内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

年内最後の講義 ― 古代ギリシア哲学概念が二十世紀の極東の一小国に蘇る「再生譚」

2019-12-20 23:59:59 | 講義の余白から

 今日が年内最後の授業であった。明治期のお雇い外国人たちの日本近代化への貢献について話した。例として、ボアソナード、ベルツ、フェノロサについてさらっと話した後、ラファエル・フォン・ケーベルについて、より多くの時間を取って話した。Michael Lucken 氏の Le Japon grec (Gallimard, 2019) の中の « La magie de Koeber » と題された5頁ほどの節を読ませた。そこには、ケーベルが日本の学生たちに古代ギリシア・ラテンの哲学、とりわけその原典への関心を目覚めさせたこと(同節で言及されている西田幾多郎の随筆「ケーベル先生の追懐」には、「唯ケーベル先生によって古典的な重みが与えられたと思う」とある)、ケーベルが学生たちに及ぼした深い影響は、しかし、その博大な古典的教養そのものによってというよりも、哲学すべてを詩的表現として捉えようとするそのロマン主義的傾向にあったことなどが弟子たちの証言の引用を交えながら述べられている。
 同節を読ませたのには、もう一つ理由があった。同節の最終段落には、同書のキーワードの一つである « possession » についての示唆的な論述が見られるからである。「序論」(p. 23) ですでにこのフランス語の二重の意味が説明されているのだが、ここで再度、言葉を変えてその意味の二重性について言及されている。一言で言えば、「我がものとする」という意味と「そのものに取り憑かれる」という意味とが、日本における古代ギリシア文化受容においても分かちがたく結びついているということである。
 西田幾多郎の「ケーベル先生の追懐」の一部を読ませた後、夏目漱石の「ケーベル先生」を原文でまず読ませ、その後に仏訳を読ませ、その最終段落に見られる決定的な誤訳の理由ついて考えさせた。この問題については、2015年10月29日の記事に詳説してあるので参照されたし。
 授業の後半は、哲学の講義であった。学生たちへの少し早めのありがた迷惑なクリスマス・プレゼントである。漱石の随筆「ケーベル先生」の仏訳に見られる誤訳の問題から、日本語における主語概念の批判的検討に入り、そのために時枝誠記の言語過程説を略説し、Vincent Descombes の Le complément de sujet と Lucien Tesnière の Éléments de syntaxe structurale を紹介し、そこから西洋哲学における « sujet » の考古学へと向かい、古代ギリシアの « ὑποκείμενον » の二重の意味がいかにして時枝誠記の言語過程説における主語概念(批判)と言語主体概念との中に截然と分かれて見出されるかを示した。かくして、古代ギリシア起源の哲学概念が極東の一小国の一言語学者独自の学説の中に蘇るまでの「再生譚」を語ったところで今年最後の講義終了となった。
 明日より基督降誕祭の休暇也。心身之軽を覚ゆ。