城郭探訪

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今宿堀田陣屋 (甲賀・土山)

2014年05月29日 | 陣屋

八幡神社から東の「ホッタヤシキ」を望む・・・空き地。

所在地:甲賀市土山大野

現 状:空地

遺 構:なし(私有地で破壊カ)

築城者:堀田氏

築城期:江戸期

築城者:堀田伯耆守

訪城日:2014.5.27

今宿城の南、野洲川段丘沿いにある、八幡神社の東側は「ホッタヤキシ」と呼ばれる。「ホッタホウキノカミ」の屋敷と伝えられる。それは、元今宿城にあったものを、八幡神社の東に移ったと伝えられる。

         

 今宿堀田陣屋は、土山町大野のうち、今宿集落の国道を挟んだ南側にあったとされる。八幡神社が建つ東隣りで、現在の空き地である。

遺構らしきものはなく規模なども不明である。

歴 史

当初は北側にあった中世今宿城の跡地に屋敷を構えていたが、のち(江戸期)にこの地に移転したと伝わる。

宮川藩(長浜市)堀田氏13000石は、蒲生郡や甲賀郡に所領が点在していたため、各地に陣屋が設けられていた。

今宿村は、『元禄郷帳』に近江宮川藩領をあり、このホッタヤシキは、宮川藩堀田氏の陣屋である。

 

近江宮川藩は、近江国坂田郡宮川(現在の滋賀県長浜市宮司町)に存在した藩。藩庁は宮川陣屋。

藩史

藩主家は堀田家である。第3代将軍・徳川家光の時代に老中となった堀田氏初代正盛は、継祖母・春日局が乳母を務めた徳川家光が3代将軍となると近習に取り立てられ、家光から重用されて下総国佐倉藩12万石の大名にまで栄進した。正盛は家光の死去に伴って殉死し、子の堀田正信が跡を継いだ。

しかし正信は、万治3年(1660年)に老中・松平信綱と対立したため、所領を没収され改易となった。

 正信の嫡男・堀田正休は父の罪を許されて天和2年(1682年)3月に1万石の大名として復帰を許され、上野国吉井藩に封じられた。正休は元禄11年(1698年)3月7日に吉井から近江国坂田郡宮川に移封となり、宮川藩が成立した。

第3代藩主・堀田正陳は若年寄となって寛延元年(1748年)10月15日に3000石の加増を受け、1万3000石を領することになった。第5代藩主・堀田正穀の時代には所領のうち3600石が近江国蒲生郡から播磨国に替えられたが、新たな領知は生産性が近江よりも高かったため、実質的な加増であった。この実質加増は文化4年(1807年)2月7日に元に戻された。第6代藩主・堀田正民は絵画に造詣が深かった文化人である。幕末期に入ると、宮川藩は佐幕派として活動したが、やがて近江国内における諸藩が新政府側に与すると、やむなく新政府側に与した。

歴代藩主の多くが大番頭や奏者番、そして若年寄など幕府の要職を務めているが、藩政における治績はほとんど見られない小藩だった。

歴代宮川藩主

堀田家 譜代。1万石→1万3000石。
  1. 堀田正休(まさやす)【元禄11年(1698年)3月7日藩主就任-正徳5年(1715年)6月29日隠居】
  2. 堀田正朝(まさとも)【正徳5年6月29日藩主就任-享保4年(1719年)8月20日死去】
  3. 堀田正陳(まさのぶ)【享保4年10月18日藩主就任-宝暦3年(1753年)10月4日死去】
  4. 堀田正邦(まさくに)【宝暦3年11月25日藩主就任-安永元年(1772年)6月2日死去】
  5. 堀田正穀(まさざね)【安永元年7月25日藩主就任-文化12年(1815年)2月6日隠居】
  6. 堀田正民(まさたみ)【文化12年2月7日藩主就任-天保9年(1838年)8月19日死去】
  7. 堀田正義(まさよし)【天保9年10月11日藩主就任-天保12年(1841年)8月3日(または9月27日)死去】
  8. 堀田正誠(まさみ)【天保12年9月25日藩主就任-文久3年(1863年)5月12日死去】
  9. 堀田正養(まさやす)【文久3年7月4日藩主就任-明治4年(1871年)7月14日免官】

幕末の領地

近江国

    • 滋賀郡のうち - 4村
    • 野洲郡のうち - 3村
    • 甲賀郡のうち - 5村
    • 蒲生郡のうち - 5村
    • 愛知郡のうち - 3村
    • 坂田郡のうち - 16村
 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 
 
 
 
 

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