小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

自然の喪失は文学も壊す(SSKシリーズその1)

2014年05月31日 02時31分19秒 | 文学
自然の喪失は文学も壊す(SSKシリーズその1) 




 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきたいと思います

(その1:2011年6月発表)
 次は、一人の友人から来たメールの要約。

《ある有名紙に「アマルフィーの月」というエッセイが載っていた。作者は山田登世子。バルザックの研究やパリの風俗に関する文章で知られる。そのエッセイの最後に「とっぷりと日が暮れて、海も空も夜につつまれた。と、わたしの正面に三日月が銀の光を放ってきらめいていた。(中略)見る間に月は中天にかかり、冴え冴えと白く輝きわたった。」とある。 アマルフィ―ではとっぷりと日が暮れてから三日月がきらめき、 さらにそれが中天にかかるのだろうか。 私にはどうしてもその位置関係が理解できないのだが……》

 私はこのメールを一読、山田登世子という人はとんでもないデタラメを書く人だと思った。アマルフィーは、ナポリの南、地中海に臨む風光明媚なリゾート地である。ところで三日月はこれから太っていく月で、太陽のすぐ後を追いかけるコースを取るから、空が暮れてくるにしたがい西の空に現れ、日没からしばらくたって西の地平線に沈んでしまう。だから中天にかかることはありえない。すべての月は東から西へと運行するのだ。
 以上のことは、地球の自転と月の公転との関係を原理としているので、経度の違いとは関係ない。日本と南イタリアは緯度がほぼ同じなので、三日月の見え方はほとんど同じで、西の空に出て西の地平線に沈むのである。
 おまけに「見る間に月は中天にかかり」とは何ごとか。動きが逆であるばかりか、「見る間に」動くはずがない。月は普通に見ていれば止まっており、「正面に」見えてから「中天にかか」るまでに、少なくとも4~5時間は必要である。その間、山田女史は、飯も食わずにあんぐりと口をあけて月を見続けていたのか。それとも月がホラーのようにびゅーんと上っていったのか。
 以上、山田女史はウソツキである。自然観察と離れてしまった現代だからこそ、プロがこういうデタラメを書いても通用してしまう。

①菜の花や 月は東に日は西に

②ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて かへりみすれば月かたぶきぬ

③熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

 すべて満月かそれに近い月である。いずれにしても昔の人は自然と自分を一体化させていて、情趣豊かなだけでなく合理的でもあった。現代人の日本語感覚の頽廃を際立たせるために以上の三つを挙げたが、③の額田王の歌は、戦いのために愛媛の港から出港していこうとしている船隊の一群を前にして、壮行の思いを雄大な情景に託して力強く歌っている。私のことに好きな歌である。しかも月が出てきてからしばらくして「潮もかなひぬ」というのは、物理学的に見てもたいへん的確な描写といえる。というのは、満月の頃は反対側の太陽との相乗効果で大潮の時期にあたっているからだ。
 現代では、安っぽい「おイタリアかぶれ」はだませるだろうが、文学のほんとうの価値を知るものの眼はだませないのである。自然と一体化して交流する感性の喪失が、せめてこのたびの震災を契機に少しでも繕われることを願う。

EU崩壊の足音聞こゆ

2014年05月27日 18時35分45秒 | 経済
EU崩壊の足音聞こゆ


 フランス国民戦線党首マリーヌ・ルペン

 25日までに行われたEUの欧州議会選で、反EU勢力が躍進しました。フランスでは「極右」と称されるFN(国民戦線)が得票率25%で首位に立ち、イギリスでもEUからの離脱を掲げる独立党が得票率27.5%でトップ、その他、ギリシャ、イタリアなど、財政悪化や高い失業率に悩むラテン諸国でも、EUが緊縮財政を強いてくることに反発する勢力が得票率を伸ばしています。欧州議会全体では、反EU勢力は約2割を占める140議席程度になるとのこと。
 このような動きは、だいぶ前から予想されていました。フランスのオランド大統領は就任後2年を経ても成果を上げておらず、支持率は史上最低の10%台。またイギリスは、すでに、2017年末までにEU残留・離脱を問う国民投票を実施することを決めており、前倒しも検討されています。
 私たち日本人は、はるか遠くのヨーロッパのこの変動を、何となく「対岸の火事」のように感じていないでしょうか。しかしそれは、いくつかの点から見て大きな間違いです。

 まずEUが抱えている経済危機の深刻化は、グローバル化が極限まで進んだ今日、世界経済、ひいては日本経済に大きな悪影響を及ぼします。ちなみにEU統計局が今月上旬に公表した今年1~3月期の経済成長率はゼロだそうです。
 おそらく今回のニュースだけでユーロの価値は相当下落するでしょう。これが崩壊ということにでもなれば国際市場の大混乱が予想されます。かねてから為替市場における「避難所」と位置付けられてきた円は、買いが殺到して再び急騰するかもしれません。そうなると、せっかくアベノミクス異次元緩和による円安で一息ついたトヨタなど輸出関連企業は、壊滅的な打撃をこうむるでしょう。

 第二に、ヨーロッパは、古くから移民問題という悩ましい課題を抱えています。ヨーロッパは、第二次大戦における過激な民族主義に対する反動から、コスモポリタン的な理想に基いて移民に対して寛大な政策をとってきましたが、これは現実には多くの軋轢を生み出す結果になっています。賃金競争による単純労働者の所得の低下、雇用の不安定や失業率の増大、宗教・言語の違いによるコミュニケーション障壁や文化摩擦の高まりなど。
 こうした現象は、移民受け入れ策の必然的な結果と言ってもよいもので、だからこそ、移民規制の強化を訴えるナショナリズム的政党が国民の支持を得るのです。
 それなのに日本の安倍政権は、欧米に見習え式に「少子化に備えてこれから日本も移民を」などと愚かな政策を掲げています。欧米がこの問題でどんなに苦しんでいるか、そのリアリティを政策担当者はきちんと繰り込もうとしないのです。少子化対策を真剣に考えるなら、まず「勤労していない日本国民」、たとえば元気な高齢者やニートに焦点を当てるべきでしょう。移民受け入れは国益(国民の利益)を損なうことが明瞭です。
 安倍政権は、新自由主義にたぶらかされて、この問題の深刻さが見えなくなっているのです。経済界における新自由主義は、一部グローバル企業経営者や富裕な金融投資家の思想的バックボーンですから、国境を取り外し、自由な競争をあまねく行き渡らせることが善であるという信念に取りつかれています。
 日本の社会経済政策が、この信念をそのまま引き継ぎ、規制を緩和して市場をもっと世界に向かって開かないといけないなどという方向に走っている事態には、まことに嘆かわしいものがあります。むしろフランスの国民戦線やイギリスの独立党が、なぜ反EUの声を上げるのか、その現実的な事情をよくよく見るべきなのです。

