城郭探訪

yamaziro

高宮城 近江国(彦根)

2014年05月07日 | 居館

  

所在地:彦根市高宮町 maphttp://yahoo.jp/G80hKz

築城者:高宮氏

築城期:南北朝期・鎌倉期

城 主:高宮三河守

区 分:平城

遺 構: なし (土壇)

目標地:高宮小学校、徳性寺・高宮寺

 駐車場: 徳性寺駐車場

戦  い:永禄2年(1559)  〇六角定頼 VS  ✖浅井長政

訪城日:2014.5.6

高宮城址とされる高宮小学校と石碑・説明板

高宮小学校の北側、グランドの脇に彦根史談会の建てた高宮城址碑がある。小学校のグランドは周囲の地形に比べると一段高い、これが城址の名残かも知れない。

 しかし、壕跡かと思わせる溝(水路)、隣接する徳性寺の石垣塀が、高宮城を彷佛とさせる。

 小学校の近くに、高宮氏の菩提寺高宮寺(こうぐうじ)がある。高宮寺は天台宗の寺院であったものを、高宮城主宗忠が時宗道場に改めたという。境内の墓地には、高宮一族の墓碑がある。

高宮氏が崇敬した高宮神社。高宮氏も家紋とした【丸に二つ遠雁】 宇多源氏佐々木氏流

 

徳性寺山門の両脇の山門、石垣

内側の土塁
 隣接する徳性寺山門の両脇の土塁や石垣は、往時を感じるが!。

歴  史

 浅井長政の家臣・磯野員昌が守備する佐和山城攻略を窺う六角義賢は、永禄2年(1559)6月、多賀久徳城・久徳左近太夫の寝返り工作に成功。

 久徳左近太夫は娘を輿入れさせている高宮城主・高宮三河守へ六角方に内応することを勧めるが、高宮三河守は応ぜず、六角勢に攻められて高宮城は落城した。

 中世領主に高宮氏がいた。伝によれば、高宮氏には二つの流れがあるという。一つは紀伊国櫟から出た櫟氏の流れで、鎌倉時代に地頭として高宮に赴任してきて高宮を称したという高宮氏。もう一つは、建武の内乱から南北朝時代に活躍した佐々木六角氏頼の三男信高を祖とする高宮氏である。さきの櫟氏系高宮氏を北殿、佐々木氏流高宮氏を南殿として区別されたが、のちに北殿高宮氏は衰微し、南殿高宮氏から養子が入って両高宮氏とも佐々木氏流となった。

 信高は中務少輔・三河守を称して幕府に出仕し、足利四代将軍義持に仕えた。応永二十三年(1416)、関東で起った「上杉禅秀の乱」に際し、信高は幕府軍の将として関東に下り禅秀討伐に功があった。その軍功に対して、応永二十四年、高宮・大堀・東沼波・西沼波・竹鼻の五ケ村を与えられたのである。信高が新領地高宮に入ったとき、二羽の雁が先導し館にとどまった。これを瑞祥とした信高は四つ目結の家紋を「丸に雁」の家紋に改め、地名にちなんで高宮を称するようになったと伝えられる。

 当時、高宮には北殿高宮氏の高義が住していたが、すでに昔日の威勢はなく、信高が高宮の新領主として威勢を振るうようになったのである。さきの「丸に雁」の家紋は北殿高宮氏の家紋でもあり、いまも、高宮氏の氏神である高宮神社、菩提寺である高宮寺は「丸に雁」紋を用いている。おそらく、信高は北殿高宮氏との融和策の一つとして家紋を改めたものであろう。
 以後、高宮氏は湖東の高宮に拠り、佐々木六角氏に属して時代の荒波に身を処した。十五世紀末に成立したという中世武家の家紋集『見聞諸家紋』をみると、高宮氏の紋として「丸に三つ遠雁」の紋が収められている。

