタインは、言葉以前に、世界とは論理的空間の中にある事実のことであると明言しているのだから、むしろ言葉そのもの(という事実)も論理的空間のなかに含まれてしまうことになるからである。彼にとっては「論理的空間」が、あらゆる事実や事態や対象(後者ふたつは「事実」を構成する下位概念である)に絶対的に先立って存在するのであって、言葉(思考)が、その先験的な存在からのマッピングとしてしか存立し得ないことは論理的に当然のことになるはずである。そのような、あらゆる事実に先立って存在するようなものとは、「神」としか呼び得ないものである。したがって、私のヴィトゲンシュタイン解釈は、いささかも彼の言わんとすることを不当にゆがめてはいない。

(次回もヴィトゲンシュタイン批判を続けます。)


これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(2)

2013年11月11日 22時39分52秒 | ジャズ

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(2)

 前回、K君と悪友関係になったと書きましたが、途中からA君も加わり、私たちはジャズ好き三バカ・トリオとなります。三人の中では、A君がどちらかと言えばより開かれた趣味の持ち主。私が一番気難しくハードなものを好むタイプ。K君はその中間と言ったらよいでしょうか。ちなみにA君は、ずっと後に、ちあきなおみの素晴らしさを私に教えてくれることになります。
 さて私は、66年の春、横浜の大学に入学しました。横浜は地元だし、中心部の野毛には、日本で初めてのジャズ喫茶と言われる「ちぐさ」があります。もう一つ「ダウンビート」というのがあり、こちらは高校時代からちょくちょく通っていたのですが、大学生になってからは、両方に通うようになりました(授業がつまらないので)。
「ちぐさ」は、おそらく大正末期から昭和初めにかけて青春時代を送ったと思われるハイカラ爺さんの吉田翁が経営していました。十人も客が入るかどうかの本当に小さな煤けた喫茶店ですが、老舗の風格があり、多くのジャズメンたちも訪れています。
 CDやi-podやYou Tubeでいつでもどこでも音楽が聴ける今の若い人たちにはあまり想像がつかないかもしれませんが、ジャズ喫茶というのは、150円から200円くらい取ってジャズのレコードを聴かせコーヒーを出すだけの店です。そういう店が当時都会には何軒もあり、コーヒー一杯で何時間も粘る客がいたものです(私もその口でした)。社交場としての意味はあまりありません。なぜなら、孤独な青年たちが好きなジャズを聴くだけのためにやってきて孤独なまま帰っていくというのが、まあ、この種の店の客の主たる特徴だったからです。だから大きな声を出してしゃべってはいけないのです。有楽町の何とか――ちょっと名前が出てきません――という店、新宿の「木馬」などは、特にこの点がうるさく、有楽町の店では、私たちがちょっとおしゃべりをしていたら、そこのマスターに「坊やたち、静かにしなくちゃだめだよ!」と叱られたことがあります。
「ちぐさ」でも、おしゃべり禁止の規則があるわけではありませんが、そこらへんはみんな不文律として心得ていて、大きな声を出す客など一人もいませんでした。濃くて苦いコーヒーを飲みながら(今にして思うと、これはあまり美味くありません・笑)静かにジャズを聴いていると、そのうち吉田翁が寄ってきて、「そっち、なんかリクエスト!」とぶっきらぼうに言います。レコードのリストがその辺に置いてあるので、それを参考にしてもよし、勝手にリクエストしてもよし、もちろん手を振って断ってもかまいません。
 ちなみに、吉田翁亡き後も「ちぐさ」は相当長く続きましたが、一度店を閉じました。もう永久に失われたのかと思っていたら、なんと昨年、少し離れた場所に移って再開されたのです。今だと、お酒を飲ませたり料理を出したりするシャレた店でなければ客が寄り付かないと思うのですが、復活の「ちぐさ」は、前よりも少し広くなったほかは、どでかいスピーカー、小さなコーヒーテーブル、レコードしか聴かせない点など、昔のままです。野毛商店街の団塊オヤジたちが、亡くすにしのびず、復活させたのでしょう。
ちぐさ:http://noge-chigusa.com/

 高校時代に渋谷のジャズ喫茶をはしごしたと書きましたが、さまざまな曲を聴いた中で、私はソニー・ロリンズに一番ハマっていました。彼の吹くテナーは、男らしく、当意即妙、変化に富み、野心的で自由闊達、じつに独特の節回しです。ロリンズ節という言葉がありました。彼がいなかったら、モダンジャズの世界でテナーという楽器がこれほど注目を浴びることはなかったでしょう。



 もっとも有名なのは、「サキソフォン・コロッサス」というアルバムの一曲目、「モリタート」(「マック・ザ・ナイフ」のロリンズ版)ですが、ここでは、同じアルバム中から、親しみやすいカリプソ風のノリで目いっぱい楽しませてくれる「セント・トーマス」を紹介しておきましょう。彼のオリジナル曲です。

http://www.youtube.com/watch?v=Z4DySQyteRI

 この曲でドラムを叩いているのは、前回紹介したマックス・ローチですが、二人のコンビネーションは絶妙で、もう一つ紹介したい曲に、「ワーク・タイム」というアルバムの、「イッツ・オールライト・ウィズ・ミー」があります。速いテンポでスリリングな絡みを演じていますが、残念ながら、You Tube、ニコニコ動画その他からも取り込むことができないようです(ダウンロードはレコチョクなどからできるようですが手続きが少々面倒)。でもこの曲は絶対おすすめですよ。「ワーク・タイム」自体は、アマゾンなどで安く買えます。
 ロリンズは、軽妙に奔放に吹きまくっているように聞こえますが、じつは自分の音楽追究の志に関しては、けっこうストイックなところがあり、壁に突き当たったと感じると、そのたびに演奏活動を中断してしまいます。長い中断期間の後、おそらく私の大学時代だったと思いますが、インパルスレコードから復活を果たしました。しかしその頃は、テナー奏者としての王座をジョン・コルトレーンに奪われており、往年の輝きはもう見られませんでした。
 なお「セント・トーマス」で短いけれど気の利いたソロを展開しているピアニストは、トミー・フラナガンですが、彼は「オーヴァーシーズ」「エクリプソ」などの名盤を残しています。これらのアルバムについては、またの機会に。

 MJQ(モダンジャズカルテット)について触れましょう。
 このカルテットは、1951年の結成から解散まで20年以上の歴史を持ち、解散以後もファンの熱望にこたえて再結成しています。内部事情はいろいろとあったようですが、これほど長く同じメンバーで結束を保つことができたバンドは、他のジャンルでも珍しいのではないでしょうか。ちなみに、ビートルズは8年で解散しています。
 メンバーは、ミルト・ジャクソン(ビブラフォン)、ジョン・ルイス(ピアノ)、パーシー・ヒース(ベース)、コニー・ケイ(ドラム)。初期には、ドラムがケニー・クラークでしたが、彼の死後、コニー・ケイに代わりました。
 このバンドの特色は、一口に言うと、ミルト・ジャクソンのブルース魂あふれるプレイと、リーダーのジョン・ルイスのたぐいまれなプロデュース能力との見事な結合によって、ジャズ界にまったく新しい雰囲気を持ち込んだところにあります。ジョン・ルイスは、ヨーロッパ・クラシック音楽へのあこがれが強く、それにのっとって楽団全体のトーンを何とも上品で西洋音楽の深い伝統を感じさせるものに仕上げました。この特色は、ジャズをアメリカのものだけではなく、繊細な感覚の持ち主であるヨーロッパ人にとっても魅力あるものとして目を開かせることに大いに貢献したと思います。もちろんジャズのスタンダードナンバーもたくさん演奏しているのですが、ラッパやタイコのやかましい音が耳障りな人にとっては、ビブラフォンという楽器の何ともさわやかで心地よい響きがジャズに対する抵抗感を和らげてくれるはずです。
 しかし、よく聴いていると、ミルト・ジャクソンの即興演奏そのものは、きわめて白熱した情熱的なものであり、その独創的なフレーズのこんこんとわき出るような繰り出しには、まさに不世出の天才としか呼びようのないものがあります。ジャズ界でのビブラフォン奏者はあまり多くなく、彼の以前には、ライオネル・ハンプトン、彼の以後には、ゲイリー・バートンなどがいますが、まったく比較になりません。
 私は、大学1年の時に2回目の来日公演に接することができ、その渾身のプレイにすっかり感動してしまいました。彼は、見た目はまあ、さえない小男なのですが、あのきれいな音の連なりを出すのに、こんなにすごい力を集注させているのかというのを知って、ただただ圧倒されてしまったのです。この時の思い出は、いまでも、芸術って何だろうと考える時の重要なヒントの一つになっているほどです。



 では、お勧めの2曲を聴いてみてください。
 一曲目は、多くのジャズメンが好んで演奏している「朝日のようにさわやかに」。

http://www.youtube.com/watch?v=drxKsX0uI4Y 

 2曲目は、バッハのよく知られた曲の合間にオリジナル曲をはさんだ「ブルース・オン・バッハ」から、「ブルース・イン・Cマイナー」。これはミルト・ジャクソンのオリジナルです。ここでの彼のソロは、まるで初めから完成された曲のようです。

http://www.youtube.com/watch?v=D-_sYoaNVMw

お聴きになってわかると思いますが、これらの演奏では、ミルト・ジャクソンのソロがあまりにすごいので、それに続くジョン・ルイスのピアノ・ソロは、少々かすんで聴こえます。もともとジョン・ルイスという人は、ソロピアニストとしては、そんなに卓越した技量の持ち主ではありません。
 先にも言ったように、彼の本領は、ミルト・ジャクソンという天才を、自分が構想してきた音楽の中にいかに位置づけるかということに心を砕き、その苦労を通して、それまでだれも考えなかったモダンジャズとクラシックとの融合を見事に果たしたプロデューサーとしての才能にあります。2曲目のイントロに、いかにもバッハ風の典雅な枠取りが感じられますね。彼は、クラシック・ギタリストのジャンゴ・ラインハルトに捧げた「ジャンゴ」その他の名曲の作曲者でもあります。クラシカルな香りを基本にしながら、一方で、ミルト・ジャクソンのブルース魂を前面に立てることを決して忘れない、そうしてその融合を実際の演奏で実現させてしまう、そこがとても偉いところです。ちなみに、MJQとは、もともとは、ミルト・ジャクソン・カルテットの略称でした。
 当時の多くのヨーロッパ人たちは、新興大国・アメリカの文化に軽蔑心を抱いていたと思われますが(今でもフランスには、その気がありますね)、まさにMJQの存在によって、ジャズの魅力が彼らの心に深く浸透していったのです。その後、ヨーロッパからは、ジャック・ルーシェ(ピアノ)、ウラジミール・シャフラノフ(ピアノ)、ヨーロピアン・ジャズ・トリオなどのセンスの良いジャズメンが続出していくことになります。




コメント(2)
コメントを書く

2013/08/23 02:29
Commented by ogawayutaka さん
サヴ、ディグ、ありんこ、スウィング、少し離れてデュエット...。みな懐かしい名前です。5年という年差はありますが、当時のジャズ喫茶文化を私も共有していると思います。当時は、わが道を行くという気持ちでしたが、年を経てきますと、案外同じ趣味の人が多かったと聴いて、自分の「独創性」がたいしたことでなかったことに気がつきます。もっとも、放送局やレコード会社にもそういう人がいて、彼らが偉くなって選曲をしてくれるおかげで、いまでもラジオなどでジャズ番組が聴けるわけです。
私の場合、高校一年のとき、桑田慶介の歌などに出てくる、茅ヶ崎のリゾートホテル、「パシフィック・パーク・ホテル」のプールサイドで、アートブレイキーを聴いたのが最初でした。小学校の同級生の親がそこの経営者で、券をくれたのでした(ちなみにそのホテルは菊竹の設計です)。
演奏が始まる前は、勝手なことをしたり言ったりしていた背の高いやせた黒人たちが、ブレイキーの合図とともに、完全にリズムとハーモニーをあわせ、お互いの反応を見ながら即興演奏をすることに感嘆しました。それ以前は、音楽と言えば、小学校の合唱でハレルヤコーラスなどをしていたわけですから、かなりカルチャーショックでした。
その後は、横浜の高校をさぼって渋谷や新宿に出没していたのは、たぶん小浜さんと似ていると思います。あ、小浜さんは放課後ですね。私の場合は、ぐれていたわけですが。


2013/08/23 19:01
【返信する】
Commented by kohamaitsuo さん
ogawayutakaさんへ
 うれしいコメントでした。
 自分の趣味について公開的な文章を書くのは、好きになった女のことをのろけているみたいで、どうも恥ずかしかったのです。ちょっとばかり薀蓄をかたむけても、相手がシンクロしてくれなければ、意味ないですよね。でも、もうそういう年でもなくなったので、友人にそそのかされて、この際やっちゃうか、という気持ちで始めました。これからもどうぞよろしく。
 ogawayutakaさんは、私より世代がだいぶあとのようですが、やっぱりアート・ブレイキーですか。あの衝撃はすごかったのですね。
 続編で、横浜の「ちぐさ」についても書いていますので、よろしければそちらのほうも。
 あまりきちんと調べながら書く気がありませんので、記憶違いが多々あると思います。ボケをかましている場合には、遠慮なくご指摘いただければ幸いです。

倫理の起源8

2013年11月11日 22時33分37秒 | 哲学

倫理の起源8




 哲学の関心を鮮やかな手つきで倫理学的関心に結びつけた最初にして最大の功労者は、言うまでもなくプラトンである。
 だが、じつはプラトンは思想史上最大の詐欺師であるという直観を、私は永らく抱いてきた。
 彼が著作のほとんどで用いた「対話編」の主人公として登場するソクラテスは、言うまでもなくプラトン自身の思想の体現者である。しかし、このソクラテスの言論の運びこそ、巧妙な詐欺師の面目を躍如とさせていて、それは、当時の市民階層でもてはやされた職業の名前を借りるなら、ソフィスト中のソフィスト、弁論家中の弁論家であるといってもよい。プラトンが描き出すところのソクラテスは、自分があたかも無知であるかのように装いつつ、知者を気取る人々を底意地悪く窮地に追い込むたぐいまれな弁論術を用いて、世俗的な価値観を否定する思想理念を徹底的に私たちの頭に注ぎ込み続けたのである。これは偉大な価値倒錯といってもよい。そういう直観が私の頭にずっと宿っていたのである。
 しかし、直観だけでは、説得力を持たないことは当然である。私はこれから、自分のこの直観がどれだけ妥当なものであるかを読者に判断していただくために、少しばかりしつこくプラトンの説くところに付き添ってみることにする。
 なお、詐欺師であるという形容は、必ずしも一方的にその人を貶めたものではない。けだし多くの人びとを言説によってその気にさせるためには、人並み外れた才能と信じられないほどの執拗さとまた自分の思想の正しさを確信する心とが要求されるだろう。その点でプラトンは、奇跡と呼んでもよいほどに、超一級である。だれもこれを否定する人はいまい。