 もともとEUモデルは破綻しています。これが破綻する理由は、私のような素人でもわかる単純なことです。
 一国の経済政策は、金融政策と財政政策との呼吸の合ったパッケージによって成り立ちます。
 金融政策は、中央銀行が担うもので、通貨量や公的金利の調節、手持ち公債の売りや市場に出回る公債の買い上げなどによって、景気の安定を図ります。たとえばデフレ期は供給過剰(モノがありすぎ)、需要不足(買いたくてもおカネがない)の状態ですから、モノが売れず物価が下がります。すると企業は投資を控えますから、そのしわ寄せがまず勤労者の所得に襲いかかります。すると消費がますます冷え込みます。この状態から脱するために中央銀行は、通貨の発行量を増やしたり金利を下げたり公債を買い上げたりすることによって、貨幣が市場に潤沢に出回るようにするわけです。アベノミクス第一の矢は、この政策のうちに含まれます。
 ところが、金融政策だけでは限界があります。というか、そもそも金融政策は、籠の片棒を担ぐ役割しかないのです。もう片方を担ぐ人がいなければ籠は持ち上がりません。それを担うのが財政政策です。これは政府が受け持つしかない。つまり公共投資を積極的に行って、国内の民需を引き出すのです。これをやらないと、企業はデフレマインドのまま足踏みし、いくら中央銀行が量的緩和を行っても、金融機関から企業にお金が回りません。
 銀行にお金ジャブジャブあるね、でもそれ借りて新しく設備や機械導入したり人雇ったりする経営者いないね。この状態を下世話な言葉で、「ブタ積み」状態と言います。
 そうすると得をするのはだれでしょうか。景気が良くなったと騒がれながらちっともその実感を持てないのはだれでしょうか。答えは明らかですね。
 もともとアベノミクス第二の矢とは、この積極的な財政出動を意味していました。しかしこれを果敢に行うには、財務省、マスコミなどの抵抗勢力があまりに強い。財務省が抵抗するのは、インフレ恐怖症、ケチ礼賛病という長年の宿あによるものですが、マスコミは単にバカなだけです。
 ともかく第二の矢は、公共事業の予算を早くも削られて、苦戦を強いられています。代わりに安倍政権は、デフレ期にはけっしてやってはいけない逆進性(低所得層に負担が多くかかる)を持つ消費増税などを断行して民を苦しめているわけです。
 おまけに経済学界では、金融緩和派(リフレ派)と公共投資派とが、理論をめぐって争い合う始末です。本来この両派はタグを組んでこそ意味があるのに……。特にリフレ派は、学者のメンツを保ちたいためか、いたずらに公共投資派に対する不毛な反論に明け暮れています。もちろん、すでにブタ積み状態になっているおカネを有効に使わせる政策を打つべき(第二の矢を適切に放つべき)と主張している公共投資派が正しいのです。

 EUに話を戻します。
 EUモデルがもともと破綻しているというのは、思い切りわかりやすく言えば、いま述べてきた金融政策と財政政策の担い手を、EU中央銀行(ECB)と各国政府に分裂させているからです。これはユーロという統一通貨を用いながら、その使い方は各国の方針に任せられるということを意味します。しかしより厳密に言うと、この財政政策でさえ、各国の自由に任せられているわけではないのですが、それはすぐ後で述べます。
 ヨーロッパには昔から国民性の違いが顕著で、勤勉な国、遊び好きで怠け者の国の区別がはっきりしていますね。そういう重要な(しかし計量化しにくい)国情の違いを無視して、統一通貨で一緒にやっていきましょうというのは、理想は麗しいかもしれませんが、現実には無理なのです。
 現にギリシャは財政破綻し、イタリア、スペイン、ポルトガルなどは破綻しかけていますが、危機を自国の金融政策で乗り切ろうとしても、それができない構造になっています。そこで、EU(実質的にはドイツ)に何とかしてくれと縋るわけですが、EUとしてはその要請をただで聞いてやるわけにはいかない。結果、要請国に厳しい緊縮財政を強いることになります。これがまた、その国の国民の不満を買います。
 そりゃそうですね。ただでさえ経営不振や失業で悩んでいるところへ持ってきて、おカネを使うな(デフレに甘んじろ)と言われたら、ますます国民の経済的な士気は下がってしまいます。悪循環です。
 この厳しい緊縮財政の縛りについては、次のようなからくりがあります。
 1993年に発効したマーストリヒト条約には、EU加盟の条件として「年間財政赤字額の名目GDP比が3%を超えず、かつ政府債務残高の名目GDP比が60%以内であること」と謳われています。同条約成立後に多少緩和されたようですが、文言としては生きています。この文言が生きている限り、EU諸国がデフレ傾向を脱却するために積極財政に打って出るのは極めて困難になります。
 しかも2008年のリーマンショック以後、実際には、「政府債務残高の名目GDP比が60%以内であること」という条件を守れている加盟国はほとんどなく、上に挙げた四か国以外にも、ドイツ、フランス、ベルギー、アイルランドなど、みな60%を超えてしまいました。つまり、この条件は実質的には空文化していることになり、だからこそやばいと思って、各国こぞって「財政健全化」、つまり緊縮財政に走らざるを得ないわけです。自縄自縛というべきでしょう。
 ちなみに、けっして財政赤字や債務残高の割合だけがその国の経済状態の健全・不健全を測る指標ではないのですが、この種の数字だけの尺度を金科玉条のように用いるところに、EUエリート集団の浅はかさが象徴されていると言えるでしょう(この点は、そのまま日本の「財政健全化」路線にも当てはまります)。

 こうして、EUの未来は暗いのです。
 ヨーロッパを一つにしようというこの構想は、もちろん、国際競争力で アメリカやソ連(当時)や日本に負けないようにしようという経済的な動機が大きかった。EUは、もとはEEC(ヨーロッパ経済共同体)と呼ばれ、域内貿易の自由化(グローバル化)などを目指したゆるい連合体でした。この段階では、斬新な試みとして内外の評判も良かったようです。
 しかし先にも述べたように、この構想は、集団心理学的には、二度の世界大戦で勝者も敗者もひどい目に遭ってこりごりしたそのトラウマに発していると言えるでしょう。「民族」の汚点をなるべく消したい。そのためには統一ヨーロッパという消しゴムが必要だ――しかしこの消しゴムは、それぞれの国の伝統を消し去ることはできませんでした。いまその矛盾が噴出しつつあるわけです。

 ところで、「対岸の火事」ではないと述べた最大の理由は、次の点です。
 域内グローバリズムを理想と考えたEUモデルは、そのまま世界のグローバリズムの縮小版なのです。新自由主義者たちが理想と考えるように、域内でヒト、モノ、カネが極端に自由に行き来するようになると、結局はどういうことになるか。各地域や国の特殊性、伝統、慣習、そして文化までもが蹂躙され、そのことによって多極化したエスニックな情熱がかえって奮然と盛り上がるのです。
 それが人性というもので、人性をきちんと織り込まない理想は必ず失敗するというのが歴史の教訓です。共産主義の理想が一番わかりやすいですね。EUの黄昏は、世界資本主義の未来を不気味に暗示していると言えるでしょう。
 ちなみに、EU当局が、財政破綻しかけた国の要請を聞き入れる代わりに条件として打ち出す緊縮財政の要求は、世界的視野に広げてみた時、かつての韓国、アルゼンチン、トルコ、一部のアフリカ諸国などにIMF(国際通貨基金)が突きつけた要求とそっくりです。こうして世界経済の覇権は、一部の国ではなく、ごく一部のグローバル資本家、グローバル投資家の手に移って行くのです。
 最後に、経済政策においてどこまでもおバカな日本政府に一言警告。
 新自由主義の申し子であるアベノミクス第三の矢・成長戦略などにうつつを抜かしていると、第一と第二の矢の連携の重要性を忘れ、一国内でも、EUと同じような金融政策と財政政策の深刻な分裂をきたしますよ(もうきたしているか)。
 EUモデルの破綻は、単に世界のグローバリズムの縮小版であるだけではなく、一国内の経済政策運営に対する強い警鐘の意味も持つのです。