  天文二十一年(1552)、戦国大名六角氏の全盛を築いた定頼が死去すると、義賢(承禎)が六角氏の当主となった。当時、浅井氏は六角氏の傘下にはいっていたが、永禄二年(1559)、長政が父久政に代わって当主になると六角氏への対立姿勢を明らかにした。 義賢は浅井方の佐和山城攻略を狙うとともに、浅井方の多賀久徳城、久徳左近太夫に懐柔の手を伸ばし、その寝返り工作に成功した。

 高宮城主の高宮三河守は左近太夫の娘を室に迎えていたが、左近太夫が六角氏に通じたことを察知すると浅井長政に急報した。長政は人質にとっていた左近太夫の母親を処刑すると、新庄・磯野氏らに命じて久徳城を攻撃した。多勢に無勢、久徳城は城主左近太夫はじめ城兵ことごとく討死して落城した。以後、高宮一族は浅井氏に属して、六角氏との合戦に活躍した。

 やがて、織田信長の登場で時代は大きく動き、永禄十一年、信長は足利義昭を奉じ上洛軍を起こした。信長は六角義賢に援軍要請をしたが、義賢はこれを拒否すると信長軍を迎撃した。しかし、大敗を喫して観音寺城を逃亡、六角氏は没落の運命となった。一方、信長の妹お市を正室として信長とは同盟関係にあった浅井長政は、近江の有力大名へと躍り出たのである。

 しかし、元亀元年(1570)信長が朝倉征伐の陣を起すと、長政は朝倉氏を支援し信長と対立関係となった。同年六月、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が、姉川において激突した。世に名高い姉川の合戦で、高宮三河守豊宗は礒野丹波守、赤田信濃守らとともに出陣、首二百七十五を討ち取る奮戦をみせた。しかし、戦いは浅井方の敗戦となり、高宮氏は多くの一族を失って居城に逃げ帰った。

 姉川の合戦において、さきに没落の運命となった久徳一族が織田軍に属して活躍、久徳城に復帰した。高宮氏にとって久徳氏の存在は目障りなものであり、元亀二年、浅井長政の命を受け久徳城を攻撃した。しかし、城を落すことはできず、空しく兵を引き上げる始末であった。かくして、高宮氏は苦しい立場に追い込まれ、取巻く情勢は予断を許さないものとなったのである。

高宮氏の没落



 その後、織田氏の攻勢により佐和山城主の磯野丹波守が降ると、浅井方諸将が織田方に屈服していった。そのようななかで、高宮三河守は節を通し、一族とともに犬上郡河内の山間に蟄居した。その間、豊宗の子宗存は信長に下って暗殺を図ったが失敗して自殺している。

 天正元年(1573)八月、織田信長は小谷城を総攻撃した。豊宗の弟三河守宗光・宗久父子は小谷城に馳せ参じ、宗光は久政の下で奮戦、討死した。宗久は落城後、高宮城に奔り城に火を放つと一族は離散、高宮氏は没落の運命となったのである。

 浪人となった宗久は美濃高須城主の徳永昌寿から扶持を与えられ、慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起ると西軍方として出陣した。結果は西軍の敗戦に終わり、宗久は多賀敏満寺村に蟄居した。一方、宗存の子郷宗は京極高次に仕え、大坂夏の陣において討死したと伝えらてている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、わたしの町の戦国(彦根教育委員会)、多賀町史、犬上郡誌、高宮町史

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


北町城 近江国(彦根)

2014年05月07日 | 居館

 

荒神道沿いに比定される城館

所在地:彦根市稲里町 map:http://yahoo.jp/vU7bh7

築城者;山崎氏

築城期;鎌倉期

現 状:宅地・畑地

遺 構:なし・・・基壇約50cm

目 標:佛性寺 (大きな駐車場あり)