 まず『饗宴』を問題にしてみよう。
 周知のようにこの作品は、演劇祭で優勝したアガトンの家にお祝いのために皆が集まり、宴たけなわに達したころ、医師のエリュクシマコスによって、エロス神を称える演説を順に行うという提案がなされ、みながそれに従い次々に自説を述べるという結構で成り立っている。演説者は、計六人。最後のソクラテスが終えたとき、酔っぱらったアルキビアデスが乱入して、ソクラテスその人の人格高潔ぶりを称えるという形で終わる。
 各人の演説要旨は次の通り。
 まず弁論術の愛好者であるパイドロス。
 エロスは最も古い神である。エロスは、立派な生き方をしようとする人々にとって、門閥や富や名声もかなわない、確実な指導原理を植えつける。それは愛する人々に対する恥の感覚や、命を捨てても惜しくないという勇気の感覚を抱かせるからである。
 次に、ソフィストに心酔しているパウサニアス。
 エロスには上等なものと下等なものと二種類あるので、エロスのすべてが美しいわけではなく、どのような恋をするかによる。住民が能弁でなく、精神的怠惰が支配するところでは、恋は無条件に美しいこととされ、支配者が権力を振るっているところでは、民衆が力を得てはまずいので、恋は醜いものとされる。我が国(アテナイ)では、恋の価値を十分に吟味している。恋をしている者には全面的な自由を許すが、恋される側にとって、それをたやすく受け入れることに対しては、慎重さを説く。エロスは、本人の隷属や堕落を導きやすいからである。相手から知恵、その他の徳目を享受できて、より立派になれるかもしれないと考えて相手の思いを受け入れる場合だけが美しい。
 彼は、恋に対する自国の慣習をほめたたえているわけである。
 次に、医師エリュクシマコス。
 エロスはこの世のありとあらゆるもののなかにある。あらゆるもののなかに二種類のエロスがあるから、人は、よきエロスをつかむために、節度をもって望まなくてはならない。慎みと正義の徳をもって善きことの実現にはげむエロスこそ、われわれに幸福を約束してくれる。
 これもパウサニアスと同様、エロスを直接称えるというよりは、どういうエロスが望ましいかを述べているにすぎない。
 次に喜劇作家アリストパネス。
 自分は、「恋の力」の秘密がどこに起源をもつかについて話す。人間はもともと二身一体であり、「男-男」「男-女」「女-女」の三種類があった。しかしその驕慢がゼウスの怒りにふれ、二つに裂かれたため、互いが互いを激しく求めるようになり、ほかのことに気が回らず、しだいに滅んでいくようになった。ゼウスはこれを憐れみ、隠し所を前に移した。こうして男女が交わることで子供を産めるようになり、男性同士も一緒になることで充足感だけはもてるようになり、仕事や生活に気を配るようになった。エロスとはつまり、太古の完全な姿に戻ろうとする欲望と追求のことである。本然の姿に戻ることが最も尊いことならば、自分の意に最も叶った資質の恋人(片割れ)を手に入れることがエロスの究極の目的となる。
 この説は大変興味深い。ソクラテス説との関係で、後ほどまた取り上げよう。
 次に若き悲劇詩人アガトン。
 自分は、エロス神そのものの性質をはっきりさせなければ、賛嘆できない。エロスは最も年若い神である。エロスは、華奢な体をもち、その足取りは軽く、この世にあるかぎりのもののうちで最も柔らかいもの、すなわち神々や人々の心根や魂のなかに好んで住みたまう。エロス神の最大の美徳は、神との関係でも人との関係でも不正を加えることがないという点である。暴力はエロスとは無縁である。エロス神はまた、慎みの徳も備え、勇気の徳も最大限に備えている。また、芸術における創造、生物の創造の知恵をも備えている。すべての技術(アート)の神々も、エロスの弟子である。
 彼の説は、エロスの本質をすべて素晴らしいものと考えているようで、一般社会との関係における、その危険性を見ていない。贔屓の引き倒しというべきか。
 そして最後に、いよいよソクラテス。彼の先生であったディオティマの言葉を借りる形で、格段に長いエロス本質論を展開する。
 賞賛するよりも大事なことは、問題にしている対象が何であるのか、その真のイメージを正確につかむことだ。エロスはまず、あるものに対する関係としてあり、第二に、自分に欠けているものに対する関係としてある。エロスは、美しいものと醜いもの、死すべきものと不死なるものとの中間的なものである。それは、人間でも神でもなく、「偉大なダイモン」である。それは、神々へは人間からの祈願と犠牲を、人間へは神々からその命令と犠牲の返しを伝達し、送り届ける仲介者の役割をもつ。
 エロスは富を父にもち、貧困を母にもつので、両方の性質を持つ。常に欠乏と同居していながら、美しいもの、よきものをねらう勇気と努力、知を愛そうとする意志をもつ。知は最も美しいもののひとつであり、エロスは美しいものへの恋であるから、エロスは知を愛する者であり、すなわち、知あるものと無知なる者との中間者である。エロス像を、ひたすら美しいものとして思い描くのは、恋される対象のほうをエロスと考え、恋する者のほうに思いが及ばないからである。
 エロスの目的は、善きものを手に入れることによって、幸福になることである。恋とは、善きものと幸福への欲望一般であるから、普通は恋とは呼ばれない金儲け、体育愛好、愛知なども、恋の一種である。自分の半身を探し求める人は、「恋している人」と呼ばれるが、恋の対象というものは、何らかの意味で「善きもの」でないかぎりは、半分でも全体でもない。
 恋のはたらきとは、肉体的にも精神的にも「美しいもののなかに出産すること」である。エロスを抱えるということは、美しいもののなかに何かを生み出そうとする「身ごもっている状態」である。それは、エロスが、死すべきもの(=人間)にとって、善きものを永遠に所有したいと願うことである事実からして、必然的なことである。なぜなら、出産こそは、死すべきものが不死をめざすことだからである。
 人は不死なるものを恋い求める本性をもっている。肉体的に身ごもる者は、子を産むことによって不死と思い出と幸福とを永遠に手に入れようと考える。これに対して、魂において身ごもっている者は、知恵とその他もろもろの美徳を手に入れることを求める。魂において身ごもり、出産する人々は、うつしみの子どもによるつながりよりもはるかに偉大なつながりと、しっかりした愛情とを持つ。それは、より美しく、より不死なる子どもを共有するからである。
 恋の道には、正しく進むべき順序、道筋がある。まず初めは、あるひとつの美しい肉体。ここで美しい言葉(対象をほめたたえ恋の思いを訴える言葉)を生み出さなくてはならない。次に肉体の美しさ一般。ここで、一個の肉体にのみ恋いこがれる激しさをさげすみ、その束縛の力から自由になるべきである。次に魂の美しさ。人間の営みや法のなかにある美を求め、肉体の美しさを些末なものと見なすようにならなくてはならない。次にもろもろの美しい知識へ。そしてこの知を愛し求める究極において、美であるものそのものを対象とする学問に至る。
 人間の肉や色など、いずれは死滅すべき数々のつまらぬものにまみれた姿をではなく、唯一の形相(本質、あるものをまさにあるものにしているもの)を持つものとして、この神的な美そのものを「観る」人間こそが、神に愛される者となる。この人は、徳の幻ではなく、真の徳を産み育てるものである。

 以上が、『饗宴』における演説者の諸説の要約である。
 はじめの三人は、エロス神(恋心)の本質が何であるかに頓着せず、自分たちが通常抱いているこの神のイメージを自明なものとして、恋人の前では恥を恐れて勇敢になるといった付随的な効用を説いたり、エロスはいろいろなあらわれ方をするのでどういう場合にはこの神の力を受け入れるべきかと説教したり、この神とつきあうには節度が必要という忠告をしたりしているだけである。
 五番目のアガトンは、エロス神の柔和と平和を愛する性格や、創造的な性格に着目した上で、それがいかに私たちの生を美しいものにしてくれるかを力説している。恋心の危険性には目をつむっているが、「愛」と私たちが呼び慣わしている現象のポジティヴな面に対する期待感情をよく言い当てているとはいえるだろう。
 問題となるのは、喜劇作家アリストパネスと、ソクラテスの演説である。
 四番目のアリストパネスは、その職業柄にふさわしく、起源神話を語る形で、エロスの真像に迫ろうとしている。一見他愛ない物語を開陳しているだけのようだが、ここには、性愛というものの本質をついた深い洞察がいくつも込められている。
 ひとつは、性愛が、二者の間の強い求心力としてはたらき、それをそのままにすれば浮き世の必要、たとえば仕事や生活などをも忘れさせる閉じた世界を作りうるものであること。これは、日常性を支配する労働と、非日常で特殊な感情的昂揚を伴う性愛とが互いに相容れないものであり、しかも人間はそれらを二つともども抱えているという事実を見事にとらえている。
 もう一つは、エロスが太古の完全な姿に戻ろうとする運動であるとみなすことが、不可能な一体化を求めようとする私たちのエロス感情の巧みな比喩になっていること。これは、一身から二身への分裂によってこの世に生を受け、その個体化の事実を引き受けながら生きざるを得ない人間が、根源的な寂しさという形で、「ひとりであること」をいかに真剣な課題として抱え込む生き物であるかという心的な真実を描き出すことに成功している。
 さらに、アリストパネスは、「自分の意に最も叶った資質の恋人(片割れ)を手に入れることがエロスの究極の目的」であると語っている。これも恋愛感情の本質を言い当てている。恋愛においては、求める側が、あくまでもひとりの相手の心身をめがけるのであり、しかもそこに彼にとってだけの固有の美質を見いだすがゆえにそうするのである。そしてまたそれが「究極の目的」であるという指摘も真相を穿っている。恋愛は、打算や効用のためになされるものではないからだ。
 ちなみに現在の私たちの社会では、色恋沙汰が話題となることが多いが、恋愛について語られたエッセイなどに、「恋愛感情は、もともと一身であった男女が二身に分かれたために互いが互いを求めるようになったところに発生した、とプラトンは説明した」などとしたり顔で書かれているのをときおり見かける。『饗宴』をきちんと読んでいない証拠である。先の要約でも明らかなように、プラトンは、この説をソクラテスに批判させるために、意図的にアリストパネスにこの説を語らせたのである。
 これに対して、プラトンが、これこそはエロスの本質であると考えてソクラテスに語らせた言説のほうはどうであろうか。
 アリストパネスは、『雲』という自作のなかで、戯画化されたソフィストの代表としてソクラテスを登場させ、文字通り雲をつかむような空論が現実に何の役にも立たない様を風刺している。この二人の間に対抗心があったのかなかったのか、それはわからないが、シニカルに現実を見る文学者であったアリストパネスと、理想を追い求める哲学者のソクラテスとが、相容れない気質の持ち主であったことはたしかである。
 ソクラテスの弟子であったプラトンは、おそらくこの二人の和解し得ない違いをよく感じ取っていた。しかも、自作にアリストパネスを登場させながら、彼を揶揄嘲笑するような形ではその人物像を造形せず、むしろ、誠実にかつ正確にアリストパネスの「恋愛思想」を記述したように思われる。そしてその上で、その恋愛思想を超えるものとして、長大なソクラテスの演説をおいたのである。
 先のソクラテスの演説のなかに、「恋とは、善きものと幸福への欲望一般であるから、普通は恋とは呼ばれない金儲け、体育愛好、愛知なども、恋の一種である。自分の半身を探し求める人は、『恋している人』と呼ばれるが、恋の対象というものは、何らかの意味で『善きもの』でないかぎりは、半分でも全体でもない。」という文句が出て来るが、これは明らかに、アリストパネスの説を批判したものである。
 ここにすでにプラトンの意図がはっきりと出ている。アリストパネスは、エロス神、つまりエロスという言葉の概念を、ソクラテス以外の他の演説者と同様、人間が人間に恋をする時の力のはたらきという意味に限定して使っている。しかしソクラテスは、まず「恋とは、善きものと幸福への欲望一般である」と説くことで、初めからこれをもっと拡張した概念として用いていることがわかる。この一般化が、プラトンのイデア思想にいたるための最初の哲学的な手つきである。そして私には、この最初の手つきこそ彼の詐術の大きな第一歩であると思われる。
 なぜこのように「エロス」あるいは「恋」の概念を、ふつう使われるそれらよりも一般的な「人間のあらゆる欲望」という概念に拡張しなくてはならなかったか。そのモチーフを理解するのにさほど時間は要らない。
 ちなみに現在私たちが「エロス」あるいは「恋」という言葉を用いるとき、その概念の主軸は明らかに人間どうしの恋愛感情や性愛感情におかれているが、これを転用して、対象一般への愛、執着という概念で用いることがあることもたしかである。あの曲にはエロスを感じないとか、私はあの山に恋をしてしまったといった表現が可能だからである。
 しかしソクラテス(プラトン)は、そういう単なる比喩的な転用としてこの言葉を拡張したのではなかった。そこには明白な道徳的動機があった。ソクラテス(プラトン)は、その動機を満たすために、ふつうには最も道徳とは関係がないか、あるいはむしろ背徳的とされる「エロス」をも道徳に結びつくものとして籠絡しようとしているのである。
 この拡張の少し前に、ソクラテスは、エロスを「あるものに対する関係としてあり、自分に欠けているものに対する関係としてある」と規定し、さらに「美しいものと醜いもの、死すべきものと不死なるものとの中間的なものである」と規定している。この二つの規定は、エロスという概念を人間の欲望一般ととらえるかぎり、まことに的確な哲学的把握であると言える。
 古代において、この世の森羅万象や人間自身の営みの内在的な力に打たれて、その力に対する不思議や驚きの感じをさまざまな神話的表象で表現するとき、その表現にはその不思議や驚きの肉感的な感じがそのまま保存されていただろう。「エロス」の場合も例外ではなく、それは理性によって「概念」として明確に対象化されるより以前に、自分たちと共にいつも親しく連れ添う生身の恋の魂だった。
 しかしソクラテス(プラトン)は、その神話的な世界把握を、哲学の言葉によってまず破壊する。いかなる神々も、彼にとっては、理性的な述語によって規定されるべき一般的「概念」に変貌させられなくてはならなかった。「普通は恋とは呼ばれない金儲け、体育愛好、愛知なども、恋の一種である」というソクラテス(プラトン)の一般化は、当時の人びとの間で、理性的には漠然と、しかし内在的な生活感情としては生々しくとらえられていたはずの「エロス神」の具体的リアリティを斥け、代わりにそれを、あらゆる対象に対する人間の欠乏感覚という「概念」に読み替える。そして、そうすることで、「エロス」あるいは「恋」という言葉を、哲学的な言語世界の持ち駒として縦横無尽に使いこなせるだけの抽象的な存在者に仕立て上げてしまう。
 この事態を、私たちは、哲学的理性の祝福すべき生成としてただ歓迎しているわけにはいかない。なぜならば、ソクラテス(プラトン)は、この一般化・抽象化の手つきを通じて、「エロス」の概念のなかに「知への愛」を巧妙にも忍び込ませているからである。もちろんこうすることが最初からソクラテス(プラトン)の野心に満ちた狙いであったことは、そのあとのくだりを読めばすぐにわかる。


これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(1)

2013年11月11日 20時21分56秒 | ジャズ

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(1)


 私が高校生以来のジャズファンであることは、以前このブログでもお伝えしましたが(「落語の魅力」http://kohamaitsuo.iza.ne.jp/blog/entry/3108338/)、ある知人からの勧めもあって、ジャズについて書いてみることにしました。といっても、音楽知識に詳しいわけではありませんし、最近のジャズシーンについては、ほとんど知りません。ただ自分のこれまでのささやかな鑑賞履歴に沿って好き勝手なことをあれこれ言ってみようと思います。そぞろ歩き、道草、連想の赴くまま、いつ終わるか見通しなし。読者の皆さんが、この気ままな旅に付き合ってくださって、ジャズに興味を持っていただければ望外の喜びです。

 まず、いま日本でジャズというと、普通はモダンジャズのことを指すようです。けれどもじつはジャズというのは、20世紀初頭にアメリカ南部の都市ニューオーリンズで黒人を中心に発祥してから、すでに100年の歴史を閲しています。その間、多様な発展の仕方をしてきました。初期のラグタイムに始まり、カントリーウェスタン、黒人霊歌、ブルース、クラシック音楽、ブラジル系音楽など、様々な要素が混入して、一言ではくくれない様相を呈するに至っています。
 しかし中心的な流れは、次のようになります。
 ニューオーリンズから、やがてあのアル・カポネが暗躍したシカゴにその中心が移りました。すぐにニューヨークにも波及し、両大戦間に繁栄を謳歌したアメリカ、大都会の歓楽の巷で、ナイトクラブやキャバレーでのダンス音楽として栄えたのです。このころのジャズは、ビッグバンドが中心で、クラシックのメロディアスな要素を取り入れながら、「踊れるジャズ」として多くの人の人気を集めました。白人が大挙して演奏に加わり、当時のポップスとして隆盛を極めたのです。ベニー・グドマン、グレン・ミラーなどが有名ですね。もちろん黒人の名ミュージシャンとしてその名を欠かせない人もいます。デューク・エリントン、カウント・ベイシーは双璧です。前者二人と、後者二人との間には、やはり白人と黒人のスピリットの違いが明白に感じられます。
 やがてこういうビッグバンド系の流れに飽き足らないミュージシャンも出てきました。ダンスのため、一般公衆のための音楽ではなく、自己表現のための音楽を追求しようとした人たちです。若くして死んだ黒人アルトサックス奏者、チャーリー・パーカーがその代表です。彼はビバップという音楽様式を発展させて、強いアクセントをもつハードバップという独自の領域を切り開いていき、今日モダンジャズと呼ばれる流れを作り出しました。彼の演奏は速いテンポでゴリゴリとハードに吹きまくるものが多いので、とても恋人同士が甘い雰囲気で踊るというわけにはいかず、出てきた当時は、一部でひんしゅくも買ったようです。

 モダンジャズの演奏スタイルは、ピアノ、ベース、ドラムのリズムセクション、プラス、トランペット、サックス、トロンボーンなど、計4人から6人くらいの小編成がメインで、これをコンボと言います。このスタイルがジャズ界の一角を占めるようになってからは、かつての主流は、スタンダードジャズと呼ばれるようになりました。
 私は、華やかなビッグバンドにはあまり興味がなく、初めからコンボによるモダンジャズに惹きこまれていきましたので、これから語るジャズ話も、もっぱらモダンジャズにかかわるものです。
 ちょっと我田引水かもしれませんが、いま日本の居酒屋などでBGMとして流れている音楽は、じつにモダンジャズが多いですね。ある年齢以上の日本人には、西洋の習慣である、あの大きなホールで華やかな楽団をバックに踊るというスタイルはあまり似合っていないのかもしれません。私もその口で、モダンジャズの流れるちょっとおしゃれな居酒屋で友と語らいながら、日本酒をちびりちびり、というのが一番趣味にかなっているようです。
 ジャズという音楽形式の基本は、四拍子(フォー・ビート)のリズムで、二拍目と四拍目にアクセントが置かれる形をとります(アフター・ビート、またはオフ・ビートと言います)。これによって独特のスウィング感(躍動感)が出るわけです。その点は、ビッグバンドでもコンボでも変わりません。ロックはエイト・ビートですが、やはりアフター・ビート(三拍目と七拍目に強打)ですから、その点ではジャズのリズム様式を継承しているといえます。なお、モダンジャズも、比較的早い時期からワルツ形式を取り入れたり、ボサノバのようなラテン系のエイト・ビート形式を取り入れたりしています。
 コンボによるジャズ演奏の構成は、一番オーソドックスな形としては、次のようになっています。
 まず、テーマが出てきます。これはたいていの場合、リズムセクションに支えられながらトランペットやサックスなど、ホーンによって奏でられます。トリオの場合は、ピアノが奏でます。曲目は、何でもありです。映画音楽、シャンソン、その当時はやった曲、スタンダードナンバー、ジャズメン自らが作曲したオリジナル曲などなど。
 テーマ演奏が一通り終わると、それぞれのプレイヤーのソロ・パートになります。トランペット、テナーサックス、ピアノ、ベース、ドラムのクインテットなら、初めの三つが交代してソロを奏でるのが標準ですが、ベースソロやドラムソロもあります。ソロパートは、コード進行にのっとった即興演奏です。これは、それぞれのプレイヤーたちの出番ですから、だれがどんなふうに吹いたり弾いたり叩いたりするか、ここがまさにジャズの醍醐味です。ジャズの鑑賞では、クラシックと違って、だれが作ったなんという曲かはさほど問題になりません。プレイヤーの個性をこそ聴き取って、しだいに彼らのファンになっていく。そこがキモです。また、アンサンブルの妙味も大いにありますから、あのグループが演奏しているあのアルバムがいい、というようなかたちでの「好きになり方」もとても大切です。
 ソロパートは、仮にテーマ曲が32小節だったとしたら、これを1コーラスとして、一人が1コーラス分、2コーラス分、というように受け持つわけです。そうして最後にもう一度テーマに戻って終わる。だいたいこういう流れなのですが、テーマに戻る前に、フォアーズと言って、二人あるいは三人による四小節ごとの掛け合いを挟むことも多くあります。これもたいへんスリリングで、聴きどころの一つと言えるでしょう。
 ただし時代が進むにしたがって、こういう形式にこだわらないもっと自由な発想で演奏される曲もたくさん出てきました。しかしこれについては、またの機会に述べることにしましょう。

