小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する7

2013年11月11日 18時30分32秒 | 哲学

日本語を哲学する7


 ところで、言葉が「虚構」であるなら、それはいかようにも既成の世界のあり方を変容させ、歪曲することも可能だということになるだろうか。言い換えると、言葉というものは、真実あるがままの表現ではなく、もともと「ウソ八百」であることを本質としているということになるだろうか。
 これは、半分は正しいが、半分は間違っている。そこまで突っ走らないためには、「虚構」ということの意味合いをより厳密に考えてみる必要がある。
 半分正しいというのは、「ウソ」という現象が言葉の世界でのみ起こりうるということをみなよく知っているからである。言葉を離れた世界、つまり自然現象、身体現象、行動そのもの、知覚世界、喜怒哀楽などの情緒世界、心像(記憶、空想)、幻覚、夢のなかの表象など、これらには、ウソの可能性はまったくない。それらは、肯定するも否定するもなく、ただとにかくそういうものとして存在するに過ぎない。
 心像、幻覚、夢のなかの表象などは、現実と違うから虚偽ではないかという人がいるかもしれない。しかし、そもそもこれらの現象をそのように言葉で名づけることができたのは、私たち人間が、それらを直接経験している心的な現場を何らかの形で超越した地点に立てるからにほかならない。
 空想に耽っているとき、何かのきっかけがあってわれに帰れば、ただちにそれが「空想」であったことに気づくし、夢体験を真実と思い込んでいても、目覚めればすぐにそれが「夢」であったことに気づく。私たちの意識はそういう時間差による気づきをいつもしているので、その気づきの地平から、それらの経験を「空想」とか「幻覚」とか「夢」などと名づけることができているのだ。
 しかしそれらは、直接経験の時点においては、それぞれの様式的な特徴を帯びたウソ偽りのない現象そのものである。哲学者・大森荘蔵の言葉を借りるなら、それらはすべて知覚と等価な「立ち現れ」なのである。
 これに対して、言葉の世界では、それが「虚構」であるという原理上からは、いくらでもウソに満ち溢れることが可能である。ウソは「嘘」と書く。口で言われたそらごとのことである。あるいは、「そらごと」とは「言われたこと」以外のところには存在しえない。現に悪意がなくてもウソは日常たえずつかれているし、ウソも方便とか口実という言葉もあり、空々しい儀礼表現にも事欠かない。相手のことを思いやってのウソということさえある。
 ウソとはそもそもなんだろうか。
 ふつうこれは、「事実と異なることを言うこと」と解釈されている。もちろんそれで大過ないが、では事実とはいったい何か、だれにとっても絶対に確かな事実というものがあるのかと問われたら、これに答えることが意外に難問であることに気づくだろう。「藪の中」という有名な小説もあり、離婚訴訟における夫婦双方の言い分の極端な違いなどは、この難問の難問たるゆえんを示してあまりある。
 ウソとは、語り手がみずからの直接経験の現場から離れてその経験について言葉で再構成しようとするときに、主観的な意図の有無にかかわらず、ほとんど不可避的にともなわせてしまう直接経験との食い違いのことである。
 ここで「直接経験」という言葉は、必ずしも「事実」という言葉とは重ならない。それは先に述べた心像や幻覚や夢であってもかまわないのである。儀礼のあるものや励ましの言葉などが時として「ウソっぽい」と感じられるのは、語り口の不自然さが目立つためで、この場合にはその不自然さの背後にあると想定される語り手の「心意」のあり方が彼の直接経験なのである。
 いま私は、ウソを定義するのに、「ほとんど不可避的にともなわせてしまう直接経験との食い違い」と言い、「必ずともなわせてしまう」とは言わなかった。「必ず」ならば、本当に言語コミュニケーションの場はウソ八百の世界になってしまうだろう。しかしこの社会は、多くのウソに満たされながら、時にはウソであることを暗黙のうちに了解し、また時には善意の疎通のためにわざわざウソを利用しつつ、互いの言葉を真実であると信頼しあうことで成り立っている。
 つまり同じウソといっても、その流通の仕方には量的な差と質的な差があり、いわば私たちは、ウソのグラデーションの世界を生きながら、それらのひとつひとつにある格付けを与えているのだといえる。
 このグラデーションの世界が具体的にどういう仕組みになっているかはたいへん厄介な問題なので、ここでは素通りしておこう。さしあたり問うべきなのは、次の二点である。

