小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源41

2014年07月29日 20時53分04秒 | 哲学
倫理の起源41




 さてこのあたりから、「父性」的な人倫と、「母性」的な人倫との違いについて説いていくべきだろう。
 ユング派の心理学者・林道義氏が『父性の復権』(中公新書)ですでに書いていることだが、「父性」とは、その言葉が示すように、実際の具体的な父親を指しているのではなく、多くの父親が父親としてこうあるべきと感じてふるまってきた態度の集成を抽象的にとらえた概念である。「母性」の場合も同じ。したがって、現実には母親が父性を体現している場合もあるし、逆もある。
 しかしではいったい、父性、母性とは何かということになる。この問いに答えるには、、男性性、女性性とは何かというところから話を始めなくてはならない。
 そういう概念は作られたもので根拠がないという思想もありうる。だがこの問題は、それだけでゆうに一冊の本を書くに値するので、ここでは、親の人倫性というテーマに触れるかぎりで取り上げよう。ちなみに、この大きな問題に関心を持たれた方は、拙著『男はどこにいるのか』(ちくま文庫)、『男という不安』(PHP新書)などを参照していただければ幸いである。
 男と女は何が違うか。もちろん体の構造や、それに即した生理現象の相違(たとえば女は子を孕むが男は孕まない)、性行動の様式の相違(たとえば男は性器を挿入するが女は挿入される)、性的欲望の表現の相違(たとえば、男は若い女の肉体一般に発情するが、女は慎重に性目標を選ぶ)などを指摘することができる。つまり一般にいわゆるオス、メスとして区分される違いがあるわけだが、ここではそうした自然的な相違だけが問題なのではない。
 そうした自然的な相違に対して、人類が太古からどのような観念を賦与してきたか、その観念の在り方がどれだけの普遍性を持つかということが重要なのである。つまり、ジェンダー(社会的・文化的性差)と呼ばれる概念のうちに、私たち自身が生活のなかでどれだけの重要性を認めているかが問題なのだ。
 ちなみにジェンダーは歴史的に作られたものだから変わりうる、というのがフェミニズムの基本命題である。この基本命題は、女性は男性に比べて差別され抑圧されてきたという認識が通用する言論の土俵では、「変えなくてはならない」という政治的要求に理論的な根拠を与えることになる。もともとジェンダーという概念そのものが、こうした政治的要求から作られてきた概念である。なぜならば、男と女の違いを「自然性」として固定する立場に反対して、それは変わりうるという理論を根拠に置くことが、フェミニズムにとって「差別、抑圧」をはねのけるための強力な武器となるからである。
 しかし私は、人間における男と女の違いは、単なる自然的・生物学的な違いに還元されるものでもなければ、逆に、それは歴史的・社会的に(ある「政治的悪意」にもとづいて)形成されてきたのだから、社会思想の変換や意識的な変革行動によってなくすことができる(あるいは覆すことができる)というようなものでもない、と考える。
 問題を次のように整理すべきである。

①歴史的・社会的に作られてきた性差が現に存在するとしたら(存在するのだが)、なぜそのような現象がみられることになったのかを考えなくてはならない。それは巨大な悪意がはたらいたからではない。どこまでが自然的な差異であり、どこからが非自然的な差異であるかを明瞭に区分する試みは水掛け論を呼ぶだけなので意味がない。しかし、ある社会的な性差が根を下ろすにあたっては、そのための基礎条件として、自然的な性差があるからこそだと考えなければ論理が通らない。社会的・文化的な性差は、自然的な性差を根拠としつつ、人間自身が(男女共同で)積み上げてきた観念様式の累積の結果なのである。

②その観念様式が、ある社会、ある時代においては、政治的、権力的に見て歪んだ非対称性(差別、抑圧)をとることがありうるし、現にあった。しかしこの非対称性は、反面、生活上の役割分担と考えることも可能であって、私的な領域(たとえば家庭)では、はっきりとは明示されない形で男性に対する女性の「実権」の存在をいくらでも確認することができる(女房の尻に敷かれる、財布はかあちゃんが握っている、惚れた女を女神のように崇める、彼女が支えたからこそ彼は出世した、アリストファネスの喜劇『女の平和』における男の屈服等々)。

③そこで、議論を混乱させないために、次のような押さえが必要となる。すなわち、男と女の関係のあり方を、「対立関係」とか、「権力関係」とかいった概念だけで把握できると考えないこと。
 抽象的な「人間」の集合である「一般社会」という概念の領域は、労働(戦争、政治なども含む)とそれによって生ずる富の分配という活動が、その基本的な形成要因となっている。この領域では、明らかに「対立関係」とか「権力関係」とかいった把握が可能である。男女の問題にこの把握をそのまま適用すれば、そこでは、男が長らく女を支配してきた、女は一般社会から排除されて「人間」扱いされてこなかったといった言い方がたしかに成り立つ。
 しかし、個別の男女が渡り合う領域、すなわちエロスの領域では、これらの把握は必ずしも成り立たない。それは労働の領域ではなく、個別の男女が身体や情緒を直接に取り交わすことを本質とする領域だからである。あなたは、甘い恋のやりとりが行なわれている現場を、男と女の「対立関係」や「権力関係」とみなすことができるだろうか。
 もちろん両領域は、具体的な人間活動においては混じりあう。したがって、エロス的な領域での活動が社会集団としての意味をもつに至った「家族」という共同性においては、当該社会の「ならわし」にもとづいて、労働における役割分担、上下関係、子どもに向かい合う時の精神的な分業などが生じうる。最後のものが、父性、母性という区別である。

④公的な領域を主として男が担い、私的な領域を主として女が担うという「性別役割分業」は、人類史上ほぼ普遍的にみられる。これ自体は別に悪いことではない。また近代社会において公的な職業領域への女性の進出が進んだとしても、それ自体は別に「進歩」を意味しない。みんなが稼がないと食えないという状態を意味すると見ることもできるからである。
 この状態は、近代資本主義の発展による社会的な労働需要の増加(同時に欲望の増大と多様化でもある)が必然的にもたらしたものにすぎない。そして多少目を凝らしてみれば、男性向きの職業、女性向きの職業といったものがおのずと存在することが確認されるだろう(もちろん例外はある)。前者の代表として兵士や建設業者やトラック運転手、後者の代表として看護師や洋品店主や保育士などを挙げることができる。
 この「ジェンダー」は、いったい男と女のどんな自然的差異に根差しているのか。近代社会の平等理念を性急に絶対正義として主張する前に、この事実を曇りなく見つめ、その理由を問い尋ねるのでなくてはならない。公的な職業領域への女性の進出度の高低、たとえば国会議員に女性が何割いるかによってその社会の優劣度を測るといった欧米由来のイデオロギーは、けっして正しい見方ではない。
 こう言ったからといって、私は別に男女平等理念を否定しているわけではない。現に私は労働現場で、高給をとって安定した地位にいながら無能な男性、とても有能で過酷な労働をこなしながら低賃金と不安定な地位に甘んじている女性を何人も見ている。こういう差別は明らかになくすべきである。
 だがここで繰り返し言っておきたいのは、平等理念を通用させて価値判断を下すべき人間領域はおのずから限られているということである。それは、一定の抽象レベル、すなわち法的・社会的・道徳的なレベルによって把握される「人間」概念の下で、という条件付きなのである。日本近代最大の思想家・福沢諭吉は、「平等であるべきなのは、権理通義の領域に限られる」と主張してやまなかった。