 さてここで、しばらく思い出に耽らせていただきます。
 1961年、「モーニン」「ブルース・マーチ」で大ヒットを飛ばしたドラマーのアート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズが初来日、日本に一気にモダンジャズブームを巻き起こしました(ファンキーブームと呼ばれました)。



当時私は中学2年でしたが、それまでラジオからシャワーのように流れるアメリカンポップスが日常的な音楽環境でした。パット・ブーン、ポール・アンカ、コニー・フランシス、ニール・セダカ、エルビス・プレスリーといった人たちですね。ちなみにこの人たちはみな白人です。
 そのさなかに入り込んできた黒人ジャズのサウンドは、何かまったく異質で新鮮な興奮を覚えさせるものでした。ことにブレイキーのお得意、「ナイアガラ・ロール」と呼ばれる嵐のようなトレモロ・プレイは、「カッコイイ!」の一言でした。トランペット奏者やサックス奏者のソロ演奏を見事にインスパイアする効果があるのですね。

 ではここで、モダンジャズ曲でもっとも有名な「モーニン」を聴いてみてください。

http://www.youtube.com/watch?v=VKXsnDvILmI&list=RD02eZacqCfAvEI
 当時、家にはテレビがなかったのですが、テレビ放映を見た同級生が、ブレイキーのドラムソロ演奏場面を下から仰ぐように撮るカメラアングルに驚いたと言っていました。なおアート・ブレイキーは大の親日家で、何度も日本に来ており、「オン・ザ・ギンザ」など、日本を素材にした曲も作って吹き込んでいます。
 中3になったころ、兄が大学に入り、さっそく東京の大学文化を家に持ち込んできます。その流れのなかで彼はジャズ・メッセンジャーズのLPレコードを買ってきて聴かせてくれました。学生がLPレコードを買うということ自体、普通の貧乏家庭では、かなり冒険だった時代です。
 これを聴きながら、私はますますジャズの世界にあこがれるようになっていきました。私の実家は横浜ですが、たまたま渋谷経由で東京の高校に通うことになり、裕福でオシャレな趣味の持ち主と浅い友達になります。彼が私のジャズ好きを知って、「四大ドラマー夢の競演」というのがあるから行かないか、と誘ってくれました。マックス・ローチ、フィリー・ジョー・ジョーンズ、ロイ・ヘインズ、シェリー・マン(彼のみ白人)……。今から考えると、ちょっと想像できないほどのメンバーです。まさに「夢の競演」。ただ残念なことに、期待していたフィリー・ジョー・ジョーンズが麻薬不法所持の疑いで入管に引っかかってしまい、出演不能。当時日本で一番人気だった白木秀雄が急遽代役を務めました。それでも私は大満足。モダンジャズ・ドラミングの完成者と言われるマックス・ローチにぞっこんほれ込み、サインを求めて追いかけたのですが、彼は「ゴメンナサーイ」と言って取り合ってくれませんでした。



 それからしばらく経って、ある日の学校の休み時間。たまたま近くにいた一人の同級生K君が、「俺のこの有り余るエネルギーをどう発散しようか」と独り言のようにつぶやいているのに接しました。そばにいたもう一人の同級生S君が、すかさず「ドラムやりゃあいいんだよ」。私はそれを聞いて、「四大ドラマーというのを聴きに行ったんだけど、その時のパンフレットがあるから明日持ってこようか」と言いました。
 さあ、それからがK君と私との悪友関係の始まりです。彼も完全にジャズにはまってしまいました。授業をさぼって音楽室の準備室に勝手に入り込み、タイコのまがい物のようなものを叩きまくったり、スティックを持ち込んで休み時間にかちゃかちゃやったり、放課後、渋谷の斎藤楽器店というところに何度も行ってベースをいじくりまわし、お店の人に嫌がられたり――しかし何といっても、このころジャズ鑑賞に深入りしたのは、当時、渋谷の百軒店に集中していたジャズ喫茶に通いづめた経験です。
 ブルーノート、サヴ、ディグ、ありんこ、スウィング、少し離れてデュエット、なんと6軒もかたまっていたのです。関係ないけど、デュエットでコーヒーを運んでくれたお姉さんはとても素敵でした。MJQ(モダンジャズカルテット)の「フォンテッサ」というアルバムをリクエストした時、「フォンテッサですね」ときれいな声で応えてくれたのをいまでもよく覚えています。
 私たちはこれらの店をはしごしながら、さまざまなジャズメンたちの演奏に接することになります。それについては、次回以降、だんだんとお話ししましょう。

 思い出話はまた折を見て続けるとして、いま取り上げたジャズメンたちの何人かについて、いまの時点での私なりの感想を簡単に述べておきたいと思います。チャーリー・パーカーは、その偉大な功績は認めますが、あまりにゴリゴリし過ぎていて、初心者にはお勧めできません。ほどなく登場したトランペットのディジー・ガレスピーやクリフォード・ブラウンのほうが、まだ聴きやすいかもしれません。二人とも天才的なテクニシャンです。クリフォードは、20代で事故死してしまいました。
 先に、アート・ブレイキーに魅せられてジャズを聴き始めたと書きましたが、彼のドラミングは、いまにして思えば、それほど個性的ではなく、むしろ、親分としての役どころを心得ていて、あまり出しゃばらない黒子的存在と言ったほうが適切です。
 マックス・ローチは、正確無比のドラミングですが、聴きなれてくると、少し定型的で特に伴奏時の遊びの要素が少なすぎる。しかし彼がいなかったら、その後のドラマーたちは存在しなかったでしょう。彼については、ソニー・ロリンズ(テナーサックス)について語るときにもう一度登場してもらいましょう。
 ロイ・ヘインズは、たいへんなテクニシャンで精妙なドラミング。彼はとても器用なたちで、時代が移ってかなりアヴァンギャルドふうな共演者が出てきても、それにきちっと合わせることができる人です。意外と知られていませんが、やはり器用貧乏の気があるのかな。お勧めは、チック・コリア(ピアノ)のアルバム「NOW HE SINGS NOW HE SOBS」の一曲目「STEPS-WHAT WAS」。

http://www.youtube.com/watch?v=Ga-M6LDmZzA

 シェリー・マンは、白人らしい繊細なタッチで、特にブラッシュ・ワークがいいですが、ちょっと迫力に欠けて物足りないか。
 フィリー・ジョー・ジョーンズは、私が一番好きなドラマーです。一見荒々しく聞こえるのですが、いつも計算されつくした演奏をします。ワイルドでありながら、音楽的な完成度が非常に高い。伴奏も出しゃばらず、ソロ・プレイヤーをじつに適切にインスパイアします。また、彼自身のソロは素晴らしいの一言です。マシンガン・ドラムの異名をとっていました。彼についても、マイルス・デイヴィスについて語るときにまた登場してもらいましょう。
 MJQについては、いろいろ語りたいことがあり、ここでは短くまとめられません。次回、自分のライブ鑑賞体験と合わせてじっくり語ってみたいと思います。
 それでは今日はこんなところで。



日本語を哲学する8

2013年11月11日 20時11分19秒 | 哲学

日本語を哲学する8


3節 言葉は思想そのものである


 言葉が本来的に音声であり、そしてまたナマの経験世界(すべての心的な世界も含む)を不断に「虚構」していくところにその特質をもっていることについて述べてきた。言葉の本質をどのように規定するかをさらに突き詰めるためには、次の二つの考え方がもつ難点を克服しなくてはならない。その二つの考え方とは、

①言葉は意思伝達のための「道具(ツール)」であり「手段」である。
②言葉は世界の普遍的真理をあらわす。

 ①の考え方は、ふつう私たちがとっている言語観である。
 ある「意」を伝えようと思ったとき、私たちは自分の属する言語共同体の中で通用している言語規範(ラング)にのっとって語を選択し語順を整えて一定の表現にまで構成する。その場合に用いられる言語記号には、いろいろな制約や疎通の困難さがともないはするものの、「記号を用いる」という事実からして、その記号がナベカマやケータイと同じようなきわめて便利な「道具」であり、意を伝えるという目的にとっての「手段」であることは否定できないように思われる。たしかにそういう側面があることを認めなくてはならない。
 しかし、「道具」とはそもそもなんだろうか。釜でご飯を炊くより炊飯器のほうがいろいろな意味で便利であり有用なので、今ではほとんどの人が炊飯器を用いる。固定電話機やパソコンに比べてスマートフォンは両方の機能を兼ね備えながら小型軽量でいつでもどこでも情報収集や情報交換ができるので、多くの人がこちらに乗り換えている。このように、道具とは生活にとっての有用性という観点から編み出された「モノ」のことを意味する。それはすべて、身体機能の延長のはたらきを担っている。
 また「手段」とは、目的という言葉との関係で意味を持つ概念である。それは、出発点における目論見はすでに描かれており、その上でその目論見を達成するには何を使いどういう経路をたどるのが有効で効率的かという観点にかなう「行動」の観念である。もちろん途中で目的が変更されるにともなって手段も変えられることがあるし、目的が変更されなくとも、こちらの手を使ったほうがよりよいという判断のために、はじめの選択はいくらでも変わることがある。しかし、そのつど目的を満たすための行動であるという関係そのものは変わらず、しかもこの「手段」という概念は、必ず目的とは明確に区別され、目的の概念に従属している。
 さてこれらのことは、言葉の使用という現象にそのまま重なるだろうか。私たちは、「大きい」という言葉よりも「でかい」という言葉のほうが有用で便利であるという理由から、後者を選ぶのだろうか。そうではなくて、特定の生活文脈のなかで自分の思想表現としてはその方が適切であると瞬間的に感じるためにそちらを選んでいるのではないだろうか。
 また、意思伝達という目的にとって、ある表現様式のほうが迅速確実で心的なコストもかからないからといって、人は必ずそちらの言葉のほうを選ぶだろうか。ある言葉の表出の以前に、人はどういう意思を伝えたいのかという目的を前もって決めておき、その目的にいちばんかなう手段として言葉を選択しているのだろうか(そういう場合が多々あることは認めるが)。
 もしそうだとしたら、ある言ってしまった言葉に対していつまでも悔やんだり、感動のあまり思わず驚きや感嘆の言葉を発したり、当てこすりや婉曲表現、皮肉、ユーモアを用いたり、わざわざ長い時間をかけ、工夫を凝らして文学的表現を構築するなどということをなぜ人はするのだろうか。それは、言葉が「意思伝達のための手段」ではなく、むしろそれ自体が「意思伝達=思想」そのものであるからではないか。言葉のやり取りにおいて、目的と手段とを分離して捉えることは正しいやり方だろうか。
 何よりも、言葉をコミュニケーションの「道具・手段」であるとみなすと、次のような克服不可能な問いにぶつかる。
 もし言葉がコミュニケーションの道具・手段にすぎないなら、それはちょうど宅配便のような流通手続きということになる。すると、伝達すべき意思は、まずはじめに固定した荷物として発信者側にあり、それが「言葉」という流通手段を通して受信者側に伝わり、受信者がそれを受け取って梱包を解いてみると、まさに発信者が送った荷物がそのまま受信者の手もとに落ちるという話になる。伝達意思は正確に相手に伝わったことになる。はたして現実の言葉のやり取りはそういうふうになっているだろうか。
 まったくそうではない、と私は考える。
 もちろん、多くの実用的な言葉のやり取りにおいて、できるだけきちんと手続きを踏みさえすれば正確に「荷物」が届くという実感が抱ける場合も多いことは事実である。だから逆に、コミュニケーションがうまく行かないのは、「手段」としての技巧(スキル)がまずいからだという論理が導き出せることにもなる。
 しかし私が問題にしているのは、そういうレベルの話ではない。いくら話術や書き方に高度なテクニックを用いて相手にこちらの意を正確に伝えようとしても思い通りにならないのは、そもそも言語表現というものが「正確に伝える」ということを本旨としていないからだと言いたいのである。それには後述するように、言葉の本質に由来する理由がある。
 とりあえず発話の場合だけに限って話を進めると、発話は、発話者の言葉の選択、発するときの調子、その会話がおかれた生活文脈(時枝の言う「場面」)などによって、受け手の側にどう受け取られるかが千差万別の結果を引きおこす。時枝の言語本質論(言語過程説)では、発話者の言語構成行為から受話者の理解と認識までの一連のプロセスそのものが言葉の本質であるから、当然、聞き手も言語主体である。そうだとすれば、受話者が発話者の意図をどう受け取ろうと、それは受話者の自由にゆだねられているということになる。
 この観点から見ただけでも、特定の言語表現というものがもともと多義性を必然的にはらんでいることが理解されるだろう。

A:私のこと、好き?
B:好きだよ
A:(Bが雑誌を見ながら答えているので、本気で言ってくれてはいないと感じ、いらいらして少し強い調子で)ねえ、もっとまじめに答えて。ホントに私のこと好き?
B:(雑誌から目を離してAに向き直り)好きだよ、ホントに。
A:ホントって、どれくらい?
B:こーれくらい(と、腕を一杯広げて見せる)
A:じゃ、どんなふうに?
B:……どんなふうにといわれても
A:ほら、いえないじゃん(と、ふくれっつら)
B:(少ししつこいなと感じながら)何怒ってんだよ
A:別に怒ってないけどさ……
B:なんだ、ためこんでんのかよ
A:てか最近、なんかちょっと感じるんだよね
B:何を
A:ん? 好きっていってもさ、いろいろあるじゃん。私、マサルのなんなのかなぁって
B:……
A:ガールフレンド? 恋人? まさかただのセフレ?
B:ちょっと、ややこしい話、やめようぜ

 後は二人に任せよう。この会話で、「好き」ということばがキーワードになっているが、その言葉に込めている「意趣」が二人の間でかなりの食い違いを見せている。しかもその食い違いが、「好き」という言葉が伝達されるときの「正確さ」いかんなどにかかっているのでないことは明瞭である。
 食い違いの理由は、第一に「好き」という日本語がもともと多義性をもっているからであり、第二に、この会話が二人の不安定な自我(人間一般)による、感情交流を基礎としているからである。梱包した荷物が相手の手元でそのまま荷解きされないのは、多くの日常会話が、ただの事実の伝達を旨として行なわれるのではなく、互いの気持ち・情緒・感情の交錯を無意識にめがけているからである。
 ハイデガーが言うように、人は必ず気分(情緒)づけられているので、いわゆる理性的な会話というものは、そういうモードについての意識的な共通了解がなされていない場面ではたいへん成り立ち難く、いくらでも話し手と受け手との間の気持ち・情緒・感情の交錯によってあらぬ方に展開してしまう。言葉というものは、そういう本質的要素をもともと持っているのである。
 したがって、この側面からは、言葉を発したりそれを聞き取ったりする行為は、つねに主体どうしの関係をみずから変容させる行為であるという意味を持っている。これは、まったく些細で事務的な事実の伝達、たとえば「書類、ここに置いとくよ」「わかった」といった種類の会話であっても例外なく当てはまることである。言い方しだい、書き方しだいで、相手がそれをどう受け取るかがおおむね予想できる(が、完全に予測することは不可能である)。私たちはこのことをよくわきまえていて、だからこそ冷静なときには相手や状況にあわせて表現に気を遣うのである。
 つまり、言葉はただの「道具」「手段」ではなく、そのつどの言語主体である話し手、聞き手の思想表出そのものなのである。現実の言語表現においては、表現の形式と表現されている内容との分離独立ということはありえず、両者はつねに不可分一体をなしている。ソシュールの「葉っぱの裏を切らずに表を切ることはできない」という巧みな比喩が成り立つゆえんである。ある表現を使ったときには、その表現の形がすなわちそのまま表現の内容なのである。「あっちにでっかい象がいたぞ」と「向こうに大きな象さんがいるわよ」とでは、「思想」が違うのである。
 この、言葉は思想表出そのものであるという私の言い方のうちには、言語使用が、いっぽうでは経験を伝達する行為であるという側面をもつと同時に、他方ではまさにその行為を通して、主体どうしの情緒表現による関係変容をつねに行っているという側面ももっていること、この二重性がすでに含まれている。言葉が単なる伝達機能を果たす手段であるという表層的な捉え方の欠陥を指摘するために、ここでは特に後者の側面を強調しておく。
 ちなみに、以上の記述で時枝の言語本質論を援用した。彼の本質把握には、つねに主体の運動としてダイナミックに言語を捉えようとする独創性が活きているのはたしかである。だが、時枝の言語本質論は「言語=道具、手段」説を批判するモチーフを秘めているにもかかわらず、ある部分ではそれを許容してしまいかねない不徹底さを持っている。というのは、発話者―受話者のやり取りの過程そのものが言語の本質であると言っただけでは、言語を単なるコミュニケーションのための「形式」「流通手段」というように一方的にひきつけて解釈する危険を免れ難いからである。
 現に時枝自身が、言語の本質を説明するのに、「水を導く水道管のようなもの」とか「金銭の授受における為替手続きのようなもの」といったたとえを使っている。これらはまずい比喩である。ここで「水」や「金銭」に相当するものが「思想」なのだとすれば、「水道管」や「為替手続き」であるところの「言語」は、思想とは自立して、思想を運ぶための単なる形式・手段へと落ち込んでしまう。時枝は思想と言語の関係について深く考えた形跡がなく、その意味では彼の言語本質論は、ややナイーヴに過ぎるものであったといえよう。