倫理の起源34

2014年05月20日 01時01分08秒 | 哲学
倫理の起源34


  ヘーゲル

 以上が和辻倫理学の優れている点であるが、次に疑問点を記す。

①和辻は、人倫の基礎原理を相互の「信頼」に置く。これは、一見、疑う余地のない正しい把握に思える。というのも、人間どうしの相互信頼関係こそが共同性を成り立たせる基盤であり、個々の人格の安定も、この関係によってこそ支えられるからである。
 しかし、人間は時間の中でたえず新たな「決断」と「行為」をなしていく存在であり、そこには絶対的にその好結果を保証された決断や行為というものはありえない。ゆえに、人間の決断や行為には、必ずいくばくかの「不安」が伴う。最も安心してふるまっている日常的な行為のたぐい、たとえば、出社時に何時何分の電車に乗るために、何時何分に家を出る、といった行為は、交通システムへの「信頼」があればこそ可能な行為だが、しかしそれにしても、もしかしたら偶発事によって自分の行為は無駄になるかもしれない、という可能性の感覚がどこかに織り込まれているだろう。「不安」はほとんど意識されないにしても、絶無とは言えないのである。
「信頼」の成立は、過去の積み重ねという「既知性」を不可欠の条件としている。これがなければ、「あの人が私を裏切ることはけっしてない」という確信も、「何時にどこそこで取引する」という約束の遵守も、その確実性が保証されない。しかし「決断」や「行為」は、常に未来に向かっての投企であり、賭けである。したがって、「信頼」という概念のなかには、もともと(論理的に)「そうはいかないかもしれない」可能性が顧慮されているのであり、人々はそのことを承知のうえで、「信頼」に賭けるのである。これを要するに、「信頼」概念は、「不安」や「不信」概念を不可避的に伴っており、前者が後者をその必要条件として含むのである。 もし和辻の言うように、人倫の基礎原理が、ただひたすら不信とは無縁な「信頼」によるのだとしたら――それは一応形式的には正しいが――、「不信」や「不安」への顧慮は無用のものとなり、そうだとすると、これらを取り除くために、何かことさら道徳や法や人倫を説く営みには意味がないことになる。つまり、「信頼」だけに人倫の基礎原理を置くと、皮肉なことに、なぜ私たちが人倫精神を必要とするのか、その理由をかえって導き出せないことになりかねない。
 人間相互の「決断」や「行為」には、過去から未来へ向かって自己を投企するというその特質上、必然的に不信や不安がつきものである。この不信や不安は、それらが実現してしまうこと、つまり約束や誓約や信頼の情が裏切られてしまうことを予定している。そしてその「裏切られること」は、究極的には「死」=相互の別離に結びついている。だからこそ、私たちはその不信や不安を克服するために人倫精神を必要とするのである。

②和辻倫理学には、「こうである」という、「存在」についての認識(ザイン)と、「こうあるべきである」という、「当為」についての認識(ゾレン)との区別が曖昧である。そのため、ゾレンを語っている文脈がいつの間にか、ザインを語るものとして固定化されてしまう傾向が強い。これは、人間の生の暗黒面に対する視点と視野とが不足しているからである。
 二つばかり例を挙げよう。いずれも第三章「人倫的組織」のなかの記述である。
 ひとつめ。第4節「地縁共同体」において、村落の日々の共同労働や祝祭における絆の深さについて書かれたくだりがあるが、これは、いいことづくめで彩られており、現実にはほとんど存在しない桃源郷の風景である。
 二つ目。同じく第5節「経済的組織」において、その内在的な人倫精神の要を「奉仕」というキーワードで語っている。この「奉仕」の精神については、直接的に労働や交換を共にしている仲間や相手どうしの間では、実感できる感覚だが、資本主義社会においては、マルクスが「疎外された労働」という言葉で語ったように、一人ひとりの労働者の生活感覚に訴えかけることのできない無理な概念である。結果、和辻は、じつは近代資本主義社会においても個々人の経済活動を基礎づけているのは「奉仕の精神」であるという道徳主義的な強弁に陥っている。「奉仕」では、ボランティア活動や慈善活動と、普通の労働行為との区別がつかなくなる。また、圧政的な権力による強制労働なども正当化されかねない。
 経済的組織における人倫精神の要は、むしろヘーゲルが説いたように、互いの人格を尊重し承認しあう、というところに求めるべきである。労働や商品に対して適正な対価を支払うとか、みんなで飲んだときには、料金を割り勘にする、などの習慣は、それぞれの人格を尊重し、他者を承認することを通して自分もまた対等な社会人の一人として承認される、という論理がはたらいている例である。
 ただしヘーゲルの説いた人倫精神は、あくまで「ゾレン」として説かれるべき問題であって、資本主義社会の中にいつも「ザイン」として生きているわけではない。この人格の尊重と相互承認とが実感されない事態が多岐にわたって生じるとき、それは、社会の構造そのものに問題があると考えるべきである。マルクスがヘーゲル哲学の観念性を批判した動機には、このことが強く関与していた。
 以上、二点は、先に優れた点の④として掲げた項目で、「問題がないわけではない」と述べたことの実例である。詳しくは、前掲拙著参照。

 さて以上のように考えてくると、和辻倫理学、とくに「人倫的組織」を論じた第三章の方法論は、果たして正しかったのかという疑問が生じてくる。
 繰り返すが、この章は、ある共同体にはそれ固有の人倫性が宿っており、それは、その組織の構造から必然的に導かれるという叙述形式をとっている。しかしここには、ある重大な見落としがあるのではないだろうか。
 この叙述形式は、次の三点について問題を含んでいると私は考える。

①質や水準の異なるそれぞれの共同体は、実際には孤立して成り立っているということはなく、相互に複雑に連関しあっている。しかし和辻の叙述方法に従うと、そのことがよく見えなくなる。私たちの生は、これらの「共同体」をそれぞれ固有の価値あるものとみなせるような構造をしていない。これらを現に生きる私たちは、それぞれが運んでくる価値が互いに矛盾する経験を強いられるが、和辻は、この事実に一言も言及していない。
 例えば先に述べた「地縁共同体」では、実際にはその内部のより小さな共同体(たとえば家族や親族)どうしの陰湿な内訌があり得るし、それを超えたより大きな共同体からの上からの指示・命令などの作用があり得る。これらは、往々にして「地縁共同体」というまとまりを自足したままにしておくことを許さず、時には解体に至るまでに揺さぶることがある。

②和辻の叙述は、すべての共同体がそれぞれ実体として「いいもの」であるという前提に立っている。しかしそういうことが、無条件に言えるなどということはない。たとえば家族共同体は情の絡み方次第では、人心を荒廃させる原因ともなり得るし、国家共同体は、多くの生命を無意味に犠牲にしてしまうことがあり得る。
 この点についての和辻の叙述には、やはり、「ザイン」と「ゾレン」との混同が見られるし、また、生の暗黒面への視点・視野がなさすぎるのである。倫理学は、生の暗黒面という現実を直視しつつ、しかも最終的には「ゾレン」を追究する学であるという姿勢を一貫するのでなくてはならない。

③和辻の叙述は、より小さな共同体からより大きな共同体へと直線的に向かう(あるいは同心円的に拡大してゆく)スタイルを取っている。このスタイルはそれ自体としては別に問題ないのだが、不用意に読むと、一見、上位のもの(あとから記述されるもの)ほど、下位のもの(先に記述されたもの)の矛盾を止揚して人倫性が高くなっているかのような錯覚を与える(この点は、ヘーゲルにも当てはまる)。
 例えば、和辻は、国家共同体を「人倫組織の人倫組織」と呼ぶ。この規定そのものは、すべての組織が内在的な人倫性をもつという前提に立つ以上、誤りではない。しかし、だからと言って、たとえば家族のもつ人倫性に比べて、国家のそれがより「高い」と一般的に言えるわけではない。そのような価値観を和辻は直接展開しているわけではないが、そのように受け取られかねない記述スタイルになっている。
 ちなみに、性愛や家族の人倫性と国家の人倫性とは、ある現実の側面では、激しく矛盾対立することがあるのであって、それはより上位・より下位という形式的な序列化によってはけっして解決しないのである。この問題をどう読み解くかは思想的に非常に重要なので、あらためて述べる。


*次回は、和辻倫理学の難点を克服するための新しい方法を提示し、その方法に従って人倫精神の具体相を展開していきます。

毎朝新聞若手記者の会話

2014年05月17日 19時11分07秒 | コント
毎朝新聞若手記者の会話



 ところは東京築地、お昼時のとある喫茶店。五月の爽やかな光がドア越しに差し込んでいます。私はアメリカン・コーヒーを味わいながら、西郷信綱の『古事記の世界』を読んでおりました。
 すると二人の若い男が入ってきて、私の隣のテーブルに腰を下ろし、何やら困惑したような表情で、新聞を見合いながら話し出しました。どうやら二人とも、すぐ近くにある毎朝新聞に同期で入社した記者らしい。キャリア6、7年ほど、というところか。興味を引き付けられたので、彼らの会話の一部始終を聴いてしまいました。
 以下はその忠実な再現です。

A記者:ウチの社説、読んだ?

