小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

中国人ってどんなふう?(1)

2013年11月11日 19時13分33秒 | エッセイ

中国人って、どんなふう?(1)


 いま、嫌中ムードがこの国の一部で盛り上がっているようです。まあ、これは、この間のかの国の中枢部が日本に対してとってきた政治的態度を見れば、ある意味、当然とも言えましょう。しかし、あまりに単色の感情によって一国家、一国民の全体をとらえるのも考え物です。
 と言っても、私は別に、隣国とは縁が深いのだから仲良くしましょうといった、形式的なきれいごとを言いたいのではありません。また、以下の一文が、嫌中ムードをいたずらに煽る結果にならないことを祈ります。かの国の挑発にうかうかと乗らない理性的な姿勢を維持することが最も国益にかなうと信じるからです。
 これから私が述べることは、一人の中国人に接した自分自身の経験談と、ある年配の中国研究者の方からの伝聞です。これをここにご披露するのは、関心が深まっている当の国の国民性の一端を知ることを通して、私たち日本人が中国人とどういうつきあい方をするのが賢明かという問題に一ヒントを提供できれば、という思いからです。異文化理解の一例だと受け取っていただければさいわいです。
 ちなみに、ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、戦勝国アメリカが敗戦国日本の国情をいち早く研究した書として名高く、戦後の日本でも長くベストセラーの位置を占めていました。「罪の文化と恥の文化」というわかりやすい区別は、たいへん有名になりましたね。一部に、この書は日本を見下した本だといった感情的な反応があるようですが、私はそう思いません。そのような受け取り方自体が、敗残コンプレックスに裏付けられた幼稚なナショナリズムを露呈しています。
 昔この本を読んだ時の私の感想は、まずその冷静で客観的な記述に感服。こういう「敵をよく知るための本」を書かせるアメリカという国の戦略性は、さすがだというものです。日本人もこの態度を見習うべきだと思いました。私たちは、関心を持つ相手国の国情を知って、見下すのでもなく卑屈にすり寄るのでもなく、また、その奇異に思える特性をただ面白がるのでもなく、あくまで冷静に「その国民性をよく理解する」必要があります。そうして、その他者理解を今度は自分たちに照り返させて、自己認識を向上させていく必要があります。それこそが本当の意味での「勝利への道」でしょう。

 さて本題です。話は数年前にさかのぼります。
 私はある大学の学部で講義をしていますが、この学部は、その性格上、アジアからの留学生がたいへん多いのです。中国人もたくさんいます。ある年、単位認定のためにレポート課題を出し成績をつけたのですが、一人の中国人留学生(女性)が、自分の成績評価について相談があると申し出てきました。聞いてみると、相談の概略は次の通り。
 自分はこの大学を卒業して祖国に帰り、就職しなくてはならないが、そのためにぜひともいい成績を取りたい。先生(私のことです)は自分のレポートに「良」をつけたが、自分は何としても「優」がほしい。何とかならないか。
 私は、内心、「良」でなんで不服なんだと思いながら、その学生のレポートを前に置いて、残念ながらこれこれこういう理由で「優」をあげるわけにはいかないと説明しました。すると彼女はすかさず、「それはよくわかりました。それでは、再履修してもう一度挑戦したいので、不可にしてください」と言います。私は、せっかく「良」に値する成績を取っているのに、そうもいかない、学生全体に対して公正な評価をするという大義名分もあると答えたのですが、彼女は納得しません。なおも粘ります。
 そこで私「でも、私は来学期、辞職しちゃうかもしれないし、もしかしたら死んじゃうかもしれないよ」
 彼女「それでもかまいません。どうか落としてください」
 私はついに根負けして、「ではそうしましょう」と答えました。
 話が前後しますが、私に相談を求めてくる前、彼女は当時私が主宰していたあるイベントのための掲示板のURLをしっかり探り当て、そこにぜひとも相談したいことがあるという書き込みをしていました。ちなみにこのイベントは、大学とは何の関係もありませんし、彼女がこのイベントに興味を惹かれたわけでもありません。
 さて来学期になり、予定通り彼女は再履修し、レポートを提出しました。読んでみたところ、やはり「優」をつけるところまでは行っていないというのが私の正直な判断です。どうしようかと悩みました。ここで再び「良」をつければ、彼女は必ずまた「相談」に来るだろう。このやり取りを延々と続けなくてはならないのか……。
 私は再び根負けして、えい、めんどうな、「優」にしておこうと決めてしまいました。めでたし、めでたし。
 私は、この学生の「ずうずうしさ」を非難したいのではありません。彼女は、あくまで礼儀正しく、きちんとした態度をとっています。しかしその交渉の情熱、粘り強さが並ではない。もちろん、すべての中国人学生がこうだと言いたいのではありません。大半は、日本人の目から見てもごく普通です。しかし、日本人学生には、まずこういう人はいないだろうな、ということは確信をもって言えそうです。
 ずうずうしいと言えば、日本人学生にもずうずうしいのはいます。たとえば、レポートを出すのに、ネットからの丸写しをする学生がけっこういるんですね。臭いと思って検索するとすぐばれます。これは事前に「そういうのは落としますよ」としつこく注意しておくのですが、にもかかわらず後を絶たないので、ここでも私は「根負け」して、途中からレポートによる単位認定をやめてテストに切り替えました。
 中には、ネットに載っている私自身の文章を平気で丸写ししてきて、しかもそれだけではなく、「なんで落としたのか」と、クレームをつけてくるのまでいます。まあ、こういうのは、ずうずうしいというよりは、アホ学生と言ったほうが適切かもしれませんが。
 ところで、この話をある酒席でしたところ、ひとりの知人が感に堪えたように言いました、「それはひとつのエピソードにすぎないのだろうけれど、それを少し拡張して考えると、尖閣問題では日本は負けるな」。
 一旦定めた自分の目的を達成するためにはどこまでも粘る中国人学生と、ネット丸写しで単位さえもらえればいいやと高をくくっている日本人アホ学生。たしかに、このコントラストを見ると、知人の嘆息には、リアリティがあります。しかし、ことが国家主権の問題となれば、あきらめてはいけませんね。「根負けした」日本人の私も含めて、これからよくよく相手を見習って、粘り強さを身につけていかなくてはなりません。