倫理の起源7

2013年11月11日 19時45分06秒 | 哲学

倫理の起源7





 ところで、「神と人との関係から道徳性を説いた中世的な立場」のほうが、ハイデガーの「ただ神だけを抜き去って」道徳性を説こうとする立場よりは、まだましである。
 というのは、およそ「神」と名づけられる表象あるいは観念が、その神をいただく共同体の成員にとって生き生きと実感できる状態においては、「神」という名前は、共同体を束ねてその現実的秩序を踏み固めるための、強力な象徴的意義をもつからである。それは、じっさいに「神」が道徳性実現の可能根拠となっている事態を意味している。そこでは、歴史的・風土的に「神」という表象あるいは観念が生活意識に深く浸透しているため、日常性において道徳や良心の根拠を「神」に求めることが、ごく自然なわざとなっている。
 わが国では、よくキリスト教圏に住む人々のメンタリティや倫理的支柱の特色を「神に個人として向き合う」態度と理解して、その点に自国民との相違を認めようとする。しかし、この「神と個人との向き合い」というメンタリティそのものが、じつは、共同体の精神を象徴する存在としての「神」という伝統的な観念を基盤にしているのであって、このことは、キリスト教が古代ユダヤ教の地域性を克服して世界宗教となった後でも変わりがない。彼らキリスト教文化圏の住民にとっては、「神」という表象それ自体が、生々しい生活上の習俗や民族的エートスと切り離すことができない存在感をもっている(いた)のである。
 つまり彼らにとって、「神」とは、ことさらに超越的な観念ではなく、実生活から地続きの共同体の精神そのものにほかならない。だから、「神に個人として向き合う」と言っても、それはだいたいにおいて日常道徳的なものと「私」との関係を語っているにすぎない。超越的な神と孤立した個人との絶対的な対峙というような悲壮めいたものではあり得ないのだ。
 彼らは、共同体の伝統的な習俗のただなかで「神と向き合っている」のであって、別に孤立した個人として神に対峙しているわけではない。だから、道徳性は、現実には伝統的な習俗を通しておのずから一人ひとりの心中に顕現するので、その点では、私たちの文化圏と共通していると言ってよい。
 ところで、ニーチェの言うように、もしほんとうにヨーロッパにおいて近代と共に「神が死んだ」のだとすれば、それは同時に、いままで述べてきたことから明らかなごとく、キリスト教文化圏の人びとにとって、ごくふつうの生活レベルで道徳性の究極根拠が失われたことをも意味するはずである。
 とはいえこの事態が、はたして一般の西欧人にとってそれほど深刻な事態であったのかは疑わしい。ニーチェの言い方もキャッチーであっただけに、多分に大げさである。しかし少なくともキリスト教という強固な宗教性を精神的支柱として思索を深めてきたヨーロッパの一部知的階層にとっては、その宗教性の衰弱や喪失が大きな危機を意味したことは疑いない。彼らのその空白の場所にこそ、ハイデガーのような「個人の死の自覚=良心の呼び声の発するところ」という形而上学的な道徳思想が忍び込んでゆく余地があったと言えよう。
 なぜなら、「神と個人との向き合い」という観念を、習俗としての生命力とは別個に、(知識人がよくそうするように)図式的な型としてだけ受けとるなら、論理的に言って「神の死」と共にもはや良心の声を神から聞くことが不可能となるので、声の発する場所を、「個人」としての自己の内面に求めざるを得ないからである。そしてその「個人」は、世人の頽落状況にけっして惑わされることなく「最も自己的で、他者とかかわらない可能性=死」とひとり向き合う現存在の「本来性」に立ち帰った個人でなくてはならない!
 言い換えると、ハイデガーの言う「良心の呼び声」とは、まさしくキリスト教的信仰の希薄化した近代における、「神」の補完物なのである。
 だがハイデガーの見込み違いは、この点にこそあった。
 神といい、仏といい、およそ宗教的な超越存在は、その淵源をたどってみれば、まとまりのある共同体の統一を象徴する「観念」にほかならない。だからその草創期においては、どの成員にとっても等しく妥当する道徳性の根拠を僭称することができる。だが複数の共同体の交雑や、一方の他方に対する圧服、一共同体の膨張と分裂などがひとたび起きて、この観念が純粋素朴な姿を維持できなくなるやいなや、ある特定の神仏の観念は、単純に道徳性の根拠とは言えなくなる。
 しかしだからといって、道徳性の根拠や必要が消失してしまうわけではない。なぜなら、たとえ観念としての神や仏が死んでも、現実の人間は生きており、彼らは互いに交渉しあい、紛争しあい、問題の解決を求めあうことを止めないからである。道徳は、この人間たちの実践的な交渉のうちから必然的に立ち上がるのであり、この実践的な交渉に先立って道徳の絶対的な観念があるわけではない。
 だから「良心の声」は、ハイデガーが考えたように、「神」を見失って孤独のなかに屈折し、おのれの死を「追い越し得ない可能性」として凝視せざるを得なくなった個人の「内面」から聞こえてくるのではない。それは、人間の本質としての共同存在性からおのずと生成するのである。言い換えると、多様な欲望を交錯させながら互いの共存を求めあう人間存在の「関係」への執着、別離をそのままでは認めようとせずそれを克服しようとする意志のうちに、その発生の必然性をもつのである。

 私たちは、道徳の根拠を求めるに当たって、善の対立概念としての「悪」がいかに規定されるか、「良心の疚しさ」という心理的概念がどのようなときに意識を占領するかという問いから出発した。その結果、「悪」とは、これこれの具体的な意志や行為によって輪郭づけられるのではなく、主体が自分の存在の根拠を置いているところの共同性に反する意志や行為一般を指す概念であることがあきらかとなった。これは、ひとりの人間個体の心の発達過程をたどるところからも確認されるし、また人類史の過程で共同体の成員がどのようにある意志や行為を「悪」であると感じ取ってきたかをたどるところからも推定される。
 また、「良心」とは、個人がいつもそれに自覚的に従って行為しているような積極的な規範観念ではなく、他者との間で関係行為におよぶとき、「これは許される行為か」という疑念として意識上に兆す「心理」である事実を見た。ある意志や行為が「善」に悖るのではないか、それをなせば自分は良心の疚しさにとらえられるのではないか、という不安に満ちた問いが発せられるときにのみ、「良心」はおのれの顔をあらわにする。
 そして、その疑念や不安が配慮の対象として選ぶのは、たとえそれらがただおのれひとりの内面にとどまっている場合でも、共同存在としての人間世界以外ではあり得ないこともたしかめられた。
 以上のことでひとまず何を言いたかったのか。
 まず第一に、確立された道徳においては、そのほとんどの内容を形成しているのが、悪しきことを「してはならない」という禁止や制止の体系であって、よきことを「せよ」という勧告や命令の体系ではないということである。たとえば、「友だちとは仲良くせよ」とか「人には親切にせよ」といった、一見積極的な勧告や命令に見える道徳命題も、むしろ「友を裏切ってはならない」とか「他人に冷酷であってはならない」という戒めにこそその真義が宿っている。
 そして第二に、その「してはならない」の声は、共同存在としての私たちが互いに他者とかかわりつつある実践の現場に発生の根源的な場所をもっているということである。
 さらに考えを進める。
 これらの指摘が正しいとすれば、道徳的な「善」という言葉で私たちが何を表現しようとしているかが、おぼろげながら見えてくるであろう。それはひとことで言うなら、「人間関係が互いに平和裡に運ぶような生活上の現実を作り出すこと、またそれが維持されている状態」の謂いである。
「善」とは、このように、本来は、共同性が乱されない事態、あるいはそれが乱されないようなシステムが整っている現実的な状態のことであって、何かそれを実行すれば特段の栄誉を勝ち取れるような行為とか、崇高な理念とか、至高存在の意に叶うような精神のあり方といったものではない。
 哲学者たちは、この点について思い誤ってきたのである。彼らにとって「善」とは、たとえばいま挙げたような積極的な行為や精神でその実質が満たされているようなものでなくてはならなかった。この思い誤りの主たる理由は、次のところに求められる。
 すなわち彼らは、「善」と名づけられているものが何かある以上、それは勇気、誠実などのもろもろの徳目を根拠づける一定の超越的な「観念」であって、その観念の本質は何かしら美しい内容で占められているはずだという錯覚を抱き続けたのである。
 だが「善」とは、そもそも共同存在としての人間の生活を離れたところに自立的に成り立つような「観念」ではない。それは人間生活がうまく回っていることやうまく回そうと努力していることを示す「現実」の表現である。哲学者たちは、「善」を何か特別の「観念」であると思い違えたために、これに対して、「善のイデア」とか「最高善」といった形而上学的な屋上屋を重ね、もともと見えにくいものをいっそう見えにくくしてしまったのである。
 もちろん、とりわけて崇高な行為とか、気高い精神のあり方といった概念は成り立つし、これらの概念を、「善」の範疇に収めることにまったく異論はない。しかしこれらの行為や精神が選ばれた人びとによって発揮されるのは、だいたいにおいて、本来的な「善」が欠如しているような特殊な状況下においてである。飢えた子どもたちでいっぱいの難民キャンプでの必死の救援活動、あわや危難に遭いそうになった人たちを命を張って助けようとする人、限界状況のなかで、冷静沈着に、命の優先順位を他人に譲る人、莫大な財産のすべてを福祉組織に寄付する人、中国の儒教のように、世があまりに乱れたためにそこから必然的に立ち上がる人倫思想、等々。
 これらの例外的な事態においては、もともと現実自体が「善」の欠如態としてあらわれているので、選ばれた個人の善行や言葉がひときわ目立つのである。
 しかしたとえば、わが国の伝承において、仁徳天皇が山の上から民の暮らしぶりを視察し、竈から煙が上っていないことを貧しさの証拠と見て仁政を行った後、再びの視察であちこちから昇る煙を見て満足したという逸話などは、仁徳天皇の功として語り伝えられているが、仁政を仁政として理解し、天皇の御意を素直に受けとって生活向上の努力を払ったのは、一般の民である。天皇に「善意志」があったことは疑いないが、その善意志を現実に支えたのは、一般の民の日常的な善意志にほかならない。
 たとえばあなたが、今日決められた時間に起き、朝食を食べ、通勤電車に乗って会社に赴き、一定の業務にたずさわって、特に支障もなくそれを終えて退社し、同僚といっぱいやって帰宅し、食事をしながら妻と四方山話をしたりテレビを見たりしてから入浴して寝たとする。あなたは取り立てて「善行」と呼べるようなことを何も行わなかった。自己犠牲的な振る舞いにおよんだわけでもない。しかしだれかを傷つけるような「悪行」に手を染めたわけでもない。
 またあなたの勤める企業は、健全な競争が行われている市民社会のなかで、法の網の目をくぐって悪徳商法に手を出すこともなく、堅実な業績を上げている。あなたはその業績を上げるために、自分に与えられた役割をきちんとこなした。
 このことであなたは、じつはじゅうぶんに「善者」であったし、道徳的だったのである。けだしあなたは、この一日で、私人に対しても公共性に照らしても「良心の疚しさ」を覚えるべき意志や行為に何ら踏み込んだわけではなかったからである。
 またあなたはこの一日で、何か特別に「善い」行為をしてやろうと考えたわけでもない。だからあなたのなかに心理的な要素としての「善」が含まれていなかったこともたしかなところであろう。しかし少なくとも、法的に公認された一社会組織という共同体の公正な社会的活動の流れに乗って、あなたはその流れを少しだけ押し進めるという行為を行った。意識としての「善」がそこに浮かび上がらなくても、行為としての「善」は果たされているのである。
「善」とは、もともとこのようにひそやかで慎ましいものである。それはいたるところで実現していると言ってもいい。
 もっとも、「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉があるように、そうした「善意」の累積が社会構造としての「悪」を生み出すことはいくらでもあり得る。しかし、この反論に対しては、第一に、「善」と「善意」とは必ずしも重ならないこと、また第二に、ある共同性の範囲内で「悪」ではないと信じられている意志や行為が、より広い、または別の視野に立った場合には「悪」を生み出すこともあるという指摘で答えたい。
 前者について解説を加えるなら、「善」とは、個別の心理や意志ではなく、あくまでも共同性の構造としての状態であり、「善意」とは、各個人が主観的に「善いつもりになっている」ことである。この主観的に「善いつもりになっている」ことは、普遍的なレベルでの「善」に重なっていることもあれば重なっていないこともある。
 だからカントは、実践理性(道徳心)の至上命法として、「あなたの意志の格率が、常に同時に普遍的な律法(注:ここでは理性によってうち立てられるべき道徳法則を指す)の原理として妥当するように行動しなさい」という歯止めを置いた。
 カントの道徳論については、のちに詳しい検討を加えるが、彼は感性的な欲求の充足としての幸福や快が、そのままでは道徳的理性につながらないことを過度に警戒していたし、また道徳法則が成り立つとすれば、それは自然法則のように絶対に客観的なものでなくてはならないと考えていた。だから、常人には不可能なこうした厳しい命法によって、理性の要求するところを形容せざるを得なかったのである。
 だが「善」という概念を私のように解釈すれば、各人の「善意」が(「欲求」でさえも)、普遍的な「善」と図らずも重なっていることは現実にはいくらでもあり得ることに気づくはずである。けだし「善」とは、「普遍的な律法の原理」として妥当するような各人の理性的な「善意志」の算術的集積ではない。各人がおのれの存在のふるさととしているところの共同性が、あらゆる意味において乱れや不安定を胚胎していない状態を「善」と呼ぶのである。もちろん、こうした定義からの必然として、その状態においては、各人の欲求もじゅうぶん満たされていることになる。

 少し結論を急ぎすぎたようである。
 再び確認すれば、私の説くように、たとえ「善」という概念が際だった特別の「観念」ではなく、人間生活においてすべての日常的な関係がうまく回っているという事態そのものを指すのだとしても、それは、各人の非理性的な利益追求や幸福追求の結果として偶然に出現するのだとは言えない。そこには、カントの説く「純粋実践理性」のようなものではないにしても、生活のなかに「善」がうまく出現するための、人間的配慮の原理がはたらいているはずである。それはいったい何かということをつきとめるのが、本稿の目的である。
 しかしその前に、この倫理学的な問題に強い関心を示した何人かの思想家・哲学者の説くところを、詳細に吟味・検討するという長い道のりが控えている。
 また私たちは、「よい・悪い」という表現を、必ずしも道徳的な「善悪」の意味で使うばかりではなく、他のいろいろな局面においてもこの表現を多用する。それらの表現と道徳的な意味での「よい・悪い」との関係はどのようになっているのかという問題も詳しく検討してみなくてはならない。

中国人ってどんなふう?(その2)

2013年11月11日 19時22分22秒 | エッセイ

中国人って、どんなふう?(その2)



 前回のブログで中国人について書きましたが、おかげさまでなかなか反響良好で、美津島明さんからはびっくり仰天の画像つきコメントを送っていただき、またある学識者の方からは、有意義な情報を送っていただきました。これらに接するうち、いろいろと思い出したこともあり、もう一回、中国人の国民性について書きたくなってきました。
 美津島さんのコメントは、中国のファミレスでなぜサラダバーが廃止されたかという理由をヴィジュアルに示したものです。サラダバーは、ヴァイキング式で、一皿にどれだけとっても自由ですから、中国の普通の人たちが、この特典をどのように利用したかということを知るには、こういう画像を見るのがいちばんですね。

http://labaq.com/archives/51796775.html

 二つだけ、ここに転載しておきましょう。



 こうなると、あきれる以前にまず爆笑ものです。「あっぱれ、すばらしい文化だ」とさえ言いたくなる。どれだけたくさん、どのように積み上げるかについてのレクチャーまであったそうです。これを「醜いエゴイズムだ」「なんて厚かましい連中だ」などと、道徳的な尺度で裁断しても、あまり意味がないでしょう。しかしこれ、その場で食べきれるはずがないから、持って帰るんでしょうな。
 昔から、中国料理って、食材の種類も量もすごいですよね。何でも探してきて調理して食べちゃう。自然の味を生かして、なんて考えてなくて、すべて人工的に手を加えた上で食べます。これも過酷な環境下で生きてきた人たちの知恵ではないでしょうか。もちろん、その高度な技術の成果もあり、たいへんおいしいわけですが。
 上のデコレーション・サラダも、単にたくさんほしいというだけではなく、「自然のまま」ではいやで、加工せずにはいられない、そういう歴史的無意識の志向性がはたらいているように思われます。
 何でも調理してと言いましたが、じつは人肉も食べてきたという話は有名です。
 これは、すでに故人となられた仏教史研究の泰斗、元東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんから直接聞いた話ですが、あの文化大革命のころ、殺戮した死体があまりに多くてきちんと葬っている余裕がないので(その気もないので)、処理のために人肉市場ができ、一部の街中で平気で売られていたそうです。人肉にも特上から並まで何段階もあり、「若い女のもも肉」などという札のついた肉は一番高く売れたとか。やっぱりおいしいんですかね。