⑤そこで、先ほどの問いに答えを出す一つの方法は、まず、普通の平均的な男性と女性の興味関心がどのようなところに特化してあらわれるか、職業別の男女の偏差はどうか、学科における得意不得意の男女偏差はどうか、などの現象面を素直に洗い出してみることである。次に、単なる現象面の確認に終わらずに、それはなぜそうなるのかという理由、というよりもこれらの現象面の確認から、どういう総括が導かれるかを探ってみることである。
 この方法によって浮かび上がってくる例には、じつに事欠かない。私は、いま挙げた職業適性のほかに、先に示した拙著『男はどこにいるのか』のなかで、凶悪犯罪者、哲学者、収集マニア、吃音者などが圧倒的に男に多いこと、また、私生活ゴシップや占いや美容など、女性週刊誌記事のマンネリズムのなかに、絶えず自分にとっての「物語」を求めようとする女性の無意識が如実に表れていること、などを例示しておいた。詳細はこの書に譲るとして、このほかにも、次のような事実を付け加えることができる。もちろんこれらはあくまで蓋然的に言えることにすぎない。しかし一方、これらの事実はみな、自由平等が保障された社会における現象なので、特定の社会の偏った制度的バイアスが作用した結果とみなすことはできない。

・幼児期に、男の子は自動車などのように「モノ」として操作できる玩具に関心を示す傾向が強いが、女の子は人形やお料理セットなどのように生き生きと一緒に付き合える玩具に関心を示す傾向が強い。これについては、またしてもフェミニズム系のジェンダー論者から、それは親がそうなるように育てたからだという反論が出そうだが、この反論はほとんど当てはまらない。いま手元に信頼度の高い研究資料がなくて残念だが、私が年子の男女を育てた経験から言わせてもらうと、両方の玩具が均等に並べて置いてあっても、どちらに興味を示すかは、男女で明らかに差が認められた。別に誘導したわけではない。

・男の子は理科に興味を示し語学が苦手だが、女の子はその反対。

・自殺者の8割は男性である。

・女性は身の回りのこまごまとしたこと、たとえば対面している相手の身体や服装の特徴を直ちにつかむし、清潔好きであるし、もちろん、化粧したり着飾ったりに大きな関心を寄せるが、男性はえてしてそういうことにはあまり関心を寄せない。

・アキバ系はほとんど男性である。

・女性は一度歩いた道は男性よりもよく覚えていて確実にたどるが、頭の中にマップを描くことは苦手である。

・男性は車の運転などに顕著にみられるように、周囲の状況を把握するのが得意だが、相手の心を直感的に読むことは苦手である。女性はこの逆。

・男性は概して、自分の部屋を「寝食する場所」くらいにしか考えていないが、女性は、自分の身体の拡張としてとらえる傾向が強いので、家具調度、部屋の装飾などにたいへん気を遣う。

・歌手や演奏家は男女の間で差がないのに、作曲家は圧倒的に男が多い。

・私自身が最近体験している顕著な事実も付け加えておこう。
 私はいくつかの読書会に参加しており、また映画鑑賞会も主宰しているが、読書会で扱うテキストは、哲学、社会学、政治経済学、歴史などの系統のものが多い。これには女性参加者がほとんどゼロに近いが、映画鑑賞会のほうにはかろうじて女性が何人かやってくる。

 委細は省くが、これらの現象を性差として意味のあるものと認めるかぎり、次のように総括できそうである。すなわち――
 男性は一般に、身の周りの世界を「対象」として突き放すことによって自己を立てようとする。この傾向は、男性が「自然」からより強く追放(疎外)された性であることをあらわしている。彼はその疎外の事実を観念の過程によって補償しようとする。したがってそれは、客観主義的、構成主義的特性に通じることになる。
 同じ特性が、他者とのかかわりにおいては、「対立」の相の下に現れることになり、対人関係での孤立傾向が強い。異族のメンバーは、彼にとって常にいくぶんかは「敵」である。同時に彼はいつも「母なる大地」「母なる自然」を憧憬している。
 これに対して女性は一般に、身の周りの世界を「自分の身体にとってのもの」として引き寄せることによって自己を立てようとする。彼女にとって「自然」(これは人工物であってもよい)は常に親しい。この傾向は、日常生活において超越的な観念をさほど必要としないことを意味する。したがってそれは、主観主義的、現実主義的特性に通じることになる。
 同じ特性が、他者とのかかわりにおいては、「融和・包容」の相の下に現れることになる。彼女は、「異族」のメンバーであっても自分にとって魅力的な個体であれば抵抗なく接触を許容しようとする。だが同時にそれは。嫉妬などの感情的要因によるトラブルを生みやすい。
 以上は、両性の特性をあえてシンボリックに際立たせて表現したもので、もちろん、個々の個体はさまざまな偏差をもっている。しかし男性性とは何か、女性性とは何か、という問題について、それぞれのメンタリティを一応このように定義することによって、本題である父性的人倫と母性的人倫の問題に一歩近づくことができるだろう。

高橋洋一VS三橋貴明

2014年07月27日 19時25分41秒 | 経済
高橋洋一VS三橋貴明



 去る7月18日、産経新聞の「金曜討論」欄に、元大蔵(財務)官僚でリフレ派経済学者の高橋洋一氏と、中小企業診断士で経済評論家の三橋貴明氏との「討論」が掲載されました。
 この欄は、論者が直接対面するのではなく、担当記者がそれぞれに同一テーマについてインタビューし、両者同じ字数でその見解を載せる形をとっています。このスタイルのほうが論点が冗漫に流れず、よく論理的に整理されるので、読者にとっては相違点が明瞭にわかるという利点があります。
 さてテーマは、今年1月に施行された「タクシー減車法」の評価をめぐってです。これは2002年の参入規制緩和を見直し、価格競争激化によって生じる格安タクシー料金に規制をかけるもので、すでに国土交通省による格安タクシー業者への値上げ勧告が始まっています。また、格安業者が裁判所に強制値上げの差し止めを求める動きも出てきているそうです。
 この問題は、いまの日本の経済状況を具体的にどう見るかという点でとてもわかりやすく、またこの問題にどう答えるかで、論者の経済思想(人間観と言ってもいいでしょう)が端的に表現されます。かたやリフレ派の大物・高橋洋一氏、こなたケインズ派の活躍者・三橋貴明氏。めったに見られない横綱相撲と言っても過言ではありません。はばかりながら私は、この横綱相撲の行司役を買って出たいと思いました。
 それではここに両者の見解を全文転載することにします。各行頭の――線部分はインタビュアーの質問です。

≪高橋洋一氏≫

 ――今回の規制強化をどう評価する

 「まったく評価できない。本来は価格規制をなくすことが必要なのに反対のことをしている。国交省が少しでも安い運賃の業者を指導しているため訴訟も起こされているが、安いタクシーはほんの一部であり、市場経済において目くじらを立てる話ではない」

 ――大阪、福岡地裁では国による強制値上げの差し止めが認められた

 「国側が負けて当たり前で、司法から『法律がひどいですよ』といわれているようなものだ。価格規制を緩和すれば、自然と業者も利用者も納得できる状況に落ち着いていくはずだった。しかし古い官僚主導型の規制に自公民各党が乗って、今回の規制強化策が導入されてしまった。経済学が分かっていないという点で国会議員の無知をさらけ出す結果となっている」

 ――格安タクシー業者は「営業の自由を侵害し憲法違反」と訴えた

 「憲法違反とまでは言えないにしてもそれなりの説得力があるといえる。なぜ国が強制的に値上げするのか。タクシーの公共性といってもバスなどと違って根拠は弱く、だからこそ参入が自由化されてきた歴史がある」

 ――需要と供給の関係を無視した高い料金設定が問題ということか

 「その通りで、結果的に誰も満足できない状況になっている。料金が高くて食べていけると思うから多くの運転手が参入してきて、共倒れになるという悪い循環に陥っている。しかし価格規制を緩和して料金が下がれば、食べていけないと分かるから自然に参入は減ることになる。そうした市場メカニズムを活用すべきだ」

 ――業界への新規参入をうながした平成14年の規制緩和をどう評価する

 「評価できるが、料金規制を残したのはまずかった。結果として新規参入が殺到することになってしまった。そもそも日本のタクシー料金は世界的にみても高すぎる。米国なら初乗りが日本円で250円くらいだ。運転手は特別な職業ではなく、誰にでも務まる仕事なので料金は安いのが当然だろう」

