内的自己対話-川の畔のささめごと

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内的合理性をもった解釈が最良・最適な解釈とはかぎらない ―『風姿花伝』「位の差別」の条に即して(一)

2019-12-30 06:26:09 | 哲学

 合理的な解釈が最良あるいは最適な解釈であるとはかぎらない。解釈の対象となる本文自体に非合理性・曖昧さ・矛盾等がある場合、それを無視あるいは「修正」して得られた整合的な解釈は、内的には合理的ではありえても、対テキスト的には適切な解釈とは言えない。本文に明らかな欠落がある場合も、その事実を無視して、不完全なテキストを完全な全体としてそれに整合的な解釈を与えることは、やはり、対テキスト的に妥当性を欠いている。
 解釈の対象である不完全なテキストを、それ以外のテキストを援用することで補訂・補完することにも、少なくとも解釈の第一段階においては慎重であるべきだ。同一著者という限定内であっても、先行著作あるいは後年の著作によって欠落を補完する、曖昧さを払拭する、あるいは矛盾を解消することは、必ずしも許されることではない。それが許されるのは、解釈の対象であるテキストと他のテキストとの間で著者の思想にまったく変化がない場合、あるいは著者自身が両者の間の相互補完性を認めている場合などに限られる。
 『風姿花伝』第三問答条々中の「問 能に位の差別を知ることは如何」は、『花伝』中、もっとも難解な一条とされている。実際、互いに相容れない複数の解釈が諸家によって提案されている。しかも、いずれの解釈も整合性をどこかで欠いている。これは、しかし、解釈そのものの不整合性によるのではなく、原文それ自体の不整合性あるいは不完全性の反映としてそうなのである。
 同条の現代語訳は、それぞれの訳者がどの方向に原文の不整合性あるいは不完全性を補正しようとしているか(あるいはそれを断念しているか)を示しているだけでなく、その補正を根拠づけるそれぞれの世阿弥能楽論理解を垣間見せてもいる。
 まず原文の最初の数行を読んでみよう。

問。能に位の差別を知ることは如何。
答。これ目利きの眼には易く見ゆるなり。およそ位の上がるとは能の重々のことなれども、不思議に十ばかりの能者にもこの位おのれと上がれる風体あり。ただし、稽古なからんはおのれと位ありともいたづら事なり。まづ、稽古の功入て位のあらんは常のことなり。

 今手元で参照できるのは、市村宏訳(講談社学術文庫)、小西甚一訳(たちばな出版)、表章訳(小学館 日本古典文学全集)、竹本幹夫訳(角川ソフィア文庫)、佐藤正英訳(ちくま学芸文庫)の五つの訳だけであるが、これらの訳を比較検討するにあたって、その暫定的な基準として、表章訳を引く。原文の「およそ」以下に対応する箇所は以下のようになっている。

一般的には、位が上がるとは、能の段階段階を順次に登ってゆくことだが、不思議なことに、才能ある十歳ばかりの役者にも、位が自然に上がっている芸風が備わっていることがある。しかし、稽古がおろそかでは、天性の位があっても無駄に終わってしまうだろう。まず修行の年功が積って位が高まるのが、普通の場合だ。

 芸の位に天性のものがあり、それは十歳の役者においても顕現することがある。しかし、天性の位だけで芸の質が持続的に保証されるわけでも、向上するわけでもない。芸の位が高まるには、なんといっても稽古を重ねることが必須であり、芸位の向上は段階的である。ここを読むかぎり、天性の芸位と年功が積ってはじめて到達できる芸位とは厳密に区別されなくてはならないと言える。上掲諸訳もそう読めるように訳してある。