 次に、ある学識者の方の情報です。これはいろいろありますが、四つほど簡単に紹介させていただきます。
 
①私が出会った中国人の中で、首都大の某先生(女性)は率直な方です。会ったとき、「先生、中国はいつ分裂しますか?」と質すと、涼しい顔で、「十年後ね」、とお答えになった。そして、「日中は商売と人間交流だけで十分ですね」と畳みかけると、「それ以上になにがあるの、先生」と逆に言い換えされました。

②中国のトヨタ法人は車が売れても、買った人間がローンを払わない、よって、やくざの取り立て屋を雇うしかない。この費用が馬鹿にならない。

③中国人留学生は、学力はそれなりにあっても、概ね、頭が固い。
 以前、北京の学会で、与謝野晶子が当初は反戦主義者だったが、その後帝国主義者になったという大学院生の発表がありました。私は、反戦主義者というのは「君死に給ふことなかれ」を言っているのでしょうが、これは反戦ではない、単に弟に死んでほしくないと思って作ったのではないか。また、政府もこの詩の発表を許している。ということは、国民の不安と悲しみを晶子で代償させるくらいのことを明治国家は考えていたのではないか。それを追究した方が生産的ではないか、だいたい晶子に何々主義などないでしょうが、と質問したら、後で、先生は何々主義で研究されているのかとしつこかった。

④かの湾岸危機の際、ケンブリッジ大学に留学していた人間から聞きましたが、ある時間、大学内のパソコンが中国人留学生に占拠され、他の人間は使えなくなっていた。理由は、彼らが世界中にメールを発信して、情報を収集していたのです。日本人留学生は、大使館情報とテレビなどに頼っていた。

 以上の話から総括できるのは、やはり彼らは、自分とごく近い身内しか信用していないということです。そしてこの感覚を貫くためには、身内と他人との間にはっきり線を引き、あくまで身内が満たされることだけを目指す。他人のことを忖度する気などもともとない、ということです。
 昔、内村剛介という思想家がいましたが、私は若いころ彼の講演を聞いたことがあります。そのときも中国人の話が出てきました。日本人が靴を脱いでどこかに上がったら、すぐにそれをもっていこうとした中国人がいた。「おいおい、何をするんだ」ととがめたところ、中国人は、にっこり笑って、「だってあなた、これ、身から離したんでしょう?」と答えたそうです。
 最近も、春節(中国の正月)の折、ある男性が一年間苦労してためた虎の子のお金を入れた財布を道路に落としてしまった。散乱した札を見た通行人たちがよってたかってつかみ取りして、持って行ってしまった。後で返してくれたのは三人くらいだったそうです。ちょっと日本では考えられないことですね。ふつうみんなで拾い集めてその場で返してくれるよな。
 もう一つ。最近中国では偽装離婚が流行っているそうです。なぜかというと、夫婦共有の不動産を売ると、20%税金を取られる。3000万円なら600万円ですね。単身者が売っても税はかからない。そこで一旦離婚して不動産を売却してから、もう一度婚姻届を出す。窓口もこのやり方をよく承知しているそうです。
 こういう話をもう少し延長して考えると、じつは彼らの生活感覚にとって、「国家」という超越的な共同性など、何ほどのものでもない、ということを意味します。私たちは、一連の反日行動などに、いわゆるナショナリズムの強さのあらわれを感じてきたかもしれませんが、どうもそうではないようです。昨年の例の反日デモがじつは官制で、デモ要員が日当をもらっていたというのは有名な話ですね。それが独裁政府の思惑を逸脱して、一部で反政府デモとして暴徒化したわけです。政府は慌ててこれを鎮圧しました。
 何しろあんなに広く人口の多い国ですから、国としてまとまろうとしても無理です。地方は地方で勝手にやっているらしい。共産党政権はともかく見せかけでも統一を図るのに並大抵ではない苦労が必要になりますが、それもきちんとできているのかはなはだ疑わしい。
 中国の一般民衆には、たとえば「日本」という共通の敵を見つけて国家としてまとまろうなどという気ははじめからないのです。自分や自分の身内の為になるなら商魂たくましく、汚いことでも何でもやる、それが彼らの動かしがたい信条でしょう。だから「自分の信条」ももたずに中立的に他者理解を深めようといった日本型知識人のような「うるわしい」心構えの持ち合わせはない。
 いまは亡き思想家の吉本隆明氏はかつて、国家としてのまとまりを「共同幻想」という言葉で形容して、その大きな力と対峙することに思想的な意味を見出しました。しかし、こんな概念はそもそも中国人には理解不可能でしょう。まさしく国家など「幻想」以外のなにものでもない、そんなことは言うも愚かなことだ、利用できるならその時々に「国家」権力も大いに利用しようではないか、それが彼らの本音であるように思われます。

 それにつけても思い出すのが、数年前に見たテレビ番組の一コマです。これもなかなか驚きです。
 番組は、中国の小学校(都市部の、かなり裕福な階層の子女が通う学校のように思われた)での、学級委員長改選のプロセスを克明に追ったものでした。クラスは三年生だから、主人公は、八歳くらいの可愛い盛りの子どもたちです。立候補者は、男子二人、女子一人で、何日間かの選挙運動期間が与えられます。その期間、小さな候補者も選挙権者も、この運動のために相当な高揚感に支配されます。休み時間に他のクラスメンバーに対して、「僕(私)に投票してくれ」というかなり粘っこい説得工作が行われるのです。それぞれの候補者は真剣そのもので、自分が委員長としていかにふさわしいか、対立候補者がいかにふさわしくないか、などを露骨にアッピールします。演説文に細かい推敲を重ね、出来上がったものを一生懸命暗記します。
 クラスの中では自信たっぷりに見える彼らも、家に帰ると、まだまだ甘えん坊です。勝てる自信がないことを両親に訴え、小さな胸を悩みでいっぱいにしている様子を示します。両親もまた真剣に対応する。それは助言やアドバイスといった域をはるかに超えています。こぞってその子のためにいろいろな戦略戦術を考えてあげ、演説文に手を入れたり、毎日風呂上りに練習させたりします。対立候補を攻撃するために、よきリーダーであることとファシズムの違いについて教え、対立候補の日ごろの態度がファッショ的であるという弱点を持つことを演説でたくみに訴えるように指導します。
 そればかりではありません。わが国の大人の選挙なら確実に公職選挙法違反に該当するようなことを親が平然とやるのです。一方の父親がコネを使って「ゆりかもめ」のような電車を貸切にし、一周ツァーに生徒全員を招待するかと思えば、他方は生徒が喜びそうなグッズをわんさか買い集めて、みんなに配ります。
 さていよいよ投票の日、決戦のための演説。「みなさん、僕はクラスみんなのためによきリーダーとして尽くします。よきリーダーとファシズムとの違いを知っていますか。だれだれ君(と対立候補の名を指し)にぶたれたことのある人は手を挙げてください。」相当数の子どもたちが挙手します。「これで、ファシズムとは何であるか、説明しなくともわかりますね。」現職の対立候補も負けてはいない。「ぶったのはルールを守らないからです。クラスの秩序はとても大切です。」結局、現職が大差で勝利。本気で泣きじゃくる敗者に、先生が抱きしめながら教訓をひとくさり。
 この流れは、現在の情報でも確かめることができます。
 http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=47196
 前回、知人の「これでは尖閣問題では日本は負けるよなあ」という嘆息をご紹介しましたが、ここでも同じことが言えそうですね。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』をまねれば、「これまでの中国史は、権力闘争の歴史であった」。たぶんこれからもそうでしょう。

 最後にくどいようですが、もう一度繰り返します。私はこれらの情報によって、けっして嫌中気分を煽ろうというのではありません。「友愛の海」などとバカなことを言った宇宙人もいましたが(まだ地球にいるか。迷惑だな)、こういう国とはつきあう必要がないのなら、つきあわないのがいちばんいい。しかし、何しろ隣人なので、引っ越すわけにもいかず、そこそこ付き合わなくてはならないのだとしたら、よくよくその本音を見抜くしたたかさを持とうではないか、と主張したいのです。 
 私たちは、とかく国際舞台では、相手国を性格のはっきりした一個人のようにみなしがちです。しかし少なくとも中国を、「反日でまとまっている大国」などと見る必要はありません。じつは近代国家として体をなしていず、利害打算と権力志向のぶつかり合う大集合体にすぎませんから、意外に脆弱な面もあると思います。何かのきっかけ(経済が一番大きいでしょうね)で、ばらばらに解体する可能性も十分あるのではないでしょうか。
 そういう時、私たちは、言われなきとばっちりを受けないように、見くびらず、相手の土俵に乗らず、つかず離れずの冷静な構えを貫くことが何よりも大切と心得ます。


コメント(2)
コメントを書く

2013/07/23 03:01
Commented by miyazatotatsush さん
小浜逸郎様

中国人が人肉を食べるという話は私も聞いたことがあります。
これはかの小室直樹大先生が書いていたのですが、古代中国で、ある地方長官が、視察に来る中央の高官をどのようにもてなそうかと思案していたところ、その長官の娘が、「それではわたしがお父さんのために犠牲になろう」と覚悟し、と聞けば日本人なら、一夜妻にでもなったのかと思うところ、油が煮えたぎった鍋に飛び込み、人間唐揚げになって、父親としてはさすがに忍びないものを感じつつも、なってしまったものは仕方ないので、娘を視察の高官に振る舞い、これが美談として、石碑まで建てられたという話を紹介していました。
ロシアでも第一次大戦中に窮乏のため、人肉市場が立ったことがあるそうですが、中国の話はこれとも別に聞こえます。宦官の文化とも繋がるものを感じます。琉球にもさすがに宦官どころか、動物の去勢の文化すら入りませんでした。
これを「野蛮」というのは、見方を変えれば、違う「文明」の洗練を知らない思考かもしれませんね。人肉はけっこう美味のようです。私は食したくはありませんが(笑)


2013/07/23 12:14
【返信する】
Commented by kohamaitsuo さん
miyazatotatsushさま
コメント、ありがとうございます。
そういえば司馬遷は宦官でしたね。則天武后が世継ぎのために政敵の手足を切って見せ、これは「人豚」というものだ、お前のためにやってあげたのだと言ったという話も有名です。何しろやることがけた違いで、日本人の感覚ではまともにつきあっていられない。おっしゃる通り、単に「野蛮」と見るのではなく(それならむしろ扱いやすいでしょう)、恐ろしい方向に発展していったひとつの「文明」のかたちと見るのが正しいのだと思います。あのサラダ・タワーも何やら芸術的ですね。


中国人ってどんなふう?(1)

2013年11月11日 19時13分33秒 | エッセイ

中国人って、どんなふう?(1)


 いま、嫌中ムードがこの国の一部で盛り上がっているようです。まあ、これは、この間のかの国の中枢部が日本に対してとってきた政治的態度を見れば、ある意味、当然とも言えましょう。しかし、あまりに単色の感情によって一国家、一国民の全体をとらえるのも考え物です。
 と言っても、私は別に、隣国とは縁が深いのだから仲良くしましょうといった、形式的なきれいごとを言いたいのではありません。また、以下の一文が、嫌中ムードをいたずらに煽る結果にならないことを祈ります。かの国の挑発にうかうかと乗らない理性的な姿勢を維持することが最も国益にかなうと信じるからです。
 これから私が述べることは、一人の中国人に接した自分自身の経験談と、ある年配の中国研究者の方からの伝聞です。これをここにご披露するのは、関心が深まっている当の国の国民性の一端を知ることを通して、私たち日本人が中国人とどういうつきあい方をするのが賢明かという問題に一ヒントを提供できれば、という思いからです。異文化理解の一例だと受け取っていただければさいわいです。
 ちなみに、ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、戦勝国アメリカが敗戦国日本の国情をいち早く研究した書として名高く、戦後の日本でも長くベストセラーの位置を占めていました。「罪の文化と恥の文化」というわかりやすい区別は、たいへん有名になりましたね。一部に、この書は日本を見下した本だといった感情的な反応があるようですが、私はそう思いません。そのような受け取り方自体が、敗残コンプレックスに裏付けられた幼稚なナショナリズムを露呈しています。
 昔この本を読んだ時の私の感想は、まずその冷静で客観的な記述に感服。こういう「敵をよく知るための本」を書かせるアメリカという国の戦略性は、さすがだというものです。日本人もこの態度を見習うべきだと思いました。私たちは、関心を持つ相手国の国情を知って、見下すのでもなく卑屈にすり寄るのでもなく、また、その奇異に思える特性をただ面白がるのでもなく、あくまで冷静に「その国民性をよく理解する」必要があります。そうして、その他者理解を今度は自分たちに照り返させて、自己認識を向上させていく必要があります。それこそが本当の意味での「勝利への道」でしょう。

 さて本題です。話は数年前にさかのぼります。
 私はある大学の学部で講義をしていますが、この学部は、その性格上、アジアからの留学生がたいへん多いのです。中国人もたくさんいます。ある年、単位認定のためにレポート課題を出し成績をつけたのですが、一人の中国人留学生(女性)が、自分の成績評価について相談があると申し出てきました。聞いてみると、相談の概略は次の通り。
 自分はこの大学を卒業して祖国に帰り、就職しなくてはならないが、そのためにぜひともいい成績を取りたい。先生(私のことです)は自分のレポートに「良」をつけたが、自分は何としても「優」がほしい。何とかならないか。
 私は、内心、「良」でなんで不服なんだと思いながら、その学生のレポートを前に置いて、残念ながらこれこれこういう理由で「優」をあげるわけにはいかないと説明しました。すると彼女はすかさず、「それはよくわかりました。それでは、再履修してもう一度挑戦したいので、不可にしてください」と言います。私は、せっかく「良」に値する成績を取っているのに、そうもいかない、学生全体に対して公正な評価をするという大義名分もあると答えたのですが、彼女は納得しません。なおも粘ります。
 そこで私「でも、私は来学期、辞職しちゃうかもしれないし、もしかしたら死んじゃうかもしれないよ」
 彼女「それでもかまいません。どうか落としてください」
 私はついに根負けして、「ではそうしましょう」と答えました。
 話が前後しますが、私に相談を求めてくる前、彼女は当時私が主宰していたあるイベントのための掲示板のURLをしっかり探り当て、そこにぜひとも相談したいことがあるという書き込みをしていました。ちなみにこのイベントは、大学とは何の関係もありませんし、彼女がこのイベントに興味を惹かれたわけでもありません。
 さて来学期になり、予定通り彼女は再履修し、レポートを提出しました。読んでみたところ、やはり「優」をつけるところまでは行っていないというのが私の正直な判断です。どうしようかと悩みました。ここで再び「良」をつければ、彼女は必ずまた「相談」に来るだろう。このやり取りを延々と続けなくてはならないのか……。
 私は再び根負けして、えい、めんどうな、「優」にしておこうと決めてしまいました。めでたし、めでたし。
 私は、この学生の「ずうずうしさ」を非難したいのではありません。彼女は、あくまで礼儀正しく、きちんとした態度をとっています。しかしその交渉の情熱、粘り強さが並ではない。もちろん、すべての中国人学生がこうだと言いたいのではありません。大半は、日本人の目から見てもごく普通です。しかし、日本人学生には、まずこういう人はいないだろうな、ということは確信をもって言えそうです。
 ずうずうしいと言えば、日本人学生にもずうずうしいのはいます。たとえば、レポートを出すのに、ネットからの丸写しをする学生がけっこういるんですね。臭いと思って検索するとすぐばれます。これは事前に「そういうのは落としますよ」としつこく注意しておくのですが、にもかかわらず後を絶たないので、ここでも私は「根負け」して、途中からレポートによる単位認定をやめてテストに切り替えました。
 中には、ネットに載っている私自身の文章を平気で丸写ししてきて、しかもそれだけではなく、「なんで落としたのか」と、クレームをつけてくるのまでいます。まあ、こういうのは、ずうずうしいというよりは、アホ学生と言ったほうが適切かもしれませんが。
 ところで、この話をある酒席でしたところ、ひとりの知人が感に堪えたように言いました、「それはひとつのエピソードにすぎないのだろうけれど、それを少し拡張して考えると、尖閣問題では日本は負けるな」。
 一旦定めた自分の目的を達成するためにはどこまでも粘る中国人学生と、ネット丸写しで単位さえもらえればいいやと高をくくっている日本人アホ学生。たしかに、このコントラストを見ると、知人の嘆息には、リアリティがあります。しかし、ことが国家主権の問題となれば、あきらめてはいけませんね。「根負けした」日本人の私も含めて、これからよくよく相手を見習って、粘り強さを身につけていかなくてはなりません。

