内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「憧憬」(Sehnsucht)は「郷愁」(nostalgie)ではない ― 哲学的考察の試み(四)内なる欠如の自覚が未知なる外への希求を生む

2019-12-07 20:41:45 | 哲学

 フィヒテの『全知識学の基礎』の初版(1794/1795)において、« Das Sehnen »(憧れ・思慕・切望)は重要な概念として機能している。フィヒテにとって、自我が自覚する己の制約と限定は、己自身の外なるものへと抗いがたく己を向かわせるものはいったい何なのかと自我に自問させる。その外なるものは、自我にとってまったく未知なるものである。その未知なるものは、何かわからないが自分には求めているものがある、何かわからないが自分を苦しませているものがある、何かわからないが自分には決定的に欠如しているものがあるという感情として経験される。それらは、概念として明確に対象化することができない。この未知なるものの内的実感は、自我自身において、何か己にとって「外なるもの」が在ること、それへの止みがたい憧れとして経験される。この憧れによってのみ、自我は、己のうちにおいて、己の外へと、未知なるものへと、未来へと突き動かされる。この憧れによってのみ、自我において、外なる世界が開示される。
 己の外なるものによって突き動かされているという意味では自我は受動的だが、憧れずにはいられないという感情によってその外なるものへと向かおうとする動性において自我は能動的である。自我のこのような内的緊張状態である « Das Sehnen » が外なる世界を変えようという意志を自我に与える。この憧れにおいて、未知なる理想への希求と困難な現実へと立ち向かう意志とは分かちがたく結びついている。フィヒテは、« sehnen » という動詞をそのまま実詞化することによって、もともとは主体の受苦性に重心が置かれていたこの動詞を動性と積極性を孕んだ哲学的概念へと変容させたのである。