内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

歯医者での歯ぎしりの認知行動療法談義から一つの哲学的考察へ、そして中国古代思想に思いを馳せる

2019-12-26 23:59:59 | 哲学

 日本での冬休み初日の今日、朝からプールに行くという当初の計画は断念し(というのは大げさで、単に、まっ、いいか、一日くらいサボっても、という軽い気持ちでやめただけです)、午前中は、今回の帰国時に購入して持って帰ろうと思っている本をネット上で検索・発注して過ごした。
 午後は、帰国のたびに通っている歯医者さんのところに点検とクリーニングに出かける。この夏の帰国時に、帰国前に破損していた奥歯の一部を修復してもらったところなどを点検してもらう。夏以降、歯の調子はとてもよく、何の問題もなく過ごすことができた。それまでひどかった歯ぎしりも、あまりしなかったように思う。嬉しいことに、歯医者さんも、歯そのもの状態だけでなく、歯茎もとても健康な状態だと保証してくれた。
 クリーニングをしてもらいながら、歯ぎしり談義になった。と言っても、嗽のとき以外、こちらは口を開いたまま、「あー」とか「うー」とか相槌を打つことしかできなかったけれど。
 歯ぎしりは、心因も大きく関与しているので、歯そのものに対策を施しても効果は一時的なものにとどまる。マウスピースも単なる対処療法でしかなく、歯ぎしりそのものの根本治療にはなっていない。学説にも推移があり、それに応じて治療法も変化している。歯医者にとって、歯ぎしりとの戦いはまだまだ続くと先生は言っていた。
 彼は、認知行動療法を取り入れており、私にも一年前に説明してくれた。私が理解した限りでは、この療法は、歯医者による患者の直接治療から成るのではなく、歯医者の指示にしたがって、患者自身がどこまで自分の認知・行動パターンを変えることができるかどうかにその成否がかかっている療法である。つまり、自分の認知行動パターンを変えるために、日常的な小さな習慣的動作の意識的変更を患者自身がどこまで意志的に実践できるかが問題なのである。実践の結果として、行動パターンに変化が生じたかどうか、目標到達に至るまで、歯科医とともに検証を繰り返す。
 歯ぎしり問題を超えて、これは哲学的に面白い問題だ。なぜなら、無意識的な動作パターンの変化を最終結果として定常化させるために、意識的努力を出発点として到達することができるか、という問題だからである。これは西洋哲学にとっては実に厄介な問題として哲学者たちを悩ませてきた。
 しかも、スポーツ、芸能、武道などにおける一定の境地への到達が目標となっている場合のように、何かある動作をより完璧に実行することが最終目的にあるのではなく、意志的努力の結果として、意志の制御が利かない領域において単に「何もしないようになる」ことが最終目標なのである。これはほとんどアポリアではないのか。
 この問題にインテリジェンスとユーモアとエレガンスをもって取り組んだ好著が、11月8日の記事で言及した Romain Graziani, L’Usage du vide. Essai sur l’intelligence de l’action, de l’Europe à la Chine, Gallimard, « Bibliothèque des idées », 2019 である。古代中国思想、特に道教にとって、非意志的な理想状態にいかにそれを意志することなしに到達することができるのかというアポリアがその根本問題であった。このアポリアについての道教の教えが今日学び直されるに値することを、本書は私たちに具体例を挙げながら実に鮮やかに示している。