B記者:いや、今日の午前中まで『美味しんぼ』の追っかけやんなきゃならなくてそれどころじゃなかった。俺はだいたい自社の社説なんてめったに読まないよ。文化部さんは読むのかい。
A:必要がなきゃ読まないけどさ。たまたま読んだら、これはいくらなんでもちょっとひどいんじゃないかと思って持ってきたんだ。

B:昨日の集団的自衛権のやつ?

A:あれはまあ、護憲、安倍政権反対、平和主義がウチの社是だから、型通りの一本調子で仕方がないよ。特定秘密保護法の時も、文化人、芸能人を駆り出す役目振られて苦労したよ。マンネリもいいかげんにしてくれと正直思ったけどな。

B:で、その持ってるのは?

A:15日の「路上の民主主義 自ら考え動き出す人たち」。ちょっと読んでみてくれ。

(B、読み始める)

 私はこれを聴いて、帰宅してからその記事を探し出しました。ここに全文転載します。

 変わらなければ。
 変えなければ。
 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故を経験した2011年。「第二の敗戦」といった言葉も飛び交うなか、日本社会は深い自省と、根源的な変革を求める空気に満ちていた。
 それを目に見える形で示したのが、震災から約半年後に東京で開かれた「さようなら原発」集会だ。主催者発表で6万人が参加。ノーベル賞作家・大江健三郎さんは訴えた。「何ができるか。私らにはこの民主主義の集会、市民のデモしかない」
 あれから3年近くが経った。
 ■首相がまく種
 自民党が政権に戻り、原発再稼働が推進され、大型公共事業が復活する。
 何も変えられなかった。
 冷めた人。折れた人。疲れた人。民主党政権への深い失望と相まって膨らんだ諦念(ていねん)が、安倍政権の政治的原資となってきたことは否めない。
 反対意見に向き合い、議論を深める。民主制の根幹だ。しかし首相はどうやら、選挙で選ばれた、最高責任者の自分がやりたいようにやるのが政治で、反対意見なんか聞くだけ無駄だと考えているようだ。
 憲法の縛りさえ、閣議決定で「ない」ことにしてしまおうという粗雑さ。これに対し、与党が圧倒的議席をもつ国会は、単なる追認機関と化しつつある。
 気づいているだろうか。
 首相の強権的な政治手法とふがいない国会のありようが、自ら思考し、行動する政治的な主体を新たに生み、育てていることに。怠慢なこの国の政治家にとっては、幸か、不幸か。
 ■声を響かせる
 「『Fight the power』、これは権力と闘えって意味で、ちょっと過激なんすけど、まあ英語だから大丈夫かなと」
 憲法記念日に東京・新宿で行われた「特定秘密保護法に反対する学生デモ」。集合場所の公園で約400人が声を合わせ、コールの練習を始めた。都内の大学生らが主催した、党派によらない個人参加のデモ。ネットや友人関係を通じて集まった。
 出発。重低音のリズムを刻むサウンドカーを先頭に、繰り返される「特定秘密保護法反対」「憲法守れ」。堅苦しい言葉がうまくリズムに乗っかって、新宿の街にあふれ出していく。
 大学生たちがマイクを握る。
 「自分らしく、自由に生きられる日本に生まれたことを幸せに思っています。でも、特定秘密保護法が反対を押し切って成立した。このままじゃ大好きな日本が壊れちゃうかもしれないって思ったら、動かずにはいられませんでした」
 「私は、私の自由と権利を守るために意思表示することを恥じません。そしてそのことこそが、私の『不断の努力』であることを信じます」
 私。僕。俺。借り物でない、主語が明確な言葉がつながる。
 社会を変えたい?
 いや、伝わってくるのはむしろ、「守りたい」だ。
 強引な秘密法の採決に際し、胸の内に膨らんだ疑問。
 民主主義ってなんだ?
 手繰り寄せた、当座の答え。
 間違ってもいいから、自分の頭で考え続けること。おかしいと思ったら、声をあげること。
 だから路上に繰り出し、響かせる。自分たちの声を。
 「Tell me what democracy looks like?(民主主義ってどんなの?)」のコール。
 「This is what democracy looks like!(これが民主主義だ!)」のレスポンス。
 ある学者は言う。頭で考えても見通しをもてない動乱期には、人は身体を動かして何かをつかもうとするんです――。
 彼らは極めて自覚的だ。社会はそう簡単には変わらない。でも諦める必要はない。志向するのは「闘い」に「勝つ」ことよりも、闘い「続ける」ことだ。
 ■深く、緩やかに
 5月最初の金曜日に100回目を迎えた、首相官邸前デモ。
 数は減り、熱気は失せ、そのぶんすっかり日常化している。植え込みに座って、おにぎりを食べるカップル。歌をうたうグループ。「開放」された官邸周辺を思い思いに楽しんでいる。
 非暴力。訴えを絞る。個人参加。官邸前で積み上げられた日常と、新しいデモの「知恵」がなければ、昨年12月に秘密法に反対する人々が国会前に押し寄せることも、学生たちのデモも、なかったかもしれない。
 つよいその根は眼にみえぬ。
 見えぬけれどもあるんだよ、
 見えぬものでもあるんだよ。
 (金子みすゞ「星とたんぽぽ」)
 たんぽぽのように、日常に深く根を張り、種をつけた綿毛が風に乗って飛んでいく。それがどこかで、新たに根を張る。
 きょう、集団的自衛権の行使容認に向け、安倍政権が一歩を踏み出す。また多くの綿毛が、空に舞いゆくことだろう。
 社会は変わっている。
 深く、静かに、緩やかに。


(B、読み終わる。しばらく無言)

A:どうだい。

B:これだれが書いたのかな。

A:そりゃ、PさんかQさんか、どっちかだろう。他にいるわけない。

B:あの二人、たしか団塊だったよな。

A:そう、全共闘世代。

B:あの世代の感覚って、こんなもんじゃないの。

A:お前、そんな他人事みたいな言い方で済ませられる問題か。

B:だけど社会部にも、こんなのたくさんいるぞ。

A:でもこれってさ、社会部や生活部発信の記事ならまだわかるよ。社説は社の顔だぜ。社説だよ、社説。これ、全然論説にも何にもなってないじゃん。俺、これ読んだとき同じ社の社員として恥ずかしくて思わず顔が赤くなったよ。

B:まあ、お堅い政治論説ばかり書いてる彼らも時々は情緒に浸りたくなるんじゃないか。それにしても、お前にしては珍しくいきり立つな。失恋でもしたか。

A:冗談はよせ。はばかりながら、これでも文化部記者のはしくれだからな。言語表現にはちょっとばかりうるさいんだ。社説には社説のモードってものがあるだろう。へたくそな詩みたいな文章がこういう場所に許されるのか。