 ――厚生労働省によると、タクシー運転手の賃金は労働者平均の半分強だ

 「運転手の賃金をどうするかは最低賃金法などで対応すべきであり、それは国交省ではなく厚労省の仕事だ。経済合理的に考えれば、特別な資格がなくてもできる仕事の対価として、低賃金はやむを得ないだろう。福岡では初乗り300円のタクシーがあるそうだが、それで事業が成立するのなら結構なことだ。安さに文句をつける必要はなく、無理に料金を統一しようとすれば、料金以外での競争が始まる。大阪の一部タクシーのように乗客に粗品を渡すなど、かつて問題になった“居酒屋タクシー”のような不健全なサービスが横行しかねない」


≪三橋貴明氏≫

 ――平成14年の参入緩和について

 「経済状況によって規制緩和が正しいか正しくないかが決まるが、14年当時はデフレ下で需要不足であり、供給過剰状態のときにタクシーの参入規制を緩和したのはまずかった。結果的に料金は下がったが、競争が異様に激化してタクシー運転手の貧困化を招いてしまった。消費者としてはいい話かもしれないが、事業者側からの目線も必要だ。その点で今回、規制のあり方を見直すのは当然だといえる」

 ――今回の規制強化は評価できると

 「働く人たちの所得が増えていくのが正しい政策のあり方で、そのためにある程度、料金が上がるのはやむを得ないだろう。デフレが長く続いた結果、日本人は『価格は下がるもの』と思っている人が多いが、基本的に価格は上がるもの。ここ20年、タクシー料金がほとんど変わっていないのは異常なことで、何でも『安ければいい』との考えはやめるべきだ」

 ――タクシーの公共性をどう考える

 「ある程度は公共交通機関としての役割があり、国民の足を維持するという視点は必要だ。利益だけを考えればタクシーは東京に集中するだろう。地域住民の足を確保するために、場合によっては助成金のような仕組みも必要かもしれない。今回の規制強化で都市部の供給過剰な台数を削減するという点は評価できるが、供給不足の地方のことまで考えてほしかったと思う」

 ――大阪、福岡地裁では強制値上げの差し止めが認められ、初乗り500円といった格安タクシーが健在だ

 「あまりに激しい価格競争は排除されるべきで、差し止めは支持できない。大阪市なら初乗り660円といった、国交省が定めた下限料金まで上げるべきだ。タクシー運転手が自分の労働できちんと家族を養えることが重要で、14年の規制緩和以降、運転手の所得が下がっていることは大問題だ。働く人の所得が上がらなければデフレ脱却はできない。タクシー料金が上がるということは消費者目線で『物価上昇は困る』と捉えられがちだが、働く運転手の所得を増やすことが消費増につながり国民生活全体としてプラスになると考える必要がある」

 ――米国などと比べて日本のタクシー運賃は高いとされるが

 「むしろいいことではないか。なぜ米国のタクシー運賃が安いかといえば、移民も含めた労働者を酷使しているからだ。工業製品と違って、サービス料金は国境を越えて同じ水準である必要はない。先日、視察に行ったスウェーデンでは初乗りが2千円程度だったが、それがむしろ正常といえるし、その運賃に文句をいうつもりもない。事業者側の視点を持つことが重要で、外国と比べたいのならスウェーデンと比較すべきだろう」


 ご覧のように二人の主張は、真っ向から対立しています。
 ところで金融緩和促進に賛成のリフレ派と、それを受けての積極的財政出動派とは、それぞれデフレ脱却をめざすアベノミクスの第一の矢と第二の矢とを代表しています。この両者はパッケージとして機能して初めて投資や雇用や所得の改善に寄与するので、本来対立すべきではないのです。ところが、おかしなことに、この両者はしばしば不毛な理論闘争を繰り返しており、学問レベルで、せっかくのアベノミクスの意義を減殺する効果を生んでいます。
 この論争もその一変種とみなすことができるでしょう。では、ここでの二人の言い分は両方とも間違っているのか。そうではありません。
 初めに軍配を上げてしまいましょう。私の審判では、これは立ち合い低く当たって、素早く右前褌をつかみ両差し、一気に寄り切った三橋氏の圧勝です。高橋氏は終始腰高で、顎が上がり、頭で相撲を取っているだけです。分析の適否においてだけではなく、公共精神の有無、どれだけ国民のことを真剣に考えているかという点においても、両者には雲泥の差があります。
 以下取り口を、少し細かく分析してみましょう。
 高橋氏は、まずこう言っています。

 価格規制を緩和すれば、自然と業者も利用者も納得できる状況に落ち着いていくはずだった。

 これは、政府が介入せずに自由市場に任せさえすれば需要と供給は均衡するという教科書通りの古典派経済学原則をそのまま述べたものですが、ここには、需要が不足しているデフレ期に供給ばかり増やしても需要が追いつくはずがないという現実が完全に見落とされています。さんざん批判されている「セーの法則」を何の疑いもなく前提としているのですね。

 次に高橋氏はこう言っています。

 安いタクシーはほんの一部であり、市場経済において目くじらを立てる話ではない

 これは彼が市場の現実、というよりも市井の一般人の生活感覚というものに関心がないことを象徴する言葉です。たまたま格安タクシーが話題になっているから、それが「ほんの一部」であるのをいいことに、「市場経済全体」には関係ないかのようにうそぶいていますが、デフレ状況下で価格競争を刺激するような規制緩和をすれば、あらゆる中小産業に悪影響を及ぼすことは眼に見えています。現に今回の法的措置は、規制緩和をしたために過当競争が起こり、ブラック企業の従業員と同じように、低賃金と過重労働に甘んじざるを得ない運転手さんが続出したのです。「料金規制を残したのはまずかった。結果として新規参入が殺到することになってしまった」のではなく、規制(この場合は台数制限や参入条件j)が緩和されたからこそ他業界で行き悩んでいた人たちが新規参入し、結果として供給過剰となり、価格競争が激化して格安タクシーが横行するという悪循環を招いたのです。
 高橋氏はまた、次のようなふざけたことも言っています。

 価格規制を緩和して料金が下がれば、食べていけないと分かるから自然に参入は減ることになる。そうした市場メカニズムを活用すべきだ

 この発言が、社会的弱者を無視した、いかに無慈悲でふざけた発言か。
 何よりも、規制緩和によって(価格競争が起こり)料金が下がるというメカニズムは、すぐ前の「料金規制を残したから新規参入が殺到した」という自説と論理的に矛盾しています。もちろん、前者のメカニズムこそ、市場メカニズムとして自然なものです。それで食べていけないからといって、ただちにやめるわけにはいかないから、低賃金と過重労働に甘んじる労働者がが続出し、さらに価格競争の悪循環が起きるのです。
 次に、小学生でもわかる道理ですが、仮にある業界で食べていけなくなったとして、その業界から敗者が撤退すれば、その業界内では「市場メカニズム」がはたらくかもしれませんが、では撤退した敗者はどこに働き口を求めたらよいというのでしょうか。世はいたるところ不況で、投資は冷え込み、雇用や賃金はほとんど少しも改善していないというのに!