①語ることがほとんど不可避的に直接経験との食い違いを含むならば、互いに言葉を信頼することは何によって保証されるのか。

②「言葉は虚構である」という命題は、言葉はすべてウソだと捉えることと何が違っているのか。

 ①について。
 これは表面的にはいろいろな言い方ができる。語られるときの真剣そうな口調や身体像、これまでのつきあいを通して築かれてきた信頼関係、相手の社会的信用度、言われていることの心当たり感、文書による取り交わし、語り手が発する言葉が語り手自身にとって自然の理にかなうと聞き手の側が感じること、等々。
 このように羅列してもきりがないし、いまいち決め手を欠くだろう。ひとまとめにして言えば、言葉のやり取りにおける信頼を支えているのは、自分は善意でかかわっていると自覚しているし、相手も善意の持ち主であると確信できるということである。
 しかし、こう言っただけではほとんど同語反復に近い。ただちに、ではなぜそのような自覚や確信がもてるのかという問いが出てくるだろう。この問いを、そもそも「善意」とは何によって成り立つのかと言いかえてもいい。
 この場合、自分が自覚している「善意」と、相手のうちに読み取れる「善意」とは共通のものだという視点が大事である。つまり相手を信頼しながら言葉を取り交わす行為の根底には、同じ共同性を生きているという情緒的な了解の基盤があるのだ。
 そこで、議論をもう一歩進めるためには、ちょうどホッブズが社会契約論を打ち立てるために設定した「自然状態」のように、この共同性の情緒的な了解が壊れたらどうなるかと、話をひっくり返してみる必要がある。するとそこにあらわれるのは、それぞれが共同性から追放されて孤立するという危機意識であろう。だれからも眼をかけてもらえなくなること、存在を承認されなくなることに対する恐怖といってもよい。これあるがゆえに、私たちはさまざまな関係に向かって自分を開こうとするのだし、とりあえず相手を積極的に信頼しようとするのである。
 商取引は、必ず言語行為を含む。このやり取りにおいて、それぞれの動機となっているのは自分自身のそのときどきの利益追求であるという考え方が一般的である。これは、主観的にはそのとおりだが、ではただ相手が喜ぶかどうかも考えずに暴利をむさぼればいいのかというと、ふつうはあまりそういうことは賢いこととはされない。長年商習慣を積んできた人々は、「結局は正直で誠実なのがいちばんいいのだ」「お客様に喜んでもらえるのが何よりもうれしい」などと述懐することが多い。
 ここには、「情けは人のためならず」――つまり、自分の行為が相手にとっても利益になる(幸せにつながる)のでなければ、最終的には自分自身を損なうという視野の広い(賢い)智恵、自分は共同性によって支えられているのだという人間認識がはたらいている。正しく理解された功利主義の精神である(なおこの功利主義という言葉はたいへん誤解されているので、いずれこのブログの『倫理の起源』シリーズで誤解を解きほぐすつもりである)。
 だから、自分が共同性からの追放を恐れるなら、まずは相手の言葉を信用するのでなくてはならない。そして心を開いてそのことを態度によって示すのでなくてはならない。こういう原理が言葉の交流には必ず作用していると見てよい。

