内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「研究入門」― 日本語の特性についての若干の哲学的考察

2019-12-05 11:30:09 | 講義の余白から

 昨日は、午後六時から八時まで、学部二年生向けの « Initiation à la recherche »[研究入門]という授業を行った。この授業は、各教員が学期に一回ずつ担当し、それぞれ自分の専門分野について、研究方法の「手解き」の入り口を案内することをその趣旨としている。学部一・二年の授業は担当していない私にとって、教室で彼らに相見えるのはこれが初めてであった。中には、書類への署名を求めて、あるいは質問をしにオフィス・アワーに来たことがある学生もいるが、それは極少数であるから、大半の学生たちとは、ほぼ「初対面」であった。
 そこで、昨日の授業で私が最初に発した一言は、「皆さんが私のことを知っているといいのですが、学科長のKです。どうぞよろしく」であった。もちろん、入学時のオリエンテーションのときをはじめ、講演会など学科の行事の席で私を見かけたことはあるだろう彼らにとっては「初対面」ではないから、皆笑っていた。
 研究入門とはいえ、彼らは卒論を書くわけではないし、マスターまで進む学生も多くはなく、ましてや研究者を目指す学生は皆無に等しいから、いきなり専門的な話、とりわけ小難しいテツガクの話を聞かされても興味を持ちにくいであろう。それにたった一回二時間の授業である。
 そこで、彼らの現在の勉強にとっても役に立ちそうな、日本語の特性についての哲学的考察を中心に授業を展開した。このブログでも過去に何回が取り上げたことがある話題ばかりだから、ここにその内容を繰り返すことはしない。「思う」と「考える」、「わかる」と「理解する」、「から」と「ので」など間の意味論的差異について日常言語から例文を挙げて説明し、そこから若干の哲学的考察を引き出した。次に、日本語における「主語」という概念そのものの問題性を、翻訳の問題とからめて指摘し、そこから日本語の特性そのものの考察へと及び、時枝誠記の言語過程説とリュシアン・テニエールの構造統語論とに共通して見られる動詞を文構成の基底に据えた言語観がその特性の分析にきわめて有効であることを強調したところで時間となった。
 学生たちは概してよく聴いていた。いくつかいい質問も出た。こちらからの質問に対して的確な答えを返してくれた学生もいた。実は、もう一つ話題を用意してあって、それが昨日の記事の終わりに紹介した三番目のテーマ「〈なつかしさ〉 « nostalgie » « Sehnsucht » の三つの概念についての比較思想史的考察」だったのだが、時間切れで、一言触れることさえできなかった。後期にも一回この授業を担当するので、そのときのために、さらに「ヴァージョンアップ」した考察を今から準備しておこう。