 さらに高橋氏は続けます。

 米国なら初乗りが日本円で250円くらいだ。運転手は特別な職業ではなく、誰にでも務まる仕事なので料金は安いのが当然だろう

 経済合理的に考えれば、特別な資格がなくてもできる仕事の対価として、低賃金はやむを得ないだろう。


 ここに高橋氏の、庶民をバカにした傲慢な経済思想がいかんなく発揮されています。タクシー運転手が「誰にでも務まる」「特別な資格がなくてもできる仕事」でしょうか? 高橋さんはタクシーを運転できますか? 何よりもあの仕事は、行く先までお客の命をあずかるため、交通安全に対する極度の熟練感覚を必要としますし、またさまざまなお客の要求に応じるためのデリケートで適切なサービス心を持つことが不可欠です。
 他の多くの仕事もその点においては同じですが、そもそもこういう大切な「実業」に従事する人々の低賃金を「やむを得ない」と断ずるその冷ややかな「経済合理主義」が問題です。この「経済合理主義」がどこから来たかといえば、資本主義の最も過酷な面を代表する市場原理主義からです。
 市場原理主義は、それぞれの働き手たちの具体的な生活心情を切り捨て、経済の動きを計量化・数値化できる抽象的なレベルでだけとらえます。そのため、経済活動においてはすべての個人・集団が自分の利益追求だけを目的とし、その目的に沿った「合理的」な行動しかとらないという、あのとっくに古びた経済学的前提が必要となるのです。高橋氏は、この机上で考え出された人間把握のスタイルに完全にハマっています。
 次です。

――厚生労働省によると、タクシー運転手の賃金は労働者平均の半分強だ

 「運転手の賃金をどうするかは最低賃金法などで対応すべきであり、それは国交省ではなく厚労省の仕事だ。


 これは完全にごまかしとすりかえですね。ある仕事が労働者平均の半分しかもらえてないという現実をどうするかは、担当省庁の領分の適合性の問題ではなく、日本経済全体をデフレ不況から恢復させて、低所得者層を少しでも裕福にし、いかにして分厚い中間層を作り出すかという政策レベルの問題です。
 高橋氏は、規制緩和さえ徹底させればよく、競争の敗者などは自然淘汰されればよいといった、新自由主義思想の申し子です。彼には、格差拡大による社会不安をどうするかとか、不況下であえぐ国民各層の生活苦をどうするかといった経世済民の発想がかけらもないことがこれでよくわかります。リフレ派というのは、金融緩和だけが政府・日銀のやるべきことで、そのあとの動きについてはレッセ・フェールよ、という狭い狭い学者頭の集まりなのですね。

 一方、三橋氏の主張については、すでに多言を要しないと思われます。「働く人たちの所得が増えていくのが正しい政策のあり方」だというのはまったくその通りですし、個別の消費者にとって物価が安くなることが、マクロ経済的な視野からは投資や雇用の悪化を引き起こし、結果的に消費を冷え込ませるという循環の論理がきちんと押さえられています。
 また、次のように述べて、都市と地方との著しい格差の問題にも正確な目を注いでいます。

 地域住民の足を確保するために、場合によっては助成金のような仕組みも必要かもしれない。今回の規制強化で都市部の供給過剰な台数を削減するという点は評価できるが、供給不足の地方のことまで考えてほしかったと思う

 以下の記述もまったくその通りで、つけ加えるべきことはありません。

 タクシー料金が上がるということは消費者目線で「物価上昇は困る」と捉えられがちだが、働く運転手の所得を増やすことが消費増につながり国民生活全体としてプラスになると考える必要がある

 またタクシー料金の国際比較で、高橋氏がアメリカと比べて日本が高いと言っているだけで、何らその苦しい社会背景に言及できていないのに対して、三橋氏は、アメリカが安いのは移民労働者などを酷使しているからで、サービス料金は国境を超えて同じ水準である必要はないと喝破しています。極め付きは、スウェーデンの2000円という例を出して、高橋氏の論拠を顔色なからしめている点ですね。ここにて勝負あり! というところです。
 どちらが本当に国民生活のことを考えているか、もはや明らかでしょう。
 規制はすべて固守すればよいというのではありませんが、低所得者層が増え格差が拡大しているときに、それにかかわる規制をただ撤廃すればうまく行くなどと考えるのは大きな間違いです。国家の適切な関与・介入が必要なのです。安倍総理は、岩盤規制をドリルで砕く(つまり第三の矢)などと、すっかり新自由主義にやられた発言をしていますが、この点では、彼はとんでもなく間違った経済思想に毒されています。格安タクシーに対する強制的な値上げと供給過剰な台数を削減する方針は、デフレ脱却の方向性として正しいのです。
 ちなみに、日本経済の現状は、デフレ脱却からは程遠い状態です。アベノミクス発動以後も、物価は上がりましたが、その結果、実質賃金(名目賃金から物価上昇分を差し引いた値)は下がり続けています。また次のような指摘もあります。

 銀行などの預金取扱機関の預金は3月末までの1年間で31兆円増えたが、貸し出しは11兆円増で、差し引き20兆円分のお金が滞留した計算だ。
 ニッセイ基礎研究所の上野剛志シニアエコノミストは「日銀が川上から水(お金)を流しても、いったん金融機関というダムにせき止められて、川下の民間にまで流れていかない状態だ」と解説する
。(産経新聞7月10日付)

 つまりはいわゆる「ブタ積み状態」なので、これをどう有効に流すかこそが、政府の経済政策の課題であり、それは、金融緩和だけで何とかなると考えているリフレ派の出る幕ではありません。この経済政策には、公共投資などの積極的な財政出動だけではなく、今回のタクシー問題のように、過剰な価格競争を抑制する政策(規制緩和見直し)も含まれます。高橋氏には、「経済学が分かっていないという点で国会議員の無知をさらけ出す結果となっている」などと経済学者のおごりをさらけ出さずに、黙っていてほしいものです。

酔っ払い親爺、奮戦の巻(SSKシリーズその5)

2014年07月25日 21時35分07秒 | エッセイ
酔っ払い親爺、奮戦の巻(SSKシリーズその5)      



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2011年8月発表】

 年を取ってずうずうしくなってきたせいか、最近、見知らぬ人にちょっかいを出すのが好きになってきた。たださみしいだけなのかもしれないが。
 過日、適度な混み具合の電車の中で、私の席から少し離れたあたりに立っていたほろ酔い親爺が、彼の目の前に座っている若い女性の携帯メール操作に文句を言い始めた。怒鳴りつけるような相当激しい調子である。
 「車内での携帯はやめろ! 何でダメだか知ってっか。心臓のペースメーカーをつけている人に迷惑を及ぼすんだ。やめろといったらやめろ!」
 女性は無視して続けている。親爺もいつまでも文句をやめない。むろん、このしつこい因縁のほうが迷惑である。
 私の前には3人の娘さんが、これも携帯をしきりと動かしていたが、くだんの様子を見てくすくすと笑い始めいつまでも笑い続けている。怒鳴られている女性は、さすがに顔を青ざめさせて、
 「何で他の人には言わないんですか」
 と抵抗の気配を示し始めた。例の無意味な車内放送の受け売りに対して、まさか「あんな放送、気にすることないじゃないですか」と対抗するところまでは行かないと見える。そりゃ、普通そうですよね。
 私はといえば、このちぐはぐな光景がいつまでも終らないので、何となくほおっておけなくなってしまった。正義感などというものではない。むしろ「座」が白けたときなどに何とか収拾したくなる、いても立ってもいられないようなあの気分。
 たまたまそのとき、私の隣の席が空いたので、
 「オッサン、ここに座りなよ」
 と声をかけたら、素直に従いながら、今度は当然のことながら矛先をこちらに向けてきた。私も負けずに
 「あんた、心臓ペースメーカーつけてる人なんて見たことあるの」と返すと、
 「あるとも」
 「どこで?」
 「オレがつけてるんだ」
 「じゃあ見せてみな」
 と言おうと思ったが、そのときふと自分の携帯がオフになっていたことに気づき、必要を感じたのでわざわざ取出して、オンになる操作をした。古くて安いので少し時間がかかる。
 すかさず親爺が
 「ほら、お前もやってる!」
 私はとぼけて
 「いま電源を切る操作をしてるんだよ」
 それから私は、ここ数年、車内の携帯による交信はほとんどすべてメールになったため迷惑などは実質上壊滅し、車内放送が「心臓ペースメーカー」なる苦しまぎれの理由を案出した次第と、万一迷惑を被る人がいるなら、本人がその場で言うべきだという考えを開陳しようとしたが、そこは酔っ払い親爺、早くも話題を変えて
 「だいたい、あの菅(直人)て野郎は何なんだ、日本はおしまいだぜ」。
 「それは賛成」。
 これにて一件落着ということになった。その間中、私の前の三人の娘さんたちは携帯片手にくすくすくすくすとやっていた。
 さて笑われていたのはだれか。親爺だけではなく、もちろん私もこの日常の中の「コント」の滑稽な出演者なのだった。そんなことは初めからわかっているので後味は悪くない。
 でもちょっと言いたい。世の高齢者大衆諸君、せっかく世をすねて酔っ払うなら公式論なんか振りかざさず、「オレはIT文化についていけねえ。おもしろくねえ世の中になったぜ」と素直に表白してはどうか。