 中国研究者の方のお話は、三つあります。
 ひとつ。彼がアメリカの大学で教えていた時に、ある優秀な中国人留学生のその後の落ち着き先について、お世話をしたのだそうです。いろいろと四方八方にはたらきかけてあげて、まあ、ほぼ確実だという心証を得たので、本人に、「八割がた、大丈夫だと思っていいよ」と告げました。日本人なら、これを聞いて、まず一安心と感じるのがふつうでしょう。ところが、その学生にとっては、八割がたという言葉が問題なのですね。「あとの二割はどうすれば確保できるのか」ということにしつこいこだわりを示して、そのためにさまざまな行動をとったそうです。自分のこれからの運命に対して、確実な保証がぜひほしい、という情熱のあり方において、先の学生と共通していますね。
 二つ目。中国には、そもそも「汚職」という概念がないそうです。たとえば、役所が10億円の公共事業を発注するとします。受注した企業は10億円支払うわけですが、実際の工事費として使うお金は1億円。中間でみんなが取ってしまうことは当たり前ということになっています。これでは、手抜き工事をせざるを得ませんね。これは古来からの「慣習」というものであって、別に「汚職」ではないわけです。恐るべき官僚支配社会。官僚になれば、もう勝ち。
 三つ目。ビジネス交渉が成立し、こちらはきちんと仕事をしたのに、支払いをなかなかしてくれない。いつ支払ってくれるのかと気をもんでいても、日本人って、そういう催促のようなことをなかなかしにくい慣習に染まっていますね。そのまま我慢していると、いつまでたっても払ってくれないそうです。半年くらいはざら。これは支払う側に資金がないのではない。ちゃんとそのための資金を用意しておきながら、引き延ばせば引き延ばすほど、その資金で金利が稼げますから、一定の金利を稼ぐことをちゃんと見越していて、目標額まで稼いだ段階でようやく支払う。これも当然とみなされている。
 ですから、対中ビジネスでは、受注契約の段階で、必ずいついつまでにいくら支払うということを、きちんと文書で合意しておかなくては絶対ダメ。それをしないのは、売り手のほうが悪いのだということになります。

 さて、以上のことを一口にまとめると、中国人は、信頼できるのは自分と自分の身内だけで、あとは信用できないのだから、自分をしっかり守らなくてはいけないのだ、という観念が骨身に沁みついていると言えそうです。相手からの保証を確実に取っておくのでなければ、自分の身はけっして守れない。この徹底的な自覚がどうやら彼らの国民性の核心を表わしている。日本人のように、何となく相手を信頼してしまうというようなお人好しではないのです。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」――お笑いですね。
 このような国民性ができあがったのには、やはり大陸の歴史の苛酷さが関係していると思います。めまぐるしい王朝の交代や異民族どうしの激しい争い、権力や賊によって理不尽に生活を踏みにじられてきた民衆の記憶、近代国家の統一など成立しようもない多民族、多地域の入り乱れた利害の衝突……。彼らはいやおうなく「他人を信じてはならない」という感性を身につけるに至ったのだと思われます。日本とはなんという違いでしょう。
 いまでもかっこうだけの中央独裁政権はありますが、対外的には何とか一枚岩のように見せてはいるものの、内部の実態は、すでに大混乱の兆しが見え始めていると言っても過言ではありますまい。憲政史家の倉山満氏が指摘するとおり、中国は権力闘争、王朝独裁権力樹立、内部矛盾の深化、反乱気運の高まり、内戦状態、そしてまた新しい王朝の樹立というサイクルを繰り返してきたのですね。これは今後も変わらないでしょう。

 この際、言葉の問題にも少しだけ触れたいと思います。もっとも私は中国語はまるでわからないのですが、言語学上の問題でよく指摘される事実をご紹介しておきます。
 中国語は、その形式の上から「孤立語」と呼ばれています。高校の漢文で習ったように、文字表現としては、漢字がぱっ、ぱっと並んでいるだけですね。ですから、日本の歴代の漢学者は、あれを書き下し文にするために、ものすごい苦労をしたのだと思います。『論語』などは、いまだに解釈が定まっていない部分がたくさんあります。
 中国語には、日本語のように助詞、助動詞(国語学者・時枝誠記の言う「辞」)もなければ、欧米語のように格変化、時制、前置詞に相当するものもありません。「彼は今度アメリカに行きます」(He will go to America.)は、中国語では「彼、今度 行く、アメリカ」というようにまるでカタコトみたいな表現になってしまいます。それでも通ずるのが不思議と言えば不思議ですが、これでずっとやってきたのだとすれば、この言語の特徴には、国民性との間にある深い関連があるのではないでしょうか。
 音声による日常生活語のレベルは、私にはわからないのですが、どうも中国では、指示的な言語による疎通への信頼度はもともとそんなに強くなくて、それ以外の非言語的な表現(表情、身振り、声調その他)による疎通の占める割合が大きいのではないかと考えられます。ですから、ごく近い身内の間には強い信頼関係が成り立ちますが、外に対してはおいそれとは通用しないことがはじめから了解されている。そこで指示的な言語としては、細かいニュアンスを伝える必要がなく(もともとできず)、一般形式を備えていれば十分、ということになるのではないか。だから「核心的利益」とか「泥棒」などというデリカシーのまるでない強引な言葉が国際社会に向けて平然と発信されるのではないか。
 みなさんは、毎年北京で行われる全国人民代表大会(全人代)の光景を見たことがありますか。あの大会では、各委員が演説をしますが、会場は妙に静まり返っています。それは各州から集まってきた代表たちには、演説を聞いてもその内容がわからないからなのだそうです。音声としての共通語が確立していないのですね。もちろん、演説内容をそのまま記した漢字による書類があらかじめ配られていますから、それで支障はないわけです。
 これはニワトリ―タマゴみたいな話ですが、他人どうしの相互不信が当然だからそういう言葉になったのか、そういう言葉だから相互不信が助長されるのか。まあ、両者は連関関係にあるとしか言いようがないでしょう。
 いま述べてきたことには、それほど確信があるわけではありませんが、少なくとも日本人の伝統的な感性からは、かなり共感的な理解の難しい国(果たして国と言えるのか?)なのだ、ということだけは言えそうです。関係者の方は、この難しさをしっかり胆に銘じて中国と接してほしいと思います。



コメント(1)
コメントを書く

2013/07/21 01:49
Commented by 美津島明 さん
小浜逸郎様。
次のURLで、中国のファミレスでサラダ・バーが廃止されるに至った経緯が述べられています。ぜひ、コピペをしてごらんください。一驚したのち、ため息をつくはずです。
http://labaq.com/archives/51796775.html
この、ふつうの日本人からすれば、二の句が継げなくなるなるほどの厚かましさ、良く言えば、たくましい生命力は、彼らの持ち前のものであると考えます。これを正面からマトモに相手にするのは、淡白な日本人にとって、大変なことです。こうしたずうずうしさや厚かましさに処するうえで、相手の良識に訴えたりそれを期待したりするのは下策でしょう。怒り心頭に発し、消耗し、ついには根負けしてしまうのがオチだからです。そうではなくて、あえてドライにクールに、言い訳のきかない数値などをきちんと設定してそれを遵守するよう言質を取るのが上策なのではないかと思われます。それ以上のことは相手に期待しない。中国との外交は、「人と人とはあくまでもどこまでも違う」という中島義道的なスタンスで臨むべきなのではないでしょうか。そうすれば、そういうドライでクールな接し方も可能になるのではないか。そんなことを考えました。もちろん、数値設定のできない外交案件がたくさんあることは確かなので、この「上策」が万能でないことは確かだとは思います。


日本語を哲学する7

2013年11月11日 18時30分32秒 | 哲学

日本語を哲学する7


 ところで、言葉が「虚構」であるなら、それはいかようにも既成の世界のあり方を変容させ、歪曲することも可能だということになるだろうか。言い換えると、言葉というものは、真実あるがままの表現ではなく、もともと「ウソ八百」であることを本質としているということになるだろうか。
 これは、半分は正しいが、半分は間違っている。そこまで突っ走らないためには、「虚構」ということの意味合いをより厳密に考えてみる必要がある。
 半分正しいというのは、「ウソ」という現象が言葉の世界でのみ起こりうるということをみなよく知っているからである。言葉を離れた世界、つまり自然現象、身体現象、行動そのもの、知覚世界、喜怒哀楽などの情緒世界、心像(記憶、空想)、幻覚、夢のなかの表象など、これらには、ウソの可能性はまったくない。それらは、肯定するも否定するもなく、ただとにかくそういうものとして存在するに過ぎない。
 心像、幻覚、夢のなかの表象などは、現実と違うから虚偽ではないかという人がいるかもしれない。しかし、そもそもこれらの現象をそのように言葉で名づけることができたのは、私たち人間が、それらを直接経験している心的な現場を何らかの形で超越した地点に立てるからにほかならない。
 空想に耽っているとき、何かのきっかけがあってわれに帰れば、ただちにそれが「空想」であったことに気づくし、夢体験を真実と思い込んでいても、目覚めればすぐにそれが「夢」であったことに気づく。私たちの意識はそういう時間差による気づきをいつもしているので、その気づきの地平から、それらの経験を「空想」とか「幻覚」とか「夢」などと名づけることができているのだ。
 しかしそれらは、直接経験の時点においては、それぞれの様式的な特徴を帯びたウソ偽りのない現象そのものである。哲学者・大森荘蔵の言葉を借りるなら、それらはすべて知覚と等価な「立ち現れ」なのである。
 これに対して、言葉の世界では、それが「虚構」であるという原理上からは、いくらでもウソに満ち溢れることが可能である。ウソは「嘘」と書く。口で言われたそらごとのことである。あるいは、「そらごと」とは「言われたこと」以外のところには存在しえない。現に悪意がなくてもウソは日常たえずつかれているし、ウソも方便とか口実という言葉もあり、空々しい儀礼表現にも事欠かない。相手のことを思いやってのウソということさえある。
 ウソとはそもそもなんだろうか。
 ふつうこれは、「事実と異なることを言うこと」と解釈されている。もちろんそれで大過ないが、では事実とはいったい何か、だれにとっても絶対に確かな事実というものがあるのかと問われたら、これに答えることが意外に難問であることに気づくだろう。「藪の中」という有名な小説もあり、離婚訴訟における夫婦双方の言い分の極端な違いなどは、この難問の難問たるゆえんを示してあまりある。
 ウソとは、語り手がみずからの直接経験の現場から離れてその経験について言葉で再構成しようとするときに、主観的な意図の有無にかかわらず、ほとんど不可避的にともなわせてしまう直接経験との食い違いのことである。
 ここで「直接経験」という言葉は、必ずしも「事実」という言葉とは重ならない。それは先に述べた心像や幻覚や夢であってもかまわないのである。儀礼のあるものや励ましの言葉などが時として「ウソっぽい」と感じられるのは、語り口の不自然さが目立つためで、この場合にはその不自然さの背後にあると想定される語り手の「心意」のあり方が彼の直接経験なのである。
 いま私は、ウソを定義するのに、「ほとんど不可避的にともなわせてしまう直接経験との食い違い」と言い、「必ずともなわせてしまう」とは言わなかった。「必ず」ならば、本当に言語コミュニケーションの場はウソ八百の世界になってしまうだろう。しかしこの社会は、多くのウソに満たされながら、時にはウソであることを暗黙のうちに了解し、また時には善意の疎通のためにわざわざウソを利用しつつ、互いの言葉を真実であると信頼しあうことで成り立っている。
 つまり同じウソといっても、その流通の仕方には量的な差と質的な差があり、いわば私たちは、ウソのグラデーションの世界を生きながら、それらのひとつひとつにある格付けを与えているのだといえる。
 このグラデーションの世界が具体的にどういう仕組みになっているかはたいへん厄介な問題なので、ここでは素通りしておこう。さしあたり問うべきなのは、次の二点である。

①語ることがほとんど不可避的に直接経験との食い違いを含むならば、互いに言葉を信頼することは何によって保証されるのか。

②「言葉は虚構である」という命題は、言葉はすべてウソだと捉えることと何が違っているのか。

 ①について。
 これは表面的にはいろいろな言い方ができる。語られるときの真剣そうな口調や身体像、これまでのつきあいを通して築かれてきた信頼関係、相手の社会的信用度、言われていることの心当たり感、文書による取り交わし、語り手が発する言葉が語り手自身にとって自然の理にかなうと聞き手の側が感じること、等々。
 このように羅列してもきりがないし、いまいち決め手を欠くだろう。ひとまとめにして言えば、言葉のやり取りにおける信頼を支えているのは、自分は善意でかかわっていると自覚しているし、相手も善意の持ち主であると確信できるということである。
 しかし、こう言っただけではほとんど同語反復に近い。ただちに、ではなぜそのような自覚や確信がもてるのかという問いが出てくるだろう。この問いを、そもそも「善意」とは何によって成り立つのかと言いかえてもいい。
 この場合、自分が自覚している「善意」と、相手のうちに読み取れる「善意」とは共通のものだという視点が大事である。つまり相手を信頼しながら言葉を取り交わす行為の根底には、同じ共同性を生きているという情緒的な了解の基盤があるのだ。
 そこで、議論をもう一歩進めるためには、ちょうどホッブズが社会契約論を打ち立てるために設定した「自然状態」のように、この共同性の情緒的な了解が壊れたらどうなるかと、話をひっくり返してみる必要がある。するとそこにあらわれるのは、それぞれが共同性から追放されて孤立するという危機意識であろう。だれからも眼をかけてもらえなくなること、存在を承認されなくなることに対する恐怖といってもよい。これあるがゆえに、私たちはさまざまな関係に向かって自分を開こうとするのだし、とりあえず相手を積極的に信頼しようとするのである。
 商取引は、必ず言語行為を含む。このやり取りにおいて、それぞれの動機となっているのは自分自身のそのときどきの利益追求であるという考え方が一般的である。これは、主観的にはそのとおりだが、ではただ相手が喜ぶかどうかも考えずに暴利をむさぼればいいのかというと、ふつうはあまりそういうことは賢いこととはされない。長年商習慣を積んできた人々は、「結局は正直で誠実なのがいちばんいいのだ」「お客様に喜んでもらえるのが何よりもうれしい」などと述懐することが多い。
 ここには、「情けは人のためならず」――つまり、自分の行為が相手にとっても利益になる(幸せにつながる)のでなければ、最終的には自分自身を損なうという視野の広い(賢い)智恵、自分は共同性によって支えられているのだという人間認識がはたらいている。正しく理解された功利主義の精神である(なおこの功利主義という言葉はたいへん誤解されているので、いずれこのブログの『倫理の起源』シリーズで誤解を解きほぐすつもりである)。
 だから、自分が共同性からの追放を恐れるなら、まずは相手の言葉を信用するのでなくてはならない。そして心を開いてそのことを態度によって示すのでなくてはならない。こういう原理が言葉の交流には必ず作用していると見てよい。

②「言葉は虚構である」という命題は、言葉はすべてウソだと捉えることと何が違っているのかについて。
 虚構という概念は、一般的には、空虚なところに何かを作り上げることというように解釈されている。しかし、実際に言葉を交わす場合には、どんな場合でもその言葉が発せられるべき具体的な状況というものが背景と前景に必ず存在する。国語学者・時枝誠記は適切にもこれを「場面」と呼んだ。場面は、聞き手の存在をも含んでいる。そのことに着眼するかぎり、ある発話が何もない空虚なところからいきなり立ち上がるということはあり得ない。
 しかし私がここであえて「虚構」という言葉を用いるのにはわけがある。場面はもちろん空虚ではないが、空虚なものがちゃんと存在するのである。それは「自己」である。
 先に、ウソとは、直接経験とそれを再構成した言葉との間に生ずるほとんど不可避的な食い違いであると述べた。ウソがいくらでも生ずる可能性があるのは、直接経験と言葉との間に「自己」という空虚なものが挟まっているからである。
 実際、言葉をかなり使えるようになった幼児は、それと自覚しないで、よく適当なことを吹きまわる。それを親は心配して「ウソをついてはいけません!」などと叱る。その教育的配慮は理解できるが、反面、言葉を使いこなすということは、ウソがつけるということとほとんど同義なのである。ウソがつけるようになったということは、状況に埋没しない自由な「自己」が成立したことを表わす。
 言葉が使えるということは、直接経験から身をもぎはなすことができるようになったことを意味しており、この直接経験からの離脱可能性こそは、「人間」になるための条件なのである。そして、直接的状況からその状況についての表現までのプロセスに自由な「自己」が介在するのだが、その「自己」の内容は何かと問われれば、それは内容空虚なものだと答えるしかない。状況から自由である「自己」とは、まさにただ状況からの自由を確保できているというそのことを示すだけで、それ自身は何らの内容も持たないのである。
 言葉がモノやコトや感覚や情緒(時枝はこれらを言語の「素材」と呼ぶ)を抽象するものであるかぎり、それがこれらの「素材」をそっくりそのまま映すということはあり得ない。これは、ある事物に対するどんなに精密な指示作用として言葉を使ったとしても、免れようのない事実である。そこにいくらでもウソが入り込む余地がある。言語主体の自由が介在しているからである。
 しかしでは、言葉が「虚構」でありながら、実際にウソではない場合というのはありうるのだろうか。もちろんありうる。では、それを識別できる条件とはなんだろうか。
 それは唯一、語り手が属する言語共同体が彼の言葉を「ウソではないこと」「本当のこと」として承認するということである。先に言葉への信頼の条件を成り立たせるものは共同性からの追放の恐怖であると述べた。主観的にはこのような情緒的要因として捉えられるものが、客観的には共同体が彼の言葉にお墨付きを与えることによって、初めてそれがウソではないものとしての信頼を勝ち取ることとして捉えられるのである。
 物足りないと感じる読者もいるかもしれない。真実は真実、ウソはウソとする明確な識別の根拠がどこかにあらかじめあるはずだと思いたくなるのが人情だからだ。しかしよく考えてみよう。
 地動説の前には天動説が真実だった。たくさんの人たちが自分にとっての真実を訴えながら、ウソつきとか冒涜とか破戒などの烙印を押されて死んでいった。唯物論と自然科学の隆盛は、かつて自明だった「神」の存在を疑わせるに至った。冤罪で苦しんでいる人々が世界にはたくさんいる。地球温暖化というウソ(と私は思うが)は、いまや国際的には真実と認められて政治問題として大手を振ってまかり通っている。対立関係にある二国間での歴史認識が一致したためしはない。
 このように、時代や社会のあり方、つまり共同性のあり方によって真実とウソとは、いくらでも入れ替わるというのが歴史の教えるところである。
 どんなに本当のことを説いたつもりでも、残念ながらまわりが認めてくれなければけっして真実とはされないのである。人を説得することがいかに困難であるかは、私たちが日々経験しているところである。真実とは、もともと言葉で表現されたこと、つまり「虚構」されたこと以外の何ものでもないからである。
 しかし、私は相対主義者ではない。別に真実の絶対的な根拠が示されなかったからといって不安になる必要はないのである。私たちは「理想」として、いつも真実を求めているにはちがいないのだ。重要なことは、言葉が「虚構」であることを深く覚りつつ、その上で自分にとっての真実が「ウソではない」ことを認めさせるにはどうすればよいかをたえず工夫することである。あなたが真実を訴えようと思うなら、言葉を磨く以外に手はないのだ。