B:でもさ、PさんもQさんもたしか文化部上がりじゃなかったか。それで、論説委員会でたまには「文化の香り」がする文章をって考えたんじゃないの。集団的自衛権の行使容認を前にして、その方が一般読者向けにアピールするんじゃないかって。

A:「文化の香り」が聞いてあきれるぜ。安っぽい文句のオンパレードだ。文化表現が政治言説に利用されてはならないというのは、俺たち表現で飯食ってる者が守るべき鉄則じゃないのか。
 そもそもなんでたかだか400人の学生集会やデモのことを社説に麗々しく載せるんだ。それって、きちんと論理で安倍政権の政策を批判できない無力と敗北を自分から露呈しているようなもんじゃないか。

B:そうかもな。だから初めの部分で「何も変えられなかった」と書いてて、悲壮感さえ漂っているじゃないか。結局、こういう方が効果があるって見方も成り立つ。

A:効果なんてないよ。いや、なまじあるからまずいのかな。
 ともかくこの文章、常識的に見てめちゃくちゃだぜ。たとえば、特定秘密保護法のどこがまずいのか、集団的自衛権容認の何がいけないのか、こういう政策が出てくる背景には、どういう国際環境の変化があるのか、一切書いてない。ただ権力がやることだから全部反対と騒いでいるだけだ。
「首相はどうやら、選挙で選ばれた、最高責任者の自分がやりたいようにやるのが政治で、反対意見なんか聞くだけ無駄だと考えているようだ」と書いてるけど、これも客観的に見て事実に反する。安倍首相は、与党内野党の公明党の了解を何とか取り付けようと石橋を叩いて渡るくらいの時間とエネルギーを注いでいる。
「憲法の縛りさえ、閣議決定で『ない』ことにしてしまおうという粗雑さ」という表現こそ粗雑だ。国会議決が不可欠のプロセスであることは自明で、たとえ形式的とはいえ、自民党はそういう民主主義的な手続きをきちんと踏もうとしている。
「自ら思考し、行動する政治的な主体を新たに生み」なんて書いてるけど、6万人が400人に減っちゃったんだろ。何にも新たに生んでなんかいないじゃないか。
「『Fight the power』、これは権力と闘えって意味で、ちょっと過激なんすけど、まあ英語だから大丈夫かなと」――こいつはとんでもないバカだな。初めから腰が引けてるじゃないか。英語だから大丈夫とは、聴いてるこっちの顔が赤くなる。どうせなら国境を超えて「Fight the power!」と叫べよ。このグローバル時代に応援者がたくさん期待できるかもよ。それよりなにより、こんなバカ学生のその場限りの発言を大真面目に取り上げて、「自ら思考する政治的な主体」とは恐れ入ったな。
「コールの練習」だってさ。練習しなきゃ動き出せない集団がなんで「自ら思考する政治的な主体」なのかね。
 400人で、なんで「新宿の街にあふれ出す」ことができるんだよ。毎日数十万人の人々であふれかえっているのが新宿の街なんだ。
「何も変えられなかった」とか「守りたい」とか言ってながら、「社会は変わっている」だってさ。
「私。僕。俺。借り物でない、主語が明確な言葉がつながる」なんてのも、政治がそんな簡単なものじゃないってことを知らない中学生みたいな幼稚な調子だ。
 一番おかしいのは、「自ら思考し」と書いてながら、「ある学者」を引っ張ってきて「頭で考えても見通しをもてない動乱期には、人は身体を動かして何かをつかもうとするんです――。」などと言わせていることだ。これは語るに落ちていて、集会やデモ参加者が何も「自ら思考し」てなんかいないことを自己暴露しているじゃないか。

B:まあ、まあ、そうカッカするな。言葉尻をとらえれば、たしかにボロはたくさんある。でも、これはわが社の社是に矛盾しているわけじゃない。お前がなんでそんなに熱くなるのか、俺にはそっちのほうが興味があるな。

A:いや、要するに、ただの反権力気分に便乗するんじゃなくて、いまの政治の何がどうおかしいのかをきちんと論理的な言葉で説得するのが論説の使命だろうということだよ。論説はアジテーションじゃないんだから、ちゃんと現実を総合的かつ公正に見るべきだろう。いやしくもわが社は「一流新聞」の看板を掲げているんだぜ。でも俺には最近のわが社の政治記事は三流紙にしか見えない。文化欄だって、社の政治方針に思うざま利用されているんだ。

B:あんまりそんなことを本気になって考えていると、周囲に敵を作るぞ。「自由な」文化部さんといえども、風向き次第でガシャンと封殺されることなんかいくらでもある。

A:そういう処世術はありがたく承っておくよ。でも俺はわが社のために言っているんだ。こういう水準の低い文章を「社説」などと称してのっけていると、そのうち必ずしっぺ返しを食らうよ。「公正な報道を旨とする一流紙」という看板に胡坐をかいている傲慢な社風から一刻も早く抜け出さなくちゃいけない。

B:うーん、正論だ。少し説得された。
 ああ、そうそう。それで思い出したけど、今年の入社試験には、東大生が一人も受けなかったんだってな。他紙で初めて知ったよ。ウチのデスクが嘆いてたっけ。

A:残念ながら、さもありなむと思うよ。こんなことを続けていたら、優秀な若い奴にどんどん見放されるぞ。
まあ、お互い、部局は違うけど、できることをやっていこうぜ。

B:わかったわかった。俺だって金のためだけじゃなくて毎朝に希望を抱いて入ったんだからな。「自ら考え動き出す人たち」にならなくちゃな。

 二人とも、快活なような、沈鬱なような、何とも複雑な表情を浮かべながら、席を立って店を出ていきました。あの毎朝新聞にもこういう若い人がちらほら出てきたのでしょうか。大新聞の下っ端記者も、あれでなかなか大変なんだな、という感想を抱きつつ、私は、再び『古事記の世界』に没頭したのでした。午後の日差しはまだ衰えを見せないようです。


*この文章を書くにあたり、朝日新聞5月15日付の社説をそのまま拝借いたしました。

倫理の起源33

2014年05月15日 16時13分04秒 | 哲学
倫理の起源33



 すでに折々に触れてきたが、和辻哲郎の『倫理学』は、わが国が産んだ倫理思想の最高峰であり、世界的な偉業である。その関係論的な人間観の徹底性、記述の体系性、いたずらに形而上学に溺れす、たえず日常生活の実感を汲み上げつつ論理を構成していこうとする思考態度などにおいて比類がない。だれもまだこれを乗り越えた者はいない。
 私は、彼のこの仕事についてやや詳しく論じたことがある(『日本の七大思想家』幻冬舎)。そこでは、その創造性を大いに評価するとともに、疑問点についても指摘しておいた。細かいことはそちらを参照していただくとして、いま簡潔にその論点を整理しておくとともに、いくつかの点を付加しておきたい。

 まず優れている点について。

①人間を孤立した個人として捉えず、間柄的存在としてとらえ、その実践的行為的連関のうちに人間の本質を見る。倫理とは、(筆者流に言い換えれば)「なかまとしていきるすじみちをあらわすことわり」であり、この定義は、彼の人間本質の捉え方から必然的に導かれる。

②彼は、人間を次のように規定する。人間世界(世間)は、社会と個人との二重性において成り立ち、個としての存在は、全体からの離脱、すなわち全体の否定であり、人間存在の本質的契機のひとつとして必ずその立脚点を認められなければならないものである。が、さらに進んで、その存在は再びみずからを否定し、その本来的在り処としての共同存在に自己還帰する。こうした無限につづく否定の否定としての弁証法的運動の全体が人間のあり方である。