倫理の起源40

2014年07月16日 00時22分27秒 | 哲学
倫理の起源40




 さて、このような内的な秩序によって成り立っている家族的共同性に内在する倫理性とは何か。またそれは、他の共同性の倫理とどのような関係に置かれているか。
 前者については、もはや多言を要しないだろう。上記①②③のそれぞれ及びその複合が必然的に要請してくる倫理性を家族はそなえていなければならない。
 ①の条件の要請は、以下のようなものとなろう。
 外の異性と性的関係をもたないこと、互いに仲よくすること(小さな不満は我慢すること)、その夫婦固有の「協業」の時間をなるべく多く持つこと。
この最後のものは「子育て」が最も重要で象徴的な意味をもつが、その他、家計の処理、家政運営の役割分担、家業を営んでいる場合には息の合った緊密な協力関係などが要請される。なおまた、この「協業」には、必ずしも「しなければならない仕事」というふうなことだけを意味するのではなく、「ともに楽しむ」時間を確保するというようなことも含まれる。
 ②の条件の要請は、言うまでもなく①の条件の要請が満たされることが前提となる。
 思春期以前の子どもは、人間としての自分の非自立性を直感しているので、彼らの親に対する親愛の情や信頼の気持ちは、自分の存在の最終的な受け皿がこの人たちしかいないという感覚によって媒介されている。これは乳児期を脱して「物心」がついた幼児段階から、思春期に至るまでずっと一貫している。児童期になって行動半径が拡大し、交友範囲が広がっても、よほどのことがなければ彼らは「ウチ」に帰ろうとする。そこで逆に、親である夫婦に少しでも危機の兆候を見出すと、彼らは大変な不安に陥る。
 私事を持ち出して恐縮だが、私の両親はあまり仲が良くなく、三日とあけずに夫婦げんかをしていた。父はもともと大酒のみであった上に人生の挫折感が重なり、家計も貧しかったため、私が物心ついたときには、もはや子育てに大きなエネルギーを割く余裕を持っていなかった。母は、生真面目な性格で日々の生活や子育てには真剣に取り組んでいたが、普通の主婦とは違って少々プライドの高すぎるところがあり、その分だけ傷つきやすく、飲んだくれ亭主をうまく操ることができないたちだった。こういう二人がけんかを始めると、怒鳴る親父と負けずに言い返すお袋、という構図になる。これが蜿蜒と続いている時間帯では、狭い屋根の下で子どもは、その嵐が去るまでおびえながらじっと押し黙っていなくてはならない。介入できるようになるにはある程度成長することが必要である。
 夫婦の亀裂は、それが彼らにとってたとえ小さな日常茶飯事であっても、幼い子どもの心理にとても暗い影を落とすものである。後年私は、自分が父親となった時、両親を反面教師として、夫婦の協和を心掛けたつもりだったが、やはり思った通りにはいかず、両親に比べてけんかの回数が少し減って、楽しい時間が少し増えたくらいのところだったろうか。夫婦の協和は子どもにとってとても大切だが、その円満な実現はじつに難しいと痛感した次第である。
 しかし、この夫婦の協和とは一応別に、親子関係という特殊な関係のあり方に焦点を合わせる時、子どもに対する親の人倫性(=人間的な意味での「愛」)とは何か、またそれは、父親と母親ではどう違っているかという問題が現れる。
 子どもに対する両親の人倫性は、まず初めに、自分たちの睦まじい時間の共有が新しい生命をこの世にもたらしたという感動によって支えられる。それは、二人の性愛関係のこの上なく確実な、目に見え手で触れられる生きた証拠だからである。
 もっとも、そう遠くまでさかのぼらない未開社会の一部では、女性の妊娠・出産が男性との性交によるものではないと考えられていたらしい(マリノウスキー『未開人の性生活』)。それは妖精のしわざであり、男性は性交によって女性の膣に妖精の通り道を開けるだけだというのである。しかしこうした非科学的な神秘性を担保した世界でも、ある特定の男が生まれてきた子どもの父親であるという社会的な認知作用自体は機能している。その特定性は何によって保証されるのかといえば、一定期間、性愛的な空間を共有した(「あのふたりはできた」)という感知が自分たち及び周囲にはたらいたことによるのであって、まずそれ以外には考えられない。
 ちなみにマリノウスキーが指摘した事実は和辻前掲書によってたびたび言及されている。和辻の意図は、家族の人倫性の成立にとって、性交という生物学的な「事実」よりも、婚姻という社会制度に基づく夫婦および親子の「存在の共同」こそが決定的であると強調するところにある 和辻の指摘は、人間社会をただ生物学的自然から因果づけるのではなく、まさに人間社会としてとらえることにとって重要な意義を提供している。しかし「存在の共同」を当事者及び周囲が認知するその根拠は、一対の男女が性愛的・排他的な空間を構成している(あるいは構成することが承認されている)というところにしか求められないだろう。
 もちろん、歴史上、両親が養育の主体となる近代家族のような形態が確立していたわけではなく、母系制氏族では養育は母方の親族によってなされるとか、男は自氏族から他氏族の女のもとにときおり通うだけだったといった形態が存在したであろう。そういう通い婚のような形態の残存は、平安時代の貴族社会などに明らかに認められ、そこでは男は権力に任せて産ませっぱなしで、ほとんど自分の子どもの養育に具体的にタッチしていない。しかしこのような場合でも、特定の男女がある一定期間、性愛の空間を共有したという事績が重視され、それにもとづいてこの子の父親はだれそれ、という認証が行われたことだけは確かである。これは、和辻の言うとおりであって、実際に父親の遺伝子(生殖細胞)が子どもに分与されているかどうかという生物学的事実とは必ずしも関わらない。またこの事実は、一夫多妻制が公認されているような社会においても、何ら変わらない。
 この性愛関係による生活時間の共有の感動はほとんどそのまま、子どもの出産における感動に連続する。そうしてこの感動の連続性が維持されることが、すなわち子どもに対する親の人倫性を形成するのである。そうでなければ、女性が妊娠してその父親が誰だかわからないようなとき、孕ませた男はだれだという非難や好奇心を伴った疑問、つまり関係の確認の欲求が、周囲にあれほど強く巻き起こるはずがない。
 また、養子や連れ子の場合のように、性愛の時間を共有した結果としての子どもでなくても、親の人倫性は十分確保できるではないか、という反論が考えられる。もちろんその通りである。しかしこの場合は、一種の擬制としての家族関係が営まれているのであって、こういう代替機能が可能なのは、そもそも人間という生物が、基本的・自然的な成り行きを観念の力でそのまま引き写して自己演出できる生物だからに他ならない。養子や連れ子に実の子と同じような人倫性を施すことができるのは、「この子を自分たちの間に生まれた子どもと思うことにする」という当事者自身の言い聞かせの力によるのである。

 次に、子どもに対する親の人倫性を支える条件は、子どもが未熟で自立できず、生きるためにまさにほかならぬこの自分たちの存在を必要としているという感覚である。これは一般に「食べさせていく必要」として理解されているが、それだけで人倫性の概念を覆うことはできない。それ以外に、未熟で自立できない存在が可愛らしい風貌や立ち居振る舞いを示していつも手元にいるということそのものがいとおしさをかき立て、その感情が人倫性を育てるのである。
子どもに対するエロス的な感情は、人倫性にそのままではつながらないが、親の人倫性の概念が十分に満たされるためには、この感情の参加を不可欠とする。養育にかかわる責任感も、この感情が伴わなければ、時間や給料や役割によって規定づけられた単なる「仕事の責任」と変わりないものとなろう。
 先に私の父親の、親としてあまりやる気のない疲れた様を描写したが、母が伝えてくれたところによれば、私が記憶に残らないほど幼いころ、父は、私を指して「こいつを見ていると、勇気百倍だな」と言ったそうである。彼は、母が私を孕んだとき、「俺には養っていく自信がないから、堕してくれ」と何度も頼んだということなのだが。