 中国研究者の方のお話は、三つあります。
 ひとつ。彼がアメリカの大学で教えていた時に、ある優秀な中国人留学生のその後の落ち着き先について、お世話をしたのだそうです。いろいろと四方八方にはたらきかけてあげて、まあ、ほぼ確実だという心証を得たので、本人に、「八割がた、大丈夫だと思っていいよ」と告げました。日本人なら、これを聞いて、まず一安心と感じるのがふつうでしょう。ところが、その学生にとっては、八割がたという言葉が問題なのですね。「あとの二割はどうすれば確保できるのか」ということにしつこいこだわりを示して、そのためにさまざまな行動をとったそうです。自分のこれからの運命に対して、確実な保証がぜひほしい、という情熱のあり方において、先の学生と共通していますね。
 二つ目。中国には、そもそも「汚職」という概念がないそうです。たとえば、役所が10億円の公共事業を発注するとします。受注した企業は10億円支払うわけですが、実際の工事費として使うお金は1億円。中間でみんなが取ってしまうことは当たり前ということになっています。これでは、手抜き工事をせざるを得ませんね。これは古来からの「慣習」というものであって、別に「汚職」ではないわけです。恐るべき官僚支配社会。官僚になれば、もう勝ち。
 三つ目。ビジネス交渉が成立し、こちらはきちんと仕事をしたのに、支払いをなかなかしてくれない。いつ支払ってくれるのかと気をもんでいても、日本人って、そういう催促のようなことをなかなかしにくい慣習に染まっていますね。そのまま我慢していると、いつまでたっても払ってくれないそうです。半年くらいはざら。これは支払う側に資金がないのではない。ちゃんとそのための資金を用意しておきながら、引き延ばせば引き延ばすほど、その資金で金利が稼げますから、一定の金利を稼ぐことをちゃんと見越していて、目標額まで稼いだ段階でようやく支払う。これも当然とみなされている。
 ですから、対中ビジネスでは、受注契約の段階で、必ずいついつまでにいくら支払うということを、きちんと文書で合意しておかなくては絶対ダメ。それをしないのは、売り手のほうが悪いのだということになります。

 さて、以上のことを一口にまとめると、中国人は、信頼できるのは自分と自分の身内だけで、あとは信用できないのだから、自分をしっかり守らなくてはいけないのだ、という観念が骨身に沁みついていると言えそうです。相手からの保証を確実に取っておくのでなければ、自分の身はけっして守れない。この徹底的な自覚がどうやら彼らの国民性の核心を表わしている。日本人のように、何となく相手を信頼してしまうというようなお人好しではないのです。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」――お笑いですね。
 このような国民性ができあがったのには、やはり大陸の歴史の苛酷さが関係していると思います。めまぐるしい王朝の交代や異民族どうしの激しい争い、権力や賊によって理不尽に生活を踏みにじられてきた民衆の記憶、近代国家の統一など成立しようもない多民族、多地域の入り乱れた利害の衝突……。彼らはいやおうなく「他人を信じてはならない」という感性を身につけるに至ったのだと思われます。日本とはなんという違いでしょう。
 いまでもかっこうだけの中央独裁政権はありますが、対外的には何とか一枚岩のように見せてはいるものの、内部の実態は、すでに大混乱の兆しが見え始めていると言っても過言ではありますまい。憲政史家の倉山満氏が指摘するとおり、中国は権力闘争、王朝独裁権力樹立、内部矛盾の深化、反乱気運の高まり、内戦状態、そしてまた新しい王朝の樹立というサイクルを繰り返してきたのですね。これは今後も変わらないでしょう。