「天皇陛下、万歳の」意味について

2013年11月11日 18時19分17秒 | エッセイ

「天皇陛下、万歳」の意味について


 私の知人で、酔っ払うと、「天皇陛下、万歳!」と叫んで呑み屋だろうとどこだろうと、そこらに寝転がってしまう人がいます。この人は、けっして単純な右翼というわけではなく、政治思想史についての学識がたいへん豊かで、しらふの時には冷静に戦前・戦後社会や現代社会の状況を分析し、私などもいろいろと教えられることが多いのです。
しかし、お互い酒席で面倒くさい議論をしていると、いちいち相手の話についていけなくなることってありますよね。彼は飲みっぷりがいいので、真っ先に酔っぱらって、「もうめんどくせえや、天皇陛下、万歳!」となるわけです。
私は、これを何度か見ているうち、この「万歳」というのは、どういうニュアンスなのだろうかと、ヘンなことに興味を覚えました。ふつう、万歳というのは、「めでたい」「すばらしい」「最高だ」という喜びの表現と解されています。しかし、どうもそればかりではないな、と思いあたったのです。「天皇陛下、万歳!」は、「天皇陛下が最高!」という意味でしょうか。それほど単純ではないな、と。
「万歳」って、欧米語に訳せるんですかね。「Bravo!」とはちょっと違うでしょう。
というのは、少年時代、国会が解散されるのをラジオで聞いていると、議員がみんな万歳三唱をやっているのですね。今でも気乗りがしない様子でやっているようですが、当時は相当気合が入っているように聞こえました。で、なんで解散されることが、「万歳」なんだろう、なんで解散がめでたく喜ばしいんだろうと、子ども心に不思議に思ったわけです。衆議院が解散されるというのは、今やってる議論では議会が行き詰って立ちいかなくなったから、もう一回国民の信を問い直そうということですね。それが彼らにとって単純に喜ばしいはずがありません。選挙をやれば負けちゃう党もあるわけですから。
 昨年の11月に野田佳彦前首相が「ヤケクソ解散」をした時にも、じつは彼は心の深層で「万歳」という声を聴いていたように思われてならない。
「万歳」を叫ぶとき、私たちは、もろ手を上に挙げますね。あれは、万歳という言葉のニュアンスと不可分一体なのではないか。私たちはどういうときにもろ手を上げますか。すぐ思いつくのは、ピストルを突きつけられて「Hold up!」と言われた時ですね。アメリカ人はこういわれた時、もろ手を高く挙げるのではなく、頭の後ろに組むようです。
 私が何を言いたいのか、もうお分かりと思いますが、この「万歳」という言葉には、「もうこれ以上悩むのはやめた、あきらめた、勝てっこないからあなたにすべて私の命をゆだねます」という意味合いがあるのではないか。
 こう思いはじめると、この言葉の語源をどうしても知りたくなってきます。手元にあるありったけの辞書で調べてみると、第一の意味としては、どれも「末永き世」とあり、第二の意味として、「めでたい、喜ばしい」とあります。ここまでは問題ありません。しかし三番目くらいに必ず「どうしようもない、お手上げだ」と出てきます。用例としては、「この数学の問題は万歳だ」。
 やっぱりねと思っていると、ある辞書には、第二の意味の転用と書かれています。でも私はこの「転用」という解釈を疑います。おそらく万歳にはそういうニュアンスがはじめからあるのです。でなければ、文字通り「お手上げ」するはずがないでしょう。「お手上げ」は、「近代的個人」の無力の告白ですね。
 もう一つ興味深いのは、「ばんざい」は古語では「ばんぜい」と読み、それには、「貴人の死を忌む」という意味合いがあったということです。これもあまりにたいへんなことが起きて悲しくてやるかたないので「ばんざい」するしかないということだと思います。
 要するに、現世ではどうにもならないと感じるとき、日本人は「自分たちを超えて時は悠久に流れるのだ。その悠久に身をゆだねよう。万歳(末永き世よ)」という気持ちをこの言葉に込めているのではないでしょうか。そう考えると、なんだかこの言葉には、ただのめでたさや喜ばしさではない、何とも言えない宿世の哀しみが込められているようにも思われてくるのです。「もういいよ、負けたよ、マッカーサー万歳」

 話を天皇陛下に戻しましょう。
 敗北必至が予感されていた先の大戦で、多くの英霊が「天皇陛下、万歳」と叫んで(ある場合には心静かに呟いて)散華していったことはよく知られている事実です。
 私自身は、こと政治思想に関しては自称機能主義者で、あまりこういう国家観念に自分を憑依させる感性の持ち合わせがありません。大東亜戦争はどんな情緒的な意味づけを施そうが、日本史上最大の失敗であるという認識をいまでも持っています。
 戦争を始めた以上は、最大限合理的にふるまって、いかに勝つかを考えなければ意味がないし、勝つ算段が立たないのなら、いち早く失敗を認めて、できるだけ国民の犠牲を少なくするための和平工作にエネルギーを注ぐべきだと思います。日本人(ことに保守派と呼ばれる人たちの一部)のダメなところは、敗北や死の予感という文学的・情緒的な問題を政治・軍事問題に混入させて、時の政治的軍事的判断を後付けで自己肯定化(美化)し、両者をうまく区別できなくさせてしまうところです。
 しかしいっぽう、私は、日本という国のまとまり、その礎としての国民性を考えるとき、天皇という存在は非常に重要な意義を持っているとも考えています。それで、あの英霊たちがこのように叫び、あるいは心の中で呟いて散って行った事実のうちには、たまたま有限の時と所を得た自分が、これ以上いくらさかしらに考えてもどうしようもない、あとは悠久の時を体現しておられる方にすべてを託すほかないのだ、という万感の思いが込められていたのではないか、と思うのです。
 日本人が、伝統的にあきらめがよいとか、執念深い歴史意識を持たないとは、よく言われることです。これはおそらく、先の大戦以前に、民衆レベルで徹底的に痛めつけられ、鍛えられた経験があまりなかったことに由来していると思います。この文化的な伝統のあり方は、いまの国際社会の現状に照らし合わせてみるとき、長所でもあり同時に短所でもあります。この特性が、「天皇陛下、万歳」という言葉によく象徴されているように思うのです。そうして、この特性は、今後もあまり変わらないのではないか。
 先の知人が教えてくれたことですが、江戸時代というと、天皇は京都に引っこんでいてほとんどその存在すら知られていなかったというイメージを私たちは抱いています。ところが、じつはそうでもなく、全国の庄屋レベル(かなりのインテリでしょう)では、天皇崩御の際には、粛々と忌みごとを施行していたそうです。田中何とやら女史などがもてはやされたバブル期の江戸ブームでまき散らされたイメージは、もしかしたら間違っているのかもしれません。
 私は、今後も日本国民にとって天皇・皇室の存在意義の大きさはそんなに変わらないと確信しています。近いところでは、東日本大震災における今上天皇皇后両陛下の身を捨てての振る舞いがいかに被災者たちに感動を与えたかを見てもわかりますね。ふだんはひっそりとお暮しになっていても(最近は公務が多すぎるようですが)、いざというとき神主の長としての出番がある、これが皇室の変わらぬ伝統です。日本はもともとそういう祭政分業(役割分担)を民のために活かしてきたのであって、どんな戦後サヨクも、これを根底から否定することはできなかったのです。
「天皇陛下、万歳」は、個人の死を正当化する「美学」として叫ばれるとき、その哀しみはわかるにしても、政治的には無力です。しかし、その「万歳」に込められた意味を私たち自身がよく咀嚼し、それを自分たちの宿命であると自覚しつつ、直面する国際社会の理不尽さのなかでどう活用していくか、そのような思考ルートを持つことが、いま切実に求められているのではないか、と愚考する次第です。

倫理の起源6

2013年11月11日 18時03分49秒 | 哲学

倫理の起源6


 ところで、ハイデガーは、『存在と時間』のなかで、「良心の声」が聞こえてくるメカニズムを次のように論説した。
 すなわち、人はだれでも、日常生活の時間と空間において、空話と好奇心とあいまいさの支配する「頽落」の状況に身を置いている。しかしこれは、死すべき存在としての自分を自覚的に見つめない非本来的なあり方である。頽落した「世人」の立場から身を離し、本来的な自己自身に立ち帰ると、みずからの死に対する先駆けた覚悟がおとずれてくる。死とは、彼によれば、「最も自己的で他者とかかわらない、やってくることが確実でありながらいつと規定できない不確実性をもった、追い越し得ない可能性」である。この「追い越し得ない可能性」に対して先駆けた覚悟を持つとき、つまり、ひとりになって、自分ひとりの死という可能性をあらかじめ手元にたぐり寄せるとき、そこからおのずと「良心の声」が聞こえてくる、というのである。
 このハイデガーの論説は、道徳の根拠を、「世人」の「頽落」から脱却した者のみがつかむことの出来る「他者とかかわらない可能性」としての死の自覚においていることを意味する。しかし、彼は、なにゆえ他から切り離された個人の有限性(死)という存在論的あり方から、道徳の根拠が導き出されると考えたのだろうか。ここには、理解しがたい飛躍がある。
 先に私は、良心の疚しさが現れ出るのは、人が自分の依拠する共同性に背反する態度をとりつつ「悪」への意志や行為に踏み込むときであると述べた。人がふつうに他人と交渉してスムーズに社会的行動をとっているとき、「良心」は心理として現れ出ない。良心はそれ自身の「疚しさ」、すなわち自身の否定態としてのみ心理的に自覚される。また一方私は、「悪」はその定義からの必然として、当人を孤立に追いやるとも述べた。なるほど共同性からの孤立は、人をして死により近づけさせるから、ハイデガーの説くところと私の説くところとは、表面上は似て見える。
 両者を無理に論理的につなげるなら、人は「悪」に踏み込もうとするときにこそ「死」に対する先駆けた自覚に親しむことになり、そのときにこそ、「疚しさ」としての良心に出会うのである、と。
 しかし私は同時に次のことも指摘しておいた。すなわち、個人が「悪」に踏み込むときに良心の疚しさを覚えるのは、彼のなかに言語意識その他の形ですでに深く共同性(規範意識)が織り込まれているからであり、良心の声とは、この織り込まれた共同性の声にほかならないのである。
 他方、ハイデガーは、「悪」に踏み込むときというような特殊な孤立を、良心の声を聞く契機としたのではなく、「頽落」している日常ふつうの「世人」の立場から身を引いて本来的自己に帰るときに、必然的に死の自覚がやってきて、そこから良心の声を聞くとしている。彼の言う本来的自己とは、ただ他人との日常的関係から離れて内省的にひとりになること一般を指している。
 ひとりになること一般においても人間は常に共同性を実現してしまう存在であることは前に述べたとおりである。しかるにハイデガーの規定では「最も自己的で、他者とかかわらない」自分だけの死に対する自覚を通して良心の声が初めて聞こえてくるのだから、ここで言われている「良心の声」には、共同性の契機がまったく関与していないとみなすことができる。つまり、共同的な声としての良心の声が考えられているのではなく、もっぱら共同性を捨て去った境位(そんなものはないのだが)において、他者とかかわらない孤立した自己にとっての死への自覚を通してのみ良心の声が聞こえてくるとされているのである。
 ここには事実の完全な転倒がある。人間がそれぞれ固有の死を死ぬほかないという自覚一般からだけでは、けっして良心あるいは道徳の根拠は基礎づけられない。ハイデガーは、良心の声がどこから聞こえてくるかという存在論的な場所を確定するために、人間の様態のうち、非本来性としての「頽落」の状態を徹底的に殺ぎ落とさなくてはならなかった。これは、個人を他者と完全に隔絶した場所に立たせた上で、彼にとって固有の可能性である「死」を媒介させたときに初めて「神」と向かい合うことができると言っているのと同じである。
 そしてこのことが人間存在にとって本来的なあり方である以上、良心の声は、人間が「世人」であることを止めさえすれば、「善」をなそうが「悪」をなそうが、だれにとっても聞こえてくる普遍的な声であることになる。それはつまり、ただ個体としての死の自覚、有限性の自覚が、人間存在一般の「原罪性」をあらわにするために必要十分な条件であると指摘しているに等しい。「神」や「原罪」というキリスト教臭のある言葉をハイデガーは一度も使っていないが、個としての死の自覚一般を深めることによって、「負い目ある存在」(良心の声の聞き手)としての人間自身の姿が照らし出されるという論理の運びが、そのことを暗に示している。
 和辻哲郎は、ハイデガーのこの論説に対して、次のように反論している。

個人存在はその限定のゆえに、すなわち本来性の否定による自他対立のゆえに、すでに他人に対して果たすべきものを背負い込んでいるのである。すなわちその本来性の否定をさらに否定して本来の無限性に還らなくてはなくてはならぬのである。しかしかく見れば負い目は根源的に人間存在の規定であって、個人存在のみの規定であることはできない。「果たすべきもの」は自他不二的に実現せらるべき人間の全体性であって、単に個人の死ではない。しかるにハイデッガーは、「果たすべきもの」が単に個人の死にすぎず、良心の声によって負い目の可能性に呼び覚まされることが単に死の覚悟にすぎないことを主張しつつ、しかもそれらが道徳性の存在論的制約をなすと説くのである。これは神と人との関係から道徳性を説いた中世的な立場からただ神だけを抜き去って説こうとする抽象的な考えであって、道徳性の真相に触れるところがない。個人存在があらゆる空しさの根底であることを覚るのみでは、個人に超個人的意志への合致を命令する道徳法は可能とはならない。むしろ逆に、個人存在の根底が空であることを覚ることによって、個人存在は自他不二的充実(すなわち全体性実現)の根底となり、したがって道徳性も可能となるのである。かく見れば良心の声は(引用者注――ハイデガーの説くところとはまったく逆に)「自」への堕在(引用者注――共同性に背反した「個」への停滞)から自を超えた本来性へ呼び戻し、個人存在の根底が空であることを覚らせるところの呼び声にほかならぬのである。》(『倫理学』上巻)