倫理の起源39

2014年07月13日 22時48分52秒 | 哲学
倫理の起源39




3.家族

 家族とは、性愛的な共同性が、それにかかわる個体の生の時間に見合うだけの「ふくらみ」をもち、そのことによって、社会制度上の一単位としての意義・資格・権利を獲得するに至った共同性である。
 この意義・資格・権利を獲得することにとって、次世代(子ども)の誕生と生育という事実が大きな力を示すが、それは、ある性愛的な共同性が「家族」と名指されることにとって絶対の必要条件というわけではない。特定のカップルについて婚姻という形での社会的承認が成立すれば(これも必ずしも法律上の承認を不可欠とするわけではない)、そのとき、この婚姻という観念の中に、次世代を生み出す可能性がすでに繰り入れられてある。言い換えると、子どもが実際に生まれない夫婦でも、それが周囲から夫婦として承認されていれば、その承認の観念のうちに、次世代を孕むという条件が潜在的に含まれているのである。というのは、次の理由による。
 婚姻とは、一人の性愛の相手と生活を共にするという「心情の契約」のことであり、この「心情の契約」は当事者のみならず、その相互の身体の排他的な占有を周囲もまた認めるところに成り立つ。そこで、この契約のうちには、生活の長きにわたる共同からおのずから生ずる事態がすべて織り込まれているのである。婚姻が認められたということは、「あなた方は子どもを産んでもいいですよ」と言われたことと等しい。
 では、家族共同体の内在的な人倫性とはいったい何だろうか。これを考えるためには、「夫婦関係を軸とする家族の共同性」が、どういう条件のもとに維持されるかということを押さえておく必要がある。これには次の三つが考えられる。

 ①夫婦を構成する男女が、相手を自分の妻、自分の夫として一定の時間認知し続けること。
 ②子どもが生まれた時、その養育の責任を両親が共通に担うこと。
 ③その家族の内部で、夫婦以外の肉体的な性関係が公式的に禁止されていること(インセスト・タブーの維持)。


 これらはすべて必要な条件であって、どれかひとつが破られた場合には、いずれの場合にもその家族は崩壊する。それぞれについて説明を加える。

 ①について。
 この条件が成り立つために最も重要なのは、上に述べた、「心情の契約」としての排他的な身体の相互占有が守られることである。逆に言えば、不倫や浮気が発覚した時、夫婦関係は容易に破綻しうる。しかし不倫や浮気という「事実」そのものは、それだけとしては①の条件の破壊に必ず結びつくわけではない。発覚しなければ(よいと言っているわけではないが)、「知らぬが仏」で夫婦関係は維持されることがあるし、またたとえ発覚したり、配偶者が気づいていたとしても、他の条件しだいでは、「家族の崩壊」に結びつかないことがありうる。たとえば、子どもが幼かったり経済力がないので不倫された側が我慢するとか、心情的には破綻しているのに、社会的なメンツや利害などを考慮して形式的に夫婦関係を保ち続けるとか、「もう決してしない」と誓ったので許すとか……。
 また逆に、不倫や浮気のような外部要因がなくとも、①の条件はいくらでも危機の可能性を含んでいる。性格や価値観の不一致、性の不一致、飽き、貧困など。

、②について。
 昔から「子はかすがい」と言われるように、子どもの養育は夫婦の共同事業である。家族の外側の社会は、この責任を当事者に課すことによって、それぞれ個体の生命の限界を超えた社会それ自身の連続性を確保する。子どもの養育は、両親の愛情によって支えられるが、この愛情の持続的な積み重ねが、結果的に子どもを一人前の社会人にまで育てる義務を果たすという親の人倫性を成就させるのである。
 なお、夫婦関係が壊れて片親になっても、養育責任を果たすことはできるし、いっぽうがとんでもない親なら、別れた方が子どもにとってもよっぽど幸せだといったことはもちろんありうる。そういう場合は、「家族の崩壊」とは必ずしも言えない。しかし、先に断ったように、これは、「夫婦関係を軸とする家族の共同性」としてはいったん崩壊して、そののち別の形で再構築されているのである。

 ③について。
 インセスト・タブーが守られることは、当然のように考えられているので、ふつうこの問題はあまり俎上に上らない。しかし、じつはこの条件は、家族共同体がその面目を維持することにとって核心をなしているのである。ソフォクレスの『オイディプス王』は、図らずもこのタブーを犯してしまった王の悲劇をテーマとしている。
 そもそもあることが公式的にタブーとされるという事実は、現実にはそれが行われていることを意味している。そうして、人類がそれを公式的には禁圧しなくてはならなかった背景には、社会を維持するための何らかの知恵がはたらいていることを示している。
 かつて1970年代から80年代、文化人類学で、なぜインセスト・タブーが成立したのかという問いが大きなテーマとされたことがあった。その折、構造主義人類学のレヴィ=ストロースの説が流行した。それによれば、「部族間における交換財としての女」の価値をキープしておくために、部族内の女には手を付けないことにしたというのである。この説は、部族社会の族外婚ルールを説明するには適しているが、インセスト・タブーそのものを説明する説としては、いくつかの難点がある。いまこれについては詳しく触れないが、一例を挙げれば、この説は、いかなる社会・文化にも存在する母子相姦禁制の理由を説明しない(拙著『可能性としての家族』ポット出版参照)。私はこれに自説を対置した。
 私の説は単純である。インセスト・タブーが公然と破られるとどうなるかを考えてみればよい。そもそも家族とは、性愛関係と親子関係とを縦横の軸とした、相互の関係を社会的に認知する構造であって、それ以外ではない。誰それは私の父、誰それは私の妹、というように。
 近親相姦がもし公認されれば、この縦横の軸のしくみは端的に壊れる。オイディプスの母・イオカステは、同時に彼の妻である。その間に子どもが生まれれば(事実神話では生まれたことになっているが)その子が女なら、イオカステという共通の母から見た場合、その子はオイディプスの妹であるが、同時に、彼はその妹の父でもあるのだから親子関係もそこに重ね合わされている。
 こうした錯雑した認知の乱れが放置され、さらに拡張されていけば、「家族」関係(同時に親族関係)の共通了解そのものが成り立たないことになる。この共通了解が成り立たなければ、「世代」という概念自体が意味をなさず、物的精神的なあらゆるものを含めた世代から世代への「継承」ということが成り立たない。もちろん、①の夫婦関係の持続も壊れるし、②の養育責任の所在もわからなくなる。つまり文化秩序、社会秩序そのものが崩壊するのである。そのことが無意識に悟られていたために、人類社会では、タブーの範囲に差はあれど、どこでも必ず禁止規則が敷かれてきたのである。

 以上のように、三つの基本条件がそろうことによってはじめて家族の共同性の維持が保証される。
 なお、ここで必須条件として挙げなかった点、たとえば、同居とか家計の共同などは、大切な条件ではあるが、必ずしも必須とは言えない。長期の単身赴任や遠洋航海などでメンバーがバラバラであっても家族関係は維持されうるし、一家族の中に働き手が複数いれば、家計を分けたからと言って関係が希薄化するとは限らず、その取り決めがメンバーにとって満足のいくものなら、十分に温かい家族関係を保つことができる。要は、相互認知の観念をどこまでキープできるかにかかっているのである。

カーリングのおなごたち(SSKシリーズその4)

2014年07月11日 15時06分54秒 | エッセイ
カーリングのおなごたち(SSKシリーズその4)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。