区 分:平城

訪城日;2014.5.6

 北町城は、中世城郭分布調査によると、山崎山の北西麓、旧町名北山崎の集落北端に比定されている。

比定地周辺は「荒神道」という石碑が建ち、北側にそびえる荒神山へ向かい畦道が延びている。古来より荒神山神社への参拝道だったのだろう。

比定地の西側田畑側から民家を見ると、一段高くなっているのがわかり、これが城館の名残りなのだろうか。

 

基壇:50cm

歴 史

***「江州佐々木南北諸氏帳」・・・佐々木氏の時代の近江における城名と城主名を書き上げたもの「大洞弁財天当国古城主名札」と共に郡史のも引用される。

***「江州佐々木南北諸氏帳」に

 北町城主 佐々木旗頭氏族 池田大和守貞勝 とあり

詳細不明。立地から山崎山城主の山崎氏の平時の居館カ?。

佛性寺 

山崎氏

檜扇に四つ目結 (宇多源氏佐々木氏流)


 山崎氏は宇多源氏の流れで、佐々木神主系の分流という。系図によれば佐々木源四郎大夫行家の子六郎憲家が 佐々木を改めて山崎を称したことになっている。憲家は武芸に長じて「弓矢を取りてその名を落とさず」といわれ、源頼朝に仕えて近江国犬上郡山崎の地頭職に補せられ山崎を称した。とはいうものの、近江国犬上郡に山崎という地名はなく、滋賀県にも 該当する在所はない。

 『寛政重修諸家譜』には、「相模国山崎に住し、のち近江国に赴き、犬上郡山崎の城に住し代々 佐々木氏に属した」とあり、相模国山崎は鎌倉郡内山内荘山崎郷に該当するようだ。おそらく、源平合戦において源氏に 属して関東に没落を余儀なくされた佐々木一族の一人として、源頼朝の旗揚げに参陣、その功によって相模国山崎に 所領を得たのではなかろうか。さらに、佐々木氏発祥の地である近江国犬上郡に地頭職を得て移住、そのまま山崎を 地名とし居城も山崎城と称したものと思われる。

 憲家は建永元年(1206)に死去、九代氏定まで続いたのち「数代中絶」とあって、戦国時代、右衛門尉重家があらわれる。 中絶の間の山崎氏の動向は知れないが、一族は佐々木六角氏と佐々木京極氏とに分かれ、 それぞれ家名を保ったようだ。犬上郡山崎城に拠った山崎氏の嫡流は佐々木六角氏に属し、 『竹生島奉加帳』にも名がみえている。大永五年(1525)、六角定頼が北近江の京極氏に代わって台頭著しい浅井亮政を討つために出兵。山崎氏も 六角軍の一員として出陣、右翼の八条と後詰の箕浦にその名がみえている。

山崎氏の出頭

 代々、佐々木六角氏の被官であった山崎氏に大きな転機をもたらしたのが、永禄六年(1563)、 六角義治が重臣後藤父子を討った「観音寺騒動」であった。事件は主家を凌ぐ勢いをみせる後藤賢豊とその子壱岐守を 排除しようとしたもので、まったくの暴挙であった。これに怒った六角家臣団の多くは、六角氏を見限ってそれぞれ自分の居城へと立て籠もった。後藤氏と姻戚関係にあった山崎片家も山崎城に帰って籠城した。この一件で六角氏は勢力を大きく後退させ、永禄十一年、織田信長の上洛軍を迎えうつのである。

六角氏のライバル江北の浅井氏は信長と同盟関係にあり、山崎片家も信長に属して六角氏攻めに加わった。
 以後、片家は信長に従い、天正三年(1575)、長篠の合戦に出陣、つづいて越前国一向一揆攻めに参加、 翌年には大坂一向一揆攻めに大活躍を示した。天正五年、羽柴秀吉が中国攻めに出陣すると片家も与力として播磨に 在陣、翌年、荒木村重が摂津有岡城に籠って信長に叛旗を翻すと討伐軍に加わって奮戦した。さらに九年には 伊賀征伐に出陣、戦功をあらわした。八方に敵をかかえて苦闘する信長軍の一員として、片家は各地を転戦したのである。