③この規定からは、「悪」が次のように定義づけられる。「悪」とは一般に、共同性からの個の背反であるが、背反の事実それ自体は同時に共同性への還帰の契機ともなるので、それだけをもって「悪」と呼ぶことはできない。共同性への還帰の運動を伴わないような、背反の固定化、すなわち個への「停滞」こそが「悪」である。同時にまた、はじめからこの運動への契機をはらまないような「共同体」への怠惰な眠り込み(創造性の欠落)も「畜群」への転落として位置づけられる。

④夫婦、家族、親族、地縁共同体、経済的組織、文化共同体、国家などの具体的な共同性のあり方の中に、それぞれ固有の人倫性を認める。例えば経済的組織(企業など)は、単に、個人およびその集合体がみずからの利益だけを合理的に追求する「経済人」の集合なのではなく、もともとその組織に内在する人倫性があると主張される。
 このように、具体的な共同体のあり方の中に人倫性を認めようとする方法論自体は、たいへん独創的で新鮮なものである。普遍から具体性へ、具体性から普遍へ、と思考を往復させる和辻倫理学ならではの生き生きとした特長が躍如としている。カントなどには到底望めない方法である。しかし反面、このやり方に問題がないわけではない(後述)。

⑤以下に挙げる点は、④に深くかかわる。
 和辻倫理学の特に独創的な点は、彼の言う「二人関係」、すなわち男女の私的な関係のうちに、内在的な人倫精神の出発点を見いだすという、生活の具体相に即した発想である。この発想は、管見の及ぶ限りでは、西洋の倫理学にはけっして見られないものである。
 なるほど西洋には、恋愛や結婚をまじめに、肯定的に論じた書物はたくさんあるし、また「我と汝」という関係のあり方の探求を通して、そこに基本的な人倫の原理を打ち立てようとした書物もある。しかし概して前者は、その美的側面や人生における重要性を強調しただけに終わっており(例:スタンダールやキルケゴール)、後者は、男女という「性愛」関係の特殊なあり方を捨象した抽象的な「自他関係」の記述に終始している(例:ジンメルやブーバー。なおジンメルについては、和辻自身が的確に批判している)。
 またヘーゲルの『精神現象学』は、「家族」の人倫性について卓抜な展開を見せているが、その前段階、つまり性愛関係そのものに対しては深い関心を示していない。
 西洋の倫理学(哲学)は、これまで見てきたように、「精神」や「理性」や「公共性」を「肉体」や「感性」や「私生活」に対して優位に立てるということが暗黙の前提になっているので、肉体の交わりを含み、感性的な歓びをめざし、私生活そのものの世界を開示するような性愛関係は、初めからネガティブなバイアスをもって見られる。だから性愛はそれ自体として倫理性を含むのではなく、肉の愛が宗教的な精神の媒介によって浄化された暁に、ようやく倫理性を獲得するという話になる。
 ちなみに、明治時代に北村透谷が「恋愛は人生の秘鑰なり」として、政治社会にこれを対置し、男女関係の重要性を説いたのは、思想的な発想としては卓抜であった。
 しかし透谷は、西洋由来の「恋愛」なる概念を、それまでの江戸情緒ふうな男女関係のあり方とは異質な、何かより崇高な精神的なものであるかのように印象づけた。これはその時点ではやむを得なかったとはいえ、いかにもインテリらしい勘違いであった。端的に言えば、透谷、藤村、花袋、光太郎ら、日本近代前期の「自然主義」文学者たちは、日本風の「至誠」「まごころ」「自分に忠実であること」などの倫理感覚の器に、キリスト教の宣教師たちが持ち込んできた欺瞞的、両義的な「愛」なる概念を注入されてたぶらかされたのである。

 和辻倫理学は、西洋的な霊肉二元論そのものを退ける。しかもそのモチーフは、あくまでも日常茶飯の生活交流(実践的行為的連関)のなかに人倫の源を見いだすという徹底した方法によって貫かれていて、単なる形而上学的な対抗論理を提供しているのではない。したがって私たちの誰をも(もちろん西洋人をも)うなずかせるに足る普遍的な説得力を持つのである。だから、彼がまず、私生活を根底から規定している男女関係(エロス関係)のあり方そのもののうちに最初の人倫的契機を求めたというのは、きわめて必然的なことなのである。
 和辻は、「肉体」をけっして軽蔑しないどころか、「肉体」こそは精神があらわれる唯一の座であると一貫して考えていた。たとえば次の引用を見よう。

 以上のごとき省察の下に我々は、抽象化せられた性衝動から出発することを斥けて、まず初めに具体的な性関係を把捉し、そこに人間関係における根源的な「対偶」を見いだそうとするのである。日常的現実における性関係は、初めより人格や愛の契機を含み、心身の統一において男女が互いに相手の全体を取り、自己の全体を与えんとするのものであって、何らかの浄化過程を経た後にかかる段階に達するのではない。心身分離の立場に立って、身体の側に性衝動を、心霊の側に愛を認めようとするごときは、抽象的思惟の作為にすぎない。ある女に性的に引かれ、あるいは結びつく男が、その女の身体、たとえばその女の「顔」を、単に身体的なるものとして愛の外に押しやるなどということがあり得るであろうか。愛するものの「顔」は単なる肉体などではない。そこに相手の人格があり心霊があり情緒がありまた個性がある。相手が頼もしい人物である場合には、その頼もしさは顔に現われている。相手が優しければその優しさも顔にある。相手が他の何人によっても置き換えられえぬ唯一回的な存在であるとすれば、その唯一性もまた顔にある。(中略)顔が情緒をあらわしているように、全身もまた情緒を現わし得る。顔に気品があり得るように、身体にもまた気品があり得る。してみれば、肉体全体は精神の座である。しかもそれは肉体であることをやめはしない。そうしてその点が男女関係においては欠くことのできない重大な契機なのである。(『倫理学』第三章第二節)

 このように、心身一如として人間をとらえるところから、先に述べた「二人関係=男女の性愛関係」そのもののうちに人倫性を見いだすというユニークな視点が得られる。その人倫性は、ひとりの相手に己の心身のすべてを与えると同時に、その相手の心身のすべてを取るという全人格的な関係のあり方を根拠としている。この関係において、個人としての「私」は止揚されて、一体となった存在の共同が実現される。
 じっさい、深い性愛関係以外に、こういう徹底的なあり方はあり得ない。そうして、それが他を排除するまったく特殊な存在の共同であるがゆえに、最も私的なものとして公共性からは秘匿される。公の立場から見れば、それは他人に共有されない情の交換や「犬も食わない」些末なやりとりに終始するという理由から、「どうでもよい」「より低い」ものとみなされがちだが、和辻は、そのことを認めつつ、次のように高らかに宣言するのである。

 もちろんそれは閉鎖的な私的存在であることを媒介として実現されるのであるから、「私」として貶められるべき性格を振り捨てることはできぬ。にもかかわらず、それは人間存在の理法を実現する最も端的な道としての意義を失わないのである。従って世界宗教がいかにこれを排撃しようとも、人間はこの道を捨てなかった。男女の道は人倫の道である。その権威は逆に世界宗教を感化して、さまざまの形においてこの性的存在共同を容認するに至らしめている。(同前)