2010年2月発表
                
 これを書いている現在、まだオリンピック真っ只中だが、カーリング女子予選の日本対中国の試合を観戦していて、ふと感じたことがある。
 この競技は、スポーツというより、将棋や囲碁に近い頭脳プレーといってよい。終盤になるまでどちらが勝つかわからず、あえて相手に1点を取らせておいて次の会で先攻させ、後攻の利点を活用して逆転を狙うといった知的な芸当がふんだんに用いられるからだ。「氷上のチェス」といわれるゆえんである。
 このような特性を持つこのゲームは、繊細な身体技能と綿密な戦略とをマッチさせた、まことに複雑高度な質が要求されるという意味で、中国や韓国、日本などの北東アジアの国民性にとって、得意技を披露するにまさにうってつけのゲームではないだろうか。さすがは囲碁発祥の地、中国だけあって、オリンピック初出場にもかかわらず、その勝ちっぷりは見事であった。
 ところで私がふと感じたことというのは、この勝敗の行方についてではない。いささか品のない、横道にそれた批評になることをお許し願いたいが、両チームの選手たちを見ていて、日本の女子選手たちが、中国の選手たちと比べてはるかに美しく見えたことである。清潔感あふれる白のユニフォームに手入れの行き届いたヘアスタイル、垢抜けた化粧を施したその容貌、ストーンを滑らせるときに認められる凛とした表情、まなざし……。
 これに対して、中国の選手たちは、残念ながら、赤のユニフォームと化粧気のない皮膚の黄ばんだ色とがマッチしていず、また、お世辞にも美人と呼べるような選手はひとりもいなかった。要するにほとんどエロスを感じさせない野暮な集団にしか見えなかったのだ。
 私のこの感受が、身びいきや人種的偏見からでないとすれば(事実私はそう断言したいが)、その原因はなんだろうか。
 私の推定では、中国は昔からそういう傾向があるが、国家的名誉をかけたスポーツ競技となると、才能のある選手を選りすぐり、個人の「人権」などはそっちのけで厳しい訓練環境に閉じ込め、激しい練習をひたすら強いるのだと思う。したがって、当然のことながら選手の意識は勝つことのみに集中され、女性らしさなどのエロスは徹底的に抑圧される。
 中国のGDPはじきに日本を追い越すと言われているから、選手たちの野暮ったさはけっして貧困ゆえではない。また、その膨大な人口から考えて、美人が少ないなどということがあるはずがない。美を競うということになれば、その目的に叶ったすばらしい逸材がどんどん出てくるであろう。
 そういえば東京オリンピック当時の「東洋の魔女」たちもずいぶんエロスを抑圧されていた。恋愛はご法度、化粧やおしゃれなど、個人的に目立とうとする行為には規制がかかっていたにちがいない。およそスポーツにせよ学業にせよ、ハングリー精神がなければ他に秀でることができないのは、わかりきった理屈だが、せっかくの世界の晴れ舞台なのだから、少しは女子選手たちに「おんなごころ」の発揮の自由を認めたほうが見ているほうも気持ちがよい、などと考えるのは、堕弱化したニッポン男子の単なるスケベ心だろうか。

倫理の起源38

2014年07月05日 02時39分54秒 | 哲学
倫理の起源38




2.友情(同志愛)
 
 友情は、広い意味でエロスの一種である。それは性愛と類似した排他性をもち、したがって個と個との愛憎の関係に発展する可能性を常に秘めている。三人以上の関係では、恋愛によく似た嫉妬の情もバカにならない意味を持つ。
 ことに、当事者が低年齢である場合、性愛が禁じられている閉鎖的な空間の場合、異性の混入を排する規範が強力である場合などにおいて、友情は性愛的な要素をはらみやすい。男子校、女子校、寄宿舎、刑務所、軍隊などでは、友人関係や先輩後輩関係が同性愛的な要素を持つことが多いという事実がこのことを証している。また前に述べたように、古代アテナイ社会での自由市民(男子)の異世代間の文化継承が肉体的な同性愛を媒介としていた例などは、その典型である。わが国でも、武家社会では、信長と森蘭丸の関係のように、衆道が流行したことはよく知られている。
 しかし男女のノーマルな性愛関係が広く認められている空間では、友情関係は、身体接触を必ずしも不可欠としていない。したがって、一般的に言って、その分だけ、情緒的に緩やかであるということができる。また、この関係は、ふつう四六時中生活を共有することはなく、むしろそれを避けた方が賢明であるという判断が成り立っている。「友情」という概念は、もともと、個人の全生活のうちのある制約されたモードにおける感情の交流を意味していて、そのモードをわきまえずに越境することは危険なのである。
 もっとも思春期、青春期などの一時期、肝胆相照らした友人と片時も離れてはいられないという感情に支配されるような場合もある。しかしそれは多くの場合、いっぽうの過剰な思いに終わり、失敗に帰することが多い。盛岡高等農林学校時代以降の宮澤賢治の、保阪嘉内への熱い友情(恋情)は、その好例である。彼の片思いの挫折感情は、『銀河鉄道の夜』その他の作品にくっきりと反映されている(菅原千恵子著『宮澤賢治の青春』宝島社)。
 友情は、身体接触がなく、生活を四六時中共有するのではないほうが、長持ちするのである。「君子の交わりは淡きこと水のごとし」(荘子)。
 友情形成のメカニズムの基本は、気質の調和、関心および価値観の共有であるが、以上述べてきたことからして、友情における人倫性は、第一に、それが成立し維持されるための限定的なモードを互いがよくわきまえるという点に求められる。この第一の点を踏まえた上で、第二に、互いの生命と人格と意志とを尊重し合い、かつ、積極的に協力し扶助し合うというところに友情倫理が成立する。
 よく男女の間に友情は成り立つかということが問題とされるが、右の二点をお互いがよく守るなら、それは十分に成り立つ。しかし一方が恋心を募らせて他方がそれに引きずられるとか、一方が恋心を募らせることでかえって他方が相手の気持ちを「勘違い」とみなして引いてしまうとかいう場合には、「友情」としての関係は壊れて別物に変化すると言ってよい。いっぽうが恋心を募らせても相手がそれに応じないことを悟り、抑制を効かせて元のモードに収まるなら、友情は続くだろう。

