内的自己対話-川の畔のささめごと

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「憧憬」(Sehnsucht)は「郷愁」(nostalgie)ではない ― 哲学的考察の試み(六)ヘーゲルによる « Sehnsucht » 批判

2019-12-09 23:59:59 | 哲学

 ここまで見てきたところから明らかなように、初期ロマン主義思想は、憧憬(Sehnsucht)の積極面を強調することによって、憧憬に本来内在する苦悩や受動性を覆い隠す傾向にあった。ところが、ヘーゲルにとっては、憧憬とは、まったく逆に、不幸なる意識の典型的な発現形態であった。『精神の現象学』に見られる憧憬の価値の下落は、フィヒテやロマン主義者たちへの批判を意味していた。
 この点について、Hegel et l’hégélianisme (par René Serreau, « Que sais-je », N° 1029, 1968) に、ヘーゲルのフィヒテ哲学及びロマン主義批判が簡潔明瞭にまとめられている箇所がある。そこを全文引用する(尚、同じ « Que sais-je » 叢書の中に、まったく同一書名で、それぞれ著者を異にした二つの別のより新しい版がある。Jacques D’Hondt による1983年版とJean-François Kervégan による2005年版である。この両版には、ヘーゲルによる Sehnsucht 批判への言及はまったく見られない)。この Serreau 版は、白水社のクセジュ叢書に収録されており、ここにもその高橋充昭訳を引かせていただく。

ヘーゲルは、フィヒテの学説に見られるような、この種の当為の哲学に反対する。こういう哲学においては、理想的なものはけっして到達されないからである。まして、ロマン派の人たちのもとで漠たる仕方で表現されているような哲学、たとえばノヴァーリスの Sehnsucht(憧憬)とかフリードリヒ・シュレーゲルのイロニーは言うまでもない。この種の学説は現実に対する不満を含んでおり、霧に包まれた遙かなものへの空虚な超出を渇望させる。たしかに人間はまずはじめは、よそよそしい、敵意に満ちた世界に投げ込まれたという感じをもち、途方に暮れる。しかし、哲学の役割は人間を現実の世界から遠ざけるところにあるのではない。哲学は、人間が世界のなかに精神と同質のものを発見し、こうして世界と和解できるようにしてやらなければならない。精神が世界のなかに自己を認知し、こうして世界を理解するならば、精神は世界のなかにあってもくつろいだ〔chez soi(自己のもとにいる、わが家にいる)〕気持になる。世界を理解し、世界に一つの意味を与えるとき、精神はもはや世界のなかで途方に暮れた気持にならず、そのようにして自己に同化したもののすべてによって豊かになって自己に還帰する〔revient à soi(自己を取り戻す)〕。現実を理解すること、現実を完全に理解可能なものにすること ― これが哲学の真の目標である。すべては合理的なもの、《観念的》なもの、言いかえれば理性によって合致的に認識可能なもの、理性のもつ諸観念と同じ性質のもの、と認められねばならない(ラッソン版『論理学』第一巻一四五ページ参照)。