 この宣言は、同時代の思想家・小林秀雄が『Xへの手紙』のなかで、「たとへ俺にとつて、この世に尊敬すべき男や女は一人もゐないとしても、彼等の交渉するこの場所だけは、近付き難い威厳を備えてゐるものの様に見える」と書いたことに正確に呼応している。
 こうして、男女の深い性愛(恋愛)関係が、いかに第三者の介入を強く排除するものであるか、そうしてその介入が現に行われた時には、不倫による裏切りや三角関係の葛藤のように、いかに命さえかかった切実な苦悩を呼び起こすかについて、和辻は力説する。古来、文学が扱ってきたこの問題のうちに、彼は男女の結合に必然的に内在する人倫の如実な相を見いだすのである。
 また、一対の男女関係が公的な承認(婚姻)を経ることによって、夫婦共同体となった時には、その人倫性は、共同性実現の第一段階を指し示しているにもかかわらず、同時に、「信頼や信実のごとき根本的な人間の道を実現する場所としては決して初歩的な段階ではなくして最も深刻な要求の行われる段階」として、次のように押さえられる。

 ここで和合が問題とせられるに当たっても、それは夫婦が心身のことごとくを含めての互いの全存在をあますところなく与えまた取るという和合でなくてはならぬのである。これは己れの全存在を相手に委せるという意味で絶対信頼に近いのであるが、特に「身を委せる」という言い現わしが示唆しているごとく、身体的な合一を含む点において他の共同存在よりも徹底的なのである。
 この特徴をとらえて夫婦の和合はしばしば性愛の合一と同一視せられるが、しかし性愛の合一は夫婦の道の一部であって全部ではなく、また夫婦の道としてあらわに説かれてきたものでもない。(中略)宗教はむしろそれを否定的に取り扱い、哲学もまたそれに近い態度を取った。一般に行為の仕方を示している道徳思想においても性愛の仕方を立ち入って教えているものはない。(中略)が、もしかかる知識が教えられるとすれば、それは秘密に、隠された仕方においてである。すなわち性愛の合一は最も閉鎖的な「私的存在」であり、従って隠さるべきものなのである
。(同前)

「夫婦の道」としての本来性が、まことに的確にとらえられている。先の引用にも見られたが、和辻はここで、既成の宗教、哲学、道徳が、絶対に落としてはならない「人の道」であるはずの男女や夫婦のあり方に対して、軽視のまなざしをしか投げてこなかった事実をやんわりと批判している。これは、私自身がこれまでさんざん述べてきたように、特にキリスト教文化圏で顕著である。しかしそういう一種の道学的な抑圧装置をいくら施しても、そのリアクションはかえって激しく開花し、西洋文学や西洋芸術は、性愛を見事な形で大いに肯定的に扱ってきたのである。ことに古典文学やルネサンス芸術においてそれが著しい。和辻自身もそのことを指摘しているが、こういう問題をきちんと拾い上げるところが、彼の人間観の幅の大きさとしなやかさとをあらわしている。

 しかし、ここで一つだけ疑問を呈しておきたい。
 彼はただ性愛の合一が最も閉鎖的で私的であるゆえに隠されるべきものであると述べているだけであるが、これは一種の同義反復であろう。「人の道、夫婦の道はこうなっている」という現象の記述としては、この通りと言うほかはないが、では、なぜ性愛的な関係に限ってそのように厳重に秘匿されるのか、それが人倫の見地から見てなぜ正当なことなのかという問いに答えていない。私的な行為にはたとえば食事や遊戯があるが、これらが人と共に行われても、別に隠されることはないのである。
 これについては、後に私見を
述べることにする。

*次回は、和辻倫理学の難点について論じます。

二曲聴いてふと感じたこと

2014年05月13日 00時15分25秒 | エッセイ
二曲聴いてふと感じたこと


 徳永英明の「VOCALIST」シリーズを持っています。
 このシリーズの4のなかに、①「時の流れに身をまかせ」(原曲テレサ・テン)と②「First Love」(原曲宇多田ヒカル)が収められています。
 とりあえずYou Tubeから、この2曲を転載しましょう。

徳永英明 / 時の流れに身をまかせ


「First Love」hideaki tokunaga


 さてこの2曲を聴いているうちに、ふとあることを感じました。それについて書いてみます。
 どちらも切ない女心を歌っていて、曲としてはとてもいい出来栄えですね。ただその詩の出来不出来について、どうしても言いたいことがあります。
 ①は、新しい恋人を得た歓びとともにその恋を失いたくないという思いを訴えた歌、②は初めての恋に破れて痛むわが心の傷を自らそっといたわろうとする歌。両者はシチュエーションが逆といってもいいので、そもそも比較するには無理があるかもしれません。でもあえて比較してみようと思います。
 私の直感をまず言うと、①は文句のつけようのないいい詩ですが、②には何だかウソくさいイヤなものが感じられるのです。では、それぞれの歌詞の1番をここに書き写してみましょう。

①時の流れに身をまかせ

  もしもあなたと 逢えずにいたら
  わたしは何を してたでしょうか
  平凡だけど 誰かを愛し
  普通の暮し してたでしょうか

  時の流れに 身をまかせ
  あなたの色に 染められ
  一度の人生それさえ 捨てることもかまわない

  だからお願い そばに置いてね
  いまは あなたしか愛せない


②First Love

  最後のキスは
  タバコのflavorがした
  にがくてせつない香り

  明日の今頃には
  あなたはどこにいるんだろう
  誰を想ってるんだろう

  You are always gonna be my love
 いつか誰かとまた恋に落ちても
  I'll remember to love
  You taught me how
  You are always gonna be the one
  今はまだ悲しいlove song
 新しい歌 うたえるまで


 この両方の詩にはある共通点があります。それは、世の中は移ろいやすいもので、自分の心も定めがたいから、時間がたてば今の思いは変わってしまうかもしれないという「はかなさ」の感覚があらかじめ織り込まれていることです。
 ①では、「いまはあなたしか愛せない」というところにそれがあらわれ、②では「いまはまだ悲しいlove song 新しい歌うたえるまで」というところにそれがあらわれていますね。
 しかし、①の場合には、「いま」の恋心が何のためらいもなく一途にストレートに表出されています。「だからお願い そばに置いてね」というセリフを聞かされた男は、相手に少しでも惚れていれば、まず間違いなく参ってしまうでしょう。「いまはあなたしか愛せない」という一種の「限定」は、少しも男の心を醒ます方向にははたらかず、かえってますます「おお、それでいいとも」と相手を受け入れて応じる気持ちをかき立てるに違いありません。人生とはそういうものだというはかなさの感覚がいよよ二人をつなぎとめるのです。

 ②の場合はどうでしょうか。
 自分がまだ失恋の痛手から癒えないので、これからもずっとあなたを心の隅で思い続けると懸命に言い聞かせているわけですね。「the one」とまで言っています。その気持ちはわからなくはありません。
 でも「いつかまた誰かと恋に落ちても」と自ら平然とつぶやいて見せる余裕はいかがなものでしょう。「あなたがどんなにかけがえのない人かがわかった」という言い方も妙に覚めています。「いま」あるはずの直接的な心からすでに離れて、未来の自分を想定してしまっているのですね。
 言い換えれば、この人は失恋の痛手に浸ってはいず、早くも自分を相対化しようとしています。そこには失恋で落ち込んでいる自分の状態そのものを歌にしようという真率さが感じられません(たとえば中島みゆきの「あばよ」にはそれがあります)。なんだ、態のいいことを言ってるけど、そんなに傷ついていねえんじゃねえの、と冷やかしたくなります。私はたぶんその軽薄さが気に入らないのでしょうね。
 もちろん、初めての恋人に対する「あなただけは特別でいつまでも」という思いを心の奥底に秘め続けるということは実際にありうるでしょう。前の恋人にずっと未練を残し続けるということもある。
 それはそれでいいのですが、歌は公開的です。ほかの人も聴いています。その「ほかの人」が、ここに歌われている「いつかまた恋に落ちる」誰かだったらどうでしょうか。「新しい歌」の受け手だったら? ふざけんじゃねえ、そんなこと聞きたくねえ、ということになりませんか。ぬけぬけとそんなこと歌うんじゃねえよ、と。
 私が言いたいことをもっとはっきりいうと、この歌詞は、自分自身を突き放して冷ややかであるぶんだけ、かえって他の誰かに配慮しないはしたなさが露出しているということです。要するにナルシシズムなのですが、そのナルシシズムには可愛さが感じられず、すれっからしに特有のひとりよがりなのですね。歌わずに隠しておけばよいのに。