 次に、友人関係とその外側との関係では以下のようなことが言える。
 友情倫理は、家族倫理との間では住み分けがしやすい。もちろん、親子の「情」が友人関係を邪魔したり、友「情」がそれぞれの親子関係を無視したりすることは大いにあり得る。たとえば親は、息子や娘が「悪い」友だちとつきあっていると判断した場合は、悩んだり介入したりする。しかし、双方にそれぞれ健全な人倫関係が成り立っている場合には、一方の関係から他方の関係への理解と承認と尊重が得られやすいのである。たとえば、息子の友達が訪ねてきたときには、母親は一生懸命もてなそうとするし、ふつう人は、自分の友達の両親に対して礼儀をもって接するものである。
 また友情倫理は、職業倫理、個体生命倫理との間には親和性が強い。職業倫理は、友情を生む媒介となることが多い。たとえば同じ職業、同じ企業、同じ仕事についていることは、それだけ話題や関心や価値観を共有させやすいから、うまくはたらけば友人関係の生みの親となる。また逆に友情の交流が共通の社会観、職業観を育て、結果的に同じ道を目指すということもしばしばあることである。
 個体生命倫理については、その特性について別項で述べるが、これは最も一般的・抽象的な倫理的原理なので、人間社会全体を憎むのでない限りはだれもが多少は持ち合わせている。そこで言うまでもなく、親しい仲である友人関係においては、この生命倫理がたえず作用していることになる。相手の命や健康のことを、遠い他人よりもより強く気遣うのは、ごく自然なことである。
 しかし、以上二つに比べて、友情倫理は、性愛倫理との間では背反しやすい。その意味は二つある。
 一つは、すでに述べたように、友情と性愛とはどちらも広い意味でのエロス感情なので、類似点が多い。そのため、一人の人にとってしばしば両立を妨げることがある。たとえばある友人への忠誠が強すぎると、そのことがその人の性愛の対象(恋人や配偶者)に、自分のことを大切にしていないという嫉妬感情を抱かせることがある。昔の男はよく、同僚や友人と外で酒を飲んで、妻に断りなく自分の家に連れ込んできたものだが、これに対して妻が怒るのは、彼女にしてみれば、日常生活、家庭生活を乱されて迷惑だというだけではなく、男の勝手なふるまいが男友達のほうを優先して自分の存在を軽視しているという感じを与えるからである。
 もう一つは、漱石の『こころ』に描かれたような、三角関係のケースである。
 この作品は、ほとんど、K―先生―私の三者をとおしてのホモセクシャルな観念の継承と循環が描かれているだけで、現にKの自殺の縁となり、いま現に先生の妻である女性の「心」の風景がほとんど表現されていない。人間関係の複雑な実相にまで作者の視線が届いていず、男性特有の独りよがりな苦悩の述懐に終始している。そういう意味で、私は文学作品としてあまり評価しないが、性愛関係と友人関係の両立の困難にまつわる倫理的な苦悩のあり方については、簡明な図式を提出しえている。
 この作品に象徴的に表現されているような友情と恋愛との相容れなさは、ふつう読み解かれるように、「エゴイズム」と愛他精神との矛盾相克を表しているのではない。そういう捉え方は、悪い意味で観念的である。「先生」の言葉だけをたどれば、彼がいかにも自分の「エゴイズム」の醜さに打ちのめされているかのように読める。しかし彼は別に抽象的な愛他精神が不足していたことについて悩んでいるのではない。よく親しんだひとりの人間個体との関係を壊すきっかけを自分が生み出してしまったことについて悩んでいるのである。
 この両者の相容れなさが露出するのは、まさに具体的なエロス関係の空間においてなのであって、しかもその生みの親は、性愛の牽引力の強さなのだ。友情と性愛、それぞれの関係様式の質的な違いがまさにこの葛藤を引き起こすのである。それは自愛か他愛かの違いの問題ではない。友人同士のそれぞれに好きな異性がいれば、こうした事態はけっして起こりえないし、その場合には友情も愛他精神も無傷で保存されるだろう。

 友情倫理はまた、公共性倫理との間でしばしば矛盾相克を生み出す。
 たとえば先に述べたカントのいわゆる「ウソ論文」では、刺客に追われて逃げてきた友人をかくまったが、刺客が来て「やつがここに来ただろう。隠すな」と迫られたとき、たとえ友人をかばうためでも嘘をついてはいけない、なぜなら嘘を場合によっては許されることと規定してしまったら、道徳的義務一般が成り立たなくなるからだと言われていた。カントの言い分は、「義務」の概念が普遍的に(理性の光の下に)成り立つためには、原則的に「ウソ」を許してはならないのであって、これを許すと、「義務」一般の根拠が崩れるというのである。
 ここではカント批判を繰り返さない。こんな極端な例ではなくとも、私たちは実際の生活のなかで、親しい間柄を優先させるか、「正直であること」を優先させるかで選択に迷うことがあるのは事実である。すでに引いたが、同じような問題は、『論語』にも出てくる。もう一度それを引用しよう。もっともこの場合は、友人ではなく、親子なのだが。

 葉公(しょうこう)孔子に語(つ)げて曰く、吾が党に直躬(ちょっきゅう)なる者有り。その父 羊を攘(ぬす)みて、子 これを証せり、と。孔子曰く、吾が党の直なる者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直は其の中に在り、と。(子路一八)

 ここでは、カントとはまったく反対に、身近な関係(エロス的関係)の「親」を大切にするほうが正直さにかなっているのだと説かれている。わが国でも、刑法105条では、犯人の親族が証拠を隠匿した時は、その罪が免除されるとしている(儒教研究者・加地伸行氏のご教示による)。
 私自身も、感覚としてはその方が当然であると考える。しかし一般に儒教道徳は、五倫五常のように、社会道徳のあるべき姿を書き並べるが、それらが関係のあり方によって矛盾してしまう(いまの場合で言えば、友情倫理や親子感情と、公共性倫理とが矛盾してしまう)実態がこの世に数多くある場合をどのように克服するのかという問題に関して、深く突き詰めた形跡がない。そこで右のような例を持ち出せば、カントと孔子とどちらが正しいのかという水掛け論を導いてしまうだろう。
 この、義を通すために友を裏切る、肉親を公共性のためにやむなく差し出す、などのテーマは、それぞれの倫理性の「原理」を表す命題の二項選択といった「論理言語」的な考え方をしているかぎり、解決不能である。最後の「公共性」の項で主力を注いで扱おうと思うが、ここではさしあたり、ただ、当事者の心情のあり方や、現世を生き抜ける智慧のあり方にゆだねるほかはない、とだけ言っておこう。

抽象化する「あなた」(SSKシリーズその3)

2014年07月03日 19時17分44秒 | エッセイ
抽象化する「あなた」(SSKシリーズその3)



埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます

【2012年2月発表】
       
 私は世事に疎く、ほとんど年ごとの流行の歌などになじんでこなかったので、これから書くことがどこまで妥当かまるで自信がないが、どうもそんな気がするのである。間違っていたらどなたか訂正してほしい。

 徳永英明のヴォーカリスト・シリーズは、過去40年くらい前からのいろいろな歌手のヒットソングのカヴァーである。このシリーズを聞いていてふと気づいたことがある。
 それは、90年くらいを境にして、それ以前に歌われていた歌詞とそれ以後に歌われるようになった歌詞とを比べると、前者では明確な恋の歌が圧倒的多数を占めるのに、後者では少しそれが減ってきて、代わりに生きる力や希望の大切さなどを訴えるメッセージソング的な歌詞が増えているのではないかということである。このことは、歌詞の中に頻繁に現われる「あなた」というせりふが、どういう意味の「あなた」なのかということを探ってみると一番はっきりする。紙数の都合でいくつも挙げることができないので、それぞれ一例だけ引くことにする。

【90年以前】
 何故 知りあった日から半年過ぎても
 あなたって 手も握らない
 I will follow you あなたについてゆきたい
 I will follow you ちょっぴり気が弱いけど
 素敵な人だから
 ―1982年 松田聖子「赤いスイートピー」―

【90年以後】
 生きてる意味も その喜びも
 あなたが教えてくれたことで
 大丈夫かもって 言える気がするよ
 今すぐ逢いたい その笑顔に
 ―2009年 JuJu「やさしさで溢れるように」―

もし私の指摘が当たっているとすると、この事態は歌謡界の頽廃というはなはだ面白くない事態である。というのは歌謡界とは大人の世界であり、大人は恋をする存在ではあっても生きる元気などをもらわなくてはならない存在ではないからだ。だから推論に推論を重ねる危険を覚悟の上で、ここからいろいろなことが言えることになる。

①90年代以降、日本人の精神は幼稚化している。
②90年代以降、日本人は元気をなくしている。
③90年代以降、日本人は恋に興味を失っている。
④90年代以降、日本人はメンタルを病んでいる。

 なぜこういうことになるのか。
 読者はお気づきと思うが、90年という年がバブルの頂点で、翌年それは見事にはじけ、それ以降長い長い不況が続いて今日に至っている。おまけに昨年は大震災と原発事故というダブルパンチまで食らって、さらに経済的な国際競争にも負け続けるという惨状である。日本はもうダメだとアメリカのさる高官が露骨に言っているとか。
 不謹慎な言い方になるが、昨年の文字「絆」もやたら頻発されてなんだか空々しい。それは人と人との具体的な関係(たとえば恋愛関係)を指し示していず、ちょうど2009年の「あなた」が誰でもいい「あなた」一般であるように、とことん抽象化されているからだ。この種の歌は卒業式にでも使えばよく、大人は歌わなくてよい。