 和辻にとって「本来性」とは、人間存在の全体性を意味しており、個人と個人とが対立的に向き合うこと、あるいは個人が他と関係しあわずに孤立自存することは、その欠如態として、むしろ非本来的なのである。その意味で、ハイデガーの説く本来性と非本来性とは、概念がほぼ逆になっている。
 和辻的な枠組みからすれば、道徳性は、個人存在の有限性そのものからはけっして導かれず、むしろ個人と個人が互いを限定しあいながらかかわるまさにその場所から人間の全体性への運動が生じ、そこで初めて道徳性が可能となる。したがって、「個人の死」という他と没交渉な現象に良心の起源を見たハイデガーとは、その力点が正反対ということになる。
 さて、全体性、無限性、空、否定の否定などの形而上学的臭いをとりあえず脱臭して考え直せば、和辻のとらえ方のほうが的確であることは論をまたない。そもそも道徳は、社会存在としての人間が実生活においてあいかかわるなかから立ち上がることは自明であって、「良心の声」が生産される現場も、共同性のただなかにおいてでしかあり得ない。「悪」もまた、必ず他者への関係行為としてなされるのであるから、そのとき良心の疚しさという心理現象に「私」がとらえられるのも、現実的な他者との関係をあらかじめ「私」あるいは「自我」の存立条件として繰り入れているときにのみ可能なことである。
 ハイデガーのこの面における失敗の原因はどこにあったか。
 それは、彼がその出発点において、「世人」というあり方に格別の性格付与を施し、しかも、そのあり方以外には、人間の平均的日常性を特色づける点を見いださなかったところに求められる。
 たしかに人は、特に日常的に群れてあるとき、空談と好奇心とあいまい性を存分に発揮して、死の自覚から逃避した「頽落」の状態にあることが多い。だがこれはそういうときに人が陥る一種の表層心理を形容したもので、人間の平均的日常性が死の自覚と連関する構造を根底からとらえたものとはとうてい言いがたい。
 人間の平均的日常性が死の自覚と連関する構造を根底からとらえるには、人びとがそこに生の意味と価値を見いだしつつ絶えず真剣に取り組んでいるような日常的な営みにまず着目する必要がある。そのうえで、人間の生を規定づけているそれらの営みが、死の自覚とどのような関連をもっているのかを解き明かすのでなくてはならない。
 そうした営みとは、たとえば労働であり、またエロス的なかかわりであり、そして言語使用であり、さらに家族生活である。私は、これらのそれぞれを成り立たせる根本的な契機に着眼することで、これらの営みが死の自覚との間に深い関連をもつ事情があきらかとなる所以を、『人はなぜ死ななければならないのか』(洋泉社)という著作で示しておいた。ちなみにそれぞれの根本契機は、「労働」では企画約束であり、「エロス的なかかわり」では情緒であり、「言語使用」では相互の距離の自覚とそれを克服する意志であり、「家族生活」では運命の共同である。
 これらの根本契機は、みな、死の自覚を前提とした上で、人間が日常的に真剣な態度をもってその自覚に向き合うあり方を証し立てている(詳しくは前掲書参照)。平均的な日常性において人は、ただ「頽落」や「死からの逃避」の状態にあるのではなく、互いの身体の絶対的な不連続性(個としてあること)を踏まえつつ、これらの根本契機を絶えず発動する。そしてそのことによって、その不連続性そのものに対処するために共同性の網を張りめぐらせている。この共同性の網の張りめぐらしは、すべて、互いの身体の不連続性に対する、自覚されざる克服の意思である。そしてこの克服の共同意思の達成のためにこそ、道徳の原理が引き寄せられるのである。
 言い換えると、私たちは誰もがみな、いつかは別離する存在であることをどこかで深く自得しつつ、それにもかかわらず、あるいはだからこそ、常に互いにかかわり合おうとする。私たちにとって死とは、単に生理的個体の解体を意味するのではなく、人間存在の本質としての共同性の解体や変容を意味している。それがまったき解体に終わるとすれば、それこそは「悪」の極限の支配である。なぜならば、そうなれば「個」への完全な解体、共同性の全運動の停止が実現するからである。私たちはそれを避けるためにこそ、死者を弔うことによって彼を共同性の一員として復元させようとするのだし、壊れかけた共同性(個体を超えた連続性)を修復しようとするのである。
 ハイデガーは、死との間にあるこうした日常的な生の構造的な連関を見ずに、「世人」の「頽落」した集団心理的あり方のみをもって人間の平均的日常性を覆い尽くすものとした。そのため、現世の平均人のあるがままの生き方は、彼にとって無限に軽視すべきものと見え、そこを立ち去らなければ人間(現存在)の本来性に到達することはできないと考えたのである。ここでは本来性とは、共同性から切り離された完全な個としての自立自存を意味するにすぎない。そして繰り返すが、そんな境位はありえない。和辻が、これに対して「神と人との関係から道徳性を説いた中世的な立場からただ神だけを抜き去って説こうとする抽象的な考え」という的確な批評をなし得た所以である。


参院選はどの党に?

2013年11月11日 17時51分04秒 | 政治

参院選はどの党に?


 参院選が公示されましたね。大勢はすでに想定内と言えますが、だからといって「決まってるんだから投票に行かなくてもいいや」と多数の人が思ってしまったら、思わぬ結果にならないとも限りません。私などがここでとやかく言うのもなんですが、せっかくネット選挙が解禁されたのですから、この機会に、今度の選挙に臨む自分なりの態度をはっきりさせておきたいと思います。ご参考になればさいわいです。
 まず、重要と思われる政策課題別に私の考えをなるべく簡潔に述べます。次に、各党に対する評価を遠慮なく下してみます。

景気対策、消費税増税
 消費税増税は、4月~6月の景気判断を根拠に、10月に踏み切るかどうかを決定することになっていますが、付則にしたがって凍結すべきです。増税は財布のひもを固くし、アベノミクス効果でせっかく投資や雇用や消費が伸びそうな気配を見せている昨今の傾向を、「元の木阿弥」にしてしまいます。デフレ脱却どころではなくなります。すると、税収はかえって減少し、「第二の矢」である財政政策も思うに任せなくなります。加えて、法人税一般の減税などをやると、いっそうの税収減につながるでしょう。
 そもそも増税案が国会を通過してしまったのは、財務省が流した「国家財政の危機」というデマによるものです。これがまったくのデマであることは、心ある人の間では常識となっています。政府の借金がGDPの2倍(約1000兆円)だというのは事実ですが、そもそもGDP比で借金の大きさを測ることには何の理論的根拠もありません。しかも政府の借金は、ほとんどが日本国民の資産であり(国民の信認に支えられており)、国債はすべて円建てですから為替の影響も受けず、デフォルトなどするはずがないのです。さらに、国には、350兆円という莫大な売却可能資産があります(高橋洋一氏による)。また日本は、対外純資産が250兆円もあって、世界一の債権国です。財務省は、借りている方だけ強調して、持っている方については、意図的に隠蔽してきたのです。一方的に流されたデマから、早く目覚めましょう。

エネルギー
 現代では、産業、生活にとって欠くことのできない通貨のような役割を果たしているのが、電気です。この安定供給を妨げるような政策を掲げている政党はすべてダメです。具体的には、一部の国民感情におもねるだけの反原発、脱原発を掲げている政党ですね。彼らは、2千何年までに原発ゼロ、などとできもしないスローガンを打ち出していますが、エネルギー安全保障を総合的に考える能力のない無責任極まるスローガンです。福島事故では、放射線による死者はおろか、障害を受けた人もひとりもいないことを付け加えておきましょう。
 原発は、現在、大飯2基を除いてすべて停止していますが、安全が確認された原発から順に再稼動すべきです。停止しているぶんだけ、火力に依存していますが(現状9割)、この依存度の異常な高さは、たいへん危険です。国際情勢の悪化によって資源入手がストップする可能性が大ですし、既成の火力発電所の劣化も進んでいます。資源輸入のための負担が13年度で、震災前に比べ、4兆円近くも増えています。節約を呼びかけているはずの政府が、なぜこれを黙認しているのでしょうか。
 石炭を資源とする新しい火力発電所はいろいろな意味で希望が持てますが、それにしても、当面、余裕を持った安定供給を図るためには、一部、原発に頼るしかないのが現実です。
 太陽光などの再生可能エネルギー(自然エネルギー)は、不安定な風土的条件、コスト、送電網整備の困難、パイの限られた領域に利益追求だけを目的として参入してくる業者の思うつぼ、など問題があまりに多く、人々が思っているほど期待すべきではありません。よって、電力自由化、発送電分離、固定価格買取制度などを追求するのもNGです。これらの方向性を政府が決めてしまったのは、まことに残念です。
 なおこの②については、以下のブログの拙稿を参照していただければさいわいです。
 http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2999183/
 http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2999156/
 http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3003112/
 http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3003123/
 http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3081909/
 http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3085333/
 http://kohamaitsuo.iza.ne.jp/blog/entry/3116708/の、コメント欄

TPP
 アメリカが参入して以降のTPPは、市場原理主義イデオロギー信奉者たちの国家破壊的な思想を最も体現している政策であり、これによって利益を得るのは、ウォール街を中心とした一部の「禿鷹」たちや、グローバル企業の経営者と、それを支える株主だけです。農業部門などの関税障壁の撤廃のみならず、非関税障壁の撤廃(たとえば混合医療の解放、外資の保険業の自由参加)、ISD条項による外国民間企業の行政訴訟請求権、経営者の雇用規制条件の緩和など、いまの日本にとっていいことは一つもありません。よき伝統文化も破壊されるでしょう。
 これに参加することによって日米の同盟関係が強化され、中国などの侵略的意図を抑制できると考えるのも幻想です。アメリカ政府に、そんな意図などみじんもないからです。先の米中会談で、オバマ氏が習近平氏にTPP参加を呼び掛けたことで、それがはっきりしましたね。

憲法
 現行憲法は、言うまでもなく改正すべきです。前文、9条のみならず、全体の文章、叙述の矛盾と混乱と重複、人権イデオロギーにだけのっとった思想の幼稚さ、改正要件の類を見ない厳しさなど、あまりにひどすぎます。
 しかし、これを一挙に変えられると考えるのは、現実的ではなく、当面、9条の処理、発議要件の緩和、などに争点を集中させるべきでしょう。いっぽう、護憲派政党(「加憲」主張政党も)は、すべて現実に蓋をする空想的平和主義であり、問題になりません。

 なおこの④については、以下のブログの拙稿を参照していただければさいわいです。
 http://kohamaitsuo.iza.ne.jp/blog/entry/3098054/
 http://kohamaitsuo.iza.ne.jp/blog/entry/3098109/

安全保障
 近年の東アジアにおける緊張、ことに中国の侵略的意図に対して、日本はどのように対処すべきか。尖閣問題、竹島問題は、これまで平和ボケしていた日本国民に、ようやくまともな国家意識の覚醒をうながしましたが、現実の防衛体制が脆弱にすぎます。
 この平和ボケを許してきた大きな理由の一つに、覇権国家アメリカの軍事的な保護のもとに安住してくることができたという条件があります。しかし、ご承知のように、アメリカはいま内部事情でたいへんで、国際的に覇権を維持するだけの力を後退させています。たてまえでは、東アジアに重点を置くなどと言っていますが、財政事情からの軍縮、沖縄からグァムへの撤退などを計画中であり、しかも、彼らにとってより枢要な問題である中東情勢への関心に追われています。遠い他国である東アジアのもめごとなどにかまっていられないというのが本音でしょう。
 とすれば、言い古された言葉ですが、自国の安全は自国で守る、という原則をしっかり現実化していかなくてはなりません。もちろん、アメリカとの同盟関係を維持しつつ、という条件付きです。当面必要とされるのは、自衛隊法の改正(書かれていないからやってはいけないというポジティヴリストの考え方自体を改める必要があります)と、防衛予算の増額でしょう。少ない人数、限られた予算、法の足かせなどに縛られながら、日夜、命を張って頑張っている自衛隊員、海上保安庁の人たちの立派な志に思いを馳せましょう。 
 なおこの⑤については、以下のブログの拙稿を参照していただければさいわいです。
 http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2914454/
 http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2914455/

公務員(国会議員を含む)定数削減、給料カット(政治・行政改革)、道州制 これはじつにくだらない政策です。どこにその意図があるのか。何となくいいことだと思っていて、だれもその是非を本気で問題にしません。すでに他所で触れてきましたが、日本の国会議員の数は、人口比でいって、先進国中、アメリカを除き、一番少ないのです。アメリカは、連邦国家ですから、州議会の議員数も考慮に入れるべきです。官僚の数もしかり。日本の政治は、国会議員、官僚とも、ごく限られた人数の頑張りによって支えられているのです。これをさらに削減したり、給料を減らしたりすれば、士気が衰え、公共精神が衰弱し、結果として国民の声が正当に政治に反映せず、行政サービスが劣化するに違いありません。
 この政策が出てくる背景として、二つの要因が考えられます。
 一つは、国家・地方予算の削減効果です。つまり消費税増税のように、国民に痛みを分け持ってもらうために、私たちも身を削りますよ、というポーズを示すのですね。これによって、「いい目を見ている」(実際には見ていません)政治家、官僚、天下りなどに対する国民のルサンチマンが鎮静されるわけです。しかし、私が計算したところによれば、いまの国会議員を半数に減らし、お役人の給料を規定通りカットしたところで、国、地方自治体の全歳費のわずか0.3%(1兆円未満)しか節約できないのです。
 もう一つは、税源移譲や道州制の提唱のように、地域主権を主張することがいいことだという考えが相当はびこっていることです。地域には地域に任せた方がよりサービスが行き届く課題がある、というのは事実でしょうが、それもものによりけりです。地域と言ったって、せいぜいが道、州といった広大なレベルですね。これで、本当に地域住民の生活感覚により近い政治が実現できるのか、甚だ疑わしい。
 それ以上に問題なのは、第一に、全国、あるいは複数の地方にまたがって解決しなければならない課題(たとえば高速道路などのインフラ整備、エネルギー政策のあるべき方向、基地などの安全保障問題)が暗礁に乗り上げやすくなること、そして第二に、これが最も重要ですが、ただでさえ都市と農村の格差が広がっているうえに、地方分権を導入すると、勝ち負けが一層顕著になって地方の過疎化が進み、中央政府による予算の公正・適切な再分配ができなくなってしまうことです。地域主権の考え方は、現実には、地方を大切にすることにつながらないのです。
 地域主権を唱える人たちは、やはり、何でも中央集権を壊して小さな政府にしようという新自由主義的なイデオロギーに囚われているのでしょう。あるいは、主張者自身が地方の首長経験者で、中央政府とそりが合わない恨みを抱えてきたのでしょう。
 日本のような同質性の高い国は、そのことが国家としてのいい意味でのまとまりを作ってきたのですから、ただ権限を分散して委譲すればよいのではなく、より健全な中央政府のあり方を実現するにはどうすればよいかという方向に問題意識そのものをシフトすべきと考えます。
 なおこの⑥については、以下のブログの拙稿を参照していただければさいわいです。
 http://mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/3051606/

 以上のような考え方に立って、各政党の公約を評価してみましょう(産経新聞7月4日付による)。
 ただし、ひとこと断っておきたいことがあります。それは、いまの情勢からして、自民党の圧勝はほとんど自明で、他の敗北必至の党や群小野党もそのことを織り込んでいるので、かえって無責任に「反対のための反対」を主張できるということです。民主党、共産党、社民党、みどりの風、生活の党などはみなその口です。
 したがって、一見正当な与党批判をしているように見えても、じつは、ではどのような対案があり、なぜその案のほうがいいのか、それをどのように実現していくのか、といった肝心な点について何もヴィジョンを持っていない様子がありありです(ただし、生活の党のTPP反対だけは、きちんと考えて言っている形跡があります)。こういう政党が公表している公約をうわべの正しさだけで評価するわけにはいきません。
 ですから、上に掲げた諸点について、これは筆者の考えと結論上合うから〇、としてみてもほとんど意味がありませんね。そこで、この政党は、この点で×あるいは△、とだけ評価することにします。もう一度各項目を並べます。

①景気対策、消費税増税 ②エネルギー ③TPP ④憲法 ⑤安全保障 ⑥定数削減、道州制

 民主党は、②④⑥が×。
 自民党は、①②が△、⑥が×。
 公明党は、②④⑤が×。
 みんなの党は、②③⑥が×、とくに③は大×。
 生活の党は、②④⑤⑥が×。
 共産党は、②④⑤が×。
 社民党は、②④⑤が×。
 みどりの風は、①が△、②④⑤が×。
 維新の会は、②③⑥が×。とくに⑥は大×。
 
 ちなみに、最も大事な争点であるはずの①について、ほとんどの党がきちんと言及していないのが顕著です。安倍総理は、景気指標をにらみつつ10月時点で判断と言っていますが、他の党は、現時点では、内心アベノミクスの効果を認めざるを得ないので、明言を避けているのでしょう(増税反対とだけ言っている党はありますが)。
 なお、アベノミクス三本の矢のうち、三本目の「成長戦略」については、小泉政権時代からの構造改革・規制緩和路線の継続であり、生え抜きの新自由主義者・竹中平蔵氏がいまだにブレーンとして権力中枢に悪影響を及ぼしていることの歴然たる証拠なので、私は反対です。

 参考になりましたでしょうか。21日には、よくお考えのうえ投票してください。

コメント(2)


2013/07/06 01:34
Commented by 美津島明 さん
とても参考になりました。また、小浜さんのご意見にほとんど賛成です。「ほとんど」と申し上げたのは、「外国人地方選挙権の是非」と「人権擁護法案の是非」についての各党の見解を加えていただきたいからです。私は、いずれに対しても非の立場ですし、これを是とする政党は、事実上、国家破壊を目論んでいると見なしますので、民主党・公明党・生活の党・社民党・維新の会は、選択肢から自ずと除外されます。みんなの党と緑の風については、不明なので挙げませんでした。しかし、みんなの党は露骨な新自由主義路線なので話になりませんし、緑の風は、ソフト左翼の典型のような気がするので、私の肌には合わず除外されます。
だから、残るは、自民党ということになるのですが、ただ一点、参議院比例区にワタミ・ブラック社長の名があるのは、気に入りません。彼が当選するのは「従業員首切り容易化法案」(正式名称は何でしたっけ?)が国民の信認を受けたものと自民党に受けとめられかねないと危惧されるので、彼を何とかして落選させたいものだと思っているのです。そのためには、比例区の場合、政党名ではなく、骨のある自民党員の個人名を書くことで、間接的に、気に入らない奴を落選させる、という手がありかなと思っています。それは、三橋貴明さんの「続 三橋貴明は赤池まさあき先生を支持します」http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/page-2.html#mainに啓発された視点です。いまのところ、そんな感じです。


2013/07/06 02:58
【返信する】
Commented by kohamaitsuo さん
美津島明さんへ。
さっそくのコメント、ありがとうございます。
なるほど、ご指摘の通りです。
外国人参政権法案と人権擁護法案が、国家破壊のもくろみであることは明白ですね。民主党政権時代に危うく通りそうになったので、力及ばずながら拙著『人はひとりで生きていけるか』(2010年・PHP研究所)でできるだけ批判したのですが、性懲りもなく通そうという動きがありますか。困ったものです。
ただ、発表された公約にはどこにもそれらしき記述が見当たらなかったので、今回はその点、手抜かりでした。
ワタミについては、そういう手があるのですね。たいへん参考になりました。