 天正十年六月、明智光秀の謀反によって織田信長が京本能寺で横死した。そのとき、片家は安土城の二の丸を守備、 嫡男の家盛が居城山崎城を守っていた。ちなみに、安土城本丸を守っていたのは蒲生氏郷の父賢秀であった。片家は 一時的に明智光秀に属したが、ほどなく秀吉にくら替えし、山崎の合戦後、犬上郡山崎の地を安堵された。しかし、 山崎城は兵火に罹り、系図など多くの伝来文書を失った。 同年末、摂津国有馬郡三田二万三千石へ転封となり、豊臣大名の一員に列なった。
 山崎の合戦で明智光秀を討った秀吉は、つづいて柴田勝家を破り、信長の後継者として天下人への道を歩き出した。 片家は秀吉に属して小牧・長久手の戦いに出陣、続く九州征伐、小田原の役と秀吉の天下統一戦争に従軍、 着実に豊臣政権における地歩を固めていった。
 片家の嫡男家盛も父とともに信長・秀吉に仕え、片家の死後、家督を許され三田城主となり従五位下左馬允に叙せられた。 文禄元年(1592)の秀吉の朝鮮出兵に際しては、対馬の守護を任され海峡往来の兵站を受け持った。 さらに、肥前名護屋城西ノ丸の警護も命じられるた。翌々年、京都に戻って伏見城の築城に携わるなど、秀吉からの 信頼もあつかった。その子定勝(弟で養子か?)も秀吉馬廻りとなり、文禄の役には父に従って名護屋城に駐留、伏見城の築城も父と 同様に工事を分担するなど活躍、伊勢国八知竹原一万石の大名に取り立てられた。

近世に生き残る

 秀吉の没後、豊臣政権は徳川家康と石田三成との対立が表面化、ついに慶長五年(1600)、関ヶ原の役が起こった。 ときに三田にいた家盛父子は下野小山に陣する徳川家康に石田三成の「謀反」を連絡したが、三成からの催促を拒みきれず 西軍方として行動した。そして、家盛は丹後田辺城攻め、子定勝は伊勢安濃津城攻めに加わったのである。 戦いは西軍敗北に終わり、本来なら改易処分となるべきところであったが、池田輝政との姻戚関係をもって許され、 家盛は三田二万三千石を安堵された。さらに、七千石の加増を受けて因幡国若狭に移封された。一方、改易となった定勝は 豊臣秀頼に仕え、大坂城の役の前に死去したようだ。
 家盛のあと家督を継いだ家治は、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣に徳川方として出陣、活躍した。 元和三年(1617)、大坂の陣の功によって、因幡国若桜から備中国成羽三万五千石に加増転封され、新田開発などに 尽力している。以後、福島正則が改易されたのちの備後三原城の守備、大坂城築城工事における石垣工事を担当するなど 幕府からあつい信頼をかちえた。そして、その手腕をかわれて寛永十六年(1639)には肥後天草 四万石への加増転封を受け、島原の乱で荒廃した天草地方の復興に功績をあげた。それらの功によって、同十八年には 讃岐国丸亀五万三千石に加増転封された。家治は丸亀城の築城に着手すると城下町の経営・整備を行ない、 今日の丸亀の基礎を築いたのである。
 家治の死後、嫡男俊家が家督を継ぎ丸亀藩主となった。俊家が三十代の若桜で死去すると、わずか三歳の嫡男治頼が 家督を継ぎ、叔父豊治が後見人となった。ところが、治頼は八歳で病死、嗣子もなかったため山崎氏は無嗣断絶、改易 処分となった。かくして、山崎氏は大名としての地位を失ったが、豊治が備中国川上郡成羽五千石を与えられ、 山崎氏の血脈を後世に伝えたのであった。

【主な参考文献:戦国大名諸家譜・寛政重修諸家譜・戦国大名370家出自事典 など】

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、武家の家紋

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!