②「言葉は虚構である」という命題は、言葉はすべてウソだと捉えることと何が違っているのかについて。
 虚構という概念は、一般的には、空虚なところに何かを作り上げることというように解釈されている。しかし、実際に言葉を交わす場合には、どんな場合でもその言葉が発せられるべき具体的な状況というものが背景と前景に必ず存在する。国語学者・時枝誠記は適切にもこれを「場面」と呼んだ。場面は、聞き手の存在をも含んでいる。そのことに着眼するかぎり、ある発話が何もない空虚なところからいきなり立ち上がるということはあり得ない。
 しかし私がここであえて「虚構」という言葉を用いるのにはわけがある。場面はもちろん空虚ではないが、空虚なものがちゃんと存在するのである。それは「自己」である。
 先に、ウソとは、直接経験とそれを再構成した言葉との間に生ずるほとんど不可避的な食い違いであると述べた。ウソがいくらでも生ずる可能性があるのは、直接経験と言葉との間に「自己」という空虚なものが挟まっているからである。
 実際、言葉をかなり使えるようになった幼児は、それと自覚しないで、よく適当なことを吹きまわる。それを親は心配して「ウソをついてはいけません!」などと叱る。その教育的配慮は理解できるが、反面、言葉を使いこなすということは、ウソがつけるということとほとんど同義なのである。ウソがつけるようになったということは、状況に埋没しない自由な「自己」が成立したことを表わす。
 言葉が使えるということは、直接経験から身をもぎはなすことができるようになったことを意味しており、この直接経験からの離脱可能性こそは、「人間」になるための条件なのである。そして、直接的状況からその状況についての表現までのプロセスに自由な「自己」が介在するのだが、その「自己」の内容は何かと問われれば、それは内容空虚なものだと答えるしかない。状況から自由である「自己」とは、まさにただ状況からの自由を確保できているというそのことを示すだけで、それ自身は何らの内容も持たないのである。
 言葉がモノやコトや感覚や情緒(時枝はこれらを言語の「素材」と呼ぶ)を抽象するものであるかぎり、それがこれらの「素材」をそっくりそのまま映すということはあり得ない。これは、ある事物に対するどんなに精密な指示作用として言葉を使ったとしても、免れようのない事実である。そこにいくらでもウソが入り込む余地がある。言語主体の自由が介在しているからである。
 しかしでは、言葉が「虚構」でありながら、実際にウソではない場合というのはありうるのだろうか。もちろんありうる。では、それを識別できる条件とはなんだろうか。
 それは唯一、語り手が属する言語共同体が彼の言葉を「ウソではないこと」「本当のこと」として承認するということである。先に言葉への信頼の条件を成り立たせるものは共同性からの追放の恐怖であると述べた。主観的にはこのような情緒的要因として捉えられるものが、客観的には共同体が彼の言葉にお墨付きを与えることによって、初めてそれがウソではないものとしての信頼を勝ち取ることとして捉えられるのである。
 物足りないと感じる読者もいるかもしれない。真実は真実、ウソはウソとする明確な識別の根拠がどこかにあらかじめあるはずだと思いたくなるのが人情だからだ。しかしよく考えてみよう。
 地動説の前には天動説が真実だった。たくさんの人たちが自分にとっての真実を訴えながら、ウソつきとか冒涜とか破戒などの烙印を押されて死んでいった。唯物論と自然科学の隆盛は、かつて自明だった「神」の存在を疑わせるに至った。冤罪で苦しんでいる人々が世界にはたくさんいる。地球温暖化というウソ(と私は思うが)は、いまや国際的には真実と認められて政治問題として大手を振ってまかり通っている。対立関係にある二国間での歴史認識が一致したためしはない。
 このように、時代や社会のあり方、つまり共同性のあり方によって真実とウソとは、いくらでも入れ替わるというのが歴史の教えるところである。
 どんなに本当のことを説いたつもりでも、残念ながらまわりが認めてくれなければけっして真実とはされないのである。人を説得することがいかに困難であるかは、私たちが日々経験しているところである。真実とは、もともと言葉で表現されたこと、つまり「虚構」されたこと以外の何ものでもないからである。
 しかし、私は相対主義者ではない。別に真実の絶対的な根拠が示されなかったからといって不安になる必要はないのである。私たちは「理想」として、いつも真実を求めているにはちがいないのだ。重要なことは、言葉が「虚構」であることを深く覚りつつ、その上で自分にとっての真実が「ウソではない」ことを認めさせるにはどうすればよいかをたえず工夫することである。あなたが真実を訴えようと思うなら、言葉を磨く以外に手はないのだ。

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