 この際、言葉の問題にも少しだけ触れたいと思います。もっとも私は中国語はまるでわからないのですが、言語学上の問題でよく指摘される事実をご紹介しておきます。
 中国語は、その形式の上から「孤立語」と呼ばれています。高校の漢文で習ったように、文字表現としては、漢字がぱっ、ぱっと並んでいるだけですね。ですから、日本の歴代の漢学者は、あれを書き下し文にするために、ものすごい苦労をしたのだと思います。『論語』などは、いまだに解釈が定まっていない部分がたくさんあります。
 中国語には、日本語のように助詞、助動詞(国語学者・時枝誠記の言う「辞」)もなければ、欧米語のように格変化、時制、前置詞に相当するものもありません。「彼は今度アメリカに行きます」(He will go to America.)は、中国語では「彼、今度 行く、アメリカ」というようにまるでカタコトみたいな表現になってしまいます。それでも通ずるのが不思議と言えば不思議ですが、これでずっとやってきたのだとすれば、この言語の特徴には、国民性との間にある深い関連があるのではないでしょうか。
 音声による日常生活語のレベルは、私にはわからないのですが、どうも中国では、指示的な言語による疎通への信頼度はもともとそんなに強くなくて、それ以外の非言語的な表現(表情、身振り、声調その他)による疎通の占める割合が大きいのではないかと考えられます。ですから、ごく近い身内の間には強い信頼関係が成り立ちますが、外に対してはおいそれとは通用しないことがはじめから了解されている。そこで指示的な言語としては、細かいニュアンスを伝える必要がなく(もともとできず)、一般形式を備えていれば十分、ということになるのではないか。だから「核心的利益」とか「泥棒」などというデリカシーのまるでない強引な言葉が国際社会に向けて平然と発信されるのではないか。
 みなさんは、毎年北京で行われる全国人民代表大会(全人代)の光景を見たことがありますか。あの大会では、各委員が演説をしますが、会場は妙に静まり返っています。それは各州から集まってきた代表たちには、演説を聞いてもその内容がわからないからなのだそうです。音声としての共通語が確立していないのですね。もちろん、演説内容をそのまま記した漢字による書類があらかじめ配られていますから、それで支障はないわけです。
 これはニワトリ―タマゴみたいな話ですが、他人どうしの相互不信が当然だからそういう言葉になったのか、そういう言葉だから相互不信が助長されるのか。まあ、両者は連関関係にあるとしか言いようがないでしょう。
 いま述べてきたことには、それほど確信があるわけではありませんが、少なくとも日本人の伝統的な感性からは、かなり共感的な理解の難しい国(果たして国と言えるのか?)なのだ、ということだけは言えそうです。関係者の方は、この難しさをしっかり胆に銘じて中国と接してほしいと思います。



コメント(1)
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2013/07/21 01:49
Commented by 美津島明 さん
小浜逸郎様。
次のURLで、中国のファミレスでサラダ・バーが廃止されるに至った経緯が述べられています。ぜひ、コピペをしてごらんください。一驚したのち、ため息をつくはずです。
http://labaq.com/archives/51796775.html
この、ふつうの日本人からすれば、二の句が継げなくなるなるほどの厚かましさ、良く言えば、たくましい生命力は、彼らの持ち前のものであると考えます。これを正面からマトモに相手にするのは、淡白な日本人にとって、大変なことです。こうしたずうずうしさや厚かましさに処するうえで、相手の良識に訴えたりそれを期待したりするのは下策でしょう。怒り心頭に発し、消耗し、ついには根負けしてしまうのがオチだからです。そうではなくて、あえてドライにクールに、言い訳のきかない数値などをきちんと設定してそれを遵守するよう言質を取るのが上策なのではないかと思われます。それ以上のことは相手に期待しない。中国との外交は、「人と人とはあくまでもどこまでも違う」という中島義道的なスタンスで臨むべきなのではないでしょうか。そうすれば、そういうドライでクールな接し方も可能になるのではないか。そんなことを考えました。もちろん、数値設定のできない外交案件がたくさんあることは確かなので、この「上策」が万能でないことは確かだとは思います。


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