 私はずいぶんやかましいことを言っているかもしれません。でも、微差に見えるこの違いをどうしても見過ごすわけにいかないのです。
 で、こういう違いは、どこからくるのか。世代差、歌の作り手の個性など、いろいろ考えられるのですが、ここでは②の作者(宇多田ヒカルさん自身)を傷つける気は毛頭ありません。もちろん、たかが二つの曲だけを素材に文明論的な一般化を施すことなどできないのですが、そのことを承知の上であえて言うと、ここにはどうも日本的な機微の細やかさとアメリカ的な粗雑さが何ほどか反映しているような気がしてならないのです。①の感性は日本の伝統をそのまま受け継いでいますが、②の感性はいかにも戦後(=アメリカ)的です。
 調子に乗って、つい乱暴な結論を導き出してしまいました。反論、お叱りなどいただければ幸いです。
 

倫理の起源32

2014年05月08日 00時03分05秒 | 哲学
倫理の起源32




 プラトン、カント、ニーチェ、J・S・ミルと、ヨーロッパの哲学者たちの倫理学原理を探ってきた。もう一度端的にまとめておこう。
「イデア」という超越的な概念を柱に感性的な現実をより低いものとして見下げるところに善や正しさの原理を立てるプラトン倫理学の方法は、言語というものが必然的な特性として持つ抽象化の運動を利用したものにすぎない(より抽象的なものはより高いものである)。彼の方法は、目で見、手で触れられ、日常の生活感情によって確かめられる現世の実践的な交流のなかから倫理の原理が立ち上がるという事実を無視した、偉大なる転倒の詐欺である。この方法原理は、二千数百年の間、ヨーロッパの精神を支配し続けた。
「意志」を他の心的な要素から特権化して、そこに道徳の基礎となるべき「自由」の唯一の可能性を見ようとしたカントは、この特権化を正当化できる論理的な根拠を見出すことに失敗した。そればかりではない。彼はア・プリオリ(超経験性)の原理の存在をア・プリオリに(証明抜きで)措定することによって、抽象的な「善」の普遍法則を定言命法のかたちで示したが、その法則がどんな具体的な規定をもつのかをいっさい提示することができなかった。善悪とは何かという問いに答える用意が彼には初めからない。なぜなら、彼にとっての「善」は、ただ個人の幸福や傾向性への堕落に単純に対立するものとしてしか理解されていないからである。その意味でカントはプラトンの近代個人主義ヴァージョンである。
 支配者(強者)の道徳と奴隷(弱者)の道徳とを峻別し、ヨーロッパ道徳の歴史は後者が前者を駆逐してきた歴史だと決めつけたニーチェは、通俗的な「善」の観念に盲従する大多数の人々の死角を突く鋭い指摘を行った。道徳という名の「きれいごと」の背後にはルサンチマンにもとづく弱者の権力意志が潜んでいるという彼の心理学は、おおむね正しい(現代日本の「反体制サヨク」などはその好例である)。そこで彼は貴族道徳の復権を狙ったが、しかし奴隷道徳の一典型としてのキリスト教道徳の重圧を過敏に受け止めるあまり、人間が本質的に「共感」にもとづく関係存在としてしかあり得ない事実を認めようとしなかった。本質論としての人間把握が伴うのでなければ、「善悪」原理に「優劣」原理をただ対置するという論理的破綻に導かれてしまう。それは結局のところ、野蛮な弱肉強食を肯定する以外に活路を見出すことができず、批判するにせよ肯定するにせよ、現代文明社会のあり方に対する有効な提議たりえない。
 カントの「道徳形而上学」を大いに意識して、その非現実的な方法を批判したミルは、「幸福」原理を柱とする功利(有用)主義道徳を説いた。有用とは、だれにとって、何にとって有用なのか。万人にとって、幸福な生活の実現にとってである。道徳の根拠として、万人の幸福という具体的な目的を示した彼は、カントのプラトニズム的な超越性・抽象性と、徳福不一致の二項対立原理に固執する頑迷さを克服しえている。また、幸福という概念が、常に「相互の幸福」を意味していて、深くかかわった者同士においていっぽうが不幸なのに他方がそれによって幸福になるというような事態を、少しもよい状態とは考えていなかったことも確かである。
 快や幸福を倫理学上の原理としてはっきり打ち出した哲学者としてはエピクロスが有名である。しかしエピクロスの幸福観は、衝動や一時の欲望に心をかき乱されずに静かな隠遁生活を送るスタイルと切りはなせないから、一般の人間の幸福追求の感覚とは相いれないものを含んでいる。隠遁者の幸福は凡人のよく実現しうるところではない。これに対して、ミルのそれは、人間が、互いに交渉しあうことによって、より幸福な状態を実現させようとする動物であるという本質洞察が織り込まれているから、議論の射程がより広いのである。
 だが思えば、これらヨーロッパの倫理思想史の展開過程は、二千数百年をかけてようやくここまで、という溜息の出るような過程である。それは皮肉な見方をすれば、壮大なエネルギーの濫費であったと言えなくもない。もちろん浪費とは言わない。彼らがその傑出した才能を駆使して倫理問題に心血を注いだことは確かだからである。
 しかし私見によれば、肯定するにせよ対抗するにせよ、それらは総じてプラトンが古典時代に敷いた、「感覚では触れられない精神こそ価値が高い」という強固な図式に拘束され続けてきた。私たちが倫理問題について考察を進めるにあたっては、この西欧的思考のパターンを鵜呑みにせず、そういう性格のものとして適切に相対化しておくのでなくてはならない。
 翻って日本人は、倫理問題にかぎらず、概して人生における深い感得を論理的に〈普遍的な装いのもとに)表現するのが苦手である。ために、西洋文明が大津波のように押し寄せてきたときに、その圧倒的な力に目を奪われて、これまでの自分たちの「よき慣習」を、古臭く役に立たないものとして見捨ててしまう傾向が目立った。同時に、プラトンやカントの説くところが、その輪郭の鮮やかさのために、何か深遠で新鮮な、すばらしいことを言っているかのような幻想を植え付けられたことも確かだ。福澤が批判してやまなかった、「西洋心酔者流」である。
 だが考えてみれば、今まで論じてきた西洋哲学における倫理問題の帰結には、何となく私たち日本人にとって、「なにそれ、ミルの言ってることなんて、私たちの世間知からすれば当たり前じゃないの」と言いたくなるような部分が含まれている。すでに述べた近江商人の「三方よし」の精神、「情けは人のためならず」ということわざの深い含意、「世間」という水平的な概念を人倫の成立・維持にとっての主軸とみなす感覚、「絶対」「極端」「争い」を嫌い「相対(臨機応変、融通無碍)」「中庸(まあまあ程よく適当に)」「和(なるべく仲良く、妥協できるところは妥協して)」を尊ぶ心、などは、いわば一種の功利主義である。
 そこで本稿では、これから、日本人の日常生活のなかに生きている人倫感覚をなるべく論理的な言葉で掘り出すことを念頭に置きながら、その本来の意味について論じていきたいと思う。もちろん中には、批判的な対象だと考えられるものもある。


*次回は和辻哲郎の『倫理学』を取り上げます。